HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女を訳す』第十七章(2)

香水についても詳しくないと、私立探偵はつとまらない。

【訳文】

「ろくでなしめ」彼は声を低くした。「あいつはあれを見限ったんだろう」
「そいつはどうかな」私は言った。「あなたにとっては動機が不充分だったんじゃ、文明人だからという理由でね。でも、彼女にとってはそれが充分な動機になるんですか」
「同じ動機という訳じゃない」彼は噛みつくように言った。「それに、女は男より衝動的だ」
「猫が犬より衝動的なのと同じようにね」
「どういう意味だ?」
「ある種の女は、ある種の男より衝動的である。ただそれだけのことです。もし奥さんの仕業にしたいのなら、もっとしっかりした動機がなくちゃいけない」
 彼は私をじっと見つめられるところまで顔を振り向けたが、そこに面白がっている様子はなかった。白い三日月形が口の両端に刻み込まれていた。
「どうやら、手際よく済ませるという訳にはいかんようだな」彼は言った。「警察に銃を渡すわけにはいかん。クリスタルは許可証を持っていて、銃は登録されている。私が番号を知らなくても、警察にはすぐに知れる。彼らに銃を渡すことはできん」
「私が銃を持ってることはミセス・フローリアンが知ってますよ」
 彼は頑なにかぶりを振った。「チャンスに賭けようじゃないか。君が危険を冒しているのはよく分かっている。それ相当の対価を払うつもりだ。もし自殺したように見せかけられるなら、銃を返してもいいが、君の話じゃ難しそうだな?」
「無理ですね。自分自身を撃とうとする者が最初の三発を外すなんてあり得ない。たとえボーナスを十ドルもらっても、殺人を誤魔化すことなどできない相談だ。銃は戻すべきだ」
「もっと高額を考えていたんだが」彼は静かに言った。「五百ドルならどうだ」
「いったい何を買うつもりですか?」
 彼は私に身をすり寄せた。その目は真剣で殺伐としていたが、非情ではなかった。「銃のことは別にして、レイヴァリーの家には、クリスタルが最近そこにいたことを示すものがあるのか?」
「黒と白のドレスと、バーナディーノのベルボーイが彼女がかぶってたと言った帽子が。他にも私の知らないものがいくつもあるでしょう。指紋はほぼ確実に残っている。おっしゃる通り、彼女が指紋をとられていなくても、警察が指紋を手に入れるすべはいくらでもある。お宅の彼女の寝室は指紋だらけだ。リトル・フォーン湖の山小屋や彼女の車にも」
「車を取って来なくては――」彼がそう言いかけたが、私が止めた。
「無駄です。他にも山ほどあります。 彼女はどんな香水を使っていますか?」
 彼は一瞬ぽかんとした。「ああ――ギラ―レイン・リーガル、香水のシャンパン」彼は木で鼻をくくったように言った。「たまにはシャネル・ナンバーを使うこともある」
「あなたのそれは例えばどういう代物なんです?」
「シプレーに近い。サンダルウッドを効かせたシプレーだ」
「寝室にはそいつがぷんぷん臭っていた」私は言った。「いかにも安物臭かった。まあ、私は鑑定士じゃないが」
「安物だと?」彼は聞きとがめた。「なんてことを。安物だ? 一オンス三十ドルもするんだぞ」
「どっちかといえば、一ガロンあたり三ドルがやっと、という代物でした」
 彼は両手を膝に叩きつけるように置き、首を振った。「金の話をしてるんだ」彼は言った。「五百ドル。今すぐ小切手を書く」
 私はその言葉を汚れた羽が渦を巻いて落ちるように地に落ちるに任せた。我々の後ろにいた年寄りの一人がよろめきながら立ち上がって、部屋から出て行った。
 キングズリーは重々しく言った。「私はスキャンダルから身を守るために君を雇った。いうまでもないことだが、必要があれば妻を守るためでもある。君のせいではないが、スキャンダルを避けるチャンスはかなり失われている。今では妻の生死に関わる問題になっている。妻がレイヴァリーを撃ったとは信じられない。私にはそう信じる理由がない。全くないのだ。彼女が仮に昨夜そこにいて、この銃が彼女のものだったとしても。彼女が彼を撃った証しにはならない。彼女は他の物と同じように、銃についても無頓着だった。誰にでも持ち出せただろう」
「ここらあたりの警官はそんなことを信じるほど暇じゃありません」私は言った。「私が出会ったのがまずまずの代物だとしたら、彼らは最初に見た頭を選び、ブラックジャックを振り回し始める。そして、状況を見渡したとき、まず最初に見た頭になるのは彼女でしょう」
 彼は両手のつけ根をこすりあわせた。彼の不幸は、現実の不幸がそうであるように、芝居がかった味わいがあった。
「ある程度まではあなたの意見に賛成です」私は言った。「一目見て、お膳立てが整いすぎている。彼女は着ているところを見られた服を残しているが、たいていそこから身元が割れる。銃は階段に置いたままだ。彼女がそこまで馬鹿だとは考えにくい」
「少し生きた心地がしてきたよ」キングズリーは疲れた様子で言った。
「しかし、そんなことに何の意味もない」私は言った。「なぜなら、私たちはそれを計画的犯行という観点で見ているからです。一時的にかっとなったり、むかついたりして犯罪を行う者は、 ただそれをやって出て行くだけです。これまで聞いてきたすべてが、彼女が向こう見ずで分別を欠いた女であることを示している。あの現場には、計画性が全く感じられない。計画性が全くないことを示すあらゆる兆候がある。たとえ、奥さんを指さすものがなくても、警察は奥さんをレイヴァリーに結び付けるでしょう。警察は彼の前歴を調べる。友人、女出入り等。彼女の名前はきっとどこかで出てくる。もし出てきたら、彼女がひと月の間、姿を消しているという事実は、彼らを身構えさせ、喜びのあまりむらむらして揉み手をさせることになる。もちろん、銃についても調べる。そして、もしその銃が彼女の――」
 彼の手が椅子の横にある銃に飛びついた。
「いけません」私は言った。「銃は警察に渡すしかない。マーロウは気の利く男で、個人的にはあなたのことが大好きかも知れない、それでも、人を殺した銃のような重要な証拠を隠蔽する危険を冒すことはできません。私が何をするにせよ、奥さんが明白な容疑者であるということを前提にする必要があります。ただ、その明白さが誤っていることもあり得ます」
 彼は唸り声を上げ、銃を持ったまま、大きな手を差し出した。私は銃をとって仕舞った。それからもう一度取り出して言った。「あなたのハンカチを貸してください。自分のを使いたくない。調べられるかもしれないんでね」
 彼は糊のきいた白いハンカチを取り出し、私はそれで銃全体を注意深く拭い、ポケットに落とし込んだ。私はハンカチを彼に返した。
「私の指紋はどうでもいい」私は言った。「が、あなたのはいらない。これが私にできる精一杯です。現場に戻って銃をもとの位置に置き、それから警察に電話する。後は相手の出方次第で成り行き任せです。遅かれ早かれ、そこで私は何をしていたのか、そしてその理由は、という話が出てくるはずです。一番まずいのは、警察が彼女を見つけ、彼を殺したことを立証することです。一番いいのは、警察が私よりずっと早く彼女を見つけ、私が全力を挙げて彼女が彼を殺していないこと、つまり、他の誰かの犯行であることを立証できるようにしてくれることです。あなたは、その話に乗りますか?」
 彼はゆっくりうなずいた。彼は言った。「それで行こう――それと、五百ドルはまだ生きてる。クリスタルが彼を殺していないことを証明してくれ」
「その報酬はあてにしてません」私は言った。「あなたも、それくらいお分かりのはずだ。ところで、ミス・フロムセットは、レイヴァリーとどれくらい親しかったんです? 勤務時間外で」
 彼の顔は痙攣でもしたかのようにこわばった。両の拳は太腿の横で固く握りしめられた。彼は何も言わなかった。
「昨日の朝、レイヴァリーの住所を尋ねた時、彼女の様子が妙だった」私は言った。
 彼はゆっくり息を吐いた。
「後口が悪そうな」私は言った。「不首尾に終わったロマンスのような。あからさまに過ぎますか?」
 彼の鼻孔が少し震え、その中で息が少しのあいだ音を立てた。やがて、力を抜いて静かに言った。
「彼女は、彼とかなり親しかった――いっときのことだ。 彼女はそんなふうに自分の好きなことをする女の子だ。 レイヴァリーは魅力的なやつだったのだろう――女には」
「彼女と話す必要がありそうだ」私は言った。
「なぜだ?」彼は短く言った。頬に赤みが差した。
「気にしないことです。いろんな人にいろんな質問をするのが私の仕事です」
「じゃあ、話したらよかろう」彼はきっぱり言った。「実は、彼女はアルモア家と心やすい。自殺した奥さんを知っている。レイヴァリーも懇意だった。この件に何か関係があるだろうか?」
「分かりません。あなたは彼女と恋愛中なんじゃないですか?」
「できれば明日にでも一緒になりたいところだ」彼は鯱張って言った。
 私はうなずいて立ち上がった。部屋を振り返ると、今ではほとんど空っぽだった。一番奥では一組の古強者が、まだ鼻提灯を膨らませていた。残りの安楽椅子の常連客は、何であれ、意識がある時していたことに、よろめきながら戻っていた。
「もう一つだけ」私はキングズリーを見下ろしながら言った。「殺人事件の後、警察に電話するのが遅れると、警察は非常に敵対的になる。すでに遅れが出ていますが、まだしばらくかかります。私がそこに行くのは今日が初めてといった顔をしたい。フォールブルックという女のことさえ無視すれば、うまくやれるでしょう」
「フォールブルック?」彼は私が何のことを言っているのか分からないようだった。「誰のことだ?――待てよ、思い出した」
「いやいや、思い出さないでください。おそらく警察は彼女の声を耳にすることはないでしょう。自分から進んで警察に何かを話すような女じゃない」
「よく分かったよ」彼は言った。
「うまくやってください。尋問は、レイヴァリーが死んだと聞かされる前に行われます。私があなたと連絡を取ることを許可される前に――警察が私たちが連絡を取り合っていることを知らない限りね。どんな罠にもひっかからないでください。もし、そうなったら、何も見つけられないうちに、私は豚箱行きです」
「警察を呼ぶ前に、その家から電話することもできるだろう」彼は当然のように言った。
「分かってます。でも、そうしないことが私には有利に働く。彼らが最初にやることは電話をチェックすることです。もし他の場所から電話したりしたら、あなたに会うためにここに来たと認めたも同然です」
「よく分かった」彼はまた言った。「心配いらない。うまくやってみせる」
 我々は握手し、私は立ったままの彼を残して出て行った。

【解説】

「彼は私をじっと見つめられるところまで顔を振り向けたが、そこに面白がっている様子はなかった」は<He turned his head enough to give me a level stare in which there was no amusement>。清水訳は「彼は私に顔を向けてじっと見つめた。眉にしわ(傍点二字)をよせていた」。田中訳は「キングズリイは、おれをまともににらみつけることができる程度に、顔をまわした」。村上訳は「彼はぐいとこちらに顔を向け、我々はまっすぐ互いに睨み合うことになった。そこには冗談ごとの入り込む余地はなかった」。

清水氏は<in which there was no amusement>を「眉にしわを寄せる」という不機嫌さを表す表現に置き換えている。田中氏はそこをカットしている。村上訳では両者は対等に睨み合っている。しかし、ここはキングズリーの顔に、どんな感情が浮かんでいるのかをマーロウが判断している場面だ。両者の関係は対等ではない。マーロウの感情などは雇用者であるキングズリーにとって何の意味もない。

「白い三日月形が口の両端に刻み込まれていた」は<White crescents were bitten into the corners of his mouth>。清水訳は「固く結ばれた口の端がかすかに震えた」。田中訳は「きつくかみしめた口のはしが、三日月形に白くなつている」。村上訳は「歯をぎゅっと噛みしめた口の両端は、白い半月形になっていた」。

歯をきつく噛みしめると、本当に口の端に白い半月形ができるのだろうか。試しに自分でもやってみたが何もできなかった。<bite into>は「かじる、(物の表面に)食い込む」という意味で、三氏の訳のように「歯を食いしばる」という意味ではない。キングズリーは、形ばかり口角にしわを寄せることで一応笑顔を作って見せたつもりではないのか。どうしてそれが白く見えたのかは分からないが、

