HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(2)

《広いメイン・ストリートからずっと後ろに木造家屋が何軒か、互いに距離を置いて建っていた。それから急に商店が軒を連ね、曇ったガラス窓の向こうにドラッグ・ストアの明かりが点り、映画館の前には車が蠅のように群がり、街角の明かりが消えた銀行は歩道に時計を突き出し、一群の人々が雨の中に立って窓の中をのぞき込んでいた。まるで何かショーでもやっているみたいに。私は先に進んだ。また無人の野原が迫ってきた。
 運命がすべてを裏で操っていた。リアリトを過ぎて一マイルも行ったあたりで、ハイウェイは大きく曲がり、雨に踊らされて私は路肩に近づきすぎた。右の前輪が怒り声をあげて軋んだ。車を止める前に右の後輪も同じ破目になった。私はブレーキを踏んで車を止めたが、車体の半分は路上、半分は路肩にあった。車を降りて懐中電灯で辺りを照らした。パンクしたのは二本、スペアは一本。亜鉛メッキされた鋲の押しつぶされた基部が前輪からこちらを見ていた。舗装路の縁に同じ鋲が散らかっていた。
 舗装路からは掃き出されたが、縁に残っていたのだ。
 私は懐中電灯を消し、そこに立って雨を呼吸し、脇道の黄色い明かりを見上げていた。天窓からのもののようだった。天窓は修理工場のものかもしれず、工場はアート・ハックという名の男がやっているのかもしれず、その隣には木造家屋が建っているかもしれなかった。私は襟首に顎を押し込んでそちらに歩きはじめた。それから引き返し、ハンドルの軸から車検証入れを解いてポケットに押し込んだ。それからハンドルの下に低く屈み込んだ。運転席に座ったとき右足が直に触れる位置の下にはね蓋のついた秘密の物入れがある。二挺の銃がそこに入っている。一挺はエディ・マーズの子分のラニーのもので、もう一挺は私のだ。私はラニーの方を取り出した。私のより経験を積んできているに違いない。そいつの鼻先を下に内ポケットに押し込んで脇道を歩きはじめた。
 修理工場はハイウェイから百ヤードほどだった。ハイウェイに窓のない側面を向けていた。私は素早く懐中電灯をあてた。「アート・ハック──自動車修理と塗装」。私はひとりほくそ笑んだ。が、ハリー・ジョーンズの顔が目の前に浮かび、笑うのをやめた。修理工場の扉は閉じていたが、下に明かりが漏れ、二枚扉の隙間にも明かりが細く透けていた。私は前を通り過ぎた。木造家屋があった。正面の二つの窓に明かりがともり、ブラインドが下りていた。道路から身を引くようにまばらな茂みに隠れていた。一台の車が砂利敷きの私道に停まっていたが、正面は暗くて判別できないが茶色のクーペかもしれず、カニーノ氏所有の車かもしれない。狭い木製ポーチの前で静かに身を潜ませていた。
 たまには女に運転させて辺りをひとっ走りするのだろう。女の隣に座り、たぶん銃を片手に。ラスティ・リーガンと結婚すべきだった女、エディ・マーズが押さえかねた女、ラスティ・リーガンと逃げなかった女と。ご親切なカニーノ氏。
 私はとぼとぼと歩いて修理工場まで戻ると木の扉を懐中電灯の柄で叩いた。雷のように重い沈黙の瞬間が垂れ込めた。工場内の灯りが消えた。私はほくそ笑み、唇の雨を舐めながら立っていた。懐中電灯を点け、二枚扉の真ん中を照らした。私はその白い円ににやりと笑いかけた。望むところにいたのだ。
 扉越しに声が聞こえた。無愛想な声だ。「何の用だ?」
「開けてくれ。ハイウェイで二本パンクして、スペアは一本だ。助けがいる」
「すまないがミスタ、もう閉店だ。リアリトは一マイル西だ。そちらをあたった方がいい」
気に入らない返事だ。私は扉を強く蹴った。蹴りつづけた。別の声が聞こえた。喉を鳴らす唸り声だ。壁の向こうで小さな発電機が動いているような。その声は私の気に入った。声が言った。「生意気なやつじゃねえか、開けてやれよ、アート」
 閂桟が悲鳴を上げて片方の扉が内に開いた。懐中電灯の明かりが少しの間、げっそり痩せた顔を照らした。その時何か光る物が振り下ろされ私の手から懐中電灯を叩き落した。銃がこちらを向いていた。私は身を屈め、濡れた地面を照らしている懐中電灯を拾い上げた。
 ぶっきらぼうな声が言った。「明かりを消せよ、それでけがをするやつもいるんだ」
 私は懐中電灯を消し、体を起こした。修理工場の中で明かりがつき、つなぎを着た背の高い男の輪郭が浮かび上がった。男は銃を私に向けたまま開いた扉から後退りした。
「入って扉を閉めてくれ、あんた。何ができるか考えよう」
 私は中に入って後ろ手に扉を閉めた。私は痩せた男を見たが、作業台の陰で口をつぐんでいるもう一人の方は見なかった。修理工場の空気はラッカーの刺激臭のせいで甘く不穏だった。
「あんたにゃ、分別てえものがないのか?」痩せた男がたしなめるように言った。「今日の午後リアリトで銀行強盗があったばかりなんだぜ」
「すまなかった」私は言った。雨の中人々が銀行をながめていたのを思い出した。「私がやったんじゃない。通りがかりの者だ」
「とにかく、そういうことがあったんだ」不機嫌そうに言った。「二人の悪ガキの仕業で、この後ろの丘に追い詰められたって話だ」
「身を隠すには頃合いの夜だ」私は言った。「そいつらが外に鋲を撒いたらしい。それを拾ってしまった。最初はあんたが客を引き込もうとしたのかと考えていた」
「あんた今まで一度も口を殴られたことはないのか、どうなんだ?」痩せた男が素っ気なく言った。
「ないね、あんたのウェイトのやつには」
 唸り声が陰から口を挟んだ。「すごむのはやめときな、アート。こちらはお困りのご様子だ。修理がお前の仕事じゃないか?」
「ありがとう」私は言ったが、そのときでさえ声の主を見ようとはしなかった。》

