HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十五章(2)

《「俺のことは知ってるだろう」彼は言った。「ハリー・ジョーンズだ」
 私は知らないと言った。私は錫製の平たい煙草入れを押しやった。小さく端正な指が鱒が蠅を捕るように動いて一本抜いた。卓上ライターで火をつけると手を振った。
「このあたりじゃ」彼は言った。「ちょっとした顔なんだ。ヒューニーメ岬でケチな酒の密輸をしてたこともある。荒っぽい仕事だったよ、ブラザー。偵察用の車に乗ってたんだ。膝には銃、尻には札束。石炭(コール)シュートを詰まらせそうなやつだ。ビヴァリー・ヒルズに着くまでに警察に四回も握らせるなんてのは毎度のこと。荒っぽい仕事さ」
「ぞっとするね」私は言った。
 彼は背を後ろに倒し、固く結んだ小さな口の固く結んだ小さな隅から天井に煙を吹いた。
「もしかしたら俺を信用していないのか」彼は言った。
「もしかしたらな」私は言った。「もしかしたらするさ。もしかしたらどっちでも構わないかもな。いったい何を売り込むつもりだったんだ?」
「何も」彼はにべもなく言った。
「君は二日というもの私をつけ回している」私は言った。「女の子をひっかけようとして、最後の一歩を踏み出す勇気のないやつみたいに。もしかしたら保険の勧誘か。もしかしたら、ジョー・ブロディとかいう男の知り合いか。もしかしたら、が多すぎる。この仕事にはつきものだがな」
 彼の目が飛び出し、下唇はほとんど膝まで垂れ下がった。
「くそっ、どうしてそれを知ってるんだ?」彼はいきなり言った。
「超能力者なのさ。厄介ごとならさっさとシェイクして注いでくれ。暇じゃないんだ」
 急に細めた瞼の間で目の輝きがほとんど消えた。沈黙が落ちた。窓の真下にあるマンション・ハウスのロビーのタールを塗った平屋根を雨が叩く音がした。目が少し開いて、また輝きはじめ、声には思惑が溢れていた。
「あんたに渡りをつけたかったんだ」彼は言った。「売り物がある──格安さ、百ドル札二枚。で、俺とジョーをどうやって結びつけた?」
 私は手紙を開いて読んだ。指紋採取の通信講座六カ月コースの勧誘で業界人向け特別割引つきだ。屑籠に放り込んで、また小柄な男を見た。「気にすることはない。推測しただけだ。君は警官じゃない。エディー・マーズの手下でもない。昨夜彼に訊いたんだ。だとすれば、私に興味を持つのはジョー・ブロディの仲間しか思いつかない」
「くそっ」彼はそう言って下唇を舐めた。エディー・マーズの名前を出した時、顔が紙のように白くなった。口がだらんと開き、煙草が手品か何かで生えてきたかのように端っこにぶら下がった。「からかっているんだな」やっと彼が言った。手術室で見かけるような微笑を浮かべながら。「そうさ。からかっているんだ」私は別の手紙を開けた。こっちはワシントンから、採れたての裏情報が詰まった日刊会報を送りたがっていた。
「アグネスは出所したんだろう」私は訊いた。
「そうだ。彼女の遣いだ。興味があるのかい」
「まあね。ブロンドだし」
「ばか言え。こないだの晩あそこで愉快な真似をしてくれたよな──ジョーが花火を食らった夜さ。何かブロディはスターンウッド家のことでネタをつかんでたはずだ。そうでもなきゃ写真を送るなんてまねはしなかったさ」
「ふうん。彼がつかんでた? それは何だ」
「それが二百ドルのネタさ」
 私は何通かのファン・レターを屑籠に捨て、新しい煙草に火をつけた。
「街を出ようと思うんだ」彼は言った。「アグネスはいい娘だ。あんたはそこんとこが分かっちゃいない。近頃じゃ女一人で生きていくのも簡単じゃないんだ」
「君には大きすぎる」私は言った。「寝返りされたら窒息するぞ」
「それは言い過ぎってものだよ、ブラザー」彼の言葉に込められたほとんど威厳に近い何かが私に彼を見つめさせた。》

「尻には札束。石炭(コール)シュートを詰まらせそうなやつだ」は<a wad on your hip that would choke a coal chute>。双葉氏は「尻には札束、ちょいと息がつまるぜ」と訳している。<coal chute>とは、石炭を貯蔵する地下室などに外部から石炭を滑り落とすための傾斜した樋のことだ。画像検索をかけてみると石炭を積んだトラックから、やはり樋状のものを直接<coal chute>に通じる開口部につなげている。こうすれば、上からショベルで掻き落とせば石炭は貯蔵庫まで滑り落ちてゆく。

