HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第52章

スターの紹介状を持ってマーロウのオフィスを訪ねてきた男は、シスコ・マイオラノスと名乗った。マーロウは、早速レノックスの最期について質問した。そのときの客のなかにアメリカ人は二人いたという。

 

“ Real Gringos or just transplanted Mexicans? ”

 

清水訳「生粋のアメリカ人でしたか、アメリカへ移住したメキシコ人でしたか」

村上訳「普通のアメリカ人ですか、それともメキシコ系アメリカ人?」

ここは、清水氏のほうが原文に忠実なように思える。一人はスペインの血を引いているようだった、と答えた男は、それに続けて言う。

 

“ He spoke border Spanish. Very inelegant. ”

 

清水訳

「国境近くで使われるスペイン語を話していました。大へんエレガントでした」

村上訳

「アメリカとメキシコの国境近辺で使われているスペイン語を話していました。とても品のない言葉です」

清水氏は二文字読み飛ばしてしまったのだろう。誤訳である。清水氏の訳については手持ちのハヤカワ文庫(初版三十五刷)を参照。この部分に限らず後の版で修正されていたら申し訳ない。

 

郵便ポストにこだわるマーロウは、マイオラネスになぜポストにではなく、自ら郵便局に持っていったのかと重ねて問う。「郵便ポストですか」と不審げなマイオラネスに確認するように言うところ。

 

“ The mailbox. The cajón cartero, you call it, I think. ”

 

清水訳「そうだ。郵便を投げ入れる箱さ」

村上訳「郵便ポストだよ。カヨンカルテロと君たちは呼ぶのかな」

清水氏は、スペイン語を訳してそのままもとの英文のなかに紛れ込ませている。村上氏はいつものように律儀にスペイン語であることを明らかにしている。

 

メネンデスら二人のアメリカ人が行った偽装工作については本文を読んでいただくとして、これがばれるとアメリカ、メキシコ両国で問題になるのは明らかだ。

 

“ It had to be good enough to fool a lawyer who had been a District Attorney, but it would make a very sick monkey out of the current D.A. if it backfired.”

 

清水訳

「地方検事をつとめたことのある弁護士をなっとくさせればよかったんだ」

村上訳

「それはかつて地方検事を務めていた弁護士をだまくらかせる程度には上出来の偽装だった。しかし、もし真相が露見したら、現職の地方検事はいい笑いものになる」

後半部を相変わらず清水氏はカットしている。一介の弁護士くらい騙しそこなってもどうということはないが、現職の地方検事となるとメネンデスにとっては命取りだ。おとなしくさせるためにマーロウを痛めつけたくもなるだろう。

第51章

マーロウは、気になっていることを確かめるために弁護士のエンディコットのオフィスを訪れた。冒頭、マーロウの目が捉えたオフィスの描写が入る。年代物の机に革張りの椅子、法律書と文書が溢れたいかにもやり手の弁護士の事務所といった様子である。

 

“ the usual cartoons by Spy of famous English judges, and a large portrait of Justice Oliver Wendell Holmes on the south wall, alone.”

 

清水訳

「壁には有名なイギリスの判事たちの描いた漫画とオリヴァー・ウェンデル・ホームズ判事の肖像画がかかっていた」

村上訳

「スパイ(英国人風刺画家レスリー・ウォードの別名)の描くところの有名な英国の判事たちの戯画が、決まりどおり壁にかかっていた。 南側の壁にはたった一つ、オリヴァー・ウェンデル・ホームズ判事の大きな肖像画がかかっていた」

 

イギリスの判事たちがいくら有能であったとしても、漫画が達者だとは思えない。スパイことレスリー・ウォード作と考えるのが無難だろう。

 

エンディコット自身の描写にも問題がひとつ。

 

“ He was in his shirtsleeves and he looked tired, but he had that kind of face. He was smoking one of his tasteless cigarettes.”

 

清水訳

「彼はワイシャツ姿で、つかれているようだったが、この前のときと変わらない親切そうな表情を見せていた。いかにもまずそうにタバコを吸うと、」

村上訳

「彼は上着を脱いで、くたびれた顔をしていた。しかしもともとがそういう顔立ちなのだ。例によって味を欠いた煙草を吸っており、」

 

エンディコットとマーロウは第八章で顔を合わせている。しかし、せっかく保釈で出してやろうと言っているのに、それを頑なに断るマーロウに、エンディコットは業を煮やしている。とても親切そうな表情とはいえないはず。“ kind of ”という言い回しはありふれているのに、清水氏はどうして「親切」だと思ったのだろう。もうひとつ、エンディコット愛用の煙草はフィルターつきの物で、この前一本もらったときにマーロウは味がしないと感じている。 “ one of his tasteless cigarettes.” には、そういうマーロウ一流の皮肉がこめられていると読みたい。

 

エンディコットと留置場で会ったときのことを思い出したマーロウは、無意識に頬を指先で触る。傷はほとんど治ったが、一カ所神経がおかしくなり、まだ痺れが残っているのだ。レノックスの件も同じである。関係者にとってはけりのついた事件なのだろうが、マーロウには気になることがひとつある。傷の癒えない場所が頬であることも象徴的だ。チャンドラーの文章は実に芸が細かい。この辺りは慎重に訳してほしいところだが、例によって清水氏は訳していない部分がある。

 

“ I couldn’t let it alone. It would get all right in time.”

 

村上訳だと、こうなる。「それがどうしても気になる。遠からず元通りになるのだろうか」。なかなか意味深な独白に思えるのだが。どうだろうか。

 

ハーラン・ポッターの命を受けてオタトクランに向かったとき、地方検事局代理という肩書きを使ったことに触れたマーロウに対する、エンディコットの返事。

 

“ Yes, but don’t rub it in, Marlowe. ”

 

清水訳「そのとおりだが、私を責めることはないよ、マーロウ」

村上訳「そうだ。そのことはあまり思い出させてほしくないのだがね。マーロウ」

権力者に尻尾を振ったことを匂わせているところなのだから、「勘弁してくれ」というニュアンスがほしい。因みに“rub it in ” には「《いやな事を》繰り返し言う」という意味がある。「そうだ。あまりいじめないでくれよ。マーロウ」くらいか。

 

“ I guess he hates my guts―if he thinks about it. ”

 

清水訳

「彼は僕が容易にひきさがらないことをこころよく思っていないらしいんです」

村上訳

「私は彼にこころよく思われていないでしょうね。もし、彼が私に対して感情を持つとすればですが」

 

彼というのはハーラン・ポッター。” hate O’s guts ” には「人を腹の底から嫌う(略式)」という意味があるから、どちらの訳も上品過ぎるような気がする。清水氏は“ guts ”を「ガッツがある」という意味で訳しているようだが、村上氏の訳もそれを踏襲しているようだ。清水氏のカットした後半を訳出することでよしとしたのだろう。

 

オタトクランの町に郵便ポストがあったかどうか、というのがマーロウの知りたいことで、実はそんなものがないことはマーロウは承知なのだ。いつまでも小さなことにこだわるマーロウにエンディコットはかなり疲れてきている。それをよく伝える次のようなところも清水氏は訳していない。

 

Something in Endicott’s eyes went to sleep.”

