HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第九章(1)

<politician>は「政治家」ではなく、「政治屋」のことだ。

 

【訳文】

インディアンヘッド・ホテルは新しくできたダンスホールの向かいにある、通りの角の褐色の建物だ。​その前に車を停め、トイレで顔と手を洗い、髪にからんだ松葉を櫛で梳きとってから、ロビーの隣にあるダイニング・バーに入った。くだけたジャケットを着た酒臭い息の男と、甲高い笑い声をあげる、節くれだった指の爪を牡牛の血の色に塗った女で、どこもかしこも溢れかえっていた。支配人はB級映画のタフガイめいて、シャツ姿で葉巻を噛みしだき、部屋をぶらつきながら目を光らせていた。レジでは淡色の髪の男が、水っぽいマッシュポテトみたいに雑音がたっぷり混じった小型ラジオで、戦況ニュースを聞こうと苦労していた。部屋の奥の片隅では、体に合わない白いジャケットと紫のシャツを着た、五人編成のヒルビリー・オーケストラが、バーの喧騒を越えて自分たちの音をとどけようと、紫煙の霧と酔いどれのくぐもり声の霞の中で、虚ろな微笑みを浮かべていた。ピューマ・ポイント最高のシーズン、夏は今や宴たけなわだ。
 定番ディナーと称するものをがつがつ掻き込み、落ち着いて胃のなかに鎮めておくためにブランデーを飲んでから、メイン・ストリートに繰り出した。まだ真っ昼間だったが、すでにネオンサインがいくつか灯り、宵のさざめきが始まっていた。車の警笛がけたたましく鳴り響き、子どもたちは金切り声をあげ、ボウリングのボールがごろごろ転がり、スキーボールがぶつかり、射的場では二十二口径の銃声がパンパンと景気よく音を響かせ、ジュークボックスが狂ったようにがなり立てる、そのすべての音の背後に、どこへ行くというあてもなく、湖に繰り出し、命を懸けたレースの真似事をする、スピードボートの吠えたてる音が聞こえていた。
 私のクライスラーのなかに、黒っぽいスラックスを穿いた痩せて真面目そうな顔をした茶髪の娘が座りこんで煙草をふかしながら、ランニングボードに腰かけた観光牧場のカウボーイと話していた。私は車の周りを回って乗り込んだ。カウボーイはジーンズをぐいと引き上げて、ぶらぶら歩き去った。娘は動かなかった。
「私はバーディ・ケッペル」彼女は陽気に言った。「ここで昼間は美容師、夜はピューマ・ポイント・バナーで働いてる。あなたの車に乗り込んでごめんなさい」
「かまわないさ」私は言った。「ただ座っていたいだけなのか、それともどこかに送ってほしいのか?」
「もう少し行った先に静かに話せるところがある。ミスタ・マーロウ。もし私に話を聞かせてくれる親切心があるなら」
「この辺りじゃ噂の伝わるのが早いようだ」私はそう言って、車を出した。
 郵便局を通り過ぎて、通りの角まで行った。「電話」と書かれた青と白の矢印が、湖に向かう細い道を指している。そこを曲がって、電話局の前を通り過ぎた。前に小さな柵のある芝生つきの丸太小屋だ。もう一つ、小さな小屋を通り過ぎ、大きなオークの木の前に車を停めた。伸び放題の枝がはるばる道路を横切って、たっぷり五十フィート先まで広がっていた。
「ここでどうかな、ミス・ケッペル?」
「ミセスです。でも、バーディと呼んで。みんなそう呼ぶから。ここで結構。初めましてミスタ・マーロウ。あなたはハリウッドからいらしたのよね。あの罪深い街から」
 彼女は引き締まった褐色の手を差し出し、私はその手を握った。豊かな金髪に指したヘアピンは氷屋のトングのようで、彼女の理解力の手堅さを印象づけていた。
「ドク・ホリスと話したの」彼女は言った。「哀れなミュリエル・チェスのことよ。あなたからもう少し詳しい話が聞けそう。死体を見つけたのよね」
「本当はビル・チェスが見つけたんだ。私はただ傍にいただけでね。ジム・パットンとは話したんだろう?」 
「まだなの。彼は山を下りた。どっちにせよ、ジム・パットンから多くの話は聞きだせない」
「彼は再選を目指している」私は言った。「そして、君は新聞記者だ」
「ジムは政治屋じゃありません、ミスタ・マーロウ。それに、私は新聞記者とは言えないわ。ここで私たちが発行している小さな新聞は、素人がやってるようなものよ」
「それで、何が知りたいんだ?」私は煙草を勧めて火をつけてやった。
「あなたが話してくれるかもしれないことかな」
「私が招待状持参でここに来たのは、ドレイス・キングズリーの土地を見るためだ。ビル・チェスが一帯を案内してくれて、いろいろ話をした。奥さんが出て行ったことなんかをね。そのときの書き置きも見せてもらった。ぶら下げてきた酒はほとんど飲まれてしまった。よほど気が塞いでいたんだな。酒で気が緩んだこともあるが、寂しくて誰かに悩みを打ち明けたかったのだろう。そういうことがあったんだ。彼とは初対面だった。湖の端まで帰ってきて、桟橋まで来た時、ビルが水の中の板張りの下で揺れている手を見つけた。それはミュリエル・チェスの遺骸であることが判明した。これで全部かな」
「ドク・ホリスから聞いてる。長い間水の中にいたので、かなり腐敗が進んでるみたいね」
「そうだ。おそらく、まる一月ずっと亭主は思い込んでいたんだ。女房は家を出て行ったと。他に考えようがない。書き置きは遺書だ」
「そこに何か疑わしいところはないの? ミスタ・マーロウ」

