HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十五章(2)

《私はブロディのところまで行き、彼の腹に自動拳銃を突きつけ、彼のサイド・ポケットの中のコルトに手を伸ばした。私は今では目にした銃をすべて手にしていた。それらをポケットの中に詰め込んで、片手を彼の方に出した。

「もらおうか」

彼はうなずき、唇を舐めた。目にはまだ怯えが残っていた。彼は胸ポケットから厚い封筒を取り出して私によこした。中には現像した乾板一枚と焼きつけた写真が五枚入っていた。

「まちがいなく、これで全部なんだな?」

 彼はもう一度うなずいた。私は封筒を自分の胸ポケットに入れ、振り返った。アグネスはダヴェンポートに戻って髪を整えていた。彼女の眼は憎悪を蒸留したような緑色で、カーメンを食い入るように見つめていた。カーメンもまた立ち上がり、片手を出して私の方に向かって来た。くすくす笑いと耳障りな呼吸音は続いていた。彼女の口の端には小さなあぶくがあった。彼女の小さな白い歯が唇の近くできらめいていた。

「今、それをもらえる?」彼女は遠慮がちな笑みを浮かべて私に訊いた。

「これは私が引き受けた。家に帰るんだ」

「家?」

 私はドアのところまで行き、外を見た。廊下に涼しい夜風が穏やかに吹きぬけていた。興奮した隣人が出入り口をふさいでもいなかった。小さな銃が発射されてガラスを割ったが、その程度の騒音を人は気にもしない。私はドアを開けて支え、カーメンに首を振った。彼女は曖昧な微笑を浮かべながらこちらに向かってきた。

「家に帰って私を待つんだ」私はなだめるように言った。

 彼女は親指を上げた。それから彼女はうなずいて私の脇を抜けて廊下に出た。彼女は出てゆくとき私の頬に指で触れた。「あなたはカーメンを引き受けてくれるのよね。ねえ?」

「その通り」

「あなたってキュート」

「君は何も知らない」私は言った。「私は右の太腿にバリ島の踊り子の刺青をしているんだ」彼女の眼が丸くなった。彼女は言った。「いけない子」そして私を指した指を上下に振った。それから彼女は囁いた。「銃を返してくれない?」

「今はだめだ。後で君のところに持って行く」

 彼女はいきなり私の首をつかんで口にキスした。「好きよ」彼女は言った。「カーメンはあなたが大好き」彼女は鶫のように快活に廊下を走り抜け、階段のところで私に手を振ると駆け下りて私の視界から去った。

 私はブロディのアパートメントに戻った。》

 

「彼女の眼は憎悪を蒸留したような緑色で、カーメンを食い入るように見つめていた」は<Her eyes ate Carmen with a green distillation of hate.>。双葉氏はあっさりと「目は緑色の憎悪に燃え、カーメンにかみついていた」と<distillation>をカット。村上氏は「憎しみを煮詰めたような緑色の目で、カーメンを睨みつけていた」だ。「蒸留」と「煮詰める」ことは同じではないだろう。だいたい、煮詰めて緑色になるものなんてあるのだろうか?ここは複雑に入り混じった感情の中から、純粋な憎悪だけが緑色の眼の中にあった、ととらえるべきだろう。

 

「これは私が引き受けた」は<I'll take care of them for you>。双葉氏は「僕が保管するから」。村上氏は「私が始末しておく」と訳している。単独なら、それでいいのだが、実はこれが後のカーメンの「あなたはカーメンを引き受けてくれるのよね。ねえ?」という台詞に関係してくる。原文は<You’ll take care of Carmen, won’t you?>。見ての通り、マーロウが写真について使った<take care of>(面倒を見る、世話をする)という決まり文句をカーメンは自分に当てはめている。

 

そこのところを、双葉氏は「あんた、カーメンの面倒を見てくれるわね?ねえ?」。村上氏は「あなたはカーメンの面倒を見てくれるのね。ねえ?」としている。カーメンの言葉に「言質を取った」という特別の意味が込められているとは、解釈していないようだ。ここは、あなたはさっき、確かに<take care of>と言ったよね?」と改めて確かめる意味の付加疑問だ。それが分かるように訳語を選ぶ必要があるだろう。両氏の訳では、なぜここでカーメンがこんなことを言い出したのかが分からない。誤訳ではないが、読み込み不足。

