HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(2)

《「お見事な手並みね、マーロウ。今は私のボディガードなの?」彼女の声にはとげとげしい響きがあった。
「そのようだ。ほら、バッグだ」
彼女は受け取った。私は言った。「車はあるのかな?」
彼女は笑った。「男と一緒に来たの。あなたはここで何をしてたの?」
「エディ・マーズが私に会いたがってね」
「知り合いだとは知らなかった。どうして知ってるの?」
「聞きたいかい。彼は自分の妻と駆け落ちした誰かを、私が探していると思ったのさ」
「そうなの?」
「いや」
「それで、どうしてここへ来たわけ?」
「自分の妻と駆け落ちした誰かを私が探している、と彼が考えた理由を見つけるためだ」
「見つかった?」
「いや」
「ラジオのアナウンサーみたいに情報を漏らすのね」彼女は言った。「私には関係ないことだけど──たとえその男が私の夫だったとしても、あなたは興味などないと思ってた」
「人は私を見ると必ずその話を持ち出すんだ」
 彼女は煩わしそうに歯を鳴らした。銃を持った覆面の男の一件は彼女に何の印象も与えなかったようだ。「いいわ、ガレージまで連れてって」彼女は言った。「エスコート役のところに寄らなきゃいけないの」
 小径に沿って歩き、建物の角を回るとその前に灯りがあった。それからもう一つの角を曲がって、二つの投光照明に照らされた厩舎の明るい中庭に出た。それは今も煉瓦敷きで中央の格子状の溝蓋に向けて今も傾斜がついていた。車が輝き、茶色の作業着を着た男が腰掛から立ち上がってこちらの方にやって来た。
「私のボーイフレンド、まだ酔い潰れてる?」ヴィヴィアンはぞんざいに訊いた。
「残念ながらそのようで、お嬢さん。毛布を掛けて窓を閉めときました。彼なら大丈夫。ちょっと一休みといったところです」
 我々は大きなキャデラックのところまで行き、作業着の男が後部ドアを開けた。広い後部座席の上にだらしなく体を投げだし、格子縞の羅紗の膝掛を顎までかぶり、男は口を開けていびきをかいていた。大量の酒を飲みそうな、大きな金髪の男だった。
「ミスタ・ラリー・コブを紹介するわ」ヴィヴィアンは言った。「ミスタ・コブ、こちらはミスタ・マーロウ」
 私はうなった。
「ミスタ・コブは私のエスコート役だった」彼女は言った。「とてもいいエスコート役、ミスタ・コブは。気が利いていて。素面でいるところを見せたいわ。私も素面の彼を見たい。誰だって素面の彼を見たいと思うわ。記録に残すという意味で。歴史の一部になれる。瞬く間に時の流れに埋もれはするが、忘却されることはない──ラリー・コブが素面でいる時」
「はいはい」私は言った。
「彼と結婚しようとまで考えたわ」彼女は高い緊張した声で続けた。強盗に遭った衝撃が今になって出てきたかのように。「楽しいことなんて何ひとつ心の中になかった時のこと。私たちにはそんな時があるの。何しろ、大金でしょ。ヨット、ロングアイランドのどこそこ、ニューポートのどこそこ、バーミュダのどこそこ、たぶん世界中のそこかしこに散らばっているいろんな所でね──上物のスコッチの瓶は別として。ミスタ・コブとスコッチの瓶は、そんなに離れていないの」
「はいはい」私は言った。「彼を家まで連れてゆく運転手はいるのかい?」
「『はいはい』はやめて。不作法よ」彼女は眉を吊り上げて私を見た。作業着の男が下唇を強く噛んだ。「あら、まちがいなく一個小隊の運転手がいるわ。多分、彼らは毎朝ガレージ前に分隊ごとに整列する、磨き立てられたボタン、制服を輝かせ、手にはしみひとつない純白の手袋──ウェストポイント士官学校のような気品を身に纏って」
「まあいい、それでその運転手はどこにいるんだ?」
「今夜は自分で運転してきたんです」作業着の男は弁解がましく言った。「ご自宅に電話して誰かに彼を迎えに来させることはできますが」
 ヴィヴィアンは振り返り、ダイアモンドのティアラでもプレゼントされたみたいに彼に微笑みかけた。「それは素敵」彼女は言った。「そうしてくれる?私、本当にミスタ・コブにこんな形で死んでほしくない──口を開けたままなんて。喉の渇きで死んだと思われるわ」
 作業着の男が言った。「もし彼の臭いを嗅がなければですがね、お嬢さん」
 彼女はバッグを開け、一握りの紙幣をつかんで彼に押しつけた。「彼の面倒を見てくれるでしょう、きっとよ」
「これはこれは」男が目を丸くして言った。「承知いたしました、お嬢さん」
「リーガンよ、名前は」彼女は甘く囁いた。「ミセス・リーガン。きっとまた会えるわね。ここはまだそんなに長くないわね、ちがう?」
「え、まあ」彼の両手は彼が手にしている大金のことで半狂乱になっていた。
「ここにいるとそれを愛するようになるわ」彼女は言った。彼女は私の腕を取った。「あなたの車で行きましょう、マーロウ」
「外の通りに停めてあるんだが」
「それで構わないわ、マーロウ。私、霧の中の散歩って大好き。興味深い人にも会えるし」
「言ってくれるね」私は言った。》

