キャンディピンク色のビルは「よくある」のだろうか?
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【訳文】
どんなに腕に自信があろうと動き出すには出発点が必要だ。名前、住所、地域、経歴、雰囲気といった何らかの基準になるものが。私が持っていたのは、くしゃくしゃになった黄色い紙にタイプされた文字だけだった。「きみが嫌いだ、ドクター・V。だが、今はきみが頼りだ。」これでは、太平洋に狙いを定め、ひと月かけて五、六 か所の郡医師会のリストを調べてみても収穫はほぼゼロだろう。我々の町では、もぐりの医者はモルモットのように繁殖する。市役所から百マイル圏内には八つの郡があり、そのどの町にも医者がいる。本物の医者もいれば、魚の目を削ったり背骨の上で飛び跳ねたりする免許を通信販売で取ったいかさま師もいる。本物の医者の中にも、繁盛している医者も貧乏医者もいる。道徳的な医者もいれば、なりふり構っていられない医者もいる。禁断症状が出てきた金持ちのアル中患者は、ビタミンや抗生物質の業界で遅れをとっている多くの老いぼれ医者にとって、またとない金づるだ。しかし、手がかりがなければ、どこから手をつけていいのかわからない。 私には手がかりがなく、アイリーン・ウェイドも持っていないか、持っていても気づいていなかった。 それに、たとえイニシャルがぴったり合う誰かを見つけたとしても、ロジャー・ウェイドに関する限り、結局架空の人物だったということになりかねない。紙切れの文句は、煮詰まったときにたまたま頭の中をよぎったものかもしれない。スコット・フィッツジェラルドの引喩が、単なる風変わりな別れの挨拶かもしれないのと同じように。
こんなとき、小物は大物の知恵を借りようとする。そこで、ベヴァリーヒルズにあるけばけばしい興信所にいる知り合いに電話した。カーン協会(オーガニゼーション)は富裕層の顧客の保護が専門だ。「保護」というのは、法の内側に片足を突っ込んでさえいればほぼ何でもやる、といった意味合いだ。男の名前はジョージ・ピーターズ、さっさと済ませるなら十分間だけ時間をやる、と言った。
カーン協会はキャンディピンクに塗られた四階建てのビルの二階の半分を使っていた。エレヴェーターのドアは自動で開き、廊下はひんやりとして静かで、駐車場にはすべての区画に名前が書いてあり、正面ロビー脇の薬局の薬剤師は調合した睡眠薬を瓶に詰めるので手首をいためていた。
ドアの外側はフレンチ・グレイで、金属製の文字が浮き出ていた。新品のナイフのように切れ味鋭い字体で「カーン協会、代表取締役、ジェラルド・C・カーン 」。その下に小さく「入り口」とある。以前は投資信託会社だったのかもしれない。
中は狭くて醜い応接室になっていたが、その醜さは意図的で金がかかっていた。家具は緋色と濃緑色、壁は平板な暗緑色、それより三段階ほど暗い色調の緑色の額に入れた絵が壁にかかっていた。どれも大きな馬に乗った赤い上衣の男たちが、狂ったように高い障害物を飛び越えている絵だ。縁なしの鏡が二つかかっていた。かすかだが、胸が悪くなるのに充分なローズピンクの色がつけてある。磨き上げられたプリマヴェラ材のテーブル上に置かれた雑誌は最新号で、どれも透明なビニールのカバーがかかっていた。この部屋の内装をした男は、色に対する恐れというものを知らない。たぶんそいつは、赤唐辛子色のシャツを着て、暗赤紫色のズボン、縞馬柄の靴、鮮やかな蜜柑色のイニシャルを入れた朱色のズボン下を履いているのだろう。
すべては見せかけに過ぎない。カーン協会の顧客は最低でも一日百ドル取られ、顧客は自宅でのサーヴィスを期待していた。待合室に座って待つような真似はしない。カーンは憲兵隊の元大佐で、ピンクと白い肌の大男で厚板のごとく頑丈だった。一度仕事をオファーされたことがあったが、私はそれを受けるほど困ってはいなかった。くそ野郎になるには百九十の方法があるが、カーンはそのすべてを知っていた。
