HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

9

“up (down) one’s street”は「お手のもの」

【訳文】

早番の夜勤の看守は肩幅の広い金髪の大男で人懐っこい笑みを浮かべていた。中年で、もはや哀れみや怒りからは縁遠くなっていた。何事もなく八時間をやり過ごすことが望みで、たいていのことは卒なくこなしているように見えた。彼が私の房の鍵を開けた。

「お客だ。地方検事局から男が来てる。寝てなかったのか?」

「寝るにはまだ早い。今、何時だ?」

「十時十四分」彼は戸口に立ち、房内を見渡した。下の段には毛布が一枚敷かれ、一枚は枕代わりに折りたたまれていた。ゴミ箱には使用済みのペーパータオルが数枚、洗面台の縁には小さくまるめて水栓代わりにしたトイレットペーパーの塊があった。彼は納得してうなずいた。「何か私物は?」

「身ひとつだ」

彼は監房の扉を開けたままにした。私たちは静まり返った廊下を歩いてエレヴェーターに向かい、受付デスクへと降りた。グレーのスーツを着た太った男がデスクの傍でコーンパイプをふかしていた。指の爪は汚れ、体臭がきつかった。

「地方検事局のスプランクリンだ」彼はどすをきかせて言った。「ミスタ・グレンツが上で待ってる」彼は尻に手を伸ばして手錠を取り出した。「サイズが合うか試そうぜ」

看守と受付係は、楽しくてたまらないという顔でにやにやした。「どうした、スプランク? エレヴェーターで襲われるのが怖いのか?」

「面倒を避けたいだけだ」と彼はうなるように言った。「一度逃げられたことがあってな、その時はこってりしぼられた。行こうぜ、若いの」

受付係が用紙を押しつけると、彼は仰々しい身振りでサインした。「用心するに越したことはない。この街じゃ、何が起こるかわからないからな」

トロールカーの警官が血まみれの耳をした酔っ払いを引っ張ってきた。我々はエレヴェーターに向かった。「厄介なことに巻き込まれたな、あんた」スプランクリンがエレヴェーターの中で言った。「厄介事が山積みだ」人が窮地に陥ることが彼には嬉しくてたまらないようだ。「この街じゃ、厄介事にだけは事欠かないからな」

エレヴェーター係が振り返って私にウィンクした。私はにやりとした。

「妙なまねをするなよ、若いの」スプランクリンが深刻ぶって言った。「前に人を撃ったことがある。逃げようとしたんだ。死ぬほどしぼりあげられた」

「どっちにころんでもしぼられるってわけか?」

彼はしばらく考え込んだ。「ああ」と彼は言った。「どっちにしろ、油をしぼられることになる。生きづらい街だよ。人を人とも思わないんだ」

我々はエレヴェーターを降り、両開き扉から検事局の中に入った。交換台には人気がなく、電話は夜間用回線につながれていた。待合室にも誰もいなかった。 二つのオフィスに明かりがついていた。 スプランクリンは小さい方の部屋のドアを開けた。そこには机、ファイリング・キャビネット、固そうな椅子が一、二脚、そして、硬そうな顎と愚かな眼をしたずんぐりした男がいた。 顔を真っ赤にして机の抽斗に何かを押し込んでいる最中だった。

「ノックくらいしないか」彼はスプランクリンに怒鳴った。

「すみません、ミスタ・グレンツ」スプランクリンはもぐもぐ言った。「囚人に気を取られてたもんで」

彼は私をオフィスの中に押し込んだ。「手錠を外しますか? ミスタ・グレンツ」

「何でまた手錠なんかかけたんだ?」グレンツはぶすっと言った。彼はスプランクリンが私の手首から手錠を外すのを見ていた。鍵束はグレープフルーツほどの大きさだったので、私の手錠の鍵を見つけるのに苦労していた。

