HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(3)


<desk>が<table>に化けるわけ

【訳文】

 ドアが開いて、もう一人が帰ってきた。メス・ジャケット姿のギャングっぽい口をきくあの男が一緒だった。私の顔を一目見たとたん、男の顔は牡蠣のように白くなった。
「こいつは通していません」彼は唇の端を捲りあげて早口で言った。
「銃を持っていた」ブルネットはそう言って、レター・オープナーで銃を押しやった。「この銃だ。ボート・デッキの上で私の背中に突きつけたも同じだ」
「通していませんって、ボス」メス・ジャケットはやはり早口で言った。
 ブルネットは顔を上げ、黄色い眼で微かに私に微笑んだ。「どうしようか?」
「掃いて捨てろ」私は言った。「どこかで押しつぶせ」
「タクシーの男が証明してくれます」メス・ジャケットが声を上げた。
「五時半からずっと持ち場を離れなかったか?」
「一分たりとも離れていません、ボス」
「それは答えになっていない。一大帝国も一分で滅びることがある」
「一秒たりともです。ボス」
「なのに、そいつは通れた」私は言って、笑った。
 メス・ジャケットは滑らかなボクサーのステップを踏んで、拳を鞭のようにしならせた。もう少しで私の顎に届くところだった。鈍い音がした。拳が空中で溶けたようだ。彼は横倒しになり、机の角を引っ掻いて、仰向けに転がった。誰かが殴られるのを見るのは、いい気分転換になる。
 ブルネットは微笑み続けていた。
「君が彼を不当に扱っていないことを願うよ」ブルネットは言った。「甲板昇降口のドアの件が残っている」
「たまたま開いていたんだ」
「他の理由は思いつかないのか?」
「こんなに大勢に囲まれていては無理だ」
「なら、二人きりで話そう」ブルネットは私だけを見て、そう言った。
 ゴリラがメス・ジャケットの脇に手を入れて抱え上げ、床を引きずった。相棒が内側のドアを開けた。彼らは出て行き、ドアが閉まった。
「これでいい」ブルネットは言った。「君は誰だ。何が望みだ?」
「私立探偵だ。ムース・マロイと話がしたい」
「私立探偵だと証明できるものを見せろ」
 私は見せた。彼は紙入れを机越しに投げ返した。潮風に灼けた唇には微笑みが浮かび続けていたが、その微笑は芝居がかっていた。
「殺人事件の調査中だ」私は言った。「先週の木曜日の夜、あんたのベルヴェデア・クラブ近くの崖の上でマリオットという男が殺された。この殺人は、偶々別の女の殺人事件と関連している。それをやったのが銀行強盗の前科があるマロイという無敵のタフガイだ」
 彼は頷いた。「私にどうして欲しいのか、まだ聞いてなかったが、いずれは話してくれるだろう。どうやって船に乗ったかを教えてくれないか?」
「もう話した」
「それは事実じゃない」彼はおだやかに言った。「マーロウだったな? それは事実ではない、マーロウ。知ってると思うが。乗船用の台にいた若いのは嘘を言っていない。私は慎重に部下を選んでいる」
「ベイ・シティのどれだけかはあんたの物だ」私は言った。「どこまでかは知らないが、やろうと思えば何でもできるくらいは掌握している。ソンダーボーグという男がベイ・シティで隠れ家をやっている。そいつはマリファナ煙草や強盗、犯罪者を匿うのが仕事だ。当然のことながら、コネがなければやれないことだ。あんたを通してないとは考えられない。マロイはそこに匿われていた。そのマロイがいなくなった。七フィートもあろうかという大男のマロイは人目に立つ。賭博船なら隠れるにはもってこいだと思ってね」
「単純な男だな」ブルネットは優しく言った。「私が彼を匿おうと思ったとしよう。どうして危険を冒してまでここに運び入れなきゃならない?」彼は酒を啜った。「結局のところ、私には別の仕事がある。支障なく良好なタクシー営業を続けていくのは一仕事だ。悪党が身を隠すところは世間にいくらでもある。金さえあれば。もっとましなことを考えられないのか?」
「できないこともないが、うんざりだ」
「お役には立てそうもないな。それで、どうやってこの船に乗ったんだ?」
「言うつもりはない」
「残念だが、そうなると、無理にでも吐かせることになる。マーロウ」彼の歯が真鍮の船舶用ランプの光を受けてぎらりと光った。「詰まるところ、そういうことだ」
「もし話したら、マロイに言伝が頼めるか?」
「何と言うんだ?」
 私は札入れに手を伸ばし、机の上に名刺を取り出して裏返した。札入れをしまって、その代わりに鉛筆を手にした。五つの単語を名刺の裏に書いて机越しに押しやった。ブルネットは書かれた文字を読んだ。「何が何やらさっぱりだ」彼は言った。
「マロイには分かる」
 彼は椅子の背に深く凭れ、私をじっと見た。「解せないやつだな。命がけでやって来て、見ず知らずのチンピラに名刺を手渡せという。正気の沙汰じゃない」
「もしあんたが彼を知らないなら、そういうことになる」
「どうして銃を陸に置いて、普通に乗船しなかったんだ?」
「ついうっかりしてね。出直したところであのメス・ジャケットのタフガイは乗せてくれそうにない。そしたら、別の乗り方を知ってるやつにぶつかったんだ」
 彼の黄色い眼が新たな焔を帯びた。黙って微笑を浮かべていた。
「この男は悪党じゃないが、日がな海辺にいて聞き耳を立てている。あんたの船の荷物搬入口には内側から鍵がかかってないし、換気坑の格子は外されている。ボート・デッキに出るには男を一人倒す必要があるがね。乗員のリストをチェックした方がいい。ブルネット」
 彼は唇をそっと動かした。一つを別の上に重ねた。もう一度名刺に目をやった。
「この船にマロイという名の男は乗っていない」彼は言った。「しかし、搬入口の話が本当だったら、その話に乗ろう」
「行って見てくるといい」
 彼はまだ名刺を見ていた。「もし伝手があれば、マロイに伝言してやるよ。どうしてそんな気になるのか分からんが」
「搬入口を見てこいよ」

