HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(2)

<I wouldn't be surprised>が「楽しそうだ」になるのが村上流。

【訳文】

 いかつい赤毛の大男が、凭れていた手すりから身を起こし、無雑作に体をぶつけてきた。汚れたスニーカーに、タールまみれのズボン、破れた青い船員用ジャージの残骸に身を包み、頬には黒い筋があった。
 私は足をとめた。相手にするには大き過ぎた。私より三インチは背が高く、三十ポンドは重かった。しかし、私としては、そろそろ誰かの歯に一発お見舞いする頃合いだった。たとえそのせいで腕が義手になったとしても。
 灯りは暗く、ほとんど男の背後にあった。
「どうかしたかい、相棒?」彼は物憂げに言った。「地獄船に乗り損ねたのか?」
「シャツを繕った方がいい」私は言った。「腹が見えている」
「もっと酷い目に遭ってたかもしれない」彼は言った。「そのふくらみはハジキだ。おまけにそんな細身のスーツときてる」
「いらぬ詮索だ。何か思うところでもあるのか?」
「とんでもない。ただの好奇心さ、気を悪くしないでくれ」
「いいから、人の邪魔をするな」
「いいとも。俺はここでひと休みしているだけさ」
 彼は微笑んだ。生気のない疲れた微笑みだ。夢でも見ているようにソフトな声で、大男にしては驚くほど繊細だった。それは私に、何故か好意を感じている、もう一人のソフトな声の大男を思い起こさせた。
「あんたはアプローチの仕方を間違ったのさ」彼は悲しげに言った。「俺のことはレッドと呼んでくれ」
「そこをどいてくれ、レッド。優秀な人間にも間違いはある。そいつが背中を這い上がるのを感じる」
 彼は用心深くあたりを見回し、浮桟橋の待合所の隅に私を連れて行った。我々の他には誰もいないようだった。
「あんたはモンティに乗りたいんだろう? 力になるぜ。何か理由があるのか?」
 派手な服を着て陽気な顔をした人々が我々を通り抜けてタクシーに乗り込んだ。私は彼らが行ってしまうまで待った。
「その理由はいくらだ?」
「五十ドル。ボートに血を流したら、あと十ドル」
 私は男を避けて歩き出した。
「二十五」彼はそっと言った。「十五でいい。もし友達を連れてきてくれたら」
「友達などいない」私はそう言って歩き去った。彼は止めようとしなかった。 
 私はセメントの歩道を右に曲がった。小さな電気自動車が、妊婦でも驚かないような小さな警笛を鳴らしながら、がたごとと行き交っていた。最初の桟橋のたもとには、すでに人でいっぱいの派手なビンゴ・パーラーがあった。私は中に入り、賭けをする人々の後ろの壁にもたれて立った。そこには大勢の客が立って、席が空くのを待っていた。
 私はいくつかの数が電光掲示板に表示されるのを眺め、進行係がそれを読み上げるのを聞き、店のサクラを見つけようとしたが、無理だった。それで店を出ようと振り向いた。 
 タールの匂いがする大きな青みが私の傍に形をとった。「金がないのか―単にケチなだけか?」静かな声が私の耳に囁いた。
 私はもう一度男を見た。何かで読んだことはあるが、このような眼を見るのは初めてだった。菫色の眼だ。ほとんど紫と言っていい。少女のような眼だ、それも美少女の。皮膚は絹のように柔らかく、軽く赤みを帯びていたが、日灼けはしない。繊細過ぎるのだ。彼はヘミングウェイより大きく、かなり若かった。ムース・マロイほどには大きくなかったが、足は速そうだった。髪は金色にきらめく赤の色合いを帯びていた。しかし、眼を除けば、地味な農夫のような顔で、芝居がかった美貌の持ち主ではなかった。
「仕事は何だ?」彼は訊ねた。「私立探偵か?」
「答える義理はない」私は声を荒げた。
「そうじゃないかと踏んだんだ」彼は言った。「二十五では高すぎるか? 必要経費で落ちるんだろう?」
「いや」
 彼は溜め息をついた。「どうせ思いついたのはひどい代物だった」彼は言った。「あんたはずたぼろにされてしまうだろう」
「そう聞いても驚かないね。何で食ってるんだ?」
「こちらで一ドル、あちらで一ドルさ。警官だったこともある。追い出されたんだ」
「なぜそんなことまで打ち明けるんだ?」
 彼は驚いたようだった。「事実だからさ」
「きっと、相手構わず、ため口をきいていたんだろう」
 彼はかすかに微笑んだ。
「ブルネットという名の男を知っているか?」

