HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第34章(2)

<Play the hunch>は「直感で行動する」の意味だ。さてどう訳す?

【訳文】

《私がその男を見つけたのは白いバーベキュー・スタンドだった。長いフォークでウィンナーを突っついていた。まだ春先だというのに彼の商売は繁盛しているようだ。彼の手が空くまでしばらく待たねばならなかった。
「遠くの方にいるのは何という名なんだ?」私は鼻先で示して訊いた。
「モンテシート」彼は落ち着いた表情で私を見た。
「それなりの金さえあれば、あそこで時間を潰すことができるだろうか?」
「何をして潰すんだね?」
 私は冷ややかに笑った。とてもタフに。
「ホットドッグ」彼は売り声をあげた。「旨いホットドッグだよ、みんな」彼は声を落とした。「女かね?」
「いや、考えてるのは、気持のいい海風の入る部屋、美味い食事、誰にも煩わされることのない。ある種の休暇だ」
 彼は身を引いた。「何を言ってるのかさっぱりわからんね」彼はそう言い、また売り声をあげはじめた。
 また客が現れた。何故この男にかかずらっているのか分からなかった。ちょうどそんな顔をしていたということだ。ショーツ姿の若いカップルがホットドッグを買って、ぶらぶら歩いて行った。男の腕が女の背中に回され、互いに相手のホットドッグを食べていた。
 男が一ヤードばかり近寄ってきて私の方をじっと見た。「まさに今、『ピカルディの薔薇』の口笛でも吹いているべきなんだろう」彼は言った。そして少し間を置いてから、彼は言った。「それには金がかかるよ」
「いくらだ?」
「五十だな。それ以下じゃ無理だ。あちらがあんたに用でもなけりゃな」
「かつて、ここはいい街だった」私は言った。「頭を冷やすにはもってこいだった」
「今でもそうだと思っていた」彼は間延びした声で言った。「けど、なんで俺に訊いたんだ?」
「特にわけはない」私は言って、一ドル札をカウンターにほうった。「貯金箱に入れておくさ」私は言った。「でなきゃ、口笛で『ピカルディの薔薇』でも吹いてな」
 男は札をひったくり、縦に二つに折り、横に二つに折り、もう一度折った。それをカウンターの上に置き、中指を曲げて親指の裏にあてて弾いた。折り畳まれた札は軽く私の胸にあたり、音もなく地面に落ちた。私は屈んでそれを拾い、素早く振り返った。刑事らしきものは私の後ろにはいなかった。
 私はカウンターに凭れ、一ドル札をもとのように置いた。「誰も私に向かって金を投げない」私は言った。「みんな手渡してくれる。そうしてもらえないだろうか?」
 彼は一ドル札を取って、広げ、伸ばし、エプロンで拭いた。レジスターを叩いて開け、その中に札を落とし入れた。
「金は臭わないっていうよな」彼は言った。「時々疑わしくなる」
 私は何も言わなかった。何人か客が来てホットドッグを買って帰っていった。夜は急に冷えてきた。
「俺なら<ロイヤル・クラウン>はやめとくね」男は言った。「あれは善良な小市民相手の船だ。せっせと溜め込んだ小金が狙いだ。俺の見るところ、あんたは刑事だ。きっと、何か企んでるんだろう。泳ぎが上手いことを祈るよ」
 そもそも、なぜあの男のところに行ったのだろうと首をひねりながら、彼のもとを去った。カマをかけろ。カマをかけて返り討ちに遭った。そのうち、目が覚めたら口の中がカマだらけになってることだろう。コーヒー一杯注文するにも、眼をつむってメニューを指さなきゃいけない破目になる。カマをかけろ、か。
 私は辺りを歩き回って、誰か後をつけてそうな様子がないか探ってみた。それから揚げ油の匂いのしないレストランを探した。そして紫のネオンがつき、葦のカーテンの後ろにカクテル・バーがある一軒を見つけた。ヘナで髪を染めた優男が小型のグランド・ピアノにしな垂れかかり、淫らに鍵盤をまさぐり、踏板の半分が抜け落ちたような声で『星への階段』を歌っていた。

 私はドライ・マティーニをぐっとやり、急いで葦のカーテンを通り抜けて食堂に戻った。
 八十五セントの夕食は捨てられた郵便袋みたいな味がした。給仕してくれたウエイターときたら、二十五セント出せば私を殴りつけ、七十五セントなら喉を裂き、一ドル五十セントに消費税をつけたらコンクリートの樽に詰めて海に放り込みそうな男だった。》

【解説】

「誰にも煩わされることのない」は<nobody to bother me>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「誰にも邪魔されない」。「ちょうどそんな顔をしていたということだ」は<He just had that kind of face>。清水氏はここもカット。村上訳は「ひとくせある顔をしていたからだろう」。<that kind of face>を「ひとくせある顔」と訳すのはちょっと無理がある。男の顔について話者はは一言も触れていない。マーロウの勘でしかないからだ。