 

村上訳「エンディコットの目にあった何かが眠り込もうとしていた」。直訳である。

 

手間を取らせたことを詫び、マーロウは事務所を出た。藪をつついては見たが、なかなか蛇が出てこない。結果が出たのは一ヵ月後だった。

 

“ It was another wheel to start turning―no more. It turned for a solid month before anything came up. ”

 

清水訳「それから一ヶ月のあいだ、何も起こらなかった」

村上訳

「新しい弾み車(ホイール)が回り出したわけだが、結局どこにもつながらなかった。まるまる一カ月、それは無為に空転していた」

 

一カ月後の金曜日、見知らぬ男がマーロウのオフィスを尋ねてくる。

 

“ He was  a well-dressed Mexican or Suramericano of some sort.”

 

清水訳「身なりのきちんとした男で、メキシコ人かアメリカ南部の人間のように思われた」

村上訳「身なりが良くメキシコ人のようだった。南米のどこかの出身かもしれない」

 

アメリカ南部と南米のあいだには飛行機で飛ばなければならないほどの距離がある。ほんとうはどちらだろうか。ここで問題になるのは“Suramericano”(Black Lizard版)だ。もしかしたら“Sudamericano”の誤植ではないだろうか。それなら、南米を意味するスペイン語なのだが。

第50章

一時間後、二人はまだベッドのなか。裸の腕をのばしてマーロウの耳をくすぐりながらリンダが「結婚しようと思わない?」ときく。よくもって六ヶ月だろう、というのがマーロウの返事。あきれたリンダは、人生に何を期待しているの、起きるかもしれないリスクに対する完全な保障?と、マーロウをなじる。それにこたえてマーロウが言う。

 

“I’m forty-two years old. I’m spoiled by independence, You’re spoiled a little―not too much―by money.”

清水訳

「ぼくはことしで四十二になるまで、自分だけを頼りに生きてきた。そのために、まともな生き方ができなくなっている。その点では君も少しばかりまともじゃない――ぼくとちがって、金のためなんだが」

村上訳

「私は四十二歳になる。一人でやっていくことに慣れすぎてしまった。そして君は金持ちであることに、少しばかり慣れすぎてしまった。すっかり(傍点四字)とは言わないまでも」

 

「スポイルされる」という言葉は日本語にもなっている。親などに甘やかされたせいでだめになってしまった子どもに対してよく使われる言葉だ。つまり、マーロウは独り暮らしの気儘さに、リンダは金で何でも自由になる気儘さに慣れすぎたことにより、結婚生活の持つ、ある意味拘束される生活に耐えられなくなっていることを言いたいのだ。

 

リンダも引かない。私は三十六になる。金のあることは恥ではない。それに金持ちだって永いことはない。次の戦争が終わったらまともな者は税金で丸裸にされ一文なしになってしまう。飛行機でパリに行って楽しみましょう、と。ここにも戦争が影を落としている。マーロウは自分の結婚観を語る。

 

“After twenty years all guy has left is a work bench in the garage. American girls are terrific. American wives take in too much territory.”

 

清水訳

「二十年もたってみたまえ。男に残されているものは車庫のなかの腰かけぐらいのもんだ。アメリカの女性はどう考えてものさばりすぎるからね」

村上訳

「結婚して二十年もたてば、男の手に残されているのは、ガレージの作業台くらいのものさ。アメリカ娘は素敵だよ。しかし彼女たちはいったん奥さんになると、すべてを指図するようになる」

 

なんともネガティヴなマーロウの結婚観であり、(アメリカ)女性観だが、清水氏はベンチの前にあるワークを読み落としているようだ。ワーク・ベンチは、大工仕事用の作業台でDIY好きのアメリカ人にはお馴染みのアイテム。余暇といえば、これの前で一日を過ごす男性は多い。村上訳でまちがいはないのだが、原文をよく見てみよう。

American girls are terrific.

American wives take in too much territory.

この二文は対句になっている。しかも文末は頭韻を踏んでいる。日本語訳もそれを生かすことを考えると、次のように訳せる。

拙訳

「二十年後、男に残されているのは、車庫のなかの作業台くらいのものさ。アメリカ娘は素敵だが、アメリカ夫人は無敵だ。家のなかのほとんどが彼女の領土になっている」

 

マーロウはそれに続けて言う。

“it would be just an incident to you. The first divorce is the only tough one. After that it’s merely a problem in economics. No problem to you.”

清水訳

「君にとっては結婚も離婚も日常茶飯のことなんだ。誰だって、最初の離婚のときはなやむだろうが、二度三度となると、経済的の問題だけになる。それは君には問題じゃない」

村上訳

「君にとってそれは人生のただのひとこま(傍点四字)に過ぎないだろう。離婚もきついのは最初の一回だけだ。二回目からは単なる財政的な問題に過ぎなくなるし、君にとっちゃそんなもの痛くも痒くもない」

“incident”は「日常茶飯」なのか「人生のひとこま」なのか。どちらにせよ、リンダにとってのそれは「一大事」ではなく、通り過ぎてしまう「一挿話」のようなものだ、とマーロウは言いたいのだ。それにしても「経済的の問題だけになる」という訳は、流暢な日本語を操る清水氏らしくない。もしかしたら誤植か。

 

自分のことなんか、十年後、通りですれ違ってもどこで会った人だったかと思うくらいのもの。もし気がついたとしてのことだが、と続けるマーロウにリンダはあきれる。

“You self-sufficient, self-satisfied, self-confident, untouchable bastard. I want some champagne.”

清水訳

「あきれたわね。手がつけられないおばかさんだわ。シャンペンをちょうだいよ」

村上訳

「あなたは自己満足、自己充足、自意識過剰の権化、お高くとまったならずものよ。シャンパンをちょうだい」

相変わらず、清水氏の訳はあっさりしている。三回繰り返す強調は、チャンドラー愛用のレトリックらしいが、繰り返される「自己」という言葉に、マーロウの自己意識の強さに辟易しているリンダのいらだちがよく出ている。それに応えてマーロウが吐く次の台詞も難しい。

 

“This way you will remember me.”

清水訳「こんなつきあい(傍点四字)をしてれば、君もきっとおぼえてるよ」

村上訳「きっとそういう文脈で思い出してもらえるかもしれない」

十年後、自分のことを思い出してもらえるとすれば、こんな方法によってだろう、という意味。村上訳は本で読んでいるとおかしくはないが、会話の中で「文脈で」などと使うだろうか。皮肉たっぷりの悪口の応酬は、他愛ない口喧嘩のようでいながら、痴話喧嘩の域をこえ、互いの本質を的確に言い当てている。リンダがマーロウを覚えているとすれば、たしかに、こうしたやりとりをおいて外にない。

 

“Conceited too. A mass of conceit. Slightly bruised at the moment. You think I’ll remember you?”

清水訳

「大へんな自信家だわね。私があなたをおぼえてると思う?」

村上訳

「自惚れも強いのね。まったく自惚れのかたまり。今のところは少しばかり傷を負っているみたいだけど。ねえ、私があなたのことをいつまでも覚えていると、本気で考えているわけ?」

マーロウの自惚れについた少しの傷について、リンダの悪口を忠実に訳した村上氏に比べ、あっさりと流した清水氏はここもスルーしている。

 

どこまでも自分の流儀を貫こうとする男は結婚なんかするべきではない。一方、そんな男を自分のものにするには、男の自我を相対化するしか手はない。リンダがここでやっているのは、そういう作業である。だが、マーロウは意外に手ごわい。手を変え品を変え、リンダは口説く。今度は金持ち女らしく、世界だってあなたに買ってあげる、もし離婚してもあなたは殺風景な事務所に戻らなくてすむようにしてあげられる、と。

 

“How would you stop me? I’m not Terry Lennox.”