「よし、出ていけ」グレンツは言った。「外で待ってて、こいつを連れ帰れ」

「もう非番なんですが、ミスタ・グレンツ」

「おまえの非番は、私が非番だといったときからだ」

プランクリンは顔を赤らめ、太った尻を部屋の外に出し、そろそろと後じさりして出て行った。グレンツは容赦なく彼を目で追い、ドアが閉まると同時に同じ表情でこちらを見た。私は椅子を引いて座った。

「座っていいとは言っておらん」グレンツは怒鳴った。

ポケットからばらで持っていた煙草を取り出し口に咥えた。「煙草を吸っていいとも言っておらん」とグレンツはわめいた。

「監房では許されていた。なぜここは駄目なんだ?」

「なぜならここはおれのオフィスだからだ。ここのルールは俺が決める」生のウィスキーの匂いが机越しに漂ってきた。

「もう一杯やるといい」と私は言った。「それで落ち着くんじゃないか。とんだお邪魔をしたようだ」

彼の背中が椅子の背に強くぶつかった。顔色が赤黒くなった。私はマッチを擦って煙草に火をつけた。

しばらくしてグレンツはおだやかに言った。「いいだろう、タフガイ。一筋縄ではいかないやつってわけか? だが、覚えとくんだな。ここにやってくるやつはサイズも形も色々だが、出て行くときには同じサイズだ。小さくなってる。形も一緒だ。背を丸めている」

「用は何だ、ミスタ・グレンツ? それと一杯ひっかけたかったら遠慮はいらない。疲れたり、いらいらしたり、仕事がきつくなると、私も一杯やるクチだ」

「どうやら自分が窮地に陥ってることに気づいていないようだな」

「窮地に陥ってるとは思ってない」

「今に分かるさ。その間におれとしては遺漏のない供述がほしい」彼は机の端の録音機を指ではじいた。「今録音して、明日口述筆記させる。もし首席検事補がよしと言ったら、街を出ないという約束で、ここから出してやる。さあ、始めよう」彼は録音機のスイッチを押した。その声は冷たく、断定的で、どうやれば底意地が悪く聞こえるか知っている者の声だった。しかし、右手は机の引き出しのほうにじりじりと進んでいた。鼻に静脈が広がるには若すぎる歳だが、すでにその兆候があり、白眼の色も悪かった。

「うんざりしてるんだ」と私は言った。

「何にうんざりだって?」と彼は訊き返した。

「熱心な小者連中が、殺風景な小部屋で、小耳にはさんだそらごとをしゃべり散らすことにさ。重罪犯監房で五十六時間を過ごした。その間、誰も私を小突きまわさず、自分のタフさを証明しようともしなかった。その必要がなかったからだ。やろうと思えばいつでもできるからな。だいたい、どうして私はここに放り込まれたんだ? 嫌疑があるから引っ張られたんだろう。警官の質問に答えなかったからって、人を重罪犯監房に押し込めるような法律がどこにある? 何の証拠があるというんだ? メモ用箋に残された電話番号だけだ。私を拘留して何を証明しようとしたんだ? そうする力を持っているということ以外、何もない。今は今であんたが同じ調子で、自分がどれだけ力を持ってるかを思い知らせようとしているわけだ。あんたが自分のオフィスと呼ぶ、この葉巻入れの中でね。私をここに連れてくるために、夜遅くに気の弱い子守りを送り込んできた。五十六時間、一人で考え事をさせておいたら、固い頭が粥みたいに軟らかくなるとでも? 大きな留置場の中でひどく寂しくなって、あんたの膝の上で頭を撫でてほしがるとでも思ったのか? よせよ、グレンツ。一杯やって人間らしくなれよ。あんたはあんたの仕事をしてるだけだ。そんなことはわかってる。だが、始める前にこけおどしはよせ。あんたの器量が大きいなら脅しは必要ないし、脅しが必要というのなら、あんたは私を小突き回せるほどの器量を持ち合わせちゃいない」

