HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女を訳す』第六章(3)

<green stone>は「緑色の石」ではなく「翡翠」の一種


【訳文】

 すぐ横で激しい動きがあり、ビル・チェスが言った。「あれを見ろ!」山で聞く雷鳴のようなうなり声だ。
 硬い指が腹が立つほど私の腕に食い込んだ。彼は手すりから大きく身を乗り出し、呆けたように下を見つめていた。日に灼けた顔が真っ青になっていた。私も一緒に水中の足場の端を見下ろした。
 心なしか、水没した緑色の割板の端あたりで、暗闇に何かがゆらゆら揺らめくようで、それは一度は動きを止めたものの、また揺れながら床の下に戻っていった。
 その何かは、人間の腕に似過ぎていた。
 ビル・チェスは体を硬直させた。音も立てずに振り返り、重い足取りで桟橋を戻っていった。そして、ばらばらに積まれた石の山の上に屈み込んだ。息を喘がせるのが聞こえた。大きな石を胸のところまで持ち上げ、桟橋まで戻り始めた。百ポンドはありそうだ。ぴんと張った褐色の皮膚の下で、首の筋肉が帆布の下のロープのように浮き出た。固く食いしばった歯の間からシューシュー息が洩れた。
 桟橋の端までくると足場を固め、高々と石を持ち上げた。しばらくの間じっと掲げたまま、下を目測していた。何やら苦し気な声を上げ、体を前に傾け、激しく体をぶつけて手すりを揺らし、重い石は水面を打ち割って中に沈んだ。
 水しぶきが二人の頭上を越えて飛んだ。岩はまっすぐに落ちて、水没した板張りの端に命中した。何かが揺れて出入りするのを見たのと同じところだ。
 しばらくの間、水は混乱して沸き立ち、やがて波紋は遠くに広がっていき、真ん中の泡立ちもだんだん小さくなった。水中で木が折れるような鈍い音がした。それは、聞こえるはずの音が、ずっと後になって届いたような音だった。年古りて腐った厚板が突然水面に浮かび上がり、ぎざぎざになった端が一フィートばかり水上に突き出て、ぴしゃりと水面を打って倒れ、どこかへ流れていった。
 また底の方が見通せるようになった。何かが動いたが、板ではなかった。それは、たいそうくたびれて、もうどうにでもしてくれと言いたげに、ゆっくりと浮かび上がってきた。長く黒くねじれた何かが、しどけなく回転しながら水の中を浮かび上がってくる。それは、何気なく、そっと、特に急ぐふうもなく水面に浮び上った。水浸しで黝ずんだウール、インクよりも黒い革の胴着、スラックスだった。靴とスラックスの裾の間に醜く膨れ上がった何かが見えた。ダークブロンドの髪が水の中で真っ直ぐに広がり、効果を狙いすますかのように少しの間静止し、やがて再び絡み合うように渦巻くのを見た。
 それは、もう一回転して、片腕がわずかに水の上に出た。腕の先は奇形の手のように膨らんでいた。それから顔が見えた。どろどろに膨れ上がった灰白色の塊は造作を欠いていた。眼も口もない。灰色のパン生地のしみ、人の髪の毛のついた悪夢だ。
 重そうな翡翠のネックレスがかつて首だったところに半ば埋もれ、きらきら光る何かが大きな粗い緑の石を繋いでいた。
 手すりを握るビル・チェスの拳は血の気が失せ、磨かれた骨のようだった。
「ミュリエル!」彼はしゃがれ声を出した。「なんてことだ。ミュリエルだ」
 声は、遥か彼方、丘の上、木々の生い茂る静かな茂みから聞こえてくるようだった。

【解説】

「硬い指が腹が立つほど私の腕に食い込んだ」は<His hard fingers dug into the flesh of my arm until I started to get mad>。清水訳は「彼のこわばった指が私の腕を痛くなるほどつかんだ」。村上訳は「硬い指が私の腕に、いいようのない強さでぐい(傍点二字)と食い込んだ」。田中訳は「そして、そのがつちりした指が、おれの腕の肉にくいこんだ。あまりはげしくつかむので、おれは気分をこわしたほどだ」と、最も原文に忠実だ。