擦りガラスの仕切りがするりと開いて、受付係が私を見た。彼女は鉄のような笑みを浮かべ、眼は尻ポケットの財布の中の金を数えることができそうだった。
「おはようございます。ご用件は?」
「ジョージ・ピーターズに会いたい。名前はマーロウだ」
彼女は緑の革の帳面を棚に置いた。「ご予約は頂いておりますでしょうか、ミスタ・マーロウ。予約リストにお名前がありませんが」
「個人的な要件でね。さっき電話で話した」
「わかりました。お名前のスペルは? ミスタ・マーロウ。それと、ファーストネームをお願いします」
私は彼女に言った。彼女はそれを細長い用紙に書き留め、端を打刻機の下に滑り込ませた。
「誰の気を引くつもりだ?」私は訊いてみた。
「ここでは細部にこだわっています」と彼女は冷ややかに言った。 「些細なことがいつ最重要事項になるか分からない、とカーン大佐は言っています」
「逆もまた真なり」 と私は言ったが、彼女には分らなかった。事務手続きを終えると、彼女は顔を上げて言った。
「ミスタ・ピーターズに知らせます」
それは重畳、と彼女に言った。一分後、鏡板の間のドアが開き、ピーターズが私を軍艦色(バトルシップ・グレイ)に塗られた廊下に招き入れた。そこには監房を思わせる小さなオフィスが並んでいた。彼のオフィスの天井には防音対策が施され、グレイのスチール製のデスクとそれに合わせた椅子が二脚、グレイのスタンドにグレイのディクタフォン、壁や床と同色の電話とペンセットがあった。壁には額装された写真が二枚飾られていた。一枚は憲兵隊のヘルメットをかぶった制服姿のカーン、もう一枚は机の後ろに座り、神妙な面持ちの私服姿のカーンだった。また、額装された小さな社訓が壁にかかっていた。グレイの地に堅苦しい書体でこう書かれていた。
カーン協会員は、いついかなる場でも、紳士の如く装い、話し、振る舞う。この規則に例外はない。
ピーターズは部屋を大股の二歩で横切り、額のひとつを脇に押しやった。その後ろのグレイの壁には、グレイのマイクが仕掛けられていた。彼はそれを引き抜き、配線を外して元の位置に戻した。そしてまた額をその前に動かした。
「たった今、おれは失業したところだ」と彼は言った。「ただし、飲酒運転で起訴されそうになった俳優のため、御大自ら事件のもみ消しにお出ましとなれば話は別だ。マイクのスイッチ類はすべて野郎のオフィスにある。マイクはどの部屋にもついている。先日の朝、待合室の薄手の鏡の裏に赤外線を使ったマイクロフィルム・カメラを設置するよう提案した。そのアイデアはあまり気に入らなかったようだ。誰かがすでにやっていたからかもしれない」
彼は硬めのグレイの椅子のひとつに腰を下ろした。私は彼を見つめた。ぎごちなく動く脚の長い男で、骨ばった顔の髪の生え際が後退しかけていた。肌は、長時間あらゆる天候に晒されてきた男らしくざらついていた。眼は窪んでいて、鼻の下が鼻と同じくらい長い。にやりと笑うと、顔の下半分が鼻翼から大きな口の端まで続く二本の巨大な溝のなかに消えた。
「こんな扱い、どうやったら我慢できるんだ?」私は彼に訊いた。
「座れよ、相棒。一息ついて声を落とすんだ。それと、おまえみたいなけちな探偵にとってカーンの調査員は、手回しオルガン弾きの猿にとってのトスカニーニと同じだってことを忘れるな」彼は間を置いてにやりと笑った。「我慢も何も、そんなことおれはちっとも気にしちゃいない。いい金になるしな。それに、カーンが戦時中にイギリスで仕切ってた厳重警戒刑務所の囚人みたいにおれのことを考えはじめた時には、いつでも小切手を受け取っておさらばするよ。どうかしたか? ちょっと前、ひどい目に遭ったらしいな」