彼はそこに座って耳を傾け、私の顔を見た。そして不機嫌そうににやりと笑った。「いいスピーチだった」と彼は言った。「さて、たわごとを吐き出してもらったところで、陳述をしてもらおうか。一問一答で行くか、それともおまえが好きなように話すか?」

「小鳥に話してただけだ」私は言った。「そよ風が吹くのを聞いてたのさ。私はどんな陳述もするつもりはない。あんたは法律屋だ。私にそんな義務がないことを知ってるはずだ」

「その通り」彼は冷やかに言った。「法律は知っている。警察の仕事ぶりも。おまえに身の潔白を明かす機会を与えてやろうというのさ。その気がないなら、それはそれでいい。明朝十時に予備審問を開いて罪状認否を問うこともできる。保釈が認められるかもしれないが、簡単に通す気はない。覚悟しておくことだな。おまけに金もかかる。まあ、それも一つの方法ではある」

彼は机の上の一枚の紙に目をやり、読んで裏返した。

「容疑は何だ?」私は訊いた。

「三十二条、事後従犯。重罪だ。クエンティンで五年は食らうだろう」

「レノックスの逮捕が先だろう」私は探りを入れるように言った。グレンツは何かを握っている。その態度から感じる。どれくらいかはわからないが、たしかに何かを知っている。

彼は椅子にもたれかかり、ペンを手に取り、両の掌の間にはさんでゆっくり転がした。 それからにやりと笑った。 楽しんでいるのだ。

「レノックスは身を隠すのには不向きな男だよ、マーロウ。大抵の場合写真が必要になる。それも鮮明な写真が。顔の片側のほとんどが傷に覆われている男の場合は別だ。三十五歳をこえていないのに白髪ということもある。目撃者が四人もいる。まだ増えるかも知れない」

「何の目撃者だ?」口の中にグレゴリアス警部に殴られたときのような胆汁の苦さを感じた。それが首の痛みを思い出させた。私はそっとさすった。

「とぼけるなよ、マーロウ。サン・ディエゴ高裁の判事夫妻がたまたま飛行機に乗る息子夫婦を見送りに来ていたんだ。四人全員がレノックスを見ているし、判事の妻は彼が乗って来た車と誰が一緒だったかも見ている。万事休すだ」

「そいつはすごい」私は言った。「どうやって見つけたんだ?」

「ラジオとテレビでニュース速報を流したのさ。レノックスの特徴を説明するだけでよかった。判事が電話してきた」

「いいね」と私は公平を期して言った。「だが、もう少し必要だ、グレンツ。彼を捕まえて、彼が殺人を犯したことを証明しなければならない。そして、私がそれを知っていたことを証明しなければならない」

彼は電報の裏を指ではじいた。「一杯やらせてもらうよ」と彼は言った。「夜勤のし過ぎだ」彼は抽斗を開け、ボトルとショット・グラスを机の上に置いた。グラスの縁までなみなみと注ぐと一息に呷った。「これでよくなった」と彼は言った。「さっきよりずっとよくなった。悪いがあんたにはお勧めできない。拘留中の身だからな」彼はボトルに栓をして遠くに押しやったが、手が届かないほどではない。「そうそう、あんた言ってたな、おれたちが何かを証明しなきゃならんと。そのことだが、もしかしたらすでに自白してるかもしれんぞ。がっかりしたか?」

細く、ひどく冷たい指先が背筋を上から下までつたっていった。凍えた虫が這うみたいに。

「それなら、どうして私の供述を欲しがる?」

彼はにやりと笑った。「びしっとした記録が好きなんだよ。いずれレノックスは連れ戻されて裁判にかけられる。手に入れられるものならすべてほしい。あんたから得たいものはそんなに多くない。あんたはほとんど口をつぐんでいてもやり過ごせる――協力しだいでな」

