HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十章(2)

《「彼が出て行ったのは九月十六日のことだ」彼は言った。「それについて唯一つ大事なことは、運転手が休みの日で、午後遅くだったというのにリーガンが車を出すところを見た者がいないことだ。四日後、我々はサンセット・タワーズ近くのリッチなバンガロー・コートのガレージで車を発見した。見慣れない車があるとガレージ係が盗難車係に連絡してきた。カーサ・デ・オロというところだ。あとで話すが、いわくつきの場所だ。車をそこに置いた人物はわからなかった。車に残された指紋を採取したが、登録された指紋の中に該当するものは見あたらない。ガレージにあった車は犯罪に関わってはいない、とはいえ犯罪を疑わせる理由はある。あとで話すといった件と合致してるんだ」

 私は言った。「失踪届に載っているエディ・マーズ夫人の指紋と一致したんだろう」

 彼はいらついているように見えた。「そうだ。警察は入居者を調べて彼女がそこに住んでいたことを突きとめた。出て行ったのはリーガンが消えたのとほぼ同じ頃、いずれにしても二日のうちだ。リーガンと思しき人物が彼女とそこにいるところを目撃されていたが、彼だと断定することはできなかった。警察稼業では時に愉快なことがある。窓の外を男が走るのを見た婆さんが、半年後の面通しでそいつを選び出したりするんだが、映りのいい写真をホテルの従業員に見せても証言は取れなかったよ」

「それは良いホテル従業員の資格の一つだ」私は言った。

「まったくだ。エディ・マーズとワイフは別居していたが、仲はよかったとエディは言ってる。ここにいくつか可能性がある。一つはリーガンがいつも一万五千ドル身に着けていたことだ。一枚目だけじゃなく札束全部が現ナマだそうだ。かなりの大金だが、リーガンは見せ金用に持ち歩いていたのかもしれない。それか、全然気にしていなかったか。夫人によると、彼はスターンウッド老人から小銭一枚もらっちゃいない。賄い付きの部屋と夫人がくれたパッカード120を別にしたら。たなぼたで金づるを得た元酒の密売人を縛るのがそれだけとは」

「分からないものだ」私は言った。

「さてと、ここに一人の男がいて、ふらっと出て行くが、ズボンのポケットに一万五千ドル入れているのは誰もが知ってる。ところで、問題はその金だ。もし一万五千ドル持ってたら、俺だってふらっと消えるかもしれん。高校に通う二人の子どもがいてもな。だからまず考えられるのは、金を盗ろうとした誰かがやり過ぎて、砂漠に運んでサボテンの間に埋めた、というものだ。しかし、その説はあまり気に入らない。リーガンは銃を持っていたし、それを使った豊かな経験を持っている。ただのつるりとした顔の酒の密売屋ではない。1922年のアイルランド内戦だったか何かでは一旅団を指揮していたそうだ。そんな男は追いはぎの餌食にはならない。それに、彼の車がガレージにあったということは、彼を襲ったのが誰であれ、そいつは彼がエディ・マーズのワイフに夢中だと知ってる。おそらくそうなんだろう。だが、玉突場にいる穀つぶしどもの知るところではない」

「写真はあるのか?」私は訊いた。

「彼のは。彼女のはない」それもまたおかしなことだ。この件にはおかしなことがたくさんある。ほら」彼が机ごしに光沢のある写真を押してよこしたので、私はアイルランド人の顔を見た。陽気というより悲しげで、大胆というよりは控えめだった。タフガイの顔ではなく、誰かにこき使われるような顔でもなかった。まっすぐな黒い両眉の下に頑丈な骨があった。額は高いというより広く、ふさふさともつれる黒髪に薄く短い鼻、大きな口。力強い形をした顎は口の割に小さかった。顔には少し緊張が見受けられた。素速く動き、本気で勝負する男の顔だ。私は写真を返した。会えば分かる顔だ。

