HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』第六章(6)

《ドアの前には細い溝があり、家の壁と崖の縁の間に歩道橋のようなものが架かっていた。ポーチも堅い地面もなく、背後に回る道もなかった。裏口は下の小路めいた通りに通じる木製の階段を上ったところにあった。裏口があることは知っていた。階段を踏んで降りてゆく足音が聞こえたからだ。そのあと、いきなり車が発車する轟音が聞こえた。やがてそれは急速に遠ざかっていった。別の車の響きが重なったように思えたが、確かではない。目の前の家はまるで地下納体堂のように静かだった。急ぐ必要はない。そこにあったものは、そこにある。》

 

ここも訳すのにてこずった。初めの文。双葉氏はこう訳す。「玄関の前はせまい板敷だった。谷間の小さな橋みたいに、家の壁に沿って、土手との空間にわたされていた」。村上氏はこうである。「ドアの前は狭い渡り橋になっていた。家の壁と斜面との間に隙間があり、それをまたいでいる」。原文を上げておく。<The door fronted on a narrow run, like a footbridge over gully, that filled the gap between the house wall and the edge of the bank.>。ドアの前にあるのは、本当は橋ではなく<run>だ。動詞の「走る」の方ではなく名詞で「ドッグ・ラン」のように使用される。厄介なのは、この単語に、「板敷」や「渡り橋」の意味はない。一番用法として近いのは、建築用語で階段の踏板の奥行を示す語として用いられていることぐらい。もともとは、動詞<run>から、水の流れる場所を意味する。

 

それではなぜ両氏が、そう訳したかといえば、後の説明にあるからだ。<footbridge>は「歩道橋」で、それが<gully>(溝)を跨いでいる。要は、家の前に溝があって、そこに歩道橋のようなものが架けられているということなのだが、問題はそこは平地ではなく、LA特有の丘状地に建てられていることにある。後に続く説明を読めば分かるように、ガイガーの家は空中に浮いているようなもので、その橋を通ってしか入れない。ハリウッド映画で、斜面に張り出すように建てられた架空建築をよく見かける。あれの小型版なのだろう。アメリカ人にはイメージが湧くが、日本人には分かりづらい。「板敷」も「渡り橋」も訳者の工夫なのだろうが、こなれた訳語とも思えない。両側に柵のついた「歩道橋」の方が、まだしもイメージがつかめるのではないだろうか。

 

「裏口は下の小路めいた通りに通じる木製の階段を上ったところにあった」も難しい。双葉氏は「裏口の扉は、下手の路地みたいな横丁から通じている木の階段を上りきったところにあった」。村上氏は「裏の出入り口は、小路のように狭い下の通りに通じている木製の階段の踊り場にあった」だ。ここは、双葉氏に軍配を上げたい。「踊り場」とは、階段の途中にある方形の空間を指す。スペースを節約して上下動をするため階段を半分に切って繋ぐ必要があるからだ。しかし、ガイガーの家は階段の途中にあるのではない。

 

<The back entrance was at the top of a flight of wooden steps that rose from the alley-like street below.>が原文。何が難しいかといえば、話者の視点は裏口の入り口から木の階段を下りて、下の通りに出て行っているのに、使われている単語は、<top><rose(riseの過去形)>といった上を意味する語ばかり。そこを双葉氏は、下から上へ上昇する視点を使って訳している。<at the top of a flight of wooden steps >(ひとつながりの木製階段の最上段)とあるからには、踊り場でないのは明白。「上りきったところに」に<top><rose>が響いている。

 

最後の「そこにあったものは、そこにある」は、原文が面白い。<What was in there was in there.>。双葉氏は「家の中にはあるべきものがあるだけのことだ」。村上氏は「中にあるものはそのまま動かない」。原文のような言い回しが、よく使われるのかもしれないが、不勉強で分からない。両氏の意訳はなるほど、堂に入ったものだ。「地下納体堂」と訳したのは<vault>で、教会の地下にある納骨所のこと。双葉氏は「地下の納骨堂」、村上氏は「納骨堂」としている。<vault>は、ゴシック建築などに見られるアーチ形天井の空間を意味する。「納骨堂」と訳すと、小さい棚が並んだ場所のように思われるといけない。手持ちの辞書にあった「納体堂」をあてた。