HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(2)

<smooth shiny girls>は「練れた、派手な女」でいいのだろうか?

【訳文】

《「いいスーツを着ているな」
 彼の顔がまた赤くなった。「このスーツの値段は二十七ドル五十セントだ」彼は噛みつくように言った。
「なんとも感じやすい警官だな」私は言って、レンジに戻った。
「いい香りだ。どうやって淹れるんだ?」
 私はコーヒーを注いだ。「フレンチ・ドリップというんだ。豆は粗挽き、フィルター・ペーパーは使わない」私は戸棚から砂糖、冷蔵庫からクリームを出した。我々は部屋の隅に向かい合って座った。
「病気で入院してたというのは、冗談なんだろう?」
「冗談じゃない。ベイ・シティでちょっとしたトラブルに巻き込まれて放り込まれたんだ。刑務所じゃない。麻薬とアルコール中毒を治療する私立施設だ」
 彼は遠くを見るような目をした。「ベイ・シティだって? 痛い目に遭うのが好きなんだな、マーロウ?」
「好き好んでやってるわけじゃない。成り行きさ。しかし、ここまでひどい目に遭うのは初めてだ。頭を二回も殴られた。二回目は警官か、警官を名乗るそれらしく見える男にやられた。自分の銃で殴られ、凶暴なインディアンに首を絞められた。気絶してる間にその麻薬病院に放り込まれ、監禁された。しばらくの間ベッドに縛りつけられていたらしい。そしてそれを証明することは不可能だ。実のところ、からだ中があざだらけで、左腕には注射針の痕がごまんとある以外は」
 彼はテーブルの端をじっと見つめた。「ベイ・シティでね」彼はゆっくり言った。
「歌のような名前だ。汚いバスタブで歌う歌」
「何をしにそこまで行ったんだ?」
「私が行ったんじゃない。警官たちが連れてったんだ。私は人に会いにスティルウッド・ハイツまで行った。そこはL.Aだ」
「男の名は、ジュールズ・アムサー」彼は静かに言った。
「どうしてその煙草をくすねたりしたんだ?」
 私はカップの底をのぞき込んだ。まったく、余計なことを。
「妙だと思ったんだ。マリオットはケースを余分に持っていた。マリファナ煙草が入っていた。そいつはベイ・シティあたりで作られてるそうだ。空洞の吸い口、ロマノフ家の紋章など何もかもロシア煙草に似せて」
 彼は空になったカップを私の方に押し出した。私はお代わりを注いだ。彼の目は私の顔の皺の一本一本、微粒子一つ一つを入念に調べた。拡大鏡を手にしたシャーロック・ホームズ、或いはポケット・レンズを持ったソーンダイク博士のように。
「君は私に言うべきだった」彼は苦々しげに言った。彼はコーヒーを啜り、アパートによく置いてある、縁取りのあるナプキンの代用品で唇を拭った。「だが、君はそれをくすねちゃいない。あの娘が打ち明けてくれた」
「やれやれ」私は言った。「もうこの国では男には出番がない。いつも女だ」
「彼女は君が好きなんだ」ランドールは言った。映画に出てくる思いやりのあるFBIの男のように、少し悲しげに、しかしとても男らしく。「彼女の親父さんは真っ正直な警官だった。それで職を失う羽目になった。あの娘もまちがったことをする子じゃない。君のことが好きなんだよ」
「彼女はいい娘さ。私のタイプじゃないが」
「いい娘が好きじゃないのか?」彼は新しい煙草に手をつけ、顔の前の煙を手で払いのけていた。
「すべすべしてて艶やかな娘がいい。固ゆで卵のように、中にしっかり罪が詰まった」
「身ぐるみ剥がされに、洗濯屋に行くようなものだ」ランドールは興味なさそうに言った。
「その通りだが、他に私の行くところがあるか? 君は何の話をしにここに来たんだ?」
 彼はその日初めての微笑みを微笑んだ。微笑むのは日に四度と決めているのだろう。
「君は肝心なことを話していない」彼は言った。
「話して聞かせてもいいが、君の方が先を越しているだろう。マリオットという男は女専門の強請り屋だった。ミセス・グレイルもそう言っていた。しかし、彼には別の顔があった。宝石強盗団の情報提供者だ。スパイとして社交界に潜入し、被害者と親しくなり、企みの手筈を整える。彼は女と親しい仲になり、外へ連れ出せるようになる。先週木曜日のあのホールドアップがいい例だ。かなり臭い。もしマリオットが運転していなかったら、或いはミセス・グレイルを<トロカデロ>に連れて行かなかったら、或いは別の道筋で家に帰っていたら、ビアホールを通り過ぎてホールドアップは起こらなかっただろう」
「運転手が運転していたかもしれない」ランドールは尤もらしく言った。「しかし、それによって状況が大きく変わることはなかった。運転手なら、ホールドアップされても顔に鉛玉を喰らうような真似はしない―月に九十ドルではね。しかし、マリオット一人を使って何度も強盗するのは難しい。噂が立つに決まっている」
「この手の商売で肝心なことは人に知られないことだ」私は言った。「それもあって、買い戻し値は安い」
 ランドールは仰け反って、頭を振った。「俺の興味を引くにはもっとましなことを言わなくちゃな。女は何でもしゃべる。マリオットと出かけるのは危ないという噂が立っていただろう」
「おそらくな。それが消された理由だ」》

