HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(3)

<out on the water>が「海に浮かんだ」? 船が海に浮かずにどうする

【訳文】

《「あいつはマリファナ煙草をさばいてるとばっかり思ってた」彼は忌々しそうに言った。「それなりの後ろ盾を得てな。しかしあんなのは三下の小遣い稼ぎだ。何程にもならん」
「ナンバーズ賭博のことを知ってるだろう? あれもまた三下の小遣い稼ぎだ―もしその一部しか見ていなければ」
 ヘミングウェイはまた角を急に曲り、重い首を振った。「その通りだ。ピンボール・ゲーム、ビンゴ・ハウス、馬券屋もそうだ。しかし、それらをすべて足し合わせて、一人の男が仕切れるようにすれば、話は違ってくる」
「誰なんだ?」
 彼の顔からまた生気が失せた。口を堅く結び、上下の歯をしっかり食いしばっているのが見えるようだ。我々はディスカンソ通りを東に向かった。もう夕方に近かったが、通りは静まり返っていた。二十三番街に近づくにつれて、何とはなしに静かではなくなった。二人の男が椰子の木を見て、どうやったら動かすことができるか思案中のようだった。一台の車がドクター・ソンダーボーグの家近くに駐車していたが、中は見えなかった。ブロックの中程で一人の男が水道のメーターを調べていた。
 昼間見ると気持ちのいい家だった。ティーローズ・ベゴニアが正面の窓の下にこんもりとした淡い色の塊りを作り、花盛りのホワイト・アカシアの根元にはぼんやりとした色合いのパンジーが咲いていた。緋色の蔓薔薇が扇形をしたトレリスの上に蕾を開きかけていた。スイートピーの冬のねぐらを灰緑色のハチドリがそっと突っついている。庭いじりの好きな裕福な老夫婦が住んでいそうな家だ。午後も遅くの太陽は静まり返り、威嚇するような静けさを帯びていた。
 ヘミングウェイはゆっくりと家の前を通り過ぎた。口の端をぐいと引き、こわばった小さな微笑を見せた。その鼻が何かを嗅ぎつけた。次の角を曲がり、バックミラーをのぞいて、車のスピードを上げた。
 三ブロックほど行ったところで再び道路脇に車を停め、振り返って私をじっと凝視めた。
「L.A.のお巡りだ」彼は言った。「椰子の木の傍にいた二人組の一人、名前はドネリー。やつを知ってる。やつらはあの家を張っている。たしか、市警にいるあんたの友人には話してないはずだったよな?」
「言ったとおりだ。話してない」
「署長が喜ぶだろうよ」ヘミングウェイは歯を剥き出してうなった。「あいつら、ここまで出張ってきて、手入れまでしてるのに、こちらに一言の挨拶もない」
 私は口をはさまなかった。
「ムース・マロイは逮捕されたのか?」
 私はかぶりを振った。「私の知る限りではまだだ」
「一体、どこまでなら知ってるんだ?」彼はおだやかに訊いた。
「たいしたことは知らない。アムサーとソンダ―バーグに何か繋がりはあるのか?」
「俺の知る限りでは、ない」
「この街を仕切ってるのは誰なんだ?」
 沈黙。
「レアード・ブルネットという名の賭博師が市長を当選させるのに三万ドル積んだと聞いた。ベルヴェディア・クラブと夜のお楽しみ用の二隻の賭博船の所有者だそうだ」
「そうかもな」ヘミングウェイはもっともらしく言った。
「どこへ行けばブルネットに会える?」
「なんで俺に訊くんだ、ベイビー?」
「この街で隠れ家をなくしたら、どこへ行く?」
「メキシコだ」
 私は笑った。「なあ、ひとつ無理を聞いてくれないか?」
「いいとも」
「市内に連れて帰ってくれ」
 彼は道路脇から車を出し、影の落ちた通りに沿って海に向かって手際よく走らせた。車は市役所に着き、警察の駐車場に滑り込んだ。私は車を降りた。
「時々は顔を見せろや」ヘミングウェイは言った。「たぶん俺は痰壺を掃除してるだろう」
 彼は大きな手を外に出した。「うらみっこなしだぜ?」
「道徳的再武装」と、私は言って彼の手を握った。
 彼は満面に笑みを浮かべた。私が歩き出そうとしたとき、彼が呼び返した。あたりを注意深く見回してから、身を屈めて私の耳に口を近づけた。
「二隻の賭博船は市や州の司法管轄区外にいることになっている」彼は言った。「パナマ船籍。俺だったら―」彼はそこで急に言葉を切り、暗い眼に不安の影をちらつかせた。
「分かってるよ」私は言った。「私も同じようなことを考えてた。君に同じことを考えてもらうために、どうしてこんなに手間をかけたのか、わけが分からない。ともかく、うまく行きっこない―たった一人ではな」
 彼は肯いた。それから微笑んだ。「道徳的再武装」彼は言った。》

