HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第五章(1)

どうして<a high granite outcrop>を複数扱いしたのだろう

 

【訳文】

 

 サン・バーナディーノは午後の熱気で焼かれ、ぎらぎらと揺らめいていた。空気は舌に火ぶくれができそうなほど熱かった。喘ぎながらそこを通り抜ける途中、一パイント瓶を買う間だけ車を停めた。山に着く前に気絶したときの気つけ薬だ。そして、またクレストラインまでの長い坂道を上り出した。十五マイルで、五千フィート上っても、涼しいというにはほど遠かった。山道を三十マイル走り、高い松が聳えるバブリング・スプリングというところに着いた。下見板張りの店とガソリン・ポンプがひとつあるだけだが、まるで楽園のように思えた。そこからはずっと涼しかった。

 ピューマ湖のダムの両端と中央に武装した歩哨がいた。最初に出遭った歩哨は、ダムを渡る前に車の窓を全部閉めさせた。ダムから百ヤードほど離れたところにコルクの浮きがついたロープがあり、遊覧船はそれ以上近づくことができなかった。そういった些細なことを除けば、戦争はピューマ湖に大した影響を与えていないようだ。

 カヌーのパドルが青い水を漕ぎ、ボートにとりつけた船外機がのどかな音を立てるなか、若さを見せつけるようにスピードボートが派手な水しぶきを立てて急旋回し、中にいる女の子たちが手で水を掻きながら歓声を上げている。スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった。

  道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった。常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)といった草花が咲き残っていた。高い松の木立ちは澄んだ青空を探るように枝を伸ばしていた。道はまた湖の高さに下り始め、あたりの風景は派手なスラックス、袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪、厚底サンダルと白く太い腿の娘たちでいっぱいになり始めた。自転車乗りはハイウェイを慎重によろよろと進み、時折り、不安気な顔の若者がスクーターの音を響かせて通り過ぎた。

 ハイウェイを村から一マイル走ったあたりで、曲がりくねって山に戻って行く細い分かれ道を見つけた。ハイウェイの標識の下に粗削りな木製の看板があり「リトル・フォーン湖、一マイル四分の三」とあった。その道に入った。はじめの一マイルは斜面に沿って小屋が散らばっていたが、その後見かけなくなった。やがて、また道が分かれ、一段と狭くなった道の方に、これも粗雑な木の看板があり、「 リトル・フォーン湖。私道につき、立ち入り禁止」と書いてあった。

 そちらにクライスラーを乗り入れ、地表に露出した大きな花崗岩の間を縫ってそろそろ進み、小さな滝を過ぎ、黒樫の木、アイアンウッド、マンザニータの静まり返った迷路を通り抜けた。枝の上で青カケスが鳴き騒ぎ、栗鼠は闖入者を叱りつけ、腹立ちまぎれに抱かえていた松ぼっくりを前肢で叩いた。頭に緋を頂いたキツツキが、きらきら輝く目で私を見ようと、暗闇の中を突っつくのを止め、それから木の幹の後ろに隠れ、もう一方の目で私を見た。五本の横木を組んだゲートまで来ると、また看板が立っていた。

 ゲートを抜けると、曲がりくねった道が木々の間を縫って二百ヤードほど続き、突然、眼下に、木々や岩、野草に囲まれた小さな楕円形の湖が現れた。まるでくるっとまるまった葉の上に落ちた露の滴のようだった。湖の端近くに、きめの粗いコンクリート製のダムがあり、上にロープを張った手すりがついていて、傍に古い水車があった。近くに、樹皮のついた松の自然木で組んだ小さな丸太小屋があった。

 岸伝いなら遠回りになり、ダムを渡れば近いあたりの対岸に、大きなアメリカ杉を組んだ丸太小屋が水の上に迫り出している。その先にはそれぞれ充分に距離を置いた別の小屋が二棟建っていた。三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している。

 ダムから見て湖の最も遠い端に、小さな桟橋とバンド用のパビリオンのようなものがあった。反り返った木の看板には大きな白い字で「キャンプ・キルケア」と記されていた。こんなところにそんなものがある理由が思いつかなかったので、車を降りて一番近い小屋に向かって下り始めた。小屋の裏手の方で斧を振るう音がした。

 小屋の扉をノックすると斧の音がやんだ。どこかで男の怒鳴り声がした。私は岩の上に腰かけ、煙草に火をつけた。小屋の角を曲がってくる足音がした。不揃いな足音だ。いかつい顔をした浅黒い男が、両刃の斧を手にしているのが目に入った。

 がっしりした体格で、 背はさほど高くなく、 足を引きずって歩いた 。一歩歩くごとに 右足を少し蹴り出して 浅い弧を描くように足を振った。無精ひげで黒い顎、落ち着いた青い瞳、大いに散髪を要する灰色の髪は耳にかぶさってカールしていた。ブルーのデニムのズボンを穿き、襟元をはだけた青いシャツから褐色の逞しい首がのぞいていた。口の端に煙草をぶら下げ、堅くて隙のない都会者の声で言った。

「何の用だ?」

「ミスタ・ビル・チェス?」

「そうだが」

 

【解説】

 

「スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった」は<Jounced around in the wake of the speedboats people who had paid two dollars for a fishing license were trying to get a dime of it back in tired-tasting fish>。 

 

清水訳は「スピードボートが起こした波の中で、釣りをするのに二ドル払った連中がいくらかでも取り戻そうと仕切りに手を動かしていた」と<tired-tasting fish>をスルーしている。田中訳は「モーターボートのあおりをくらうダムのふちには、二ドルはらって釣りの許可をとった連中が、十セントもしないぐらいの、くたびれた魚をつりあげようとやっきだ」。村上訳は「そのスピードボートの航跡のまわりで、ニドル払って釣りの許可をとった人々がゆらゆらと揺れながら、少しでも元を取ろうと、くたびれた味のする魚を釣り上げるべく精を出していた」。

 

<tired-tasting fish>は、スピードボートの立てる波に揺られながら、二ドルを取り戻そうと釣りをする釣り人達の奮闘ぶりをからかったのだろう。そこまで苦労して釣った魚にはきっと釣り人の疲れが乗り移って、くたびれた味がするだろう、と言っているのだ。田中訳のように「ダムのふち」と取ると、何が<jounce>(ガタガタ揺れる)のかが分からない。「くたびれた魚」と<tasting>をトバしていることから考えると、田中氏は波に揺れて魚がくたびれたと考えたのかもしれない。

 

「道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった」は<The road skimmed along a high granite outcrop and dropped to meadows of coarse grass>。清水訳は「道路は高い岩だらけの崖にそってつづいていて、雑草が生いしげる草原にくだって(傍点四字)行った」。田中訳は「道は、あちこちに露出した花崗岩の大きな岩のあいだをぬってのぼり、やがて、野草がいっぱいはえた平地にくだった」。

村上訳は「切り立った花崗岩の露頭のあいだを縫うように道路は続いていた。それからぼさぼさした草の繁った野原へと降りていった」。

 

どうして揃いも揃って三人とも<a high granite outcrop>を複数扱いで訳しているのだろう。単数で書かれている以上、この大きな花崗岩の露頭は一つきりで、要は、その大岩を境に道が下りはじめた、ということだ。<skim>は「すれすれに通る」という意味。狭い山道に大きな岩が迫り出すように露出していれば、それを「かすめるようにして」通るほかないではないか。多分初訳の誤りに気づかず、他の二氏が踏襲したのだろう。

 

「常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)」は<the wild irises and white and purple lupine and bugle flowers and columbine and penny-royal and desert paint brush>。

 

清水訳は「野生のアイリス、白と紫のルピナス、ラッパ草、オダマキ、メグサハッカ、ゴマノハグサ」。田中訳は「山あやめ、白や深紅の花を咲かせているルーピン、ラッパ草、おだまき、はっか、それに砂漠によくあるごまのはぐさ(傍点六字)」。村上訳は「野生のアヤメと、白と紫のルピナスキランソウオダマキ、メグサハッカ、カステラソウ」。

 

<wild iris>は「野生のアイリス」ではなく「ディエテス・イリディオイデス」(常緑アヤメ)のこと。<bugle>は「ラッパ」なので「ラッパ草」と訳したのだろうが、<bugleweed>は「キランソウ」か「シロネ」。<desert paint brush>は「カスティーリャ・クロモサ」のことで、厳密には「ゴマノハグサ」でも「カステラソウ」でもない。その土地固有の植物にぴったりの和名はめったに見つかるものではない。カナにカナのルビは変だが、漢字にしてルビを振れば、調べることもできる。

 

「袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪」は<snoods and peasant handkerchiefs and rat rolls>。清水訳は「袋型のヘアネットと農民風ハンカチーフとラット・ロール」。田中訳は「れいのはちまき(傍点四字)のようなリボンをして、田舎風のスカーフをかけ、髪をいれ(傍点二字)毛でふくらした」。村上訳は「大きなリボン、農夫風のハンカチーフ、丸い巻き髪」。

 

<snood>には「ヘアネット」と「昔、スコットランドで処女のしるしとされた鉢巻状のリボン」の意味がある。野外に遊びに来た女性が髪をまとめておくための物が羅列されているのだと考えれば、長い髪をまとめるためのネットととるのが自然だが、どうだろうか。清水氏がさじを投げた格好の<rat rolls>だが、<rat>には「かもじ、入れ毛」の意味がある。長めの髪を外巻きにロールしてアップの巻き髪にするため、中に入れ毛を入れたのだろう。

 

「五本の横木を組んだゲート」は<a five-barred gate>。板を間を開けて五枚渡し、両端と対角線上に同様に板を張ることで、簀の子状の開き戸ができる。柵などで仕切った土地の入り口に設けることが多い。清水訳は「棒が横に五本わたしてあるゲート」、村上訳は「木材を五本わたしたゲート」。田中訳の「鉄棒が五本ついた鉄門」はおかしい。因みに、『マーロウ最後の事件』(1975年晶文社刊)所収の中篇「湖中の女」(稲葉明雄訳)では「五本の丸太ん棒を横たえた門柵」になっている。

 

「三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している」は<All three were shut up and quiet, with drawn curtains. The big one had orange-yellow venetian blinds and a twelve-paned window facing on the lake>だが、何故か田中訳はこの部分が欠落している。.