HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(3)

《ランドールは首を振った。「もし、組織的な宝石強盗団なら、よほどのことでもない限り人は殺さない」彼は突然話を打ち切り、眼にどんよりした膜がかかった。ゆっくりと口を閉じ、固く結んだ。思いついたのだ。「ハイジャック」彼は言った。
 私はうなずいた。「それも考えられる」
「それにもう一つ」彼は言った。「どうやってここまで来た?」
「自分の車を運転して」
「君の車はどこに置いてあった?」
「モンテマー・ヴィスタの麓の歩道沿いに並んでるカフェの駐車場だ」
 ランドールはたいそう思慮深げに私を見た。後ろにいる二人の刑事が疑わし気な目で私を見た。留置場の酔っ払いがヨーデルを歌おうとして、しゃがれた声に気落ちしたのか、泣き出した。
「ハイウェイまで歩いて出た」私は言った。「車に手を振ったら、一人の娘が運転していた車をとめて、そこまで乗せていってくれた」
「たいした娘だな」ランドールが言った。「夜更けに、さびしい道で車をとめるとは」
「ああ、そういう娘もいるのさ。知り合いにはなれなかったが、いい娘らしかった」私は目をそらさなかった。連中が私の話など信じないことを知りながら、どうして私は嘘を並べているのだろう。
「小さな車でね」私は言った。「シボレーのクーペだ。ナンバーは見なかった」
「ほう、ナンバーを見なかったとさ」刑事の一人がそう言いい、屑籠にまた唾を吐いた。
 ランドールは体を乗り出し、念入りに私を見つめた。「もし何か隠しておいて、自分でこの件を洗って、売り出しに使おうなんて考えているなら、よした方がいい、マーロウ。君の話は気に入らない、すべての点でな。一晩考える時間をやろう。宣誓供述書をとらせてもらうのは明日になるだろう。そんなわけで、ひとつ言わせてもらおう。これは殺人事件で、警察の仕事だ。そして、警察は君の助けなど必要としない。たとえそれが役立つとしてもだ。我々が君に求めているのは事実だ。分かったな?」
「もちろんだ。で、もう家に帰っていいかな? 気分がすぐれないんだ」
「帰っていい」彼の眼は冷ややかだった。
 私は立ち上がり、誰もが押し黙っている中、ドアに向かった。四歩ばかり歩いたところでランドールが咳払いしてから何気なく言った。
「おっと、最後に一つだけ。君はマリオットが吸っていた煙草の種類に気づいていたか?」
 私は振り返った。「ああ、茶色のやつだな。南アメリカ産。フランス製のエナメルケースに入っていた」
 ランドールは身をかがめ、テーブルの上に積み上げたがらくたの中から、刺繍入りの絹のケースを押し出し、自分の方に引き寄せた。
「これに見覚えは?」
「あるよ。ちょうど今見ていたところだ」
「私が言っているのは、今夜より前にということだ」
「見たように思う」私は言った。「そこらに転がっていたんだろう。なぜだ?」
「君は死体を探らなかっただろうな?」
「オーケイ」私は言った。「お察しのとおり、いくつかポケットを調べた。それもその中の一つだ。悪いが、職業上の好奇心ってやつだ。しかし捜査妨害はしていない。何はどうあれ、死者は私の依頼人だった」
 ランドールは両手で刺繍入りのケースを持ち、蓋を開けた。座ったまま中をのぞき込んだ。中身は空っぽだった。三本の煙草は消えていた。
 私は強く歯を噛みしめ、くたびれた顔を保つようにした。容易なことではなかった。
「この中の煙草を吸っているところを見かけたかい?」
「見ていない」
 ランドールは冷やかにうなずいた。「見てのとおり空っぽだ。それなのにポケットに入っていた。中に細かな屑が入っていた。顕微鏡検査にかけてみないと確かなことは言えないが、どうやらマリファナのようだ」
 私は言った。「もしそんなものを持ってたら、今夜のような晩には二、三本吸いたくなるんじゃないか。彼には何か元気づけがいっただろう」
 ランドールは慎重にケースの蓋を閉めて、押しやった。
「それだけだ」彼は言った。「ごたごたに巻き込まれるんじゃないぞ」
 私は外に出た。
 霧は晴れ、星が輝いていた。黒いベルベットの空に貼りつけたクローム細工のような星が。私は車を猛スピードで走らせた。ひどく酒が飲みたかったが、バーはどこも閉まっていた。》