清水訳「どんな生活をしようと、ぼくの勝手さ。ぼくはテリー・レノックスじゃない」

村上訳「戻るか戻らないかは自分で決める。テリー・レノックスとは違う」

どちらも、かなりの意訳である。「(もとの暮らしに戻ろうとする)ぼくをどうやってとめるつもりだい?」というのが直訳。リンダはテリー・レノックスの義姉である。妹は金の力で夫をつなぎとめていたが、自分はテリー・レノックスとはちがう、と言いたいマーロウ。

 

“Please. Don’t let’s talk about him. Nor about that golden icicle. the Wade woman.”

清水訳「おねがい。あのひとのことはいわないで。ウェイドの奥さんの話もしないでちょうだい」

村上訳「お願いだから、あの人の話は持ち出さないで。それからウェイドという名前の、あのつらら(傍点三字)のような女のことも」

アイリーンに対する強い嫌悪感をにじませるリンダの修飾語も清水氏はカットしている。

 

I’ve paid you the greatest compliment I know how to pay. I’ve asked you to marry me.”

清水訳「私がこれだけいっているのがわからないの。結婚してくださいといったのよ」

村上訳「私は自分にとって何よりも大事なものをあなたに差し出したのよ。結婚してほしいって頼んでいるのよ」

“compliment”(賛辞)という単語が問題である。というのは、これを受けてマーロウが呟く次の台詞にも同じ単語が使われているからだ。

“You paid me a greater compliment.”

清水訳「それ以上のことをしてくれたからね」

村上訳「君はそれ以上のものを差し出してくれた」

いったい、マーロウがもらったもの、リンダが差し出したものとはなんだろう。これらの訳で読者に分かるだろうか。禅問答みたいなやりとりが終わると、今まで気丈に振舞っていたリンダが泣き出す。つまり、このマーロウの一言は決めゼリフだったというわけだ。リンダが“greatest compliment”(最高の賛辞)と考えているのは、プロポーズのことである。リンダほどの女性からのプロポーズであれば男にとって最高の賛辞といっていいだろう。いやむしろ贈り物と訳すほうがいいかもしれない。それに対して、マーロウが比較級を使って、それ以上の“compliment”と言っているのは、文字通りの賛辞、つまり“the only man who turned me down”(私を拒んだただ一人の男)という言葉ではないだろうか。

 

“Her cheeks were wet. I could feel the tears on them.”

清水訳「頬に涙が流れた。涙は私の頬にもつたわってきた」

村上訳「彼女の頬は濡れていた。涙が指先に感じられた」

“tears on them” なのだから、涙を感じたのは、私の頬ではないだろう。

 

ひとしきり泣いたリンダは化粧をなおしに洗面所に行き、帰ってきたときは微笑を浮かべていた。明るくした居間に、マーロウはシャンパンを運んだ。

“I’ll introduce myself,” I said.“We’ll have a drink together.”

 

清水訳「いっしょに飲もう」と私はいった。

村上訳「私がどんな人間か、少しずつ君に見せていこう」と私は言った。「また二人で一緒に飲もう」

清水氏はあっさりカットしているところ、村上氏はずいぶん意を尽くして訳して見せるが、マーロウは、これから先もリンダとつきあっていくつもりなのだろうか。ここは、ひとつ前のリンダの言葉「六ヵ月後にはきっとあなたの名前だって覚えていないでしょうね」を受けての言葉と採りたい。つまり、名前を忘れているのだったら、もう一度、「自己紹介からはじめるさ。一緒に飲もうよ」という気分なのでは。

 

翌朝、リンダを送り出した後の枕カバーに一筋の髪の毛を見つけた場面でマーロウのもらす感慨は、有名な台詞となっている。

“The French have a phrase for it. The bastards have a phrase for everything and they are always right. ”

“To say goodbye is to die a little.”

清水訳

「こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった」「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。」

村上訳

「フランス人はこのような場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼ(傍点二字)にはまる」「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」

どちらもいい訳だと思う。清水訳が捨てがたいが、原文に忠実に、しかもすっきりと訳したい。

拙訳

「フランス語に、いい文句がある。彼奴らはどんなことにもいい文句を持っていて、それらはいつも正しい」「さよならと言うのは、少しだけ死ぬことだ」

 

第49章

エイモスの運転で、リンダがやってくる。マーロウはシャンペンでもてなそうとするが、リンダのボストンバッグを部屋に入れかけたところで口論になる。シャンペンくらいでベッドをともにする女と見られたくない、と怒り出すのだ。一度は、謝るマーロウだが、怒りの覚めやらぬリンダに、今度はマーロウのほうが怒り出す。そして痴話喧嘩のあとは仲直りのキス、となる。その冒頭から。

“When the car stopped out front and the door opened I went out and stood at the top of the steps to call down.”
清水訳
車が表でとまって、ドアがあくのが聞こえたとき、私は入り口に出て、会談の上に立っていた。
村上訳
うちの正面に車が停まり、ドアの開く音が聞こえた。私は外に出て階段のてっぺんから「すぐに下りていくから」と下に向けて声をかけた。
英語というのは、即物的というか、実践的というか、なんとも率直な言葉で、“call down”が、「下りて来るように言う」という意味を表す。村上訳は、その用例で、会話を補足して使っている。直訳すれば、「外で車が停まり、ドアがあいたとき、私は、降りてきて、と言われるために外に出て階段の上に立っていた」。もっと砕いて言うなら、「外で車が停まり、ドアが開いたとき、私はいつ声がかかっても下りてゆけるよう、外に出て階段の上に立っていた」か。

しかし、運転手のエイモスが彼女のためにドアを開け、小さな旅行鞄を手に、彼女の後から階段を上がってきたので、マーロウは待つことにした。マーロウがホテルまで送ってくれるから、とリンダは車を帰し、一人で部屋の中に入る。顔の傷に気づいたリンダは、どうしたの、と訊きマーロウはメネンディスにやられたが、もう彼のことは忘れていい、と話を打ち切る。飲み物でもということになり、シャンパンの話になる。
“I haven’t any ice bucket, but it’s cold, I’ve been saving it for years. Two bottles. Cordon Rouge. I guess it’s good. I’m no iudge.”
清水訳
「氷を入れるバケツはないが、シャンパンは冷えている。永いあいだしまっておいたのが、二本ある。コードン・ルージュです。いい品物だと思うんだがね。ぼくにはよくわからない」
村上訳
「アイス・バケツの用意はないが、よく冷えているよ。二年ほど前からずっととってあるからね。コルドン・ルージュが二本。悪くないものだ。とりたててシャンパンには詳しいわけじゃないが」
“saving it for”が、このあと問題になってくるのだが、村上氏はなぜ「二年ほど前」と時間を区切ったのだろう。閑話休題。シャンパンがとってあるときいたリンダは“saving it for what?”(なんのためにとっておいたの?)と尋ね、マーロウは“saving it for you.”(君のためさ)と応える。気の利いた台詞のやりとりだ。リンダは、微笑みながら、マーロウの顔をじっとみつめて、こういう。
“You’re all cut.”
清水訳「うまいことをいうのね」
村上訳「顔じゅう傷だらけ」
次にくるのが、会ってからまだ二ヵ月しかたってないのに、という台詞だから、リンダがマーロウの言葉のいい加減さに呆れたことをいいたいのだろう。清水氏の意訳でもいいのだが、“be cut”には、「死ぬ、重傷を負う」の意味がある。顔の傷にかけて、「あなたって、まったくどうしようもない人ね」の意味を含めているのではないだろうか。その後にこう続くのだから。
“Saving for me? That’s not very likely, It’s only a couple of months since we met.”
清水訳
「私のためにしまっておいたの?おかしいじゃないの。会ってからまだ二ヵ月しかたっていないのよ」
そういわれても悪びれず、「いずれ会えるだろうと思ってしまっておいたのさ」と、かわすマーロウ。このあたりの台詞のやりとりは実に軽妙だ。

