HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第十四章

<sit across the room from someone>は「向かい合って座る」とは限らない

【訳文】

 冷え冷えとした緑色の水底で腕に死体を抱いている夢を見た。死体の長い金髪が私の目の前を漂い続けている。目が飛び出し、体が膨れ、腐った鱗がぬらぬら光る巨大な魚が、老いた放蕩者のように流し目をくれながら周りを泳いでいる。息が続かず、胸が張り裂けそうになったちょうどその時、死体が息を吹き返し、腕の中から逃げて行った。私が魚と死闘を繰り広げるあいだ、死体は水の中で長い髪を紡ぐように何度も何度も回り続けていた。
 口いっぱいにシーツをくわえて目を覚ました。両手はベッドのヘッド・フレームをつかんで強く引っ張っていた。両手を離して下に降ろすと筋肉がずきずきした。起き上がって部屋の中を歩き、裸足の指に絨毯の感触を感じながら煙草に火をつけた。煙草を吸い終わるとベッドに戻った。
 次に目を覚ましたのは九時だった。日の光が顔にあたっていた。部屋は暑かった。シャワーを浴び、髭を剃り、シャツ姿で台所の食卓に行き、朝のトーストと卵、そしてコーヒーの支度をした。食事が終りかけた頃、ドアにノックの音がした。
 口いっぱいにトーストを頬張ったまま、ドアを開けに行った。地味なグレイのスーツを着た真面目そうな顔つきの痩せた男が立っていた。
 「フロイド・グリア、セントラル署刑事部、警部補だ」と言って部屋に入ってきた。
 彼が乾いた手を差し出し、我々は握手した。連中がよくやるように、椅子の端っこに腰を下ろし、手の中で帽子を回しながら、刑事特有の黙視でじっと私を見た。
ピューマ湖の事件について、サン・バーナディーノから電話があった。溺れた女の件だ。死体が発見された時、近くに居合わせたそうだな」
 私はうなずいて、言った。「コーヒーでもどうだい?」
「いや、けっこう。朝食は二時間前に済ませた」
 私は自分のコーヒーを取ってきて、彼から離れた場所に腰を下ろした。
「君を調べろと頼まれた」彼は言った。「君に関する情報を教えろというのさ」
「だろうね」
「そこで、そうした。我々の知る限りでは、君に疑わしい点はないようだ。死体が発見された時、君のような専門分野の人間が居合わせたのは、ちょっとした偶然だ」
「いつもそうなんだ」私は言った。「運がいいんだな」
「それで、ちょっと立ち寄って挨拶でも、と思ったんだ」
「それはどうも。お会いできて何よりだ、警部補」
「ちょっとした偶然」彼はそう繰り返して、うなずいた。「仕事であそこにいた、ということか?」
「そうだったとしても」私は言った。「私の仕事と溺れた女とは無関係だ。私の知る限りではね」
「でも確信はない?」
「事件が解決するまで、どんなつながりがあるか、警察だって確信は持てないだろう?」
「その通り」彼は内気なカウボーイみたいに帽子のつばを指で撫でまわした。だが、その目は内気そうではなかった。「確信がほしいんだ。この溺れた女性の事件に、君がいうところのつながりが見つかったら、我々に知らせてくれるかどうか」
「頼りになれるといいが」私は言った。
 彼は舌で下唇を膨らませた。「警察としては、確かな返事が聞きたい。今のところ、言う気はないということか?」
「今のところ、パットンが知っている以上のことは知らないね」
「誰のことだ?」
ピューマ・ポイントの町保安官だ」
 真面目そうな痩せた男は寛容に微笑んだ。指の関節をぽきぽき鳴らし、ひと呼吸置いて言った。「サン・バーナディーノの地方検事は君と話したがるだろう――検死審問の前に。だが、今すぐにじゃない。今、連中は指紋を採取しようとしている。うちの鑑識を貸してやったよ」
「それは難しいだろう。死体はかなり腐敗してた」
「いつもやってることだ」彼は言った。「年がら年中、水死体を引き上げていた頃のニューヨークで開発された技術でね。指の皮膚を一部切り取って、なめし革用の溶液で固めてスタンプを作る。たいていのところ、うまくいく」
「この女に前科があると考えてるのか?」
「おいおい、我々はいつだって死体の指紋を取る」彼は言った。「知ってると思ってたよ」
 私は言った。「女性のことは知らなかった。私が知っていて、それが山に行った理由だと考えているなら、それはないよ」
「しかし、君はなぜあそこにいたかを言おうとしない」彼は言い張った。
「つまり、私が嘘をついていると考えているわけだ」私は言った。 
 彼は骨張った人差し指で帽子を回した。「誤解してるよ、ミスタ・マーロウ。我々は何も考えやしない。我々がやることは捜査して見つけ出すことだ。これはありきたりの手続きだ。あんただって分かってるはずだ 。長いつきあいなんだから」彼は立ち上がり、帽子をかぶった。「街を離れなきゃならなくなったら、連絡してくれると助かる」
 そうする、と私は言って、一緒に扉口まで行った。彼はひょいと頭を下げ、悲しそうな半笑いを浮かべて出て行った。私は彼がぶらぶら廊下を歩いて行って、エレベーターのボタンを押すのを見ていた。
 コーヒーがまだ残っていないか、台所に引き返した。カップに三分の二ほど残っていた。クリームと砂糖を入れて、カップを手に電話のところまで行った。ダウンタウンの警察本部のダイアルを回して刑事部に繋いでもらい、フロイド・グリア警部補を呼び出した。
 声が言った。「グリア警部補はオフィスにおりません。誰か他の者では?」
「デソトはいるかい?」
「誰ですか?」
 私は名前を繰り返した。
「その方の階級と、部署は分かりますか?」
「私服なんとかだ」
「このままお待ちください」
 私は待った。しばらくすると、荒っぽい訛りの男の声が電話口に戻ってきて、こう言った。「なんの冗談だ?  デ・ソトなんて名前は名簿に載っていない。おたくは誰だ?」
 私は電話を切った。コーヒーを飲み終わり、ドレイス・キングズリーのオフィスの番号を回した。滑らかでクールな声のミス・フロムセットが、ちょうど今入ってきたところです、と言って、文句も言わずに電話をつないでくれた。
「さてと」彼は言った。一日の始まりにふさわしい大きく力強い声だ。「ホテルで何か分かったかね?」
「彼女は確かにホテルに行っています。そこでレイヴリーと会った。情報をくれたボーイが、訊いてもいないのに、自分からレイヴリーのことを持ち出してきたんです。二人は一緒に夕食をとり、タクシーで駅に向かったようです」
「そうか、彼が嘘をついていることに気づくべきだった」キングズリーはゆっくり言った。「エル・パソからの電報のことを話した時、驚いていたような気がしたんだが。こっちが気を回し過ぎただけのことだ。他には何か?」
「ホテルではそれくらいです。ただ今朝、お巡りがやって来て、お定まりの質問をして、勝手に街を出ないように警告していきました。私がなぜピューマ・ポイントに行ったのか、知りたかったようです。私は喋らなかったし、お巡りはジム・パットンの存在すら知らなかったので、パットンが誰にも話していないことも確かです」
「それについては、ジムはまずまず最善を尽くしてくれるだろう」キングズリーは言った。「昨夜、誰かの名前を尋ねたな、あれはどういうわけだ? ――ミルドレッドなんとかと言ったかな?」
 私はかいつまんで話した。ミュリエル・チェスの車と服がどこで見つかったかを話した。
「それはビルの印象を悪くする」彼は言った。「クーン湖のことは知ってる。だが、あの古い薪小屋を使うなんてことは思いも寄らなかった――古い薪小屋があったことさえな。印象を悪くするだけじゃない。計画的な犯行のように見える」
「それはどうかな。彼があのあたりをよく知っていたとすれば、隠し場所を探すのに時間はかからない。むしろ、距離の方が彼には限られていたはずです」
「そうかもしれない。で、これからどうするつもりだ?」彼は訊いた。
「もちろん、もう一度レイヴリーを叩いてみます」
 彼はそれがすべきことだと同意した。そして、つけ加えた。「このもう一つの件は悲劇そのものだが、実のところ我々とは何の関係もない。そうじゃないか?」
「あなたの奥さんがその件について、何かを知っていない限りは」
 彼は声を尖らせて言った。「いいかね、マーロウ。起きたことのすべてをひとつの密な結び目につなぎとめる君の探偵としての本能は分からないでもない。だが、本能の赴くままに動いてはいけない。人生はそんなものじゃない――私の知っている人生は、ということだ。チェス家のことは警察に任せておいて、君の頭はキングズリー家のことに使うんだ」
「オーケー」私は言った。
「高飛車に出るつもりはないんだ」彼は言った。
 私は心から笑って、さよならを言い、電話を切った。着替えを済ませ、地下に降り、クライスラーに乗り込み、再びベイ・シティーに向かった。

【解説】

「シャツ姿で台所の食卓に行き、朝のトーストと卵、そしてコーヒーの支度をした」は<partly dressed and made the morning toast and eggs and coffee in the dinette>。前の章で<He wore parts of a white linen suit>という文が出ていたが、今度は<partly dressed>だ。<dinette>は「小食堂、(台所の中・近くの)食事コーナー」のこと。「キチネット(簡易キッチン)」という言葉は知られているが、「ダイネット」は日本ではあまり知られていない。訳者の苦心のしどころだ。三氏はどう訳しているだろうか。

清水訳は「シャツ一枚でトーストとタマゴとコーヒーの朝食のしたく(傍点三字)をした」と<dinette>をスルーしている。田中訳は「服を半分きかけて、部屋にくつついた小さな台所で、トーストとタマゴ、そしてコーヒーの朝食の用意をした」。村上訳は「身体の一部に衣服をまとい、キッチンの隅のテーブルで、朝のトーストと卵料理とコーヒーをつくって食べた」。

<partly dressed>は「服の一部を身につけている」状態を意味することは誰にでも分かるが、それをどう訳すかとなると訳者の個性が出てくる。清水氏は「シャツ一枚」と訳している。様子が目に浮かぶのはいいのだが、下半身は下着のままか、ズボンは穿いているのか、
どうなのかが気になる。田中訳の「服を半分きかけて」は、動作が完了していないので、なんだか袖を通している最中のようにも読める。村上訳は相変わらず、硬い。それでいて「身体の一部」がどこを指すのかは皆目分からない。

<dinette>の方だが、田中訳の「部屋にくつついた小さな台所」では、朝食の用意をするにはぴったりだが、それではどこで食べたのか、という疑問が出てくる。村上訳だと「キッチンの隅のテーブルで、朝のトーストと卵料理とコーヒーをつくって食べた」ことになるが、まさか、テーブルで卵料理は作れない。ここは、「キッチンで朝のトーストと卵料理とコーヒーをつくって、隅のテーブルで食べた」としたいところ。