【解説】

「節くれだった指の爪を牡牛の血の色に塗った」は<oxblood fingernails and dirty knuckles>。清水訳は「爪を牛の血のように染め、よごれた膝(ひざ)っこをむき(傍点二字)出しにしている」と<knuckle>を「膝小僧」と解釈している。稀に四足獣の「ひざ肉」を意味することもあるが、ふつうは「指の関節」のことである。村上訳は「爪を雄牛の血の色に塗り、汚い拳を見せている」だが、<knuckle>を「拳」にすると「爪」が隠れてしまう気がする。また複数形に注目すると両の拳でなければならず、おそらく片手にグラスや煙草を手にしているだろう、バーの場面としては無理があるのでは。

田中訳は「牡牛の血のように爪をそめ、そのくせ指の関節のあたりはきたない」だが、どう汚いというのだろうか。爪を染めているのなら、手にだって気を使っているはず。いくら気を使っていても年齢とともに皮膚には張りと艶がなくなってくる。指の関節が汚く感じられるとしたら、皮下脂肪が落ちることによるごつごつとした骨ばった感じの表面化ではないだろうか。<oxblood>は濃赤色、もしくは赤褐色を表す色の名前で「誘惑」を象徴しているという説がある。

「支配人はB級映画のタフガイめいて」は<The manager of the joint, a low budget tough guy>。清水訳は「ここのマネージャーは(シャツ姿で葉巻をくわえている)目つき(傍点二字)の鋭い男で」。田中訳は「ここのマネージャーは、背がひくい、いかにもタフそうながっしりした男で」。両氏とも意訳している。<low budget>は「低予算」の意味。後に<movie>をつければ「低予算映画」つまりB級映画のことになる。村上訳は「支配人は安物映画に出てくるタフガイそのままに」。

紫煙の霧と酔いどれのくぐもり声の霞の中で、虚ろな微笑みを浮かべていた」は<smiling glassily into the fog of cigarette smoke and the blur of alcoholic voices>。清水訳は「タバコの煙の靄とろれつ(傍点三字)のまわらぬアルコール混(ま)じりの声にうつろな微笑を投げかけていた」。田中訳は「タバコの煙でできた霧と、酔っぱらいのどなり声にむかって、ばかみたいにほほえんでいる」。村上訳は「彼らのガラスのような目は微笑みを浮かべながら、煙草の紫煙がつくった霧と、混濁した酔声に向けられていた」。

「彼らのガラスのような目は」は文法的にまちがっている。この文の主語は<a hillbilly orchestra of five pieces>だ。村上氏は副詞の<glassily>を形容詞の<glassy>と読みまちがえたのだろう。<glassily>は<smiling>にかかっていて「どんよりして、生気のない状態で」という意味だ。自分たちの音楽を聴いてもいない酔客相手の演奏に倦みつかれているバンド・メンバーのうんざりした気持ちを表しているところだ。< the fog of >と<the blur of>を並べた、相変わらずの対句表現である。名詞<blur>は<fog>に合わせて、「霞」としたいところ。「煙草の紫煙」は重言というものだ。紫煙は煙草の煙に決まっている。

「カウボーイはジーンズをぐいと引き上げて、ぶらぶら歩き去った」は<The cowboy strolled away hitching his jeans up>。清水訳は「カウボーイはジーンズをたくし上げて、立ち去った」。「たくし上げる」は裾や袖をまくることで意味がちがう。村上訳は「カウボーイはジーンズの膝をあげて、車からゆっくり離れていった」だ。<hitch up>は「(ズボンを)グイと引き上げる」の意。村上氏は何を思って「膝」を持ち出してきたのだろう。田中訳は「カウボーイは、ブルージーンのズボンをひっぱりあげながら、ゆっくりあるいていった」。自分は落ち着いていることを示すための殊更なポーズだろう。