「その目は真剣で殺伐としていたが、非情ではなかった」は<His eyes were serious and bleak, but not hard>。清水訳は「目が真剣で、きびしかったが、険(けわ)しくはなかった」。田中訳は「その目は必死で、なにかわびしかった。けつしてけわしいめつきではない」。村上訳は「彼の目はどこまでも殺伐として真剣だった。しかし厳しくはなかった」。

<serious><bleak><hard>と形容詞が三つ並んでいる。前二つはキングズリーが現状の深刻さを真剣に受け止め、事態が容易でないことを理解していることを示している。<but>と逆接の接続詞で結ばれているのは、マーロウがそれと矛盾する心情を認めたということだろう。事態は差し迫っていて、抜き差しならないが、妻を放ってはおけない。キングズリーは老獪な人物だ。妻の引き起こした醜聞に参ってはいるが、まだ妻を救うチャンスをうかがっている。そういう目をしていたにちがいない。

単語の一つ一つは極めてシンプルなものだが、文章にはコンテクストというものがある。英語の単語を日本語の単語に逐語的に置き換えていけば済むというものではない。この場合なら、キングズリーという男がどんな男で、マーロウは相手にどんな感情を抱いているのかを押さえたうえで、文脈に沿った訳語を選択しなければならない。<hard>だから、「厳しい」と訳しておけば、それでよし、というものではない。

「たまにはシャネル・ナンバーを使うこともある」は<A Chanel number once in a while>。清水訳は「シャネルをときどき」。田中訳は「時々、シャネルの香水もつけてた」。<once in a while>は「時たま、時々」の意味だから、普通はこうなる。ところが、村上氏は「シャネルにも負けない逸品」と訳している。いつも原文に忠実な氏にしては、珍しく逸脱した訳になっている。

「あなたのそれは例えばどういう代物なんです?」は<What's this stuff of yours like?>。.清水訳は「あなたのこれは何です」。まさに直訳。田中訳は「おたくの社のは、どんな香水なんです?」。村上訳は「あなたの会社のそれは、どんな匂いがしますか?」。<one’s like>は「同様の物・人」を意味している。つまり、マーロウは、ギラ―レイン・リーガルが、具体的に何の匂いに似ているのか、自分の分かる言葉で聞きたいのだ。

「シプレーに近い。サンダルウッドを効かせたシプレーだ」は<A kind of chypre. Sandalwood chypre>。清水訳は「チプレの一種だ。白檀(びゃくだん)のチプレだ」。田中訳は「香木からとつたものだよ。びやくだん(傍点五字)の木のものだ」。村上訳は「白檀の一種だ。サンダルウッド種」。「シプレー」はコティ社の発売した香水の名だが、そこから「シプレー」系と呼ばれる香水のタイプを代表する名前になった。

香水には揮発する段階で、最初に匂うトップ・ノート、次いでミドル・ノート、最後に二時間から半日くらい匂う、ラスト・ノートと呼ばれる香りがある。「サンダルウッド」は白檀のことで、ラスト・ノートとして配合されることが多い。つまり、キングズリーの香水はサンダルウッドを使ったシプレー系、ということだ。田中、村上両氏の訳は大事な「シプレー」を抜かしている。清水訳は「シプレー」が「チプレ」になっているのが惜しい。因みに「シプレー」とはフランス語で「キプロス島」のことである。

「彼らを身構えさせ、喜びのあまりむらむらして揉み手をさせることになる」は<will make them sit up and rub their horny palms with glee>。清水訳は「彼らを座り直させ、奮い立たせます」。田中訳は「お巡りたちが手をすりあわせて大よろこびする材料になるだろう」。村上訳は「警官たちはよしこれだ(傍点五字)と膝を叩き、喜びのあまりそのがさつな手をごしごしこすりあわせることでしょう」。

<sit up>は、「はっとする、注目する」という意味。<horny>には「(皮膚が)こわばってざらざらした」という意味の他に「性的に興奮した」という俗語表現がある。マーロウが警察に対してわざわざこう言っているところを考えると、その意味合いを無視することもできない。日本語では、喜んだり、悔しがったりする時、両手をこすりあわせることを「揉み手をする」と言う。逮捕という本番を前にしての感情の高ぶりが「揉み手」という身体行動に出ているのだろう。

「一番いいのは、警察が私よりずっと早く彼女を見つけ、私が全力を挙げて彼女が彼を殺していないこと、つまり、他の誰かの犯行であることを立証できるようにしてくれることです」は<At the best they'll find her a lot quicker than I can and let me use my energies proving she didn't kill him, which means, in effect, proving that somebody else did>。

清水訳は「もっともうまくいった場合でも彼らは私よりずっと早く奥さんを見つけて、奥さんが彼を殺したのではないことを私に証明させるでしょう。つまり、誰かほかの人間が殺したことを私が証明するわけです」。<at the best>には「せいぜい」という意味があるので、こう訳したのだろうが、この訳だと、警察が「私」より早く女を見つけると、なぜ「私」が彼女の無罪を証明されられるのか、よく分からない。

田中訳は「反対に、うまくいけば、ぼくよりもうんとはやく、警察が奥さんを見つけ、そして、奥さんがレヴリイを殺したのでないことを、ぼくが納得させることができるかもしれん。つまり、真犯人はほかにいることを立証するのです」。次に、村上訳を見てみよう。「最良のケース、彼らは私なんかより素早く彼女を見つけ出し、彼女がレイヴァリーを殺していないことを、私が力をふるって証明できる機会を与えてくれます。それは言い換えれば、他の誰かが彼を殺したのだと、証明することに他ならないわけですが」。

「機会を与えてくれる」という言葉を補うことにより、女を探す手間が省けるという意味が明らかになる。ただ、惜しむらくは「彼女がレイヴァリーを殺していないこと(proving she didn't kill him)」と「他の誰かが彼を殺したのだと、証明すること( proving that somebody else did)」の間に「を、私が力をふるって証明できる機会を与えてくれます」が入ることで、語の言い換えが分かりにくくなっているのが難点だ。

「彼は鯱張(しゃっちょこば)って言った」は<he said stiffly>。<stiffly>は「ぎこちない態度で、体をこわばらせて」という意味の副詞。キングズリーが柄にもなく緊張して固くなっている様子を表している。清水訳は「と、彼はきっぱりいった」、田中訳は「キングズリイは、やはりかたい調子でいった」と両氏とも「硬い態度」を強調している。ところが、村上訳は「と彼は憮然とした声で言った」としている。

「憮然」は本来「失望や落胆、驚きのために、ぼんやりしたり、呆然としたりする様子」のこと。しかし、最近では「腹を立てている様子」を表す言葉として使われることが多いという。妻の疑惑を晴らそうとしている男が、一方で、明日にでも別の女性と結婚したいと言うのだ。少々ぎこちなくもなろう。この場のキングズリーに、失望や落胆、驚愕という感情は似つかわしくない。村上氏もやはり、彼がマーロウに腹を立てていると思ったのだろうか。

チャンドラーの書く探偵小説の良さは、マーロウの目を通して、他の登場人物の人となりを的確に描写してみせるところにある。ムース・マロイ然り、パットン保安官然り、脇役にせよ、敵役にせよ、他の作家が描くそれとはちがって、格段にキャラクターが立っている。マーロウと副主人公ともいえる男たちの絡み合い、感情のやりとり、それは、時には両者の立場の違いをこえた人間同士の信頼関係にまで至る。そこが一つの読みどころでもあるのだ。そういう意味では、たかが一つの単語でも、あだやおろそかに扱うことはできない。

『湖中の女を訳す』第十七章(1)

< in a nice way>は「いい意味で」

【訳文】

 アスレティック・クラブのベルボーイは三分後に戻ってきて、一緒に来るようにうなずいた。四階まで上がり、角を曲がったところで半開きのドアを私に示した。
「左に折れたところです。できるだけお静かに。何人か、お休み中の会員がおられます」
 私はクラブの図書室に入った。硝子戸の向こうに本が、長い中央テーブルの上には雑誌が置かれ、クラブの創立者肖像画に照明があたっていた。だが、この部屋の本務は眠りのためにあるらしい。外側に突き出した書棚が部屋をいくつもの小さなアルコーブに分けており、そのアルコーブには信じられないほど大きくて柔らかな、背凭れの高い革製の椅子が置かれていた。いくつかの椅子では、高血圧で顔が青紫色になった老人たちが安らかな寝息を立てていた。萎びた鼻から苦しげな鼾が微かに洩れていた。
 私は二、三フィートある段差を乗り越え、足音を忍ばせて左に回った。ドレイス・キングズリーは部屋のいちばん奥まったところにある最後のアルコーブにいた。二脚の椅子を隣り合わせに、隅に面して並べていた。そのひとつの上に黒髪の大きな頭が見えていた。空いている椅子に滑り込み、軽くうなずいた。
「声を抑えてくれ」彼は言った。「この部屋は昼食後の午睡用に供されている。で、今度は何だ? 君を雇ったのは私の手間を省くためであって、手間を増やすためではない。私は大事な約束を断ってここにいるんだ」
「分かっています」私は言った。そして、相手に顔を近づけた。ハイボールの匂いがした。悪くない。「彼女が彼を撃った」
 眉毛が跳ね上がり、顔から表情が消えた。歯をぎゅっと食いしばり、息を整え、大きな手を膝頭の上で捩らせた。
「続けてくれ」彼は言った。おはじき大の声だった。
 私は椅子の背越しに後ろを振り返った。一番近くにいた老いぼれはぐっすり眠っていて、息をするたびに鼻の穴から灰色の鼻毛が出たり引っ込んだりしていた。
「レイヴァリーの家から応答はなく」私は言った。「ドアが少し開いていた。昨日は下枠につかえていたことに気づいたので、押したら開きました。部屋は暗く、飲み残しのグラスが二つあった。家の中は物音ひとつしない。まもなく、家主のミセス・フォールブルックと名乗る、痩せた謎めいた女が手袋の中に銃を握って階段を上がってきた。銃は階段で見つけたもので、三か月分溜まった家賃の集金に来た、と言った。自分の鍵で開けて入ったんです。おそらく、部屋の中をのぞき見る、いい機会だと思ったのでしょう。銃を取り上げると、最近撃たれていることが分かったが、女には言わなかった。女はレイヴァリーは留守だと言った。怒らせて追い払ったら、ひどく腹を立てて出て行った。警察を呼ぶことも考えられますが、蝶々でも追いかけているうちにみんな忘れてしまうんじゃないかな――家賃については別ですが」
 私は間を置いた。キングズリーの顔は私の方に向けられ、歯を食いしばっているせいか、顎の筋肉が盛り上がっていた。具合の悪そうな目だった。
「そのあと階下に下りました。女が一夜を過ごした形跡があった。パジャマ、白粉、香水、そういったものです。浴室には鍵がかかっていたけど、開けることができました。床に空薬莢が三つ転がり、壁に二発、窓に一発、穴があいていた。レイヴァリーはシャワー室で、裸で死んでいました」
「何てことだ」キングズリーが囁いた。「昨夜、女と過ごし、今朝その女に浴室で撃たれたというのか?」
「私が何を言おうとしていると思ったんですか?」私は訊いた。
「声を低くしてくれ」彼は唸った。「驚いたんだ。当然だろう。なぜ浴室なんだ?」
「あなたこそ、声に気をつけた方がいい」私は言った。「なぜ浴室じゃ駄目なんです? 男がそれ以上無防備になる場所を他に思いつきますか?」
 彼は言った。「撃ったのが女だとは決まっていない。つまり君の憶測だ。そうだろう?」
「まあ」私は言った。「そりゃそうです。誰かが、小型の銃を使ってバンバン撃ちまくり、女の仕事に見せかけたのかもしれない。浴室は下り斜面にあって外を向いている。家にいる者以外に銃声は聞こえにくいでしょう。一夜を共にした女は帰ったのかもしれないし、ひょっとして、女などはじめからいなかったのかもしれない。現場は偽装されたのかもしれない。あなたが彼を撃ったのかもしれない」
「どうして私が彼を撃ちたいと思わにゃならんのだ?」彼は泣き言みたいに言って、両の膝頭を握りしめた。「私は文明人だ」
 それについて、とやこう言う気になれなかった。私は言った。「奥さんは自分の銃を持っていますか?」
 彼はやつれた憐れっぽい顔を私に向けて虚ろな声で言った。「おいおい、まさか、本気でそんなことを考えてるんじゃあるまいな!」
「どうなんです。持ってるんですか?」
 彼は砂混じりの小さな粒を吐き出すように言葉を口にした。「ああ――持ってる。小型のオートマチックだ」
「この辺りで買ったんですか?」
「いや――買ったものじゃない。二年ばかり前、サンフランシスコでパーティーがあって、そのとき酔っ払いから取り上げたものだ。そいつは、さも面白いことを思いついたというふうに銃を振り回していた。私はそれを返さないでおいた」彼は関節が白くなるまで、指で顎をつまんだ。「そいつはいつどこでなくしたのかさえ覚えていないに違いない。それくらい酔っぱらっていた」
「話があまりにもうますぎる」私は言った。「見たらその銃だと分かりますか?」
 彼は顎を突き出し、半ば目を閉じて考え込んだ。私はまた椅子の背越しに後ろを振り返った。眠り呆けていた年寄りの一人が、椅子から飛び出しそうなほどの鼻息で目を覚ました。咳き込んで、痩せた干からびた手で鼻をこすり、ヴェストに入れた金時計を手探りした。素早く一瞥するとしまい込んで、また眠り込んだ。
 私はポケットに手を伸ばし、キングズリーの手の上に銃を置いた。彼は惨めな様子でそれをじっと見つめた。
「分からない」彼はゆっくり言った。「よく似てるが、確かなことは言えない」
「横にシリアル・ナンバーがあります」私は言った。
「銃についてるシリアル・ナンバーを覚えてるやつなんかいるもんか」
「覚えていないことを願ってました」私は言った。「実のところ、とても心配してたんです」
 彼は銃を手で包み込んで自分の椅子の横に置いた。

