HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(4)

<the weak link in the chain>は「集団・計画の命取り」

【訳文】

 彼女はバッグから金のシガレット・ケースを取り出した。私は彼女の傍に寄り、マッチの火をつけた。彼女は微かな一筋の煙を吐き、眼を細めてそれを見つめた。
「隣に座って」彼女は突然言った。
「その前に少し話そう」
「何について? 私の翡翠のこと?」
「人殺しについて」
 彼女の表情に変化はなかった。また一筋煙を吐いた。今度は慎重に、もっとゆっくりと。「不愉快な話題ね。しなきゃならないの?」
 私は肩をすくめた。
「リン・マリオットは聖人じゃなかった」彼女は言った。「でも、まだそれについて話したい気分じゃない」
 彼女はしばらく冷やかに私を見つめ、それから、ハンカチを取るために開いたバッグに手を突っ込んだ。
「私としては、彼が宝石強盗の手先だったと考えてはいない。警察はそう考えているようなふりをしているが。連中はいつもそういうふりをする。実のところ、恐喝していたとも思っていない。おかしいだろう?」
「そう?」今では声はこれ以上ないほど冷え切っていた。
「まあ、そうでもないか」私は調子を合わせ、グラスに残っていた酒を飲んだ。「ここまで足を運んでくれたことに感謝している、ミセス・グレイル。しかし、どうやら雲行きが怪しくなってきたようだ。たとえば、私にはマリオットがギャングに殺されたとは思えない。彼がキャニオンに行ったのは翡翠のネックレスを買い戻すためじゃない。そもそも翡翠のネックレスは盗まれてもいない。彼がキャニオンに行ったのは、殺されるためだ。本人は殺しの片棒を担ぐ気でいたのだろうが。遺憾ながら、マリオットは最悪の殺人者だった」
 彼女は少し身を乗り出した。その微笑みから少し生気が抜けかけていた。前触れもなしに、何かが変わったというでもなく、彼女は美しくあることをやめた。百年前なら危険だったろうし、二十年前なら型破りと言えた。しかし、今ではただのハリウッドのB級映画に出て来る女のように見えた。
 彼女は何も言わなかったが、右手がバッグの留め金を叩いていた。
「最悪の殺人者」私は言った。「シェイクスピアの『リチャード三世』に登場する第二の刺客のような。そいつは良心の呵責を感じながら、それでも金を欲しがっていた。結局、決心がつかず、仕事を果たせなかった。そういう殺人者はすこぶる危険だ。排除されなければならない。時にはブラックジャックによってね」
 彼女は微笑んだ。「で、彼が殺そうとした相手は誰なの?」
「私だ」
「信じろというのが無理かもね――誰がそこまであなたを憎む。私の翡翠のネックレスは盗まれてもいないと言ったわね、その証拠があるの?」
「そうは言っていない。そう考えていると言ったんだ」
「それじゃ、どうしてそんな馬鹿げた話をしてるの?」
「証拠というのは」私は言った。「常に相対的なものだ。蓋然性の釣り合いがどう傾くかにかかっている。要は、それが人にどういう印象を与えるかということだ。弱いものではあるが私を殺す動機はあった。以前セントラル・アベニューの安酒場にいた歌手の足取りを捜そうとしていた。同じ頃、刑務所を出たムース・マロイという前科者もまた彼女を探し始めた。ただそれだけのことだ。多分私は彼の捜索を手伝っていたのだろう。当然、女を探し出すことは可能だった。さもなければ、私を殺さなければならない、それも一刻も早く、とマリオットを唆す価値もなかっただろう。そうでも言わなきゃ彼は信じなかったろう。しかし、そこにはマリオットを殺すという、より強い動機があった。自惚れか、愛か、欲か、あるいはそのすべてが混じり合ったもののせいで、彼はそれを見抜けなかった。彼は怯えていたが、我が身を案じてのことではない。彼は一役買って有罪になるかもしれない暴力を怖れた。しかし、一方で食うに困ってもいた。そこで一か八か腹をくくったのさ」
 私は話をやめた。彼女は肯いて言った。「とても興味深い。何の話をしているのか分かる人なら」
「一人、いるのさ」私は言った。
 我々はたがいに見つめ合った。彼女はまた右手をバッグに入れていた。何が入っているのか見当はついていた。しかし、出て来る気配はなかった。出番が来るのを待っているのだ。
