HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(1)

波に、親しい波と「よそよそしい波」があるものだろうか?

【訳文】

街灯の列が遠ざかり、小さな遊覧車の立てる音や警笛が遠くなり、揚げ油とポップコーンの匂いが消え、子どもの甲高い声と覗きショーの呼び声も聞こえなくなると、その先には海の匂い、突然顕わになった海岸線、小石を巻き上げる波が泡立ち騒ぐ他に何もなかった。あたりに人影はなく、背後の騒音は消えていた。どぎつくいかがわしい街灯りは手探りするほどの光になりつつあった。やがて、灯りひとつない暗い桟橋が沖合いの闇に指を突き出しているのが見えた。これがそれだろう。私はそちらに歩き出した。
 桟橋の先頭の杭を背にした空き箱からレッドが立ち上がり、上にいる私に声をかけた。「ここだ」彼は言った。「先に行くと乗船用階段がある。俺は彼女を迎えに行ってウォームアップさせておく」
「河岸の刑事が尾けてきた。ビンゴ・パーラーにいた男だ。足止めを食った」
「スリ係のオルソン。腕利きだ。ときどき財布を掏っては別人のポケットに滑り込ませる癖さえなけりゃな。自分の逮捕記録を維持するためさ。いささか腕利きすぎるのかもな?」
「ベイ・シティなら上出来な部類だ。行こう。風が出てきた。霧が晴れてほしくない。大したことはなさそうだが助けにはなる」
「サーチライトを誤魔化すには充分だ」レッドは言った。「甲板の上にはトミー・ガンが待ってる。先に桟橋に行っててくれ。俺は後から行く」
 彼は闇の中に溶けた。私は魚脂でぬめる板張りの床を滑るようにして、暗い桟橋を歩いた。桟橋の先端に汚い低い手すりがあった。一組の男女が片隅に倚りかかっていた。男の方が悪態をついて、二人はどこかに行った。
 十分間、水が杭を叩く音を聞いていた。夜鳥が暗闇の中を旋回し、微かな灰色の翼が視界を横切り、そして消えた。上空を行く飛行機の爆音がした。それから遥か遠くでモーターが雄叫びを上げた。それは吠えたて、咆哮し続けた。半ダースのトラックのエンジンが立てるような音だ。しばらくすると音は和らいで小さくなった。それからぱたりと止んだ。
 また何分かが過ぎた。私は階段まで戻り、濡れた床を行く猫のように注意して下りた。暗い影が夜を抜けだし、ごつんと何かがあたる音がした。声が聞こえた。「用意ができた、乗れよ」
 私はボートに乗り込み、彼の隣の風防の下に座った。ボートは水の上を滑るように走った。今は排気音はしなかったが、船体の両横から激しく泡立つ音が聞こえた。再び、ベイ・シティの街灯りは、外洋の波のうねりに見え隠れする微かな光となった。再び<ロイヤル・クラウン>のけばけばしい明りが片側に消え、船は回るお立ち台上のファッションモデルのように得意気に見えた。そして再び、あの恵み深きモンテシート号の乗船口が漆黒の太平洋から姿を現し、サーチライトがゆっくりとむらなくその周りを灯台の光のように掃照した。
「怖いんだ」私は突然言った。「震えあがるほど」
 レッドが出力を落とし、ボートはうねりに揺られるままになった。まるで同じ場所に留まりながら、その下を水だけが動いているようだった。彼は振り返って私を見つめた。
「死と絶望が怖い」私は言った。「昏い水と溺死者の顔、眼窩が空いた頭蓋骨が怖い。死ぬのが怖い、無駄働きが、ブルネットという名の男を見つけられずに終わるのが怖い。
 彼はくっくと笑った。「うっかり間に受けるところだった。あんたは自分に活を入れてるだけなんだな。ブルネットがどこにいるかは分からない。どちらかの船、自分の所有するクラブ、東部か、リノか、自宅でくつろいでいるか。ブルネットに会えれば気は済むのか?」
「マロイという名の男を見つけたい。巨漢の荒くれ者だ。銀行強盗で八年間オレゴン州立刑務所に食らい込んでいて、最近出所した。 そいつがベイ・シティに隠れていたんだ」私はその話をした。 言わずもがなのことまで話した。 彼の眼がそうさせたに違いない。
 聞き終わると、ひとしきり考えてから、彼はゆっくり口を開いた、彼の言葉には霧の名残りが纏わりついていた。口髭についた滴のように。 それで、いかにも分別臭く聞こえたのかもしれない。そうでないかもしれない。
「筋の通っているところもある」彼は言った。「通らないところもある。俺の知らないこともあるし、分かることもある。もし、このソンダーボーグが犯罪者用の隠れ家を経営し、マリファナ煙草を売り捌いていて、野性的な眼つきの金持ち女から宝石を奪うためにギャングを送り込んでいたとしたら、市のお偉方と通じていたと考えるのは筋が通っている。しかし、それはお偉方が彼の行動をすべて知っていたことを意味しないし、すべての警官が彼が内部と通じていたことを知っていたわけでもない。ブレインは承知していて、あんたがヘミングウェイと呼ぶ男は知らないのかもしれない。ブレインはワルだが、もう一人の男はただのタフな警官で、良くも悪くもない。正直でもないが腹黒くもない。度胸はあるが、目端が利かない。俺と同じで、警官でいることは食うための方便と割り切ってるのさ。霊能者の男はどちらでもない。彼は自分を護る手立てを、それにうってつけの市場、ベイ・シティで購い、必要な時に使用した。そんなやつが何を企んでいるのか分かりっこない。何を気にかけているのか、何を怖れているのか、分かったものじゃない。彼もまた人の子で、時に客に惚れることもあったかもしれない。リッチな年増は、紙人形より細工しやすい。ソンダーボーグ屋敷滞在の件だが、俺の勘ではこうだ。ブレインは、あんたの素性が知れたらソンダーボーグが怖気づくことが分かってた。おそらく、ソンダーボーグにはあんたに話したのと同じことを話してる。意識混濁でふらついていたので連れてきた、とかなんとか。出て行かせるか、始末するか、ソンダーボーグはさぞかし不安だったろう。ブレインはそのうちふらっと立ち寄って賭け金を吊り上げるつもりだった。それだけのことだ。たまたまあんたを利用することができ、やつらはそうした。ブレインはマロイのことも知っていたかも知れない。あいつならそれくらいのことはやりかねない」
 私は話に耳を傾けながら、ゆっくり辺りを掃くように照らしだすサーチライトと、遥か右手を行き来する水上タクシーを見ていた。

