HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第十二章(1)

<tissue paper>は「薄葉紙」。「ティッシュペーパー」ではない。

【訳文】

ゲートから三百ヤードほどのところで、去年の秋に落ちたオークの枯れ葉に覆われた細い小径が、大きな花崗岩の丸石の周りを回って消えていた。その道をたどって、露頭の石に沿って五十フィートか六十フィート、がたごと揺れながら走り、一本の木の周りを回って、もと来た方向に車の向きを変えた。ライトを消し、エンジンを切って、座って待った。
 半時間が過ぎた。煙草抜きでは長く感じられた。やがて、遠くでエンジンのかかる音がして、それが次第に大きくなり、ヘッドライトの白い光線が下の道を通り過ぎた。車の音が遠くに消えた後も、微かに乾いた土埃のぴりっとした匂いがしばらく漂っていた。
 車を降りてゲートまで歩いて戻り、チェスの小屋に行った。今度は強く押しただけでバネのついた窓は開いた。私はまたよじ登り、床に降りて、持ってきた懐中電灯を部屋の向こうの卓上スタンドに向けた。スタンドのスイッチをつけ、しばらく耳を澄ましたが、何も聞こえなかった。それで、台所に行き、流しの上にぶら下がった電球のスイッチを入れた。
 ストーブの横の薪箱には薪がきれいに積まれていた。流しに汚れた皿もなく、ストーブに臭いの染みついた鍋もかかっていなかった。孤独であろうとなかろうと、ビル・チェスは家をきちんと片づけていた。台所から寝室に通じるドアが開いていて、そこからとても狭いドアが、明らかに最近建て増しされた小さな浴室へと続いていた。真新しいセロテックス張りの壁がそれを物語っていた。浴室は何も教えてくれなかった。
 寝室にはダブルベッド、松材のドレッサー、その上の壁に丸い鏡、寝室用箪笥、背凭れの真直ぐな椅子二脚、ブリキのごみ箱があった。床には楕円形のラグが二枚、寝台の両側に敷かれていた。ビル・チェスは壁に『ナショナル・ジオグラフィック』の一連の戦争地図を貼っていた。化粧台の上には赤と白の馬鹿げたひだ飾りが載っていた。
 抽斗の中を覗いてみた。派手なコスチュームジュエリーが詰まった模造皮革の装身具入れは持ち出されていなかった。女が顔や爪や眉毛に使う普通の化粧道具があった。長く家を空けるにしては少し多すぎるように思えた。まあ、ただの当て推量だ。箪笥には男女の衣類が入っていたが、どちらも大して多くはなかった。中でも、ビル・チェスのシャツは何とも派手な格子柄に、糊をきかせた共布の襟までついていた。青い薄葉紙の下の片隅に気に入らないものを見つけた。見たところ新品の薄桃色の絹のスリップだ。レースの飾りがついている。時節柄、正気の女なら絹のスリップを残して家を出て行ったりしない。
 これはビル・チェスにとっては具合が悪い。パットンはこれを見てどう思ったろう。
 台所に引き返し、流しの上や横の扉のない棚を調べた。棚には身近な食品の入った缶や瓶がぎっしり詰まっていた。粉砂糖は角が破れた四角い茶色の箱に入っていた。パットンはこぼれた砂糖を掃除しようとしたようだ。砂糖の近くには、塩、ホウ砂、重曹コーンスターチ、ブラウンシュガーなどがあった。それらの中にも何かが隠されているかもしれない。
 切り口がぴたりと合わないチェーン・アンクレットから切り取られた何かだ。
 目を閉じて適当に指を突き出すと、重曹の上にとまった。薪箱の後ろから新聞紙を取り出して広げ、箱をひっくり返し、重曹をぶちまけた。匙で掻きまわした。重曹は量が多すぎたが、それだけのことだ。新聞紙をじょうご代わりにして重曹を箱に戻し、次はホウ砂を試した。ただのホウ砂だった。三度目の正直。コーンスターチを試してみた。細かな粉塵が立ち上っただけで、コーンスターチの他に何も見つからなかった。
 遠くで聞こえた足音に足がすくんだ。手を伸ばして紐を引っ張って明かりを消し、居間に逃げ戻ってスタンドのスイッチに手を伸ばした。もちろん、遅すぎて何の役にも立ちはしない。足音がまた聞こえた。そっと注意深く。首周りの毛が逆立った。
 懐中電灯を左手に持ち、暗闇の中で待った。死ぬほど長い二分間が過ぎて行った。かろうじて息はしていたが、ずっとではない。
 パットンのはずはなかった。彼なら歩いてきてドアを開け、私をしかりつけるだろう。注意深い静かな足音はあちこち動き回っているようだった。動いては長い間立ち止まり、また動いては長い間立ち止まる。私は足音を忍ばせてドアに近づき、静かにノブを回した。ドアをぐいと引っ張って大きく開き、懐中電灯を突きつけた。
 金色の一対の眼が輝いた。何かが跳ねる動きがあり、木々の間で素早く蹄の音がした。ただの詮索好きの鹿だった。
 またドアを閉め、懐中電灯の光を台所に向けた。小さな丸い光が粉砂糖の四角い箱の上にとまっていた。
 もう一度明かりをつけ、箱を持ち上げて新聞紙の上に中身を空けた。
 パットンは探り方が足らなかった。偶々一つのものを見つけたので、そこにあるのはそれだけだと思ったのだ。何か別のものがあるはずだということに気づいていないようだった。
 白いティッシュペーパーを捻ったものがもう一つ、細かな白い粉砂糖の上に現れた。粉砂糖を振り落とし、包みを開いた。女の小指の爪ほどもない、小さな金のハートが入っていた。
 匙ですくって砂糖を箱の中に戻し、箱を棚に戻し、新聞紙は丸めてストーブの中に入れた。居間に戻って卓上スタンドを点けた。明るい光の下では、小さな金色のハートの裏側にある小さな刻印は、拡大鏡なしで読むことができた。
 スクリプト体で、こう書かれていた。「アルからミルドレッドへ。一九三八年六月二十八日。愛をこめて」。
 アルからミルドレッドへ。アルなんとかからミルドレッド・ハヴィランドへ。ミルドレッド・ハヴィランドはミュリエル・チェス。ミュリエル・チェスは死んだ――デソトという名の警官が彼女を探しに来た二週間後に。
 私は突っ立ったまま、手の中にあるものが私と何の関係があるのか考えていた。いくら考えても、何も思いつかなかった。
 私はそれを包み直して、小屋を出て、車を走らせて村に戻った。