 グレゴリー警部はパイプを叩いてから新しい煙草を詰めて親指で押し固めた。それに火をつけ煙を吐き、また話し始めた。

「ところで、彼がエディ・マーズ夫人に惚れていたことを知る者がいても不思議ではない。エディ・マーズ本人のほかにだ。驚いたことに彼はそのことを知っていた。しかし、気にしているふしはない。その頃我々は彼をかなり徹底的に調べあげた。もちろん、エディ・マーズは嫉妬から彼を殺したりしない。状況から彼に容疑がかかるのは目に見えている」

「それは彼がどれだけ悪賢いかによる」私は言った。「裏の裏をかこうとしたのかもしれない」》 

「リッチなバンガロー・コート」としたのは<ritzy bungalow court place>。<bungalow court>というのは南カリフォルニア州パサデナにある、数件の住宅がコの字型に並んだ中庭を共有する形式の住宅地のこと。バンガロー・コートという呼び名で、今でもパサデナに残っている。当時流行したマルチ・ファミリー向けの住宅地で、庭園に向かい合うように低層の住宅が建ち並び、一種のコミュニティーを形成している。双葉氏は「しゃれた別荘」、村上氏は「高級集合住宅地」と訳している。 

「彼はいらついているように見えた」は<He looked annoyed>。双葉氏は「彼は当惑しているような表情を浮かべた」。村上氏は「彼は顔に憂慮の色を浮かべた」と、いつものように格調が高い。<annoyed>は「困る、悩む、いらいらする」の意味だ。双葉氏が「当惑」としたのは、「マーロウがなぜ知っているのだろう」、村上氏の場合は「私立探偵にそこまで知られているのか」くらいか。グレゴリー警部もいろいろと腹の中を探られて大変だ。 

「それは良いホテル従業員の資格の一つだ」は<That’s one of the qualification for good hotel help.>。双葉氏は「ホテルの番頭もあてにならない証拠がまた一つふえたわけですね」と訳しているが、<qualification>は「資格」の意味で、どう考えたらこんな訳になるのかよく分からない。村上氏は「そうじゃないとホテルの良き従業員にはなれないんだろう」と言外に皮肉を込めて訳している。 

それと、もう一つ気になるのが双葉氏がマーロウの言葉を訳すとき、グレゴリー相手にかなり丁寧な言葉遣いをさせていることだ。敬体を使うこともそうだが、みょうに下手に出ている。もちろん原文にはそんな気配はない。英語がいいな、と思うのは上下関係や男女関係においてフラットなところだ。いくら日本人に分かるように訳すとしても、それを忘れてはいけないと思う。『大いなる眠り』の頃のマーロウはまだ若手だが、一介の警部相手にそこまで遠慮はしないだろう。クロンジャガー相手の時はもっと突っ張っていた。グレゴリーが気に入ってるということなのかもしれない。 

「一枚目だけじゃなく札束全部が現ナマだそうだ」は<Real money, they tell me. Not just a top card and a bunch of hay.>。ここを双葉氏はまるきりカットしている。村上氏は「紛れもない本物の現金だったということだ。上だけ見せ金で、あとは偽物というようなやつじゃない」と訳している。<hay>は「干し草」だが、「金」を意味する俗語がある。<a bunch of >は<a lot of>と同じだから、<a bunch of hay>は大金という意味になる。意味的には同じだが<a bunch of hay>を本物と取るか、ただの紙の束と取るかで訳し方は異なる。双葉氏は迷った挙句にスルーしたのだろうか。 

たなぼたで金づるを得た元酒の密売人を縛るのがそれだけとは」は<Tie that for an ex-legger in thr rich gravy.>。原文だけでは、どうしてこんな訳になるかわかりにくい。実は<tie that bull outside>という「信じられない」という意味のイディオムがある。おそらく警部はそれを言い換えているのだろう。<gravy>は、あのグレイビー・ソースのことだが、スラングでは「思いがけない利得物、たなぼた、甘い汁」の意味がある。双葉氏は「宝の山に入った元闇酒屋にしては奇妙な話さ」。村上氏は「何不自由のない生活をするかつての密売業者にとって、これがどういう意味を持つと思うね?」と訳している。 

