HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第28章(2)

階と階とをつなぐ階段は<stairs>。戸口から地面に通じる階段は<steps>。

【訳文】

 《彼女はグラスを持って帰ってきた。冷たいグラスを持ったせいで私の指に触る彼女の指まで冷たくなっていた。私はしばらくその指を握り、それからゆっくり放した。顔に陽を受けて目覚め、魔法にかけられた谷にいる夢を手放すときのように。
 彼女はさっと顔を赤らめ、自分の椅子に戻り、居ずまいを正して腰を下ろした。
 彼女は私が酒を飲むところを見やりながら、煙草に火をつけた。
「アムサーにはけっこう冷酷なところがある」私は言った。「しかし、どういうわけか私には宝石ギャングのブレーンのようには思えない。思い違いかもしれないが。仮に彼が参謀役で、私が何かつかんでいると知っていたら、あの麻薬病院から生きて出られたとは思えない。しかし、後ろ暗いところのある男だ。見えないインクで書かれた文字について口を滑らすまでは手荒な真似をしなかった」
 彼女は動じる様子もなく私を見た。「何と書いてあったの?」
 私はにやりとした。「あったとしても、私は読んでいない」
「問題発言を隠すにしては変わった方法だとは思わない? 煙草の吸い口の中というのは。見つからないかも知れないのに」
「そのことだが、マリオットは何かを怖れていて、もし自分に何かあったときにその名刺が発見されるようにしたのではないか、と思うんだ。警察は彼のポケットにあるものなら何でも徹底的に調べるはず。そこが悩みの種さ。もし、アムサーが強盗の一味だったら何も見つからなかっただろう」
「アムサーが彼を殺した―それとも殺させた、とすればね。でも、マリオットがアムサーについて知っていたことは、殺人と直接の関係はなかったかもしれない」
 私は椅子の背にもたれ、酒を飲み終え、それについて熟考しているふりをした。私はうなずいた。
「しかし、宝石泥棒は殺人と関係している。そして、アムサーが宝石泥棒と関係していると我々は考えている」
 彼女の眼に少し意味ありげな色が浮かんだ。「ひどい気分なんでしょう」彼女は言った。「ひと眠りした方がいいんじゃない?」
「ここでかい?」
 彼女は髪の根元まで赤くなった。顎を突き出した。「そういうこと。私は子どもじゃない。誰が気にするというの? 私がいつどこで何をどうしようと」
 私はグラスを脇に置いて立ち上がった。「めったにないことだが気後れしている」私は言った。「あまり疲れてなければタクシー乗り場まで送ってもらえないだろうか?」
「ばかじゃないの」彼女は怒って言った。「死ぬほど殴られて訳の分からない麻薬をたっぷり打たれたのよ。あなたに必要なのは一晩ぐっすり眠ることだけ、朝早くすっきり目覚めて、また探偵業にとりかかるために」
「少しばかり朝寝坊しようと思っていた」
「入院してなきゃいけないはずなのに。ばかなひと」
 私は身震いした。「いいかい」私は言った。「今夜は特別冴えているわけじゃないが、ここに長居しない方がいいと思う。連中について立証できることは何もないが、私は好かれていないようだ。何を言うにせよ警察を相手にしなければならないが、この街の警察はかなり腐敗しているようだ」
「ここはいい街です」彼女は少し息を切らせて言い放った。「勝手に決めつけないで―」
「オーケイ、いい街だよ、シカゴだってそうだ。トミーガンなど目にすることなく長生きすることもできる。もちろん、いい街さ。確かにロサンジェルスより腐っちゃいない。しかし、大都市で買えるのはそのうちの一部だ。これくらいの小さな街なら丸ごと買えるんだ。特製の箱に入れて包装紙で包んでもらえる。それが違いなのさ。それで外に出たくなる」
 彼女は立ち上がり、顎を私の方に突き出した。「あなたは今すぐここで寝るの。私には別の寝室があるから、あなたはちゃんと寝られる―」
「君の寝室のドアに鍵をかけると約束してくれるかい?」
 彼女は真っ赤になって唇を噛んだ。「時々、あなたを最高の探偵だと思う」彼女は言った。「そして、時々、こんな最低の下司野郎、見たことないと思う」
「どちらでも構わないから、タクシーを拾えるところまで連れて行ってくれないか?」
「ここにいるの」彼女はぴしゃりと言った。「あなたは体調がよくない。病人なの」
「人に指図されなきゃいけないほど病んではいない」私は意地悪く言った。
 彼女はあわてて部屋を飛び出したので、居間から廊下までの二段の段差で危うくつまずくところだった。彼女はすぐに戻ってきた。スラックスーツの上に長いフランネルのコートを羽織り、帽子はかぶっていなかった。赤みを帯びた髪は顔と同じくらい怒っているように見えた。
 彼女は通用口のドアを叩きつけるように開け、飛び跳ねるように通り抜けた。騒々しい足音がドライブウェイに響いた。ガレージの扉が上がる音が微かに聞こえた。車のドアが開いたかと思うと、バタンと閉まった。スターターが軋り、エンジンがかかった。ヘッドライトの閃光が居間の開いたフレンチ・ドアを通り過ぎた。
 椅子から帽子を取り、スタンドの灯りをいくつか消してみると、フレンチ・ドアにはエール錠がかかっていることが分かった。ドアを閉じる前に一瞬振り返った。快適な部屋だった。スリッパを履いて過ごすにうってつけの部屋だろう。
 ドアを閉じると同時に小さな車が傍に滑り込んだ。その後ろを回って車に乗り込んだ。
 彼女は家まで送ってくれた。唇を固く閉じ、怒って。嵐のような運転だった。私がアパートの前に降り立つと、彼女は冷やかな声でおやすみなさいと言い、通りの真ん中で小さな車を回して、私がポケットから鍵を取り出す前に行ってしまった。
 ロビーのドアは午後十一時で鍵が閉まる。鍵をあけ、いつも黴臭いロビーを抜け、階段とエレベーターのところまで行って、自分の階に上がった。わびしい光があたりを照らしていた。配達用ドアの前に牛乳瓶が置かれていた。その後ろに赤い防火扉が控えていた。換気用網戸がついているが、物憂げに流れ入る外気には調理場の匂いを消し去ることはできなかった。私は動きを止めた世界に帰ってきた。世界は眠りこける猫のように害がなかった。
 アパートのドアの鍵を開けて中に入り、明りのスイッチを入れるまでの束の間、ドアに凭れて佇み、匂いを嗅いだ。素朴な匂い、埃と煙草の煙の匂い、男たちが暮らし、生き続ける世界の匂いだ。
 服を脱いでベッドに入った。悪夢を見て汗をかいて目を覚ました。しかし、朝には健康な体に戻っていた。》

