《我々はラス・オリンダスを離れ、潮騒が聞こえる砂上の掘っ立て小屋みたいな家や、それより大きな家々が背後にある斜面を背に建ち並ぶ、湿っぽい海沿いの小さな町を走り抜けた。ところどころに黄色く光る窓が見えたが、大半の家は灯が消えていた。海からやってきた海藻の匂いが霧に紛れた。タイヤが大通りの湿ったコンクリートで歌うように鳴った。世界は湿っぽく虚ろだった。
デル・レイに近づいた頃、ドラッグ・ストアを出て初めて彼女が口をきいた。何かが深いところで打ち震えているようなくぐもった声だった。
「デル・レイ・ビーチクラブに行って。海が見たいの。次の通りを左よ」
交差点には黄色いライトが点滅していた。私はそこを折れ、片側が切り立った崖になった坂を下った。右手に郊外電車の線路が走っていて、線路の遠方に低くまばらな光が見えた。はるか遠くに桟橋の灯りがきらめき、街の上空はもやっていた。そちらの霧はほとんど晴れていた。線路が切り立った崖の下に向けて曲がるところで道路は線路を横切り、やがて舗装された海岸道路に出た。そこは開けて遮るもののないビーチとの境界になっていた。車が歩道沿いに駐まっていた。黒々と、海に立ち向かうように。二、三百ヤードほど向こうにビーチクラブの灯りがあった。
私は縁石に乗り上げて車を停め、ヘッドライトを消し、両手をハンドルの上に置いていた。薄れてゆく霧の下で、まるで意識の縁で形を取りつつある思考のように、波がほとんど音もなく渦を巻いて泡立ち騒いでいた。
「もっと近くに来て」彼女はかすれたような声で言った。
私は運転席からシートの真ん中に腰をずらせた。彼女は窓の外を覗こうとするみたいに私に背を向けた。そして後ろ向きに音もなく私の腕に身を委ねた。すんでのところで頭をハンドルにぶつけるところだった。目を閉じ、顔はぼんやりしていた。それから私は彼女が目を開け、瞬くのを見た。暗闇の中でもその輝きが見えた。
「私を抱きしめて、獣よ、あなたは」彼女は言った。
最初は緩く体に腕を回した。彼女の髪が顔に当たってざらついた。私は腕に力を入れ、彼女を抱き上げた。その顔をゆっくり自分の顔に近づけた。
彼女の瞼が素早く瞬いた。蛾が羽ばたくように。
私はしっかりと素早くキスした。それから長くゆっくり纏わりつくようなキスをした。彼女の唇は私の唇の下で開いた。彼女の体が私の腕の中で震えはじめた。
「人殺し」彼女はそっと言った。吐いた息が私の口に入ってきた。
私は彼女の震えが私の体を震わすようになるまで彼女を抱きしめた。私はキスし続けた。長い時間がたって、彼女は口がきけるところまで頭を引いた。「どこに住んでるの?」
「ホバート・アームズ。フランクリン通り、ケンモアの近くだ」
「行ったことない」
「行きたいか?」
「ええ」彼女は息を吐いた。
「エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
彼女の体が腕の中で硬くなり、荒々しい息遣いになった。彼女は頭を後ろに引き、白目が見えるほど目を見開いて私を見つめた。
「そういうことね」彼女はそっとさえない声で言った。
「そういうことだ。キスは素敵だが、父上は君と寝させるために私を雇っていない」
「この人でなし」彼女は身じろぎもせず、穏やかに言った。
私は彼女に笑いかけた。「私を氷柱だなんて思うなよ」私は言った。「私は目も開いているし感覚を欠いてもいない。皆と同じように温かい血が通っている。君をものにするのは簡単だ──むしろ簡単すぎる。エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
「もう一度言ったら、叫び声をあげるわよ」
「やればいい。叫んでみろよ」
彼女は私から身をふりほどいて上体を起こし、車の向こう側の隅に真っ直ぐ坐った。
「そんなつまらないことのために人は撃たれてきたのよ、マーロウ」
「何の意味もないことのために人は撃たれてきた。初めて会ったとき探偵だと言ったはずだ。その可愛い頭に叩き込んでおくといい。私は仕事でやっているんだ、お嬢さん。遊び半分じゃない」
彼女はバッグの中を探ってハンカチを取り出し、その端を噛み、私から顔を背けた。ハンカチが裂ける音が聞こえてきた。彼女は歯でそれを引き裂いた。ゆっくり、何度も何度も。
「なぜそう考えるの?彼が私の何かをつかんでいると」彼女は囁いた。彼女の声はハンカチのせいでくぐもって聞こえた。
