HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女を訳す』第六章(2)

flat angle>は「鈍角」でも「浅い角度」でもない

【訳文】

 我々はまた、小犬のように仲よく並んで歩き出した。少なくとも五十ヤードくらいの間。かろうじて車が通れるほどの道幅の道路が、湖面に迫り出すようにして、高い岩の間を抜けていた。最遠端から半分ほどのところに、別の小さな小屋が岩の基礎の上に建っていた。三つ目の小屋は湖畔からかなり離れた平地のようなところに建っていた。両方とも閉じられていて、ずっと空き家のようだった。
 一、二分後、ビル・チェスが言った。「あの尻軽女が逃げ出したというのは本当か?」
「そのようだ」
「あんたは本物の刑事なのか、それともただの探偵か?」
「ただの探偵さ」
「あの女には誰か連れがいたのか?」
「私はそうだと睨んでいる」
「そうにちがいない。キングズリーも察しがつくはずだ。友だちが大勢いたからな」
「ここにやってきたのか?」
 彼は答えなかった。
「そのうちの一人はレイヴァリーと言わなかったか?」
「知らないな」彼は言った。
「隠すようなことじゃない」私は言った。
「彼女はメキシコから電報を打っている。レイヴァリーとエルパソに行くと」私はポケットから電報を取り出して彼に渡した。彼は手探りでシャツのポケットから眼鏡を取り出し、立ちどまってそれを読んだ。彼は電報を返し、眼鏡をしまって、青い湖を眺めた。
「あんたは隠し事を漏らしてくれた。これはこちらの内輪話さ」
「レイヴァリーはここに来たことがある」彼はゆっくり言った。
「あいつは二か月前彼女に会ったことを認めてる。多分ここだ。それからは会っていないと言っている。その言い分を信じるべきかどうかは分からない。信じるべき理由も、信じるべきでない理由もない」
「今はそいつと一緒じゃないんだな?」
「そう言っている」
「結婚のような細かなことで大騒ぎするような女じゃない」彼は真面目くさって言った。「フロリダへのハネムーンの方が性に合ってるだろう」
「けど、あんたははっきりしたことは聞いていない。どこに行くとか、確かなことは何も聞かなかったというんだな?」
「そうだ」彼は言った。「もし知ってても、俺が漏らすかどうか疑わしいな。俺は腐っちゃいるが、そこまで腐っちゃいない」
「おつきあいに感謝する」
「あんたに借りはない」彼は言った。「あんたも他の詮索好きも勝手にすりゃいいんだ」
「また、はじめる気か」私は言った。
 湖の端まで来ていた。私は彼をそこに残し、小さな桟橋に向かった。桟橋の端にある木の手すりにもたれた。バンド用のパビリオンのように見えたものは、ダムに正対するように立つ二枚の壁でしかなかった。壁の上に二フィートほどの庇が笠木のように突き出していた。ビル・チェスが後ろにやってきて、並んで手すりに凭れた。
「とはいえ、酒の礼を忘れているわけじゃない」彼は言った。
「ああ。湖に魚はいるのか?」
「こすっからい古手の鱒がいる。新入りはいない。俺はあまり釣りが好きじゃない。魚なんてどうでもいいのさ。またきつくあたって悪かった」
 私はにやりと笑って、手すりごしに深く淀んだ水を見下ろした。覗き込むと緑色をしていた。下で渦巻きのような動きがあり、水の中で緑がかったものが素早く動いた。
「あれが爺様だ」ビル・チェスは言った。「あの大きさを見てみろよ。あんなに太っちまって、ちっとは恥ってものを知るべきだ」.
 水の下に水中の床のようなものがあった。その意味が分からないので聞いてみた。
「ダムができる前の船着き場さ。今では水位が上がって、古い船着き場は六フィートの水の底だ」
 平底船がすり切れたロープで桟橋の杭に繋がれていた。船はほとんど動くことなく水の上に身を横たえていたが、微かに揺れていた。空気は静かで穏やかで陽光に溢れ、街なかでは味わえない静謐さに充ちていた。ドレイス・キングズリーと彼の妻、そのボーイフレンドのことなんか忘れて何時間でもそこにいることができただろう。

【解説】

「あんたは隠し事を漏らしてくれた。これはこちらの内輪話さ」は<That's a little confidence for you to hold against some of what you gave me>。マーロウは自分も内部情報を漏らすことで、相手との間に信頼関係を築こうとしたんだろう。清水氏はここをカットしている。田中訳は「きみからきいたことはだまってるから、これも、ひとには言わんでくれ」。村上訳は「そちらが秘密を打ち明けてくれたからこそ、わたしもこうやって信頼して内輪話をしているんだ」。

「あんたも他の詮索好きも勝手にすりゃいいんだ」は<The hell with you and every other God damn snooper>。<The hell with you>はビル・チェスの口癖のようだ。清水訳は「あんただろうが誰だろうが、探偵(いぬ)のつら(傍点二字)は見たくないんだ」。田中訳は「あんたなんかどうなろうと、おれはしっちゃいないよ。ひとのことに鼻をつっこんで飯をくつてるやつなんかはね」。村上訳は「私立探偵なんて、どいつもこいつもまったく反吐(へど)が出るぜ」。

「バンド用のパビリオンのように見えたものは、ダムに正対するように立つ二枚の壁でしかなかった」は<had looked like a band pavilion was nothing but two pieces of propped up wall meeting at a flat angle towards the dam>。<a flat angle>をどう訳しているかだが、清水訳は「音楽堂のように見えたのは二つの壁がダムに水平の角度でできていただけだった」。「水平の角度」というのがよく分からない。

田中訳は「遠くからながめるとバンドのステージに見えないこともなかったが、近よってしらべると、ただ、水面にでた二つの板壁が、ダムの方にむかって鈍角にうちつけてあるだけで」。村上訳は「バンド用ステージのように見えるものを眺めた。それは二枚の大道具の壁面を、ダムに向けて浅い角度で合わせたものに過ぎなかった」。両氏とも「鈍角」、「浅い角度」と訳しているが、<flat angle>は「平角(180度)」であって、二直角より小さい角度を表しはしない。