「この辺りじゃ噂の伝わるのが早いようだ」は<Pretty good grapevine you've got up here>。<grapevine>は「葡萄の蔓」のことだが、話し言葉では「人づての情報、噂」を意味する。清水訳は「この町は情報網がだいぶ発達しているらしいですね」。村上訳は「この町では噂が伝わるのがずいぶん早いらしい」。田中訳は「このあたりは、すばらしい美人がとれるようだな」と珍しく的を外している。

「大きなオークの木の前に車を停めた」は<pulled up in front of a huge oak tree>。三氏とも<oak tree>を「樫(かし)の木」と訳している。何度も書くようだが、<oak>はブナ科コナラ属の植物の総称で、落葉樹の「楢(なら)」の総称である。明治時代の翻訳家が誤って「樫」と訳したのが今に至っている。「楢」と訳して済ませたいところだが、かつて英国の湖水地方を旅した時、大きなオークの古木を目にして、その存在感に圧倒されて以来、「オーク」はわざわざ「楢」にしなくとも「オーク」のままでいいのではないかと思うようになり、そのままカナ書きにしている。

「伸び放題の枝がはるばる道路を横切って、たっぷり五十フィート先まで広がっていた」は<flung its branches all the way across the road and a good fifty feet beyond it>。清水訳は「枝を道路から五十フィートもはみ(傍点二字)出してひろげている」。村上訳は「その木は通りを越えて、優に十五メートルくらい向こうまで大きく枝を広げていた」。田中訳は「樫の枝は道を横ぎり、それから五十ヤードものびていた」。一ヤードは三フィートなので、田中訳では百五十フィートになってしまう。四十五メートルも枝を広げた大木は、ちょっとお目にかかれない。

「豊かな金髪に指したヘアピンは氷屋のトングのようで、彼女の理解力の手堅さを印象づけていた」は<Clamping bobbie pins into fat blondes had given her a grip like a pair of iceman's tongs>。清水訳は「ヘアピンで髪をしめつけているのがしっかりした感じを与え、氷屋の氷ばさみ(傍点三字)を思わせた」。村上訳は「豊かな金髪をヘアピンで留めていたが、それは氷配達人が使う氷挟み並みに頑丈そうに見えた」。まあ、ここまでは許容範囲だろう。田中氏は「美容師というから、デブの金髪(ブロンド)にでも、いつもヘヤピンをさしこんでいるのだろう、まるで、氷屋がもつているはさむものでつかまれたみたいだった」と、ひどい誤訳をやらかしている。<a grip>はこの場合「把握する力」つまり「理解力」と解するべきだ。清水訳には、その<a grip>を感じることができる。

「ジムは政治屋じゃありません」は<Jim's no politician>。清水訳は「ジムは政治屋じゃないんです」。田中訳は「ジムは、選挙で大騒ぎするような人とは違うわ」。アメリカでは保安官の選挙で何度も再選されると議員への道が開けることも多い。「選挙での大騒ぎ」はそれを指している。村上訳は「ジムは政治家じゃないの」だが、<politician>は同様に政治家を意味する<statesman>(公正で立派な政治家)とは異なり、現在の日本の政治家のように、自分の利益のために政治を利用する「政治屋」を指す言葉。村上訳の「政治家」は、その意味で言葉足らずだろう。

「おそらく、まる一月ずっと亭主は思い込んでいたんだ。女房は家を出て行ったと。他に考えようがない」は<Probably the whole month he thought she had been gone. There's no reason to think otherwise>。清水訳は「おそらくまる一月(ひとつき)ぐらいになるだろうといってました。ほかに考えようがありません」。田中訳は「ミュリエル・チェスがいなくなってから、まるひと月たつそうだが、そのあいだ、ずっと湖のなかにいたんじゃないかな。ほかに考えようはない」。村上訳は「彼女は一カ月前に出て行ったきりだとビル・チェスは考えていた。それ以外に考えようはなかった」。

<the whole month>の「まるひと月」が何にかかるかで、訳しようが変わってくる。清水、田中両氏は死体が水中にいた時間と解しているようだ。そのため「ほかに考えようがない」と考える主体が話者であるかのように読める。村上訳は、彼女が出て行った期日と考えている。そうじゃない。まるひと月の間、夫は妻の自殺の可能性に思い及ばず、どこかで生きていると思っていた。夫としては、それより「ほかに考えようがない」からだ。ここはそういう意味ではないのだろうか。