HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第九章(2)

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《ひげを剃り、服を着、軽い朝食をとり、一時間も経たないうちに、私は裁判所にいた。エレベーターで七階まで上がり、地方検事局員の使っている小さなオフィスの並びに沿って進んだ。オールズの部屋も同じくらい狭かったが彼の専用だった。机の上は吸取器と安っぽいペン・スタンド、彼の帽子と片方の脚だけが載っていた。彼は中背の金髪の男でごわごわした白い眉と穏やかな目、よく手入れされた歯をしていた。通りで見かけるどこにでもいる男のように見えるが、私は彼が九人の男を殺したことを知っている。そのうちの三件は、彼の方が追い詰められていた。相手が追い詰めたと思っただけなのかもしれない。

 彼は平たい錫のケースをポケットに突っ込み、立ち上がった。口にくわえたアントラクテという小ぶりの葉巻を上下に揺らし、頭を少し後ろに傾け、鼻越しにとっくりと私を見た。

「リーガンじゃなかったよ」彼は言った。「調べたところ、リーガンは大男だ。君くらいの背丈でもう少し重い。こちらは若い男だった」

私は黙っていた。

「リーガンはなぜずらかったんだ?」オールズが訊いた。「君はこの件に関与しているのか?」

「そうじゃない」と私は言った。

「酒の密輸から足を洗って大富豪の娘と結婚したばかりの男が、可愛い女と合法的な数百万ドルにさよならして消える――それだけでも充分考えさせられる。何か秘密があるにちがいない」

「まあ、まあ」

「いいんだ。別に答えなくても。気にしちゃいないよ」彼は机を回って、ポケットを指で叩きながら帽子に手を伸ばした。

「リーガンを探してはいない」私は言った。》

 

この段落は比較的分かりやすい。まず、オールズの机の上にあるものだが、<There was nothing on his desk but a blotter, a cheap pen set, his hat and one of his feet.>とある。問題なのが、<blotter>だ。木製で底辺が弧を描いていてそこに吸取り紙が挿めるようになっている。ペンとインクが主流の時代は必携品であった。私も一つ持っているが、今となっては出番がない。時代を考えれば、地方検事局のオフィスに「吸取器」が置いてあっても何の不思議もない。ところが、村上氏は「下敷き」と訳している。小学生がノートに挟むあれではなく、デスク・マットのことだろう。

 

これには首をかしげざるを得ない。まず、普通の辞書には載っていない。検事局のオフィスにあって不思議ではないブロッターは、もう一つある。それは事件を記録した帳簿のことで、<police blotter>という項目がある。これを略したものと考えることもできるが、訪問者のあるオフィスに置いておくのはいかにも不用心だ。オールズの整頓された机にふさわしくない。次に挙げられているのがペン・セットなのだから、吸取り紙でいいのではないだろうか。

 

その<pen set>だが、双葉氏は「安っぽいインク・スタンド」としている。村上氏は「安物のペンのセット」と、こちらはそのままにしている。これを「ペン・セット」としてしまうと、何色もの色を揃えたカラー・ペンとまちがえられそうだ。「ペンのセット」でもまだ危ういのではないか。一昔前の事務用品の一つに、台上に固定されたペン・スタンドとインク瓶がセットになった物があった・双葉氏の言う「インク・スタンド」も同じ物を指すのだろう。今でも銀行などには、ペン軸をボール・ペンに替えた同じ物が置いてある。

 

ブロッターもペン・セットも、どの事務机にもあるお決まりの事務用品だった。チャンドラーは、部屋のインテリアやカラー・コーディネイトにうるさい。部屋の持ち主の性格を読み解く探偵の目線で描いているからだ。ここは、オールズの衒いや飾り気のない性格を示す記述だと受け止めればいいので、どこにでもある事務用品と考えればそれでいいように思う。それにしても、帽子掛け一つないのか、とその殺風景さに驚くばかりだ。もちろん、この部屋が例の「兎小屋」に他ならない。よほど狭いのだろう。

 