「運命がすべてを裏で操っていた」は<Fate stage-managed the whole thing.>。双葉氏はなぜか、ここを訳していない。パラグラフの先頭にある文だ。これをカットするというのはないだろう。村上氏は「運命がすべてのお膳立てを整えてくれた」だ。<stage-manage>は「(舞台)演出をする」というのが本義だが、「(裏で)企てる、操る」の意味がある。

亜鉛メッキされた鋲の押しつぶされた基部が前輪からこちらを見ていた。/舗装路の縁に同じ鋲が散らかっていた。舗装路からは掃き出されたが、縁に残っていたのだ」は<The flat butt of a heavy galvanized tack stared at me from the front tire. / The edge of the pavement was littered with them. They had been swept off, but not far enough off.>。ここを双葉氏は「前車輪のタイヤの破れた端が私をみつめていた。舗装道路の端がめくれていた」と訳している。これは、誤訳というよりも手抜きだ。

村上氏は「亜鉛メッキされた大きな鋲の、ぺしゃんこになった残骸が、前輪の脇から私を見ていた。/舗装部分の縁にはそのような鋲がたくさん撒かれていた。それらは掃いて排除されたものの、路肩に残されたままになっていたのだ」と訳している。村上氏は<a heavy galvanized tack>を「亜鉛メッキされた大きな鋲」と考えているらしいが、この<heavy>は次の<galvanized>にかかっている。<a heavy galvanized>は「溶融亜鉛メッキ」のことで亜鉛メッキの種類の一つ。

「ハンドルの軸から車検証入れを解いて」は<unstrap the license holder from the steering post>。双葉氏は「運転台から免許証入れを引はぎ」と訳している。村上氏は「ハンドルの軸についた車検証をはずして」だ。<license holder>は「資格保持者」の意味だが、運転免許証や探偵許可証なら札入れに入れている。<unstrap>とあるからには紐状のものでステアリング・ポストに付けているので直にではない。ここは「車検証」のホルダーのことだろう。

「ハイウェイに窓のない側面を向けていた」は<It showed the highway a blank side wall.>。双葉氏は「そこからふりかえると、国道は白い塀みたいに見えた」と訳しているが、これは無理がある。マーロウはハイウェイの方からやって来て修理工場を見ているのだ。特にハイウェイを振り返る必要はない。村上氏は「それはハイウェイに向けて、のっぺりした側面を向けていた」と訳している。「向けて」が重複しているのが気になる。はじめの方はなくてもいい。

「二枚扉の隙間にも明かりが細く透けていた」は<a thread of light where the halves met.>。双葉氏は「が、下の橋から光がもれていた」と、ここをカットしている。村上氏は「二枚の扉の合わせ目が光の縦線を作っていた」と訳している。

「雷のように重い沈黙の瞬間が垂れ込めた」は<There was a hung instant of silence, as heavy as thunder.>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「一瞬の沈黙が降りた。雷鳴のように重い沈黙だった」と文学的に処理しているが、<thunder>(雷)はひどく怒鳴ったり、大声をあげるという意味でよく使われる言葉。「沈黙は金」ということわざもあるように、何も言わない方が何かをより以上に伝えることがある。そういう意味だろう。

「修理工場の空気はラッカーの刺激臭のせいで甘く不穏だった」は<The breath of the garage was sweet and sinister with the smell of hot pyroxylin paint.>。双葉氏は「車庫の空気は塗料のにおいで甘く、また陰気だった」と簡潔に表現している。村上氏は「工場の空気は温かいピロキシリン塗料のせいで甘ったるく、そこには不穏な気配があった」とどこまでも詳しい。ただ<hot>を「温かい」と訳したのはどうだろう。

スラングでもよくつかわれる<hot>だ。「流行の、人気のある」などの意味もある。<pyroxylin>はニトロセルロースラッカーのことで、初めて車の塗装に使用されたのは1923年。ゼネラルモータース社のオークランドという車種だった。『大いなる眠り』が出た1939年当時はすでに各社が取り入れていたのではないだろうか。ただし、「人気の」とするほどのデータもないので、「強い、激しい」の意味で「刺激臭」とした。