「フロイド・グリア、セントラル署刑事部、警部補だ」は<Floyd Greer, lieutenant, Central Detective Bureau>。清水訳は「中央刑事部のフロイド・グリア警部補です」。田中訳は「捜査課のフロイド・グリーア警部補だ」。村上訳は「フロイド・グリア、セントラル署刑事課の警部補だ」。<Central>というのは、ロサンゼルス市警察の四つある管区の一つ「セントラル管区」を指している。その管区の<Detective Bureau>(刑事部)という意味である。村上氏は「刑事課」と訳しているが、「刑事部」は六つの「課」に分かれている。グリア警部補が、どの課に属しているのかはここでは分からない。

「私は自分のコーヒーを取ってきて、彼から離れた場所に腰を下ろした」は<I got my coffee and sat down across the room from him>。清水訳は「私はコーヒーを持って、彼と向かい合って部屋の端に腰をおろした」。田中訳は「俺は、自分だけコーヒーをつぎ、部屋を横ぎって、グリーア警部補のまえに腰をおろした」。村上訳は「私は自分のコーヒーを持ってきて、彼と向き合うように、あいだを置いて腰を下ろした」。

<sit across the table from someone>は「テーブルに向かい合って座る」ことを意味する表現だが、<table>ではなく<restaurant / bar / room>を置くと、同じ空間にいながら離れて座ったことを意味する。空間が広くなり、間にテーブルを挟まないので、向きは特に指定されない。グリアはずっと帽子を手にしたままだし、マーロウもコーヒーを手に持ったままだ。つまり、それを置くテーブルがないのだ。だとすれば、二人は別に向かい合ってる必要はない。双方が離れた場所に置かれた椅子に腰かけているのか、同じソファの両端に座っているか、そこまでは分からないが。

「君を調べろと頼まれた」彼は言った。「君に関する情報を教えろというのさ」は<"They asked us to look you up," he said. "Give them a line on you.">。清水訳は<「あなたに会ってくれといってきたんです」と、彼はいった。「あなたについてわかることを知らせてくれと」>。<look up>には「調べる」の他に「訪問する、立ち寄る」の意味がある。その後のグリアの言葉から考えれば、清水訳のようにも取れる。

<give someone a line on>は「~に関する情報を(人)に与える、~について(人)に教える」という意味。田中訳は「サンバーナディオ(ママ)から、きみのことをたずねてきた。おしえてやっていいかね?」。警察が一探偵にそんなことで承諾を得る必要はない。これも、後のグリアの言葉に向けての伏線だろう。村上訳は<「それで、君のことを調べてほしいと依頼された」と彼は言った。「君についての情報を送ってくれと」>。

「年がら年中、水死体を引き上げていた頃のニューヨークで開発された技術でね」は<They worked out the system back in New York where they're all the time pulling in floaters>。清水訳は「水中から揚(あ)がる死体が多いニューヨークが開発した方法です」。田中訳は「しよつちゆう溺死体がかつぎこまれるニューヨーク警察で、水死体から指紋を検出するいい方法をかんがえだしてね」。村上訳は「ニューヨークでその手の技術が発達したんだ。あっちはなにしろ水死体が多いからね」。<back in>には「~の頃に、~の時に」という意味があるが、三氏の訳からはそれが響いてこない。

「私服なんとかだ」は<Plain clothes something or other>。清水訳は「ひら(傍点二字)の警官だと思うんだが」。田中訳は「刑事かなんからしいけど……」。村上訳は「私服で勤務しているとしかわからないが」。<something or other>は「(分からないもの・得体の知れないものを指して)何とかかんとか」という言い方。<plainclothes detective>で「私服刑事」という通り名になる。

「しばらくすると、荒っぽい訛りの男の声が電話口に戻ってきて、こう言った」は<The burring male voice came back after a while and said>。清水訳は「しばらくして、はっきりしない男の声が戻ってきた」。田中訳は「そのうち、カンカンになった男の声がきこえてきた」。村上訳は「しばらくあとで荒っぽい男の声が聞こえた」。<burr>は「rを振動させて(荒っぽく)話す、r音が特徴の荒い田舎訛り」のこと。電話口の男は、別に怒っているわけではない。英国北部地方の出身なのだろう。

「文句も言わずに電話をつないでくれた」は<put me through without a murmur>。清水訳は「すぐ電話をつないでくれた」。田中訳は「すぐつないでくれた」。村上訳は「ひとこともなく、そのまま電話はまわされた」。<without a murmur>は「一言の不平も言わずに、文句を言わずに」という意味のイディオム。第一章における塩対応とはちがって、今回のミス・フロムセットは愛想がいい。ところが、村上訳からは、それがあまり伝わってこない。もしかしたら、イディオムと取らずに<murmur>を「ささやき、かすかな人声」と解して訳したのかもしれない。

「印象を悪くするだけじゃない。計画的な犯行のように見える」は<It not only looks bad, it looks premeditated>。清水訳は「彼にとってうまくないだけでなく、最初からの計画だったと思われてもしかたがない」。田中訳は「これは、もちろんビルにとつて不利なだけでなく、計画的にやつたことのようにおもわれたら……」。

この<looks bad>は、少し前にある<That looks bad for Bill>(それはビルの印象を悪くする)を受けている。両氏の訳も当然そのようになっている。ところが、村上訳は「それは悪い思いつきじゃないし、むしろ前もって準備されていたことのようにも見える」となっている。<That looks bad for Bill>を「そいつはビルにとって具合の良くない話だ」と訳していながら、<It not only looks bad>を「それは悪い思いつきじゃない」と訳すのは、どう考えても無理がある。

 

『湖中の女』を訳す 第十三章(2)

<tight>も<mean>も、金がからむと、少々意味が下卑る

【訳文】

男はほとんど踊るように入ってきて、かすかに薄笑いを浮かべながら私を見て立っていた。
「飲むかい?」
「ああ」彼は冷ややかに言った。自分でたっぷりとウィスキーを注ぎ、ちょっぴりジンジャーエールを垂らし、ひと息にごくりと飲んで、すべすべした小さな唇に煙草をくわえ、ポケットから取り出しざまにパチンと鳴らしてマッチに火をつけた。そして煙を吐き出しながら私を見続けた。直に見ないで、目の端でベッドの上の金をとらえていた。シャツのポケットの上に、番号の代わりに<キャプテン>という語が縫いつけてある。
「君がレスか?」私は尋ねた。
「そうじゃない」男はいったん言葉を切り、こう付け加えた。「ここで探偵にうろうろされたくないだけだ。自前の探偵も置いていない。ましてや、よその誰かに雇われた探偵なんぞに煩わされたくない」
「ご苦労さん」私は言った。「もう用済みだ」
「なんだと?」気に障ったのか小さな口がよじれた。
「消えな」私は言った。
「俺に会いたいんだとばかり思っていたんだが」男は冷笑を浮かべた。
「君はボーイ長だろう?」
「あたりだ」
「君に一杯おごって、一ドル進呈したかったのさ。ほら」私は一ドル札を差し出した。「来てくれてありがとう」
 彼は礼も言わずに一ドル札を受け取って、ポケットに入れた。鼻から煙をたなびかせ、けち臭い、さもしい目をして、ぐずぐずしていた。
「ここで俺の言うことは通るんだ」彼は言った。
「君の押しが効くところに限ってのことだ」私は言った。「どこでもってわけじゃない。一杯飲んだし、かすりもとった。もう出て行っていい頃合いだ」
 彼はひょいと肩をすくめて身を翻し、音もなくするりと部屋を出て行った。
 四分後、またノックの音がした。とても軽い音だ。長身のボーイがにこにこしながら入ってきた。私は逃げるようにして、もう一度ベッドに腰を下ろした。
「レスのことがお気に召さなかったようですね?」
「たいしてね。あれで満足してたか?」
「そう思います。あなたはキャプテンってものをよくご存じだ。連中は上前をはねずにいられない。わたしのことはレスと呼んでもらう方がいいかもしれない。ミスタ・マーロウ」
「彼女をチェックアウトしたのは君だったのか?」
「いや、あんなのは出まかせだ。あのひとはチェックインすらしちゃいない。でも、パッカードのことなら覚えてる。車を片づけて汽車の時間まで荷物を預かるのに一ドルくれたのでね。ここでは夕食をとっただけです。この街で一ドル振る舞えば記憶に残る。それに、車が長い間置きっぱなしになってるという話もある」
「見かけはどんなだった?」
「黒と白の一揃いで、主に白だった。それに黒と白のバンドのついたパナマ帽。あんたの言った通り、小ざっぱりした金髪のレディだった。時間が来て、駅まではタクシーだ。荷物を積むのを手伝ったよ。荷物にはイニシャルがついてたけど、悪いな、文字は覚えてない」
「覚えてなくてよかったよ」私は言った。「もし覚えていたら出来過ぎというもんだ。一杯飲れよ。で、何歳くらいに見えた?」
 彼はもう一つのグラスをすすぎ、ウィスキーとジンジャーエールを品良く混ぜた。
「近頃は女性の歳をあてるのはなかなか難しい。三十歳をちょい出てるか、少し手前か、というところ」
 上着からクリスタルとレイヴリーが海辺で撮ったスナップショットを取り出して渡した。
 彼は写真をじっと見つめ、目から離したり、近づけたりした。
「法廷で証言するわけじゃないぜ」私は言った。
 彼はうなずいた。「そいつは願い下げだ。こういう小柄な金髪は、どれも似たり寄ったりで、服や照明、メイクを変えると、みんな同じに見えるか、全く違って見えるかのどちらかだ」彼はスナップ写真を見つめながら、ためらっていた。
「何が気になるんだ?」私は尋ねた。
「この写真に写ってる男のことを考えてたんだ。この男も一枚噛んでるのか?」
「続けてくれ」私は言った。
「ロビーで彼女に話しかけ、夕食を一緒にした男じゃないかな。長身のハンサムで、すばしこいライト・ヘビー級の体つきだ。タクシーに一緒に乗ってった」
「間違いないんだな?」
 彼はベッドの上の金を見た。
「オーケー、いくらほしいんだ?」私は訊いた。少々うんざりしていた。
 彼はからだをこわばらせた。写真を下におろし、ポケットから二枚の畳んだドル紙幣を引っ張り出してベッドに放り投げた。
「酒をごちそうさま」彼は言った。「あんたの好きにすればいい」彼は扉口に歩きかけた。
「座れよ。そんなにカリカリするもんじゃない」私はどなった。
 彼は腰を下ろし、厳しい目をして私を見た。
「それと、つまらない南部人気取りはよすことだ」私は言った。「もう長いこと、ホテルのボーイにどっぷりはまってる。もし口から出まかせを言わないボーイに出会ったのなら、それはそれで結構なことだ。が、口から出まかせを言わないボーイに出会えるなんてことはそうそうあることじゃない。そのくらいのことは承知してるだろう」
 彼はゆっくり時間をかけて相好を崩し、それから素早くうなずいた。もう一度手に取った写真越しに私を見た。
「男の方がしっかり写ってる」彼は言った。「あのひとよりずっと。だけど、この男を覚えているのは、もう一つ訳があるんだ。ロビーで近づいてくる男のあけすけな態度が、あのひとは気に入らないみたいだった」
 私はそれについて考えてみたが、たいした意味はないと判断した。時間に遅れたか、以前に約束をすっぽかすかしたんだろう。私は言った。
「何か理由があるのさ。それより、女が身につけていた装身具に何か気がつかなかったか? 指輪、イヤリング、その他、人目を引く、高そうなものだ」
 彼は、気がつかなかった、と言った。
「髪はロングか、ショートか、ストレートか、ウェイブがかかっていたか、それともカールしてたか、ナチュラル・ブロンドか、脱色してたか?」
 彼は笑った。「最後のは返事に困るよ、ミスタ・マーロウ。ナチュラル・ブロンドの女でも、もっと薄くしたがるからね。残りについては、どちらかと言えばロングで、今風に毛先を少し内巻きにカールして、全体としてはストレートだったような気がする。もちろん、まちがってるかもしれない」彼はまたスナップ写真を見た。「この写真では後ろで束ねてる。何とも言えないな」
「その通り」私は言った。「質問した理由はただ一つ。君が頑張りすぎていないか確かめるためだ。細かいところまで見ているのは何も見ていないのと同じくらい信頼性の低い証人だ。そいつはいつも半分くらいは作り話をしてるのさ。状況を考えれば、君のチェックはおおむね正しい。どうもありがとう」
 私はもとの二ドルを返し、それに五ドル上乗せした。彼は礼を言って、グラスの残りを空け、静かに出て行った。私は自分のぶんを飲み、もう一度体を洗い、こんな穴倉で寝るより、運転して家に帰ろうと決めた。再びシャツと上着を着て、バッグを手に階段を下りた。
 いけ好かない赤毛のボーイ長が、ロビーにいるただ一人のボーイだった。バッグをぶら下げて受付の机まで行く間、私の手からバッグを取る気はなさそうだった。インテリぶった受付は私を見ようともせず、二ドル抜き取った。
「こんなマンホールの中で夜を過ごすのに、二ドルもとるのか」私は言った。「ただで寝られる風通しのいいごみ入れが、通りにいくらでも転がっているのに」
 受付の男は欠伸をし、遅ればせながら、明るく言った。「午前三時頃になると、ここはぐっと涼しくなります。それから八時か、時には九時までは、とても過ごしやすいですよ」
 私は首の後ろを拭って、よろよろと車に向かった。真夜中だというのに、車のシートまで火照っていた。
 家に着いたのは二時四十五分だった。ハリウッドは冷蔵庫だった。パサデナでさえ涼しく感じられた。