私は彼を見つめた。手は電報を弄っていた。椅子の上で尻をもぞもぞさせ、ボトルに目をやったが、そちらに手を伸ばさないように意志の力を総動員する必要があった。

「あんたは多分、どういう筋書きになっていたのか、すべて知っておきたいんだろう?」いわくありげな目つきをして突然言った。「いいだろう、自惚れ屋。こちらの手の内をさらしてやろう。かついでいるんじゃないってことを分らせてやるよ。こういうことさ」

私が机の上に身を乗り出すと、ボトルに手を伸ばしたとでも思ったのか、彼はボトルをひったくって抽斗に戻した。私はただ煙草の吸い殻を灰皿に落としたいだけだったのだが。私がまた椅子の背に凭れ、もう一本の煙草に火をつけると、彼は早口にしゃべりだした。

「レノックスはマサトランで飛行機を降りた。飛行機の乗り継ぎに使われる人口三万五千人ほどの町だ。彼はそこで二、三時間ほど姿を消した。やがて、長身で黒髪、浅黒い肌をし、顔に無数のナイフの傷痕のある男が、シルヴァノ・ロドリゲスという名でトレオン行きの便を予約した。流暢なスペイン語ではあったが、その名に見合うほど上手くはなかった。それに、そんな浅黒い肌のメキシコ人にしては背が高すぎた。パイロットは空港に彼のことを報告した。トレオンでの警官の対応は後手を踏んだ。メキシコの警官は概して意気軒高とは言えない。彼らの得意技は銃を撃つことだ。警官が署を出た頃、男は飛行機をチャーターして小さな山間の町に向かっていた。湖のあるひなびた避暑地、オタトクランだ。チャーター機パイロットは、テキサスで戦闘機のパイロットとして訓練を受けていた。彼は英語が堪能だった。レノックスは彼が言ったことを聞き取れないふりをした。

「もしそれがレノックスだったとしたらだ」私は口をはさんだ。

「なあ、ちょっと待てよ。それはまちがいなくレノックスだった。さて、彼はオタクトランで降り、今度はマリオ・デ・セルヴァという名でホテルにチェックインする。彼はモーゼルの七・六五口径の銃を身に着けていたが、銃を持つことなどメキシコでは珍しくもない。しかし、チャーター機パイロットはどこかうさん臭さを覚え、地元の警察に連絡した。彼らはレノックスを監視下に置いた。メキシコ・シティーに確認し、それから踏み込んだ。

グレンツは定規を手に取り、それに視線を沿わせたが、それは私を見ないようにする意味のないジェスチャーだった。

私は言った。「なるほど、何とも気が利くパイロットだ。客に対する心配りも申し分ない。いかにも胡散臭い話だ」

彼は急に私を見上げた。「我々は」と彼は素っ気なく言った。「裁判を早く終わらせたい。第二級殺人を認めるならそれでいい。あまり踏み込みたくない領域もある。結局のところ、あの一族はかなりの影響力を持っているからな」 

「ハーラン・ポッターのことか?」

彼はかるく頷いた。「おれに言わせりゃ、すべてが見立て違いなのさ。スプリンガーはこの一件で大成功を収めることもできたはずだ。セックス、スキャンダル、金、美しくもふしだらな妻、その夫は戦争で負傷した英雄ときた ―― あの傷は戦地で負ったとおれは見ている ―― 何週間も新聞の一面トップを飾るだろう。国じゅうの新聞がこぞって取り上げるだろう。だから我々としちゃ、さっさと片づけてしまいたい。彼は肩をすくめた。「いいさ、地方検事がその気なら、好きにすりゃいい。陳述の方はどうなってる?」彼は録音機を振り返った。それはライトを点灯させながら、ずっと小さな鼻歌を歌っていた。

