HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十四章(4)

《じんわりした苦しみと激しい怒りを封じ込めた無理無体な混ぜ物の中に彼女は落ち込んだ。銀色の爪が膝を掻きむしった。

「この稼業はなまくら者には向いていない」私はブロディに親しさを込めて話しかけた。「君のようなやり手を探してるんだ、ジョー。君は信用を得て、それを保持しなければいけない。こんな使い古しの猥本で興奮するために金を使おうかという連中は、手洗いを見つけられないでいる品のいい老婦人みたいに神経質になっている。私が思うに金儲けの手段として強請のような汚い手に頼るのは大きな過ちだ。すっぱり手を引いてこつこつと合法的な販売と賃貸に精を出すことだ」

 ブロディの暗褐色の凝視が私の顔の上を行きつ戻りつした。彼のコルトは私の急所を狙い続けていた。「君は面白い男だな」彼は単調に言った。「それで誰がこの素敵な商売をやるんだ?」

「君がやるのさ」私は言った。「九分通り」

 ブロンドが息をつまらせ、耳に爪を立てた。ブロディは何も言わなかった。彼はただ私を見た。

「何よ?」ブロンドが吠えたてた。「あんたはそこにぼうっと座って、ガイガーさんが街の一等地でその手の稼業をしていたというの?あんた、頭おかしいんじゃない!」

私は失礼のないように彼女を横目で見た。「その通り。みんなその商売の存在を知っている。ハリウッドが受注生産しているのさ。もし、そんなものが存在しなければならないなら、実務的な警官なら誰でも、公然と大通りで商売してほしいだろう。同じ理由で彼らは売春街を好む。いざという時、どこに踏み込めばいいかを知ってるからな」

「なんてことを」ブロンドはこぼした。「あんたはこのイカレ頭がそこに座って私を侮辱するままにさせておくつもりなの、ジョー?あんたの手には銃がある。彼は葉巻と親指しか持ってないのに」

「気に入った」ブロディが言った。「こいつはいい考えを持っている。黙って口を閉じておけ。それともこいつで叩かれたいか?」彼はいよいよぞんざいな態度で銃を叩いた。

 ブロンドは息を呑んで顔を壁の方に向けた。ブロディは私を見て狡そうに言った。「どうやって俺はこの素敵な商売を手に入れたというんだ?」

「君はそれを手に入れるためにガイガーを撃った。昨日の雨の中で。射撃にはお誂え向きの天気だった。問題は君が発砲した時彼は一人じゃなかったことだ。君は気がついていなかったか、ありそうもないことだが、怖気づいて逃げ出したかのどちらかだ。しかし、カメラから乾板を取るだけの度胸はあった。そしてその後戻って死体を隠すだけの度胸もあった。警察が殺人事件と知って捜査にかかる前に本を片づけることができるように」

「ほほう」彼は馬鹿にしたように言った。コルトが膝の上で揺れた。彼の褐色の顔が木彫像のように硬くなった。「あんたはヤマをかけてる。ミスター、あんたにとって運のいいことに、俺はガイガーを撃っていない」

「それでも、君はくたばるさ」私は愛想よく言った。「殺人容疑で逮捕されるだろう」

 ブロディの声がしわがれた。「罠にかけようというのか?」

「そうだ」

「どうやって?」

「そう証言する誰かがいるのさ。言っただろう、目撃者がいたんだ。私を甘く見ないことだ、ジョー

ブロディの感情が爆発した。「あの忌々しい淫乱娘!」彼は大声で叫んだ。「あいつだろう、くそっ。あいつに決まってる!」

 私は椅子の背ににもたれ、彼ににやりと笑いかけた。「上出来だ。君だと思ってたんだ。彼女のあのヌード写真を持ってるのは」

 彼は何も言わなかった。ブロンドも何も言わなかった。私は彼らが考えられるように放っておいた。ブロディの顔がゆっくりと明るくなってきた。少しは安心したように見えた。彼はコルトを椅子の脇にあるサイド・テーブルに置いたが、右手を近くに置いていた。葉巻の灰を絨毯の上に叩いて落とし、細めた瞼の間に微かに光る眼で私をじっと見つめた。