【解説】

「鼻から煙をたなびかせ、けち臭い、さもしい目をして、ぐずぐずしていた」は<He hung there, smoke trailing from his nose, his eyes tight and mean>。清水訳は「鼻から煙を吐き、目を険(けわ)しくして、つっ立っていた」。田中訳は「鼻からタバコの煙をはきだし、いじわるそうに目をひからせて、まだグズグズしていた」。村上訳は「鼻の穴から煙を出し、そのままそこにじっとしていた。彼の目つきは硬く狭量だった」。

<tight>も<mean>も、「金に細かい、金に汚い」ことをいう時に使われることのある形容詞。それが対句で使われているので、ここは文脈的にそういう意味で使われていると考えた方がいい。本物のレスとの話の中で、ボーイ長の金に汚いことが後で話題になっている。単に、一単語の訳語を辞書から探すのでなく、全体を読み通したうえで、その場にふさわしい訳を考える必要がある。

「ここで俺の言うことは通るんだ」は<What I say here goes>。この<goes>だが、<anything goes>の「何でもあり、何をしても許される」を踏まえている。清水訳は「私がいうことはここでは通るんです」。田中訳は「このホテルでのことなら、なんでもぼくのおもうとおりになる」。ところが、村上訳は「言ったことは聞こえたよな」と訳し、それに続く部分を「ああ、しっかり聞こえたよ…でもただ聞こえたというだけだ」と訳している。

「君の押しが効くところに限ってのことだ…どこでもってわけじゃない」は<It goes as far as you can push it, …And that couldn't be very far>。清水訳は「通るといってもどこまで通るか限度がある…そんなに遠くまではとどかないよ」。田中訳は「きみのおさえ(傍点三字)がきいてるうちはな。しかし、それがいつまでつづくか……」。清水氏は距離と捉え、田中氏は時間と捉えている。<push>は「(人に)強いる」こと。主任風を吹かせているが、それは内輪でのことで、外部の者には通じない、と世故に長けた探偵が言って聞かせている場面なのだが、村上訳では威嚇に対して言い返しただけになる。

「もう長いこと、ホテルのボーイにどっぷりはまってる。もし口から出まかせを言わないボーイに出会ったのなら、それはそれで結構なことだ。が、口から出まかせを言わないボーイに出会えるなんてことはそうそうあることじゃない。そのくらいのことは承知してるだろう」は<I've been knee deep in hotel hops for a lot of years. If I've met one who wouldn't pull a gag, that's fine. But you can't expect me to expect to meet one that wouldn't pull a gag>。

knee deep in ~>は「~にどっぷりはまっている」。<gag>には「だじゃれ、冗談」の他に「ごまかし、ペテン、詐欺」(米俗)の意味がある。<pull a gag>は「人をかつぐ」の意味だ。清水訳は「永年、ホテルのボーイを相手にしている。一言(ひとこと)で話がわかるボーイなんてめったにぶつかったことがない。私にも同じ手が効くと思ったらまちがいだ」。田中訳は「ぼくは、ホテルのボーイとは長年のつき合いだ。そりや、はなしのわからんボーイだっているだろう。しかし、きみは、まさかそうじやあるまい?」。両氏とも、かなり原文を離れている。

村上訳は「もう長いあいだ、いやというほどホテルのボーイとやりあってきたんだ。君が芝居がかったことをしないタイプであれば、それはそれで結構なことだ。しかし、芝居がかったことをしないボーイに出会うなんて、滅多にないことでね。そう甘く見られちゃ困る」。どうやら村上氏は、レスの態度の豹変ぶりを「芝居がかったこと」と取っているようだ。最後の文を直訳すると「しかし、君は私が人をかつごうとしないボーイに会うことを、期待することはできない」となる。

要するに、マーロウは「ボーイとは長いつきあいだが、嘘をつかないボーイに出会ったことがない。用心深くなって当然だろう。君だってよく知ってるじゃないか」と言いたいのだ。つまり、君のことを疑って悪かった。機嫌を直してくれ、と言ってるわけだ。だからこの後、レスの態度は軟化している。それを「私にも同じ手が効くと思ったらまちがいだ」とか「そう甘く見られちゃ困る」と決めつけてしまっては、元も子もない。

いけ好かない赤毛のボーイ長が、ロビーにいるただ一人のボーイだった」は<The redheaded rat of a captain was the only hop in the lobby>。清水訳は「ロビーにいたのは赤い髪のベル・キャプテンだけだった」。田中訳は「ロビイには、赤毛のボーイ長しかいなかった」。両氏とも<rat>はスルーすることに決めたらしい。村上氏は「ベル・キャプテンである鼠に似た赤毛の男が、ロビーにいる唯一のボーイだった」と、あくまでも「鼠に似た」にこだわっている。

「家に着いたのは二時四十五分だった」は<I got home about two-forty-five>。清水訳は「私は二時四十五分ごろに家に着いた」。田中訳は「うちには二時四十五分についた」。ところが、村上訳(初版)では「帰宅したのは、二時四十分だった」になっている。こういうミスを見つけるのは校閲部の仕事じゃないのだろうか?

『湖中の女』を訳す 第十三章(1)