「ただのつるりとした顔の酒の密売屋ではない」は<and not just in a greasy-faced liquor mob>。双葉氏は「ただの三下(さんした)とはちがうからね」。村上氏は「それもそのへんの酒の密売ギャングを相手にしていただけじゃない」だ。両氏ともに<greasy-faced>を訳していない。<greasy>には「脂ぎった」のほかに「つるつるした」の意味がある。脂ぎった顔とすべすべした顔では印象がまったく反対になってしまう。<liquor mob>は直訳すれば「酒の暴徒」だが、禁酒法時代に酒を扱っていたギャングのことだろう。 

<and>から始まっていることから分かるように、訳文は二つの文になっているが原文は一文だ。前半は<Regan carried a gat and had plenty of experience using it,>。<gat>は拳銃や銃を意味する古い俗語だ。グレゴリー警部の使う言葉には古いスラングが多くて訳にてこずる。双葉氏は「リーガンはパチンコを持っていたし、その使い方もお手のものだ」と、手馴れた訳しぶりだ。村上氏は「リーガンは銃を携行していたし、実際にそいつをさんざん使ってきた」と訳している。 

つまり、この文の主語はリーガンで、後半も当然そうである。双葉氏はリーガンは「ただの三下とはちがう」と訳しているが、村上氏は<a greasy-faced liquor mob>を相手と解している。となると<a greasy-faced liquor mob>をどう考えるかという問題が出てくる。これは、あとに出てくるアイルランドの内乱に蜂起したアイルランド兵との対比である。同じ<mob>でも、無骨な兵士たちと比べれば、ピン・ストライプの三つ揃えで決めたギャングたちは、髭も剃った< greasy-faced>だったろう。その仲間にいたとしてもリーガンはちがう、といいたいのだ。 

「そんな男は追いはぎの餌食にはならない」は<A  guy like that wouldn't white meat to a heister.>。<white meat>は白身の肉ではなく「楽にできること[手に入るもの]」のことらしい。<heister>は「大酒飲み」が一般的だが、「強盗」としている辞書もある。双葉氏は「そんな男が、ちゃちな追はぎにしてやられるとは思えまい」と訳す。村上氏はそこらのけちな物取りの手に負える相手じゃない」だ。「ちゃちな」とか「そこらのけちな」はどこからきたのだろう。原文の<meat>を生かして訳すなら、「食い物」「カモ」なども使えると思うが、ここは「餌食」を使ってみた。 

「玉突場にいる穀つぶしどもの知るところではない」は<it ain’t something every poolroom bum would know>。双葉氏はちゃんと「玉突場の与太者たちにまで知られるほどじゃなかった」と「玉突場」を訳しているが、村上氏は「そのへんの与太者の耳に入るような話じゃない」と<poolroom>を訳していない。原文に忠実に訳す村上氏にしては珍しい。 

「まっすぐな黒い両眉の下に頑丈な骨があった」は<Straight dark brows with strong bone under them.>だが、この一文が双葉氏の訳から、すっぽり抜け落ちている。顔の印象を伝える大事なところだ。意識的にカットしたのではなく、おそらく読み落としたのだろう。村上氏は「まっすぐな黒い眉毛の下には、がっしりとした骨格があった」だ。 

「惚れていたことを知る者がいても不思議ではない」は<there could be people who would know he was sweet on>なのだが、双葉氏の訳ではなぜか「知っている奴は、エディのほかに数人いる」と人数まで分かったように書いているのはご愛敬だ。村上訳では「惚れていたことを知っていた連中がいたとしてもおかしくない」だ。 

「裏の裏をかこうとしたのかもしれない」は<He might try the double bluff.>。双葉訳は「こっちの裏をかこうというて(傍点)かも」。村上訳は「やつはその裏をかいたのかもしれない」だ。<double bluff>は辞書的には「はったりのように見せかけ、実は本当という二重のはったり」だから、「裏の裏」ではないのだろうか? 

夫人が失踪しているのだから、その相手を殺す動機のあるのは夫だろうと考えるのが普通の刑事で、いわば「表」の読みだ。だが、グレゴリーはそうは考えない。そんなことをしたら容疑がかかるのは必至だ。賢いエディ・マーズはしないだろう、と考える。これは裏を読んでいるのではないのだろうか。そのうえで、エディ・マーズがやったのなら、裏の裏をかいたことになるのではないだろうか?