HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十一章(4)

《彼はグラス越しに火を眺め、机の端に置くと、薄手の綿ローンのハンカチで唇を拭った。
「口はたいそう達者なようだ」彼は言った。「が、たぶん腕の方はそれほどでもない。リーガンに特に興味はないんだろう?」
「仕事の上では。それを頼まれてはいない。ただ、彼がどこにいるのかを知りたがっている人を知っている」
「彼女は気にもしていない」彼は言った。
「というか彼女の父親のことだ」
 彼はもう一度唇を拭き、まるでそこに血を見つけるのを期待したかのようにハンカチを見た。彼は密集した灰色の眉を寄せ、陽に灼けた鼻の片側に指をあてた。
「ガイガーは将軍を脅迫しようとしていた」私は言った。
「将軍はそうは言わなかったが、背後で糸を引いているのがリーガンではないかと半信半疑の態だった」
 エディ・マーズは笑った。「ああ、ガイガーは誰にでもその手を使っていた。そいつは完全に一人で思いついたことだ。一見合法的な借用書を手に入れる──訴える気がなかったことを別にすれば、おそらく合法的だったろう。美辞麗句を添えた借用書を贈ったら、あとは手を空けて待つだけだ。もし引いた札がエースで、相手が怯えてると見たら仕事にかかるし、エースが来なかったらあっさりとゲームから下りた」
「抜け目のないやつだ」私は言った。「彼はちゃんと幕を下ろした。幕を下ろしておいて、その上に倒れた。君はどうしていきさつを知っているんだ?」
 彼はもどかしそうに肩をすくめた。「信心深いのさ。俺の知らないうちに情報が入ってくる、半分はがらくただ。俺たちの間では他人の商売を知ることは最悪の投資だ。それで、おまえが追ってたのがガイガーだったなら、その件とは縁が切れたわけだ」
「すっかり縁が切れて、お役ご免だ」
「それは気の毒したな。俺はスターンウッドの爺さんがおまえみたいな兵隊をちゃんとしたな給料で雇えばいいと思っていた。あの娘らがせめて週のうち数夜を家で過ごせるように」
「どうしてだ?」
 彼の口は不機嫌そうに歪んだ。「あいつらはまったく厄介だ。黒い髪の方がいい例さ。彼女はこのあたりの頭痛の種だ。負けると大博打を打つから最後は俺の手に借用書が山と積もる。そんなものどれだけ値引きをしても誰も手を出さない。彼女は小遣い銭しか持っていないし、父親の遺言の中身は誰も知らない。それでいて勝てば俺の金を家に持ち帰るんだ」
「君は次の晩に取り戻すじゃないか」私は言った。
「いくらかはな。しかし、長期的に見れば俺が損をしている」
 彼は真剣に私を見た。まるでそれが私にとって重要だとでもいうみたいに。なぜ彼は私にすべて言っておく必要があると思ったのだろう。私はあくびをし、酒を飲み終えた。
「賭場を覗いてみたいんだが」私は言った。
「いいとも」彼は金庫室の近くのドアを示した。
「そこが、テーブルの後ろのドアに通じている」
「よければカモ用入り口から入りたい」
「いいさ。好きなように。俺たちは友だちだ。なあ、ソルジャー?」
「もちろん」私は立ち上がり、我々は握手を交わした。
「たぶんいつか、心から役に立たせてもらうよ」彼は言った。「今回は全部グレゴリーから聞いたらしいからな」
「やっぱり、彼も君の息がかかっていたのか」
「そう悪くとるもんじゃない。ただの友だちさ」
 私はしばらく彼を見つめた。それから入ってきたときのドアの方に行きかけた。ドアを開けるとき彼の方を振り返った。
「誰かにグレイのプリムス・セダンで私を尾行させたりしてないよな?」
 彼の眼が突然見開かれた。ショックを受けたようだった。「するもんか。何で俺がそんな真似をしなきゃならない?」
「見当もつかない」私はそう言って外に出た。彼の驚きは信じていいくらい本物に思えた。少し不安そうにも見えた。私にはその理由がわからなかった。》

「たぶん腕の方はそれほどでもない」は<I dare say you can break a hundred and ten.>。双葉氏は例のごとく決まり文句をつかって「そうは問屋が卸すまいて」と訳している。村上氏はというと「そう簡単には言いくるめられないぜ」と意訳している。しかし、その前の台詞でマーロウは何も相手を説得しようとはしていない。ただ、拳銃使いを差し向けるようなまねはよせ、と要求しただけだ。