【解説】

「だが、この部屋の本務は眠りのためにあるらしい」は<But its real business seemed to be sleeping>。清水訳は「だが、この部屋のほんとうの役割は無視されているようだった」。意味としてはその通り。田中訳は珍しくここをカットしている。村上訳は「しかしその部屋の真の用途は、眠ることにあるらしい」。「アスレティック・クラブ」とは、名ばかりの老人用の昼寝部屋。大会社の重鎮ともなれば、社内で惰眠を貪ることは許されない。プロテスタンティズムの倫理としては、そうでもあろう。いかにもアメリカ的な光景だ。

ハイボールの匂いがした。悪くない」は<He smelled of highballs, in a nice way>。清水訳は「ハイボールが匂った。一杯ではなかった」。田中訳は「ハイボールのにおいがプウンとした。キングズリーは、いっぱいひつかけたらしい」。村上訳は「ハイボールの匂いがした。なかなか素敵な匂いだ」。俗語や慣用句の辞書サイト<Urban Dictionary>に寄れば、< in a nice way>は「いい意味で」。「卑劣なコメントや侮辱的なコメントを素晴らしく無害なコメントに変えることができるフレーズ」だそうだ。

「家主のミセス・フォールブルックと名乗る、痩せた謎めいた女が手袋の中に銃を握って階段を上がってきた」は<a slim dark woman calling herself Mrs. Fallbrook, landlady, came up the stairs with her glove wrapped around a gun>。清水訳は「家主(やぬし)のフォールブルックと名乗る色の浅黒い、やせ型の女が手袋をはめた右手に拳銃を持って階段を昇ってきました」。田中訳は「家主のミセズ・フォールブルックという女が、手袋をはめた手にピストルをもつて、階段をあがつてきました」。村上訳は「すらりとした黒髪の女が階段を上がってきて、この家の家主のミセス・フォールブルックだと名乗りました。手には手袋に包まれた拳銃がありました」だ。

問題は<a slim dark woman>。ミセス・フォールブルックは登場してきたシーンで髪の色は茶色と紹介済みだ(清水訳は「栗色」)。田中氏はカットしているが、村上氏は今回は「黒髪」と訳している。ミセス・フォールブルックは、いつ髪を染めたのだろう。この<dark>は困りもので、いつも悩まされる。ミセス・フォールブルックについて、キングズリーに髪の色まで話す必要はない。ここは素性の分からない、という意味の<dark>で、いいのではないだろうか。

「歯を食いしばっているせいか、顎の筋肉が盛り上がっていた」は<his jaw muscles bulged with the way his teeth were clamped>。清水訳は「歯が噛み合わされたように顎の筋肉がもり上がった」。田中訳は「歯をかみしめているためか、顎の筋肉が張つている」。村上訳は「その顎には窪みができていた。歯がぎゅっと噛みしめられているのだ」。<bulge>は「ふくれる、突き出る」という意味で、「窪む」は逆だ。村上氏は何を思って、こう訳したのだろう。

『湖中の女を訳す』第十六章

<ingenuous>は「純真な」という意味。まさか<genius>との誤読?

【訳文】

 階下の廊下は両端にドアがあり、中ほどにもドアが二つ並んでいた。一つはリネン・クローゼットで、もう一つには鍵がかかっていた。突き当たりまで行って予備の寝室を覗いてみると、ブラインドが引かれ、使われている様子はなかった。もう一方の突き当りまで引き返し、二つ目の寝室に足を踏み入れた。幅の広いベッド、カフェオレ色の絨毯、軽い木で作られた角張った家具、ドレッシングテーブルの上には木枠に入った鏡が掛けられ、その上に細長い蛍光灯がついている。隅には鏡張りのテーブル上にクリスタルのグレイハウンド、その横にはクリスタルの煙草入れが置いてあった。
 ドレッシングテーブルの上には白粉が散らばっていた。屑籠からぶら下がったタオルは濃い色の口紅で汚れていた。ベッドの上には枕が二つ並び、そのくぼみは頭でつけられたものらしい。片方の枕の下から女物のハンカチがのぞいていた。薄手の黒いパジャマが一組、ベッドの下に落ちていた。あたりには少し強すぎるほど、シプレーの香りが漂っていた。
 ミセス・フォールブルックは、これらについてどう思ったのだろう。
 私は振り返って、クローゼットのドアについた長い鏡に映る自分の姿を見た。ドアは白く塗られ、クリスタル製のノブがついていた。ハンカチで包んでノブを回し、中を調べた。杉材を張りつめたクローゼットの中はかなりの量の男物の服でいっぱいだった。ツイードの心地よくも懐かしい匂いがしたが、必ずしも男物だけで埋まっていたわけではなかった。
 女物の黒と白の、ほとんど白といっていい、テーラードスーツが一着あり、その下には白と黒のコンビの靴、その上の棚には白と黒のバンドが巻かれたパナマ帽があった。ほかにも女物の服があったが、そちらは調べるまでもなかった。
 クローゼットのドアを閉め、寝室を出た。他のノブを触る時の用心に、ハンカチはそのまま手に握っていた。
 リネン・クローゼットの隣の鍵のかかったドアは浴室にちがいない。揺すぶったが鍵は外れなかった。腰をかがめて見ると、ノブの中央に短いスリット状の開口部がある。内側のノブの真ん中にあるボタンを押すことでドアが固定される仕組みになっていた。スリット状の開口部は、誰かがバスルームで倒れたり、子どもたちが鍵をかけていうことを聞かなくなったりしたとき、突起のない金属製の鍵を使って、錠が開くようになっていた。
 通常その手の鍵は、リネン・クローゼットの一番上の棚に置いてあるはずだが、見あたらなかった。ナイフの刃を使ってみたが、薄すぎた。私は寝室に戻り、ドレッサーから平らな爪やすりを取り出した。それが功を奏し、浴室のドアが開いた。
 男物の砂色のパジャマが色塗りの脱衣籠の上に抛り込んであった。ヒールのない緑色のスリッパが一足、床に並んでいた。洗面台の端に安全剃刀と蓋の外れたクリームのチューブがあった。浴室の窓は閉まっていた。空気には他の匂いとは全く違う刺激臭が漂っていた。
 バスルームの床のナイルグリーンのタイルの上には、銅色も鮮やかな空薬莢が三つ転がっていて、窓の曇り硝子にはきれいに穴が開いていた。窓の左側と少し上には、漆喰の傷跡が二箇所あり、塗装の裏に白いものが見えていて、銃弾のようなものが入った痕があった。
 シャワーカーテンは緑と白のオイル・シルクで、光沢のあるクロム製のリングに吊るされ、シャワーの開口部を塞いでいた。それを横に滑らせると、擦れたリングが軽い音を立てたが、どういうわけかそれが耳障りなほど大きく響いた。腰をかがめると、首が少しきしむのを覚えた。彼はそこにいた。ほかに居場所はなかったのだ。輝く二つの蛇口の下の隅にうずくまり、クロム製のシャワーヘッドからは、水がゆっくりと胸に滴り落ちていた。
 膝は立てられていたが、ぐったりしていた。裸の胸に開いた濃い青色の二つの穴は、どちらも致命傷になるくらい心臓に近かった。血はすっかり洗い流されてしまったようだ。
 彼の目は、不思議なほど明るく、期待に満ちた表情をしていた。まるで朝のコーヒーの匂いを嗅いで、今にでも起き出してきそうに。
 見事な手際だ。 髭を剃り終えてシャワーを浴びるために裸になり、シャワーカーテンに寄りかかってお湯の温度を調整していると、後ろでドアが開き、誰かが入ってくる。それは女だったようだ。女は銃を持っている。銃に目を向けると、女は銃を撃つ。
 女は三発撃ち損じる。こんな至近距離ではありえないように思うが、事実はそうだ。もしかしたら、よくあることなのかもしれない。私は経験に乏しい。
 逃げ場はなかった。女に飛びかかって危険を冒すこともできたはずだ。そんな男で、その覚悟さえあったなら。しかし、シャワーの蛇口の上に身を屈め、カーテンに手をかけていては、バランスが保てない。また、普通の人間だったら、パニックに陥り、身動きできないはずだ。そうなると、シャワーの下以外に行くところはない。
 行く先はそこだ。できるだけ奥に行こうとするが、シャワー室は狭く、タイル壁が行く手を阻む。なすすべもなく最後の壁にへばりつく。ちょうど今みたいに。逃げ場はなく、 助かる見込みもない。そして、更に二発、もしかしたら三発が発射され、体は壁から滑り落ち、今やもう目には怯えさえ浮かんでいない。それはただの死者の虚ろな目に過ぎない。
 女は手を伸ばしてシャワーを止める。浴室のドアを施錠する。家を出て行くとき、空になった銃を階段の敷物の上に投げ捨てる。気にすることはない。多分君の銃なんだろう。
 この通りだろうか? そうであればいいのだが。
 私はかがんで彼の腕を引っ張った。氷もこれ以上冷たくないし、これほど硬くはない。私は浴室を出た。鍵は掛けなかった。今更そんな必要はない。警察の仕事を増やすだけだ。
 私は寝室に入り、枕の下からハンカチを引き抜いた。波型の縁飾りに赤い糸の刺繍のある麻の安物だ。隅に小さな二つのイニシャルが、赤い糸でA.Fと縫い取られていた。
 「エイドリアン・フロムセット」私は言った。そして笑った。やや残忍な笑いだった。
 私はハンカチを振ってシプレー臭を振り払い、ティッシュペーパーに畳んでポケットに入れた。私は上階の居間に戻り、壁際の机の中を捜し回った.。机の中には興味深い手紙はなく、電話番号も挑発的な折り畳みマッチもなかった。もしかしたら、あったのかもしれないが、見つけられなかった。
 私は電話を探した。それは壁際の暖炉脇の小テーブルの上にあった。ミスタ・レイヴァリーがダヴェンポートに仰向けに寝そべり、すべすべした褐色の唇の間に煙草をくわえ、傍のテーブルによく冷えた酒の入った背の高いグラスを置き、心おきなく女友だちとくつろいだ会話を楽しめるように、長いコードがついていた。気楽で、物憂く、軽薄で、冗談めいていて、あまり繊細過ぎもせず、かと言って、ぶっきらぼう過ぎもしない、彼が喜びそうな類の会話だ。
 そのすべてが水泡に帰した。私は電話から離れてドアに行き、また入ってこられるように鍵をセットし、ドアをしっかりと閉めて、錠がカチッと鳴るまで敷居の上を強く引っ張った。私は小径を登り、陽光の中に立ち、通りの向かい側のアルモア博士の家を眺めた。
 誰も悲鳴を上げず、ドアから走り出てもこなかった。呼子を鳴らす警官もいない。何もかもが静かで、晴れやかで、穏やかだった。騒ぎ立てる理由は何もない。マーロウがまた別の死体を見つけただけだ。今ではすっかりお手の物だ。人は彼を「一日一殺人」のマーロウと呼び、いつでも仕事にかかれるように死体運搬車を用意して彼の後をつけ回している。
 なかなかいいやつだ。ちょっと人が好過ぎるきらいはあるが。
 私は交差点まで戻って車に乗り込み、エンジンをかけてバックし、そこから立ち去った。