「いつものことさ。『鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)』に関するファイルを見たい。持っているのは知っている。エディ・ダウストがここを辞めた後に教えてくれた」
彼はうなずいた。「エディはカーン協会にいるには、ちょっと繊細すぎたんだ。おまえのいうファイルは最高機密だ。いかなる機密情報も部外者に漏らしてはならない。すぐに持ってきてやる」
彼が出て行くと、私はグレイの屑かご、グレイのリノリウム、そしてデスク・ブロッターの角を縁取るグレイの革をじっと見つめた。 ピーターズはグレイの板紙表紙のファイルを手に持って帰ってきた。 彼はそれを置いて開けた。
「勘弁してくれ、ここにグレイでないものはないのか?」
「スクールカラーだよ。当協会の精神だ。ああ、グレイでないものもある」
彼は机の抽斗を開けて八インチほどの長さの葉巻を取り出した。
「アップマン・サーティ」と彼は言った。「年配の英国紳士からのプレゼントだ。カリフォルニアに住んで四十年になるが、いまだにラジオのことをワイアレスと呼ぶ。素面のときはうわべだけの魅力を振り撒くただの年寄りのオネエだが、おれにはどうだっていい。たいていの男はうわべだけであろうとそうでなかろうと魅力なんてものを持ち合わせてはいないからだ。カーンも含めてな、あいつは錬鉄職人の下穿きくらいの魅力しか持ち合わせていない。ところがこの依頼人、素面じゃないときは見ず知らずの銀行の小切手を振り出す変わったくせがある。いつもきちんと金を払うし、おれの助けもあってブタ箱入りは免れている。彼がこれをくれた。いっしょにやろうや。大虐殺を企てている二人のインディアンの酋長みたいに」
「葉巻はやらないんだ」
ピーターズは巨大な葉巻を悲しそうに見た。「おれもだ」と彼は言った。「カーンにやろうと思ったんだ。しかし、あきらかにこれは一人用の葉巻(ワンマン・シガー)じゃない。いくらカーンがワンマンだとしてもな」彼は眉をひそめた。「気づいたか? おれはカーンのことをしゃべり過ぎてる。いらついてるしるしだ」彼は葉巻を抽斗に戻し、ファイルを開いて見た。「それで、どうしたいんだ? これ」
「金持ちのアル中を捜してる。そこに名を連ねる輩を喜ばせるのが何より好きという金のかかる趣味の持ち主だ。今のところ、不渡り小切手は出していない。とにかくそうは聞いてない。暴力癖があり、夫人はそっちを心配している。彼女は、夫がどこかのアル中の矯正施設に潜伏していると考えているが、確証はない。唯一の手がかりはドクター・Vがどうのこうのという戯言だけ。頭文字だけだ。いなくなってもう三日になる」
ピーターズは私の顔を思慮深げに見つめた。「そんなに経ってない」と彼は言った。「何が気になるんだ?」
「先に見つけたら、金になる」
彼はさらに私を見て、かぶりを振った。「 解せないが、まあいい。見てみよう」 彼はファイルのページをめくり始めた。「簡単なことじゃないんだ。この連中は絶えず入れ替わる。頭文字だけじゃ、たいした手がかりにならない」。彼はフォルダーからあるページを抜き取り、さらにページをめくり、別のページを抜き取り、最後に三枚目を抜き取った。「ここに三人いる。ドクター・エイモス・ヴァーリー、整骨医。アルタデナに大きな施設がある。五十ドルで夜間に往診する、あるいはしていた。正規の看護師が二人いる。数年前に州の麻薬捜査官と揉めて、処方記録を押収されている。ただしこの情報は最新ではない」
私はアルタデナの住所と名前を書き写した。
「次にドクター・レスター・ヴカニック。耳鼻咽喉科、ハリウッド・ブールヴァードのストックウェル・ビル。こいつは大物だ。オフィス診療が中心で、慢性副鼻腔炎を専門にしているようだ。手際が良すぎる。患者が副鼻腔炎による頭痛を訴えると、鼻の穴の洗浄をしてくれる。まずノボカインで麻酔をする。だが、相手の出方次第では必ずしもノボカインである必要はない。わかるか?」