「そのうちの三件は、彼の方が追い詰められていた。相手が追い詰めたと思っただけなのかもしれない」は<three of them when he was covered, or somebody thought he was.>。双葉氏は「そのうち三人は彼が追いつめられたときにやったのだ。少なくともそう思われている」。村上氏は「そのうちの三件は、相手に銃で制せられながらのことだ。あるいは彼を制していると、相手が勝手に思っていただけかもしれないが」と、解きほぐして訳している。

 

<cover>には、「人などを銃で狙う、銃砲などが目標を射程内に保つ」という意味がある。「制せられる」という訳語はいかにも生硬だが、相手の側が銃によって優位を保っている状況を表すぴったりの言葉が見当たらないからだろう。たとえば、「狙われた」という語を使っても、後半がうまく訳せない。「相手が狙ったと思っただけ」では「制した」を使った場合にくらべてしまらない。

 

双葉氏はせっかく「追いつめる」という訳語を見つけているのに、後半を「少なくともそう思われている」としてしまっている。<somebody>を仲間の捜査官と解釈したのだろう。ここは、オールズの銃の腕前を見くびって射殺された三人のうちの誰かと解釈したい。それにしても文が簡潔すぎてよほど読み込まないと意味が分からない。村上氏の訳は、ただの訳ではない。精読者のみが読むことのできる域に達している。

 

「アントラクテ」は<Entractes>もとはフランス語で<entr’actes>と思われる。音楽用語の「間奏曲」の意味だろうと思われる。もしかしたら「幕間」の意味のほうがぴったりしているかもしれない。仕事と仕事の間にちょっと一服というのだ。イタリア語なら「インテルメッツォ」か。<a flat tin of toy cigars called Entractes>を双葉氏は「エントラクトという名の小型葉巻の平たい罐(かん)」と訳す。村上氏は「小さな葉巻を入れた平らな金属ケースを(ポケットに突っ込んだ。)アントラクテという名前の葉巻だ」と二文に分けている。

 

<tin>の一語で「ブリキ缶」を意味するので双葉訳の簡潔明瞭なのがよく分かる。<toy cigars>は、「おもちゃの葉巻」ではなく「小さな」葉巻。本物の葉巻なら一本入りのケースが携帯用にある。ここは紙巻き煙草より太めで、長さは同程度の小型葉巻を入れた金属製のケース。オールズは葉巻党なのだろう。帽子をかぶる前に確認するのを忘れないところから見て、出先で吸いたくなる時のために、常時携帯する癖がついているのだ。

 

「リーガンはなぜずらかったんだ?」は、<What made Regan skip out?>。双葉氏は「なぜリーガンだと思ったんだ?」。村上氏は「なんでリーガンは出ていったんだ?」。<skip out>は、「(突然)人を置き去りにする」の意味がある。辞めたとはいえ、元酒の密輸業者なら「ずらかる」あたりがぴったりの訳語だろう。

 

「いいんだ。別に答えなくても。気にしちゃいないよ」は<Okey, keep buttoned, kid. No hard feelings.>。双葉氏は「よかろう。黙っていろよ、おれがしゃべっちまったのを悪く思うなよ」と訳している。ちょっと苦しい訳だ。「おれがしゃべっちまったのを」という要らざる付け加えをしてしまったのには訳がある。<No hard feelings.>は「悪く思うなよ」という意味の常套句。しかし、質問に答えないマーロウになぜオールズの方が「悪く思うなよ」と謝らねばならないのか。その理由を見つけ出さなければならない。それが先の付け加え部分だ。

 

村上氏は「まあいいさ。とぼけてるがいいや。毎度のことだ」とうまく意訳している。<No hard feelings.>の前に<I have>などをつければ「気にしてないよ」の意味になる。つまり、オールズは黙っているマーロウに対し、「別に恨みに思ってはいない」ということを言っているのだ。依頼人に対して守秘義務があることくらい、有能なバーニー・オールズにしてみれば先刻承知。お互い様という意味での「恨みっこなしだ」という訳もアリだ。