【解説】

「ナンバーズ賭博のことを知ってるだろう? あれもまた三下の小遣い稼ぎだ―もしその一部しか見ていなければ」<Ever hear of the numbers racket? That's a small time racket too-if you're just looking at one piece of it>。清水氏は「もちろんケチな稼業(しょうばい)さ。それだけのことならね」と訳している。村上訳は「ナンバー籤のことを知っているだろう。あれだってちっぽけな裏稼業だ。その一部だけを見ればな」。<small time>は「三流の、ちっぽけな」という意味だが、<small-time racketeer>には「犯罪組織の下っ端」という意味がある。

「一人の男が水道のメーターを調べていた」は<a man was reading water meters>。清水氏はここを「水道のメートルをしらべていた」と訳している。<meter>は確かに「メートル」だが、「水道のメートル」という言い方は初めて聞いた。「酒に酔ってメートルをあげる」という言い方があるが、それと同じ使い方なんだろうか。村上訳は「一人の男が水道のメーターを検針していた」。

ティーローズ・ベゴニアが正面の窓の下にこんもりとした淡い色の塊りを作り」は<Tea rose begonias made a solid pale mass under the front windows>。清水訳は「往来に向った窓の下に、眼のさめるようなベゴニアが咲き乱れていた」。村上訳は「ティーローズ・ベゴニアが正面の窓の下に、いかにもくっきりとした青灰色のかたまりを作っていた」だ。 

ティーローズ・ベゴニアは、木立性ベゴニアのひとつで、大きな葉の間からシャンデリアのように花房が垂れさがる可憐な花だ。「眼のさめるような」真っ赤な花もないではないが、その場合<pale>と表現するだろうか。< solid mass of cloud>は「もくもくした(厚い)雲の塊」のことだ。<solid>は村上氏が言うように「くっきり」と二次元的に他と分割される状態を意味するのではなく三次元的に中身の詰まった状態を表す言葉だ。ベゴニアの花の塊なら「青灰色」はあり得ない。村上氏の伝で行くなら、マーロウはベゴニアの葉に目を留めたことになる。

「花盛りのホワイト・アカシアの根元にはぼんやりとした色合いのパンジーが咲いていた」は<pansies a blur of color around the base of a white acacia in bloom>。清水訳は「アカシヤの白い花の根もとをパンジーがとりまいていた」。村上訳は「満開の白いアカシアの木の下には、ぼんやりとした色合いのパンジーが咲いていた」だ。問題はアカシアの花はミモザに似た黄色だということだ。白い花ならニセアカシアの方になる。ニセアカシアとしてもいいのだが、本来は「ハリエンジュ」なのに、日本人が勝手に「アカシア」にしてしまい、後から本物と区別するために「ニセ」をくっつけた。あんまりな仕打ちだ。花の色を残すため、原文通り「ホワイト・アカシア」とした。

スイートピーの冬のねぐらを灰緑色のハチドリがそっと突っついている」は<There was a bed of winter sweet peas and a bronze-green humming bird prodding in them delicately>。清水訳は「スウィート・ピーの花壇に、青銅を思わせるような緑色の蜂雀が降りていた」。「蜂雀(ホウジャク)」は蜂に似た虫でハミングバード(ハチドリ)とは別物。村上訳は「ウィンター・スイートピーの花壇があり、青銅に近い緑色のハミングバードが思慮深げにそれを突っついていた」。