「もちろん」 私はそれを書き留めた。
「こいつはいい」ピーターズはさらに読み進めた。「彼の問題は明らかに物資の供給面だろう。そこで、われらがドクター・ヴカニックは、しょっちゅうエンセナーダまで釣りに出かける。それも自家用機で」
「自分でヤクを持ち込めば、長くはもたないだろう」と私は言った。
ピーターズはそれについて考え、かぶりを振った。「そうとも限らない。欲をかきすぎなければ、永遠に続けられるだろう。唯一の危険は、不満を持つ顧客-―失礼、つまり患者―だが、彼はおそらくその扱い方を心得ている。十五年も同じオフィスで働いているんだ」
「どこからこんな情報を手に入れるんだ?」私は彼に訊いた。
「おれたちは組織だ。おまえのような一匹狼じゃない。依頼人自身から得たものもあれば、内部から得たものもある。カーンは金を使うことを恐れない。その気になれば、社交家にもなれる」
「この話を聞いたら彼は大喜びだろう」
「あいつなんかくたばるがいい。本日、最後に提供できるのはヴェリンジャーという男だ。こいつをファイルに入れた調査員はとうにやめている。ある女性詩人がセパルヴェダ・キャニオンのヴェリンジャーの牧場で自殺したことがあるようだ。彼は、隠遁と和やかな雰囲気を求める作家などのための芸術家コロニーのようなものを運営している。料金は控え目だ。まともに見える。ドクターを自称しているが、医療に携わってはいない。博士号を持っているのかもしれない。正直言って、なぜここに入っているのかわからない。この自殺に何かあったのでなければ」彼は白紙に貼られた新聞の切り抜きを手に取った。「ああ、モルヒネの過剰摂取だ。ヴェリンジャーがそれに関与していたことを示唆するものはない」
「ヴェリンジャ―が気に入った」私は言った。「大いに気に入った」
ピーターズはファイルを閉じ、ぴしゃりと叩いた。「おまえはこれを見ていない」と彼は言った。彼は立ち上がり、部屋を出て行った。彼が戻ってきたとき、私は立ち去ろうとしていた。私は彼に礼を言おうとしたが、彼はそれをさえぎった。
「いいか」と彼は言った。「おまえの捜している男がいそうな場所は何百もあるはずだ」
わかっている、と私は言った。
「ところで、お友だちのレノックスについて、興味を引きそうな話を聞いた。五、六年前、うちの調査員がニューヨークで、その人相にそっくりな男に出くわしたんだ。しかし、その男の名前はレノックスではなかったそうだ。マーストンだ。もちろん、人違いかもしれん。あいつはいつも酔っ払っていたから、確かなことは言えない」
私は言った。「人違いだろう。なぜ名前を変える? 軍歴を調べればわかることだ」
「それは知らなかった。そいつは今シアトルにいる。その気があるなら、帰ってきたら話してみてくれ。名前はアシュターフェルトだ」
「いろいろ世話になった、ジョージ。長い十分間だった」
「いつかこっちが世話になるかもしれん」
「カーン協会は」と私は言った。「いかなる相手からもいかなる援助も必要としない」
彼は親指で下品な仕種をした。私は彼をメタリック・グレイの監房に残し、待合室を通り抜けた。今は何の問題もないように見える。監房の後では派手な色彩も理にかなっていた。
【解説】
大手の探偵社であるカーン協会を訪ね、旧知の間柄であるジョージ・ピーターズを通じて、もぐりの医者のファイルを手に入れようとするマーロウ。
With that I could pinpoint the Pacific Ocean, spend a month wading through the lists of half a dozen county medical associations, and end up with the big round 0.