<drink of water>は「飲料水」ではなく「長身で痩せた男」

【訳文】

 十一時頃、平地に降りてきて、サン・バーナーディーノのプレスコットホテルの脇にある斜めに区切られた駐車場の一つに車を停めた。トランクからオーバーナイトバッグを取り出し、三歩ほど歩いたところで、金モール編みの側章のついたズボンに白いシャツと黒いボウタイを身につけたベルボーイが、私の手からバッグをもぎとった。
 夜勤のフロントはインテリぶった男で、私にも他のことにも一切興味を示さなかった。白い麻のスーツを半端に着て、あくびをしながら私に机に備え付けのペンを渡し、まるで子どもの頃を思い出しているかのような遠い目をした。
 ボーイと私は狭苦しいエレベーターに乗って二階に上がり、いくつか角を曲がって二ブロックほど歩いた。歩くごとに暑さが増した。ボーイが鍵を開けて案内したのは、通気孔に面した窓が一つある、子ども用サイズの部屋だった。天井の隅にある空調の吹き出し口は女物のハンカチサイズで、結えられたリボンがひとひら、稼動中であることを示すためだけに力なく揺れていた。
 ボーイは背が高くやせていて、顔色は黄みを帯び、若くなく、鶏肉のゼリー寄せに入った薄切り肉のようにクールだった。顔の中でガムをあちこち転がし、私のバッグを椅子の上に置き、吹き出し口の格子を見上げ、立ったまま私を見た。長身痩躯の男の眼の色をしていた。
「もっと高い部屋を頼むべきだったのかもしれない」私は言った。「これはちょっと体にぴったりし過ぎだ」
「部屋が取れただけめっけもんですよ。この街は、はちきれそうに膨れ上がってるんでさ」
ジンジャーエールと氷、それにグラスを二人分持ってきてくれ」
「二人分?」
「君がいけるクチなら、ということさ」
「時間も遅いことだし、お相伴に預かりましょう」
 彼は出て行った。私は上着を脱ぎ、ネクタイをとり、シャツとアンダーシャツを脱いで、開けっ放しのドアから入ってくる生温かい風の中を歩き回った。風には灼けた鉄の匂いがした。横向きで浴室に入り――そういう浴室だった――生ぬるい冷水を頭からかぶった。さっきより楽に息ができるようになったころ、だるそうな長身のボーイがトレイを提げて現われた。彼がドアを閉め、私はライ・ウィスキーのボトルをとり出した。彼はウィスキーをジンジャーエールで割ったものを二杯つくり、我々はお定まりの作り笑いを浮かべて飲んだ。首の後ろからふきだした汗が背筋をたどり、 グラスを置いたときには靴下までの道半ばに達していた。それでも気分はよくなっていた。ベッドに腰を下ろしてボーイを見た。
「どれくらいならいられるんだ?」
「何をするんですか?」
「思い出してほしいんだ」
「私じゃお役に立てそうもないですね」彼は言った。
「金があるんだ」私は言った。「自分なりに使える」
 背中の下から財布を出してくたびれたドル札をベッドに広げた。
「失礼ですが」ベルボーイは言った。「もしかして刑事さんで?」
「ばかを言え」私は言った。「どこの世界に自分の紙幣(かね)でソリティアをする刑事がいる。調査員ってところだ」
「話に乗りましょう」彼は言った。「酒が思い出させてくれそうだ」
 私は彼に一ドル札をやった。「これで思い出してみてくれ。それと、君のことだが、ヒューストンから来たビッグ・テックスと呼ぼうか?」
「アマリロです」彼は言った。「どっちだって変りはないですが。私のテキサス訛りはお気に召しましたか? 自分じゃうんざりしてるんですが、皆さんお気に入りのようで」
「そのままでいいよ」私は言った。「まだ一ドルも損していない」
 彼はにやりと笑って折り畳んだ一ドル札をズボンのウォッチ・ポケットにきちんとしまい込んだ。
「六月十二日の金曜日には何をしていた?」私は彼に訊いた。「夕方から夜にかけて、金曜日だ」
 彼はちびりちびり飲りながら考えた。グラスの氷をゆっくり揺すり、ガム越しに酒をすすった。「ここにいましたよ。六時から十二時までのシフトで」彼は言った。
「スリムで、きれいな金髪の女がチェックインして、夜行のエルパソ行きが出るまでここにいたはずだ。女は翌朝エルパソにいたから、その列車に乗ったに違いない。ビヴァリーヒルズ、カーソン・ドライブ965番地、クリスタル・グレイス・キングズリー名義のパッカード・クリッパーに乗って来た。宿帳にその名前を書いたかもしれないし、別の名前を書いたかもしれない。もしかしたら、全く記録が残っていないかもしれない。車はまだここのガレージにある。女のチェックイン、チェックアウトに立ち会ったボーイと話したい。もう一ドル稼げるぞ——考えるだけで」
 並んだドル札の列から、もう一枚を引き離すと、それは毛虫が喧嘩しているような音とともに彼のポケットの中に入った。
「できますよ」彼は穏やかに言った。
 彼はグラスを下に置き、部屋を出てドアを閉めた。私はグラスを空けて、もう一杯注いだ。浴室に入り、上半身にぬるい温水を浴び直した。そうこうしているうちに、壁にかかっていた電話が鳴ったので、浴室のドアとベッドの間のわずかなスペースに身を寄せて電話に出た。
 テキサス訛りの声が言った。「ひとりはソニーで、先週入隊しました。チェックアウトの方はレスってボーイで、今ここにいます」
「分かった。ここに来させてくれ」
 二杯目の酒を飲み、三杯目のことを考えていると、ノックの音がした。ドアを開けると、女の子みたいな口をきゅっと結び、嫉妬深そうでいけ好かない小男がいた。

【解説】

「金モール編みの側章のついたズボン」は<braided pants>。清水訳は「飾りのついたズボン」。田中訳は「派手なすじ(傍点二字)がはいつた制服のズボン」。.稲葉訳は「モールズボン」。村上訳は「組紐のついたズボン」。<braid>は「組紐、モール刺しゅう」のことで、軍服の肩章などに見られる金モールを編んだ飾りをズボンの横に張りつけた、礼装でいうところの側章のことだ。どこのホテルでも、ベルボーイというのは、ど派手な格好をしているものだ。

「夜勤のフロントはインテリぶった男で、私にも他のことにも一切興味を示さなかった」は<The clerk on duty was an eggheaded man with no interest in me or in anything else>。この<an eggheaded man>だが、清水訳では「タマゴ型の頭の男」、田中訳は「卵みたいなツル禿げの男」、村上訳は「男は卵型の頭をしていて」となっている。稲葉訳は「インテリぶった男」。辞書にも「(頭でっかちの)知識人、インテリぶる人」が先に来ている。三氏がどうして、卵型に固執したのかよく分からない。

「白い麻のスーツを半端に着て」は<He wore parts of a white linen suit>。清水訳は「白い麻の服を着ていて」と<parts of>をスルーしている。田中訳は「白麻のシャツをだらしなく着た」になっているが、これは<suit>を<shirt>と見誤ったものと思われる。村上訳は「彼は白いリネンのスーツを部分的に身につけ」。その通りなのだが、「部分的に身につけ」というのはいかにも生硬だ。暑いので、三つ揃いのスーツの上着を脱いでいたのだろう。しかし原文にそう書いてあるわけではないので、村上氏もこのように訳すしかなかった。稲葉訳ではこの部分はカットされている。

「まるで子どもの頃を思い出しているかのような遠い目をした」は<looked off into the distance as if remembering his childhood>。清水訳は「幼いころを思い出しているように遠くに視線を送っていた」。田中訳は「子供の時のことでもおもいだしてるように、あさつて(傍点四字)のほうに目をやつた」。村上訳は「幼年時代を回想するような目つきで、じっと遠くを見ていた」。心ここにあらずといった風情だが、いかにもこんな仕事はつまらないと感じている、頭でっかちの仕種のようではないか。

「ボーイと私は狭苦しいエレベーターに乗って二階に上がり」は<The hop and I rode a four by four elevator to the second floor>。清水訳は「ベルボーイと私はエレベーターで二階に昇り」。田中訳は「ボーイとおれとは、せまつくるしいエレベーターで二階にあがり」。村上訳は「ボーイと私は狭苦しいエレベーターで二階まで上がり」。稲葉訳は「ボーイと私は、縦横四フィートのエレベーターで二階へのぼり」。一フィートは約三十センチだから恐ろしく狭いエレベーターだ。<two by four>には「二フィート×四フィートの大きさの」の他に「小さな、取るに足りない、つまらない」という意味がある。エレベーターが真四角だったので<four by four>にしたのだろう。

「顔の中でガムをあちこち転がし」は<He moved his gum around in his face>。清水訳は「歯ぐき(傍点二字)をもぐもぐさせながら」。村上訳も「彼は顔の奥で歯茎をもそもそと動かし」と<gum>を歯茎と取っている。それに対して、田中訳は「ガムを口のなかじゆうころがしながら」。稲葉訳も「顔じゅうを口にしてガムを噛みまわしながら」。<gum>に「歯茎」の意味はあるが、その場合、普通は上顎と下顎があるので複数形になる。まさか、下顎だけをぐるぐる回したわけでもあるまい。

「長身痩躯の男の眼の色をしていた」は<He had eyes the color of a drink of water>。清水訳は「一滴の水のような色の目だった」。田中訳は「その眼は水のようなうすい色だつた」。稲葉訳は「飲料水みたいな眼の色だった」。村上訳は「その目は水みたいに無色だった」。無色の目というものがあるだろうか。目の色は実質層に含まれるメラニンの有無で異なるが、青い目の人はメラニンを待っていない。青く見えるのは空が青いのと同じで、上皮で起きる散乱反射のせいだ。

ところで<drink of water>だが、これは飲料水のことではない。映画『ショーシャンクの空に』の中でレッドがアンディのことを<A tall drink of water with a silver spoon up his ass>と評するシーンがある。本来は<up his ass>ではなく<in his mouth>だが、銀の匙をくわえて、つまり裕福な育ちをしてきた背の高い痩せた男という意味になる。確かに、アンディを演じるティム・ロビンスは身長195cm、と背が高い。<drink of water>は「長身で痩せた男」を指す俗語である。

ジンジャーエールと氷、それにグラスを二人分持ってきてくれ」は<Bring us up some ginger ale and glasses and ice>。誰が訳しても同じになる文だが、村上訳は「ジンジャー・エールと氷を二人分持ってきてくれないか」と「グラス」を落としている。神経質なくらい原文に忠実であろうとする村上氏にしては珍しいことだ。

「彼はちびりちびり飲りながら考えた。グラスの氷をゆっくり揺すり、ガム越しに酒をすすった」は<He sipped his drink and thought, shaking the ice around gently and drinking past his gum>。清水訳は「彼はグラスをひと(ひと)口すすり、氷をゆっくり回転させ、ウィスキーを咽喉(のど)にとおらせながら考えた」とここでは<past his gum>をスルーしている。

田中訳は「ボーイはハイボールをちよつぴりすすり、グラスをふつてしずかに氷の音をさせながら、ガムをのみこまないように、酒を喉の奥にながしこんだ」と大事な<thought>を落としている。村上訳は「彼は酒を一口すすり、考えた。グラスの氷を静かに揺らせ、歯茎の奥に酒を送り込んだ」と、最後まで「歯茎」にこだわっている。稲葉訳は「彼は、氷片をごくゆっくりと揺すり、すすった酒をガムを素通りさせて嚥(の)みくだしたりして、考えていた。

<He sipped his drink and thought>は、酒を飲むことと考えるのがセットになっている。それに続く<shaking the ice around gently and drinking past his gum>は、それを詳しく説明する対句表現になっている。つまり、時間をかけてゆっくり酒を飲みながら思い出そうとしているわけだ。なので「一口すすり」や「ちょっぴりすすり」では、間がもたない。<sip>は「~を少しずつ飲む」「ちびちび飲む」という意味。ボーイは自分の行動に値打ちを持たせているのだろう。稲葉訳はそのあたりの意を尽くした訳だと思う。

「並んだドル札の列から、もう一枚を引き離すと、それは毛虫が喧嘩しているような音とともに彼のポケットの中に入った」は<I separated another dollar from my exhibit and it went into his pocket with a sound like caterpillars fighting>。清水訳は「私はならべた一ドル紙幣からもう一枚とり上げた。紙幣(さつ)は毛虫が喧嘩しているような音を立てて彼のポケットにおさまった」。

田中訳は「おれは、ベッドの上に並べた札のなかから一ドルとって、ボーイにわたした。ボーイは、まるで毛虫がけんかをしているような音をたて、その札をポケットにしまった」。村上訳は「私は並べた札の中から一ドル札をもう一枚取り上げた。それは毛虫たちが争っているような音と共に彼のポケットに収まった」。問題は誰の手が札を取り上げたか、だ。稲葉訳は「私は見せ金のうちから一ドル札をぬき、それだけ別にしてベッドの上においた(後半はカットしている)」。

