HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十八章(4)

《ワイルドは葉巻を振りながら言った。「証拠物件を検分しようじゃないか、マーロウ」私はポケットの中身をさらえて彼の机の上に置いた。三枚の借用書とガイガーがスターンウッド将軍に宛てた名刺、カーメンの写真、それに暗号化された名前と住所が記載された青いノートブックだ。ガイガーの鍵束はすでにオールズに渡してある。

 ワイルドは私が渡したものを見て、静かに葉巻をひと吹きした。オールズは彼の小さな葉巻の一本に火をつけ、のんびりと青い煙を天井に吐いた。クロンジャガーは机の上に身を乗り出して私がワイルドに渡したものを見た。

 ワイルドはカーメンのサインのある三枚の借用書を指で叩いて言った。「これは客寄せに過ぎないと思う。もしスターンウッド将軍が支払ったのなら、もっと悪い何かが出てくるのを恐れたのだろう。そういうわけでガイガーは更に圧力を加えたにちがいない。彼が何を恐れていたか君は知ってるか?」彼は私を見ながら言った。

 私は首を振った。

「君はこれで関連する事実を詳細に語り尽くしたのかな?」

「個人的な事実が二つ残っています。私はそれらを口外する気はありません。ミスタ・ワイルド」

 クロンジャガーが言った。「はあ!」。そして、感慨深げに鼻を鳴らした。

「どうしてかな?」ワイルドが穏やかに尋ねた。

「何故なら、私の依頼人には保護される権利がある。大陪審は別としても。私には私立探偵として動く免許がある。私は<私立>という語に多少の意味があると考える。ハリウッド管区は二件の殺人事件を抱え、両方とも解決済みだ。二件とも犯人は確保、各件の動機も凶器も揃っている。強請が絡んでたことは公表を控えるべきだ。関係者の名前も含めて」

「どうしてだね?」ワイルドが重ねて訊いた。

「それで構わんよ」クロンジャガーが素っ気なく言った。「評判の私立探偵のために我々は喜んで引き立て役をつとめさせてもらうよ」

 私は言った。「見せたいものがある」。私は立ち上がって外にある車に戻り、ガイガーの店にあった本を取り出した。制服を着た警察の運転手がオールズの車の脇に立っていた。青年は車内のすみで横向きに凭れかかっていた。

「何か言ったか?」私は訊いた。

「挑発されましたよ」警官はそう言って唾を吐いた。「放っておきましたがね」

 私は家の中に戻り、ワイルドの机に本を置き、包装紙を剥がした。クロンジャガーは机の端の電話をかけていた。彼は私が入ってくると受話器を戻し、腰を下ろした。

 ワイルドは本を一通り見て、無表情な顔で閉じると、クロンジャガーの方に押しやった。クロンジャガーは本を開け、一、二ページ見ると急いで閉じた。五十セント銀貨ほどの赤い斑点が、彼の両の頬骨辺りに浮かんだ。

 私は言った。「表見返しに捺された日付を見ることだ」

 クロンジャガーはもう一度本を開き、それを見た。「これがどうした?」

「必要とあらば」私は言った。「宣誓を行って証言する。その本はガイガーの店にあったものだ。金髪のアグネスが、店がどんな商売をしていたか認めるだろう。あの店が隠れ蓑であることは誰の目にも明らかだ。しかし、ハリウッド警察には警察なりの理由があって、営業を看過していた。大陪審はその理由とやらを知りたがるだろう」

 ワイルドはにやりと笑って言った。「大陪審は時々そういうきまりの悪い質問をする――一体どうして市がそのように運営されているのかを知ろうという、まあ無駄な努力さ」

 クロンジャガーは突然立ち上がると帽子を冠った。「私一人に三人がかりとはな」彼は吐き捨てるように言った。「私は殺人課の人間だ。もしこのガイガーとやらが猥本を扱っていたというのなら、私の知ったことではない。しかし、新聞が騒ぎ立てたら署に逃げ道がないことは認めよう。あんた達はどうしたいんだ?」

 ワイルドはオールズを見た。オールズは穏やかに言った。「君に被疑者を一人任せたい。行こうか」

 彼は立ち上がった。クロンジャガーは凄まじい形相で彼を見ると、大股で部屋を出た。オールズは後に続いた。ドアが再び閉まった。ワイルドは机を軽く叩きながら澄んだ青い眼で私を見つめた。》

 