<I dare say>は、はっきりしないことを推量して言う時に使う「たぶん~だろう」くらいの意味。エディ・マーズの口癖らしい。その後の<a hundred and ten>つまり「110」が何を意味しているかだが、100を基準にしているところから見て、ゴルフのスコアではないだろうか?その前の「口はたいそう達者なようだ」が<You talk a good game>で、それを<but>で受けて文を構成しているところから見て、前半が「口」なら後半は「腕っぷし」と考えるのが普通だ。

エディ・マーズは、マーロウは110は切れると推測している。アベレージ100が一つの目安とされているから、初心者ではなくそこそこの腕前ととらえているようだ。もちろん、ゴルフにたとえてはいるが、銃その他の腕前のことだろう。その前の会話でエディ・マーズの部下を追っ払った武勇伝をマーロウが自慢気に語ったのを受けての台詞と考えたい。そうすると、両氏の訳では、その意が伝わるとは言い難い。

双葉氏の方は「そうは問屋が卸すまいて」だから、子分を簡単にはやっつけることができないという意味は何とか伝わるが、村上訳ではエディ・マーズの「おまえの腕がどれくらいのものだ」というマーロウの威しに対する返しが全然効いていない。言葉のやり取りを卓球のリレーにたとえるなら、相手の打ったボールをちゃんと打ち返さないと会話が続かない。村上訳はそれができていない。おそらく、双葉訳を参考にしているのが、その原因だろう。

ガイガーの強請の手口についてエディ・マーズが解説する「一見合法的~待つだけだ」のところを、双葉氏は「奴は合法的に見える手形を手に入れ、逆(さか)ねじを食いそうもないと見とおしをつけると、その証文をかもにつきつける」と、ほとんど作文している。面倒くさいからか、読者がこんがらがると考えたのか知らないが、これでは訳と呼べない。

「あとは手を空けて待つだけだ。もし引いた札がエースで、相手が怯えてると見たら仕事にかかるし、エースが来なかったらあっさりとゲームから下りた」の箇所を村上訳は、「あとは手をこまねいて待つ。もしうまく行って、相手が縮みあがっているという感触を得れば、そこで本腰を入れて仕事にとりかかる。もしうまくいかなければ、あきらめてそのまま捨ててしまう」とほぼ原文通りながら、何故かカード・ゲームの比喩をカットしている。

実はこの<dropped the whole thing>「あっさりとゲームから下りた」が、キイ・ワードだ。ガイガーを<Clever guy>とほめた後で、マーロウは<He dropped it all right. Dropped it and fell on it.>と続ける。村上氏は「たしかにやつはそれを捨てた。ところがそいつにつまづいて転んでしまった」と訳す。賭博場のオーナーであるエディ・マーズの言う<dropped>はトランプのゲームを「下りる」ことだ。村上氏は「捨ててしまう」と訳すが、カード・ゲームの比喩をカットしたら「捨てる」という訳は無理がある。

drop>のようなある意味単純な単語はいろんなふうに訳すことができる。そういう意味ではどれが正解という訳はないのかもしれない。ただ、<Clever guy>を村上氏のように「うまい手だな」と、一つ前のパラグラフの強請りの手口に対する誉め言葉と取るのはどうだろう。この語は改行されたパラグラフの文頭に来ている。その意味では双葉訳の方が原文に忠実だと思う。双葉氏はエディ・マーズの言う<dropped>を「あきらめる」と訳し、あとを「頭がいいな。今度の件もあきらめた口だろうが、ついでに自分の命まであきらめちまったわけだね」と訳している。

「その件とは縁が切れたわけだ」は<you’re washed up on that angle>。双葉氏は「今度の件はすっかり洗いつくしたはずだね」と訳している。「洗う」には本来の意味のほかに警察などの隠語で、事件を調査する意味があるから上手い訳だとは思う。ただ<washed up>には、そのままで「縁が切れた」の意味がある。村上氏は「すぐに行き止まりになる」と訳す。 <wash up>には「(波が漂流物を)浜に打ち上げる」などの意味があるから、それを使ったのかもしれないが、マーロウはエディ・マーズの言葉を受けて<washed up>のあとに、<and paid off>「お役ご免だ」と言うのだから「縁が切れる」がぴったりだ。