「心なしか、水没した緑色の割板の端あたりで、暗闇に何かがゆらゆら揺らめくようで、それは一度は動きを止めたものの、また揺れながら床の下に戻っていった」は<Languidly at the edge of this green and sunken shelf of wood something waved out from the darkness, hesitated, waved back again out of sight under the flooring>。清水訳は「その水中の緑色の床(ゆか)の端に暗い水の底からゆるやかに浮かび上がり、また床の下に消えていっているものがあった」。

田中訳は「うすぐらい水中の、みどりがかつたセットの水中の部分のふちから、なにかが、ゆらゆら、ただよいでて、また板のうしろにひっこんでいる」。村上訳は「ぼんやりとではあるが、水底に沈んだその緑色の板材の端のところで、暗闇の中から何かが突き出され、揺れているのが見えた。それは戸惑い、手招きするように揺れながら、床板の下にまた引っ込んで見えなくなった」。

<wave>には「手を振る」という意味があり、それを使えばよく分かるのだが、その次にある<The something had looked far too much like a human arm>を先取りすることになるので、訳者はやむを得ず、こういうあいまいな言い方を採用しているのだ。<hasitate>には「一時的に動作を止める」という意味がある。「戸惑い」と訳してしまうと「何か」が擬人化されることになり、せっかくぼかして置いた効果が消えてしまう。村上氏は「手招き」も使っているので、承知の上で使ったのだろう。

「腕の先は奇形の手のように膨らんでいた」は<the arm ended in a bloated hand that was the hand of a freak>。清水訳は「その腕の先の手は醜くふくれ上がって、怪物の手だった」。田中訳は「水でふやけた指さきがあらわれた。なにか、いたずらつぽい手だ」。村上訳は「腕の先は膨張した手になっていた。まるで作り損ないの手のようだ」。<freak>は「(動植物の)奇形、変種」のことだが、辞書には「造化のいたずら」といった表現もあるので、田中、村上両氏のような訳になるのだろう。「奇形」という表現は直截過ぎると思われるのだろうか。

「灰色のパン生地のしみ、人の髪の毛のついた悪夢だ」は<A blotch of gray dough, a nightmare with human hair on it>。清水訳は「ただ灰色のかたまりであった。灰色の粘土をかためて、人間の髪の毛を植えたのとおなじであった」。田中訳は「灰色がかった白い肉塊だ。できものがつぶれたようなグレイのかたまり。悪夢にあらわれる、髪だけあるノッペラボーの顔……」。村上訳は「灰色のぐにゃぐにゃしたこねもの(傍点四字)、人の髪がついた悪夢だ」。

< blotch>には「しみ、できもの」の二つの意味がある。<without eyes, without mouth>と、直前にあるから、この< blotch>は、両眼と口の痕跡を意味しているものと思われる。<dough>は「こね粉、パン生地」のこと。家庭でパンを焼くようになった今とは違って、当時は焼かれる前のパン生地を目にする機会がなかったので、清水、田中両氏のように訳に工夫が要ったのだろう。

「重そうな翡翠のネックレスがかつて首だったところに半ば埋もれ」は<A heavy necklace of green stone showed on what had been a neck, half imbedded>。清水訳は「大きな緑色の宝石の頸飾りが頸であったところになかば埋もれて見えていた」までで、その後はカットしている。田中訳は「もとは首だつたらしいところに、グリーンのいやにごついネックレースがぶらさがっている。みどり色の、大きな、ラフな感じの石は、半分首にはめこんだようになつていて」。村上訳は「かつては首であったところに、緑色の石がついた重そうなネックレスが、半ば食い込むようにかかっていた」。

<green stone>は「緑色岩、グリーンストーン」のことで、翡翠の一種。翡翠にはネフライト(軟玉)とジェダイト(硬玉)の二種類があって、ニュージーランド産のはネフライトマオリの人々が護符として用いているのをヨーロッパから来た開拓者が目に留め、それがジェイド(翡翠)だと気づかず「グリーンストーン」と呼んだのが初めといわれている。