HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十二章(2)

《人ごみが二つに分かれ、夜会服を着た二人の男がそれを押し分けたので、彼女のうなじと剥き出しの肩が見えた。鈍いグリーンのヴェルベット地のローカット・ドレスはこういう場にはドレッシー過ぎるように見えた。人込みが再び閉じ、黒い頭しか見えなくなった。二人の男は部屋を横切ってきてバーに寄りかかり、スコッチ・アンド・ソーダを注文した。一人は紅潮して興奮していた。黒い縁取りのあるハンカチで顔を拭った。ズボンの両脇に上から下まで通った繻子の側章はタイヤ痕といってもいいほど幅広かった。
「あんな勝ちっぷりを見るのは初めてだよ」浮足立った声で言った。「二回は見送ったが、赤ばかりに賭け続けての八勝だ。あれがルーレットだ。あれこそルーレットてもんだ」
「むずむずしてきたよ」もう一人が言った。「一度に千ドル賭けているんだ。負けっこないよ」彼らはグラスに鼻を突っ込み、音立てて一気に飲み干すと戻って行った。
「小者が利いた風な口をきくもんだ」バーテンダーはゆっくりとした話しぶりをした。「一度に千ドルがどうした。私は昔ハバナで見たんです。馬面の年寄りが──」
 中央テーブルで大きなざわめきが起こり、それを制するようによく通る外国訛りのある声がした。「しばらくお待ちください、マダム。このテーブルではあなたの賭けた金額をお受けできません。まもなくミスタ・マーズがこちらに参ります」
 私はバカルディをそこに残し、絨毯を踏んで向こう側に行った。小編成の楽団はいくらか大きめにタンゴを演奏し始めていた。誰も踊りはしなかったし、踊るそぶりも見せなかった。私はディナー・ジャケットやイブニング・ドレスの正装や、スポーツ・ジャケットやビジネス・スーツを着た人々がちらほらする中を歩いて左端のテーブルまで行った。そこは静まり返っていた。二人のクルピエはその後ろに立って頭を寄せ、眼は横の方を見ていた。一人は空っぽのレイアウト上で、チップを集めるレイクを所在なく前後に動かしていた。二人ともヴィヴィアン・リーガンを見つめていた。
 彼女は長い睫をひくひくさせ、顔は不自然なほど白かった。彼女は中央テーブルの回転盤の真正面にいた。前には金とチップが乱雑に積み上げられていた。かなり大金のようだった。彼女は冷やかで、不遜で、不機嫌そうに気取りすましてクルピエに言った。
「ここがこんなに安っぽい店だなんて知らなかったわ。早く回しなさいよ。のっぽさん。もう一勝負したいの。総賭けの勝負をね。あなたって取るときはさっさと持っていくのに、出すときは泣き言を言い始めるのね」
 クルピエは冷たく丁重な笑みを浮かべたが、それはこれまでに何千という田舎者と何百万の愚か者を見てきた笑みだ。彼の高雅で漠とした第三者的な態度は完璧だった。彼は重々しく言った。「このテーブルはあなたの賭けをお受けできません、マダム。あなたはそこに一万六千ドル以上お持ちです」
「あなたのお金なのよ」娘は嘲った。「取り戻したくないの?」
 脇にいた一人の男が彼女に話しかけようとした。彼女はさっと振り返ると、何か吐き捨てた。彼は赤い顔をして人ごみの中に引き下がった。ブロンズの手すりに囲まれた区域の突き当りにある鏡板についたドアが開いた。エディ・マーズが顔に物憂げな微笑を浮かべながらドアを通り抜けてやって来た。両手はディナー・ジャケットのポケットに突っ込まれ、両手の親指の爪だけが外に出て輝いていた。そのポーズがお気に入りのようだ。ぶらぶらとクルピエの背後へ歩いていき中央テーブルの角で立ち止まった。気だるげで穏やかに話しかけたが、物言いはクルピエよりくだけていた。
「何か問題でも?ミセス・リーガン」
彼女は突きを入れるように彼の方に振り向いた。頬の曲線は内的な緊張に耐えられないかのようにこわばっていた。彼女は彼に答えなかった。
 エディ・マーズは重々しく言った。「もうこれ以上お賭けにならないのなら、お宅まで誰かに送らせましょう」
 娘の頬に赤みがさした。頬骨がひときわ白く目立った。それから調子が外れたように笑い出した。彼女は苦々しげに言った。
「もう一勝負するわ、エディ。赤に総賭けよ。赤が好きなの。血の色だから」》