【解説】

「去年の秋に落ちたオークの枯れ葉に覆われた細い小径」は<a narrow track, sifted over with brown oak leaves from last fall>。清水訳は「去年の秋に散った褐色のかし(傍点二字)の落ち葉で覆われた狭い道」。田中訳は「去年の秋におちた、茶色つぽく枯れた樫の葉がいつぱいかぶさつたちいさな道がわかれ」。村上訳は「樫の茶色い落ち葉を去年の秋から積もらせたままの、細い小径があった」。しつこいようだが、<oak>は「樫」ではなく「楢(なら)」だ。それに、樫は常緑で、葉は鋸歯を持つ。丸みを帯びた楢とは葉の形がまるでちがう。

「大きな花崗岩の丸石の周りを回って消えていた」は<curved around a granite boulder and disappeared>。清水訳は「小石まじりの土手に沿ってカーブをえがきながら消えていた」。<boulder>は「(風雨・河水・氷河などの作用で丸くなった)丸石、玉石」のことで 、 地質学では「巨礫(きょれき)」と呼ばれている。「小石」どころの大きさではない。田中訳は「花崗岩の大きな岩をまわつて、林の奥に消えていた」。村上訳は「小径は巨大な花崗岩を迂回し、その向こうに消えていた」。両氏ともに「丸さ」に触れていないところが惜しい。

「長く家を空けるにしては少し多すぎるように思えた」は<it seemed to me that there was too much of it>。清水訳は「私にはそれが多すぎるように思えた」。田中訳は「出ていったあとにのこした物にしては、よけいありすぎるような気もする」。村上訳だけは「量としてはいくぶん少なめであるような気がした」となっている。<too much>が「いくぶん少なめ」になる意味が分からない。

「青い薄葉紙の下の片隅に気に入らないものを見つけた」は<Underneath a sheet of blue tissue paper in one corner I found something I didn't like>。清水訳は「片隅の青いクリネックスの下に気になる品物があった」。<tissue paper>とあるので、アメリカではその代名詞である「クリネックス」を持ち出したのだろうが「ティッシュペーパー」は和製英語。この<tissue paper>は包装紙等に使用される「薄葉(よう)紙」と考えるべきだろう。田中訳は「青いがんぴ紙の下の片隅から、いやなものがでてきた」。村上訳は「片隅の青い薄紙の下に、私はいささか好ましくないものを見つけた」。

「白いティッシュペーパーを捻ったものがもう一つ」は<Another twist of white tissue>。清水訳は「白いクリネックスをひねったものがもう一つ」。田中訳は「やはりうすいがんぴ紙でつつんだものがあったのだ」。村上訳は「白いティッシュペーパーをねじったものがもう一つ」。今度は<tissue paper>ではなく、ただの<tissue>になっていることから、「クリネックス」が正解。青と白と、色も違うので「雁皮紙」ではなく、普通の「ティッシュペーパー」と思われる。

スクリプト体で、こう書かれていた」は<It was in script. It read>。清水氏は<in script>をスルーし、「こう書かれてあった」。田中訳は「筆記体でこう書いてあったのだ」。村上訳は「手書き文字でこのように書かれていた」。「スクリプト体」というのは、筆記体に似た手書き風の流麗な書体のことだ。高貴で優雅な印象を与えることから、招待状や卒業証書などに用いられることが多い。