『大いなる眠り』註解 第十五章(1)

《彼はそれが気に入らなかった。下唇は歯の下に引っ込み、眉根は下がり眉山が尖った。顔全体に警戒感が走り、狡く卑しくなった。

 ブザーは歌いやまなかった。私もそれは気に入らなかった。もしかして訪問者がエディ・マーズと彼の部下だったら、私はここにいるだけで殺されるだろう。もし警察だったら、私は捕まるが、彼らにやれるものときたら微笑と約束だけだった。そして、もしそれがブロディの友人の類なら――彼にそんなものがいたとしてだが――彼より手強かったりするのだろう。

 ブロンドもそれが気に入らなかった。彼女は急に立ち上がり、片手で空を掻いた。張りつめた神経が彼女の顔を老けさせ、醜くした。

 私を見ながら、ブロディは机の小抽斗をぐいと引き、象牙の握りがついた自動拳銃を取り出した。彼はそれをブロンドに示した。彼女はそっと彼の傍に寄り、震えながらそれを受け取った。

「彼の隣に座れ」ブロディが鋭く言った。「低く構えて、ドアから離れるんだ。もしおかしな真似をしたら何とでもしろ。俺たちはまだ負けたわけじゃない。ベイビー」

「ねえ、ジョー」ブロンドが泣きながら言った。彼女はやってくるとダヴェンポートの私の隣に座り、銃口を脚の動脈に当てた。彼女の目が落ち着かないのが気に入らなかった。

 ブザーの唸りが止まり、それに代わって気ぜわしくドアを叩く音が続いた。ブロディはポケットの中に手を入れ、銃を握り、ドアまで歩いて左手で開けた。カーメン・スターンウッドが彼を部屋に押し戻した。小型のリヴォルヴァーが彼の褐色の薄い唇に押しつけられていた。

 ブロディはもごもごと口を動かせ、顔に恐怖の表情を浮かべながら後退りした。カーメンは後ろ手にドアを閉めたが、私とアグネスのどちらも見なかった。彼女は注意ぶかくブロディに忍び寄った。歯の間から少しだけ舌先がのぞいていた。ブロディは両手をポケットから出し、彼女をなだめようという身振りをした。両の眉は曲線と角度の奇妙な取り合わせになっていた。アグネスは銃口を私からカーメンの方へ振り向けた。私は手を突き出して彼女の手の上で指を閉じ、親指を安全装置に押しつけた。安全装置はかかっていた。私はそのまま続けた。短い沈黙の闘争があった。ブロディもカーメンもどちらも何の注意も払わなかった。私は銃を手にした。アグネスは深く息を吐き全身を震わせていた。カーメンの顔は肉がこそげ落ちたように骨ばり、息をするたびにしゅうしゅうと音がした。彼女は抑揚を欠いた声で言った。

「私の写真が欲しいの、ジョー

 ブロディは息をのんで笑いかけようとした。「いいとも、分かった、いいとも」彼は抑揚のない小声で言った。それは彼が私に使っていた声に似ていた。スクーターが十トントラックであるのと同じくらいには。

カーメンは言った。「あなたがアーサー・ガイガーを撃った。私はあなたを見た。私の写真を返して」ブロディは真っ青になった。

「ちょっと待てよ、カーメン」私は叫んだ。

 金髪のアグネスはにわかに正気づいた。彼女は頭を下げて私の右手に歯をくい込ませた。私は大声を上げ、彼女を振り払った。

「聴いてくれ」ブロディは哀れな声を出した。「ちょっとだけ聞いてくれ――」

 ブロンドは私に唾を吐き、私の脚に体を投げ出して噛みつこうとした。私は銃で彼女の頭を、加減して殴り、立ち上がろうとした。彼女は私の足にしがみつき、引き倒した。私はダヴェンポートに凭れ込んだ。ブロンドは強かった。愛か恐怖による乱心か、それとも二つが混ざったか、もしかしたらもともと強かったのかも知れない。

