HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第25章(1)

動いていないはずの煙に<up and down>が使われる理由

【訳文】

《部屋は煙でいっぱいだった。
 あたりには煙が本当に漂っていた。小さな透明のビーズでできたカーテンのように真っ直ぐな細い列になって。突き当りの壁にある窓は二つとも開いているようだが、煙は動かなかった。部屋に見覚えはなかった。窓には鉄格子がはまっていた。
 頭がぼんやりして何も考えられなかった。まるで一年間眠っていたみたいだ。だが、煙は煩わしかった。仰向けに寝転んで、それについて考えた。しばらくして、大きく息を吸ったら肺が痛んだ。
私は叫んだ。「火事だ!」
 それが私を笑わせた。何がおかしいのかも分からず、笑い出した。ベッドの上に寝たままで笑った。笑い声が気に入らなかった。頭の螺子が緩んだ笑いだった。
 一声叫べば充分だった。部屋の外で足音がして、鍵が錠に差し込まれ、ドアが勢いよく開いた。男が横っ飛びで入って来て、すぐドアを閉めた。右手が尻にのびた。
 ずんぐりした小男で白衣を着ていた。奇妙な眼で、黒くて薄っぺらい。両の目尻に灰色の皮膚が膨らんでいた。
 私は固い枕の上で振り返り、欠伸をした。
「本気にするなよ。口がすべったんだ」私は言った。彼は顔をしかめて立っていた。右手は右の尻の上あたりをさまよっていた。蒼ざめた悪意に満ちた顔、薄っぺらい黒い眼、灰白色の皮膚、貝殻のような鼻。
「もう少し拘束衣を着ていたいみたいだな」彼はせせら笑った。
「大丈夫。いい気分だ。昼寝のし過ぎで、夢でも見たらしい。ここはどこだ?」
「お前がいるべきところさ」
「いい場所のようだ」私は言った。「感じのいい人々、いい雰囲気、もうひと眠りしよう」
「それがいいだろう」彼はつっけんどんに言った。
 男が出て行き、ドアが閉まった。鍵がかかった。足音が消えていった。
 男は煙の役には立たなかった。それはまだ部屋の真ん中に居座っていた。部屋中至る所に、カーテンのように。消えてもゆかず、流れもせず、動きもしなかった。部屋に空気があることは、顔で感じられた。しかし、煙は空気を感じていなかった。それは千匹の蜘蛛が張り巡らした灰色の蜘蛛の巣だった。どうやって蜘蛛に協力させたのだろう。
 綿フラノのパジャマ。郡病院で着るような代物。前開きではなく、必要以上の縫い目のない、手触りの粗い生地。首回りが喉をこする。喉はまだ痛む。あれこれと思い出した。手を伸ばして喉の筋肉を触ってみた。まだ痛かった。インディアンをたった一人、バン。オーケイ、ヘミングウェイ。探偵になりたいって? いい金になるよ。九つの簡単なレッスン。バッジ進呈。五十セント追加で腕木付き。
 喉はまだ痛んだが、触ってる指の方は何も感じない。ずっとバナナの房になっていたという方が当たっている。見てみた。一応指のように見える。不良品だ。通信販売の指だ。バッジや腕木と一緒に送られてきたにちがいない。証書付きで。
 夜だった。窓の外の世界は黒い世界だった。天井の真ん中から三本の真鍮の鎖でガラス磁器の鉢が吊るされている。中に灯りがついている。縁にオレンジとブルーの小さな塊りが交互についていた。私はそれをじっと見つめた。煙にうんざりしていた。じっと見ていると、小さな塊りは舷窓のように開き始め、頭が飛び出してきた。小さな頭だが、生きていた。小さな人形のような頭だが、生きていた。ジョニー・ウォーカーの鼻をしたヨット帽子の男、飾りのついたつば広帽子の浮ついた金髪女、それにボウタイの曲がっている痩せた男。まるで避暑客を待ち受けるレストランの給仕のようだ。男は冷笑口調で言った。「ステーキはレアになさいますか、それともミディアムで? サー」。
 眼をしっかり閉じ、強く瞬いてから開けると、それは三本の真鍮の鎖のついた、ただの紛い物の磁器の鉢だった。
 しかし、煙は動く空気の中でじっとしていた。痺れた指でごわごわしたシーツの端をつかんで顔の汗をぬぐった。九つの簡単なレッスンと半額を前払いした後で通信教育講座から送られてきた例の指だ。アイオワ州シーダー・シティ、私書箱2468924。戯言だ。全くの戯言。
 ベッドの上に座り、しばらくすると床に足を着けられるようになった。両足とも裸足で中に画鋲や針が詰まっていた。日用雑貨は左です、マダム。特大の安全ピンは右です。足が床を感じ始めた。立ち上がった。直立には程遠かった。つんのめり、荒い息をし、ベッドのはしを握った。ベッドの下から聞こえてくるらしい声が、何度も何度も繰り返し言った。「禁断症状だ…禁断症状だ…禁断症状だ」》

【解説】

「あたりには煙が本当に漂っていた。小さな透明のビーズでできたカーテンのように真っ直ぐな細い列になって」は<The smoke hung straight up in the air, in thin lines, straight up and down like a curtain of small clear beads>。清水氏は「煙は細い糸のように、まっすぐ立ち上(のぼ)っていた」と訳している。これではまるで線香の煙のようだ。村上氏は「煙は何本もの細い筋になり、部屋の中空に直立するように浮かんでいた。小さな透明のビーズでできたカーテンみたいにまっすぐに上下している」と訳している。これもおかしい。