【解説】

「いかつい赤毛の大男」は<A big redheaded roughneck>。清水訳は「赤い髪の人相がよくない男」。村上訳は「見るからにタフそうな赤毛の大男」。<roughneck>は石油採掘用の井戸を掘る掘削リグで働く労働者のことを指す言葉だが、転じて「乱暴者、荒くれ者」の意味となる。いずれにせよ「人相」は関係しない。現に後の方で清水氏はこの男のことを「平凡な百姓の容貌(かお)だった」と訳している。

「汚れたスニーカーに、タールまみれのズボン、破れた青い船員用ジャージの残骸に身を包み」は<in dirty sneakers and tarry pants and what was left of a torn blue sailor's jersey>。清水訳は「薄いゴム底の靴を履きよれよれのズボンにみすぼらしい船員の青い制服を着た」。「スニーカー」という言葉が一般的になる前の、時代を感じさせる訳である。<tarry>は「タールで汚れた」という意味で、「よれよれの」というのとは違う。村上訳は「汚れたスニーカーに、タールのシミの付いたズボン、船乗り用の青いジャージー服の残骸のようなものを身にまとい」。

「しかし、私としては、そろそろ誰かの歯に一発お見舞いする頃合いだった。たとえそのせいで腕が義手になったとしても」は<But it was getting to be time for me to put my fist into somebody's teeth even if all I got for it was a wooden arm>。清水訳は「しかし、たとえ、腕がしびれるような目にあおうとも、黙ってはいられない気持だった」。村上訳は「しかし私としては、もしたとえそのおかげで義手をつける境遇になったとしても、誰かの口元に一発食らわせずにおくものかという気分だった」。

「灯りは暗く、ほとんど男の背後にあった」は<The light was dim and mostly behind him>。村上氏は「明かりは暗く、おおむね私の背後にあった」と訳している。単純なミスだ。校閲係は何をしてたのか。清水訳は「灯火はうすぐらく、ほとんど彼の背後にあった」。

<「シャツを繕った方がいい」私は言った。「腹が見えている」>は<“Go darn your shirt,” I told him. “Your belly is sticking out.”>。清水氏はここを<「止してくれ!」と私はいった。「お前の知ったことじゃなかろう」>と作文している。村上訳は<「シャツをつくろってこいよ」と私は言った。「腹が丸見えだぜ」>。

「そのふくらみはハジキだ。おまけにそんな細身のスーツときてる」は<The gat's kind of bulgy under the light suit at that>。清水氏はここをカットしている。前に銃に関する言及をカットしたからだろう。ずいぶん後を引いている。村上訳は「そんなぴたりとしたスーツじゃ、ハジキをつけてるのは丸わかりだ」。

「あんたはアプローチの仕方を間違ったのさ」は<You got the wrong approach>。清水氏はここを「誤解しないでくれ」と訳しているが、ここは船に乗るやり方を言っているので、自分に対する接触の仕方ではない。村上訳は「あんた、やり方が間違っていたんだ」。

「浮桟橋の待合所の隅に私を連れて行った」は<He had me into a corner of the shelter on the float>。清水氏はここを「そして、私の前に立ちはだかった」と訳している。あまり調子がよくなかったのかもしれない。真剣に訳す気が感じられない。村上訳は「そして、浮き桟橋の端に私を追い込んでいった」。こちらは<the shelter>をトバシている。

「芝居がかった美貌の持ち主ではなかった」は<with no stagy kind of handsomeness>。清水氏は「芝居に出てくるような親しみのある容貌(かお)ではなかった」と訳している。<stagy>は「芝居がかった、わざとらしい」の意味で「親しみのある」というのとは違うと思うのだが。村上訳は「派手さはないが、顔立ちは整っている」と、「素朴な農夫の顔」という割に、ずいぶん好意的な見解である。

「どうせ思いついたのはひどい代物だった」は<It was a bum idea I had anyway>。清水訳は「余計なお世話かも知れないが」。これも決まり文句を流用しているだけで訳とはいえない。村上訳は「いずれにせよ、無謀な試みだ」。<It was>と単数扱いされている<a bum idea>を「いずれにせよ」というのはおかしい。この<a bum idea>は、レッド自身の考えを意味している。<It was a bum idea that I had anyway>と、省略されている<that>を補えば意味がはっきりする。

「そう聞いても驚かないね」は<I wouldn't be surprised>。清水訳は「そんなことはわかってる」。これなら分かる。村上訳は「楽しそうだ」。これはやり過ぎというものだろう。翻訳の域を越えて、マーロウに好き勝手をしゃべらせる権利は訳者にはないはずだ。

「きっと、相手構わず、ため口をきいていたんだろう」は<You must have been leveling>。清水氏はここと、その後の<He smiled faintly>をカットしている。村上訳は「きっと本当のことを言い過ぎたんだろう」。<leveling>は「高さを均すこと」。上の気に入らないことまで、平気で口に出していたことをいうのだろう。