頑丈な扉はついているが、不審者の侵入を防ぐためか開口部はそれほど大きくない。ハリーのように、小柄な男なら石炭シュートを滑り降りることは可能かもしれない。しかし、双葉氏の訳ではどうして息がつまるのかが分からない。村上氏は「ヒップ・ポケットには札束だ。石炭落としの樋(シュート)がつっかえちまいそうな厚い札束さ」と、樋にルビを振っている。

「ビヴァリー・ヒルズに着くまでに警察に四回も握らせるなんてのは毎度のこと」は<Plenty of times we paid off four sets of law before we hit Beverly Hills.>。双葉氏は「ビヴァリー・ヒルズに着くまで四度も警察の目をくぐらなけりゃならない」としている。<pay off>は支払いの意味だが、「(口封じのために)買収する」の意味もある。そのための札束だ。村上氏は「ベヴァリー・ヒルズに着くまでに合計四度、官憲に袖の下をつかませるなんてこともしょっちゅうだった」としている。英語の発音としては「ベヴァリ・ヒルズ」が正しいようだ。

「もしかしたら俺を信用しないのか」は<Maybe you don’t believe me,>。これ以降<Maybe>が頻出する。一度<Maybe>を「もしかしたら」と訳したら、次からはずっとそう訳さないといけない。同じ言葉を使い回すのはチャンドラーご執心のレトリックだからだ。双葉氏はあまり気にしていないのか、「おれの話を信用しないんだな?」と訳していて<Maybe>をあまり気に留めていないことが分かる。村上氏は「あんた、ひょっとしておれの話を信じてないだろう」と訳す。そしてこれ以降ずっと<Maybe>を「ひょっとして」で通している。そうしないと、大事な決め台詞が生きてこないからだ。

「いったい何を売り込むつもりだったんだ?」は<Just what is the build-up supposed to do to me?>。双葉氏は「が、そんなはったりが僕にきくと思うのか?」と訳している。どうしてこんな訳になったのだろう。村上氏は「そんなに肩をいからせて、いったい何を売り込むつもりなんだ?」だが、「そんなに肩をいからせて」がどこから来たのか分からない。疑問詞の前に<just>が来れば「正確に言って」の意味だから「いったい」。<the build-up>は「広告、宣伝」の意味で「売り込み」にあたる。<be supposed to >は「~することになっている」の意味だから、「いったい何を売り込むつもりなんだ?」でいいのでは。

「もしかしたら、が多すぎる。この仕事にはつきものだがな」これが先に述べた決め台詞。原文は<That's a lot of maybes, but I have a lot on hand in my business.>。双葉氏は「わからんことだらけだが、僕は仕事で手がふさがっているんだ」と訳している。この場合の<maybes>は、その前に何度も出てきた<maybe>という言葉として理解する必要があるのに、双葉氏は「わからんこと」と受け留めてしまった。

それで< I have a lot>(いっぱい持っている)物を仕事と取り違えてしまったのだ。この仕事をしてれば、「もしかしたら」には嫌というほど出会っている。そういうふうに考えることができなくては探偵商売はつとまらないだろう。村上氏はさすがに「ひょっとして(傍点六字)が多すぎる。まあ商売柄そういうのには慣れているがね」と、「ひょっとして」という言葉に注意喚起をしている。

「厄介ごとならさっさとシェイクして注いでくれ」は<Shake your business up and pour it.>。双葉氏は「商談(はなし)があるなら早く振って注げよ」。村上氏は「いいからさっさと用件を言ってくれ」。<business>には口語で「やっかいなこと」の意味がある。マーロウはオフィスに上がる前に小柄な男に「もし心配事が我慢できなくなったら、上がってきて吐き出すといい」と声をかけている。売り込むものがないのなら、心配事があるんだろう。その心配事をカクテルに喩えている。双葉訳はそれを尊重しているが、村上氏は意訳ですませている。

「あんたはそこんとこが分かっちゃいない」は<You can't hold that stuff on her.>。双葉氏は「おまえさん、彼女(あれ)に一丁文句(いちゃもん)つけるなあ罪だぜ」。村上氏は「何事にも値段ってものがある」だ。<stuff>は多様な意味を持つ単語で、両氏の訳が全然異なるのは別義に解釈してるからだろう。その前の<Agnes is a nice girl>を受けての言葉だ。ハリーは、自分はアグネスの本当の良さを知っているが、マーロウはそれ<stuff on her>(彼女の物)をつかめていない、と言いたいのではないだろうか。