HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第三十章(4)

《「ところで、私に何の落ち度があるというんです? 一切を任されているノリスはガイガーが殺されてこの件は終わった、と考えたらしい。私はそう思わない。ガイガーの接触の仕方には首をひねったし、今でも考えている。私はシャーロック・ホームズでもファイロ・ヴァンスでもない。警察がすっかり調べあげたところへ行って壊れたペン先か何かを拾い上げ、そこから事件を解決できるなんて思わないでほしい。もし、そんなやり方で生計を立てている者が探偵業界にいるとお考えなら、あなたは警官というものを全く分かっていない。もし警官が見落とすとしたら、そんなものではない。警官が本気で仕事をしているとき、そうそう見落としたりはしないものだ。もし警官が見落とすことがあるとしたら、もっと散漫で曖昧な何かだろう。たとえばガイガーのようなタイプの男だ。あなたに負債の証拠を送りつけ紳士らしく支払うことを要求している──ガイガーは後ろ暗い稼業に手を出して脛に傷を持つ身だ、ギャングの保護をうけ、少なくとも警察の一部から控え目な保護も受けている。そんな手合いが何故そんな真似をしたのか?ガイガーはあなたにつけ込む隙がないか知りたかった。隙があればあなたは金を払わなければならない。そんなものがなければ、あなたは無視し、向こうの次の動きを待てばいい。しかし、あなたには一つだけ隙があった。リーガンだ。あなたは見損なっていたのでは、と心配だった。リーガンがあなたの前に姿を現し、家に留まって親切にふるまっていたのは、あなたの銀行口座に手が出せるようになる機会を狙っていたのではないか、と」
 将軍は何か言いかけたが私は遮った。
「だとしても、あなたにとって金のことなどどうでもいい。娘たちのことさえどうでもよくなっていた。多分、とっくに見放している。ただ、相手にカモにされることをあなたの自尊心が許せなかっただけだ──それに、あなたはリーガンのことが心底気に入っていた」
 沈黙がおりた。それから将軍は静かに言った。
「口が過ぎるぞ、マーロウ。君はまだパズルを解こうとしていると理解していいのかな?」
「いや、やめました。警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている。お金は返すべきだと考えた理由はそれです──私の基準では仕事はまだ終わっちゃいない」
 将軍は微笑んだ。「やめることはない」彼は言った。「あらためて千ドル払おう。ラスティを探してくれ。戻ってくる必要はない。どこにいるのかを知りたいとも思わない。男には自分自身の人生を生きる権利がある。娘を捨てたことも、抜き打ちだった事も責めていない。おそらくものの弾みだったのだろう。知りたいのは、あれがどこにいようが元気でいることだ。それを直接本人から聞きたい。金の要るようなことが起きたのなら出してもやりたい。これでいいかな?」
 私は言った。「はい、将軍」
 しばらくの間、将軍は気を抜き、ベッドの上で緊張を解いていた。目は暗い目蓋に被われ、固く閉じた口には血の気がなかった。疲れ果てていた。持てる力をほぼ使い果たしていた。再び目を開けると、にやりと笑おうとした。
「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」彼は言った。「そして兵はひとりもいない。あれのことは気に入ってた。清廉な男に見えたんだ。私は自分の人を見る目に自惚れ過ぎていたにちがいない。私のためにあれを見つけてくれ、マーロウ。見つけるだけでいいんだ」
「やってみます」私は言った。「今は休まれた方がいい。しゃべり過ぎてあなたを疲れさせたようだ」
 私はさっと立ち上がり、広いフロアを横切って外に出た。将軍は私が扉を開ける前に再び目を閉じた。両手はシーツの上に力なく横たえていた。たいていの死人よりもずっと死人のように見えた。私は静かに扉を閉め、二階廊下を歩いて、階段を下りた。》 

この章に関しては、双葉氏の訳を翻訳だとは思えない。マーロの長広舌に飽きたのか、「もし、そんなやり方で生計を」から「口が過ぎるぞ、マーロウ」までのこのテクストで十九行もの分量を全部すっ飛ばしている。次の「警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている」もカットしている。それ以外にも少しずつ訳さずにすませているところもあるが、これだけカットされていると、小さいことに思えてくる。

「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」は<I guess I’m a sentimental old goat.>。双葉氏は「わしは感傷的な老いぼれ山羊じゃ」と、そのまま訳している。村上氏は「私はセンチメンタルな老いぼれなのだろう」と訳している。<old goat>には「意地悪老人、口うるさい年輩者」と「助平じじい、狒々(ひひ)おやじ」の二種類の意味がある。洋の東西を問わず、ヤギには好色漢のイメージがつきまとうが、まさかこちらの意味ではない。口うるさい老人の意味を採った。

「そして兵はひとりもいない」は<And no soldier at all.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「もう兵士とは言えん」と訳している。老いたりとは言え、スターンウッドは将軍だ。将校には下士官がつきもの。リーガンを気に入っていたのは、同じ元軍人として彼を相手にすれば心を開いて話すことができたからだ。有能には違いないが、執事であるノリスにその役は務まらない。主人が使用人に胸襟を開くことはないからだ。リーガンを失ったスターンウッドは将軍の矜持も捨て、自分のことを<a sentimental old goat>と自嘲しているのだ。

それにしても、終わりも近づいてきたというのに、ここに至って、これほど訳し残すというのは、双葉氏に何があったのだろう。締め切り間に合わなかったのだろうか。ここまで、少々のカットはあってもこれほど長文を割愛することはなかった。正直わけが分からない。