「ラジオのアナウンサーみたいに情報を漏らすのね」は<You leak information like a radio announcer>。双葉氏も村上氏も「あなた、ラジオのアナウンサーみたいに口が軽いのね」、「まったく、ラジオのアナウンサー顔負けの口の軽さね」と「口の軽さ」を付け加えている。おそらく、新訳は旧訳をそのまま手直ししただけなのだろうが、ラジオのアナウンサーが口の軽い人間の代表みたいに評されるのはおかしい。ヴィヴィアンは、マーロウが情報を小出しにするのを評しているのではないのか。

「それは今も煉瓦敷きで中央の格子状の溝蓋に向けて今も傾斜がついていた」は<It was still paved with brick and still sloped to a grating in the middle.>。双葉氏は例によって、一文全部をカットしている。そんなに難しい文ではないので、読み落としたのかもしれない。村上氏は「今でも煉瓦敷きのままで、中央の格子つきの穴に向けて緩やかな傾斜がついている」だ。「格子つきの穴」は<grating>。「グレーチング」は一般に流布している、側溝の上に載せる穴の開いた金属製の蓋である。

「どこそこ」は<a place>。「(特定の目的に使用される)場所、建物」の意味だが、双葉氏はすべてを「別荘」と訳している。わざわざ<a place>を使っているところを見れば、「別荘」に限らないのではないだろうか。行きつけの店だったり、賭場だったり、とにかく憂さ晴らしのできる場所だろう。村上氏も「どこそこ」と訳している。

「上物のスコッチの瓶は別として。ミスタ・コブとスコッチの瓶は、そんなに離れていないの」の方が問題だ。原文は<just a good Scotch bottle apart. And to Mr. Cobb a bottle of Scotch is not very far.>。双葉氏は「いいウィスキーが世界じゅうにちらばっているみたいにね。もっとも、コッブさんとウィスキーは切ってもきれない仲だけど」と訳している。<apart>は「離れて」の意味だから、これはこれで理解できる。

村上氏はこう訳す。「スコッチのボトルを一本空にする間に、次なる贅沢な場所にさっと移動できる。ミスタ・コブについていえば、スコッチのボトルはそこまで長くは持たないかもしれないけれどね」。そっけない原文に比べ、かなりの意味内容が付加されている。原文には、ほんとうにこんな意味があるのだろうか。

ここは、ヴィヴィアンが気鬱状態になったとき、気分転換に使う場所を数え上げているところだ。何も面白いものがないから、エスコート役を務める酒浸りのミスタ・コブと結婚でもしてみようか、などと思いつくのだ。そういう憂さ晴らしのための場は、世界中にちらばっている。原文は<all over the world probably>と──で直接結ばれている。