まず誤解を解いておこう。オリンピックの銅メダルのことを「ブロンズ・メダル」と呼ぶように、青銅(ブロンズ)の色は新品の十円玉のような色で、緑色とは似ても似つかない。原文にハイフンが使われているように、これだけで一つの色の名を表している。灰色味を帯びた緑色のことだ。もう一つ、「ウィンター・スイートピー」というのがよく分からない。そういう品種があるとも聞かない。時期は三月の終わり。もうすぐベッドから起き出す、という意味ではないのだろうか。

「午後も遅くの太陽は静まり返り、威嚇するような静けさを帯びていた」<The late afternoon sun on it had a hushed and menacing stillness>。清水訳は「夕ぐれ近い太陽が静かな落ちついた光線を投げていた」。<menace>は「威嚇する、脅す」の意味なので、この訳はおかしい。村上訳は「そこを照らしている夕方近くの太陽には、押し殺されたような、どことなく物騒な静けさがあった」だ。例によって、勿体ぶっている。もっと簡潔に訳せるはずだ。

「その鼻が何かを嗅ぎつけた」は<His nose sniffed>。清水氏は「鼻がピクピク動いた」と訳している。<sniff>を自動詞と取ったのだろう。村上訳は「その鼻は何かをかぎ取っていた」。<sniff>は自動詞の場合、「ふんふん嗅ぐ」の意味だが、他動詞の場合、「~を嗅ぎつける、感づく」という意味がある。この場合は後者だろう。

「三ブロックほど行ったところで再び道路脇に車を停め、振り返って私をじっと凝視めた」は<After three blocks he braked at the side of the street again and turned to give me a hard level stare>。清水氏は何故かここを訳し忘れている。その結果、これ以降の会話が、動く車の中でなされているように読めてしまう。痛恨のミスだ。村上訳は「三ブロック進んでから、彼はまた道路脇に車を停めた。こちらを向いて、厳しい視線をまっすぐに向けた」。

「たしか、市警にいるあんたの友人には話してないはずだったよな?」は<So you didn't tell your pal downtown, huh?>。清水訳は「君は警察には話さなかったといったな」。村上訳は「あんたはたしか、署長にはこのことは話してないと言ったよな」。<downtown>というのは日本語でいうところの「下町」ではない。繁華街、商業地区、都心部のことだ。ここではベイシティ署を指している。そこでマーロウの<pal>と呼べるのは署長一人だ。

「ベルヴェディア・クラブと夜のお楽しみ用の二隻の賭博船の所有者だそうだ」は<I heard he owns the Belvedere Club and both the gambling ships out on the water>。清水訳は「ベルヴェディア・クラブの経営者で、賭博船は二隻とも彼のものだということだが…」。村上訳は「そしてその男はベルヴェディア・クラブと海に浮かんだ二隻の賭博船を所有している。そういう話を耳にした」だ。

問題は<out on the water>にある。清水氏は例によってパスしている。村上氏は「海に浮かんだ」と訳しているが、船が海に浮いていないでどうする。<go out on the water>は「船遊山」のこと。<out on the town>なら「(特に夜に)浮かれ楽しんで、歓楽にふけって」という意味だ。

「市内に連れて帰ってくれ」は<Drive me back downtown>。清水氏は「下街まで戻ってくれないか」と訳している。村上氏は「ダウンタウンまで送ってくれないか」と訳している。この<downtown>は、市の中心部、繁華街を意味している。そこまで行けば、自分の車があるからだ。

「暗い眼に不安の影をちらつかせた」は<his bleak eyes began to worry>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「そして愁いを含んだ目は不安そうな色を浮かべた」。<bleak>「荒涼とした、寒々とした、わびしい」に「愁いを含んだ」という訳語をあてるのが村上流なのだろう。むしろ、何も感情らしきものを見せなかった目に、ようやく「愁い」のようなものが見えたということではないのだろうか。

「君に同じことを考えてもらうために、どうしてこんなに手間をかけたのか、わけが分からない。ともかく、うまく行きっこない―たった一人ではな」は<I don't know why I bothered so much to get you to have it with me. But it wouldn't work-not for just one man>。清水氏の訳では「ぼくのことは心配しないでくれ」となっている。手抜きが過ぎる。村上訳は「君に私と同じ考えを持ってもらうために、どうしてこれだけの手間をかけたのか、自分でもよくわからない。いずれにせよ、手の出しようもなかろう。一人きりではな」だ。