HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十三章(4)

《エディ・マーズは言った。「こいつが銃を持っていないか調べろ」

金髪が銃身の短い銃を抜き、私に狙いをつけた。ボクサー崩れはぎこちなくにじり寄って来て私のポケットを注意深く探った。イブニング・ドレスを着て退屈している美しいモデルのように、私は彼のためにくるっと回ってみせた。

「銃は持ってません」聞きづらい声で彼は言った。

「そいつが何者なのか調べろ」

 ボクサー崩れは私の胸ポケットの中に手を滑らせ二つ折り財布を引き出し、指先ではねあけて中身を調べた。「名前はフィリップ・マーロウです。エディ。住所はフランクリン街のホバート・アームズ。私立探偵許可証、保安官補バッジその他。職業、探偵」彼は財布を私のポケットに戻し、軽く私の頬を叩くとそっぽを向いた。

「あっちへ行ってろ」エディ・マーズは言った。

 護衛係の二人はまた外に出て、ドアを閉めた。彼らが車の中に乗り込む音がした。エンジンがかかり、もう一度アイドリングを続けた。

「よし、話せ」エディ・マーズは急いた。眉の頂上が額に向かって鋭い角度を作った。

 「まだ話せるような段階じゃない。仮に彼が殺されたとして、商売を乗っ取るためにガイガーを殺すのは馬鹿な手口だ。そうは思えない。本を奪ったのが誰にせよ、事の真相を知っているにちがいない。店に残った金髪女が何かにひどく怯えていたのも確かだ。誰が本を手に入れたかは目星がついている」

「誰だ?」

「そこがまだ話せないところさ。依頼人がいるんでね」

 彼は鼻に皺をよせた。「それは――」彼は言いかけてすぐにやめた。

「君はあの娘を知っていると思うんだが」私は言った。

「誰が本を持っているんだ。ソルジャー?」

「話す気はない、エディ。なぜ私が話すと思うんだ?」

彼はルガーを机の上に置き、開いた掌で叩いた。「これさ」彼は言った。「それと、損はさせないつもりだ」

「そうこなくっちゃ。銃は放っておけよ。いつでも金の音はよく聞こえるんだ。幾らじゃらつかせてる?」

「何をするために?」

「何をしてほしいんだ?」

 彼は机をばたんと強く叩いた。「よく聴けよ。ソルジャー。俺がお前にきく。するとお前が別のことをきく。これじゃ堂々巡りだ。俺が知りたいのはガイガーの居場所だ。個人的な理由でな。俺はあいつの商売が好きじゃない。保護もしていなかった。たまたま俺がこの家の持ち主だっただけだ。今はそっちの方も熱が冷めた。この件についてお前の知っていることは何であれ外には出せない類のものだと俺は睨んでいる。でなきゃ今頃このごみ溜めの周りは革靴の底をきゅっきゅと鳴らす警官でいっぱいのはずだ。お前は何も売るものを持っちゃいない。お前の方こそ少し保護が必要なようだぜ。さあ、吐いちまえ」

 いいところを突いていた。だが、彼に教えるつもりはなかった。私は煙草に火をつけ、マッチの火を吹き消すと、トーテムポールのガラスの目にはじいた。「その通り」私は言った。「もし、ガイガーの身に何か起きたんだとしたら、私は知っていることを警察に話さなければならない。事が公になったら、私に売るものは残っちゃいない。それじゃ、御免を被って、私は消えるとしよう」

 彼の日に焼けた顔が白くなった。彼は瞬く間に品を落とし、性急で粗野に見えた。彼は銃を持ち上げる素振りを見せた。私はさりげなく言い足した。「そういえば、近頃マーズ夫人はご機嫌いかがかな?」

 揶揄いの度が過ぎたか、と一瞬考えた。彼の手が銃を持ち上げ、それを振った。彼の顔は筋肉が過度に引き攣れていた。「行っていい」彼は静かに言った。「お前が、いつどこへ行き、何をしようが、俺は気にしちゃいない。ひとつだけ忠告しておこう。ソルジャー。俺のことは放っておくんだ。さもないとお前は、自分がリメリックに住むマーフィーだったらよかったのに、と思うことになる」

「おや、クロンメルから遠くないな」私は言った。「君にはそこから来た友だちがいたと聞いたことがある」

 彼は机に覆い被さり、目を凍りつかせ、動かなかった。私はドアのところまで行き、開けながら振り返ってみた。彼の目は私を追っていたが、痩せた灰色の体は動かなかった。彼の目には憎悪が浮かんでいた。私は外へ出て、生垣を抜け、坂を上って車に乗り込んだ。私は車の向きを変え、丘の頂上を越えた。誰も私を撃たなかった。数ブロック進んだところで車を停め、エンジンを切って、しばらく座って待った。つけられてもいなかった。私はハリウッドに引き返した。》

 

「ボクサー崩れはぎこちなくにじり寄って来て私のポケットを注意深く探った」は<The pug sidled over flatfooted and felt my pockets with care.>。双葉氏は「拳闘家崩れは偏平足みたいな歩き方で私に近づくと、注意ぶかくポケットを探りまわした」。村上氏は「ボクサーあがりがはたはた(傍点四字)とした足取りで近くに寄り、私のポケットを念入りに探った」だ。

