HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(3)

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《「そこを動かないで」娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった。「あなたは誰なの?」
「君の銃を見てみたい」
娘は光の前に掲げて見せた。銃口は私の腹に向けられていた。小さな銃だった。コルト・ベスト・ポケットのようだ。
「なんだ、それか」私は言った。「玩具じゃないか。そいつに弾丸は十発も入らない、たった六発だ。小さな銃で蝶くらいしか撃てない、バタフライ・ガンと呼ばれてる。ちっとは恥を知るといい。あんな見え透いた嘘をつくなんて」
「あなた、頭がおかしいの?」
「私か? 強盗に頭を殴られたばかりだ。少し螺子が緩んでいるかもしれない」
「それは―それはあなたの自動車?」
「いや」
「あなたは誰なの?」
「あそこにスポットライトをあてて、何を捜していたんだ?」
「わかった。訊くのはあなたということか。男らしい男の作法ね。私はある人を見てたの」
「ウェーヴのかかった金髪をした男のことかな?」
「今はちがう」娘は静かに言った。「かつてはそうだったかもしれない」
 その言い方が気に障った。思ってもみなかった答えだ。「そいつは見過ごしたな」私はへどもどしながら言った。「懐中電灯でタイヤの跡をつけて坂を下ってきたから。怪我はひどいのか?」私は娘の方へ一歩踏み出した。小さな銃が私に向けられ、光は動かなかった。
「落ち着いて」娘は静かに言った。「じっとしてて。お友だちは死んでる」
 私はしばらくの間、黙った。それから言った。「分かった。様子を見に行こう」
「そこにじっとして、動かないで。あなたは誰で、何が起こったのか教えて」はきはきした声だった。びくついていない。言うとおりにした方がよさそうだ。
「マーロウ。フィリップ・マーロウ。私立探偵」
「あなたが言うのが―もし事実なら、証明がいる」
「紙入れを見せよう」
「ありえない。両手はそのままにしておいて。とりあえず証明はお預け。それで、いったいどういうことなの?」
「その男はまだ死んでないかもしれない」
「まちがいなく死んでる。顔の上に脳味噌をぶちまけて。事情を、ミスタ。早く聞かせて」
「今も言ったように―死んでないかもしれない。まず見に行こう」片足を一歩前に出した。
「動いたら、風穴が開く」娘はぴしゃりと言った。
 もう一方の足を前に出すと、光が少し跳ねまわった。女が後ろに下がったのだろう。
「救いがたい人のようね」女は静かに言った。「いいわ。先に行って、ついていくから。あなたは具合が悪そう。もし、そうでなきゃ―」
「私を撃っていただろう。ブラックジャックでやられたんだ。頭を殴られると眼の下に隈ができるのが習い性になってる」
「素敵なユーモアのセンスをお持ちだこと―死体公示所の係員並みのね」泣き声に近い声だった。
 私が顔を背けると、光はすぐに目の前の地面を照らし出した。小さなクーペの脇を通り過ぎた。ありふれた小型車で、霧の振る星明りの下で汚れなく光っている。未舗装路を上り、カーブを曲がった。足音がすぐ後ろに迫り、懐中電灯の光が足元を照らした。二人の足音と女の息づかいの他には何も聞こえなかった。自分の息すら聞こえなかった。》

「娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった」は<the girl snapped angrily, after I had stopped>。ここを清水氏は「と、彼女は叫んだ」と訳し、後半部分をカットしている。村上訳は「と娘は腹立たし気にきつい声で言った。しかし、そう言ったのは私が自ら止まったあとのことだ」。ちょっと勿体をつけすぎているような気がする。

「コルト・ベスト・ポケットのようだ」は<it looked like a small Colt vest pocket automatic>。清水訳は「小さなコルトの自動拳銃だった」。村上訳は「コルトの懐中オートマチックのようだった」。ここでいう「ベスト」は、「チョッキ」のこと。スーツのポケットよりも小さいベストのポケットにも入るという意味。25口径のオートマチックで、コルトの最小拳銃として女性の護身用に人気があった。

「強盗に頭を殴られたばかりだ」は<I've been sapped by a holdup man>。清水氏は「実はホールドアップにあったんだ」と訳している。<sap>には俗語で「こん棒で殴る」という意味があるが、清水氏はその意味を採っていない。マーロウほどの男が強盗に遭ったくらいで「正気」をなくすとも思えない。村上氏の「ああ、さっきホールドアップ強盗に頭をどやされた(傍点五字)んだ」くらいに訳さないと意味が通じないだろう。

その後の「少し螺子が緩んでいるかもしれない」は<I might be a little goofy>。<goofy>は「まぬけな、とんまな」という意味。清水氏は「まだ、正気ではないかもしれないな」と訳している。村上氏は「いささか脳みそがゆるんでいるかもしれない」だ。村上氏の言葉遣いでときどき思うのは、実にユニークな使い方をする、ということである。「頭のねじがゆるむ」というのは手垢のついた表現だが、「脳みそがゆるむ」というのはあまり聞いたことがない。実に新鮮だ。新鮮すぎる気がしないでもない。

「男らしい男の作法ね」と訳したのは<He-man stuff>。清水氏はここをカットしている。<he-man>は「男らしい男」、<stuff>はこの場合「物事、やり方、ふるまい」の意味だろう。村上氏は「タフぶってればいいわよ」と訳している。この若い女性がどんな人間なのかを知ったうえで訳すのが本当なのだが、今のところ知り得た情報のみで訳している。実際のところ、マーロウだって初対面なのだ。原文をあまりいじらないで、できるだけそのまま訳していきたいと思っている。村上訳の娘は、少し悪ぶっているように見える。

「びくついていない。言うとおりにした方がよさそうだ」は<It was not afraid. It meant what it said>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「怖がってはいない。相手は本気なのだ」と訳している。

「とりあえず証明はお預け」は<We'll skip the proof for the time being>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「とりあえず証明の部分はあとまわしにしましょう」だ。

「救いがたい人のようね」は<You take some awful chances, mister>。清水訳では「ずいぶん生命(いのち)を粗末にするのね」。村上訳は「まったく度しがたい人ね」だ。直訳すれば「あなたはずいぶん危険な賭けをするのね」くらいか。清水訳が最も原文に近い。

ブラックジャックでやられたんだ」は<I've been sapped>。清水氏は「ずっと脅かされているんだ」と訳している。<sap>で躓いたのが後を引いている。眼の下に隈ができる理由として「脅かされている」は、マーロウらしくもない。村上訳は「さっきブラックジャックでどやされたんだ」だ。

「泣き声に近い声だった」は<she almost wailed>。清水氏はここを「と、彼女はかん(傍点二字)だかい声で言った」と訳している。<wail>は、どの辞書で引いても「悲しい声で泣き叫ぶ」のような意味しかない。かん(傍点二字)ちがいだろうか。村上氏は「今にも悲鳴になりそうな声だった」と訳している。さすがに若い女性の忍耐も切れかかっているという理解なのだろう。