HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第三章(4)

<the veneer peel off>を「化けの皮がはげる」と訳すのはうまい。

【訳文】

 彼は煙草の灰をテーブルのガラス天板の上に慎重に落とした。そして、上目づかいにちらっと私を見て、すぐに目をそらした。
「待ちぼうけを食わせたんだ」彼はゆっくり言った。「俺への面当てを考えてのことかもしれない。いつかの週末にそこへ行くことになっていたんだが、行かなかった。あの女にうんざりしていたんだ」
 私は言った。「ほほう」そして、じっくり長い時間をかけて彼を見つめた。「そいつはあまり気に入らないな。彼女とエルパソに行ったが喧嘩別れした、のほうがいい。そう言ってくれないか?」
 彼の日焼けした顔が芯から赤くなった。
「くそっ」彼は言った。「言ったはずだ。あの女とはどこにも行っていない。どこへもだ。何度言わせる気だ?」
「信じられる話をしてくれたら、一度で済むさ」
 彼は身を乗り出して煙草を消した。それからゆっくり無雑作に立ち上がり、慌てることもなく、ローブのベルトを締め直し、ダヴェンポートの端の方に動いた。
 「もういいだろう」彼ははっきりと厳しい声で言った。「出て行ってくれ。あんたのつまらん取り調べに辟易した。あんたは無駄遣いしてる。俺のと自分自身の時間を。そんなものに値打ちがあるとしたらだが」
 私は立ち上がり、にやりと笑いかけた。「たいしたものじゃないが、それに見合うだけの報酬はもらってるよ。ところで、ちょっとした不愉快な場面に出くわしたことはないか? デパートのストッキング売り場や装身具売り場で」
 彼は私をひどく注意深く見上げ、眉根を寄せ、口をすぼめた。
「何のことだかさっぱり分からない」彼は言った。しかし声の裏に思惑がうかがえた。
「知りたかったのはそれだけだ」私は言った。「ご清聴を感謝する。ところで、キングズリーのところをやめてから、何の仕事をしてるんだ?」
「あんたの知ったこっちゃない」
「ごもっとも。でも、調べりゃ分かることだ」私は言った。そして、ドアの方に歩きかけた。いくらもかからなかった。
「今のところ、何もしちゃいない」彼はそっけなく言った。「海軍から呼び出しがかかるのを待ってるところだ」
「しっかりやることだ」私は言った。
「じゃあ、あばよ、探偵。二度と来るんじゃないぞ。俺はいないからな」
 私はドアのところまで行き、ノブを引いた。海辺の湿気のせいでドアは敷居にくっついていた。ドアを開けて振り返ると、彼は目を細めて突っ立っていた。怒りを押し殺して。
「またお邪魔するかもしれない」私は言った。「が、冗談をやりとりするためじゃない。話し合うべき何かを見つけたときにな」
「まだ俺が嘘をついてると思ってるんだな」彼は激怒して言った。
「腹に何かあるようだ。見なくていい顔を見すぎたせいで分かる。私には関係のないことかもしれないが。もし関係していたら、また私を放り出すことになりそうだ」
「喜んで放り出すよ」彼は言った。「今度来るときは家に連れ帰ってくれる誰かを連れてくるんだな。尻から落ちて、頭をぶち割ったときの用心に」
 それから、思いもよらないことに、彼は足もとの絨毯にぺっと唾を吐いた。
 これにはぎょっとさせられた。それはまるで、化けの皮が剥げ、路地に置き去りにされる悪童を見ているようだった。あるいは、見たところ上品な女性が、いきなり汚い言葉をしゃべり出したのを聞いているような。
「じゃあな、色男」私はそう言って、突っ立ったままの男をそこに残し、いうことを聞かないドアを力を入れて引っぱって閉めた。小径を上って通りに出た。そして、歩道の上に立って向かいの家を眺めた。

【解説】

「彼は煙草の灰を慎重にテーブルのガラス天板の上に落とした」は<He flicked cigarette ash carefully at the glass top table>。清水訳は「彼はタバコの灰をテーブルの上のガラスに無雑作に振り落とした」。田中訳は「レヴリイは、なにげない様子で、ガラス張りのテーブルの上に、タバコの灰をはじき」。両氏とも<carefully>の訳が逆だ。村上訳は「彼は煙草の灰を注意深く、グラストップのテーブルの上に落とした」。

「しっかりやることだ」は<You ought to do well at that>。清水訳は「しっかりやるんだな」。田中訳は「きみなんか、海軍士官になったらよくにあうだろう」。村上訳は「君なら立派にやれそうだ」。<ought to~>は「~するべきだ」の意味だから、つまらないヒモ暮らしをやめて、海軍でバリバリやるべきだ、というような意味だろう。田中訳や村上訳はリップサービスにしても、少々持ち上げすぎているような気がする。

「尻から落ちて、頭をぶち割ったときの用心に」は<In case you land on your fanny and knock your brains out>。清水訳は「頭からつんのめって、頭をぶち割るかもしれないよ」。田中訳は「おれにほうりなげられたら、いやというほど尻もちをついて、脳みそがとびだすぜ」。村上訳は「あんたは思い切り尻餅をついて、頭が真っ白になっているかもしれないからな」。<In case>は「万一に備えて、…の場合の用心に」などの意味。<fanny>は「尻」なので、「頭からつんのめって」はまちがい。<knock someone's brains out>は「(人)の頭をかち割る」で「頭が真っ白になる」程度ではない。

「それから、思いもよらないことに、彼は足もとの絨毯にぺっと唾を吐いた」は<Then without any rhyme or reason that I could see, he spat on the rug in front of his feet>。清水訳は「それから、私が考えつく理由は何もないのだが、彼は足もとの絨毯につば(傍点二字)を吐いた」。<without any rhyme or reason>は「筋道の通っていない、訳の分からない」の意。ここをどう訳すか。田中訳は「そして、まったく不意に、レヴリイは、足もとの絨毯の上に、ペッ、と唾をはいた」。村上訳は「そのときとくにこれという理由もなく、彼が足下の絨毯の上にぺっと唾を吐くのを私は目にした」。

レイヴァリーの部屋の調度その他からうかがえるのは、それなりの暮らしをしている男の姿である。ところが、彼はマーロウにしつこくつきまとわれたことで、突然、地の自分をさらけ出す。<without any rhyme or reason>の<rhyme>とは「韻」のこと。それまで約束通りの対応ができていたのに馬脚を現したことを言っている。清水訳は直訳過ぎるし、村上氏は「理解する」の<see>を「見る」と訳している。田中訳はさすがにこなれていて巧いものだが、原文にある、マーロウの理解を越えたという感じが伝わってこない。

「それはまるで、化けの皮が剥げ、路地に置き去りにされる悪童を見ているようだった」は<It was like watching the veneer peel off and leave a tough kid in an alley>。清水訳はベニヤ板がいきなりどけられて、タフなお兄(にい)さんが路地に姿を現したようなものだった」。田中訳は「紳士づらをしたやつが、急に化けの皮がはげ、裏街の不良になったみたいだったのだ」。村上訳は「まるでうわべの飾りが引きはがされ、裏通りのならずものがその本性を覗かせるのを目にしたときのように」。

<veneer>は「ベニヤ」のことだが、「虚飾、見せかけ」の意味がある。三氏の訳は意味の上ではその通りなのだが、<leave>(残す)という語感があまり大事にされていない気がする。マーロウが目にしたのは、一生懸命上辺を取り繕ってはいるが、その正体は路地をうろついているタフぶった青年だった。それは、正体を現したというようなものではなく、はからずも、目にすることになった下地でしかない。