「これでは、太平洋に狙いを定め、ひと月かけて五、六 か所の郡医師会のリストを調べてみても収穫はほぼゼロだろう」
ウェイドを探す手がかりとしてマーロウが手にしているのは、しわくちゃになった紙片に書かれたドクター・Vというイニシャルのみ。これだけでは雲をつかむような話だという喩えとして挙げたのが上記の文である。清水訳では「これだけの手がかりでは、一ヵ月かかって各郡の医師組合のリストをあさっても、結果はゼロにきまっている」と、一読して分かるように“I could pinpoint the Pacific Ocean”をトバしている。
これは村上訳でも「これだけではまさに五里霧中だ。一ヵ月かけて五つか六つの郡(カウンティー)の医師協会のリストを調べまくって、その結果収穫はゼロというのが関の山だろう」となっていて、「五里霧中」という意訳になっている。
田口訳になって初めて「それだけの情報をもとにできることと言えば、大西洋を指差してここが大西洋だと言える程度のことだろう。ひと月かけて五つか六つの郡の医師協会のリストを調べても、収穫はおそらくゼロだろう」と、「太平洋」を「大西洋」と取り違えてはいるものの、場所に関する言及がなされることになる。
市川訳は「これを頼りに太平洋に狙いを定め、ひと月の間、半ダースもの郡医師会名簿をしらみつぶしに調べたとしても結局得られるのはでっかい円だけ、つまりゼロだ」とめずらしく(と言っては悪いが)いい仕事をしている。“pinpoint”は「(的などを)正確に狙う」という意味の他動詞。マーロウが本拠地にしているロスアンジェルスは太平洋に面した都市だ。次にくるのが時間だから、その前にあるのは場所と考えれば「太平洋(側)に狙いを定め」というのはよくわかる。これがなぜこれまで普通に訳されてこなかったのか理由がよくわからない。
They had half the second floor of one of these candy-pink four-storied buildings where the elevator doors open all by themselves with an electric eye, where the corridors are cool and quiet, and the parking lot has a name on every stall, and the druggist off the front lobby has a sprained wrist from filling bottles of sleeping pills.
「カーン協会はキャンディピンクに塗られた四階建てのビルの二階の半分を使っていた。エレヴェーターのドアは自動で開き、廊下はひんやりとして静かで、駐車場にはすべての区画に名前が書いてあり、正面ロビー脇の薬局の薬剤師は調合した睡眠薬を瓶に詰めるので手首をいためていた」
マーロウの眼で見たカーン協会の外観である。冒頭の部分、清水訳は「オフィスは四階のビルの二階を半分つかっていた。このへんでよく見かけるお菓子のようなピンク色のビルで」。村上訳は「よくあるキャンディー・ピンクの四階建てビルにその会社はあった。二階の半分を占めている」。さらに田口訳でも「〈カーン・オーガニゼーション〉はよくあるキャンディピンクの四階建ての建物の二階の半分を占めていた」となっている。
市川訳では「カーン協会はケバケバしいピンクに塗られた四階建てのビルの二階半分を使っていた」とそれまでの訳にあった「よくある」が抜けている。これはどういうことかというと、清水訳が“one of these”(どちらか一つ)を“one of those”(よくある)と誤読したのを、村上、田口両氏が原文をよく確かめることなく旧訳を踏襲したことから起きたと思われる。キャンディーピンクという色は、ちょっとビルの色としてはあり得ないほど派手な色で、いくらハリウッドの近くでもそうそうは見かけない色だ。これを「よくある」と訳すのはいかにもまずい。
The door was French gray outside with raised metal lettering, as clean and sharp as a new knife.
「ドアの外側はフレンチ・グレイで、金属製の文字が浮き出ていた。新品のナイフのように切れ味鋭い字体で」
オフィスの前にやってきたマーロウがまず目にするのがこれだ。清水訳は「ドアの外がわはフレンチ・グレイに塗られていて、新しいナイフのようにあざやかな金属製の文字がうき出ていた」。“clean and sharp”は「あざやかな」の一言にまとめられている。
村上訳は「ドアの外側はフレンチ・グレーで、金属のレタリングが浮き上がっていた。ナイフみたいに鋭く光っている」。田口訳は「ドアは外側が緑がかったグレーで、新品のナイフみたいにきらきらして、角の鋭い金属のレタリングが貼りつけてあった」
市川訳は「カーン協会のドアはしゃれたグレーでそこには鋭くはっきりした真新しいメタリックで会社名などが記されていた」。ナイフの喩えが消えているだけでなく、マーロウが見ているのが(ドアの)外側であることも、レタリングがドアから浮かび上がっていることも消えている。ちなみに「フレンチ・グレー」は、別に「しゃれたグレー」ではない。落ち着いた標準的な灰色のことだ。
チャンドラーは一体何を「新しいナイフ」に喩えたのだろう。それは“as clean and sharp as”の前にある“raised metal lettering”(浮き彫りにされた金属製のレタリング)である。その表面が滑らかで、角が鋭く立ち上がっているのをナイフに喩えているのだ。おそらくフォントはうろこ状のセリフを持つローマン体だろう。無機的な灰色の地に、触れたら切れそうな感じがする金色の文字が浮かび上がっているところにカーン協会の持つ非情さがよく現れている。
受付係がマーロウの名前を書いた用紙の端を打刻機に挿むのを見て、マーロウが言う台詞。
"Who's that supposed to impress?"