「ガイガーがスターンウッド将軍に宛てた名刺」は<Geiger’s card to Generel Sternwood>。双葉氏は「スターンウッド将軍に送ったガイガーの名刺」としているが、村上氏は「ガイガーからスターンウッド将軍にあてられた葉書」と訳している。これは村上氏のミスだ。将軍からそれを見せられた時のことを氏自身が以下のように書いている。「私は封筒から茶色の名刺と、ごわごわした三枚の便せんを取り出した。名刺は薄い茶色の亜麻でできていて、金色の字で『アーサー・グイン・ガイガー』と印刷されていた」

 

ガイガーが出したのは「葉書」ではなく、封書だった。当然である。葉書で相手を強請る馬鹿はいない。こういう初歩的なミスは誰にでもある。校閲担当者は何をしていたのだろう。早川書房には、村上氏専門のスタッフがいるから、柴田元幸氏も早川から出る村上氏の翻訳についてはチェックを頼まれないという。こんなことくらい英語が読めなくてもできる。要はしっかりと読んでいないのだ。猛省を促したい。

 

「もしスターンウッド将軍が支払ったのなら、もっと悪い何かが出てくるのを恐れたのだろう」は<If General Sternwood paid them, it would be through fear of something worse. >。双葉氏はここを「もしスターンウッド将軍が払ってやれば、もっと事態は悪化する」と訳しているが、<through fear>(恐怖のために)を読み飛ばしているだけでなく<paid>が過去形であることも忘れている。村上氏は「もしスターンウッド将軍がこいつに金を支払ったとしたら、それはもっとたちの悪いものが出てくることを恐れたためだろう」だ。

 

「そういうわけでガイガーは更に圧力を加えたにちがいない」は<Then Geiger would have tightened the screws.>。<tighten a screw>は「ネジを締める」の意。双葉氏は「ガイガーは輪をかけてしぼりとるつもりだったにちがいない」。村上氏は「そしてガイガーは更にきつくネジを締めていったはずだ」と訳している。双葉氏は「輪をかけてしぼりとる」という原文を生かした訳語をひねり出している。村上氏はほぼ直訳だが、意味は通じる。

 

「評判の私立探偵のために我々は喜んで引き立て役をつとめさせてもらうよ」は<We’re glad to stooge for a shamus of his standing.>。双葉氏は私立探偵とやらにひっかかって踊らされるのはもうたくさんだ」と訳しているが、これはおかしい。<stooge>は「ぼけ役、引き立て役」の意味。<standing>は「名の通った、信用のある」という意味だ。それを喜んでやるというのは皮肉である。村上氏も「優秀な私立探偵のためにぼけ役をつとめるのは、我々の欣快(きんかい)とするところですから」と、皮肉を利かせている。

 

「挑発されましたよ」と「放っておきましたがね」は、それぞれ<He made a suggestion><I’m letting it ride>。双葉氏は「取引を申し込んだです」「が、知らん顔をしていたところです」と訳している。村上氏は「ちょっとした示唆をされましてね(もちろんお得意の三語の台詞のこと)」と親切に注を入れている。ただ、後の方は「口は災いのもとって言います」と訳している。

 

<let it ride>は「成り行きに任せる、そのままに放置する」という意味だが、それがどうして「口は災いのもと」になるのが分からない。もしかしたら、村上氏は運転手が青年の言葉にカッとなって、手を出したことを示唆しているのかもしれない。<The boy was inside it, leaning back sideways in the car.>を氏は「青年は座席の隅で、ぐったり横にもたれかかっていた」と訳しているが、「ぐったり」に該当する語は原文にはない。運転手が台詞を言った後で唾を吐いたところも「ぺっと唾を吐いた」と意味ありげに訳している。そう考えれば「口は災いのもと」の意味は分かるが、どうだろう?原作者に訊いてみたいところだ。

 

「一体どうして市がそのように運営されているのかを知ろうという、まあ無駄な努力さ」は<in a rather vain effort to find out just why cities are run as they are run.>。双葉氏は「市の行政がなぜちゃんと運行してるか知りたいだろうが」と<in a rather vain effort>をカットして訳している。逆に、村上氏は「都市がなぜこのように様々な問題を抱えているかを解明しようという、まずは無益な努力の一環としてね」と言葉を大幅に補って訳している。<in a vain effort>は「無駄な努力、徒労」の意味だ。その間に<rather>を挿入して幾分かのニュアンスを含めている。スキャンダルはいつも警察によって握りつぶされる、というワイルドの目配せだ。だから、その後クロンジャガーは憤然と席を立つのだ。