「俺のことを馬鹿だと思っているようだな」ブロディが言った。

「ペテン師としちゃ、平均的なところだ。写真をもらおうか」

「何の写真だ?」

 私は頭を振った。「下手な芝居だ、ジョー。とぼけても無駄だ。君が昨夜そこにいたか、そこにいた誰かからヌード写真を手に入れたかどちらかだ。君は彼女がいたのを知っていた。君はガールフレンドを使って、警察沙汰にするとミセス・リーガンを脅している。そうするためには、何が起きたかを見るか、写真を押さえていて、いつどこで撮影されたかを知っていなければならない。吐いてしまえ。分別を持つことだ」

「少しばかり金がいるんだ」ブロディが言った。彼は緑の目をしたブロンドの方に首をひねった。今はもう目は緑色ではなく、ブロンドはただの見せかけだった。彼女は殺したての兎のようにぐったりしていた。

「金は出ない」

 彼は苦々しげに顔をしかめた。「どうやって俺にたどり着いた?」

 私は財布をはじいて彼にバッジを見せた。「私は依頼人に頼まれてガイガーを探っていた。昨夜は外にいたんだ。あの雨の中に。銃の発射音を聞いた。私は飛び込んだ。人殺しは見なかったが、それ以外はすべて見た」

「そして、口に蓋をした」ブロディは鼻で笑った。

 私は財布をしまった。「そうだ」私は認めた。「今まではな。写真を渡すのか、どうだ?」

「本のことだが」ブロディが言った。「どうして分かったんだ」

「ガイガーの店からここまで尾行したのさ。証人がいる」

「あのお稚児さんか?」

「どのお稚児さんだ?」

 彼はまた顔をしかめた。「店で働いていた小僧さ。あいつはトラックが出た後、仕事を放り出した。どこをねぐらにしてるのかアグネスさえ知らない」

「それで分かった」私はそう言って彼ににやりと笑った。「そこが少し悩みのたねだった。ガイガーの家に行ったことはあるのか――昨夜以前に」

「昨夜だって行っていない」ブロディは鋭く言った。「そう彼女は言ったのか。俺が彼を撃ったと、なあ?」

「写真さえ手にすれば、彼女が間違っていたと説得することができるかもしれない。あの晩は、少し飲んでいたようだしな」

ブロディがため息をついた。「あの女はおれが腹を据えたのが憎らしかったんだ。俺はあいつをおっぽり出した。たしかに金は貰ってたさ。けど、どうでもやらなきゃならなかった。あの女は俺のような単純な男にはぶっ飛び過ぎていた」彼は咳払いした。「少しくらいどうにかならないか?オケラなんだ。アグネスも俺もどこにも動けない」

「依頼人からは出ない」

「聴けよ――」

「写真を出すんだ。ブロディ」

「畜生」彼は言った。「あんたの勝ちだ」彼は立ち上がり、コルトを脇のポケットにしまった。彼の左手がコートの内側に伸びた。彼がそうしたままでうんざりと顔を歪ませていた時、ドアのブザーが鳴った。そしてそれは鳴り続けた。》

 

「じんわりした苦しみと激しい怒りを封じ込めた無理無体な混ぜ物の中に彼女は落ち込んだ」のところ、新旧訳はかなり雰囲気がちがう。「おさえられた憤怒と苦悩がごっちゃになり、彼女は血相をかえた」(双葉)。「緩慢な苦悩と、密閉された怒りの煮えたぎるるつぼ(傍点三字)の中に、女は引っ込んだ」(村上)。原文は以下の通り。<She subsided into an outraged mixture of slow anguish and bottled fury.>

 