<separate>には「取り上げる」の意味はない。単に「分ける、離す、区切る」という意味だ。マーロウは並んだ札から離して、札を一枚ベッドの上に置いた。それを取るかどうかはボーイ次第という仕種だ。ボーイは了承して自分の手でそれを取ってポケットに入れた。だから、マーロウは主語を<it>として、まるで札が意志あるもののように、彼のポケットに入って行ったような書き方をしているのだ。

「ドアを開けると、女の子みたいな口をきゅっと結び、嫉妬深そうでいけ好かない小男がいた」は<I opened the door to a small, green-eyed rat with a tight, girlish mouth>。清水訳は「ドアをあけると、からだのひきしまった、女の子のような口をした青い目の小さな男が立っていた」。田中訳は「あけると、女の子みたいな唇をかたくむすんだ、みどり色がかつた目の、小柄な男がドアの外に立つていた」。村上訳は「ドアを開けると、緑色の目の、鼠を思わせる小男がそこにいた。きゅっとしまった小さな唇はまるで娘の唇のようだ」。

<green-eyed >は「緑色の目」という意味の他に「嫉妬深い、ひがんだ見方をする」という意味がある。また、<rat>は「クマネズミ」のことだが、「気に食わないやつ、嫌なやつ、裏切り者」等々を意味する、道義にもとることをする変節漢の蔑称でもある。初めてあった男のことをこうまでひどく表現していることに驚くかもしれない。しかし、男の正体はすぐに分かることになる。マーロウの人を見抜く力を表すために、わざと誇張した表現にしているのだ。

アメリカの小説を読んでいると髪の色や眼の色について詳しく書かれていることに気づく。日本と違い、多民族が住む国なのでそうなるのだろう。<green-eyed>は単に目の色を指しているともとれるが、次に<rat>が来ると一ひねりした表現であることに気づかざるを得ない。日本にも「頭の黒い鼠」という言い方があるように、人間の身近にいるイエネズミは、素行の良くない人間に喩えられることが多い。「緑色の目をした鼠」と訳して、括弧内に小さいフォントで註をつけるのが一番いい方法だと思う。

『湖中の女』を訳す 第十二章(2)

<ponderous>は「大きくて重い、動作がのっそりしている」

【訳文】

 オフィスにたどり着いたら パットンは電話中で、ドアには錠が下りていた。話しが済むまで待たなければならなかった。しばらくすると電話を切り、錠を開けてくれた。
 私は彼の脇を通り過ぎて中に入り、ティッシュペーパーの包みをカウンターの上に置いて開いた。
「粉砂糖の探り方が足りなかったな」私は言った。
 彼は小さな金のハートを見て、私を見、カウンターの後ろにある机の上から安っぽい拡大鏡をとった。そしてハートの裏を調べた。拡大鏡を下ろして私に眉をひそめた。
「もしあんたがあの小屋を調べたくて、そうするつもりだと分かってたら」彼はぶっきらぼうに言った。「あまり手を焼かせるもんじゃない、だろう、若いの?」
「両端の切り口がぴたりと合わないことに気づくべきだったんだ」私は彼に言った。
 彼は悲しげに私を見た。「若いの、私はあんたの目を持っていない」彼はごつい不器用そうな指で小さなハートをいじくった。じっと私を見つめ、何も言わなかった。
 私は言った。「アンクレットのことでビルが焼きもちを焼いただろうと考えているのなら、私もそうだ――もし彼が見ていたとすればだが。賭けてもいい。彼はそれを見ていないし、ミルドレッド・ハヴィランドの名を聞いたこともなかった」
 パットンはゆっくり言った。「どうやら、デソトとやらに謝らなきゃならんようだな?」
「もし見かけたらな」私は言った。
 彼はまたうつろな目で長いあいだ私を見つめ、私はまっすぐ見返した。「あててみようか、若いの」彼は言った。「察するに、何か新しい考えを思いついたんだろう」
 「ああ、ビルは妻を殺していない」
 「殺していない?」
 「殺していない。あの女は過去に相手した誰かに殺されたんだ。そいつは女の行方を見失い、やっと探し出した時には、別の男と結婚していたことが気に入らなかった。この辺りのことをよく知っていて――ここに住んでいなくったってこの辺のことを知っている者はわんさといる――車と服のうまい隠し場所を知っている誰かだ。そいつは女を憎んでいたが、それをうまく隠しおおせた。自分と一緒に駆け落ちするよう女を説得し、すべて準備が整ってメモを書き終えたら、喉に手を回し、当然の報いと考えるものを女に与え、遺体を湖に沈め、さっさと立ち去った。気に入ったか?」
 「やれやれ」彼は考え深げに言った。「事態を複雑にするとは思わないのか? しかし、ありえない話じゃない。確かにその可能性はある」
 「これに飽きたら、言ってくれ。また何か思いつくから」私は言った。
 「あんたなら、きっとそうするだろうさ」彼は言った。そして出会って初めて笑った。
 私はお休みを言って外に出た。切り株を掘り起こす入植者のように、のっそりした構えで考えをいじくり回している彼をそこに残して。

【解説】

「もしあんたがあの小屋を調べたくて、そうするつもりだと分かってたら」は<Might have known if you wanted to search that cabin, you was going to do it>。清水訳は「お前さんがキャビンを捜索したかったのがわかってればな」。田中訳は「どっちみち、あんたはチェスの小屋のなかをさがしまわるだろう、と気がついてりやよかつた」。村上訳は「もしあんたがあのキャビンの中をもっと調べたいとわかっていたら、そうさせてやったのに」。

<might have 過去分詞>は「~だったかもしれない」という意味だが、相手に対する非難が込められていることがある。もし、マーロウが小屋を捜索したくて、そうするつもりだ、とパットンが気づいていたら、村上訳のように「そうさせてやった」のだろうか? パットン自身、民間人に過ぎないマーロウに小屋を調べさせることが妥当かどうか自分にはわからないとすでに語っている。ただし、あの場でパットンにもう少し調べてみることを提案することはできたろう。「勝手なことをしよって」という老保安官の口吻がそこにある。

「あまり手を焼かせるもんじゃない、だろう、若いの?」は<I ain't going to have trouble with you, am I, son?>。清水訳は「私はお前さんといざこざを起こしたくないよ」。田中訳は「わしは、じゃまかね、え、あんちゃん?」。これは名訳だと思う。村上訳は「あんたとは友好的にやっていきたいんだよ、なあ、お若いの」。<have trouble with ~>は「~に苦労する、~にてこずる、~に手を焼く」と「~といざこざになる、~ともめる」の意味がある。警察と探偵の間では、力関係は互角ではない。後者の意味にはならないだろう。

「切り株を掘り起こす入植者のように、のっそりした構えで考えをいじくり回している彼をそこに残して」は<leaving him there moving his mind around with the ponderous energy of a homesteader digging up a stump>。清水訳は「開拓移民が切り株を掘り起こしているときのように腰を据えて考えこんでいる彼を残して」。田中訳は「入植者が、木の根つこを掘りおこすような、たいへんな努力で、頭をひねってチエをしぼりだそうとしているパットンをのこして」。村上訳は「彼をあとに残して外に出た。彼はそこで一人、木の切り株を掘り起こす西部の開拓者のような飽くなき辛抱強さをもって、考えをあれこれいじり回していた」。

パットンが考え事をする様子を、切り株を掘り起こそうとする人に喩えた箇所である。<ponderous>は「大きくて重い」、「(動作が)のっそりしている」という意味だが、「重くて扱いにくい」、「(文体。話し方などが)重苦しい、退屈な、(論文などが)冗長な」という否定的なニュアンスのある形容詞。次から次と新しい考えをひねり出すマーロウに比べ、ゆっくりとものを考えるくせのあるパットンの悠長な態度を評したものだ。この話はマーロウの視点で語られている。そう考えると「腰を据えて」はまだいいとして、「たいへんな努力で」や「飽くなき辛抱強さをもって」は少々褒め過ぎに思える。それとも、マーロウ一流の皮肉だろうか。

『湖中の女』を訳す 第十二章(1)