【解説】

「ドレッシングテーブルの上には木枠に入った鏡が掛けられ」は<a box mirror over the dressing table>。この<a box mirror>だが、清水訳は「化粧テーブルの上にボックス・ミラー」と、そのままだ。田中訳は「化粧机の前には、四角な鏡が壁にはめこんであり」。村上訳は「化粧テーブルの上には箱形の鏡があり」。ボックス・ミラーというのは、蓋のない箱の底面に鏡を張った形のもので、それを壁に張りつけて使う。<on>ではなく<over>が使われているのはそのせいだ。

「隅には鏡張りのテーブル上にクリスタルのグレイハウンド」は<In the corner a crystal greyhound stood on a mirror-top table>。清水訳は「部屋のすみのガラスを敷いたテーブルの上に水晶のグレイハウンドがおいてあって」。田中訳も「部屋の隅のガラス張りのテーブルには、クリスタルのグレイハウンドの像があり」と<mirror-top>を「ガラス」と訳している。村上訳は「隅っこのミラー・テーブルの上にはクリスタル製のグレイハウンドが置かれ」だが、ミラー・ボールというのは聞いたことがあるが、ミラー・テーブルというのはついぞ聞いたことがない。

「あたりには少し強すぎるほど、シプレーの香りが漂っていた」は<A rather too emphatic trace of chypre hung in the air>。清水訳は「むしろ強調されすぎている情事の匂いがみなぎっていた」。確かに、その気配は濃厚だが<chypre>は香水の香りの一種だ。田中訳は「寝室のなかは、すこし強すぎるほど香木性の香水のにおいがこもっていた」。村上訳は「あたりには紛れもない白檀(びゃくだん)の香水の匂いが漂っていた」。

「なかなかいいやつだ。ちょっと人が好過ぎるきらいはあるが」は<A nice enough fellow, in an ingenuous sort of way>。清水訳は「なかなかいいやつ(傍点二字)だ。策に富んでいる」。田中訳は「マーロウは、まったく腕がいい。ちょつと天才的なところさえある」。村上訳は「才能とでも呼ぶべきか、なかなか得難い男ではないか」。ちょっと待ってほしい。<ingenuous>は「純真な、お人好しの、うぶな」という意味なのに、御三方とも、<genius>と誤読しているのでは?

 

『湖中の女』を訳す 第十五章(2)

knee crack>は膝の立てる間接音のこと

【訳文】

 銃を取ろうと手を伸ばしたが、私の手は卵の殻のようにこわばって、今にも壊れてしまいそうだった。私は銃を受け取った。女はさも嫌そうに銃把に巻きついていた手袋の臭いを嗅いだ。そして、それまでと同じように、変に理屈が通っているような調子で話し続けた。私の膝がぽきっと音を立て、緊張がほぐれた。
 「ええ、もちろん、あなたの方が簡単」彼女は言った。「車のことよ。いざとなれば、取り上げてしまえばいい。でも、上等の家具付きの家を取り上げるのは、そう簡単にはいかない。借り手を追い出すのは金と時間がかかるの。恨みを買うこともあるし、家具を傷つけられることもある。時にはわざと。この床に敷いた敷物は二百ドル以上もする、それも中古で。ただのジュートの敷物だけど、色が素敵だと思わない? 中古のジュートだなんて誰も気づかない。でも、ばかげてるわね。だって、一度使ってしまえば何でも中古なんだから。政府のためにタイヤを節約しようとここまで歩いてきたわ。途中までバスに乗ることもできたけど、待っててもなかなかやって来ないの。反対方向に行くバスばかりで」
 女の言うことはほとんど聞こえなかった。それはある地点の向こうで波が砕けて見えなくなるようなものだった。私の興味は銃にあった。
 弾倉を引き抜いてみた。空だった。銃をひっくり返して銃尾の中を覗き込んだ。そこも空だった。銃口の匂いを嗅いだ。臭かった。
 私は銃をポケットに落とし込んだ。六連発、二五口径オートマチック。弾倉は空だ。撃ち尽くされている。それも遠い昔のことではない。だが、ここ三十分以内でもない。
「撃たれてるの?」ミセス・フォールブロックは愛想よく尋ねた。「でないといいけど」
「撃たれたと思う理由があるんですか?」私は訊いた。声はしっかりしていたが、脳味噌はまだ跳ね回っていた。
「だって階段に落ちてたんだから」彼女は言った。「どのみち銃は、撃つものでしょう」
「言い得て妙だ」私は言った。「だが、ミスタ・レイヴァリーのポケットに穴が開いていた、ということもある。彼はここにいないんですね?」
「そう、いないの」彼女はかぶりを振った。がっかりしているようだった。「あんまりじゃないの。 小切手をくれるという約束だったから、ここまで歩いてきたのに――」
「彼に電話したのはいつのことです?」私は訊いた。
「あら、昨日の夕方よ」いろいろ訊かれるのが気に入らないらしく、眉をひそめた。
「急に呼び出しがかかったんでしょう」私は言った。
 女は私の二つの大きな茶色い瞳の間にある一点を見つめた。
「ねえ、ミセス・フォールブロック」私は言った。「もうおふざけは終わりにしましよう。ふざけるのは嫌いじゃないし、こんなことは言いたくないんだが、まさか、あなたが撃ったんじゃないでしょうね? ――たかが家賃を三か月分溜めたからという理由で」
 彼女は非常にゆっくりと椅子の端に座り、舌先を口の緋色の切れ目に沿って動かした。
「どうしたらそんなにひどいことが言えるの」彼女は怒って言った。「あなたってずいぶんひどい人ね。銃は発射されてないって言わなかった?」
「すべての銃はいつかは発射される。すべての銃はいつかは弾丸が込められる。この銃は今は弾丸が入っていない」
「それじゃ――」彼女はじれったそうな仕種をし、油じみた手袋の臭いを嗅いだ。
「オーケー。考え違いでした。ただのつまらない冗談です。ミスタ・レイヴァリーは外出中で、あなたは家の中を調べた。家主であるあなたは鍵を持っている。これでいいですか?」
「邪魔するつもりはなかったのよ」彼女は言った。「多分、そうするべきじゃなかったんだわ。でも、私には物事がちゃんと管理されているかを調べる権利がある」
「それであなたは調べた。彼がここにいないのは確かなんですか?」
「ベッドの下までは覗いてみなかった。冷蔵庫の中もね」彼女は冷たく言った。「呼鈴に返事がなかったので、階段の上から声をかけたの。それから、下のホールに降りて、また声をかけた。寝室も覗いてみた」。彼女は恥ずかしそうに目を伏せ、膝の上で手をくねらせた。
「それで終わりですか」私は言った。
 女は明るい顔で頷いた。「そう、それで終わり。それで、あなた、お名前はなんとおっしゃったかしら?」
「ヴァンス」私は言った。「ファイロ・ヴァンス」
「それでどんな会社に雇われているの? ミスタ・ヴァンス」
「今は失業中でね」私は言った。「警察本部長が再び窮地に陥るまでは」
 彼女はびっくりしたようだった。「でも、車の支払いの件で立ち寄ったと言わなかった?」
「ただのアルバイトです」私は言った。「穴埋め仕事でね」
 彼女は立ち上がり、私をじっと見つめ、冷たい声で言った。「そういうことなら、もう帰ってちょうだい」
 私は言った。「差し支えなければ、まずはざっと見て回りたい。なにか見落としたものがあるかもしれない」
「その必要はないと思います」彼女は言った。「ここは私の家です。もうお帰りください。ミスタ・ヴァンス」
 私は言った。「もし私が出て行かなかったら、誰かを呼んでそうさせることになる。まあ、お掛けなさい、ミセス・フォールブルック。ちらっと見るだけです。この銃ですが、ちょっと変なんです」
「言ったでしょう。階段で見つけたって」彼女は腹立たし気に言った。「それについては何も知らないと。銃のことは全然わからない。私――私は生まれてこの方、銃を撃ったことなんて一度もない」女は大きな青いバッグを開けてハンカチを引っ張り出して鼻をすすった。
「それはあなたの話だ」私は言った。「私がそれにどうこうされる筋合いはない」
 彼女は哀れなしぐさで左手を私に差し出したが、それはまるで『イースト・リン』の芝居に出てくる、過ちを犯した妻のようだった。
「ああ、入ってくるんじゃなかった」彼女は叫んだ 「忌まわしいこと。 こうなると分かっていたのに。 ミスタ・レイヴリーはカンカンになる」
「あなたがすべきでなかったのは、私に銃が空だと教えたことだ。それまでは手札をすべて握っていたんだから」
 彼女は地団太を踏んだ。それだけが欠けていた場面だった。それで完璧になった。
「まったく忌々しい奴」女は金切り声で言った。「触らないで! 一歩でも私に近づくんじゃない! あんたとはもう片時もこの家にはいられない。よくもまあ、そんな無礼な真似が――」
 女は空中で輪ゴムがプチンと切れるように声を途切らせた。それから頭を下げて紫色の帽子をかぶり、 ドアの方へ走った。私の前を通り過ぎる時、女は私を制止するように手を突き出したが、距離があったので、私は動かなかった。女はぐいとドアを大きく開き、そこから外に飛び出して、通りまで駆け上がった。ゆっくりと閉まるドアの音をかき消すように、女の気忙しい足音が聞こえた。
 私は歯に沿って爪を滑らせ、顎の先を指の関節で叩き、耳を澄ました。どこからも何も聞こえてこなかった。撃ちつくされた、六連発オートマチック。
「何かある」私は声に出して言った。「この現場は完全にまちがっている」
 家の中が異様に静まり返ったようだった。私は杏子色の敷物の上を進み、アーチを通って階段の上にたどり着いた。私はそこにしばらく立ち、再び耳を澄ました。
 肩をすくめてから、静かに階段を下りて行った。

【解説】

「私の膝がぽきっと音を立て、緊張がほぐれた」は<My knees cracked, relaxing>。清水訳は「私の膝は緊張がとけて、かるくなった」。田中訳は「おれは膝の力がガクン、ガクンとゆるみ、やつと気がしずまった」。村上訳は「私の膝は緊張がとけて、がくがくしていた」。<crack>は「砕ける、割れる」の他に「鋭い音を立てる」という意味がある。<knee crack>は膝の立てる間接音のことだ。おそらく何かの拍子で、膝が鳴ったのだろう。村上訳のように「緊張がとけて、がくがくし」たのではなく、間の抜けた音のせいで、緊張がとけたのだ。原因と結果が逆になっている。

「銃をひっくり返して銃尾の中を覗き込んだ」は<I turned the gun and looked into the breech>。<breech>は「銃尾」のこと。清水訳は「銃を折って、銃尾をのぞいてみた」。リヴォルバーじゃないので、銃を折ることはまずないと思う。田中訳は「おれはピストルをひっくりかえし、銃身をのぞいてみた」。「銃身」は<barrel>。銃を使い慣れた人間が、残弾を確認するのに銃身を覗き込むことはないだろう。村上訳は「後ろ側から銃尾のなかを覗いてみた」。弾倉が空でも、薬室に弾丸が残っている場合がある。それを確かめたのだろう。