【解説】

「街灯の列が遠ざかり」は<Beyond the electroliers>。清水氏はこの冒頭部分をカットし「小さな遊覧電車の終点を過ぎると」と書き出している。それまでのところでも<electrolier>を「色電球」と訳していて、「電気シャンデリア」とは訳していない。意味不詳だったのだろう。村上訳は「やがて街灯の列が終わり」。

「突然顕わになった海岸線」は<the suddenly clear line of the shore>。清水氏はここもカットしている。村上氏は「突然現れたまっすぐな岸辺」と訳しているが、<clear>に「まっすぐな」という意味はない。ここは「はっきり、くっきり」見える、という意味だろう。

「これがそれだろう」は<This would be the one>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「それが大男の話していた桟橋らしい」と、噛みくだいている。

「半ダースのトラックのエンジンが立てるような音だ」は<like half a dozen truck engines>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「まるで半ダースのトラックが一斉にエンジンをかけているような音だ」。

「今は排気音はしなかったが、船体の両横から激しく泡立つ音が聞こえた」は<There was no sound from its exhaust now but an angry bubbling along both sides of the shell>。清水氏は「エンジンは規則的に小さな音を立てているだけだった」と書いているが、正しくない。村上訳は「今はもう排気音は聞こえなかったが、船体の両側からは怒ったようなぶくぶくという音が上がっていた」。

「再び、ベイ・シティの街灯りは、外洋の波のうねりに見え隠れする微かな光となった」は<Once more the lights of Bay City became something distantly luminous beyond the rise and fall of alien waves>。清水訳は「再び、ベイ・シティの灯火が遠ざかっていった」だが、ずいぶんとお手軽な訳しぶりだ。村上訳は「ベイ・シティ―の灯火は再び、よそよそしい波間に見え隠れする遠い、仄かなきらめきになった」。読点の打ち方もおかしいが「よそよそしい波間」というのがわからない。波に親しい波とよそよそしい波があるだろうか。二隻の船が領海内にいないことを踏まえて「外洋」と訳してみた。

「船は回るお立ち台上のファッションモデルのように得意気に見えた」は<the ship seeming to preen itself like a fashion model on a revolving platform>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「その船は、まるで回転するプラットフォームに立ったファッションモデルみたいに、きれいにしな(傍点二字)を作っていた」。<preen oneself>は「おしゃれをする、めかす、着飾る、得意になる」の意。村上氏はよく、カタカナ表記で英語をそのまま外来語扱いするが「プラットフォーム」という言葉はファッション業界で日常的に使用されているのだろうか。

「野性的な眼つきの金持ち女から宝石を奪うためにギャングを送り込んでいたとしたら」は<sending boys out to heist jewels off rich ladies with a wild look in their eyes>。清水訳は「金持ちの女たちの宝石を狙っていたとすれば」。<with a wild look in their eyes>はどこへ行ったのだろう。村上訳は「ギャングを使って身持ちの良くない金持ち女から宝石を奪う段取りをしていたとしたら」だが、どういうところから「身持ちの良くない」という訳が出てくるのか。

「リッチな年増は、紙人形より細工しやすい」は<Them rich dames are easier to make than paper dolls>。清水訳は「金持ちの女を自由にするのは、紙人形を作るよりも易しいんだ」。村上訳は「金持ちの女なんて落とすのは簡単だからな」。<make>には俗語で「異性をものにする」という意味がある。それと紙人形を「作る」ことをかけている。<dame>は「年配女性」のこと。

「あいつならそれくらいのことはやりかねない」は<I wouldn't put it past him>。清水氏はここをカットしている。<I wouldn't put it past him to do>は「あの人なら~しかねない」という意味。村上訳は「それくらいのことはやりかねないやつだ」。