シャンパンをとりに台所へ行く際に、マーロウは旅行鞄を持って部屋から出ようとした。そこにリンダの鋭い声が飛ぶ。“Just where are you going with that?”(それを持ってどこへ行こうというの)。
“It’s an overnight bag, isn’t it?”
清水訳「身のまわりのものが入ってるんでしょ」
村上訳「だって、泊まり支度なんだろう?」
リンダのバッグは、ハンドバッグではなく、一泊程度の旅行用の鞄で、所謂ボストンバッグだった。車も帰したし、遅いから泊まるつもりで来たにちがいないとマーロウは考えたのだろう。しかし、リンダはマーロウが車でホテルに送ってくれるから、といって運転手を帰している。泊まる、とはひと言も言っていない。その一方で、マーロウは今夜は車がないこともリンダに告げている。それを承知で車を帰したからには、自分の家に泊まる気でいるとマーロウが考えるのも無理はない。

リンダは混乱している。マーロウはこれまで、自分に気があるような素振りは全然見せてこなかった。リンダは、マーロウのことを「タフで、シニカルで、ひねくれて、冷酷な人だ」と思ってきた、という。マーロウは、「そうかもしれない―ときによっては」と、返す。そのあと、
“Now I’m here and I suppose without preamble, after we had a reasonable quantity of champagne you plan to grab me and throw me on the bed. Is that it?”
清水訳
「ところが、私がここへ来たものだから、シャンペンでいいかげん酔っぱらわせてから、私をつかまえてベッドにつれこもうというのね。そうなんでしょ」
村上訳
「私は今ここにいる。前置きみたいなものも抜きに。そしてあなたは、そこそこの量のシャンパンを飲んだあとで私にいどみかかり、ベッドに押し倒そうとしている。違うかしら?」
“without preamble”というのは、「前置き抜きに」でまちがいないのだが、村上氏のように訳すと、ずいぶん堅苦しく聞こえてしまう。こんな訳はいかがだろう。
「私は今はここにいる。そして、ずばり言うけど、このあと二人が気持ちよくなるくらいシャンペンを飲んだら、あなたは強引に私をベッドにつれこむつもりなのよね。ちがう?」

マーロウは正直に、そんな考えも頭の片隅にちらっと浮かんだかもしれない、と明かす。「光栄だわ」と、言いながらもリンダは、あなたのことは好きだが、だからといってあなたと寝たいと思っているとは限らない。旅行鞄のせいで早合点したんじゃないの?と、軽くいなす。バッグを元の位置に置いたマーロウはシャンパンを取りにいこうとする。「シャンパンはもっといいことがあったときのためにとっておいたら」と、引きとめるリンダにマーロウは「たった二本だ。本当にいいことがあったら一ダースは必要だ」と、言う。その一言がリンダを傷つける。自分はそれだけの価値の女だ、と言われたように感じたのだ。離婚話と旅行鞄のせいで自分のものになると思ったらお門違いよ、と怒りを募らせるリンダに、マーロウも切れる。今度旅行鞄のことを口にしたら投げ捨ててやる。別に寝ることを求めてなどいない。いっしょに酒を飲もうというだけじゃないか、と。相手を怒らせてしまったことに気づいたリンダは、マーロウに詫びる。
“I’m a tired and disappointed woman. Please be kind to me. I’m not bargain to anyone.”
清水訳
「ごめんなさいね。私は世の中にくたびれて、幻滅を感じている女よ。お願いだから、やさしくしてくださいな。つまらない女なのよ」
村上訳
「ごめんなさい。とてもくたびれて、心が傷ついているの。だから優しくしてちょうだい。相手が誰であれ自分を安売りしたくないの」
最後のところの訳が異なっている。“ bargain”は、もともと「商い」を語源とする。この文脈では、誰とも(値段を)交渉する気がないという意味になる。相手の出方を見て、駆け引きするような、そんな元気は今の自分にはない。ただ、優しくしてほしい、と訴えているのだ。そういう意味では清水氏の「つまらない女なのよ」は、よく分かる訳だ。村上氏の「安売りしたくないの」は、“ bargain”に引きずられた訳だと思われるが、この状態のリンダの口から出てくる言葉としては、少々高飛車な感じがするのは否めない。

マーロウは、そんなリンダの言ったことを否定する。君はくたびれてなんかいないし、他の誰と比べても失望してなんかいない。誰かに優しくしてもらう必要などない女なのだ、と。マーロウが、シャンパンを用意して戻ると、リンダはいない。どこへ行ったのかと探すと、リンダは髪をほどき、ローブに着替えていた。
“I meant to all time,” she said. “I just had to be difficult. I don’t know why. Just nerves perhaps. I’m not really a loose woman at all. Is that a pity?”
清水訳
「抱いてほしかったのよ」と、彼女はいった。「でもかんたんに抱かれたくなかったの。なぜだかわからないわ。―でも、ほんとはこんなことをする女じゃないのよ。そう思わなかった?」
村上訳
「はじめからそのつもりだった」と彼女は言った。「でも自分で自分をついむずかしくしてしまう性格なの。どうしてかしら。ただ神経過敏なのかもしれないわね。ガードがとても固くて、うまくほどけない。困ったものね」
心まですっかりほどけたリンダは、しどけない姿でマーロウの前に現われる。ここは、村上訳が原文に忠実だ。

簡単に落ちる女だと思ったら、ヴィクターズではじめて会った時に誘っていたさ、と言うマーロウに、
“I don’t think so, That’s why I am here?”
清水訳「私はそうは思わないわ。だから、ここに来てるのよ」
村上訳「誘いをかけなかったのなら、私はなぜ今ここにいるのかしら」
村上訳でいくと、マーロウははじめからリンダにアタックしていたんだ、ということになる。だから、次の言葉が、「でもとにかくあの夜じゃない」という部分否定になる。清水訳では、最初の出会いのときに誘ってないから、今夜がある、という意味になる。いずれにせよ、マーロウは最初の夜にはリンダを誘っていない。あの夜はもっと他に気になることがあったからだ。
親しげな会話が続くうちに、リンダはシャンパンを再三ほしがる。なぜ?と問うマーロウに、
“It’ll get flat if we don’t drink it. Besides I like the taste of it.”
清水訳「飲まないと気分がわかないの。それに、舌ざわりが好きなのよ」
村上訳「飲まないと気が抜けてしまうでしょ。それにシャンパンが好きなの」
“it”が主語なのだから、沸き立つものがなくなってしまうのはシャンパンの方だろう。このあたりの会話は、もう内容など、どうでもいいような気がしてくる。勝手にやってくれというくらいのものだ。