<tissue paper>は「薄葉紙」。「ティッシュペーパー」ではない。

【訳文】

ゲートから三百ヤードほどのところで、去年の秋に落ちたオークの枯れ葉に覆われた細い小径が、大きな花崗岩の丸石の周りを回って消えていた。その道をたどって、露頭の石に沿って五十フィートか六十フィート、がたごと揺れながら走り、一本の木の周りを回って、もと来た方向に車の向きを変えた。ライトを消し、エンジンを切って、座って待った。
 半時間が過ぎた。煙草抜きでは長く感じられた。やがて、遠くでエンジンのかかる音がして、それが次第に大きくなり、ヘッドライトの白い光線が下の道を通り過ぎた。車の音が遠くに消えた後も、微かに乾いた土埃のぴりっとした匂いがしばらく漂っていた。
 車を降りてゲートまで歩いて戻り、チェスの小屋に行った。今度は強く押しただけでバネのついた窓は開いた。私はまたよじ登り、床に降りて、持ってきた懐中電灯を部屋の向こうの卓上スタンドに向けた。スタンドのスイッチをつけ、しばらく耳を澄ましたが、何も聞こえなかった。それで、台所に行き、流しの上にぶら下がった電球のスイッチを入れた。
 ストーブの横の薪箱には薪がきれいに積まれていた。流しに汚れた皿もなく、ストーブに臭いの染みついた鍋もかかっていなかった。孤独であろうとなかろうと、ビル・チェスは家をきちんと片づけていた。台所から寝室に通じるドアが開いていて、そこからとても狭いドアが、明らかに最近建て増しされた小さな浴室へと続いていた。真新しいセロテックス張りの壁がそれを物語っていた。浴室は何も教えてくれなかった。
 寝室にはダブルベッド、松材のドレッサー、その上の壁に丸い鏡、寝室用箪笥、背凭れの真直ぐな椅子二脚、ブリキのごみ箱があった。床には楕円形のラグが二枚、寝台の両側に敷かれていた。ビル・チェスは壁に『ナショナル・ジオグラフィック』の一連の戦争地図を貼っていた。化粧台の上には赤と白の馬鹿げたひだ飾りが載っていた。
 抽斗の中を覗いてみた。派手なコスチュームジュエリーが詰まった模造皮革の装身具入れは持ち出されていなかった。女が顔や爪や眉毛に使う普通の化粧道具があった。長く家を空けるにしては少し多すぎるように思えた。まあ、ただの当て推量だ。箪笥には男女の衣類が入っていたが、どちらも大して多くはなかった。中でも、ビル・チェスのシャツは何とも派手な格子柄に、糊をきかせた共布の襟までついていた。青い薄葉紙の下の片隅に気に入らないものを見つけた。見たところ新品の薄桃色の絹のスリップだ。レースの飾りがついている。時節柄、正気の女なら絹のスリップを残して家を出て行ったりしない。
 これはビル・チェスにとっては具合が悪い。パットンはこれを見てどう思ったろう。
 台所に引き返し、流しの上や横の扉のない棚を調べた。棚には身近な食品の入った缶や瓶がぎっしり詰まっていた。粉砂糖は角が破れた四角い茶色の箱に入っていた。パットンはこぼれた砂糖を掃除しようとしたようだ。砂糖の近くには、塩、ホウ砂、重曹コーンスターチ、ブラウンシュガーなどがあった。それらの中にも何かが隠されているかもしれない。
 切り口がぴたりと合わないチェーン・アンクレットから切り取られた何かだ。
 目を閉じて適当に指を突き出すと、重曹の上にとまった。薪箱の後ろから新聞紙を取り出して広げ、箱をひっくり返し、重曹をぶちまけた。匙で掻きまわした。重曹は量が多すぎたが、それだけのことだ。新聞紙をじょうご代わりにして重曹を箱に戻し、次はホウ砂を試した。ただのホウ砂だった。三度目の正直。コーンスターチを試してみた。細かな粉塵が立ち上っただけで、コーンスターチの他に何も見つからなかった。
 遠くで聞こえた足音に足がすくんだ。手を伸ばして紐を引っ張って明かりを消し、居間に逃げ戻ってスタンドのスイッチに手を伸ばした。もちろん、遅すぎて何の役にも立ちはしない。足音がまた聞こえた。そっと注意深く。首周りの毛が逆立った。
 懐中電灯を左手に持ち、暗闇の中で待った。死ぬほど長い二分間が過ぎて行った。かろうじて息はしていたが、ずっとではない。
 パットンのはずはなかった。彼なら歩いてきてドアを開け、私をしかりつけるだろう。注意深い静かな足音はあちこち動き回っているようだった。動いては長い間立ち止まり、また動いては長い間立ち止まる。私は足音を忍ばせてドアに近づき、静かにノブを回した。ドアをぐいと引っ張って大きく開き、懐中電灯を突きつけた。
 金色の一対の眼が輝いた。何かが跳ねる動きがあり、木々の間で素早く蹄の音がした。ただの詮索好きの鹿だった。
 またドアを閉め、懐中電灯の光を台所に向けた。小さな丸い光が粉砂糖の四角い箱の上にとまっていた。
 もう一度明かりをつけ、箱を持ち上げて新聞紙の上に中身を空けた。
 パットンは探り方が足らなかった。偶々一つのものを見つけたので、そこにあるのはそれだけだと思ったのだ。何か別のものがあるはずだということに気づいていないようだった。
 白いティッシュペーパーを捻ったものがもう一つ、細かな白い粉砂糖の上に現れた。粉砂糖を振り落とし、包みを開いた。女の小指の爪ほどもない、小さな金のハートが入っていた。
 匙ですくって砂糖を箱の中に戻し、箱を棚に戻し、新聞紙は丸めてストーブの中に入れた。居間に戻って卓上スタンドを点けた。明るい光の下では、小さな金色のハートの裏側にある小さな刻印は、拡大鏡なしで読むことができた。
 スクリプト体で、こう書かれていた。「アルからミルドレッドへ。一九三八年六月二十八日。愛をこめて」。
 アルからミルドレッドへ。アルなんとかからミルドレッド・ハヴィランドへ。ミルドレッド・ハヴィランドはミュリエル・チェス。ミュリエル・チェスは死んだ――デソトという名の警官が彼女を探しに来た二週間後に。
 私は突っ立ったまま、手の中にあるものが私と何の関係があるのか考えていた。いくら考えても、何も思いつかなかった。
 私はそれを包み直して、小屋を出て、車を走らせて村に戻った。

【解説】

「去年の秋に落ちたオークの枯れ葉に覆われた細い小径」は<a narrow track, sifted over with brown oak leaves from last fall>。清水訳は「去年の秋に散った褐色のかし(傍点二字)の落ち葉で覆われた狭い道」。田中訳は「去年の秋におちた、茶色つぽく枯れた樫の葉がいつぱいかぶさつたちいさな道がわかれ」。村上訳は「樫の茶色い落ち葉を去年の秋から積もらせたままの、細い小径があった」。しつこいようだが、<oak>は「樫」ではなく「楢(なら)」だ。それに、樫は常緑で、葉は鋸歯を持つ。丸みを帯びた楢とは葉の形がまるでちがう。

「大きな花崗岩の丸石の周りを回って消えていた」は<curved around a granite boulder and disappeared>。清水訳は「小石まじりの土手に沿ってカーブをえがきながら消えていた」。<boulder>は「(風雨・河水・氷河などの作用で丸くなった)丸石、玉石」のことで 、 地質学では「巨礫(きょれき)」と呼ばれている。「小石」どころの大きさではない。田中訳は「花崗岩の大きな岩をまわつて、林の奥に消えていた」。村上訳は「小径は巨大な花崗岩を迂回し、その向こうに消えていた」。両氏ともに「丸さ」に触れていないところが惜しい。

「長く家を空けるにしては少し多すぎるように思えた」は<it seemed to me that there was too much of it>。清水訳は「私にはそれが多すぎるように思えた」。田中訳は「出ていったあとにのこした物にしては、よけいありすぎるような気もする」。村上訳だけは「量としてはいくぶん少なめであるような気がした」となっている。<too much>が「いくぶん少なめ」になる意味が分からない。

「青い薄葉紙の下の片隅に気に入らないものを見つけた」は<Underneath a sheet of blue tissue paper in one corner I found something I didn't like>。清水訳は「片隅の青いクリネックスの下に気になる品物があった」。<tissue paper>とあるので、アメリカではその代名詞である「クリネックス」を持ち出したのだろうが「ティッシュペーパー」は和製英語。この<tissue paper>は包装紙等に使用される「薄葉(よう)紙」と考えるべきだろう。田中訳は「青いがんぴ紙の下の片隅から、いやなものがでてきた」。村上訳は「片隅の青い薄紙の下に、私はいささか好ましくないものを見つけた」。

「白いティッシュペーパーを捻ったものがもう一つ」は<Another twist of white tissue>。清水訳は「白いクリネックスをひねったものがもう一つ」。田中訳は「やはりうすいがんぴ紙でつつんだものがあったのだ」。村上訳は「白いティッシュペーパーをねじったものがもう一つ」。今度は<tissue paper>ではなく、ただの<tissue>になっていることから、「クリネックス」が正解。青と白と、色も違うので「雁皮紙」ではなく、普通の「ティッシュペーパー」と思われる。

スクリプト体で、こう書かれていた」は<It was in script. It read>。清水氏は<in script>をスルーし、「こう書かれてあった」。田中訳は「筆記体でこう書いてあったのだ」。村上訳は「手書き文字でこのように書かれていた」。「スクリプト体」というのは、筆記体に似た手書き風の流麗な書体のことだ。高貴で優雅な印象を与えることから、招待状や卒業証書などに用いられることが多い。

『湖中の女』を訳す 第十一章(3)