ブロディは顔の間近にあった小型のリヴォルヴァーをつかもうとした。彼はとり損ねた。銃は何かを叩いたような鋭い音を立てたが、さほど大きくはなかった。銃弾は折り畳まれたフレンチ・ウィンドウのガラスを割った。ブロディはひどいうめき声をあげて床に転げ落ち、カーメンの足を下からすくった。彼女はどたりと倒れ、小型のリヴォルヴァーが部屋の隅まで滑っていった。ブロディは跳ね起きて膝をつき、ポケットに手を伸ばした。

 私は前よりは手加減せずアグネスの頭を殴り、彼女を蹴って脚から振りほどき、立ち上がった。ブロディが私の方をちらりと見た。私は彼に自動拳銃を見せた。彼はポケットに入れかけた手をとめた。

「くそっ」彼は泣き言を言った。「彼女に俺を殺させないでくれ」

 私は笑いはじめた。抑えが効かず、馬鹿のように笑った。金髪のアグネスは敷物に手をつをいて床から起き上がりかけていた。口を大きく開き、金属の色味を帯びた金髪が一筋彼女の右目の上に垂れていた。カーメンは手と膝で這い続け、相変わらずしゅうしゅうやっている。彼女の小型リヴォルヴァーが隅の幅木を背に、金属特有の光を放っていた。彼女はそれに向かってひたすら這い進んでいた。

 私は自分の取り分となった銃でブロディに合図して言った。「じっとしてろ。大丈夫だ」

 私は四つん這いの娘を通り越して銃をつまみ上げた。彼女は私を見上げるとくすくす笑い出した。私は彼女の銃をポケットに入れ、彼女の背中を軽く叩いた。「立つんだ、エンジェル。君はまるで狆みたいだ」》

 

「下唇は歯の下に引っ込み、眉根は下がり眉山が尖った」は<His lower lip went in under his teeth, and his eyeblows drew down sharply at the corners.>。双葉氏は「下くちびるをかみ、眉の根をぐいと下げ」、村上氏は「歯で下唇を噛みしめ、眉をきつくしかめた」。気になるのは、両氏ともにこの文の主語がブロディになっていることだ。原文はちがう。たしかに日本語としての座りはよくなるが、主語をブロディにしたことで、彼の意志が出ている。ここはあくまでもマーロウの視点で語るべきだ。

 

「彼はそれをブロンドに示した」は<He held it at the blonde.>。両氏ともに「金髪のほうへ差し出した」、「それを金髪女に差し出した」と訳している。既出の<hold it>だが、これを「差し出した」と訳すことに抵抗がある。いい訳が思いつかなかったが、ブロディは取り出した銃を差し出してはいない<He held it >。ただ、ブロンドに<at the blonde>見得るように持っていたのだ。そこには言外に「お前がこれを使え」の意味が込められていた。だから、ブロンドは泣きながらもそれを手にしたのだろう。

 

「俺たちはまだ負けたわけじゃない。ベイビー」は<We ain’t licked yet, baby.>。ここを双葉氏は「おれたちはまだなめられちゃいないんだ」と訳している。たしかに<lick>は「舐める」の意味だが、「まだなめられちゃいないんだ」はおかしい。<lick>には口語表現で「打ち負かす」の意味がある。村上氏は「俺たちにもまだ勝ち目はあるんだ。ベイビー」と訳している。もう一つ、いつものことながら双葉氏は――部分をカットしている。

 

「彼女の目が落ち着かないのが気に入らなかった」は<I didn’t like the jerky look in her eyes.>。双葉氏は「私は彼女の目にあらわれた落ち着かない色が気に入らなかった」と、彼の訳には珍しく言葉を多用して訳している。かえって村上氏の方が「彼女のひきつった目つきが気になった」と短い。ただ、「ひきつった」を目つきを修飾する語に用いる例は少ない。ここは「ぴくぴく動く」の意に取るべきだろう。それと、三つのパラグラフに<didn’t like>を繰り返し使っているので、訳の方も「気に入らなかった」で通したいところだ。

 