【解説】

「少しばかり朝寝坊しようと思っていた」は<I thought I'd sleep a little late>。清水氏は「ぼくはむしろ寝すぎたと思っているんだが……」と訳している。村上氏も「むしろ長く眠りすぎたような気がしていたんだがな」と訳している。<late>には「遅れる」の意味はあるが「~過ぎる」の意味はない。これはその前のアンの言った<to get up bright and early>を受けて、むしろ早起きしないでゆっくり寝ていたい、と言っているのだ。

「勝手に決めつけないで―」は<You can't judge->。清水氏は「一度そんなことがあったからって……」と、口にしていないところを推測して訳に使っている。村上訳も「たしかに一部では……」と、同じやり方だ。

「トミーガン」は<Tommygun>。正式には「トンプソン・サブマシンガン」という、短機関銃の愛称だ。清水氏は「機関銃」、村上氏は「マシンガン」と訳している。しかし、シカゴ・ギャングといえば「トミーガン」はつきもの。それに、一人で手に持って連射できる「サブマシンガン」は二脚架や三脚架のいる機関銃とは別物だ。あえて、別称を使う必要はない。

「特製の箱に入れて包装紙で包んでもらえる」は<with the original box and tissue paper>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「オリジナルの箱に入れて、きれいな詰め物までしてね」と訳している。<tissue paper>はティッシュペーパー。「薄葉紙(うすようし)」ともいう。緩衝材としても使うし、ラッピングにも用いる。村上氏は詰め物と考えたようだが、日本語なら「熨斗をかけて」というところだ。包装紙と考える方が、より効果的ではないか。

「彼女はあわてて部屋を飛び出したので、居間から廊下までの二段の段差で危うくつまずくところだった」は<She ran out of the room so fast she almost tripped over the two steps from the living room up to the hall>。清水訳では「彼女は足早に入口のホールへ走って行って」となっている。村上訳は「彼女は憤然として勢いよく部屋を出て行ったので、居間から二歩廊下へ出たところで危うくひっくり返りそうになった」だ。

<trip over>は「つまずく、よろける」で、「ひっくり返り」はオーバーだと思うが、気になるのはそこではない。<the two steps from the living room up to the hall>を「居間から二歩廊下へ出たところで」と訳しているところだ。ここはスキップフロアになっているのではないだろうか。階と階とをつなぐ階段には<stairs>を使うが、戸口などから地面に通じる階段は<step>を複数扱いにして用いる。第八章のマリオットの部屋でも<three steps>が使われている。何もないところでひっくり返りそうになるより、居間から廊下に至る段差でつまずきそうになった、と考える方が自然だ。

「ヘッドライトの閃光が居間の開いたフレンチ・ドアを通り過ぎた」は<the lights flared past the open French door of the living room>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ライトが灯り、その強い光が居間のフレンチ・ドア越しに見えた」と<open>をトバしている。これは後でエール錠がかかっているのを目にしているので、整合しないと見てわざと訳さなかったのだろう。清水氏は「フレンチ・ドアにはエール錠がかかっていることが分かった」という部分もカットしている。「フレンチ・ドア」はテラスに面して床まで開け放つ形式の観音開きのガラス窓だ。ガラス越しに強い光を目にしたマーロウが、ドアが開いていると勘違いしても無理はない。だからわざわざ施錠してあることを確認したのだ。

「階段とエレベーターのところまで行って」は<along to the stairs and the elevator>。清水氏は<the stairs>をトバして「エレヴェーターに乗った」と訳している。村上訳は「ステップを上がってエレベーターのところまで行き」だ。こだわるようだが、この時点でマーロウは玄関を入ってロビーに来ている。つまり、もう戸口と地面を仕切る「ステップ」はない。はっきり<the stairs>と書かれている。だいたい、エレベーターのある建物には階段が併設されているものだ。