HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第三十一章(2)

バランスを崩しかけたら、ふつう何かにつかまろうとする。

【訳文】

「君はこの役を見事に演じてるよ」私は言った。「この混乱した無邪気な女のなかに透けて見える冷たさや辛辣さを含めてね。みんな君のことを大間違いしていた。君は頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さんだと考えていた。とんでもない大失態だ」
 彼女は私をじっと見つめ、眉を上げた。何も言わなかった。それから小さな笑みが口角を持ち上げた。封筒に手を伸ばし、膝の上でとんとん叩いてから、テーブルの脇に置いた。その間ずっと私を見つめていた。
「フォールブルック役もまた見事な出来だった」私は言った。「振り返ってみれば、少々やり過ぎな気もするが、あの時はしてやられたよ。あの紫色の帽子は金髪には映えるだろうが、茶色のほつれ髪には全然似合わない。それに暗闇で手首を捻挫した人が化粧したようないかれたメイク、ぎくしゃくした風変わりな振舞い、どれをとっても上出来だ。そして、あんなふうに銃を手に押しつけられて、私はまんまと騙された」
 彼女はくすくす笑い、両手をコートのポケット深く突っ込んだ。靴の踵がこつこつと床を叩いた。
「でも、またどうして戻ったんだ?」私は訊いた。「なぜ白昼堂々、危険を冒してまで」
「じゃあ、私がクリス・レイヴァリーを撃ったと考えてるのね?」彼女は静かに言った。
「考えてるわけじゃない。知ってるんだ」
「私がなぜ戻ったのか? それを知りたいの?」
「本当のところ、どうでもいいんだ」私は言った。
 彼女は笑った。狡猾でぞっとする笑いだ。「彼は私の金をそっくり持っていった」彼女は言った。「私の財布を空っぽにした。小銭までもね。だから戻ったの。危険なことなんか全然なかった。彼の暮らしぶりはよく知ってた。戻る方が安全だったくらい。たとえば牛乳や新聞を取り込むとか。人はこういう時、頭が真っ白になる。私はそうじゃない、そうなる理由がわからない。そうしない方がよっぽど安全なのに」
「なるほど」私は言った。「ということは当然、前の晩彼を撃ったんだ。どうでもいいことだが、そう考えるべきだった。彼は髭を剃っていた。だが、髭の濃い男や女友だちがいる男は、寝る前に髭を剃ることがある。そうだろう?」
「聞いたことがある」彼女はほとんど楽しそうに言った。「それでどうするつもりなの?」
「君は滅多に見られない冷血な牝犬だ」私は言った。「どうするかって? もちろん警察に突き出すさ。喜んで」
「そうは思わない」彼女はほとんど歌うような調子で語りかけた。「空になった銃を渡したことをあなたは不思議に思った。なぜいけないの? バッグの中にもう一つ持ってたのよ。こんなふうに」
 彼女の右手がコートのポケットから上がってきて、彼女はそれを私に向けた。
 私はにやりと笑った。全然、心がこもった笑いではなかったかもしれないが、それでも笑いにちがいなかった。
「こういうシーンは好きじゃなくてね」私は言った。「探偵が殺人犯と向かい合う。殺人犯は銃を出し、探偵に向ける。殺人犯は探偵に悲しい物語の一部始終を聞かせる。語り終えたら探偵を撃つつもりで。こうして、多くの貴重な時間を浪費することになる。たとえ最終的に殺人犯が探偵を撃ったとしても。ただ、殺人犯は決してそうしない。それを邪魔する何かが常に起こる。神々もこのシーンがお嫌いのようで、いつも何とか台無しにしようとする」