<feel bad>は「不愉快」ではなく「同情する、気の毒に思う」

【訳文】

「その女には会ったことがない」私は言った。「だから、何をするか見当もつかない。ビルは一年ほど前にリヴァーサイドのどこかで出会ったと言っていたが、それまでに長く込み入った物語があるのかもしれない。どんな女だった?」
「小柄なブロンドで、めかしこんだときは凄くキュートだ。ちょっとビルに合わせてるようなところがあった。口数の少ない娘で感情を顔に出さない。ビルに言わせると癇癪持ちだそうだが、そういう場面に出くわしたことがない。ビルの方がよっぽど癇癪持ちだ」
「ミルドレッド・ハヴィランドとかいう写真の女に似ていると思ったか?」
 顎のむしゃむしゃが止まり、口が固く結ばれた。それからまたゆっくり噛み始めた。
「これはこれは」彼は言った。「今晩ベッドに潜り込む前に、よくよく注意して下を覗くようにするよ。あんたがいないか確かめるためにな。どこでその情報を聞きつけたんだ?」
「バーディ・ケッペルというかわいい娘が教えてくれた。空き時間に記者をしてて私を取材中に、たまたまデソトというL.A.の警官が写真を見せて回っていたという話が出たんだ」
 パットンは肉厚の膝をぴしゃりと叩き、背中を丸めた。
「あれは私が間違ってた」彼は真面目腐って言った。「数ある私の失敗の一つだ。あのでか物は私に見せる前に町中の誰も彼もに写真を見せて回ったんだ。あれには腹が立った。確かにミュリエルに似ていたが、確信が持てるところまではいかなかった。彼女に何の用があるのかと訊いたら、それは警察の仕事だと言う。で、多少無骨で鄙びているが私自身そういった仕事をしてると言った。すると、女の居所を突き止めろと言われただけで、それ以上は知らんと言う。多分、私をあんな風に軽くあしらったのが間違いだ。そんなわけで、私はそんな写真のような女は知らない、と言ってやった。あれは間違いだったと思う」
 穏やかな大男は微笑みを浮かべてぼんやりと天井の隅を眺め、それから視線を下に落としじっくりと私に目を据えた。
「ここだけの話にしておいてもらえると有り難いな、ミスタ・マーロウ。あんたの考えもいいところを突いている。ひょっとしてクーン湖に行ったことは?」
「聞いたこともない」
「この一マイルほど奥だ」彼はそう言って肩ごしに親指で指し示した。「森の中を細道が西に曲がっている。木と木の間を車で通り抜けられる。一マイル走って五百フィートほど登ればクーン湖に出る。かわいらしいところだ。たまにピクニックに行く者もいるが、タイヤが傷むから、そう度々は出かけない。葦の繁る浅い湖が二つ、三つある。日陰には今でも雪が残ってる。手斧造りの古い丸太小屋がたくさんあるが、私の記憶ではずっと壊れたままだ。それと、モントクレア大学が十年程前にサマーキャンプに使っていた大きな木造の建物の残骸がある。もう長い間使われていない。湖から奥まった深い森の中に建てられていて、裏に回ると古い錆びたボイラーのついた洗濯場がある。その横にローラー式の揚げ戸がついた大きな薪小屋がある。ガレージとして建てられたが、今は薪置き場になっていて、オフシーズンには施錠されている。薪はこの辺りの住人が盗む数少ない物のひとつだが、積んである薪ならともかく、錠を壊してまで盗んだりはしない。その薪小屋で私が何を見つけたかあんたなら分かるだろう?」
「サンバーナディノへ行ったとばかり思っていたんだが」
「気が変わった。車の後部座席に奥さんの遺体を乗せたまま、ビルを連れて行くのは正しいことのように思えなくてな。遺体はドクの救急車で運ばせた。ビルはアンディに送らせた。保安官と検死官に状況を報告する前に、もう少し辺りを見て回った方がいいと思ったんだ」
「ミュリエルの車が薪小屋の中にあったのか?」
「そうだ。それに車の中に鍵のかかっていないスーツケースが二つあった。服が入っていて慌てて詰め込んだみたいだった。女物だ。大事な点はな、若いの。他所者はその場所を知らんということだ」
 私は彼に同意した。彼は胴着の斜めに切ったポケットに手をつっこみ、ティッシュペーパーをひねった小さな包みを取り出した。それを掌の上で開いて、開いた手を差し出した。
「これを見るといい」
 私は近づいてそれを見た。ティッシュペーパーの中にあったのは細い金の鎖で、鎖の環と同じくらい小さな錠がついていた。錠はかかったままで、金の鎖が切られていた。鎖の長さはおよそ七インチ。鎖にも紙にも白い粉末が付着していた。
「これをどこで見つけたと思うね?」パットンが訊いた。
 私は鎖をつまみ上げ、切られた両端をつなぎ合わせた。うまく合わなかった。それについては口を挟まなかったが、指の先を湿らせ、粉に触れて舐めてみた。
「粉砂糖の函か缶だな」私は言った。「鎖はアンクレットだ。ある種の女は結婚指輪と同じで決して外さない。これを外した奴が誰であろうと、そいつは鍵を持っていなかった」
「それをどう考える?」
「特に何も」私は言った。「ビルがミュリエルの足首からそれを切り取っても、首に緑のネックレスをつけたままにしておいたら意味がない。ミュリエル自身が鍵をなくして切ったと仮定しても、見つけてもらうために隠す意味がない。彼女の遺体が最初に発見されない限り、それを見つけるのに十分な調査は行われないだろう。もしビルが切ったのなら、湖に投げたはずだ。しかし、もしミュリエルがビルには隠して、それをとっておきたかったのなら、隠し場所にはそれなりの意味がある」
 パットンは今度は戸惑いを見せた。「どうしてだ?」
「女の隠し場所だからさ。粉砂糖はケーキ作りのアイシングで使うものだ。男は誰もそんなとこを探そうとしない。それを見つけるとは大したものだよ、シェリフ」
 彼はきまり悪そうに苦笑した。「実のところ、箱をひっくり返して砂糖をぶちまけたんだ」彼は言った。「そうでもなきゃ、見つけられなかったろう」彼は紙を丸めて、ポケットに滑り込ませた。これで終わりだ、というように立ち上がった。
「まだここにいるのか、それとも町に帰るのかな、ミスタ・マーロウ?」
「町に帰る。検死審問までいるよ。呼ばれるんだろう?」
「それは、もちろん検死官次第だ。どうにかして壊した窓を閉めてくれ。私は明かりを消して錠を下ろす」
 私は彼の言うとおりにし、彼は懐中電灯をつけてスタンドを消した。我々は外に出て、彼は小屋の錠がしっかりかかっているか確かめた。彼は網戸をそっと閉め、月明かりに照らされた湖を眺めて立っていた。
「ビルに殺意があったとは考えとらん」彼は悲しげに言った。「その気がなくても彼なら難なく女を絞め殺せた。それくらい手の力が強かったんだ。一旦やってしまったら、神から授かった知恵を絞って、したことを隠すしかなかった。本当に気の毒なことだ。しかし、だからといって事実と起こりそうな事態は変わらない。誰でも分かる当たり前のことだ。そして、誰でも分かる当たり前のことが大抵、結果として正しいことが分かる」
 私は言った。「それなら彼は逃げただろう。ここに留まることができたとは思えない」
 パットンは黒いヴェルヴェットの影となったマンザニータの茂みに唾を吐いた。彼はゆっくり言った。「政府から年金をもらっていたからな。逃げたらそれも手放すことになる。それに大抵の男は、耐えねばならん時が近づいてきて正面から見据えられたら耐えられるものだ。世界中で男たちがまさに今やっているように。それじゃ、おやすみ。私はもう一度あの小さな桟橋まで歩いて行って月明かりの下に立ち、遺憾の意を表するつもりだ。お互い、こんないい晩に殺人について考えなきゃならんとはな」
 彼は静かに影の中に歩み去り、自身もまた影になった。私は彼の姿が視界から去るまでそこに立っていた。それから錠の下りたゲートまで戻って柵を乗り越えた。車に乗り込んで、隠れる場所を探して、来た道を引き返した。

【解説】

「今晩ベッドに潜り込む前に、よくよく注意して下を覗くようにするよ」は<I'll be mighty careful to look under the bed before I crawl in tonight>。清水訳は「私は夜寝る前にベッドの下をのぞくくらい用心深いつもりなんだ」。田中訳は「今晩、ベッドにもぐりこむまえには、よっぽど注意して、その下を見なくちゃいかん」。村上訳は「これからは夜寝る前に、ベッドの下をいちいち覗き込まなくてはな」。<in tonight>なのだから「これまで」でも「これから」でもなく「今晩」だろう。

「空き時間に記者をしていて、私を取材中に」は<She was interviewing me in the course of her spare time newspaper job>。清水訳は「アルバイトのリポーターをやってて、私に会いに来たんだ」。田中訳は「アルバイトの記者だそうで、ぼくにインターヴューしたんです」。村上訳は「彼女がパートタイムの記者をしている新聞のために、私の話を聞きにきたときにね」。<spare time>は「空き時間、余暇」の意味だ。「アルバイト」や「パートタイム」というのとはちがう。

「背中を丸めた」は<hunched his shoulders forward>。清水訳は「肩を前に押し出した」。田中訳は「肩をまえにかがめた」。村上訳は「身を屈めた」。パットンは自分のしたことを後悔し、意気消沈している。そういう時の姿勢を日本語で表現するなら、ここは「背(中)を丸める」だろう。

「で、多少無骨で鄙びているが私自身そういった仕事をしてると言った」は<I said I was in that way of business myself, in an ignorant countrified kind of way>。清水訳は「こっちは田舎くさくて幼稚かもしれぬがやっぱり警察の仕事をしてるんだといってやった」。田中訳は「わしだって田舎のばかみたいな副保安官だが、警察官だ、といつてやつた」。村上訳は「山奥の無知な警官ではあるが、こちらも警察の仕事に一応関わっているものなんだが、とわたしは言った」。ここはパットンが自身の風采について言い訳しているのだろう。<in a kind of way>(多少)の中に<ignorant countrified>を挿入しているわけだ。<countrified>は「田舎の」ではなく、「(人・物事などが)田舎じみた、粗野な」という意味。

「手斧造りの古い丸太小屋がたくさんあるが、私の記憶ではずっと壊れたままだ」は<There's a bunch of old handhewn log cabins that's been falling down ever since I recall>。清水訳は「材木を組み立てただけのキャビンがいくつかあったが、どのキャビンもこわれかけてる」。田中訳は「わしがおぼえてる頃から、くずれかかってる粗末な丸太小屋がいくつか」。村上訳は「手作りのログ・キャビンが何軒か建っているが、思い出せる限りの昔から、残らず倒壊している」。

<hand-hewn>とは「手斧掛けした」という意味。丸太小屋はちゃんとした製材所で製材した丸太を使わず、現場近くの森の中から切り出した木の皮を剥ぎ、手斧などで枝を処理した丸太を組んで作る。鉋掛けしないから、表面には跡が残る。それも味のうちだ。だいたいが丸太小屋は丸太を組んで作るもので、重機の入らない森の中に建てるのだから手作りが普通。古いものなら粗末に見えても仕方がない。そんな訳で、三氏の訳は間違いとは言わないが、的を外している。

「その横にローラー式の揚げ戸がついた大きな薪小屋がある」は<along of that there's a big woodshed with a sliding door hung on rollers>。清水訳は「その先にスライディング・ドアのついたまき(傍点二字)小屋がある」。田中訳は「そのとなりは、ローラーで上からぶらさがった戸がついた薪小屋だ」。村上訳は「その並びには、大きな薪小屋があり、スライド式の扉にはローラーがついて、開け閉めできるようになっている」。清水、村上両氏の訳では、横にスライドする引き戸のように読めてしまう。アメリカのガレージによくある、上に揚げて上部に格納する形のドアではないか。

「しかし、だからといって事実と起こりそうな事態は変わらない」は<but that don't alter the facts and the probabilities>。清水訳は「事実をまげるわけにはいかない」。田中訳は「しかし、だからといって、事実をかえることもできんし、どうにもならん」。両氏とも<probabilities>を訳していない。<probabilities>は<probability>の複数形。「ありそうなこと、 起こりそうなこと」という意味。村上訳は「しかしだからといって、その事実や、それによってもたらされるものごとが変更させられるわけではない」。

「誰でも分かる当たり前のことだ。そして、誰でも分かる当たり前のことが大抵、結果として正しいことが分かる」は<It's simple and natural and the simple and natural things usually turn out to be right>。清水訳は「そんなことはわかりきった、あたりまえのことだ。わかりきったあたりまえのことを行っていればまちがいはない」。田中訳は「これは、単純で、つまり自然な犯行だ。そして、たいてい、単純で自然なもののほうが事実の場合がおおい」。村上訳は「単純で当たり前の推理だが、単純で当たり前のことが大方(おおかた)の場合、結局正しいことだったと判明するのだ」。

<it>は何を指しているだろう。田中氏は「犯行」、村上氏は「推理」をあてている。清水氏はその前の「私はそれが哀れでならんのだが、事実をまげるわけにはいかない」を指すと考えているようだ。つまり情を押し殺してパットンが下した判断ということになる。パットンはビルに同情しているが、保安官としての職務を果たすことに躊躇しない。それが<simple and natural >だと思うからだ。そうは思っても内心の葛藤は隠せない。だから、ひとりでもの思いにふけりたいのだろう。

「私はもう一度あの小さな桟橋まで歩いて行って月明かりの下に立ち、遺憾の意を表するつもりだ」は<I'm going to walk down to that little pier again and stand there awhile in the moonlight and feel bad>。清水訳は「私はもういちどあの舟着き場へ行って、あまり愉快なことじゃないが、しばらく月の光を浴びて立っているよ」。田中訳は「わしは、また、あの桟橋のところにいつて、月の光をあびながら、しばらく立つていよう。いやな気持になるだけだろうが……」。村上訳は「わたしはもう一度あの小さな船着き場まで歩いていって、しばらく月光の下に立ち、苦い思いを噛みしめることにする」。