第48章

家の中で待ち構えていたのは、メンディ・メネンディス。警告を無視したマーロウに報復するための来訪だった。メネンディスはマーロウを三度殴るが、話の途中で相手の隙を突いてマーロウもやり返す。メンディが床に倒れたところでバーニーが登場する。すべては罠だった。警察はマーロウを餌にしてビッグ・ウィリー・マグーン襲撃犯であるメネンディスをおびき寄せ、自白させたかったのだ。ヴェガスのスターとの取り決めどおりメンディをヴェガスのスターのところに送り届けさせると、バーニーは、マーロウに自分がいかに賭博を憎んでいるかを熱く語り始める。マーロウは、それらは必要悪に過ぎないとバーニーを諭す。バーニーが帰ったあと、マーロウはリンダとスターに電話をする。

さんざっぱら傷めつけて気が緩んだのか、メンディはビッグ・ウィリー・マグーンを襲ったわけをマーロウに説いて聞かせる。その部分。
“On account of some lacquered chippie said we used loaded dice. Seems like the bim was one of his sleepy-time gals. I had her put out of the club―with every dime she brought in with her.”
清水訳
「いかさまのさいころを使ったとしゃべった女がいたんだ。奴がいっしょに寝ていた女の一人だろうよ。クラブからお払い箱にした女なんだ」
村上訳
「どっかの酔っぱらった小娘が、俺たちが仕込みをしたサイコロを使っていると抜かしやがったのさ。こいつはどうやらマグーンのいろ(傍点二字)の一人らしかった。この女にはクラブから丁重にお引き取りを願ったよ。すった金はそっくりお返ししてな」
最後のところをいつものように清水氏は訳していない。清水訳だと、お払い箱にされたのを恨んでの仕儀ともとれる。
「気持ちは分かる」と、マーロウは一応同意する。プロはそんないかさまはしない。なぜなら、“He doesn’t have to.”(村上訳「わざわざインチキをするまでもないからな」)。プロが仕切る賭場では初めから胴元が勝つようにできているからだ。この部分も清水氏は訳していない。傷めつけられながらもマーロウは、メネンディスに畳み掛けていく。何故、こんなことをする必要があるのか、と。さんざ殴られていながら減らず口をやめないマーロウに、メネンディスは次第に激昂してゆく。
“I ought to use a knife on you, cheapie. I ought to cut you into slices of raw meat.”
清水訳「ナイフを使うんだったよ。チンピラ。こまぎり(傍点四字)にしてやるところだった」
村上訳「こうなればナイフを使わせてもらうぜ、はんちく。お前をずたずたの細切り肉にしてやる」
メネンディスは、ナイフを使わなかったことを悔いているのだろうか?それともこれから使おうというのだろうか。“ought to”(~すべき)を重ねて使っているところからは、清水訳の方が雰囲気が出ているのだが、後半がいけない。口癖の“cheapie”を生かして、「ナイフを使うんだったよ、半端者のお前には細切り肉がお似合いだ」なんていうのはどうだろう。余談になるが、村上氏の「はんちく」が、どうにも気になってならない。江戸落語の世界でもあるまいし、わざわざ新しくした訳で、ほとんど死語と化した「はんちく」は考えものだ。根っからの東京生まれ、東京育ちでもない氏が、この語を採用した理由が、どうにもよく分からない。
頭にきたメネンディスは、力いっぱい腕を引いてマーロウを倒しにかかる、バック・スィングの大きいところが狙い目だった。マーロウはすかさず半歩前に踏み出し、相手の鳩尾に蹴りを入れる。とっさの判断だった。マーロウはあとから振り返ってこう言う。
“I was a little punch drunk by this time.”
清水訳「どうにも我慢ができなくなったのだ」
村上訳「何度も殴られたおかげで、頭がちょっとおかしくなっていたのかもしれない」
原文にあるようにパンチドランカーの状態だったのかもしれない。ジャックナイフのように身体を二つ折りにして、床に落ちた拳銃を探すメネンディスの顔面に再び蹴りを入れたところで、椅子に腰掛けていた男が笑い声をあげた。その後。
“The man in the chair laughed. That staggered me.”
清水訳「次の行動に移ろうとしていた私の足がよろめいた」
村上訳「その笑い声が私をたじろがせた」
stagger” には、「よろめく」、「たじろぐ」のどちらの意味もある。さて、どちらがいいのだろう。メネンディスは倒したが、まだ三人残っている。そのうちの一人が飛びかかってくるのではなく、笑い声を上げるとは、マーロウでなくてもいぶかしい思いが生じる。次の行動に移ろうとする、その一瞬間があいた。ここは躊躇の意と採りたい。

男は立ち上がり、「その男は殺すな」と命じる。生餌として使いたいのだ、と。ホールの影から現われたバーニーは、床に伸びているメネンディスを見下ろし、ばかにしたようにつぶやく。
“Soft,” Ohls said.“Soft as mush.”
清水訳「意気地がないな」と、オールズはいった。「からっきし意気地がない」
村上訳「やわだねえ」とオールズは言った。「からっきしやわだ」
マーロウは即座にそれを否定する。
“He’s not soft,” I said. “He is hurt. Any man can be hurt. Was Big Willie Magoon soft?”
清水訳
「意気地がないんじゃないよ」と、私はいった。「油断してたからさ。だれだって、うっかりしていることはあるんだ。ウィリー・マグーンは意気地のない男じゃなかったろう」
村上訳
「やわな男じゃない」と私は言った。「痛めつけられただけだ。どんな人間だって痛めつけられるときはある。ビッグ・ウィリー・マグーンはやわだったか?」
マーロウがメネンディスを倒すことができたのは、微妙な心理上の駆け引きがあってのことだ。結果だけ見て傍観者から対戦相手の戦闘力をそしられるのは我慢がならない。まして相手が警官とあってはなおさらだ。マーロウの微妙な心理が顔をのぞかしている。逐語訳としては村上訳が正しいのだろうが、主人公の心情をうかがわせるという点からは、清水訳のほうが読みごたえがある。清水氏の訳には、こうしたところが多々あって、村上氏の新訳が出た今となっても、旧訳の良さを上げる声が絶えないのだ。

オールズに「お前ははめられたんだ」と言われたメネンディスは、その意味を確かめずにいられない。すべて、スターの書いた筋書き通りに運んだことを知ったメネンディスは悪びれず、退場する。
“God help Nevada,” Mendy said quietly, looking around again at the tough Mex by the door. Then he crossed himself quickly and walked out of the front door.
清水訳
ネヴァダか」と、もう一度ふりかえってドアのそばのメキシコ人を見ながら、メンディはいった。それから、覚悟をきめたように入り口から出て行った。
村上訳
ネヴァダに神の恵みあれ」、戸口に立ったタフなメキシコ人の方を見てから、メンディーは静かな声で言った。そして素早く十字を切り、玄関から出て行った。
多民族国家である合衆国では、民族によって宗教が異なる。WASPのマーロウにはメンディの仕種が異化されて目に映る。ヒスパニック系らしく、メンディはカトリック信者なのだろう。それまでのふてぶてしさが消え、死を前にした男の諦念が伝わってくる。村上訳からはそのあたりがよく伝わってくる。信仰心に無縁な日本人には煩わしいと見てか、清水氏は「覚悟を決め」と意訳している。