「眼にどんよりした膜がかかった」は<his eyes got a glazed look>。清水氏はここを「眼を輝かした」と訳している。<glaze>は「釉をかける」のように、物の表面につやを出すことを意味するが、眼に関して使われるときは「どんよりする」の意味になる。ランドールは何かを思い出したのだから「眼を輝かせ」としたい気持ちは分かるが、ランドールの胸に兆したのが疑念だったということで、こう表現したのだろう。村上訳は「その目はどんよりとした光を持った」と直訳調だ。

「ハイジャック」は<Hijack>とそのままだ。清水訳も「ハイジャックだ」。村上氏は「強奪犯に切り替わった」と、訳者の解釈が入っている。ハイジャックの意味としては「不法に輸送機関や貨物の強奪や乗っ取りを行うこと」だが、最近は航空機の乗っ取りを指すことが多いので、村上氏は説明がいると思ったのだろう。原作が書かれた時代(特に禁酒法が施行されていた1920年代)のアメリカでは「密造酒を輸送するトラックや船舶から積荷を強奪する行為を指した」という。ここで用いられているのもその意味だろう。

「知り合いにはなれなかったが」は<I didn't get to know her>。清水訳は「名前は訊かなかったが」。村上訳は「素性まではわからないが」。<get to know>には「~について知る」という文字通りの意味のほかに「知り合いになる」という意味がある。ここでは、そちらを採る方がスマートだろう。

「私は目をそらさなかった。連中が私の話など信じないことを知りながら、どうして私は嘘を並べているのだろう」は<I stared at them, knowing they didn't believe me and wondering why I was lying about it>。この一文の解釈が両氏で微妙にちがう。

清水氏は、<I stared at them>をカットして、改行した上で「彼らが信じていないことはわかっていた。そして、私は、なぜ嘘をいったのであろう、と考えた」と訳している。氏の考えでは「考えた」のは「私」ということになる。

村上訳を見てみよう。「私は彼らを見た。私の話を信じていない。どうしてそんなことで嘘をつくのか、不思議に思っている」だ。村上氏の訳だと「不思議に思っている」のは、「彼ら」のようだ。

もともとは一文であるものを、訳文で句点で区切ることは往々にしてあるが、そうすることで、主語が変化してしまったのではないだろうか。私見だが、マーロウは刑事たちの顔をじっと見つめ、彼らが自分の話を信じていないことを察知している、と同時に、自分の心の中で、「なぜ俺はこんな馬鹿なまねをやってるんだ」と自嘲しているのだ、と思う。

「彼の眼は冷ややかだった」は<His eyes were icy>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼の目は氷のように冷ややかだった」だ。「氷のよう」か「冷ややか」のどちらかで通じると思うが。「誰もが押し黙っている中」は<in a dead silence>だが、清水氏はここもカットしている。面倒くさかったのだろうか。村上訳だと「不気味なまでに深い沈黙の中」という、いかにも文学的な表現になっている。総じて村上訳は言葉を重ね過ぎるきらいがある。

「テーブルの上に積み上げたがらくたの中から」は<the pile of junk on the table>。清水氏はここを「テーブルの上から」と略している。ここは、ポケットから出た所持品の中から選り出したことが分かるように訳す必要があるだろう。村上訳は「テーブルに積まれたがらくたの中から」だ。

<「オーケイ」私は言った。>のところ、原文は<“Okey,” I said>だが、清水氏は「私は嘘をいっても無駄だと思った」と、マーロウの内心を慮って書き直している。その必要があるだろうか。そのままで充分わかるところだ。村上訳は<「わかったよ」と私は言った>だ。

「ランドールは両手で刺繍入りのケースを持ち、蓋を開けた。座ったまま中をのぞき込んだ」は<Randall took hold of the embroidered case with both hands and opened it>。清水訳は「ランドールはシガレット・ケースを開いた」と、やけにあっさりしている。疲れていたのか、どうでもいいところだと思って端折ったのだろう。村上訳は「ランドールは両手で刺繍入りの煙草ケースを持ち、蓋を開けた。そして座ったまま中をのぞき込んだ」。

「どうやらマリファナのようだ」は<I have an idea it's marihuana>。清水氏は「麻薬タバコらしいんだ」と訳している。この時代、マリファナでは日本の読者に伝わらなかっただろう。新訳が必要な所以だ。村上訳は「おそらくマリファナじゃないかと思う」。

「ごたごたに巻き込まれるんじゃないぞ」は<And keep your nose clean>。清水訳は「余計なことに頭を突っこむな」、村上訳は「面倒に鼻を突っ込まない方がいいぜ」だ。「厄介なこと」に突っ込むのは「首」と相場はきまっていたような気がするが、調べてみると、「頭」も「鼻」もあるようだ。<keep one's nose clean>は「面倒なことに巻きこまれないようにする」ことをいう決まり文句。ならば、「鼻を突っ込む」が正解かも。