「でも今回に限り」彼女はそっと立ち上がり、絨毯の上を歩いて私の方にやってきた。「少し趣向を変えてみましょう。私が何も言わず、邪魔も起こらず、あなたを撃つとしたら?」
「それでもそのシーンは好きじゃないな」私は言った。
「あまり怖がっていないみたいね?」彼女はそう言うと、ゆっくり唇をなめ、一切足音を立てず、絨毯の上を静かに私の方に向かってきた。
「怖くなんかないさ」私は嘘をついた。「夜も更けた。あたりは静まりかえっている、窓が開いていて、銃は派手な音を立てる。通りに出るまで時間がかかる。おまけに君は銃が苦手ときている。多分仕損じるだろう。レイヴァリーを撃ったときも三度も撃ち損ねている」 
「立って」彼女は言った。
 私は立ち上がった。
「撃ち損うには近過ぎるようね」彼女は言った。そして私の胸に銃を押しつけた。「こうするの。今回は外しっこない、でしょう? じっとして。両手を肩より上に上げて動かないの。少しでも動いたら弾が出るわよ」
 私は肩の横に手を上げ、銃を見下ろした。自分の舌を厚ぼったく感じたが、まだ動かすことはできた。
 彼女は左手で私のからだを探ったが銃は見つからなかった。彼女は手を下ろし、唇を噛んで私を見つめた。銃が私の胸に食い込んだ。「向こうを向いて」彼女は仮縫い中の仕立屋のように丁寧に言った。
「君のやることはみんな、少し調子が狂ってる」私は言った。「はっきり言って、君は銃が得意じゃない。私にくっつきすぎてるし、こんなことを言うのもなんだが、安全装置が外れていない。よくあることだが、君も見落としてる」
 それで、彼女は同時に二つのことをやりだした。大股で一歩後退し、私の顔から眼を離さずに親指で安全装置を探った。二つのとても簡単なこと、ほんの一瞬でできることだ。しかし、彼女は私に口出しされたくなかった。私の言いなりになるのが癪だったのだ。そのちょっとした混乱が彼女の心を揺さぶった。
 彼女が小さくくぐもった声を出した。私は右手を下ろして相手の顔を私の胸にぐいと引き寄せた。左手を彼女の右手首に振り下ろし、掌底で彼女の親指の付け根を打った。銃は彼女の手から離れて床を転がった。私の胸で彼女は激しく顔をよじらせた。悲鳴を上げようとしたようだ。
 それから、彼女は私を蹴ろうとして、わずかに残っていたバランスを崩した。両手で私にしがみつこうとした。私はその手首をつかんで背中にねじ上げた。彼女はとても力が強かったが、私の方がずっと強かった。そこで彼女は力を抜き、頭を抱えている手に全体重を預けることにした。片手では彼女を支えることができなかった。彼女が落ちかけたので、私も身をかがめなければならなかった。
 ソファの脇の床で取っ組み合う二人の立てる物音と激しい息遣いのせいで、床板が軋んだとしても聞こえなかっただろう。カーテンリングが棒の上で急に止まったような気がした。確信はないし、それについて考える余裕もなかった。突然人影が迫ってきた。左の真後ろ、視界の届かないところだったが、そこに男がいて、大男であることは分かった。
 分かったのはそれだけだ。場面は炎と闇に包まれ爆発した。殴られた事さえ覚えていない。炎と闇、そして闇が迫る寸前のむかつく一閃。