「ふざけるのは嫌いじゃないし、こんなことは言いたくないんだが」は<Not that I don't love it. And not that I like to say this>。清水訳は「おしゃべりがきらいだからではないんです。そして、こんなことをいうのが好きだからではないんです」。田中訳は「ぼくは、ふざけるのはきらいでね。それにこんなことはいいたかないが」と、「ふざけるのがきらい」だと言っている。それは誤りだ。村上訳は「私はそういうのが嫌いなわけじゃないし、こんなことを口にしたいわけでもありません」。

「警察本部長が再び窮地に陥るまでは」は<Until the police commissioner gets into a jam again>。清水訳は「市の警察本部長がまた問題を起こすまでは」。田中訳は「公安委員会から、事件を解決してくれと頼みにくるまではね」。<get into a jam>は「窮地に陥る」という意味。言うまでもないが、チャンドラーはここで、ヴァン・ダインに皮肉な挨拶を贈っている。警察が事件を解決できないときにしゃしゃり出てくるのが、名探偵ファイロ・ヴァンスだからだ。村上訳は「市警本部長がもう一度窮地に陥るまではということですが」。

「女は空中で輪ゴムがプチンと切れるように声を途切らせた」は<She caught her voice and snapped it in mid-air like a rubber band>。清水訳は「彼女は自分の声をとらえて、ゴムバンドのように空中にはじき飛ばした」だが、これでは何のことやらよく分からない。<catch one’s voice>は「声を途切らせる」ことだ。田中訳は「ミセズ・フォールブルックはハッと口をつぐんだが、まるでゴムバンドをピシッといわせたように、言葉のはしがきれた感じだった」。村上訳は「女はそこではっと声を詰まらせ、話を輪ゴムのように空中でぷつんと断ち切った」。

「私の前を通り過ぎる時、女は私を制止するように手を突き出した」は<As she passed me she put a hand out as if to stiff arm me>。清水訳は「私のそばを通るとき、私の腕をねじまげようとでもするように手を突き出した」。田中訳は「おれの前を走りぬける時、腕をつきだしたが、パンチでもくらわすつもりだったのか……」。< stiff arm>は<straight-arm>と同義で「腕を肩から完全に伸ばし、ひじをロックした状態で、手のひらで押すことにより、人や物を追い払う行為」(Merriam-Webster)。村上訳は「私のそばを通り抜けるときに、タックルを防ぐフットボール選手のように、片手をぐいと外に向けて突き出した」。

「ゆっくりと閉まるドアの音をかき消すように、女の気忙しい足音が聞こえた」は<The door came slowly shut and I heard her rapid steps above the sound of its closing>。清水訳は「ドアがゆっくり閉まり、彼女のせわしない足音がドアの閉まる音を消した」。田中訳は「ドアはゆつくりしまり、その音よりもつと高く、ミセズ・フォールブルックが大いそぎで走つていく足音がきこえた」。村上訳は「ドアはゆっくり閉まった。彼女の速い足音が、ドアの閉まる音に重なって耳に届いた」。

<above>は「~より上に」を表す前置詞。建付けの悪いドアが閉まるときにはさぞかし耳障りな音を立てるのだろう。その低音に対して、女の駆け去る足音は確かに高く聞こえるはずだ。田中氏の「その音よりもつと高く」は、そういう意味だろう。拙訳や清水訳は<her rapid steps>が、数量・程度で<the sound of its closing>より上回ると捉えている。村上氏は、ドアの閉まる音の上に被さるように、女の足音が聞こえたと解しているようだ。

「私は歯に沿って爪を滑らせ、顎の先を指の関節で叩き、耳を澄ました」は<I ran a fingernail along my teeth and punched the point of my jaw with a knuckle, listening>。清水訳は「私は指の爪で歯をこすり、拳(こぶし)であご(傍点二字)の先を叩いて、聞き耳を立てた」。田中訳は「おれは、爪のさきを歯にそつてうごかし、指の関節で顎のさきをつまんで、耳をすました」。村上訳は「私は爪を歯に沿って走らせ、顎の先を拳でとんとんと叩き、耳を澄ませていた」。

まず<a knuckle>だが、通常、単数の場合は「指の付け根の関節」を表す。「拳」の場合は<the knuckles>と<the ~ s >の形になる。このシーンだが、親指の爪で歯をこすりあげ、返す刀で指の関節で顎を叩いたのだろう。何かを考えるときに人が見せる仕種だ。田中氏はちゃんと「指の関節」としながら、どうして<punch>を「つまむ」と訳したのだろう。もしかしたら<pinch>と見まちがえたのだろうか。

蛇足ながら、村上氏の訳文に続出する「耳を澄ませた」について、翻訳家の田口俊樹氏の近刊『日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年』(本の雑誌社)の中にこう書かれている。

このところ「耳をすませて」が主流のようなのでひとこと。「すまして」は五段活用の「すます」の連用形で、「すませて」は「すむ」に「せる」という使役の助動詞がついた形だ。とすると、「すませて」とする場合、「耳がすむ」という言い方がそもそもなければならないわけだが、そういう言い方はあまり聞いたことがない。ゆえに、「すまして」が正しい、というのが持論なのだが、「すませて」と書いておられて、今のこの私の説明で「なるほど」と思われたら、すまして教に今日から宗旨替えしていただけたら、教主としてはちょっと嬉しい。「なるほど」と思わなければ、どうぞご随意に。

特に村上氏にあてて書かれたわけではないだろうが、影響力の大きさからいえば、村上春樹のそれは、かなりのものがある。今後、村上氏の訳文に注目したいところだ。また、田口氏のこの本には、ミステリやハードボイルドを翻訳するにあたっての注意点が、自身の経験を踏まえたうえで、惜しみなく披露されている。興味のある方は是非ご一読のほどを。

『湖中の女』を訳す 第十五章(1)

<the dickens>は<the devil>と同じで「一体全体、どうして」

【訳文】

 アルテア・ストリートの交差点を過ぎて交差道路に入り、渓谷の端で行き止まりになっている、歩道と白い木の柵に囲まれた半円形の駐車場に行き着いた。しばらくの間、車の中に座り、考え事に耽りながら海を眺め、海に向かって落ちていく青灰色の山裾に見とれていた。レイヴァリーをどう扱うか考えあぐねていたのだ。下手に出るか、それとも問答無用で容赦なく問い詰めるか。下から出てもこちらに損はない。もしそれが役に立たなかったら――役に立つとは思わなかったが――事の成り行き次第で、家具の一つや二つは壊れることになるかもしれない。
 海を見下ろすように建つ家々の下、山腹の中ほどを走る舗装された細道に人影はなかった。その下の隣の丘の中腹を走る通りでは二人の子どもが斜面に向かってブーメランを投げ上げ、例によって肘で小突き合い、互いに罵り合いながら追いかけていた。さらに下の方に、木立ちと赤煉瓦の壁に囲まれた家があった。裏庭の物干しロープに洗濯物がぶら下がっているのがちらっと見え、屋根の斜面で二羽の鳩が勿体ぶって頭を上げ下げしていた。青と黄褐色に塗られたバスが通りをやってきて煉瓦造りの家の前で停まり、かなり年寄りの男がゆっくりと用心して降りてきて、すっくと腰を伸ばし、重そうな杖で地面をトントン叩いてから、もと来た方に坂道を上り始めた。
 大気は昨日より澄んでいた。平穏そのものといった朝だ。私は車をそこに残してアルテア・ストリート、六ニ三番地まで歩きだした。
 正面の窓は内側にベネチアン・ブラインドが下ろされて、家は眠っているようだった。苔を跨いで呼鈴を鳴らした。ドアは完全に閉まっていなかった。どこのドアでもそうだが、重さのせいで枠の上に落ちかけ、スプリング錠のラッチボルトは受け座の下端にやっと掛かっている有様だ。昨日ここを出るとき、ドアが言うことをきかなかったのを思い出した。
 少し押したら、カチッと音がしてドアが内側に開いた。部屋の奥は薄暗かったが、西の窓からは光りが差し込んでいた。呼鈴には返事がなかった。もう一度鳴らしはしなかった。それからドアを押してもう少し広く開け、中に踏み込んだ。
 静まり返った部屋は生温かい匂いがした。朝遅くなるまで開けられない部屋の匂いだ。ダヴェンポート脇の丸テーブルの上のVAT69のボトルはほとんど空いていた。その傍に別の手つかずのボトルが控えていた。銅の氷入れには底に水が溜まっていた。グラスが二つ使われて、サイフォンに炭酸水が半分ばかり残っていた。
 はじめに見た時のようにドアを戻し、そこに立って耳を澄ました。もしレイヴァリーが留守なら、家探しするのにいい機会だ。たいして知りもしなかったが、もし見つかっても、おそらく警察に電話するのを控えさせるくらいのネタは隠れていそうだった。
 沈黙の裡に時は過ぎて行った。聞こえてくるのは、炉棚の電気時計のブーンという乾いた音、遠くアスター・ドライブから聞こえる車の警笛、渓谷を横切って丘の上を飛ぶ飛行機の蜂の羽音めいた音、出し抜けに作動する台所の電気冷蔵庫の立てる唸り声だけだ。
 私はさらに部屋の奥に進み、立って覗き込んだが、家につきものの音が聞こえるだけで、人のいる気配はなかった。それで、敷物の上を奥のアーチ型入口の方に歩き出した。
 アーチ型入口の端から下におりる階段の白い金属の手摺りの上に、手袋をはめた手が現れて、止まった。
 手が動いて女物の帽子が現れ、続いて女の頭が現れた。女は静かに階段を上がった。階段を上りきって向きを変え、アーチの下を抜けても、まだ私に気がついていないようだ。痩せた女で歳ははっきりしない。だらしない茶色の髪、真っ赤に塗りたくられた口、頬紅もアイシャドウも濃すぎる。青いツイードのスーツを着ていたが、頭の横に全力でぶら下がっている紫の帽子を合わせると、何と評していいものやら分からなかった。
 女は私を見ても止まりもせず、表情も変えなかった。ゆっくり部屋の中に入ってきて、握った右手を体から離した。左手は手すりの上ですでに見た茶色の手袋をはめていた。それと対になる右手の手袋は小型オートマチックの銃把に巻き付いていた。
 女は立ち止まり、からだを後ろに反らせ、短く苦しそうな声を出した。それから、くすくす笑った。甲高い神経質な笑い声だ。私に銃を向けたままどんどん近づいてくる。
 私は銃から目を離さず、悲鳴もあげなかった。
 女は近寄ってきた。内緒話ができるくらい傍によると、私の腹に銃口を向けて言った。
「欲しいのは家賃だけ。部屋は大事に使われているようね。何も壊れていない。あの人はいつもきちんとしている、几帳面な店子よ。私としては、家賃を滞納してほしくないだけ」
 緊張の抜けきらない不幸せな声の男が丁寧に言った。「どれくらい滞ってるんです?」
「三か月」彼女は言った。「二百四十ドル。これだけの家具付きの部屋で、八十ドルという家賃はとってもリーズナブル。滞納は前にもあったけど、その都度、払ってくれた。今朝、小切手を約束してくれていたの。電話でね。あの人は今朝私に払うと約束してくれたわけ」
「電話でね」私は言った。「今朝?」
 私は目立たないように足を少し動かした。狙いは、銃を手で払えるところまで近づき、銃口をそらせ、もとに戻る前に素早く飛び込むことだ。今まであまり成功したことのないテクニックだが、いつかは試みるべきだ。今がその時のように思えた。
 六インチほど稼いだが、ファーストダウンには足りなかった。私は言った。「あなたが家主ですか?」銃の方には目をやらなかった。ひょっとしたら私に銃を向けていることに気づいていないのでは、という淡い、非常に淡い期待を抱いていた。
「もちろんよ、ミセス・フォールブルック。私を誰だと思ってるの?」
「やっぱり、そうじゃないかと思ってたんですよ」私は言った。「家賃や何かのことをお話しされてたんで。でもお名前を知らなかったんです」もう八インチ。滑らかな動きだ。無駄にしちゃ勿体ない。
「お聞きしてもいいかしら、どちら様?」
「車の支払いののことで伺いました」私は言った。「ちょっとだけドアが開いてたんで、どういうちょっと覗いてみた。それだけのことです」
 私は車の支払いの件で金融会社から来た者のような顔をして見せた。それなりに手ごわいが、金さえ貰えれば、ありったけの笑顔になる用意のある顔だ。
「ミスタ・レイヴァリーは車の支払いも滞っていたというの?」彼女は心配そうに訊いた。
「少しだけ。大した額じゃありません」私はなだめるように言った。
 準備は整った。距離は稼いだ。要は速くやることだ。銃を内から外にきれいにさっと薙ぎ払うだけでいい。私は敷物から足を出しかけた。
「ねえ」彼女は言った。「この銃、変なのよ。階段で見つけたんだけど、油でべとべとなの。階段の敷物はとても素敵なグレイのシェニール織り。高いのよ」
 そして女は銃を私に手渡した。