それらは世界中に点在しているが、スコッチの瓶だけは別で、ミスタ・コブとそれは<not very far>「あまり遠くはない」つまり、いつも一緒だと言いたいのだろう。村上氏のような説明を加える必要があるとは思えない。むしろ、解釈の仕方は異なるが、双葉訳の方が簡明でより原文に近いと考えられる。村上訳の不人気なところは、こういうこじつけめいた解釈が必要以上に混入されるところにあるのではないだろうか。

「あら、まちがいなく一個小隊の運転手がいるわ。多分、彼らは毎朝ガレージ前に分隊ごとに整列する、磨き立てられたボタン、制服を輝かせ、手にはしみひとつない純白の手袋──ウェストポイント士官学校のような気品を身に纏って」というヴィヴィアンの台詞を、双葉氏は「運転手なら一中隊くらいいますぜ。朝になると車庫の前に整列するんでさ。ボタンをきらきら、靴をぴかぴか、真っ白な手袋で、士官学校の生徒みたいに気取ってますぜ」と男の台詞にしている。

ヴィヴィアンのマーロウへの文句のあとに<The man in the smock>「上っ張りの男」が出てきたのに引きずられたのだろう。英語には、日本語の文で男と女を区別する「ぜ」だとか「わ」にあたる語尾が存在しない。それはそれですっきりしていて好ましいのだが、こういう時には往生する。ただし、使用する語彙に社会階層の差は現れるので、この一連の文章が「スモックを着た男」(村上訳)が日常使う言葉で構成されているとは到底思えない。

「今夜は自分で運転してきたんです」は<He drove hisself tonight.>。双葉氏は「出かけましたんで」と訳している。運転手が自分の車を運転している、と読んだわけだ。しかし、この<He>は、ミスタ・コブのことである。双葉氏のこの頓珍漢な訳は、前の台詞を作業着の男の台詞と取り違えたことに端を発している。「一中隊くらいいる」はずの運転手の姿が見えないことの言い訳をしていると思い込んでしまったのだろう。

「彼の両手は彼が手にしている大金のことで半狂乱になっていた」は<His hands were doing frantic things with the fistful of money he was holding.>。<fistful>は「ひとつかみ、一握り」だが、<fistful of money>となると「大金」(米俗)の意味になる。村上氏は「彼の手は札をひとつかみ手にしているせいで、ばたばたとわけのわからない動きをした」と嚙み砕いて訳しているが「ばたばたとわけのわからない動きをした」という説明は親切なようでいて、かえって事態をわけのわからないものにしている。村上氏の悪い癖だ。

双葉氏は「彼は手にあまる札をそろえるのに夢中だった」と訳している。<frantic>は「気が狂ったように」の意味だが、「大慌て」の意味もあるから「夢中」という訳語は悪くない。主語は<he>ではなく<His hands>なので、「彼の両手は」を主語にすればもっといい。ただ、手の動きを「札をそろえる」ことに決めつけているところが気にかかる。たしかによく分かるようにはなるが、果たして本当にそうかどうかは分からない。分からない部分は分からないままにしておくのが翻訳をする際の正しい姿勢ではないだろうか。

「ここにいるとそれを愛するようになるわ」は<You’ll get to love it here>。村上氏は「ここがきっと好きになるわよ」と訳しているが、村上氏は<it>が目に入らなかったのだろう。双葉氏は「ここにいるとますますお金が好きになるわよ」と、単刀直入に<it>を「金」と名指して訳している。この<you>は「あなた」に限らず、自戒を込めて「人は(誰も)」の意味で使っているのではないか。そうとれるように訳してみた。

「言ってくれるね」と訳したのは<Oh, nuts>。<nuts>は強い拒絶や不満、嫌悪の感情を表す間投詞。「ちぇっ、ばかな、くそっ」等々の汚い言葉が当てはまるが、双葉氏は相手が若い女性ということもあって「むちゃ言いなさんな」と、ソフトに訳している。村上氏は「言うね」だ。無論、その前のヴィヴィアンの<You meet such interesting people>という言葉を聞いたマーロウの実感である。この<you>もマーロウを指すのではなく「人」一般を表している。