「誰の気を引くつもりだ?」
清水訳は「仰々しいですな?」。村上訳は「そういうことをして誰か喜ぶのかな?」。田口訳は「今のはどういうやつを感心させるための作業なんだね?」。市川訳は「これ見てさすが!って思う客はいるのかな?」とそれぞれ苦労して訳している。
受付係がタイム・レコーダーで客の名と来訪時刻を印字する。ただそれだけのことだ。マーロウはいったいその作業の何が気になったのか。四人の訳者もそれがよく分からないので、それぞれ知恵を絞ったにちがいない。実は、“impress”には「人を感動させる」という意味とともに、文字通り「刻印する」という意味がある。チャンドラー得意のダブル・ミーニングだ。掛詞を使うことで、カーン協会のトリビアリズムをちょっと揶揄ってみたのだろう。その意味では清水訳が最適解かもしれない。
受付係に呼ばれたピーターズが顔を出す場面。
A minute later a door in the paneling opened and Peters beckoned me into a battleship-gray corridor lined with little offices that looked like cells.
「一分後、鏡板の間のドアが開き、ピーターズが私を軍艦色(バトルシップ・グレイ)に塗られた廊下に招き入れた。そこには監房を思わせる小さなオフィスが並んでいた」
“a door in the paneling”が市川訳では「二枚の鏡の間にあるドア」になっている。これはおかしい、少し前のところで「二枚の鏡」は“two frameless mirrors”と複数形で書かれている。“paneling”とは「鏡板、羽目板」と呼ばれる壁などに張る一枚板のことだが、板というより壁そのものを指す。この部屋の場合、板張りの壁にドアが設置されていると考えられる。清水訳は「しきり(傍点三字)の一部にあるドア」、村上訳は「パネル張りの壁についたドア」、田口訳は「パネル張りの壁と壁とのあいだのドア」になっている。
待合室の色について書かれたパラグラフの中に“the walls were a flat Brunswick green”と書かれていた。つまり、壁全面がブランズウィック・グリーンに塗られているわけだ。外側から見たときフレンチ・グレイだったドアも内側はブランズウィック・グリーンに塗られているのだろう。だから、マーロウはわざわざ“a door in the paneling”と書いたのだ。つまり開くまでは、ピーターズが顔を出したドアもただの一枚の壁のように見えていたにちがいない。“outside”と“inside”と書いたのにはそういう意味があったのだ。
マーロウが部屋に入ると、ピーターズは部屋に仕かけられていた盗聴器の配線を遮断してから口を開く。
"Right now I'd be out of a job," he said, "except that the son of a bitch is out fixing a drunk-driving rap for some actor.