「タイヤ痕」は<tire tracks>。双葉氏はこれを「トラックのタイヤ」と訳しているが、さすがにそれはないだろう。夜会服のズボンにはサテン生地のリボン状の布が縫い目の部分に縫い付けられている。その幅が広かったのだろう。当時のタイヤは今ほど幅広くなかったから比喩として使ったのだろうが、トラックのタイヤは有り得ない。

「小者が利いた風な口をきくもんだ」は<So wise the little men are>。双葉氏は「小人は養いがたしでさ」と出来合いのことわざをつかっている。村上氏は「けち臭いことを言ってますね」と意訳している。後にくる科白が分かっているから意味的にはそうなのだろうが、<the little men>をどうにか生かしたいと思って「小者」という訳語をひねり出した。

「馬面の年寄り」は<an old horseface>。村上氏はこれを「ひどく不器量なばあさん」と訳している。そういう意味がどこかにあるのか、いろいろ調べてみたが分からなかった。双葉氏は<horserace>と誤読したのだろう。「むかしハヴァナの競馬で」と訳している。話が途中で遮られているからいいようなものの、続いていたらどうなっていたことか、想像すると面白い。

「そこは静まり返っていた」は<It had gone dead.>。双葉氏は「全然からだった」。村上氏は「そのルーレット台は既に動きを止めていた」と言葉を補っている。人々が中央テーブルに集まっているからだろう。マーロウがいるのは左端のテーブルである。中央テーブルで騒ぎが起きて客がそちらに動いたので、そこは、もう稼働していない。

「彼女は中央テーブルの回転盤の真正面にいた」は<She was at the middle table, exactly opposite the wheel.>。双葉氏も「彼女は中央の台の回転盤の真正面にいた」と訳している。村上氏はここを「彼女は中央のテーブルの、ルーレットを挟んで私のちょうど正面にいた」と訳している。マーロウがいるのは左端のテーブルだ。二つのテーブルがどれだけ近いかは別として、中央テーブルには客がいて、人だかりもあるはずだ。「私のちょうど正面」はおかしい。

「あなたって取るときはさっさと持っていくのに、出すときは泣き言を言い始めるのね」は<You take it away fast enough I've noticed, but when it comes to dishing it out you start to whine.>。これだけある情報量を双葉氏は「引っこむてはないでしょ」の一言で片づけている。村上氏の「取るときはさっさか急いで持って行くくせに、自分が吐き出すとなるとうだうだ泣き言を言い出すんだから」の長台詞とは対照的だ。

<take it away>と<dish it out>を対句表現として使っている。わざわざ皿という単語を持ち出しているのは、料理に喩えているのだろう。「片づける」時には食べ終わるのを待つように<take it away>するのに、料理を「配る」段になると、なかなか<dish it out>(惜しげなく提供する)しない給仕人にクルピエを喩えている。

「彼の高雅で漠とした第三者的な態度は完璧だった」は<His tall dark disinterested manner was flawless.>。問題は、前半の<tall>と<dark>だ。双葉氏は例によって面倒なところはカットし「その無関心な態度はあっぱれだった」と訳している。村上氏は「彼は長身で、髪が黒く、その乱れのない態度には非の打ちどころがなかった」と彼の外見を表しているという読みで訳している。

だが<tall dark disinterested>は全部が<manner>を修飾していると考えることもできる。<tall>には「上品な、優雅な」の用例があるし、<dark>には、はっきりしない曖昧な様子を示すいくつもの意味が含まれている。外見と物腰、二つの意味を兼ねていると見るのが自然だ。しかし、日本語でその二つを共に表す語はそうやすやすとは見つからない。そこで、仕方なく外見の方は捨て、物腰を表す修飾語の方を選んだ。