【解説】

「アルテア・ストリートの交差点を過ぎて交差道路に入り、渓谷の端で行き止まりになっている、歩道と白い木の柵に囲まれた半円形の駐車場に行き着いた」は<I drove past the intersection of Altair Street to where the cross street continued to the edge of the canyon and ended in a semi-circular parking place with a sidewalk and a white wooden guard fence around it>。

清水訳は「私はアルテア通りの十字路を通りすぎて、道路が崖のふちまで続いて、半円形の駐車場で終わっているところまで車を走らせた。そこには歩道と白く塗られた木の柵があった」。田中訳は「おれは、レヴリイの家があるアルテア・ストリートの角をとおりすぎ、まつすぐすすんで、絶壁のふちの、まわりが白い木の柵と歩道になつている、半円形の駐車場までやつてきた」。

両氏の訳ではマーロウは<the cross street>に入っていない。清水氏も田中氏もアルテア・ストリートと<the cross street>を同一視しているようだが、<the cross street>とは「大通りと交差している交差道路」のことで、<the intersection of Altair Street >(アルテア・ストリートの交差点)を過ぎた<to where the cross street>(ところにある交差道路)が、<continued to the edge of the canyon and ended>(渓谷の端で行き止まりになっている)のだ。

村上訳は「アルテア・ストリートの交差点を越えた。そこから横手の道路に入ると、道路は渓谷の端で行き止まりになり、歩道のついた半円形の駐車スペースになっている。まわりは白く塗られた木の柵で囲まれている」。原文は一文。清水訳が二文、田中訳が一文であるのに対し、村上訳は三つの文になっている。村上氏はあまり気にしていないようだが、一文で訳せるのに、三つに切るのは、少々気になる。

「下手に出るか、それとも問答無用で容赦なく問い詰めるか」は<with a feather or go on using the back of my hand and edge of my tongue>。清水訳は「ソフトなタッチで対するべきか、手の甲を用い、舌の端で鋭くせまるべきか」。田中訳は「下からでるか、手の甲でひつぱたくか、それとも口でやりこめるか」。村上訳は「優しく羽根を用いるべきか、それとも手の甲やら鋭い舌先やらを活用するべきか」。

腕力に頼る場合にわざわざ「手の甲」を使うだろうか。手の甲でひっぱたくのは相手を侮蔑するやり方である。<the back of one's hand>には相手に対する「非難、拒絶、軽蔑」の意がある。羽根でくすぐるような手ぬるいやり方でなく、はなから相手を拒否してかかる、という意味だろう。

「青と黄褐色に塗られたバスが通りをやってきて」は<A blue and tan bus trundled along the street>。清水訳は「ブルーと焦げ茶色のバスが車体をゆすって走ってきて」。田中訳は「青と茶にペンキを塗つたバスが、(赤レンガの家の前の道を)のろのろすすんでいき」。ところが、村上訳は「白と褐色のバスが道路をゆっくりとやってきて」と勝手に色を変えてしまっている。凡ミスだろうが、校正の段階で気づくべきところだ。

「どこのドアでもそうだが、重さのせいで枠の上に落ちかけ、スプリング錠のラッチボルトは受け座の下端にやっと掛かっている有様だ」は<It had dropped in its frame, as most of our doors do, and the spring bolt hung a little on the lower edge of the lock plate>。原文は簡単に書かれているが、そのまま訳しても意味が伝わりにくいだろう。<spring bolt>は「スプリング錠のラッチボルト」のことだ。ちなみに、ラッチボルトとは、ドアの部品のひとつであり、先端が三角形になっているボルトのことをいう。

清水訳は「ドアが古くなるとよくあるように蝶つがい(傍点三字)がゆるんで錠がきちんと降りないのだった」。田中訳は「どこの家でもたいていそうだが、このドアも下のほうがさがっている。スプリングの留金は、鍵穴があるプレートのはしのところだ」。村上訳は「それはドアがおおむねそうであるように、フレームの中に収まっていた。しかし、バネ付きのボルトは、鍵プレートの下の縁に少しかかっているだけだ」。

村上訳だが、これでは、(普通の)ドアが「おおむねそうであるようにフレームの中に収まっている」のだから、何ら問題がないように読める。そうではなく、(古い)ドアの多くがそうであるように、それ自体の重さでドア枠の上に落ち、ラッチボルトと受け座のある位置にズレが生じて、ドアが完全に閉まらない状態になっているのだ。村上訳ではそこのところが分からない。

「青いツイードのスーツを着ていたが、頭の横に全力でぶら下がっている紫の帽子を合わせると、何と評していいものやら分からなかった」は<She wore a blue tweed suit that looked like the dickens with the purple hat that was doing its best to hang on to the side of her head>。<the dickens>は、やや古い表現で「驚き、婉曲的な悪口」を表す。<the devil>と同じ。「一体全体、どうして」というような言い方。

清水訳は「青いツイードのスーツをだらしなく着て、紫色の帽子が頭の横っちょでいまにも落ちそうになっていた」と無難な訳に収まっている。田中訳は「女は青のツイードのスーツを着て、紫色の帽子を、ななめに、いやにしやれてかぶつているが、なにか魔女みたいだった」と<devil>を「魔女」に変えている。村上訳は「ブルーのツイードのスーツを着ていたが、それはどう見ても紫色の帽子とは似合っていなかった。そして帽子はかろうじて、頭の片側にしがみついているような有様だった」と、婉曲的な悪口になっている。

「内緒話ができるくらい傍によると、私の腹に銃口を向けて言った」は<When she was close enough to be confidential she pointed the gun at my stomach and said>。清水訳は「充分近づいたことを確かめて、拳銃を私の腹につきつけて、いった」。田中訳は「ちいさな声で言つてもわかる距離までくると。ピストルをおれのどてつ腹にむけ、口をひらいた」。村上訳は「その銃口が間違いなく私の腹に向けられているとはっきりわかるくらい近くに寄り、そして言った」だが、<confidential>(内緒話を打ち明ける)は、どこへ行ってしまったのだろう。

「六インチほど稼いだが、ファーストダウンには足りなかった」は<I made about six inches, but not nearly enough for a first down>。<first down>はアメリカン・フットボールの用語で四回の攻撃で十ヤードを奪えば、新たに得られる攻撃権をいう。奪えなければ相手側の攻撃に変わる。アメリカ人には解説不要だが、日本ではまだ難しいかもしれない。

清水訳は「六インチほど近づいたが、まだ距離がありすぎた」。田中訳は「六インチぐらいは、足をうごかすことができた。だが、まだ、むりだ」。村上訳は「十五センチほど身体を動かした。しかし初回の試み(ファーストダウン)として満足のいく距離ではなかった」。一貫性を大事にする村上氏としてはこうするほかはないのだろうが、アメフト用語でルビを振りながら、メートル法の表記というのは野暮だろう。

『湖中の女』を訳す 第十四章

<sit across the room from someone>は「向かい合って座る」とは限らない

【訳文】

 冷え冷えとした緑色の水底で腕に死体を抱いている夢を見た。死体の長い金髪が私の目の前を漂い続けている。目が飛び出し、体が膨れ、腐った鱗がぬらぬら光る巨大な魚が、老いた放蕩者のように流し目をくれながら周りを泳いでいる。息が続かず、胸が張り裂けそうになったちょうどその時、死体が息を吹き返し、腕の中から逃げて行った。私が魚と死闘を繰り広げるあいだ、死体は水の中で長い髪を紡ぐように何度も何度も回り続けていた。
 口いっぱいにシーツをくわえて目を覚ました。両手はベッドのヘッド・フレームをつかんで強く引っ張っていた。両手を離して下に降ろすと筋肉がずきずきした。起き上がって部屋の中を歩き、裸足の指に絨毯の感触を感じながら煙草に火をつけた。煙草を吸い終わるとベッドに戻った。
 次に目を覚ましたのは九時だった。日の光が顔にあたっていた。部屋は暑かった。シャワーを浴び、髭を剃り、シャツ姿で台所の食卓に行き、朝のトーストと卵、そしてコーヒーの支度をした。食事が終りかけた頃、ドアにノックの音がした。
 口いっぱいにトーストを頬張ったまま、ドアを開けに行った。地味なグレイのスーツを着た真面目そうな顔つきの痩せた男が立っていた。
 「フロイド・グリア、セントラル署刑事部、警部補だ」と言って部屋に入ってきた。
 彼が乾いた手を差し出し、我々は握手した。連中がよくやるように、椅子の端っこに腰を下ろし、手の中で帽子を回しながら、刑事特有の黙視でじっと私を見た。
ピューマ湖の事件について、サン・バーナディーノから電話があった。溺れた女の件だ。死体が発見された時、近くに居合わせたそうだな」
 私はうなずいて、言った。「コーヒーでもどうだい?」
「いや、けっこう。朝食は二時間前に済ませた」
 私は自分のコーヒーを取ってきて、彼から離れた場所に腰を下ろした。
「君を調べろと頼まれた」彼は言った。「君に関する情報を教えろというのさ」
「だろうね」
「そこで、そうした。我々の知る限りでは、君に疑わしい点はないようだ。死体が発見された時、君のような専門分野の人間が居合わせたのは、ちょっとした偶然だ」
「いつもそうなんだ」私は言った。「運がいいんだな」
「それで、ちょっと立ち寄って挨拶でも、と思ったんだ」
「それはどうも。お会いできて何よりだ、警部補」
「ちょっとした偶然」彼はそう繰り返して、うなずいた。「仕事であそこにいた、ということか?」
「そうだったとしても」私は言った。「私の仕事と溺れた女とは無関係だ。私の知る限りではね」
「でも確信はない?」
「事件が解決するまで、どんなつながりがあるか、警察だって確信は持てないだろう?」
「その通り」彼は内気なカウボーイみたいに帽子のつばを指で撫でまわした。だが、その目は内気そうではなかった。「確信がほしいんだ。この溺れた女性の事件に、君がいうところのつながりが見つかったら、我々に知らせてくれるかどうか」
「頼りになれるといいが」私は言った。
 彼は舌で下唇を膨らませた。「警察としては、確かな返事が聞きたい。今のところ、言う気はないということか?」
「今のところ、パットンが知っている以上のことは知らないね」
「誰のことだ?」
ピューマ・ポイントの町保安官だ」
 真面目そうな痩せた男は寛容に微笑んだ。指の関節をぽきぽき鳴らし、ひと呼吸置いて言った。「サン・バーナディーノの地方検事は君と話したがるだろう――検死審問の前に。だが、今すぐにじゃない。今、連中は指紋を採取しようとしている。うちの鑑識を貸してやったよ」
「それは難しいだろう。死体はかなり腐敗してた」
「いつもやってることだ」彼は言った。「年がら年中、水死体を引き上げていた頃のニューヨークで開発された技術でね。指の皮膚を一部切り取って、なめし革用の溶液で固めてスタンプを作る。たいていのところ、うまくいく」
「この女に前科があると考えてるのか?」
「おいおい、我々はいつだって死体の指紋を取る」彼は言った。「知ってると思ってたよ」
 私は言った。「女性のことは知らなかった。私が知っていて、それが山に行った理由だと考えているなら、それはないよ」
「しかし、君はなぜあそこにいたかを言おうとしない」彼は言い張った。
「つまり、私が嘘をついていると考えているわけだ」私は言った。 
 彼は骨張った人差し指で帽子を回した。「誤解してるよ、ミスタ・マーロウ。我々は何も考えやしない。我々がやることは捜査して見つけ出すことだ。これはありきたりの手続きだ。あんただって分かってるはずだ 。長いつきあいなんだから」彼は立ち上がり、帽子をかぶった。「街を離れなきゃならなくなったら、連絡してくれると助かる」
 そうする、と私は言って、一緒に扉口まで行った。彼はひょいと頭を下げ、悲しそうな半笑いを浮かべて出て行った。私は彼がぶらぶら廊下を歩いて行って、エレベーターのボタンを押すのを見ていた。
 コーヒーがまだ残っていないか、台所に引き返した。カップに三分の二ほど残っていた。クリームと砂糖を入れて、カップを手に電話のところまで行った。ダウンタウンの警察本部のダイアルを回して刑事部に繋いでもらい、フロイド・グリア警部補を呼び出した。
 声が言った。「グリア警部補はオフィスにおりません。誰か他の者では?」
「デソトはいるかい?」
「誰ですか?」
 私は名前を繰り返した。
「その方の階級と、部署は分かりますか?」
「私服なんとかだ」
「このままお待ちください」
 私は待った。しばらくすると、荒っぽい訛りの男の声が電話口に戻ってきて、こう言った。「なんの冗談だ?  デ・ソトなんて名前は名簿に載っていない。おたくは誰だ?」
 私は電話を切った。コーヒーを飲み終わり、ドレイス・キングズリーのオフィスの番号を回した。滑らかでクールな声のミス・フロムセットが、ちょうど今入ってきたところです、と言って、文句も言わずに電話をつないでくれた。
「さてと」彼は言った。一日の始まりにふさわしい大きく力強い声だ。「ホテルで何か分かったかね?」
「彼女は確かにホテルに行っています。そこでレイヴリーと会った。情報をくれたボーイが、訊いてもいないのに、自分からレイヴリーのことを持ち出してきたんです。二人は一緒に夕食をとり、タクシーで駅に向かったようです」
「そうか、彼が嘘をついていることに気づくべきだった」キングズリーはゆっくり言った。「エル・パソからの電報のことを話した時、驚いていたような気がしたんだが。こっちが気を回し過ぎただけのことだ。他には何か?」
「ホテルではそれくらいです。ただ今朝、お巡りがやって来て、お定まりの質問をして、勝手に街を出ないように警告していきました。私がなぜピューマ・ポイントに行ったのか、知りたかったようです。私は喋らなかったし、お巡りはジム・パットンの存在すら知らなかったので、パットンが誰にも話していないことも確かです」
「それについては、ジムはまずまず最善を尽くしてくれるだろう」キングズリーは言った。「昨夜、誰かの名前を尋ねたな、あれはどういうわけだ? ――ミルドレッドなんとかと言ったかな?」
 私はかいつまんで話した。ミュリエル・チェスの車と服がどこで見つかったかを話した。
「それはビルの印象を悪くする」彼は言った。「クーン湖のことは知ってる。だが、あの古い薪小屋を使うなんてことは思いも寄らなかった――古い薪小屋があったことさえな。印象を悪くするだけじゃない。計画的な犯行のように見える」
「それはどうかな。彼があのあたりをよく知っていたとすれば、隠し場所を探すのに時間はかからない。むしろ、距離の方が彼には限られていたはずです」
「そうかもしれない。で、これからどうするつもりだ?」彼は訊いた。
「もちろん、もう一度レイヴリーを叩いてみます」
 彼はそれがすべきことだと同意した。そして、つけ加えた。「このもう一つの件は悲劇そのものだが、実のところ我々とは何の関係もない。そうじゃないか?」
「あなたの奥さんがその件について、何かを知っていない限りは」
 彼は声を尖らせて言った。「いいかね、マーロウ。起きたことのすべてをひとつの密な結び目につなぎとめる君の探偵としての本能は分からないでもない。だが、本能の赴くままに動いてはいけない。人生はそんなものじゃない――私の知っている人生は、ということだ。チェス家のことは警察に任せておいて、君の頭はキングズリー家のことに使うんだ」
「オーケー」私は言った。
「高飛車に出るつもりはないんだ」彼は言った。
 私は心から笑って、さよならを言い、電話を切った。着替えを済ませ、地下に降り、クライスラーに乗り込み、再びベイ・シティーに向かった。