「たった今、おれは失業したところだ」と彼は言った。「ただし、飲酒運転で起訴されそうになった俳優のため、御大自ら事件のもみ消しにお出ましとなれば話は別だ。(拙訳)
「いま、べつに仕事はないんだ」と彼はいった。「ある俳優の酔っぱらい運転のもみ消しだけなんだ」(清水訳)
これはおかしい。盗聴器を切ったことと話がつながっていない。村上訳はこうだ。
「これで僕は職を失いかねない」と彼は言った。「もっとも大将は今、酔っぱらい運転で告訴されているさる俳優の面倒を見るために外出しているから、心配はない」
侮蔑表現である“son of a bitch”を「大将」と訳すのは穏便に過ぎるが、文意は通っている。田口訳は「こういうことをすると馘(くび)になってもおかしくないんだけど、ボスは今、ある俳優が酔っぱらい運転で起訴されそうになっている件で外出中でね」と、こちらは「ボス」に昇格している。
「これは馘もんだ」と言った。「まあ、あいつは今、ある映画スターがしでかした飲酒交通事故の後始末に出かけているから問題ない」(市川訳)
“drunk-driving rap”を「飲酒(による)交通事故」にしてしまうのは問題だが、意味的には先の二人とよく似た訳になっている。ただし、どの訳も“Right now”に込められた切実さが今一つ伝わってこないきらいがある。元憲兵がつくり上げた監視装置でガチガチに固められた組織に属する一員が、フリーの私立探偵にその非人間的な扱いを愚痴ってるところだ。もっと自虐的な表現にしてもいいのではないか。
以下は、ピーターズの容貌をカリカチュア風に描写している部分なのだが、どうにも頭に絵が浮かんでこない。
He had deep-set eyes and an upper lip almost as long as his nose. When he grinned the bottom half of his face disappeared into two enormous ditches that ran from his nostrils to the ends of his wide mouth.
「眼はふかくくぼんでいて、上唇が鼻とおなじくらい長かった。笑うと、顔の下半分が鼻孔から大きな口の両端にとどく二本のふとい溝のなかに消えた」(清水訳)
「目はくぼんでいて、上唇が鼻とほとんど同じくらい前に突き出している。にやりと笑うと、顔の下半分は、鼻の穴から大きな口の両端にかけて生まれる二つの巨大な溝の中に消えてしまう」(村上訳)
「眼は奥まっていて、上唇が鼻と同じくらい横に長い。だから笑うと、小鼻の脇から広い口の両端に延びる二本のほうれい線が深い溝となって、顔の下半分が消えてしまう」(田口訳)
「目は落ちくぼんでいて鼻の下は非常に長く、ほとんど鼻自体の長さと同じくらいだった。笑うと顔の下半分は大きく開いた口と二列の歯だけとなり、顎なんかは消えてしまう」(市川訳)
問題は“an upper lip almost as long as his nose”である。ある辞書に、こういう例文があった。“Your upper lip is the part of your face between your mouth and your nose.”つまり、“upper lip”とは、上唇ではなく、鼻から口に至る部分を指す場合があるということだ。市川訳にある「鼻の下」がそれである。“upper lip”を「上唇」とした時点でそれまでの訳は意味がよく分からない訳になっていた。訳者自身もイメージが描けていなかったからだ。
鼻の下が長い顔ならイメージできる。伊藤雄之助や嶋田久作のような顔である。容貌魁偉とでも言えばいいのだろうか。この点は市川訳のお手柄だが、後がいけない。“two enormous ditches that ran from his nostrils to the ends of his wide mouth.”を「笑うと顔の下半分は大きく開いた口と二列の歯だけとなり」と訳すことには無理がある。
“nostrils”も「鼻の穴、鼻孔」ではなく、「小鼻、鼻翼」と考えた方がいい。そこから口の両端に刻まれる二本の溝は、年齢のせいでできる「ほうれい線」ではなく、笑ったときにできる「笑いじわ」である。鼻の下が長いことで、小鼻から口の両端まで延びる「笑いじわ」もまた異様に長くなるのだ。笑う道化師の顔を思い浮かべてもらえば、マーロウが伝えたかったピーターズの容貌が理解できるだろう。
自分のオフィスを盗聴されてることについて「よく我慢できるな」と訊いたマーロウに、ピーターズが答えた決め台詞。
"Sit down, pal. Breathe quietly, keep your voice down, and remember that a Carne operative is to a cheap shamus like you what Toscanini is to an organ grinder's monkey."