【解説】

「この混乱した無邪気な女のなかに透けて見える冷たさや辛辣さを含めてね」は<This confused innocence with an undertone of hardness and bitterness>。<undertone>は「底意」と考えればいいだろう。清水訳は「お人よしに見せながら、正体をつかませず、冷たく、反抗的なものを匂わせている」。田中訳は「大胆で、皮肉な、この混乱した、むじゃ気な女」。村上訳は「ハードで苦々しいものを込めた、混乱した無垢さみたいなものをね」。

要は「クリスタル・キングズリー」という女の性格をどう解釈するかということだ。その「頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さん」は<a reckless little idiot with no brains and no control>。清水訳は「わきまえがなく、抑えのきかない、無軌道な愚か者」。田中訳は「無考えで、自制心のない、わがままな、頭のわるい奥さん」。村上訳は「無軌道な、脳味噌と自制心の足りない、可愛い浮かれ女」。

どれもよく似たものだが<little idiot>の解釈は少しちがう。<little>には「小さくて愛おしい」という意味がある。<idiot>は古くは「白痴」を意味していた。口語表現としては「馬鹿、間抜け」のことだが、前に<little>がつけばニュアンスが変わってくる。田中訳や拙訳の「さん」づけはそういう意味だ。時代がかった「浮かれ女」という村上訳には「遊女、娼妓」の意味があり、少し違和感を覚える。

もし、クリスタル・キングズリーを「頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さん」だと考えると、<with an undertone of hardness and bitterness>をどう考えればいいのだろう。<hardness and bitterness>こそが、クリスタル・キングズリー役を演じている女の素顔、下地ではないのか。そう考えると、清水訳の「お人よしに見せながら、正体をつかませず、冷たく、反抗的なものを匂わせている」が群を抜いている。田中訳、村上訳は二つの性格を弁別できていない。

「私はまんまと騙された」は<I fell like a brick>。清水訳は「私はすっかり参っちまったんです」。田中訳は「あれで、ぼくもコロッといつたんですよ」。村上訳は「まさに度肝を抜かれたよ」。<fall for like a ton of bricks>というスラングには「誰かに即座に激しく夢中になること」の他に「嘘や詐欺を信じること」という意味がある。清水、田中両氏の訳は前者の意味合いが濃い。村上訳の「度肝を抜かれる」はどこから来たのだろう。

「狡猾でぞっとする笑いだ」は<A sharp cold laugh>。清水訳は「鋭く冷たい笑いだった」。田中訳は「甲高い、つめたいわらい声だ」。村上訳は「鋭く冷ややかな笑いだった」。ここから、次第にこの女の非情な性格が表に出てくる。<sharp>は「鋭い」にちがいないが、他にも「頭のきれが鋭い、ずる賢い」という意味がある。マーロウの耳にどう聞こえたかを考えながら訳したいところだ。

「君は滅多に見られない冷血な牝犬だ」は<You're a cold-blooded little bitch if I ever saw one>。清水訳は「あんたのような冷たい女に会ったことはない」。田中訳は「あなたのような冷血な人殺しにお目にかかるのははじめてだ」。村上訳は「君は血も涙もない、類を見ないほどたちの悪い女だ」。<if I ever saw one>はかなり強調した言い方で「(そんなものはないとされているが)これまでに見たことがあるとすれば~こそが、まさにそれだ」くらいの意味。通常「くそ女」とでも訳すところだが、<cold-blooded>には「冷血(動物)」の意味もあるので、<bitch>をそのまま「牝犬」と訳してみた。

「両手で私にしがみつこうとした」は<Her hands came up to claw at me>。田中訳は「両手をあげて、ひつかこうともした」。村上訳も「それから両手を上げて私を爪で引っ掻こうとした」だ。<come up to>は「(~が)近くにやってくる」ことで、「上げる」のではない。<claw at ~>は「~を手でつかもうとする」という意味。その前にバランスを崩しているのだから、引っ掻く余裕などないはずだ。清水訳は「彼女の両手が私にすがりつこうとした」。田中訳が先で、清水訳の方が後だ。なぜ村上氏が元に戻したのか分からない。

「私はその手首をつかんで背中にねじ上げた」は<I caught her wrist and began to twist it behind her back>。田中訳は「おれはその手首をつかみ、背中のほうに、逆にねじあげた」。清水訳は「私は彼女の手首をつかんで背中の方にねじまげた」。村上訳は「私は相手の両手首を掴んで、背中でねじ上げた」。<wrist>が「両手首」になる理由もよくわからない。疲れが重なっていたのだろうか?