「安全装置はかかっていた。私はそのまま続けた」は<It was already on. I kept it on.>。双葉氏は「装置はかかっていた。私はそのままおさえつづけた」と訳している。村上氏は「安全装置はかかっていた。だからそのままにしておいた」と訳している。「そのまま」にした<it>とは何だろう。拳銃をめぐる二人の争いだろうか?それとも安全装置の<on>の状態だろうか?チャンドラーのことだ。作動中を意味する<on>と「そのまま」を意味する<keep on>の両方に掛けているのではないだろうか。

 

「彼は抑揚のない小声で言った。それは彼が私に使っていた声に似ていた。スクーターが十トントラックであるのと同じくらいには」は<He said it in a small flat voice that was as much like the voice he had used to me as a scooter is like a ten-ton truck.>。双葉氏の訳では「さっき私に使ったような、低い表情のない声で言った。スクーターを十トントラックにみせかけるみたいな声だ」となっている。

 

村上訳を見てみよう。「彼は潤いのない小さな声でそう言った。それはさっきまで私に向けていたどす(傍点二字)のきいた声に比べると、十トントラックに対するスクーターくらいの勢いしかなかった」だ。ブロディの声は、カーメンに対するときと私に対するときでは、ちがう(村上氏)のだろうか?それとも同じ(双葉氏)なのか。

 

結論から言えばまったくちがう。<as much~ A as B>は「BはAと同じ程度に~だ」。つまり、スクーターが十トントラックに似ているのと同程度、カーメンに使う声と私に使う声が似ている、ということになる。言い換えれば、全然似ていない。それだけのことをこのように回りくどい言い方をするのが、マーロウ特有の表現方法であり、チャンドラーの文体なのだ。意味としては村上氏の訳でいいのだが、こうまで噛みくだいてしまうと、元のひと捻りした味わいがなくなってしまう。

『大いなる眠り』註解 第十四章(4)

《じんわりした苦しみと激しい怒りを封じ込めた無理無体な混ぜ物の中に彼女は落ち込んだ。銀色の爪が膝を掻きむしった。

「この稼業はなまくら者には向いていない」私はブロディに親しさを込めて話しかけた。「君のようなやり手を探してるんだ、ジョー。君は信用を得て、それを保持しなければいけない。こんな使い古しの猥本で興奮するために金を使おうかという連中は、手洗いを見つけられないでいる品のいい老婦人みたいに神経質になっている。私が思うに金儲けの手段として強請のような汚い手に頼るのは大きな過ちだ。すっぱり手を引いてこつこつと合法的な販売と賃貸に精を出すことだ」

 ブロディの暗褐色の凝視が私の顔の上を行きつ戻りつした。彼のコルトは私の急所を狙い続けていた。「君は面白い男だな」彼は単調に言った。「それで誰がこの素敵な商売をやるんだ?」

「君がやるのさ」私は言った。「九分通り」

 ブロンドが息をつまらせ、耳に爪を立てた。ブロディは何も言わなかった。彼はただ私を見た。

「何よ?」ブロンドが吠えたてた。「あんたはそこにぼうっと座って、ガイガーさんが街の一等地でその手の稼業をしていたというの?あんた、頭おかしいんじゃない!」

私は失礼のないように彼女を横目で見た。「その通り。みんなその商売の存在を知っている。ハリウッドが受注生産しているのさ。もし、そんなものが存在しなければならないなら、実務的な警官なら誰でも、公然と大通りで商売してほしいだろう。同じ理由で彼らは売春街を好む。いざという時、どこに踏み込めばいいかを知ってるからな」

「なんてことを」ブロンドはこぼした。「あんたはこのイカレ頭がそこに座って私を侮辱するままにさせておくつもりなの、ジョー?あんたの手には銃がある。彼は葉巻と親指しか持ってないのに」

「気に入った」ブロディが言った。「こいつはいい考えを持っている。黙って口を閉じておけ。それともこいつで叩かれたいか?」彼はいよいよぞんざいな態度で銃を叩いた。

 ブロンドは息を呑んで顔を壁の方に向けた。ブロディは私を見て狡そうに言った。「どうやって俺はこの素敵な商売を手に入れたというんだ?」

「君はそれを手に入れるためにガイガーを撃った。昨日の雨の中で。射撃にはお誂え向きの天気だった。問題は君が発砲した時彼は一人じゃなかったことだ。君は気がついていなかったか、ありそうもないことだが、怖気づいて逃げ出したかのどちらかだ。しかし、カメラから乾板を取るだけの度胸はあった。そしてその後戻って死体を隠すだけの度胸もあった。警察が殺人事件と知って捜査にかかる前に本を片づけることができるように」