<subside into>は「〈人が〉〔いすなどに〕(どっかと)腰を下ろす、(よくない状態に)落ち込む」の意味。興奮した女は腰を浮かしかけたのかもしれない。ブロディに黙っているように言われ、我慢して元の姿勢に戻りはしたが、憤懣やる方ない思いでいる。その心中を察して<subside into>を両義的に使ったのだろう。映画のタイトルにもなった<outrage>だが、「非道(な行為)、蹂躙(じゆうりん)(する行為)、侮辱、憤慨、憤り」のような意味がある。<an outraged mixture >を、双葉氏は「ごっちゃになり」と訳し<outrage>をカットしている。村上氏は文学的に「煮えたぎるるつぼ」と訳している。

 

<an outraged mixture >を「煮えたぎるるつぼ」とした村上訳は格調高いが<outrage>を「憤慨」の意味にとることで、彼女の意に反してそうなった、というところが抜け落ちた憾みがある。「無理無体な」と訳したのは、女の意志に反して、男がそれを上から抑え込んだという意味を出したかったからだ。「彼女は血相をかえた」は、誤訳というよりも双葉氏の完全な創作。つい勢いで書いてしまったのだろう。

 

「同じ理由で彼らは売春街を好む。いざという時、どこに踏み込めばいいかを知ってるからな」は<For the same reason they favor red light districts. they know where to flush the game when they want to.>。ここを双葉氏は「同じ理由で奴らは盛り場もお好きときてる。いんちき賭博をやりたいときはどこへいけばいいか知ってるんだ」と、警官たちが賭博をしているように訳している。

 

村上氏は「公認の娼婦街を彼らが好むのと同じようにね。いざというときにどこに踏み込めばいいかもわかるし」としている。<red light districts>は日本語でいうところの「紅灯の巷」。品よく言えば花柳界、花街だが、そのものずばりでいえば「赤線地帯」のことである。犯罪者が潜入した場合、売春宿が分散しているより、ひとところにまとまってくれている方が、情報収集にも摘発にも便利だ。双葉氏は、エディ・マーズの商売である<flash ganbling>を「いんちき賭博」と訳している。<flash>と< flush>を混同したのではないだろうか?

 

「彼はいよいよぞんざいな態度で銃を叩いた」は<He flicked the gun around in an increasingly negligent manner.>。ここを双葉氏は「彼は次第にくつろいできた調子で拳銃をふりまわした」。村上氏は「彼は拳銃を上げて振り回した。彼の振る舞いはだんだん荒っぽくなってきた」と、やはり「振り回す」を採用している。<flick>には「はじく、叩く、ひょいひょい動く」のような意味があるが、「振り回す」のような意味はない。ブロディは、銃を叩いて見せることでブロンドを威嚇したのだろう。

 

この場面を通じて、チャンドラーは、マーロウの口車にのせられて次第に変化してゆくブロディの心理を銃によって語らせるという、ハードボイルドならではの即物的な心理描写を用いている。一人称視点が特徴的なハードボイルド小説では、視点人物であるマーロウの心理は直接語れても、対象人物である相手の気持ちは直接には語ることができない。そこで、マーロウの眼や耳がとらえた情報をつぶさに描くことで相手の心理状態を読者に伝えるという方法をとる。銃が取り出されてからしまわれるまでが、二人の攻防戦である。

 

「私は彼らが考えられるように放っておいた」のところ、双葉訳では「私は二人が口をもごもごさせているのを黙ってみていた」となっている。原文は<I let them chew on it.>。双葉氏は<chew>の意味である「よく噛む」ことからそう訳したのだろう。しかし、<chew on>には「よく考える」という意味がある。村上氏も「私は彼らに好きに考えさせておいた」と訳している。

 

「少しは安心したように見えた」は<with a sort of grayish relief>。村上氏の「そこには灰色がかった安堵がうかがえた」の方が原文に忠実だが、「灰色がかった安堵」というのは、いかにも生硬だ。双葉氏は「いくらか安心したという感じだった」と、さすがにこなれた訳になっている。その前にある<Brody’s face cleared slowly,>とつなげて考えれば、空模様に喩えて「晴れてはきたが、まだ灰色の雲が残っている」と、ブロディの心理を顔色から読み取っていることが分かる。