【解説】

「シャツ姿で台所の食卓に行き、朝のトーストと卵、そしてコーヒーの支度をした」は<partly dressed and made the morning toast and eggs and coffee in the dinette>。前の章で<He wore parts of a white linen suit>という文が出ていたが、今度は<partly dressed>だ。<dinette>は「小食堂、(台所の中・近くの)食事コーナー」のこと。「キチネット(簡易キッチン)」という言葉は知られているが、「ダイネット」は日本ではあまり知られていない。訳者の苦心のしどころだ。三氏はどう訳しているだろうか。

清水訳は「シャツ一枚でトーストとタマゴとコーヒーの朝食のしたく(傍点三字)をした」と<dinette>をスルーしている。田中訳は「服を半分きかけて、部屋にくつついた小さな台所で、トーストとタマゴ、そしてコーヒーの朝食の用意をした」。村上訳は「身体の一部に衣服をまとい、キッチンの隅のテーブルで、朝のトーストと卵料理とコーヒーをつくって食べた」。

<partly dressed>は「服の一部を身につけている」状態を意味することは誰にでも分かるが、それをどう訳すかとなると訳者の個性が出てくる。清水氏は「シャツ一枚」と訳している。様子が目に浮かぶのはいいのだが、下半身は下着のままか、ズボンは穿いているのか、
どうなのかが気になる。田中訳の「服を半分きかけて」は、動作が完了していないので、なんだか袖を通している最中のようにも読める。村上訳は相変わらず、硬い。それでいて「身体の一部」がどこを指すのかは皆目分からない。

<dinette>の方だが、田中訳の「部屋にくつついた小さな台所」では、朝食の用意をするにはぴったりだが、それではどこで食べたのか、という疑問が出てくる。村上訳だと「キッチンの隅のテーブルで、朝のトーストと卵料理とコーヒーをつくって食べた」ことになるが、まさか、テーブルで卵料理は作れない。ここは、「キッチンで朝のトーストと卵料理とコーヒーをつくって、隅のテーブルで食べた」としたいところ。

「フロイド・グリア、セントラル署刑事部、警部補だ」は<Floyd Greer, lieutenant, Central Detective Bureau>。清水訳は「中央刑事部のフロイド・グリア警部補です」。田中訳は「捜査課のフロイド・グリーア警部補だ」。村上訳は「フロイド・グリア、セントラル署刑事課の警部補だ」。<Central>というのは、ロサンゼルス市警察の四つある管区の一つ「セントラル管区」を指している。その管区の<Detective Bureau>(刑事部)という意味である。村上氏は「刑事課」と訳しているが、「刑事部」は六つの「課」に分かれている。グリア警部補が、どの課に属しているのかはここでは分からない。

「私は自分のコーヒーを取ってきて、彼から離れた場所に腰を下ろした」は<I got my coffee and sat down across the room from him>。清水訳は「私はコーヒーを持って、彼と向かい合って部屋の端に腰をおろした」。田中訳は「俺は、自分だけコーヒーをつぎ、部屋を横ぎって、グリーア警部補のまえに腰をおろした」。村上訳は「私は自分のコーヒーを持ってきて、彼と向き合うように、あいだを置いて腰を下ろした」。

<sit across the table from someone>は「テーブルに向かい合って座る」ことを意味する表現だが、<table>ではなく<restaurant / bar / room>を置くと、同じ空間にいながら離れて座ったことを意味する。空間が広くなり、間にテーブルを挟まないので、向きは特に指定されない。グリアはずっと帽子を手にしたままだし、マーロウもコーヒーを手に持ったままだ。つまり、それを置くテーブルがないのだ。だとすれば、二人は別に向かい合ってる必要はない。双方が離れた場所に置かれた椅子に腰かけているのか、同じソファの両端に座っているか、そこまでは分からないが。

「君を調べろと頼まれた」彼は言った。「君に関する情報を教えろというのさ」は<"They asked us to look you up," he said. "Give them a line on you.">。清水訳は<「あなたに会ってくれといってきたんです」と、彼はいった。「あなたについてわかることを知らせてくれと」>。<look up>には「調べる」の他に「訪問する、立ち寄る」の意味がある。その後のグリアの言葉から考えれば、清水訳のようにも取れる。

<give someone a line on>は「~に関する情報を(人)に与える、~について(人)に教える」という意味。田中訳は「サンバーナディオ(ママ)から、きみのことをたずねてきた。おしえてやっていいかね?」。警察が一探偵にそんなことで承諾を得る必要はない。これも、後のグリアの言葉に向けての伏線だろう。村上訳は<「それで、君のことを調べてほしいと依頼された」と彼は言った。「君についての情報を送ってくれと」>。

「年がら年中、水死体を引き上げていた頃のニューヨークで開発された技術でね」は<They worked out the system back in New York where they're all the time pulling in floaters>。清水訳は「水中から揚(あ)がる死体が多いニューヨークが開発した方法です」。田中訳は「しよつちゆう溺死体がかつぎこまれるニューヨーク警察で、水死体から指紋を検出するいい方法をかんがえだしてね」。村上訳は「ニューヨークでその手の技術が発達したんだ。あっちはなにしろ水死体が多いからね」。<back in>には「~の頃に、~の時に」という意味があるが、三氏の訳からはそれが響いてこない。

「私服なんとかだ」は<Plain clothes something or other>。清水訳は「ひら(傍点二字)の警官だと思うんだが」。田中訳は「刑事かなんからしいけど……」。村上訳は「私服で勤務しているとしかわからないが」。<something or other>は「(分からないもの・得体の知れないものを指して)何とかかんとか」という言い方。<plainclothes detective>で「私服刑事」という通り名になる。

「しばらくすると、荒っぽい訛りの男の声が電話口に戻ってきて、こう言った」は<The burring male voice came back after a while and said>。清水訳は「しばらくして、はっきりしない男の声が戻ってきた」。田中訳は「そのうち、カンカンになった男の声がきこえてきた」。村上訳は「しばらくあとで荒っぽい男の声が聞こえた」。<burr>は「rを振動させて(荒っぽく)話す、r音が特徴の荒い田舎訛り」のこと。電話口の男は、別に怒っているわけではない。英国北部地方の出身なのだろう。

「文句も言わずに電話をつないでくれた」は<put me through without a murmur>。清水訳は「すぐ電話をつないでくれた」。田中訳は「すぐつないでくれた」。村上訳は「ひとこともなく、そのまま電話はまわされた」。<without a murmur>は「一言の不平も言わずに、文句を言わずに」という意味のイディオム。第一章における塩対応とはちがって、今回のミス・フロムセットは愛想がいい。ところが、村上訳からは、それがあまり伝わってこない。もしかしたら、イディオムと取らずに<murmur>を「ささやき、かすかな人声」と解して訳したのかもしれない。

「印象を悪くするだけじゃない。計画的な犯行のように見える」は<It not only looks bad, it looks premeditated>。清水訳は「彼にとってうまくないだけでなく、最初からの計画だったと思われてもしかたがない」。田中訳は「これは、もちろんビルにとつて不利なだけでなく、計画的にやつたことのようにおもわれたら……」。

この<looks bad>は、少し前にある<That looks bad for Bill>(それはビルの印象を悪くする)を受けている。両氏の訳も当然そのようになっている。ところが、村上訳は「それは悪い思いつきじゃないし、むしろ前もって準備されていたことのようにも見える」となっている。<That looks bad for Bill>を「そいつはビルにとって具合の良くない話だ」と訳していながら、<It not only looks bad>を「それは悪い思いつきじゃない」と訳すのは、どう考えても無理がある。

 

『湖中の女』を訳す 第十三章(2)