「切ってくれ」と私は言った。

彼は振り向きざまに、私に悪意のある眼差しを向けた。「刑務所が好きなのか?」

「それも悪くない。相手が悪かったな、けど好き好んで検察側の証人になりたいやつがいるか? 道理をわきまえろよ、グレンツ。あんたは私をタレコミ屋にしようとしているんだ。私は頑固かもしれないし、感傷的かもしれない、だが現実的でもある。もしあんたが私立探偵を雇わなければならないとしたら......ああ、そんなことを考えるだけで虫唾が走るのはわかっているが、それが唯一の解決法だったとしたら、友だちを売るようなやつを選ぶか?」

彼は憎らしそうに私を見つめた。

「ほかにもある。あんたは、レノックスの逃げ方が少々見えすいていやしないか、と思わなかったのか? もし彼が捕まりたかったら、そんなに苦労する必要はなかった。 もし捕まりたくなかったら、メキシコでメキシコ人になりすますなんてことはしない。彼はそんな馬鹿じゃない」

「何が言いたいんだ?」グレンツはもう唸り声になっていた。

「つまり、あんたはただ大量の戯言をでっちあげ、私に詰め込んでいるだけかもしれない。オタトクランには髪を染めたロドリゲスもマリオ・デ・セルヴァもいなかった。レノックスがどこにいるのか、あんたは海賊黒ひげの宝の在り処と同じくらい知らないということさ」

彼はまたボトルを取り出してグラスに一杯注ぎ、前と同じように一気に飲み干した。 次第に緊張がほどけてきた。彼は椅子の上で体の向きを変え、録音機のスイッチを切った。

「おまえを裁判にかけてやりたいよ」と彼は苛立たし気に言った。 「小賢しい野郎だ。おまえみたいなやつは徹底的にしぼりあげてやりたくなる。 今回の容疑はこれからもずっとおまえにかけられたままだ。歩いてるときも、食べてるときも、寝ているときもいっしょだ。それで、この次おまえがちょっとでもおかしな真似をしてみろ、死ぬほどしぼりあげてやる。さてこれから、はらわたがねじくれるようなことをしなきゃならん」

彼は机の上に手を伸ばし、伏せてあった紙を手もとに引き寄せ、表に向けてサインした。ひとが自分の名前を書いているときは、いつもわかるものだ。特別な動き方をするからだ。そして、彼は立ち上がり、机を回り込み、彼の靴箱サイズのオフィスの扉を開けて大声でスプランクリンを呼んだ。

太った男が例の臭いとともに入ってきた。グレンツは男に書類を渡した。

「おまえの釈放命令書にサインした」彼は言った。「これでも公僕でね、ときには意に添わぬ命令にも服さにゃならん。なぜおれがサインしたか知りたいか?」

私は立ち上がった。「話したいなら」

「レノックスの事件はもう終わったからだよ、ミスタ。レノックス事件なるものはもうどこにも存在しない。彼は今日の午後ホテルの部屋にすべてを告白した文書を残して拳銃自殺した。さっき言ったオタクトランでな」

私はそこに呆然と立ち尽くしていた。眼には何も見えていなかった。視界の端にグレンツがゆっくりと後ずさりするのが見えた。まるで私が殴りかかろうとしているとでも思ったかのように。その時、私はよほど険悪な顔をしていたにちがいない。やがて、彼はまた机の後ろにおさまり、スプランクリンが私の腕をつかんだ。

「さあ、行くんだ」とスプランクリンは哀れっぽい声で言った。「人ってのは、たまには夜、家に帰りたくなるものだ」

私は彼といっしょに外に出てドアをそっと閉めた。今誰かがそこで死んだばかりの部屋を後にするかのように。

【解説】

二〇二三年五月に市川亮平氏による新訳『ザ・ロング・グッドバイ』(小鳥遊書房)が刊行されたので、これで邦訳は四冊となった。そこで、タイトルを「五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む」と変更することにした。折を見てこれまでの分も見直していきたい。

“He wanted to put in eight easy hours and he looked as if almost anything would be easy down his street..”(何事もなく八時間をやり過ごすことが望みで、たいていのことは卒なくこなしているように見えた)