 

「ブロディは鼻で笑った」は<Brody sneered.>。ここを双葉氏は「ブロディが歯をむいた」と訳している。「歯をむく」というのは慣用句ではなく、文字通り歯を剥き出しにしてみせたという意味だろうか。それなら、笑っていることになるが、笑いの持つ意味が分からない。<sneer>は、「冷笑する、あざ笑う、鼻であしらう」などの意味で、相手を軽んじた笑いである。村上氏は「ブロディーは冷笑した」と、訳している。辞書通りである。双葉氏がなぜ「歯をむいた」としたのかがよく分からない。

 

「あのお稚児さんか?」は<That punk kid?>。双葉氏は「あのとんちき小僧か?」。村上氏は「あのお稚児の坊やか?」。<punk>には「役に立たない、くだらない、青二才」などの未熟な若者を指す意味のほかに「同性愛の相手の少年」を表す意味がある。双葉氏は一般的な意味にとっているが、同性愛者らしきことは、ガイガーの部屋の様子を表す時にも示唆されていた。「稚児」という表現が現代的ではないと思い、今までは使ってこなかったが、ここはブロディといういかがわしい人物とのなれなれしい会話の中である。業界用語のようなものとして考えたい。それにしても、もう少し使い勝手のいい表現はないものだろうか?

 

「あの女はおれが腹を据えたのが憎らしかったんだ。俺はあいつをおっぽり出した。たしかに金は貰ってたさ。けど、どうでもやらなきゃならなかった」は<She hates my guts. I bounced her out. I got paid, sure, but I’d of had to do it anyway.>。村上氏は「あの女は俺を憎んでいる。俺は彼女を放り出した。たしかにそのための手切れ金はもらったさ。しかしいずれにせよ、早晩放り出さなくちゃならなかった」と訳す。

 

これは少しおかしい。手切れ金というのは放り出す方が払うものだ。しかも、村上氏は<guts>を読み飛ばしている。ちなみに双葉氏はというと「あの娘はおれが骨のあるところをみせたのが気に入らないんだ。おっぽり出してやったのさ.。おれは金をもらってた。が、どの道おっぽり出さずにゃいられないさ」と意味が通っている。

 

つまり、ひも暮らしのいい金づるだったけれど、相手のイカレっぷりに恐れをなして追い出したのだ。彼女が憎んだのは、ブロディではない。金をあきらめてでも自分と手を切ろうとした男の「ガッツ」を憎んだのだ。村上氏が<guts>に目を留めていたら、ちがう訳になっていただろう。原文はシンプルだ。だからこそ、一語でも読み落としたら、文意が変わってしまう。その辺のことは村上氏もよく知りぬいているだろうに。

 

「彼の左手がコートの内側に伸びた。彼がそうしたままでうんざりと顔を歪ませていた時、ドアのブザーが鳴った。そしてそれは鳴り続けた」は<His left hand went up inside his coat. He was holding it there, his face twisted with disgust, when the door buzzer rang and kept ringing.>。村上氏は「左手がコートの内側に伸びた。そしてそれを取り出した。顔は苦々しげにねじられていた。そのときドアのブザーが鳴った。それは鳴りやまなかった」と訳している。つまり、村上訳では、写真らしきものがポケットの外に出ている。

 

双葉氏の訳はというと「左手を上着の内ポケットにつっこんだ。そのままくさった表情で顔をゆがめているとき、ドアの呼鈴が鳴りつづけた」だ。左手は、まだポケットの中に入っている。どうして、こんな差が生じたのか?問題は< holding it there>にある。<hold it>は「ちょっと待て」というときによく使う決まり文句。つまり、事態は動いていない。左手はポケットに入ったままである。直訳しても「彼はそこにそれを保持していた」だ。「そこ」というのはポケットの中。どうしたって取り出すわけにはいかない。この章を訳した時、村上氏はいつもの調子ではなかったようだ。<了>