どう見ても警官には見えない男たちにメネンディスを護送させることに懸念を抱くマーロウは、バーニーを冷血漢だとなじる。清水氏は、例によって最後のところをカットしている。
“Nice work, Bernie. Very nice. Think he’ll get to Vegas alive, you coldhearted son of bitch?”
清水訳
「みごとだったぜ、バーニー、りっぱなもんだ。だが、ヴェガスへ生きて着けると思っているのか」
村上訳
「見事だよ、バーニー、感服のほかはないね。あいつが生きてヴェガスにたどり着けると思っているのか? まったく血も涙もないやつだ」
バーニーは、「この次は警察を出し抜こうなんて考えるんじゃないぜ」と言いながら、わざと写真複写を盗ませたことが、メンディーをおびき寄せる計画の一部だったことを明かす。そして、ヴェガスのラッキー・スターには、了承を得ていることも。
“We put it up to Starr cold.”
清水訳「スターに事情をあかして、応援を頼んだ」
村上訳「スターには前もって釘を刺しておいた」
この後にくるのが、スターの賭博行為に関する脅しのようなものだから、「事情を明かし、応援を頼」むのは、おかしい。逐語訳なら「冷静に対処するよう提案する」というところだから、村上訳が近い。
賭博からのあがりに文句がついてはかなわないと見たスターは、メンディから腕の立つ三人の調達を頼まれたとき、
“Starr sent him three guys he knew, in one of his own cars, at his own expence.”
清水訳「あいつら三人をよこしたわけだ」
村上訳「スターは自分の配下の三人を送り込んだ。自分の車を使わせ、費用も自分で出した」
スターの気前のいい協力振りについて、清水訳は素っ気ない。このあとで、マーロウが警察のやり方の汚さについてバーニーをなじる際、効いてくるところだと思うのだが。その悪口。
“Cop business is wonderful uplifting idealistic work, Bernie. The only thing wrong with cop business is the cops that are in it. ”
清水訳
「警官のやることはりっぱだよ、バーニー。おれのきらいな警官がやることとは思えないぜ」
村上訳
「警察の仕事は文句のつけようもなく見事で、高邁で、理想にあふれているよ。警察について唯一気に入らないのは、そこで仕事をしている警官だけだ」
マーロウという男は、皮肉や嫌味を言うとき最も能弁になる。それを聞かせないのは惜しいと思うのだが、清水氏はばっさばっさと切り捨てて顧みない。これでは、新訳のひとつもひねり出そうという人間が出てきても不思議ではない。二つの訳を参照しながら、ああでもない、こうでもないと考えるのは実に愉快だ。
そうまで言われては、バーニーとしても一言いっておきたい。
“Too bad for you,hero,” he said with a sudden cold savagery.
清水訳 「大きにすまなかったな」と、彼はいった。
村上訳 「どうだ、つっぱって生きるのも楽じゃなかろう」と彼は言った。声が唐突に冷たく惨忍なものに変わった。
バーニーの声音の変化は見過ごせない。汚い仕事だと分かってやっているのだ。かつての同僚とはいえ、民間人を囮にして、警官に無礼を働いたギャングに罰を与えようという目論見が誉められたものじゃないことは自分でもよく分かっている。だから、声の響きが残忍さを帯びるのだ。前半の訳はめずらしく村上氏の方が意訳を試みている。「我らがヒーローには、大変申し訳ないことをした」といったところか。それに続くバーニーの言い訳を聞いたマーロウの言葉の取り扱いも同じだ。
“So sorry,” I said. “So very sorry you had to suffer like that.”
清水訳 「それは気の毒だったな」と、私はいった。
村上訳 「嬉しくて泣けてくるね」と私は言った。「さぞや心が痛んだことだろうぜ」
やはり、後ろ半分を清水氏は訳し残している。くどいのが嫌いなのだ。しかし、ここでも、このマーロウの執拗な嫌味口調がバーニーの本音を引き出す役目を務めているのはまちがえようがない。
このあと、バーニーの博奕打ちに対する嫌悪感が爆発する。長くなるので一部を引用する。
“There’s only one way a jok can win a race, but there’s twenty ways he can lose one, with a steward at every eight pole watching, and not able to do a damn thing about if the jok knows his stuff.”
清水訳
「競馬ファンが勝つ方法は一つしかないが、ファンの虎の子の一ドルをあっというまにまきあげる方法はいくつあるかわからない。八分の一ごとの距離に監視員が見張っていて、いんちき(傍点四字)であることがわかっていても、どうすることもできないんだ」
村上訳
「騎手がレースに勝つ方法はひとつしかないが、勝つまいと思えば方法は二十くらいある。レース・トラックでは八本のポールごとに監視員が立って目をこらしている。しかし、心得のある騎手にかかったら、監視員なんて手も足もでないのさ」
八百長の仕組みについて触れているところだが、「騎手が」という村上訳のほうがよく分かる。
バーニーの長広舌を聞き終わったマーロウは、ひと言「気持ちはおさまったか?」と訊く。それに対してバーニーは「おれは年をくってくたびれた、ぽんこつの警官なんだ。気持ちなんておさまるもんか」と返す。マーロウは、こういって慰める。
“You’re a damn good cop, Bernie, but just the same you’re all wet.”
清水訳「君はりっぱな警官だよ、バーニー。ただ、むかっ腹(傍点四字)を立てすぎるんだ」
村上訳「君は見上げた警官だよ、バーニー。しかし同時にいささか感傷的に過ぎる」
多くの警官がそうだが、といいながらマーロウは自説をぶつ。庶民のなけなしの金を巻き上げる賭博組織に腹を立てるバーニーは、マーロウから見るといささか「ウェット」にすぎる。マーロウの意見はプラグマティックなものだ。賭博でする奴が出るなら賭博を禁止すればいい。酔っぱらいがいけないなら酒を禁止すればいい、というもので、バーニーのような古株の警官にはとりつく島がない。つい“Aw shut up” と言ってしまう。そこをまた、マーロウに突かれて、「ほら、すぐに黙れとくるんだ」とやり返される。マーロウ曰く。
“We don’t have mobs and crime syndicates and goon squads because we have crooked politicians abd their stooges in the City Hall and the legislatures.”
村上訳(清水氏はこの部分を訳していない)
「ギャングや犯罪組織ややくざ連中がこうしてのさばっているのは、何も悪徳に染まった政治家がいて、そいつらの手先が市役所や議会に散らばっているからじゃない」
「犯罪は病気そのものじゃない。ただの症状なんだ。警官というのは脳腫瘍の患者にアスピリンを与える医者のようなものだ」と、見事な持論を開陳するマーロウ。この国の刑事ドラマを見ていると、どこかに悪の親玉がいて、そいつさえやっつければ、すべてうまくいくような話が横行しているが、さすがはチャンドラー、である。「組織犯罪は強い力を持つアメリカ・ドルの汚い側面なんだよ」と、バーニーに説いて聞かせるマーロウの醒めた意識。圧巻である。「きれいな面はどこにある」と訊ねるバーニーに、「まだ見たことはない。ハーラン・ポッターに訊けば教えてくれるよ。どうだ一杯やらないか」で、仲直りとなる。このあと、リンダとの電話での会話があるのだが、続きはまた次章で。