文末の “down his street” だが、村上訳、田口訳では「(自分の)受け持ち区域」と訳されている。清水訳は「無事に八時間がすぎることだけが望みで、そのほかには何も屈託がないようだった」と敢えて触れていない。最新の市川訳は「八時間、大過なく勤めるのが望みで、人生は全て平穏無事であると思っているように見える」となっている。“up (down) one’s street”は「好みに合って、お手のもの」という意味の口語表現。この男がものごとに波風を立てないようにして生きることを信条にしていることを言っているだけのことで、「受け持ち区域」は関係がない。

“There were a couple of used paper towels in the trash bucket and a small wad of toilet paper on the edge of the washbasin.”(ゴミ箱には使用済みのペーパータオルが数枚、洗面台の縁には小さくまるめて水栓代わりにしたトイレットペーパーの塊があった)。この“small wad”だが、清水訳で「トイレットペイパーを巻いたの」と訳されていたのを、村上訳では「トイレット・ペーパーを水栓代わりに小さく丸めたもの」と補われ、田口訳もトイレットペーパーを丸めて栓がわりにしたもの」と踏襲されていた。ところが、市川訳では「小さなトイレット・ペーパーのロール」と先祖返りしている。

“wad”は辞書では、「(柔らかいものを丸めた)詰め物、当て物、パッキング (荷造り・穴ふさぎなどに用いる)」(名詞)。動詞の場合でも「〈穴などを〉(詰め物などで)ふさぐ」という意味だと書かれている。留置場内では、洗面台のゴム栓をつないでいるチェーンも、何らかの道具に使われることを懸念して外されているのだろう。この”wad”をわざわざ「ロール」に変える意味がわからない。

地方検事局のグレンツはケチな権力をひけらかす小心者だ。対抗姿勢をあらわにしたマーロウは、相手の言葉に構わず椅子に座り、煙草を取り出す。

“I got a loose cigarette out of my pocket and stuck it in my mouth.”(ポケットからばらで持っていた煙草を取り出し口に咥えた)。この“loose cigarette”だが、清水訳では「よれよれ(傍点四字)のタバコ」。村上訳は「ばら(傍点二字)で持っている煙草」。田口訳では「剥き出しで持っていた煙草」になっていた。市川訳では「巻きの緩んだタバコ」になっている。“loose”には「ゆるい」の意味もあるが「ばらの、包装されていない」の意味もある。収監時に所持品検査でパッケージごと取り上げられたものの、何本かはお目こぼしに預かったのでは、と推察される。ポケットから取り出すときに「巻きの緩んだ」と認識するのはいくらマーロウでも難しかろう。

マーロウの胆の据わっているのを見て、グレンツはお気に入りの決め科白を吐く。“They're all sizes and shapes when they come in here, but they all go out the same size--small. And the same shape--bent."(ここにやってくるやつはサイズも形も色々だが、出て行くときには同じサイズだ。小さくなってる。形も一緒だ。背を丸めている)。グレンツは“They're all sizes and shapes when they come in here”とだけ言っており、具体的な格好やサイズには触れていない。これまでの訳は「サイズも恰好もいろんな(清水)」、「格好も違えば、サイズも違っている(村上)」、「サイズも形も様々だ(田口)」。

ところが、市川訳ではこうなっている。「ここには色んな奴が来る、でかいの細いの、威勢のいいの、しぶといの。だがな、出てくときにはみんなおんなじ大きさになる――ちっこくな。そしてみんなおんなじ格好だ――うなだれてな」。下線を施した部分は原文にはない。訳者の創作である。市川訳は一見こなれた訳に見えるが、随所に訳者の補説が入る。これまでの訳者は、それなりに原作に忠実に訳そうとしてきた。かなり噛みくだいた訳に見える村上訳でも、そこは変わらない。原文にないものを翻訳者がつけ加えることをどこまで許容するのかは議論が分かれるところだが、分かりづらい部分を解きほぐすのと、勝手に文章をつけ加えるのはわけがちがう。ここに、市川氏が挿入した文が必要かどうか。私見ではさして必要とも思えない。訳者としての分をわきまえるべきではないだろうか。

