HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第七章(7)

《我々は少し歩いた。時には彼女のイヤリングが私の胸にぶつかったり、時にはアダージョを踊るダンサーたちのように息が合った開脚を見せたりしながら。我々はガイガーの死体のところまで行って戻ってきた。私は彼女に彼を見せた。彼女は彼が格好つけてると思ったにちがいない。くすくす笑いながらそう言おうとしたが、泡がはじけるような音がしただけだった。私は長椅子のところまで彼女を連れて行き、その上に横たえた。彼女は二度しゃっくりし、少し含み笑いをし、やがて眠りについた。私は彼女の持ち物をポケットに詰め込むと、トーテムポールのような物の背後に回り込んだ。まちがいなくカメラはその中にセットされていたが、乾板がなかった。私は床を見まわした。撃たれる前に彼がそれを外したにちがいないと思ったのだ。乾板はない。私は生気をなくして冷たくなった彼の手を取り、少し横を向かせた。乾板はない。気にくわない展開だった。》

 

<Part of the time her earrings banged against my chest and part of the time we did the splits in unison, like adagio dansers.>のところ、双葉氏は「彼女の耳飾りが私の胸にぶつかった。二人組の滑稽ダンスみたいに、何度かいっしょにからまってたおれた」と訳している。村上氏は「あるときには彼女のイヤリングが私の胸にぶつかった。あるときには我々は優雅なダンスのパートナーのように、息を合わせて開脚(スプリット)を披露した」だ。

 

<split>は、「縦に二つに割くこと」で、複数になるとバレエの開脚のポーズを意味する。薬で正体のない娘を立たせていっしょに歩いているのだから、足がついてこない時もある。娘に合わせて二人三脚のように歩いたのだろう。双葉氏の訳は明らかにまちがいだ。アダージョはゆっくりしたテンポの音楽を意味する語で滑稽とは程遠い。ただ、村上氏の訳では、ダンサーというより、社交ダンスを踊る一組のペアのように読める。スプリットは床に開いた両脚をべたっとつける「大股開き」のことである。拙訳ではバレエのパ・ド・ドゥを踊るダンサーを意識した。

 

<She thought he was cute.>のところで、また<cute>が出てきた。双葉氏も前と同じように「彼女は彼を粋だと思った」と訳している。ところが、村上氏、今回はそのまま「彼女はガイガーをキュートだと思った」と、そのまま「キュート」を使っている。さすがに、いい年をした男を「可愛い」とは言い難かったのだろう。ミス・スターンウッドがガイガーのことをどう見ていたかは、ここでは知るすべがない。何しろ相手は、アヘンチンキを飲んでハイになっている状態なのだ。

 

「キュート」には、いい意味では「可愛い」のような誉め言葉になるが、「気障」のように悪い意味もあって、チャンドラーがここでどちらを意味しているのかが問題になる。ただ、胸から腹のあたりが血に染まった死体を見て「粋」というのはいかにも無理がある。その点「キュート」は便利である。どのようにも取れるからだ。ただ、いささか逃げが感じられないでもない。少し無理をして「格好つけてる」と訳してみた。

 

時代が時代なので、カメラも古い。今のようなフィルムではなく乾板(plateholder)を用いている。<plateholder>を辞書で引くと「とり枠」と出ている。「撮り枠」だととればカメラの部品だとは思うが、「乾板」のことだとは気づかなかった。チャンドラーは、この短いパラグラフの中で、<no plateholder>を三度も繰り返している。必死で乾板を探すマーロウの焦りを感じさせるためだ。

 

最初は<but there was no plateholder>となっているが、次からは<No plateholder.>と短い文だ。切羽詰まっているのがよく分かる。ここのところを双葉氏は「が、乾板はなくなっていた」、「ない」、「そこにもない」と訳す。村上氏の場合、「しかしカメラの乾板は消えていた」、「しかし乾板はない」、「乾板はない」だ。過去形、現在形、現在形と原文に忠実に訳し分けている。見習いたいと思う。

 

「気にくわない展開だった」は<I didn’t like this development.>。双葉氏は「どうも気に入らぬ事件の展開ぶりだ」。村上氏は「その展開が私には気に入らなかった」。チャンドラーにはやたら長い文を連ねてひねった文章を繰り出す癖があるが、決め科白は、このように短いセンテンスを持ってくることが多い。こういうところはできる限り簡潔な文にしたい。主語をとってしまっても日本語ならどうということはない。