「座れよ、相棒。一息ついて声を落とすんだ。それと、おまえみたいなけちな探偵にとってカーンの調査員は、手回しオルガン弾きの猿にとってのトスカニーニと同じだってことを忘れるな」
“an organ-grinder's monkey”とは、「(手回しオルガン奏者が連れている猿のように指示されたことだけをする)重要でない人、取るに足りない人」のことをいう決まり文句。街頭で手回しオルガンを弾くのはあくまでも人間であり、猿は金を集める係だ。オルガンを弾くわけではない。ところが、最新の市川訳ではこうなっている。
「まあ座れ。落ち着け。声を落とせ。我々カーン協会にとってあんたみたいなしがない探偵は、トスカニーニから見たオルガンを弾こうとして挽いちまう猿みたいなもんだ」
どうしてこんなことになったのか? これまでの訳を見て推理してみよう。
「かけろよ。カーン協会の人間が君のような安っぽい探偵と話をするのは、トスカニーニが街頭オルガン弾きの猿と話してるようなもんだぜ」(清水訳)
「まあ座れ。一息ついて、声を落とせ。カーン機関の調査員から見た君のような安物探偵は、トスカニーニから見たオルガン弾きの猿みたいなものだ」(村上訳)
「坐れよ、相棒。そして、静かに息をして、声は低くしろ。そうして思い出すんだ。<カーン>の調査員にしてみれば、おたくみたいな貧乏探偵はトスカニーニから見たオルガン弾きの猿みたいなものだということを」(田口訳)
清水訳では「街頭オルガン弾きの猿」だったものが、村上訳で、ただの「オルガン弾きの猿」に変わり、田口訳もそれを踏襲したことにより、市川訳に至っては、とうとう猿がオルガンを弾くことになってしまっている。“an organ-grinder's monkey”が「重要でない人、取るに足りない人」を指す常套句であることを、清水氏はともかく、他の訳者は知っていたのだろうか。辞書には“organ grinder”は「(街頭、大道の)手回しオルガン奏者」と載っている。“grinder”となっているのは、「手回し」だからだ。これを村上訳のように「オルガン弾き」と訳すのは適切ではない。
マーロウはカーン協会を訪れた要件をピーターズに話す。
I'd like to look at your file on the barred-window boys.(『鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)』に関するファイルを見たい)
“barred-window”は「格子のはまった窓」のこと。鉄格子といえば監獄だが、この”boys“は檻の中にいるのか、それとも外にいるのか。清水訳は、ずばり「もぐり(傍点三字)の医者」だが、格子との関係は詳らかではない。村上訳は『カゴの鳥ファイル』と「格子」を活かしている。「籠の鳥」なら、“boys”は鳥籠の中に入っていると考えられる。警察の厄介になったことがある医者という意味か。田口訳は「監禁部屋所有医(バ-ド・ウィンドウ・ボーイズ)」、市川訳は『格子窓持ちの紳士録』で、この場合”boys“は格子窓のついた部屋を持つ医者という意味だ。ただ、ファイルにある医者が監禁部屋を持っているという事実は本文では明らかにされていない。“the barred-window boys”という名称には「監禁部屋所有医」というより「拘禁待ちの野郎ども」というニュアンスが近いと感じられるが、どうだろう。
そのファイルをどうしたいんだ、とピーターズに訊かれたマーロウが答えて言う。
"I'm looking for a well-heeled alcoholic with expensive tastes and money to gratify them.”(金持ちのアル中を捜してる。そこに名を連ねる輩を喜ばせるのが何より好きという金のかかる趣味の持ち主だ)
“gratify”は「喜ばせる、満足させる」の意。清水訳は「もぐり(傍点三字)の医者を満足させる趣味を持っている金持ちのアル中患者の行方を捜しているんだ」と“them”を医者と採っている。ところが、村上訳は「酒浸りの男を捜している。金のかかる趣味を持っていて、それを満足させるだけの金を持っている」と、“them”が「それ(趣味)」に変わっている。田口訳も「金のかかる趣味を持っていて、その趣味に興じられるだけの金を持っている酒びたりの金持ちだ」と村上訳と同じだ。市川訳は「金持ちのアル中を探している。その男はこのリストの中の誰かさんに金と贅沢品をたっぷり貢いでるはずだ」とリストに言及している。リストにあるのはウェイドが潜んでいそうな施設を持つ医者の名だ。マーロウがいう“them”とは彼らのことでなければ会話が成立しない。