第47章

ジャーナル紙の記事を受けて、スプリンガー地方検事は記者会見を開き、公式見解を発表する。ジャーナル紙の編集長ヘンリー・シャーマンは検事の発言をそのまま紙面に掲載するとともに、署名入りの記事ですばやく反論する。モーガンが心配して電話をかけてくるが、果たしてその夜、マーロウ宅に招かれぬ客が訪れる。

この章の前半は、地方検事と新聞の舌戦の紹介で、明らかに清水氏はあっさりすまし、いかにもハード・ボイルド探偵小説らしい展開を見せる後半に重きを置いている。清水訳でカットされているところをいくつかあげてみよう。
まず、スプリンガーの風貌を紹介する文章だが、眉毛の色が清水訳では分からない。
“He was the big florid brack-browed prematurely gray-haired type that always does so well in politics.”
清水訳
「スプリンガーは血色のよい大男で、若いときから白髪が多く、政治家として成功する型のからだつきだった」
村上訳
「血色のよい大柄の男で、眉毛は黒いが、髪は早々と白くなっている。政界では常にこの手の風貌が好まれる」

次に、スプリンガーは、アイリーンの精神状態が尋常でなかったことにして、告白の信憑性に疑問を付すのだが、対句表現で表された心身の身の方が清水訳には抜けている。
“then I say to you that she did not write them with a clear head,nor with a steady hand. ”
清水訳

「とにかく正常な思考力のもとに書かれたものでないことはいうまでもありません」
村上訳

「彼女は混濁した意識のもとにそれを書いておりますし、筆跡も定かではありません」

また、細かいところだが、ジャーナル紙が何故そんなに早く反論を発表することができたかということの説明に、チャンドラーは筆を割いているのだが、清水氏は、そこもとばしている。
“The Journal printed this guff in its early edition (it was around-the-clock newspaper) and Henry Sherman, the Managing Editor, came right back at Springer with a sighned document.”
清水訳
「《ジャーナル》はこのばかげた談話をそのまま掲載して、編集長ヘンリー・シャーマンが書名つきの文章でスプリンガーに応戦した」
村上訳
「『ジャーナル』紙はこのたわごとを早版に掲載した(この新聞は一日のうちに何度も版を重ねる)。編集長であるヘンリー・シャーマンは、スプリンガーに対して、署名入りの記事ですかさず反撃した」

スプリンガーは、大向こうの受けをねらってか、意識の混濁したアイリーンをオフェリアに見立て、シェイクスピアの『ハムレット』から有名な台詞を引用してみせるのだが、実はその台詞はオフェリアについて言われたものではなく、オフェリア自身の台詞だった。シャーマンは、その誤りを正すとともにクローディアスの台詞を引用して大見得を切っている。欧米では如何なる場合も、聖書とシェイクスピアについての知識の有無がステイタスになっているのだ。
“You must wear your rue with a difference.”
清水訳「そなたは分別をこえて悲しみの衣をまとわねばならぬ」
村上訳「あなたは違うかたちの悲嘆を身にまとわなくてはね」
“rue” には「後悔・悲しみ」という語とは別に、「ヘンルーダ(芸香)」という毒性を持つミカン科の花の意がある。『ハムレット』の中で狂ったオフィーリアは花束を手に花言葉の意味を説きながら花を手渡してゆく場面があるが、狂気を言い訳にして、王や王妃に対して嫌味を言っているわけである。村上氏は括弧書きで、そのことについて詳しく触れている。ただ、王妃に対する嫌味と村上氏は記しているが、王妃には「不実の茴香と姦通の苧環」、そして王と自分にお似合いなのが「ヘンルーダ(芸香)」ではないだろうか。オフィーリアには「悲嘆」、そして兄を殺した王にとっては「後悔」という、違ったかたちの“rue”が。有名な台詞なので、欧米の読者にはそのまま通じるのだろうが、日本人である我々には説明があるほうが親切というものだ。無論あまり深入りしすぎると、ハード・ボイルド調ではなくなってしまうが。
“difference”が、清水氏の訳ではアイリーンが「分別を失って」悲嘆の衣をまとったという、スプリンガー一流の解釈になるわけである。それに比べて、村上氏の訳では「違うかたちの」という言葉の方に力点が置かれていて、それに続く「私の政敵はこのようなかたちの違う(傍点六字)点をことさら誇張して、政争の具とするかもしれません」を導き出すための引用と採っているわけで、このあたりの翻訳の“difference”は、非常に興味深い。ところで、辞書には名詞に続けての“with a difference”には、(ほめて)「特別な・並はずれた」という意味があるという。それなら、「あなたは選りぬきの芸香(後悔)を身にまとわねばならない」という訳も可能ではないだろうか。だとすれば、スプリンガーの“Eileen Wade wore her rue with a difference.”という言葉には、言外に「死者に口なしという、特別な道を採ってくれた」という意味が含まれているのかもしれない。もちろん、シェイクスピアはよく知っていたように、フランス語の“rue”には、「通り・道」という意味がある。

ジャーナル紙の反論から、『ハムレット』がらみで、次のクローディアスの台詞も引用しておこう。
a good thing that happend to be said by a bad man: “And where the offence is let the great axe fall.”
清水訳
「その台詞はたまたま悪人によっていわれた台詞である―“そして、罪のあるところへ大きな斧をふりおろすがよい”」
村上訳
「この善き台詞はあろうことか一人の悪しき人間によって語られたものだ。『罪のあるところに、大斧を振り下ろせ』」
原文の“a good thing”と“a bad man”は、言わずもがなの対句なので、村上訳のように対句表現で訳してほしいところだ。

午後二時ごろ、リンダ・ローリングから電話がかかる。
About two in the afternoon Linda Lorring called me. “No names, please,” she said.
清水訳 「今日は悪口を言わないでくださいね」と彼女はのっけ(傍点三字)に言った。
村上訳 「名前は口にしないでちょうだいね」と彼女は言った。
村上訳の「名前は口にしないで」というのは、どうだろう。何か意味があるのだろうか。“call someone names”には、「悪口を言う」という意味がある。マーロウとリンダは顔を合わせれば口喧嘩ばかりしている仲だ。清水氏の訳の方が、文脈的にふさわしい気がする。

電話の中でリンダは夫のことを“almost ex-husband”と呼ぶので、マーロウが訊ねる。
“What do you mean. almost ex-husband?”
清水訳「どういう意味です―前の夫というのは?」
村上訳「ほとんど『前の夫』になっている人というのは、どういう意味なのだろう?」
実のところ、ローリング医師はまだ「前の夫」になってはいない。だから、リンダは“almost”と言っているのだ。村上訳の原文に忠実なところは、この「ほとんど」によく現われている。

