《横長の部屋だった。家の間口全部を使っている。低い天井は梁を見せ、茶色の漆喰壁は、鏤められた中国の刺繡や木目を浮かせた額に入れた中国と日本の版画で飾り立てられていた。低い書棚が並び、その中でならホリネズミが鼻も出さずに一週間過ごせそうなくらいけばの厚い桃色の中国緞通が敷いてあった。フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた。誰であれ、そこに住む者は手を伸ばして親指で何か触っていなければならないとでもいうように。古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった。その上にはひとかたまりの洋服が乗っていて、中には薄紫色の絹の下着もあった。台座に乗った大きな木彫のランプの他に、翡翠色の笠に長い房飾りがついたフロア・スタンドが二つ立っていた。四隅にガーゴイルが彫られた黒い机の後ろには、背と肘掛けに彫刻を施した黒い椅子があった。磨き立てられ、黄色い繻子のクッションが置かれていた。部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ。》
<It was a wide room.>を双葉氏は「広い部屋だった」、村上氏は「横に長い部屋だった」と訳している。広い部屋としたいところだが、家の間口と比較しているところから、奥行きのない部屋なのだと分かるので、横に長いと訳すのが親切だろう。次を双葉氏は「薄暗い間接照明の天井」とやってしまっている。最初は<It had a low beamed ceiling>をそう取った。車の「ロービーム」からの連想である。しかし、ここは村上氏の「天井の梁が低く」が正解だろう。いわゆる「梁見せ天井」。ログキャビン風の建築ならなおさらだ。
<There were low bookshelves>を村上氏が「丈の低い本棚があり」としているのに、珍しく双葉氏の方が複数にこだわって「本棚がずらりと並び」としている。でも、<low>がどこかへ行ってしまっているのが惜しい。その次が面白い。双葉氏はこう訳す。「厚い桃色の中国じゅうたんがあった。このじゅうたんでなら、野鼠など一週間ぐらい、鼻をぴくりともさせず眠りつづけるだろう」。村上氏は「ピンク色の中国絨毯が敷かれていた。絨毯は厚く、地リスが一週間けば(傍点二字)の上に鼻先を見せずに過ごすことができそうだった」。原文は<there was a thick pinkish Chinese rug in which a gopher could have spent a week without showing his nose above the nap.>。
<rug>は、今ならそのまま「ラグ」でも通じそうだが、けばの厚さを強調して「緞通」を使ってみた。というのも「絨毯」は長尺の物を意味し、ラグのように一部に使う物に当てはまらないようだ。小形で方形の物を「緞通」と呼ぶ。ただし、このラグが方形でない場合「緞通」は誤訳になる。どうだろうか。<gopher>は、ホリネズミを意味する語なのだが、アメリカの一部では地リスのことを<gopher>と誤って呼んでいるらしい。アメリカ生活の経験者である村上氏ならではか。地下に穴を掘るのは共通しているから、まあどちらでも好きな方をと言いたいところだが、けばの長い敷物の中から鼻をのぞかせるイメージとして、「ホリネズミ」という呼称は捨て難いと思うが如何。
さらにもう一点<nap>の件がある。<nap>という名詞には二通りの意味があり、一つは双葉氏の訳にあるように「うたた寝、居眠り、午睡」の意。もう一つが村上氏の採用している「けば」だ。絨毯の上で眠りつづける野鼠のイメージも可愛くて捨てがたいが、< without showing his nose above the nap>とあるからには、「けば」の上に鼻を見せることなしに、と訳すしかなかろう。どちらにせよ、こういう比喩を楽しんで使うチャンドラーの文章が好きだ、としか言いようがない。
まだまだ続く。「フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた」のところだ。双葉氏は「床には絹の房をくっつけたクッションがあった」としている。村上氏は「いくつかのフロア・クッションと絹でできた何やかやがあたりにばらまかれていた」である。<There were floor cushions, bits of odd silk tossed around.>という原文の<bits of odd silk>が厄介なのだ。複数のフロア・クッションと、絹製の何かが辺りに「トス(投げる、ほうる)」されている光景なのだが、村上氏も「何やかや」としか書けないように、何なのかよく分からないものが辺り一面に散らばっているらしい。
床に放り出された品物の数の多さを表せていない双葉氏の意訳は、次の<as if whoever lived there had to have a piece he could reach out and thumb.>にうまく続かない。双葉氏は「ここに住む人間なら、誰でもちょいと手を伸ばしてその房をいじれるようなぐあいだ」と、やはり意訳を重ねているが、「ちょいと手を伸ばし」たくらいで、広い部屋に置かれたクッションの房飾りがいじれるものだろうか。村上氏はこう訳す。「手を伸ばして常に何かを親指で触っていないと落ち着かない人間が、そこに暮らしているみたいだった」。しかし、これも少し、住人の性向に踏み込み過ぎた訳に思える。<whoever>とあるからには、そこに住む人間であれば誰でもという意味になる。特定の性向(例えばフェティッシュのような)を持つ人間を意味してはいない。ここは、誰であれ、その部屋に入れば何かに触れるくらい絹製品が散らばっていた、と解釈するのが穏当だろう。
「古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった」は<There was a broad low divan of old rose tapestry.>。これを双葉氏、「低いばら色のソファもあった」と、訳すが、少しあっさりしすぎでは。村上氏は「古いバラ模様のタペストリーのついた、低く幅の広い長椅子があり」と訳している。<old rose>が曲者で、近代のバラに対し、古いバラの品種を表す場合もあれば、「褪紅色」という薄赤色を表す場合もある。ここは「タペストリー」(綴れ織り)が手がかりになる。掛物になったタペストリーなら分かるように、絵模様を織り出した平織りの生地のことである。色だけを意味するならタペストリーの語はいらない。ここは、古いバラの模様を織り出した生地と読みたいところだ。
「四隅にガーゴイルが彫られた黒い机」は<There was a black desk with carved gargoyles at the corners>。双葉氏は「一隅には、彫刻のついた黒い机があり」としているが、<the corners>と複数になっているのを忘れている。ガーゴイルは、ノートルダム寺院の物が有名だが、屋根の上にいる例の怪獣である。当時としては説明するのも面倒だと思ったのか双葉氏はそこをトバしている。村上氏は「黒いデスクがひとつ、四隅にはガーゴイルが彫ってある」と、語順通りに訳している。
部屋に残っている臭いについて。双葉氏の訳では「変なにおいが部屋じゅうにただよっていた。そのにおいが強く感じられるときは、火薬が燃えたあとの臭気みたいでもあり、気持が悪くなるようなエーテルの匂いみたいにも思えた」と、いつになくまだるっこしい訳しぶりだ。村上氏は「部屋の空気にはいくつかの匂いが奇妙に混じりあっていた。今の時点で最も際だっているのは、コルダイト火薬のつんとした匂いと、気分が悪くなりそうなエーテルの芳香(アロマ)だった」と、几帳面な訳し方だ。
少し長い文だが原文を引く。<The room contained an odd assortment of odors, of which the most emphatic at the moment seemed to be the pungent aftermath of cordite and the sickish aroma of ether.>。問題は村上氏が「コルダイト火薬」と訳す<cordite>だ。それまでの黒色火薬とちがって煙の出ない無煙火薬の一種で、主に銃器の弾丸の薬莢内の火薬に使われる。そこから、探偵小説で<cordite>と書けば、銃を思い浮かべるという約束になっているのだろう。しかし、日本で「コルダイト火薬」と字義通り訳しても、註でもなければ通じない。こういう時こそ意訳が必要ではないだろうか。「部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ」と訳してみた。