「彼は君に大金を勝たせ、それを取り戻すために君に拳銃使いを差し向ける。君は特に驚いた様子もない。君を助けた私に感謝さえしなかった。すべてがよくできた芝居のようだ。自惚れを承知で言うなら、少なくともその一部は私に対する謝礼の慈善興行だったのだろう」
「彼が勝ち負けを思い通りにできると考えているのね」
「当然だ。同額配当の賭け(イーヴン・マネー・ベット)なら五回中四回はそうだ」
「あなたのそういうところが我慢ならないって、口で言わなきゃ分からないの?探偵さん」
「君は私に何の借りもない。支払いはすんでいる」
彼女は引きちぎられたハンカチを窓から車の外に放った。「とても素敵な女の扱い方ね」
「君とのキスは気に入った」
「あなたはひどく冷静だった。うまく乗せられたわ。あなたにお祝いを言うべき?それとも父の方かしら?」
「君とのキスは気に入った」
彼女の声が冷やかで気取った口調に変った。「手間を取らせて悪いけど、ここから連れ出してくれない。どうしても家に帰りたい気分なの」
「私の妹になる気はないんだろう?」
「剃刀を持ってたら喉を切り裂いてやるところよ──何が出てくるかしらね」
「芋虫の血さ」私は言った。
私はエンジンをかけて車を回すと、来た道を引き返し郊外電車の線路を横切ってハイウェイにのり、やがて街の中をウェスト・ハリウッドに向かった。帰り道、彼女は私に口をきかなかった。ほとんど動きもしなかった。私は門を抜け、擁壁の下を走るドライブウェイを上り、広い家の車寄せに車を着けた。彼女はぐいっとドアを開けて、車が停まりきる前に外に出た。その時でさえ何も言わなかった。呼び鈴を押した後、ドアに向かって立っている彼女の背中を私は見ていた。ドアが開き、ノリスが顔を出した。彼女は彼を押しのけてあっという間に姿を消した。ドアがバタンと閉まり、座ったまま私はそれを見ていた。
私はドライブウェイを引き返し、家に帰った。》
「世界は湿っぽく虚ろだった」は<The world was a wet emptiness.>。双葉氏は「世界は湿った空虚さにつつまれていた」と訳すが、世界が「湿った空虚さ」に包含されるのではなく<The world>=<a wet emptiness>ではないのか。村上氏は「世界は濡れそぼり、空っぽだった」としているが、「濡れそぼり」は「濡れそぼち」の誤りだろう。参照しているのは初版。今は訂正済みと思いたい。こんなサイトでも誤りを指摘してくれる方がいて、その都度訂正させてもらっている。まちがいがそのまま残るのは耐えがたいものだ。
「車が歩道沿いに駐まっていた。黒々と、海に立ち向かうように」は<Cars were parked along the sidewalk, facing out to sea, dark.>。双葉氏は「頭を海に向けた数台の車が歩道に沿ってとまっていた。暗かった」と訳している。村上氏は「遊歩道に沿って車が並んで駐車していた。暗い中で、鼻先を海に向けて」だ。この<dark>が気になる。双葉氏の訳では何が暗かったのかよく分からないが、辺りの様子のように読める。村上氏もそう取っている。しかし、原文は一文で、カンマによって三つに区切られている。そのすべての主語は<cars>ではないのか。直訳すれば「車は歩道沿いに停まっていた、海に面して、暗く」となる。暗いのは、車列だろう。
「彼女はかすれたような声で言った」は<she said almost thickly>。双葉氏は「彼女が低い声で言った」。村上氏は「彼女は厚みのある声で言った」だ。<thickly>には確かに「厚く」の意味があるが、声を表す場合は「しわがれ声、だみ声」のような意味になる。「厚みのある声」というのはどう考えても直訳だ。前に<almost>がついていることから考えて、もう少しでだみ声といえそうな声なのだろう。いわゆるハスキー・ヴォイスのことだ。
「ホバート・アームズ。フランクリン通り、ケンモアの近くだ」は<Hobart Arms. Franklin near Kenmore.>。今までフランクリン街と訳してきたが、地図を調べるとフランクリン・アヴェニューはロスアンジェルスを東西に走る通りの名で、ケンモアは、南北に走るやはりアヴェニューだ。つまり、東西に長く伸びるフランクリン通りとケンモア通りが交差するあたりにあるというわけだ。双葉氏は、この二十三章だけ「ホバート・アダムズ館」としている。誤植だろう。