「下手な芝居はやめよう」私は言った。「ここは法廷じゃない。我々だけだ。相手の言うことを一々あげつらうことなど求められていない。これでは一歩も前に進めない。スラム育ちの娘が億万長者の妻になる。運が向いてきたところで、みすぼらしい老婆が彼女に気づいた――ラジオ局で歌っている、その声に聞き覚えがあって会いに行ったんだろう――この老婆は黙らせる必要があった。しかし、たいして金はかからない。多くは知らなかったからだ。しかし、女との間に立ち、月々の支払いをし、女の家の信託証書を持ち、おかしな真似をしたら、いつでも相手を溝に放り込むことができる男――その男はすべてを知っていた。こちらは高くついた。しかし、それも問題ではなかった。誰も知られない限りは。ところがある日、ムース・マロイという名のタフガイが監獄を出て、昔の女を探し始めた。大男は女を愛していたからだ――今もまだ愛している。話がおかしくなるのはそこからだ。悲劇的であり、いかがわしくもある。相前後して、私立探偵も嗅ぎ回り始める。そうなると、最早マリオットは贅沢品どころか、計画の命取りになりかねない。彼は脅威になった。警察は逮捕して徹底的に調べ上げるだろう。ああいう手合いだ。警察の手にかかったら、ひとたまりもない。そういうわけで、口を割る前に殺された。ブラックジャックを使って。あなたに」
 彼女はバッグから手を出すだけでよかった。手には銃があった。彼女は私に銃を向け、微笑むだけでよかった。私にできることは何もなかった。
 しかし、それだけでは終わらなかった。ムース・マロイがコルト四五口径を手に、更衣室から出てきた。大きな毛むくじゃらの手に握られた銃は、相変わらず玩具のように見えた。
 私には眼もくれなかった。彼はミセス・ルーイン・ロックリッジ・グレイルを見ていた。背を丸め、口もとに微笑を浮かべ、そっと語りかけた。
「声に聞き覚えがあった」彼が言った。「八年の間ずっとその声ばかり聞いていた――それしか覚えていない。でもよ、お前の赤っぽい感じの髪も好きだったがな。よおベイビー、久しぶりだなあ」
 彼女は銃をそちらに向けた。
「そばに寄るんじゃない。このろくでなしが」彼女は言った。
 彼はぴたりと止まり、銃を持った手をだらんと下ろした。彼女からまだ二、三フィート距離があった。呼吸が荒くなった。
「思ってもみなかった」彼は静かに言った。「たった今、思い至った。お前、俺を警察に指したな。お前だ。かわいいヴェルマ」
 私は枕を投げた。しかし遅すぎた。彼女は彼の腹に五発撃ち込んだ。指を手袋に入れるほどの音しかしなかった。
 それから銃を私に向けて撃ったが、弾倉はからっぽだった。彼女は床に落ちたマロイの銃に跳びついた。二回目の枕は的を外さなかった。ベッドを回って彼女が枕を顔からはがす前に払いのけた。コルトをつかんでまたベッドを回った。
 彼はまだ立っていた。しかし体は揺れていた。口はだらしなく開き、両手は体を掻きむしっていた。彼は膝から頽れて横向きにベッドに倒れ込んだ。顔を俯せにして。息を喘がせる音が部屋を満たした。
 彼女が動く前に私は受話器をつかんだ。彼女の両眼は半ば凍りかけた水のような鈍い灰色だった。彼女はドアに突進した。私は彼女を留めようとしなかった。ドアを開けっぱなしにして出て行ったので、電話を終えてから閉めに行った。彼が窒息しないようにベッドの上で頭を少し回した。彼はまだ生きていた。しかし、腹に五発食らったあとではムース・マロイといえども長くは生きられない。
 私は電話に戻ってランドールの自宅にかけた。「マロイだ」私は言った。「私のアパートにいる。腹に五発喰らっている。ミセス・グレイルの仕業だ。救急病院には電話した、女は逃げた」
「それで、賢く立ち回る必要があった」それだけ言うと、彼はさっさと電話を切った。
 私はベッドに戻った。マロイはベッドの横に膝をつき、片手で山のようなシーツを手繰り寄せ、起き上がろうとしていた。顔に汗が流れていた。瞬きが緩慢になり、耳朶は黝ずんでいた。
 救急車が到着したときも彼はまだ膝をついて起き上がろうとしていた。ストレッチャーに載せるのも、四人がかりだった。
「わずかだが、チャンスはある――もし二五口径なら」出て行く前に救急医が言った。「内臓のどこを撃たれたかによるが、チャンスはある」
「彼はそれを望まないだろう」私は言った。
 言った通りだった。彼は夜のうちに死んだ。