リンダは、父が怒っていることを告げ、マーロウに身をかくすよう忠告するが、マーロウは耳を貸さない。そんなマーロウにリンダが言う台詞。
“You’re not fooling anyone but yourself, Marlowe.”
清水訳「もっと自分のことを考えるべきよ、マーロウ」
村上訳「自分に向かってふりはできるかもしれないけど、他人には通用しないのよ、マーロウ」
村上氏の訳だが、“not A but B”という構文と見て、通常使われるように「他人はだませても自分をだますことはできない」という意味になるのではないだろうか。清水氏の方は“be a fool to oneself” (親切にしてばかを見る)という意味を採用しての意訳だろう。リンダとしては、「馬鹿なまねばかりしていないで、もっと自分のことを考えて」と言いたいのだろう。清水訳でいいのでは。

そして、いよいよ強面の男たちの登場シーンである。自宅に帰ってきたマーロウが屋内に尋常でないものを感じる、その理由を列挙するところで、清水氏は次の部分をばっさりカットしてしまっている。
“Perhaps on a warm still night like this one the room beyond the door was warm enough not still enough.”
村上訳
「このようなしん(傍点二字)とした温かな夜なのに、ドアの向こうはそれほど温かくもなく、それほどしんとしていなかったのかもしれない」
あるいは次のようなところも。何故か、すこぶる重要な最後のところをカットしている。
“Cadillacs with red spotlights belong to the big boys, mayors and police commissioners, District Attorneys, perhaps hoodlums.”
清水訳
「赤いスポットライトがついているキャディラックは市長、警察本部長、あるいは地方検事というような大物が使うのだった」
村上訳
「赤いスポットライトのついたキャディラックを乗り回すのは市長か、市警察本部長か、あるいは地方検事。さもなくばやくざか」

部屋の中で椅子に腰掛けた男を描写した部分。
“A man was sitting across the room with his legs crossed and a gun resting sideways on his thigh.”
清水訳
「部屋の向こうの端に一人の男が足を組んで腰をおろしていて、膝の上に拳銃がのっていた」
村上訳
「一人の男が部屋の奥に足を組んで座り、その腿には銃が横向きに置かれていた」
“thigh”は、膝ではなく腿だろう。洋服で腿の半ばまでの丈を表すのに「ミッド・サイ・レングス」という語がある。それに、いくらなんでも膝の上に拳銃というのは、落っこちそうで落ち着きが悪い。ライフルのような銃と考える方が絵柄がいい。それに、ギャングたちが脅しに撃つのが、“machine pistol”と、こちらはガンでもよさそうなのに、わざとピストルを使っているところから見ても、ここは銃と訳したほうが無難であろう。

第46章

長い一日も終わろうとしていた。マーロウは車を飛ばしてヴィクターズへ向かった。開けたばかりのバーでギムレットを味わいながら、夕刊を待とうというのだ。記事はマーロウの望むとおりの形で載っていた。別の店で夕食をとって家に帰ると、バーニーから帰りに立ち寄るとの電話がかかった。やってきたバーニーは、マーロウの非協力振りをなじるが、マーロウは警察もレノックス事件はやる気が感じられなかった、とやり返す。帰り際、バーニーはマーロウの家の辺りを眺めながら、静かなところだ、と意味ありげに呟く。

告白書が公開されることで、レノックスの無実が明らかになる。ヴィクターズでギムレットを飲むことには乾杯の意味がある。ただ、残念なことに店は混んでいた。二人は開けたばかりのバーの静かなところが気に入っていたのだ。顔見知りのバーテンが声をかける。
“I haven’t seen your friend lately. The one with the green ice.”
清水訳「ちかごろお友だちを見ませんね」
村上訳「最近お友だちをお見かけしていませんね。氷みたいな緑の目の方のことですが」
清水氏、後半をカットしている。友だちがレノックスのことであるのは当然ということだろうか。

六時を回った頃、新聞売りの少年が店に入ってきた。
“One of the barkeeps yelled at him to beat it, but he managed one quick round of the customers before a waiter got hold of him and threw him out. I was one of the cusotmers.”
清水訳
「バーテンの一人が出て行けとどなったが、少年はボーイにつかまって突き出されるまでに客のあいだを急いでひと廻りした。」
村上訳
バーテンダーの一人が『出て行け』と怒鳴ったが、少年は素早く客のあいだをひと巡りした。そのあとで取り押さえられ、店から放り出された。私は新聞を買い求めた客の一人だった。」
相変わらず、最後のところを清水氏はとばしている。こうなると、癖みたいなものかもしれないな、という気がしてくる。きっと、まだるっこしいのが嫌いな性格なんだろう。けど、訳し方としては清水氏の方がワンセンテンスで書き切った原文の持つリズムを生かしている。あっという間に客に新聞を売りつけて店を出て行く少年のはしっこさは、圧倒的に清水訳の方だろう。清水訳を好む人は、こういうところに惹かれるのだ。でも、「私も客の一人だった」くらいは訳してくれてもいいと思う。

早速、開いた『ジャーナル』誌には、写真複写が掲載されていた。細かいようだが、そのところ。
“They had reversed the photostat by making it black on white and by reducing it in size they had fitted it into the top half of the page.”
清水訳
「コピーの文字の色を反対にして、白いところに文字を黒く出して、ページの上部の半分をうずめていた」
村上訳
「彼らは写真複写を白地に黒に反転し、サイズを半分に縮小して、一面の半分のスペースに収まるようにしていた」
アイリーンの遺書は、メモ用紙にしても何枚かにわたっていた。縮小せずに新聞一面の半分のスペースに収めることは不可能だろう。清水氏の訳からは“by reducing it ”にあたる部分が、すっぽり抜け落ちている。でも、村上氏は何故「半分に」縮小したことが分かったのだろうか。

それについてのモーガンの記事を読んだマーロウの印象である。
“It added nothing, deduced nothing, imputed nothing. It was clear concise businesslike reporting.”
清水訳
「何も加えてなかったし、何もはぶかれてなかった。すこぶる要領のいい書き方だった」
村上訳
「何も付け加えず、何も差し引かず、誰にも責めを負わせていなかった。明瞭にして簡潔、ビジネスライクな報告である」
三連の否定を一つはぶいてしまうあたりが清水流か。モーガンという記者の性格と仕事ぶりをマーロウが認めていることを表す部分だけに、最後まで訳してほしいところ。少し前の洋酒の宣伝文句を思い出す。あれを使わせてもらうなら、「何も足さない、何も引かない、誰も責めない。明瞭、簡潔にして事務的な報告だった」という訳になるだろうか。

モーガンの記事に比べると、社説にはいくつかの問題提起がなされていた。
“the kind a newspaper askes of public officials when they are caught with jam on their faces.”
清水訳
「官憲がしくじって面目をつぶしたときに新聞がいつも提起する質問だった」
村上訳
「偉い政治家や官僚が顔にべったりジャムをつけている現場を押さえられたときに、新聞が呈する種類の疑問だった」
“jam on one’s face” とは、「恥」を意味するイディオムである。よく似た表現をチャンドラーはもう一度使っている。バーニー・オールズが吐く捨て科白の中で“blew a raspberry in thier faces” である。村上氏も、そこは、ラズベリーを顔に、ではなく「連中の顔に泥を塗ったんだ」と意訳している。では、何故、こちらは逐語訳を採用したのだろう。どうにも首尾一貫しない訳しぶりではあるまいか。