「君をものにするのは簡単だ──むしろ簡単すぎる」は<You’re easy to take── too damned easy>。双葉氏はここを「君は抱くのにいい。すごいほどいい」と訳しているが、これでは、マーロウが抱きたいのを我慢しているようだ。村上氏は「そして君は簡単に手に入る。いや、あまりにも簡単に手に入りすぎる」だ。ヴィヴィアンを相手にしない理由として、自分は普通の男性で、温かい血が通っているが、据え膳は食わない主義だ、と言って聞かしているわけだ。
「その端を噛み」は<bit on it>。双葉氏は「その端を結んだ」と訳している。<bit>は<bite>の過去形。訳者の勘違いか、誤植か、どちらにせよ誤りである。村上氏は「それを噛んだ」とほぼ直訳している。
「慈善興行」と訳したのは<benefit>。<benefit performance>を略したもので、募金目的で催される興行のこと。その前のエディの仕組んだ一幕を受けて言っているのだろう。双葉氏は「利益を得る」の意味と解して「いくらか僕の役に立ったぐらいなものだ」と訳しているが<for my benefit>と書かれているので、金を受け取らないマーロウのために仕組まれた「慈善興行」と取るのが正しい。村上氏は「私への謝礼代わりの余興」と訳している。
「同額配当の賭け」は<even money bets>。双葉氏は例によってカットしている。村上氏は「丁か半かの勝負について言えば」と、まるで日本の鉄火場のような時代がかった訳にしているが、「イーヴン・マネー・ベット」はカジノ等で普通に使われる「賭金と配当金が 1対1 の倍率になっている賭け方のこと」。ルーレットで言えば「赤か黒か」、「偶数か奇数か」 などのかけ方がこれに該当する。<even>には偶数の意味があるので、村上氏は丁半と訳したのだろうが、ヴィヴィアンの掛け方は「赤」の一点張りだった。
「あなたのそういうところが我慢ならないって、口で言わなきゃ分からないの」と訳したところは<Do I have to tell you I loathe your guts>。<guts>は「勇気、根性」などの意味の日本語にもなっているが、原義の「臓物(腸)」から「身体の奥底にあるその人の本質」のような意味を持つ。<to hate one's guts>は「その人の本質を憎む(内部まで含めたその人のすべてが嫌い)」という意味。<loathe>は<hate>より程度が上の「ひどく嫌う」という意味の単語。
双葉氏は「あなたの高慢ちきは鼻もちならないって、私に言わせたいの?」と訳している。<guts>がある、というのはふつう誉め言葉だから、非難する場合はその過剰をいましめる言葉になる。勇気も度胸も度が過ぎれば「高慢ちき」と感じられるわけだ。村上氏は「あなたは胸くそ悪いやつだって、わざわざ声に出して言わなくちゃならないのかしら」だ。こちらはマーロウが持つ<guts>=「本質」に対する相手の感情<loathe>を「胸くそ悪い」という言葉で表している。
「あなたはひどく冷静だった。うまく乗せられたわ」は<You kept your head beautifully. That’s so flattering.>。双葉氏は「頭がいいわ、とても口がうまいのね」。村上氏は「あなたは頭を見事に冷静に保っていた。嬉しくて涙が出るわ」だ。<keep one's head>は「心の平静を失わない」という意味で「落ち着いている」様子を表すイディオム。特に頭にこだわる必要はないと思うが両氏とも「頭」を用いている。<flattering>は「(お世辞、へつらいで)うれしがらせる、喜ばせる」の意。
「私の妹になる気はないんだろう?」は<You won’t be a sister to me?>。双葉氏は「僕の妹になったつもりじゃないだろうな?」。村上氏は「私の妹になってはくれないだろうね?」だ。マーロウを運転手代わりに顎で使おうとするじゃじゃ馬に対する嫌味なので、そういうニュアンスが伝わればいい。喉を掻っ切ってやりたいと思うほど怒らせるには、どの訳がいいだろう?
「擁壁の下を走るドライブウェイを上り」とめずらしく説明を加えたところの原文は<up the sunken driveway>。双葉氏はあっさりと「車道から」。村上氏は「一段掘り下げられたドライブウェイを通って」だ。高台に建つ屋敷に続く道は左右を土留め用の擁壁で固めている。<sunken>は「地面より低いところ(にある)」の意味。冒頭でくわしく説明されているのでカットしてもいいようなところだ。