【解説】

「それから、ハンカチを取るために開いたバッグに手を突っ込んだ」は<and then dipped her hand into her open bag for a handkerchief>。清水訳は「それから、開いたバッグに手を突っ込んで、ハンケチを取り出した」。村上訳は「それから開いたバッグの中に手を入れ、ハンカチを取り出した」。ハンカチと手はバッグの外に出ているのかどうかが気になる。これは、次にくる動作の仄めかしだからだ。

「ここは法廷じゃない。我々だけだ。相手の言うことを一々あげつらうことなど求められていない。これでは一歩も前に進めない」は<We're all alone here. Nothing either of us says has the slightest standing against what the other says. We cancel each other out>。<not in the slightest ~>は「少しも~でない」という慣用句だ。<stand against>は「~に反対する立場をとる」ことを意味する。

清水訳は「ここにはわれわれ二人きりしかいない。どんなことをしゃべっても、ほかに聞いているものはいない。お互いに責任を持たないでいい。跡で取り消せばいいんだ」。村上訳は「ここには我々二人しかいないんだ。誰も聞いてやしない。お互い言いたいことを言えばいい。何を言おうが、それで言質を取られることもない」だ。村上訳が清水訳の言い換えであることは一目瞭然だ。

「おかしな真似をしたら、いつでも相手を溝に放り込むことができる男」は<could throw her into the gutter any time she got funny>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「下手な真似をすればすぐにでも彼女をどぶに放り込める立場にいる男は」。<gutter>ほ「溝、どぶ」のことだが「貧民窟」の意味もある。

ヴェルマの素性を語るところで<A girl who started in the gutter>として出て来る。「スラム育ちの女」と訳しておいたが、清水訳は「素性の卑しい女」。村上訳は「裏街道を歩いてきた女」となっている。

「そうなると、最早マリオットは贅沢品どころか、計画の命取りになりかねない」は<So the weak link in the chain, Marriott, is no longer a luxury>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「そうなると、マリオットという鎖の弱い部分を放置しておけなくなる」と<is no longer a luxury>をスルーしている。<the weak link in the chain>は「(比喩的に)(集団・計画の)弱点、命取り」を意味する。

「八年の間ずっとその声ばかり聞いていた――それしか覚えていない。でもよ、お前の赤っぽい感じの髪も好きだったがな」は<I listened to that voice for eight years-all I could remember of it. I kind of liked your hair red, though>。清水訳は「八年間その声が聞きたかったんだ。それに、その赤い髪にも、たまらねえ想い出がある」。村上訳は「俺はその声を八年間、いっときも忘れなかった。俺としちゃ、以前の赤毛もけっこう気に入っていたんだがな」。

ここは清水氏のミス。夫人の髪は今は金髪だ。しかし<all I could remember of it>に続けて赤い髪の思い出を口にするマロイの心情に触れているところは大いに買う。村上訳は、果たしてそこのところが分かっているのだろうか。八年ぶりに耳にした声を聞いて顔を出してみたら、好きだった女の髪が赤毛から金髪に変わっているんだ。何で勝手に髪の色を変えたんだ、とひとこと言いたくもなるではないか。

「腹に五発喰らっている。ミセス・グレイルの仕業だ」は<Shot five times in the stomach by Mrs. Grayle>。清水訳は「グレイル夫人に腹を五発撃たれた」。村上訳は「五発撃ち込まれている。撃ったのはミセス・グレイルだ」。語順はこの方が正しいが、大事な< in the stomach>を抜かしているのが惜しい。

「それで、賢く立ち回る必要があった」は<So you had to play clever>。清水訳は「等々、俺を出しぬいたな」。両氏とも<had to>が効いていない。自分の部屋で逃亡中の殺人犯が撃たれ、そいつを撃った犯人は逃げたでは、マーロウが警察に疑われる。そこで顔見知りのランドールに電話したのだ。警察にはランドールから連絡が行くという寸法だ。これで警察の扱いが変わるだろう。