"Hard little men in hard little offices talking hard little words that don't mean a goddam thing.”(熱心な小者連中が、殺風景な小部屋で、小耳にはさんだそらごとをしゃべり散らすことにさ)は、チャンドラーお得意の同じ言葉を使って異なる意味を表現するレトリックだ。“hard”も“little”も、よく使われる形容詞なので、三度繰り返されるここをどう訳すかは訳者の腕が問われるところだ。

清水訳は「殺風景な部屋でくだらない人間がくだらないことをしゃべることさ」と例によってあっさり意訳してすませている。これもありかも知れない。

村上訳は「きりきりしたちっぽけなオフィスに、きりきりしたちっぽけな男がいて、きりきりしたちっぽけな言葉で、中身のない話をすることにだよ」

田口訳は「めんどうくさいけちなオフィスで、めんどうくさいけちな男たちに、めんどうくさいけちなたわごとを聞かされることにだ」

市川訳は「不愉快な小物共に不愉快な小部屋で空っぽで不愉快な話をだらだらと聞かされることにだ」

清水氏以外の訳者は“hard little”を、それぞれ「きりきりしたちっぽけな」、「めんどうくさいけちな」、「不愉快な小~」と、あくまで一続きの二語を三度使うことに固執しているが、翻訳の文章は言葉そのものよりも文意を大事にするべきだ。“little”は後に来る名詞の大きさを表しているので、あまり無理のない訳になっているが、“hard”は、後に続く名詞によって訳し方を変える必要がある。村上訳の「きりきりした(ちっぽけな)オフィス」も田口訳の「めんどうくさい(けちな)オフィス」も、じつのところどんなオフィスなのかよくわからない。解釈を読者に委ねている、というより訳者としての仕事の放棄ではないか。市川訳の「不愉快な」は、訳語を練ること自体を放棄しているとしか思えない。

グレンツの話のなかに、レノックスらしき人物が英語がわからないふりをした、というくだりが出てくる。マーロウがすかさず口をはさむ。"If it _was_ Lennox,"と。これだけのところが市川訳だとこうなる。「もしその男がレノックスなら「ふり」というのは正しい」。「『ふり』というのは正しい」とありもしないマーロウの科白をつけ加える必要があるだろうか? こういうのを蛇足という。

もうひとつ、市川訳は、これまでの訳で踏襲されてきた地名、人名などの固有名詞をいくつも改変している。たとえば、レノックスが飛行機を降りた町の名は、これまで「オタトクラン」(Otatoclán)だったが、市川訳では「オクトクラン」になっている(一度きりではないので、単なる誤植ではない)。また「シルヴァノ・ロドリゲス(Silvano Rodriguez)」(村上、田口訳ではシルバノ・ロドリゲス)が、「シルビオ・ロドリゲス」になっている。市川氏が参考にしたと書いているブラック・リザード版で確認したが、原文は上記の綴りになっている。改変のわけが知りたいところだ。

まだある。拳銃のことだ。「訳者あとがき」で市川氏は村上訳と田口訳を参考にしたと記している。実はレノックスがメキシコに逃亡する際に持っていた拳銃は原文では“Mauser 7.65”と書かれている。しかし、後にハーラン・ポッターがこの銃のことを「PPK」と呼んでいることから、これはモーゼルではなくワルサーだったことが明らかだ。村上訳までは原文通り「モーゼル」となっていたのを、原著者の誤りだとし、「ワルサー」に書き換えたのが田口訳だった。ところが、市川氏はそれを元に戻し、あろうことか、原文にあった「PPK」という表記のほうを削除してしまった。村上訳には「PPK」という記述が残っている。これは、原作者の誤りは誤りとしてそのままにしたということだろう。銃器に詳しい読者なら、これは「ワルサー」のことだとわかる。しかし、「PPK」を削除してしまったら、それさえ分からなくなる。訳者として不誠実な態度ではないか。

