HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(2)

18-2

【訳文】

《縞のヴェストに金ボタンの男がドアを開けた。頭を下げ、私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ。男の後ろの薄暗がりに、折り目を利かせた縞のズボンに黒い上着を着て、ウィング・カラーにグレイ・ストライプ・タイをしめた男がいた。白髪混じりの頭を半インチばかり下げて言った。「ミスタ・マーロウでいらっしゃいますね? どうぞこちらへ」
 我々は廊下を歩いた。たいそう静かな廊下だった。蠅一匹飛んでいない。床には東洋の絨毯が敷きつめられ、壁に沿って絵が並んでいた。角を曲がるとまた廊下が続いていた。フレンチ・ウィンドウの遥か彼方で青い水がきらりと光った。危ういところで思い出した。我々は太平洋の近くにいて、この家は渓谷のどこかの縁に建っていたのだ。
 執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した。快適な部屋だった。大きなチェスターフィールド・ソファと淡黄色の革張りのラウンジ・チェアが暖炉を囲むように置かれ、艶やかだが滑りにくい床に、絹のように薄く、イソップの伯母さんのように年季の入った敷物が敷いてある。きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった。壁紙はくすんだ色の羊皮紙だった。そこには安らぎ、ゆとり、心地よさがあり、極めて現代的な味わいと、かなり古風な味わいが各々ほんの少しだけ加味されていた。そして口を噤んだ三人の人物が、床を横切る私を見ていた。
 うち一人はアン・リオーダンだった。最後に見たときと変わりなかった。琥珀色した液体の入ったグラスを手にしていることを除けば。一人は背の高い痩せて陰気な顔をした男で、石のような顎に窪んだ眼をし、不健康な土気色のほかには顔に色というものがなかった。六十代は優に超えていようが、優にというより寧ろ、劣化した六十代だった。暗い色のビジネス・スーツに赤いカーネーションを挿し、塞ぎ込んでいるように見えた。
  三人目はブロンドの女で、薄い緑がかった青の外出着を着ていた。服装に特に注意は払わなかった。どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった。その服には彼女をより若く見せ、ラピス・ラズリの瞳をひときわ青く見せる効果があった。髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた。肢体はこれ以上誰にも手が出せない曲線一式を備えていた。ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい。小さいとは言えない手は良い形をしていて、よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた。マゼンタに近い赤紫だ。私に微笑みかけていた。気軽に微笑んだように見えたが、視線は外さず、まるで時間をかけ慎重に熟慮中といったところだ。口は、官能的だった。
「ようこそおいでくださいました」彼女は言った。「こちらは夫です。ミスタ・マーロウに飲み物を作ってあげて、あなた」
 グレイル氏は私と握手した。手は冷たく少しじっとりしていた。悲しげな眼だった。彼はスコッチ・アンド・ソーダを作り、私に手渡した。
 それが終わると黙って隅の椅子に腰を下ろした。私は半分ほど口をつけミス・リオーダンに笑いかけた。彼女は上の空だった。まるで別の手がかりを見つけでもしたように。
「私たちのために何かできるとお考え?」ブロンドの女はグラスの中を見下ろしながら、ゆっくり訊いた。「できるとお考えでしたら、喜んで。でも、これ以上ギャングや不愉快な連中と揉めるようなら、被害は忘れてもいいくらい」
「その辺の事情は不案内でして」私は言った。
「そこを何とか、お願いします」彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた。
 残りの半分を飲み干し、気分がほぐれかけてきた。ミセス・グレイルが革のチェスターフィールドの肘掛けにセットされたベルを押すと給仕人(フットマン)が入ってきた。彼女はトレイのあたりを適当に指さした。彼はあたりを見まわして飲物を二杯つくった。ミス・リオーダンは借りてきた猫のように同じ物を手にしたままで、ミスタ・グレイルは酒を飲まないようだ。フットマンは出て行った。
 ミセス・グレイルと私はグラスを手にした。ミセス・グレイルは少々ぞんざいなやり方で脚を組んだ。
「私に何かできるのか」私は言った。「怪しいものです。いったい何に手をつけたらいいのやら?」
「あなたなら大丈夫」彼女はまた別の微笑みを投げてよこした。「リン・マリオットは、どこまであなたに話したの?」
 彼女はミス・リオーダンの方を横目で見た。その視線にミス・リオーダンは気づかなかった。そのまま座り続けていた。彼女は別の方を横目で見た。ミセス・グレイルは夫の方を見た。「ねえ、あなたが、この件で気に病む必要があって?」
 ミスタ・グレイルは立ち上がって、お会いできて何よりでした。気分が優れないので、少し横になることをお許し願いたい、と言った。非常に礼儀正しかったので、謝意を表するために抱きかかえて部屋から出したくなったくらいだった。
 彼は去った。ドアをそっと閉めて。まるで眠っている人を起こすのを怖れてでもいるかのように。ミセス・グレイルはしばらくドアの方を見ていたが、やがて顔に微笑みを置き直しこちらを見た。
「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」
「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」
「なるほど」彼女は一口か二口啜ってからグラスの酒を一息に飲み干し、脇に置いた。》

【解説】

「私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ」は<took my hat and was through for the day>。清水氏は後半部分をカットしている。<be through for the day>は「今日の仕事は終わり」という意味だ。村上訳は「この男の仕事はそれで終わりだった」。金持ちの家では玄関扉を開け、客を迎え入れるだけのために、人ひとり雇う余裕がある、ということだろう。ワークシェアリングの一種と思えばいい。