<tight>も<mean>も、金がからむと、少々意味が下卑る

【訳文】

男はほとんど踊るように入ってきて、かすかに薄笑いを浮かべながら私を見て立っていた。
「飲むかい?」
「ああ」彼は冷ややかに言った。自分でたっぷりとウィスキーを注ぎ、ちょっぴりジンジャーエールを垂らし、ひと息にごくりと飲んで、すべすべした小さな唇に煙草をくわえ、ポケットから取り出しざまにパチンと鳴らしてマッチに火をつけた。そして煙を吐き出しながら私を見続けた。直に見ないで、目の端でベッドの上の金をとらえていた。シャツのポケットの上に、番号の代わりに<キャプテン>という語が縫いつけてある。
「君がレスか?」私は尋ねた。
「そうじゃない」男はいったん言葉を切り、こう付け加えた。「ここで探偵にうろうろされたくないだけだ。自前の探偵も置いていない。ましてや、よその誰かに雇われた探偵なんぞに煩わされたくない」
「ご苦労さん」私は言った。「もう用済みだ」
「なんだと?」気に障ったのか小さな口がよじれた。
「消えな」私は言った。
「俺に会いたいんだとばかり思っていたんだが」男は冷笑を浮かべた。
「君はボーイ長だろう?」
「あたりだ」
「君に一杯おごって、一ドル進呈したかったのさ。ほら」私は一ドル札を差し出した。「来てくれてありがとう」
 彼は礼も言わずに一ドル札を受け取って、ポケットに入れた。鼻から煙をたなびかせ、けち臭い、さもしい目をして、ぐずぐずしていた。
「ここで俺の言うことは通るんだ」彼は言った。
「君の押しが効くところに限ってのことだ」私は言った。「どこでもってわけじゃない。一杯飲んだし、かすりもとった。もう出て行っていい頃合いだ」
 彼はひょいと肩をすくめて身を翻し、音もなくするりと部屋を出て行った。
 四分後、またノックの音がした。とても軽い音だ。長身のボーイがにこにこしながら入ってきた。私は逃げるようにして、もう一度ベッドに腰を下ろした。
「レスのことがお気に召さなかったようですね?」
「たいしてね。あれで満足してたか?」
「そう思います。あなたはキャプテンってものをよくご存じだ。連中は上前をはねずにいられない。わたしのことはレスと呼んでもらう方がいいかもしれない。ミスタ・マーロウ」
「彼女をチェックアウトしたのは君だったのか?」
「いや、あんなのは出まかせだ。あのひとはチェックインすらしちゃいない。でも、パッカードのことなら覚えてる。車を片づけて汽車の時間まで荷物を預かるのに一ドルくれたのでね。ここでは夕食をとっただけです。この街で一ドル振る舞えば記憶に残る。それに、車が長い間置きっぱなしになってるという話もある」
「見かけはどんなだった?」
「黒と白の一揃いで、主に白だった。それに黒と白のバンドのついたパナマ帽。あんたの言った通り、小ざっぱりした金髪のレディだった。時間が来て、駅まではタクシーだ。荷物を積むのを手伝ったよ。荷物にはイニシャルがついてたけど、悪いな、文字は覚えてない」
「覚えてなくてよかったよ」私は言った。「もし覚えていたら出来過ぎというもんだ。一杯飲れよ。で、何歳くらいに見えた?」
 彼はもう一つのグラスをすすぎ、ウィスキーとジンジャーエールを品良く混ぜた。
「近頃は女性の歳をあてるのはなかなか難しい。三十歳をちょい出てるか、少し手前か、というところ」
 上着からクリスタルとレイヴリーが海辺で撮ったスナップショットを取り出して渡した。
 彼は写真をじっと見つめ、目から離したり、近づけたりした。
「法廷で証言するわけじゃないぜ」私は言った。
 彼はうなずいた。「そいつは願い下げだ。こういう小柄な金髪は、どれも似たり寄ったりで、服や照明、メイクを変えると、みんな同じに見えるか、全く違って見えるかのどちらかだ」彼はスナップ写真を見つめながら、ためらっていた。
「何が気になるんだ?」私は尋ねた。
「この写真に写ってる男のことを考えてたんだ。この男も一枚噛んでるのか?」
「続けてくれ」私は言った。
「ロビーで彼女に話しかけ、夕食を一緒にした男じゃないかな。長身のハンサムで、すばしこいライト・ヘビー級の体つきだ。タクシーに一緒に乗ってった」
「間違いないんだな?」
 彼はベッドの上の金を見た。
「オーケー、いくらほしいんだ?」私は訊いた。少々うんざりしていた。
 彼はからだをこわばらせた。写真を下におろし、ポケットから二枚の畳んだドル紙幣を引っ張り出してベッドに放り投げた。
「酒をごちそうさま」彼は言った。「あんたの好きにすればいい」彼は扉口に歩きかけた。
「座れよ。そんなにカリカリするもんじゃない」私はどなった。
 彼は腰を下ろし、厳しい目をして私を見た。
「それと、つまらない南部人気取りはよすことだ」私は言った。「もう長いこと、ホテルのボーイにどっぷりはまってる。もし口から出まかせを言わないボーイに出会ったのなら、それはそれで結構なことだ。が、口から出まかせを言わないボーイに出会えるなんてことはそうそうあることじゃない。そのくらいのことは承知してるだろう」
 彼はゆっくり時間をかけて相好を崩し、それから素早くうなずいた。もう一度手に取った写真越しに私を見た。
「男の方がしっかり写ってる」彼は言った。「あのひとよりずっと。だけど、この男を覚えているのは、もう一つ訳があるんだ。ロビーで近づいてくる男のあけすけな態度が、あのひとは気に入らないみたいだった」
 私はそれについて考えてみたが、たいした意味はないと判断した。時間に遅れたか、以前に約束をすっぽかすかしたんだろう。私は言った。
「何か理由があるのさ。それより、女が身につけていた装身具に何か気がつかなかったか? 指輪、イヤリング、その他、人目を引く、高そうなものだ」
 彼は、気がつかなかった、と言った。
「髪はロングか、ショートか、ストレートか、ウェイブがかかっていたか、それともカールしてたか、ナチュラル・ブロンドか、脱色してたか?」
 彼は笑った。「最後のは返事に困るよ、ミスタ・マーロウ。ナチュラル・ブロンドの女でも、もっと薄くしたがるからね。残りについては、どちらかと言えばロングで、今風に毛先を少し内巻きにカールして、全体としてはストレートだったような気がする。もちろん、まちがってるかもしれない」彼はまたスナップ写真を見た。「この写真では後ろで束ねてる。何とも言えないな」
「その通り」私は言った。「質問した理由はただ一つ。君が頑張りすぎていないか確かめるためだ。細かいところまで見ているのは何も見ていないのと同じくらい信頼性の低い証人だ。そいつはいつも半分くらいは作り話をしてるのさ。状況を考えれば、君のチェックはおおむね正しい。どうもありがとう」
 私はもとの二ドルを返し、それに五ドル上乗せした。彼は礼を言って、グラスの残りを空け、静かに出て行った。私は自分のぶんを飲み、もう一度体を洗い、こんな穴倉で寝るより、運転して家に帰ろうと決めた。再びシャツと上着を着て、バッグを手に階段を下りた。
 いけ好かない赤毛のボーイ長が、ロビーにいるただ一人のボーイだった。バッグをぶら下げて受付の机まで行く間、私の手からバッグを取る気はなさそうだった。インテリぶった受付は私を見ようともせず、二ドル抜き取った。
「こんなマンホールの中で夜を過ごすのに、二ドルもとるのか」私は言った。「ただで寝られる風通しのいいごみ入れが、通りにいくらでも転がっているのに」
 受付の男は欠伸をし、遅ればせながら、明るく言った。「午前三時頃になると、ここはぐっと涼しくなります。それから八時か、時には九時までは、とても過ごしやすいですよ」
 私は首の後ろを拭って、よろよろと車に向かった。真夜中だというのに、車のシートまで火照っていた。
 家に着いたのは二時四十五分だった。ハリウッドは冷蔵庫だった。パサデナでさえ涼しく感じられた。

【解説】

「鼻から煙をたなびかせ、けち臭い、さもしい目をして、ぐずぐずしていた」は<He hung there, smoke trailing from his nose, his eyes tight and mean>。清水訳は「鼻から煙を吐き、目を険(けわ)しくして、つっ立っていた」。田中訳は「鼻からタバコの煙をはきだし、いじわるそうに目をひからせて、まだグズグズしていた」。村上訳は「鼻の穴から煙を出し、そのままそこにじっとしていた。彼の目つきは硬く狭量だった」。

<tight>も<mean>も、「金に細かい、金に汚い」ことをいう時に使われることのある形容詞。それが対句で使われているので、ここは文脈的にそういう意味で使われていると考えた方がいい。本物のレスとの話の中で、ボーイ長の金に汚いことが後で話題になっている。単に、一単語の訳語を辞書から探すのでなく、全体を読み通したうえで、その場にふさわしい訳を考える必要がある。

「ここで俺の言うことは通るんだ」は<What I say here goes>。この<goes>だが、<anything goes>の「何でもあり、何をしても許される」を踏まえている。清水訳は「私がいうことはここでは通るんです」。田中訳は「このホテルでのことなら、なんでもぼくのおもうとおりになる」。ところが、村上訳は「言ったことは聞こえたよな」と訳し、それに続く部分を「ああ、しっかり聞こえたよ…でもただ聞こえたというだけだ」と訳している。

「君の押しが効くところに限ってのことだ…どこでもってわけじゃない」は<It goes as far as you can push it, …And that couldn't be very far>。清水訳は「通るといってもどこまで通るか限度がある…そんなに遠くまではとどかないよ」。田中訳は「きみのおさえ(傍点三字)がきいてるうちはな。しかし、それがいつまでつづくか……」。清水氏は距離と捉え、田中氏は時間と捉えている。<push>は「(人に)強いる」こと。主任風を吹かせているが、それは内輪でのことで、外部の者には通じない、と世故に長けた探偵が言って聞かせている場面なのだが、村上訳では威嚇に対して言い返しただけになる。

「もう長いこと、ホテルのボーイにどっぷりはまってる。もし口から出まかせを言わないボーイに出会ったのなら、それはそれで結構なことだ。が、口から出まかせを言わないボーイに出会えるなんてことはそうそうあることじゃない。そのくらいのことは承知してるだろう」は<I've been knee deep in hotel hops for a lot of years. If I've met one who wouldn't pull a gag, that's fine. But you can't expect me to expect to meet one that wouldn't pull a gag>。

knee deep in ~>は「~にどっぷりはまっている」。<gag>には「だじゃれ、冗談」の他に「ごまかし、ペテン、詐欺」(米俗)の意味がある。<pull a gag>は「人をかつぐ」の意味だ。清水訳は「永年、ホテルのボーイを相手にしている。一言(ひとこと)で話がわかるボーイなんてめったにぶつかったことがない。私にも同じ手が効くと思ったらまちがいだ」。田中訳は「ぼくは、ホテルのボーイとは長年のつき合いだ。そりや、はなしのわからんボーイだっているだろう。しかし、きみは、まさかそうじやあるまい?」。両氏とも、かなり原文を離れている。

村上訳は「もう長いあいだ、いやというほどホテルのボーイとやりあってきたんだ。君が芝居がかったことをしないタイプであれば、それはそれで結構なことだ。しかし、芝居がかったことをしないボーイに出会うなんて、滅多にないことでね。そう甘く見られちゃ困る」。どうやら村上氏は、レスの態度の豹変ぶりを「芝居がかったこと」と取っているようだ。最後の文を直訳すると「しかし、君は私が人をかつごうとしないボーイに会うことを、期待することはできない」となる。

要するに、マーロウは「ボーイとは長いつきあいだが、嘘をつかないボーイに出会ったことがない。用心深くなって当然だろう。君だってよく知ってるじゃないか」と言いたいのだ。つまり、君のことを疑って悪かった。機嫌を直してくれ、と言ってるわけだ。だからこの後、レスの態度は軟化している。それを「私にも同じ手が効くと思ったらまちがいだ」とか「そう甘く見られちゃ困る」と決めつけてしまっては、元も子もない。

いけ好かない赤毛のボーイ長が、ロビーにいるただ一人のボーイだった」は<The redheaded rat of a captain was the only hop in the lobby>。清水訳は「ロビーにいたのは赤い髪のベル・キャプテンだけだった」。田中訳は「ロビイには、赤毛のボーイ長しかいなかった」。両氏とも<rat>はスルーすることに決めたらしい。村上氏は「ベル・キャプテンである鼠に似た赤毛の男が、ロビーにいる唯一のボーイだった」と、あくまでも「鼠に似た」にこだわっている。

「家に着いたのは二時四十五分だった」は<I got home about two-forty-five>。清水訳は「私は二時四十五分ごろに家に着いた」。田中訳は「うちには二時四十五分についた」。ところが、村上訳(初版)では「帰宅したのは、二時四十分だった」になっている。こういうミスを見つけるのは校閲部の仕事じゃないのだろうか?