「ほほう」彼は馬鹿にしたように言った。コルトが膝の上で揺れた。彼の褐色の顔が木彫像のように硬くなった。「あんたはヤマをかけてる。ミスター、あんたにとって運のいいことに、俺はガイガーを撃っていない」

「それでも、君はくたばるさ」私は愛想よく言った。「殺人容疑で逮捕されるだろう」

 ブロディの声がしわがれた。「罠にかけようというのか?」

「そうだ」

「どうやって?」

「そう証言する誰かがいるのさ。言っただろう、目撃者がいたんだ。私を甘く見ないことだ、ジョー

ブロディの感情が爆発した。「あの忌々しい淫乱娘!」彼は大声で叫んだ。「あいつだろう、くそっ。あいつに決まってる!」

 私は椅子の背ににもたれ、彼ににやりと笑いかけた。「上出来だ。君だと思ってたんだ。彼女のあのヌード写真を持ってるのは」

 彼は何も言わなかった。ブロンドも何も言わなかった。私は彼らが考えられるように放っておいた。ブロディの顔がゆっくりと明るくなってきた。少しは安心したように見えた。彼はコルトを椅子の脇にあるサイド・テーブルに置いたが、右手を近くに置いていた。葉巻の灰を絨毯の上に叩いて落とし、細めた瞼の間に微かに光る眼で私をじっと見つめた。

「俺のことを馬鹿だと思っているようだな」ブロディが言った。

「ペテン師としちゃ、平均的なところだ。写真をもらおうか」

「何の写真だ?」

 私は頭を振った。「下手な芝居だ、ジョー。とぼけても無駄だ。君が昨夜そこにいたか、そこにいた誰かからヌード写真を手に入れたかどちらかだ。君は彼女がいたのを知っていた。君はガールフレンドを使って、警察沙汰にするとミセス・リーガンを脅している。そうするためには、何が起きたかを見るか、写真を押さえていて、いつどこで撮影されたかを知っていなければならない。吐いてしまえ。分別を持つことだ」

「少しばかり金がいるんだ」ブロディが言った。彼は緑の目をしたブロンドの方に首をひねった。今はもう目は緑色ではなく、ブロンドはただの見せかけだった。彼女は殺したての兎のようにぐったりしていた。

「金は出ない」

 彼は苦々しげに顔をしかめた。「どうやって俺にたどり着いた?」

 私は財布をはじいて彼にバッジを見せた。「私は依頼人に頼まれてガイガーを探っていた。昨夜は外にいたんだ。あの雨の中に。銃の発射音を聞いた。私は飛び込んだ。人殺しは見なかったが、それ以外はすべて見た」

「そして、口に蓋をした」ブロディは鼻で笑った。

 私は財布をしまった。「そうだ」私は認めた。「今まではな。写真を渡すのか、どうだ?」

「本のことだが」ブロディが言った。「どうして分かったんだ」

「ガイガーの店からここまで尾行したのさ。証人がいる」

「あのお稚児さんか?」

「どのお稚児さんだ?」

 彼はまた顔をしかめた。「店で働いていた小僧さ。あいつはトラックが出た後、仕事を放り出した。どこをねぐらにしてるのかアグネスさえ知らない」

「それで分かった」私はそう言って彼ににやりと笑った。「そこが少し悩みのたねだった。ガイガーの家に行ったことはあるのか――昨夜以前に」

「昨夜だって行っていない」ブロディは鋭く言った。「そう彼女は言ったのか。俺が彼を撃ったと、なあ?」

「写真さえ手にすれば、彼女が間違っていたと説得することができるかもしれない。あの晩は、少し飲んでいたようだしな」

ブロディがため息をついた。「あの女はおれが腹を据えたのが憎らしかったんだ。俺はあいつをおっぽり出した。たしかに金は貰ってたさ。けど、どうでもやらなきゃならなかった。あの女は俺のような単純な男にはぶっ飛び過ぎていた」彼は咳払いした。「少しくらいどうにかならないか?オケラなんだ。アグネスも俺もどこにも動けない」