<feel bad>には、三氏のように「不愉快」の意味だけでなく「同情する、気の毒に思う、遺憾とする」のような意味がある。わざわざ<be going to>を使って、死体の上がった現場に出向いて、しばらくの間立っている意志を表しているのだから、死者に哀悼の意を表すとともに、ビルのこれからを案じるつもりなのだろう。それを「いやな気持ち」にしてしまっては折角のパットンの思い入れが台無しになってしまう。

「お互い、こんないい晩に殺人について考えなきゃならんとはな」は<A night like this, and we got to think about murders>。清水訳は「こんな夜に殺人について考えるなんて因果なことさ」。田中訳は「こんないい晩に、人殺しのことを考えなくちゃいかんなんて、なさけない」。村上訳は「こんな美しい夜に、殺人について考えなくちゃならんとはな」。三氏とも<we>をスルーしている。

 

『湖中の女』を訳す 第十一章(2)

パットンが帽子をとって髪をくしゃくしゃにするのは考え事をする時だ

【訳文】

 パットンは立ち上がり、小屋のドアの鍵を開けた。香ばしい松の匂いが部屋中に流れ込んできた。彼は外にぺっと吐き、また腰を下ろして、ステットソンの下のくすんだ茶色の髪をくしゃくしゃにした。帽子を脱いだ彼の頭は、めったに帽子をとらない人の見苦しいなりをしていた。
「ビル・チェスにはまったく関心がなかったのか?」
「これっぱかしも」
「あんたら探偵は離婚の仕事が多い」彼は言った。「私に言わせりゃ、鼻つまみの仕事だ」
 それは聞き流すことにした。
「キングズリーは、ワイフを探すために警察の手は借りたくなかった、そうだろう?」
「そのようだ」私は言った。「彼女のことをよく知っているんでね」
「いろいろ聞かせてもらったが、ビルの小屋を調べたがることの説明には足りないようだ」分別くさい物言いだった。
「あちこち突っつきまわすのが性分でね」
「おいおい」彼は言った。「もうちっとましなことが言えんのか」
「だったら、ビル・チェスに興味を持った、とでも言っておこうか。ただ、それは彼が厄介ごとに巻き込まれて、とても見ちゃいられないからだ――たとえ、相当のろくでなしだとしても。もし彼が妻を殺したのなら、それを示す何かがここにある。もし彼が殺してないなら、それを示す何かもここにある」
 彼は首を横に向けていた、まるで用心深い鳥のように。「たとえばどんなものだ?」
「衣服、装身具、化粧品。二度と戻る気のない女が家を出るときに持っていきそうなもの」
 彼は悠然と椅子の背にもたれた。「だが、女はどこにも行っておらんよ。若いの」
「それなら、物はまだここにあるはず。もしそれがここにまだあったら、彼女が持ち出していないことにビルは気づいたはずで、彼女が家を出ていないことを知ってたことになる」
「なんと。どちらも気に入らないな」彼は言った。
「しかし、もし彼が殺したのだとしたら」私は言った。「彼女が家を出るときに持ち去るはずの物を処分しなければならなかっただろう」
「どう処分すると思うかね? 若いの」スタンドの黄色い光が彼の顔の片側をブロンズ色に染めていた。
「彼女は自分用のフォードを持っていたそうだ。それ以外は、燃やせるものは燃やし、燃やせないものは森の中に埋めただろう。湖に沈めるのは危険すぎる。しかし、車は燃やすことも埋めることもできなかった。彼にその車が運転できたろうか?」
 パットンは驚いたようだった。「できるさ。彼は右脚の膝を曲げられない。だから、フットブレーキはうまく使えないが、ハンドブレーキで間に合わせられる。ビルのフォードがちがうのは、ブレーキペダルが支柱の左側、クラッチに近い位置につけられていて、片足で両方を踏めるようになっていることだ」
 私は煙草の灰を、小さな青い瓶に振り落とした。小さな金色のラベルによると、かつてはオレンジ蜂蜜が一ポンド入っていたらしい。
「車の処分が彼にとっては大問題になる」私は言った。「どこへ持って行くにせよ、戻ってこなければならないし、戻ってくるところを見られたくない。もし、たとえばサンバーナディノあたりの通りに乗り捨てたとしたら、すぐに発見され誰の車か分かってしまう。彼もそれは望まないだろう。一番いいのは盗難車を扱うディーラーに売り払うことだが、たぶんそんな連中を知らなかっただろう。となると、ここから歩いて行ける範囲の森の中に隠した可能性がある。彼が歩ける範囲ならそう遠くない」
「関心がないと主張する人物について、あんたはかなり綿密に検討していることになる」パットンは冷淡に言った。「車は森の中に隠したとして、その後は?」
「発見される可能性を考えねばならない。森は人里離れてはいるが、時々森林監視員や木こりが歩き回る。もし車が発見されたら、その中からミュリエルの所持品が発見される方がいい。言い訳が二つできる――どちらも大したものではないが、少なくとも口実にはなる。一つは、彼女が見知らぬ誰かによって殺され、犯人は殺人が発覚したとき、ビルを巻き込むために細工した。二つめは、ミュリエルは実際に自殺したが、 ビルに容疑がかかるように細工した 。復讐のための自殺というやつだ」
 パットンはそれらすべてについて落ち着いて注意深く考えていた。またドアのところまで行って噛み煙草を吐き、椅子に座ってまた髪をくしゃくしゃにした。彼は疑り深い目で私を見た。
「一つ目はあんたの言うように可能性がある」彼は認めた。「しかし、それだけのことだ。該当する人物が思い当たらない。それに書き置きという小さな問題を解決する必要がある」
 私は首を振った。「ビルはすでに別の機会に書き置きを手に入れていたとしよう。彼女は出て行った、と彼は考えた。今回メモは残さなかったとしよう。何も告げずに妻が出て行き、ひと月もたてば、誰でも気をもむし不安にもなる。妻に何かあった時、書き置きを見せることが自分の身を守る盾になるかもしれない。口にせずとも、内心ではそう思っていたのかもしれない」
 パットンは首を振った。気に入らないのだ。それは私だって同じだった。彼はゆっくり言った。「もう一つの考えは、まったく馬鹿げている。誰かを告発するために自殺したように見せかけるなど、私の単純な人間観には全くそぐわない」
「人間観が単純すぎるからさ」私は言った。「それは現に起きているし、ほとんどの場合は女によって行われている」
「いや」彼は言った。「私は五十七歳になる。今まで気のふれた連中を大勢見てきたが、その説を採る気はない。そんなもの落花生の殻ほどの値打ちもないよ。私が気に入っているのは、彼女は出て行こうとして書き置きを書いた。だが、逃げ出す前に彼が捕まえ、かっとなって殺してしまった、というものだ。そうなると、彼は私たちが話していたようなことをしなければならなくなる」

【解説】

「ステットソンの下のくすんだ茶色の髪をくしゃくしゃにした」は<rumpled the mousy brown hair under his Stetson>。清水訳は「ステットスン帽の下のくすんだ(傍点四字)茶色の髪をかき上げた」。田中訳は「ソフトの下の、ねずみの毛のように汚い茶色つぽい髪をかきあげた」。村上訳は「くしゃくしゃした茶色の髪をステットソン帽の中に押し込んだ」。

<rumple>は「くしゃくしゃにする、しわくちゃにする」という意味の他動詞。三氏ともに、帽子をとったようには訳していないが、ここは金田一耕助のように帽子をとって、髪をくしゃくしゃにしたのだろう。直後に帽子を脱いだ頭の格好について触れていることから分かる。三氏の訳では、帽子を脱いだところをマーロウはいつ目にしたことになるのだろう。

「たとえ、相当のろくでなしだとしても」は<in spite of being a good deal of a heel>。清水訳は「どう見てもまっとうな(傍点五字)人間とはいえないがね」。田中訳は「チェスにもわるいところはあるだろうが」。ところが、村上訳は「ろくでもない悪党だからというんじゃなくてね」という訳になっている。<in spite of~>は、中学校英語で習った通り「~にもかかわらず」だ。つまり、その後にくることを考慮に入れても、という意味だ。村上訳は、あとに続く部分を考慮に入れない、というのだから、逆の意味になる。

「ブレーキペダルが支柱の左側、クラッチに近い位置につけられていて」は<the brake pedal is set over on the left side of the post, close to the clutch>。清水訳は「ブレーキのペダルがクラッチに近い左側にあって」。田中訳は「ブレーキがレバーの左側、クラッチにくつつけてつくつてあるだけだ」。<post>に「レバー」の訳を当てているが、そんなところにレバーはない。村上訳は「ブレーキペダルは中央より左側、クラッチのそばにつけられている」。いくら改造車とはいえ、ブレーキ自体の位置を変えるのは大がかりだ。おそらく、ペダルを支柱の中央ではなく左寄りにつけてあるのだろう。

「椅子に座ってまた髪をくしゃくしゃにした」は<He sat down and rumpled his hair again>。清水氏訳は「座りこんで、また髪をかきあげた」。田中訳は「椅子に腰をおろし、髪をかきあげた」。村上氏は今度は「それから再び腰を下ろして、髪をくしゃくしゃにした」と訳している。しかし、<again>がくっついているのだから、もし「くしゃくしゃにした」と訳すなら、前の訳もそう直すべきだろう。それとも気づいていないのだろうか。

「その説を採る気はない。そんなもの落花生の殻ほどの値打ちもないよ」は<I don't go for that worth a peanut shell>。清水訳は「そんな南京(なんきん)豆の殻(から)みたいな頭の人間がいるとは思えない」。田中訳は「しかし、その考えは、ピーナッツのカラほども、ほんとらしくない」。村上訳は「そこまで頭のたが(傍点二字)が外れた人間にお目にかかったことはない」。

清水氏と村上氏は<that>をそういうことをしでかす「人間」と捉えている。田中氏は「考え」ととる。私も田中氏に賛成だ。<go for>は「(ある特定のものを)選ぶ、好きである」という意味。そのすぐ後に<What I like is that>が来て、その後に示されているのがパットンの自説であることからも、それが分かる。<a peanut shell>という比喩から考えても、落花生の殻は、バーの床の飾りくらいにしか使えない価値のない物の喩えだ。「復讐のための自殺」などという考えを抱く人物は、頭が空っぽなのではない。むしろ考えすぎるくらい考えている。たとえ、少々ねじくれているとしても。