というのも、この後何度も出てくる煙は、そよとも動いていないのだ。この煙はマーロウが見ている幻覚で、本当は存在しない。だから、風にあたっても動かない。ではなぜ、ここだけ、「立ち上っていた」り、「上下して」いたりするのか。実は<straight up>には「本当に、正直に言うと」の意味がある。<hung in the air>は「漂う」という意味だ。マーロウは自分の感覚を信じて「本当に」という意味の<straight up>を挿入したのだろう。

また<straight up and down>は「垂直方向に真っ直ぐに」という意味で、別に「上下動」を意味していない。ちょっと辞書を引けば、例文がいくつでも出てくる。<up and down>には、上下だけでなく「あちこちに、至るところ」という意味があるので、<straight up and down>を使ったのだろう。それは<like a curtain of small clear beads>と直喩していことからも分かる。煙をビーズ・カーテンに喩えているのだ。誰も動かさなければ、カーテンは上下したりしない。

「ずんぐりした小男で白衣を着ていた。奇妙な眼で、黒くて薄っぺらい」は<He was a short thick man in a white coat. His eyes had a queer look, black and flat>。清水氏は「背の低い小男で、白い服を着ていた。眼が異様に輝いていた」と訳している。小男というのは、もともと背が低いものだし、後半は完全な作文だ。村上訳は「がっしりとした小男で、白い上っ張りを着ていた。目はどことなく奇妙だった。真黒で奥行きがない」。

「蒼ざめた悪意に満ちた顔、薄っぺらい黒い眼、灰白色の皮膚、貝殻のような鼻」は<Greenish malignant face and flat black eyes and gray white skin and nose that seemed just a shell>。清水訳は「青白い顔。うつろな黒い眼。灰色の皮膚。貝殻のような鼻」で<malignant>をトバしている。<greenish>を「青白い」と訳したのは<turn greenish>(人が青ざめる)から、そう訳したのだろう。村上訳の「悪意に満ちた緑がかった顔と、奥行きのない黒い瞳と、白っぽい灰色の皮膚と、殻でつくられたみたいな鼻」と比べると、いつものことながら、旧訳のこなれた訳しぶりに好感が持てる。「緑がかった顔」では、辞書そのままで工夫の跡が見えない。

「カーテンのように。消えてもゆかず、流れもせず、動きもしなかった。部屋に空気があることは、顔で感じられた。しかし、煙は空気を感じていなかった」は<Like a curtain. It didn't dissolve, didn't float off, didn't move. There was air in the room, and I could feel it on my face. But the smoke couldn't feel it>。清水氏はここを大幅にカットして「少しも揺れることなく、千匹の蜘蛛が編んだ灰色の網のように立ち上っていた」とまとめている。

参考までに、村上訳では「カーテンがかかっているみたいだ。消えることもないし、どこかに流されていくこともないし、動きもしない。部屋には空気の動きがあった。それを顔に感じることができた。それなのに煙はちっとも動じない」となっている。

「探偵になりたいって? いい金になるよ。九つの簡単なレッスン。バッジ進呈。五十セント追加で腕木付き」は<So you want to be a detective? Earn good money. Nine easy lessons. We provide badge. For fifty cents extra we send you a truss>。清水氏は「なんだって? 君、探偵になりたいのかね。いい金になるぜ。鑑札も世話してやるぜ」と訳している。村上訳は「私立探偵になりたいんですか? いい稼ぎになりますよ。九つの教科をとってください。バッジを差し上げます。五十セントの追加で飾り用の台もおつけします」と丁寧。

「縁にオレンジとブルーの小さな塊りが交互についていた」は<It had little colored lumps around the edge, orange and blue alternately>。清水氏はここを「小さな色電球がぐるりととりまいていて、オレンジとブルーが一つおきになっていた」と訳している。<lump>を<lamp>と見まちがえたのだろう。村上訳は「そのボウルの縁には色つきの小さな塊があしらわれていた。オレンジとブルーが替わりばんこになっている」。

「九つの簡単なレッスンと半額を前払いした後で通信教育講座から送られてきた例の指だ。アイオワ州シーダー・シティ、私書箱2468924。戯言だ。全くの戯言」は<the numb fingers the correspondence school had sent me after the nine easy lessons, one half in advance, Box Two Million Four Hundred and Sixty Eight Thousand Nine Hundred and Twenty Four, Cedar City, Iowa. Nuts. Completely nuts>。清水氏は全部カットしている。

村上訳は「それらの指は、九回の簡単なレッスンと半金の前払いが終わった後に、通信教育講座から送られてきたものだった。住所はアイオワ州シダー・シティー私書箱2468924。やれやれ、何を言ってるんだ。意味をなさないことを口にしている」。お得意の「やれやれ」が利いている。

「禁断症状だ」は<You've got the dt's>。清水氏は「精神錯乱だ」、村上氏は「そいつは酒毒の幻覚だ」と訳している。<dt's>は「振戦せん妄」のことで「アルコール中毒による急性せん妄状態」を意味している。「せん妄」とは意識混濁に加え、幻覚、錯覚などを見る状態のこと。アルコール中毒者は酒が切れてニ、三日たつと、そういう状態に陥るらしい。マーロウはふだんから自分でも酒を飲みすぎることを気にしているのだろう。