「執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した」は<The butler reached a door and opened it against voices and stood aside and I went in>。清水氏は「執事は一つのドアを軽くノックしてから、私を部屋に通した」と訳している。ノックをすれば返事を待つ必要があるが、それのないことから考えるとノックはしていないはず。<opened it against voices>というのは、ドアが内開きだったことを指しているのではないか。

村上氏は「執事はひとつのドアに手を伸ばして開けた。中からは人々の話し声が聞こえた。執事は脇に寄って私を中に通した」と訳しているが、これだと、どちらに開いたかはよく分からない。外開きなら、執事の立ち位置はドアの陰になる。話者の視点からは見えなくなるわけで、わざわざ<stood aside>と書く必要はない。つまり、ドアは内側に開かれたのだ。それらのことが、この短い文から読み取ることができる。

「きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった」は<A jet of flowers glistened in a corner, another on a low table>。清水氏はここを「部屋の隅の低いテーブルの上に花が匂っていた」と、訳している。いちいち挙げているときりがないが、これでは省略のし過ぎというものだ。部屋に飾ってある花の数が減ってしまう。

村上氏は「漆黒の花が部屋の隅で輝き、同じものが低いテーブルの上にも置かれていた」と訳している。形容詞<jet>には「漆黒の」という意味もあるが、<a jet of~>と使われる場合は「~の噴出」の意味だ。花瓶の口からあふれるように飾られた多くの花を表現したものと思われる。

「石のような顎に窪んだ眼をし」は<with a stony chin and deep eyes>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「石のような顎と、窪んだ目」。同じところで「六十代は優に超えていようが、優というより寧ろ、劣化した六十代だった」は<He was a good sixty, or rather a bad sixty>。清水氏は<good>と<bad>の対比を無視して「おそらく、六十を越しているだろう」とあっさり訳している。村上氏は「年齢はおそらく六十代の後半。好ましい年齢の重ね方をしているとは見えない」と、意味の方を重視して訳している。

「どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった」は<They were what the guy designed for her and she would go to the right man>。清水氏は「それは男が女のために考えて、彼女はその男のところに行くのだ」と訳している。分かりづらい訳だ。村上氏は「それはどこかの人物が彼女のためにデザインしたものであり、彼女はただデザイナーの選び方がうまいだけだ」と訳している。少し訳者の主観が混じっているようだ。

「髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた」は<Her hair was of the gold of old paintings and had been fussed with just enough but not too much>。清水氏は「髪は、古い油絵の金色のような色だった」と後半をカットしている。村上氏は「髪は古い絵画の中に見られる黄金色であり、いくらかほつれていたが、良い具合のほつれ方だった」と訳している。<fuss>を辞書にある「空騒ぎ」と解釈してのことだろうが、<fuss with>は「あれこれかまう、いじる」という意味だ。

「ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい」は<The dress was rather plain except for a clasp of diamonds at the throat>。清水氏は「咽喉に、ダイヤモンドが光っていた」と訳しているが、これではネックレスのように読めてしまう。村上訳は「喉のダイアモンドの留め金を別にすれば、ドレスはどちらかというと簡素なものだ」。

「よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた」は<and the nails were the usual jarring note>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「世の常としてそれが全体の調和を損なっていた」だ。「マゼンタに近い赤紫だ」は<almost magenta>。両氏とも「深紅(色)」という色名を使っているが、マゼンタには紫が入っていて、もっと明るく鮮やかな色のはずだ。

ミス・リオーダンの態度について。「まるで別の手がかりを見つけでもしたように」は<as if she had another clue>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「何かほかのことを考えているみたいに」となっている。<clue>は、どの辞書で引いても「手がかり」と出ている。先を読まないと何とも言えないが、この時点で単なる「考え」と曖昧に訳す意図はどこにあるのだろう。

ミセス・グレイルの微笑について。「彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた」と訳した部分、原文は<She gave me a smile I could feel in my hip pocket>。清水氏は「彼女はまるで旧知の間柄のような微笑を私に見せた」と訳している。それに対して、村上氏は「彼女は私に微笑みを寄越した。尻ポケットのあたりがもぞもぞした」と訳している。

「人を思いのままに操る」という意味の慣用句に<have [get] someone in one’s (back) pocket>というのがある。<back pocket>は<hip pocket>のことだ。マーロウに向けられたミセス・グレイルの微笑は、その手のものではなかったか。< I could feel in my hip pocket>という、マーロウの印象は、自分が手玉に取られている気分にさせられたことを表している。

「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」は<Miss Riordan is in your complete confidence, of course>。清水氏の訳では「ミス・リアードンには何を聞かれても差し支えないんですのよ」となっている。<your complete confidence>とあるのだから、夫人が「何を聞かれても差し支えない」というのはおかしい。村上訳は「ミス・リアードンはあなたにとって間違いなく信頼できる人よね?」と疑問文にしている。原文に<?>はついていない。念を押しているのだろう。

「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」は<Nobody's In my complete confidence, Mrs. Grayle. She happens to know about this case-what there is to know>。清水氏はこの部分を「ぼくにわかっていることは、もう知っているんです」と前半をカットして訳している。村上訳は「私にとって間違いなく信頼できる相手など一人もいません、ミセス・グレイル。彼女はたまたまこの事件の事情を知っているというに過ぎない。少なくとも、今まで判明している限りの事情を」。