「まさに今、『ピカルディの薔薇』の口笛でも吹いているべきなんだろう」は<Right now I should be whistling Roses of Picardy>。清水氏は「いま、"ピカデリーのバラ″を口笛で吹いてなきゃいけないのだが」と訳している。村上氏は「素知らぬ顔で、口笛で『ピカルディのバラ』(一九一六年に作曲されたヒット曲、フランスの地名)でも吹いているべきなんだろうな」と詳しく註を入れている。「ピカデリー」なら綴りは<Piccadilly>。

「かつて、ここはいい街だった」は<This used to be a good town>。清水氏はこの部分を地の文扱いで「静かな落ちついた街だった」とし、語順を入れ替え、その後でマーロウに「この街はいい街だった」と言わせている。単なるミスだろう。村上氏は「ここは昔はいい街だった」。それに続く<A cool-off town>を「ほとぼりをさますのにいいところだった」と訳している。

「今でもそうだと思っていた」は<Thought it still was>。清水氏も「いまでもそうだろう」と訳している。ところが、村上訳では「古い話をされても困る」となっている。どう読んだら、そういう訳が出てくるのだろう。

「男は札をひったくり、縦に二つに折り、横に二つに折り、もう一度折った」は<He snapped the bill, folded it longways, folded it across and folded it again>。清水訳は「彼は紙幣を拾って、細くたたみ」と短い。村上訳は「彼は札をつかみ、縦に二つに折った。それを横に二つに折り、もう一度折った」だ。

「あれは善良な小市民相手の船だ。せっせと溜め込んだ小金が狙いだ」は<That's for good little squirrels, that stick to their nuts>。清水訳は「あの船に行くのは、しろうと(傍点四字)の旦那衆ばかりなんだ」。<squirrel>は「リス」のこと。そこから「(金などを)たくわえる」という意味がある。村上訳は「あっちの船は小物相手だ。小遣い銭を巻き上げるだけさ」。

「きっと、何か企んでるんだろう」は<but that's your angle>。清水氏は「ロイヤル・クラウン号に用があるはずはない」と訳している。村上訳は「でもまああんたなりの心づもりがあるんだろう」だ。<What's your angle>は「何を企んでるんだ」という意味の決まり文句だ。

「カマをかけろ」と訳したところは<Play the hunch>。「直感で行動する」ことを意味する定型句だ。清水氏は「勘で当ってみるんだ」と訳している。村上訳は「勘に頼っただけだ」と微妙にニュアンスが異なる。清水氏は<Play the hunch>を肯定的に、村上氏は否定的に捉えている。

「カマをかけて返り討ちに遭った。そのうち、目が覚めたら口の中がカマだらけになってることだろう」は<Play the hunch and get stung. In a little while you wake up with your mouth full of hunches>。清水氏はここをカットしている。それはそうだろう。<get stung>は「(ハチなどに)刺される」の意味だが、俗に「(詐欺師などに)だまされる」ことを言う。とても肯定的には受け取れない。村上訳は「勘に頼ってしっぺ返しをくらわされたんだ。そのうちに、朝目が覚めたら、口の中が勘でいっぱいだったというようなことになるかもしれない」。

「コーヒー一杯注文するにも、眼をつむってメニューを指さなきゃいけない破目になる。カマをかけろ、か」は<You can't order a cup of coffee without shutting your eyes and stabbing the menu. Play the hunch>。清水訳は「眼をつぶって、メニューを突き出しただけでは、コーヒーを註文することはできない。勘で当ってみるのだ」。<stab>を、氏は「突き出す」と取っているが、ここは「指さす」と取らないと意味が通じない。村上訳は「目を閉じて、盲めっぽうにメニューを指ささないことには、コーヒーひとつ注文できなくなる。何ごとも勘がいちばんというわけだ」。

「ヘナで髪を染めた優男が小型のグランド・ピアノにしな垂れかかり、淫らに鍵盤をまさぐり」は<A male cutie with henna'd hair drooped at a bungalow grand piano and tickled the keys lasciviously>。清水訳は「女のような優男(やさおとこ)がグランドピアノを弾きながら」と細部をカットしている。村上訳は「髪を赤茶色に染めたやさ男が、小型のグランドピアノにかがみ込んで、思い入れたっぷりに鍵盤を撫で回し」。<bungalow grand piano>はアパート・サイズの小振りのグランドピアノのこと。

「踏板の半分が抜け落ちたような声で『星への階段』を歌っていた」は<sang Stairway to the Stars in a voice with half the steps missing>。清水訳は「力のない声で“星への階段”をうたっていた」。村上訳は「『星への階段(きざはし)』を歌っていた。声に不足があり、その階段は半分ほど段が失われていた」だ。