【解説】

「そいつはベイ・シティあたりで作られてるそうだ。空洞の吸い口、ロマノフ家の紋章など何もかもロシア煙草に似せて」は<they make them up like Russian cigarettes down in Bay City with hollow mouthpieces and the Romanoff arms and everything>。清水氏はここを「ベイ・シティで作ったものらしい」と訳している。村上訳は「ベイ・シティ―あたりでロシア煙草に見せかけたものを作っているらしい。吸い口を空洞にして、ロマノフ王朝の紋章なんぞを刷り込んでね」だ。

「彼はコーヒーを啜り、アパートによく置いてある、縁取りのあるナプキンの代用品で唇を拭った」は<He sipped and wiped his lips with one of those fringed things they give you in apartment houses for napkins>。清水訳は「コーヒーを一口啜(すす)って、ハンケチで口を拭った」。村上氏は「アパートメント・ハウスにナプキンがわりによく備え付けてある、房のついた布切れで口元を拭った」だ。

清水氏の「ハンケチ」は論外だが、実際の品についてははっきりとは分からない書き方になっている。村上訳では「布切れ」となっているが、原文は<one of those fringed things>。どこにも布とは書いていない。わざわざ房飾りのついた布を用意するくらいなら、もうそれは立派なナプキンだろう。「ナプキンの代用品」としたのは<one of those things>というフレーズに含まれる否定的なニュアンスを生かしたかったからだ。

「すべすべしてて艶やかな娘がいい。固ゆで卵のように、中にしっかり罪が詰まった」は<I like smooth shiny girls, hardboiled and loaded with sin>。清水訳は<「もっとあくの強い女の方がいいね」と私はいった。「すれっからしで、少々グレているほうがいい」>。村上訳は「私はもっと練れた、派手な女が好きだ。卵でいえば固茹で、たっぷりと罪の詰まったタイプが」。

<smooth shiny>は、シャンプーの宣伝文句みたいだが、マーロウはミセス・グレイルの脚を思い出しているのではないだろうか。「滑らかで光沢のある」という言葉から、ゆで卵が連想される。その中に<loded>(装填された、詰まった)されているのは、少々のことでは揺れ動くことのない、しっかり固まった<sin>「罪」だ。表面は取り繕ってきれいなものだが、中身は罪深い女のイメージだ。両氏の訳では初めから悪女めいて見える。

「身ぐるみ剥がされに、洗濯屋に行くようなものだ」は<They take you to the cleaners>。清水氏は「そんな女とつきあっても、碌なことはないぜ」と訳している。それに対するマーロウの返事は「わかってるよ。どうせ、堅気の暮らしはしてはいないんだ」。村上氏は「そういう女には尻の毛までむしられるぜ」。「承知の上さ。だからいつだってからっけつ(傍点五字)なんじゃないか」と応答している。

<take someone to the cleaners>は直訳すれば「~をクリーニング屋に連れていく」だが、そこから「身ぐるみはがされる」の意味になる。それに対するマーロウの返事は<Sure. Where else have I ever been? >。<where>で受けているのは<the cleaners>に対する返答だからだ。このやりとりを村上氏は「尻の毛をむしられる」「からっけつ」という語呂合わせで対欧させているのだろう。面白いが、あまり品がいいとは思えない。