【解説】

「掃いて捨てろ」「どこかで押しつぶせ」は<Sweep him out><Squash him somewhere else>。<sweep>は「掃く」、<squash>は「ぺしゃんこにする」の意味。ゴミ扱いだ。清水訳は「やめさせたらいいだろう」。村上訳は「役に立たない男は邪魔なだけだろう」。

「なのに、そいつは通れた」は<But he can be had>。清水訳は「しかし、のされちまえば、同じことさ」。この訳にした意味がよく判らない。村上訳は「目にかすみがかかっていたのかもな」。一秒たりとも目を離さなかったはずなのに、阻止したはずの男が目の前にいる。それを揶揄うマーロウのセリフだ。そのまま訳しても意味は分かる。

「それをやったのが銀行強盗の前科があるマロイという無敵のタフガイだ」は<done by Malloy, an ex-con and bank robber and all-round tough guy>。清水訳は「銀行強盗の前科者のマロイが」となっていて<all-round tough guy>がカットされている。村上訳は「銀行強盗の前科がある元服役囚で、なにしろ腕っぷしの強いやつだ」。

「彼の歯が真鍮の船舶用ランプの光を受けてぎらりと光った」は<His teeth glinted in the light from the brass ship's lamps>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「真鍮の船舶用ランプの明かりを受けて、彼の歯がぎらりと光った」。

「五つの単語を名刺の裏に書いて机越しに押しやった」は<I wrote five words on the back of the card and pushed it across the desk>。清水訳は「その裏に鉛筆で文字を五つしるし、彼の眼の前においた」。<five words>は「五文字」ではなく「五語」だ。村上訳は「そして名刺の裏に単語を五つ書いた。それをテーブルの向こうに差し出した」。村上氏の頭の中ではマーロウはテーブルの前にいるから、こうなる。でも、ブルネットはデスクの向こう側にいるので、名刺はたぶん届かない。面白い。

「どうしてそんな気になるのか分からんが」は< I don't know why I bother>。清水訳は「方法がなければ、仕方がない」となっているが<bother>は「煩わされる」の意味。これでは訳になっていない。村上訳は「なんで俺がそんなことをしなくちゃならないのか、もうひとつ解せないが」。