録音機を切ってくれ、というマーロウに、グレンツは"You like it in jail?"(刑務所が好きなのか?)と訊き返す。それに対するマーロウの答えが"It's not too bad. You don't meet the best people, but who the hell wants to?” 清水訳は「それほど居心地はわるくないからね。たしかにりっぱな人間には会えないが、りっぱな人間なんかに会いたいとは思わない」。村上訳は「とくに悪くはない。立派な人間に会える機会はまずないが、今更立派な人間に会ってどうなるっていうんだ?」。田口訳は「ああ、悪くはない。この上ない善人には会えないが。しかし、誰がそんなやつらに会いたがる?」と、ほぼ同じ訳だ。

市川訳ではこうだ。「それもいいかもな。私は言いなりになる証人なんかじゃない。誰がおいそれと検察の言いなり証人になんかなるもんか」。“best people”を「立派な人間」と捉えるか、「(誰かにとって)最適な人間」と捉えるかのちがいだ。“not too bad”は「捨てたもんじゃない」という意味の常套句。話はそこで終わり、そこから話題はグレンツがほしがっているマーロウの陳述についてに移っている、というのが市川氏の解釈だ。コンテクストというものがある。「文脈」でもいい。ここで、留置場での人との出会いに話を持っていく必要はない。それより、検察側の証人としての自分の不適格性について語るほうが文脈上よほど自然だ。

腹の虫の収まらないグレンツの最後の恨み節。“This rap will be hanging over you for a long long time, cutie.”(今回の容疑はこれからもずっとおまえにかけられたままだ)。清水訳では「この事件はいつまでもお前にくっついてまわるぞ」。村上訳は「この容疑はこれから長い間、あんたの頭の上に剣のようにぶらさがることになる」。田口訳は「今回の容疑はこれからもずっとおまえの首にかけられたままになる」だ。市川訳では「ここでの会話はお前にいつまでも付きまとう」と新しく「会話」の語をあてているが、“rap "は「おしゃべり」の意味もあるが「犯罪容疑」等を指す俗語でもある。容疑者死亡で幕引きとなってはいるものの、マーロの事後従犯容疑は限りなく黒に近い。ここは「容疑」でいいのでは。蛇足ながら、“hang over”は「(事態・状態・問題などが)以前からそのまま残っている、未決のままである、持ち越される」の意味。「剣」だの「縄」だのという物騒な言葉を持ち出す必要はないように思う。

マーロウを迎えに来たスプランクリンの科白。"Man likes to get to home nights once in a while."(人ってのは、たまには夜、家に帰りたくなるものだ)。“likes”と三人称単数現在の“s”がついていることからわかるように、この”Man”は、人間一般のことである。清水訳は「おれもたまには家で夜をすごしたいからな」と「人間一般」をスプランクリン自身に引き寄せている。村上訳も「たまには人間らしく家に帰って眠りたいんだ」と同様。田口訳は「人間はたまには夜、家に帰りたくなるもんだ」と人間一般という解釈。市川訳は「たまには家に帰らなくっちゃ」と、主語をはっきりさせない。一晩中明かりが灯る部屋を出るにあたり、スプランクリンは「(仕事中毒のグレンツとちがって、おれたち普通の)人間は」と言いたかったのだろう。

第九章だけを見ても、最新の市川訳がかなり大胆な改訳を試みていることがわかる。いかにもプロといった田口訳が出たことで、これが今後の定本かと思ったものだったが、面白い展開になってきた。新訳に対する評価はともかく、もう一度あらためて原文を読み直す機会を与えてくれたことには礼を言いたいと思う。