 

<flatfoot>は「偏平足」を意味する名詞なので、双葉氏の訳はほぼ直訳だが、果たして歩き方を見ただけで、偏平足だと分かるものだろうか?また、村上氏の「はたはたとした足取り」というのも、今までに読んだ覚えがない。<sidle>には「横(斜め)歩き」の意味もある。<sidled over>(にじり寄る)という表現と合わせて考えると、スマートに近づくのではなく、どことなく様にならない足取りで近寄ってきたのだろう。

 

「名前はフィリップ・マーロウです。エディ。住所はフランクリン街のホバート・アームズ。私立探偵許可証、保安官補バッジその他。職業、探偵」は<Name's Philip Marlowe, Eddie. Lives at the Hobart Arms on Franklin. Private license, deputy’s badge and all. A shamus.>。あまり、よくしゃべるタイプじゃないのだろう。訥々とした語りが聞こえてくるようだ。

 

双葉氏は「フィリップ・マーロウ。住所はフランクリン街ホバート・アームズ館です。私立探偵の許可証、保安官補の記章を持ってますよ。デカです」。細かいことを言うようだが、「記章」は「徽章」のまちがいだろう。村上氏は「名前はフィリップ・マーロウです。エディー。住まいはフランクリン通りのホバート・アームズ。私立探偵の免許証、保安官事務所の助手バッジなど。探偵さんときたね」と最後に軽口を叩かせている。

 

最後の<A shamus>の<A>だが、「~というもの」の意味ではないだろうか。村上氏はそれを「探偵さんときたね」と訳してみせたのだろう。もちろん、これはマーロウに聞かせようとした一言だ。その後の頬を軽く叩くのとセットになっていると読んでの訳である。読みとしては、私もそちらを採りたいが、ボスの命令である。エディーに応えながら、マーロウにも聞かせる、そういう意味で「職業、探偵」としてみた。もちろん、名前、住所と来たら、次は「職業」と続くのが身元調べの一連の手続きだからだ。

 

「話す気はない、エディ。なぜ私が話すと思うんだ?」は<Not ready to talk, Eddie. Why should I?>。双葉氏は「言えないね。言うて(傍点)はなかろう?」。村上氏は「そいつはまだ言えないよ、エディー。言う義理もないしな」。<Why should I>は、「何で私が」という決まり文句だが、両氏とも疑問符を重要視せずに、エディに対して切り口上になっている。それが後々に響いてくる。<Why should I?>をどう訳すかで、次のルガーのところをどう訳すかが決まるからだ。

 

<「これさ」彼は言った。「それと、損はさせないつもりだ」>は<“This” he said. “And I might make it worth your while.” >。双葉氏は<This>の一言を「こいつにものを言わせようか?」と訳し、その後の文はまったく訳さずに済ませている。< make it worth your while>は「損はさせない(あなたの労をむだにしない)」という意味の成句だ。これをカットした双葉氏の訳では「金の音」の出所がまったく分からない。村上氏はその後に来る<And I might make it worth your while.>と併せて「こいつと俺でしかるべき礼をすることはできるかもしれない」と訳している。

 

「そうこなくっちゃ。銃は放っておけよ。いつでも金の音はよく聞こえるんだ。幾らじゃらつかせてる?」は<That’s the spirit. Leave the gun out of it. I can always hear the sound of money. How much are you clinking at me?>。エディの申し出は言うことを聞けば金を出すが、いうこと聞かなければルガーの出番だ、という飴と鞭の使い分けを意味している。それなのに、双葉氏は単なる脅しのように訳してしまうから、その後を「お勇ましいことですな。が、パチンコは余計だよ。どうやら金の音がきこえるね。いったい幾らちゃらつかせようというんだ」と訳さざるを得なくなる。金の話がいかにも唐突に飛び出してくる。

 

村上氏は「そう、そうこなくっちゃ。でも銃は抜きにしてもらいたいね。私はちゃりんちゃりんという金の音に耳ざとい方でね。どれくらいその音を聞かせてもらえるんだろう?」だ。いつものことながら、少々くどい。<clinking>は「チリン(チャリン)と音を立てる」の意味なので、こういう訳になるのだろう。ここは、<How much>を「幾ら」で受けているところも含めて双葉氏の訳の方が簡潔で原文に近い。

 

「この件についてお前の知っていることは何であれ外には出せない類のものだと俺は睨んでいる。でなきゃ今頃このごみ溜めの周りは革靴の底をきゅっきゅと鳴らす警官でいっぱいのはずだ」の部分には少々てこずった。少し長いが原文は<I can believe that  whatever you know about all this is under glass, or there would be a flock of johns squeaking sole leather around this dump.>。

 

双葉氏はいつものことながらこの部分をあっさりとカットしている。村上氏はこう訳している。「この件についておまえが知っていることは、それが何であれ、表に出せない種類の代物だ。俺はそう考えている。でなければ、今頃ここは山ほどの警官に踏み荒らされているよ」。<under glass>は「温室で」の意味。温室栽培の植物は外に出すことはできない。<flock>は「一群の」、<john>は警官を意味するスラング。逐語訳にするとふざけた感じがよく出るが、意味的には村上訳で十分通じる。(第十三章了)