「依頼人からは出ない」

「聴けよ――」

「写真を出すんだ。ブロディ」

「畜生」彼は言った。「あんたの勝ちだ」彼は立ち上がり、コルトを脇のポケットにしまった。彼の左手がコートの内側に伸びた。彼がそうしたままでうんざりと顔を歪ませていた時、ドアのブザーが鳴った。そしてそれは鳴り続けた。》

 

「じんわりした苦しみと激しい怒りを封じ込めた無理無体な混ぜ物の中に彼女は落ち込んだ」のところ、新旧訳はかなり雰囲気がちがう。「おさえられた憤怒と苦悩がごっちゃになり、彼女は血相をかえた」(双葉)。「緩慢な苦悩と、密閉された怒りの煮えたぎるるつぼ(傍点三字)の中に、女は引っ込んだ」(村上)。原文は以下の通り。<She subsided into an outraged mixture of slow anguish and bottled fury.>

 

<subside into>は「〈人が〉〔いすなどに〕(どっかと)腰を下ろす、(よくない状態に)落ち込む」の意味。興奮した女は腰を浮かしかけたのかもしれない。ブロディに黙っているように言われ、我慢して元の姿勢に戻りはしたが、憤懣やる方ない思いでいる。その心中を察して<subside into>を両義的に使ったのだろう。映画のタイトルにもなった<outrage>だが、「非道(な行為)、蹂躙(じゆうりん)(する行為)、侮辱、憤慨、憤り」のような意味がある。<an outraged mixture >を、双葉氏は「ごっちゃになり」と訳し<outrage>をカットしている。村上氏は文学的に「煮えたぎるるつぼ」と訳している。

 

<an outraged mixture >を「煮えたぎるるつぼ」とした村上訳は格調高いが<outrage>を「憤慨」の意味にとることで、彼女の意に反してそうなった、というところが抜け落ちた憾みがある。「無理無体な」と訳したのは、女の意志に反して、男がそれを上から抑え込んだという意味を出したかったからだ。「彼女は血相をかえた」は、誤訳というよりも双葉氏の完全な創作。つい勢いで書いてしまったのだろう。

 

「同じ理由で彼らは売春街を好む。いざという時、どこに踏み込めばいいかを知ってるからな」は<For the same reason they favor red light districts. they know where to flush the game when they want to.>。ここを双葉氏は「同じ理由で奴らは盛り場もお好きときてる。いんちき賭博をやりたいときはどこへいけばいいか知ってるんだ」と、警官たちが賭博をしているように訳している。

 

村上氏は「公認の娼婦街を彼らが好むのと同じようにね。いざというときにどこに踏み込めばいいかもわかるし」としている。<red light districts>は日本語でいうところの「紅灯の巷」。品よく言えば花柳界、花街だが、そのものずばりでいえば「赤線地帯」のことである。犯罪者が潜入した場合、売春宿が分散しているより、ひとところにまとまってくれている方が、情報収集にも摘発にも便利だ。双葉氏は、エディ・マーズの商売である<flash ganbling>を「いんちき賭博」と訳している。<flash>と< flush>を混同したのではないだろうか?

 

「彼はいよいよぞんざいな態度で銃を叩いた」は<He flicked the gun around in an increasingly negligent manner.>。ここを双葉氏は「彼は次第にくつろいできた調子で拳銃をふりまわした」。村上氏は「彼は拳銃を上げて振り回した。彼の振る舞いはだんだん荒っぽくなってきた」と、やはり「振り回す」を採用している。<flick>には「はじく、叩く、ひょいひょい動く」のような意味があるが、「振り回す」のような意味はない。ブロディは、銃を叩いて見せることでブロンドを威嚇したのだろう。

 

この場面を通じて、チャンドラーは、マーロウの口車にのせられて次第に変化してゆくブロディの心理を銃によって語らせるという、ハードボイルドならではの即物的な心理描写を用いている。一人称視点が特徴的なハードボイルド小説では、視点人物であるマーロウの心理は直接語れても、対象人物である相手の気持ちは直接には語ることができない。そこで、マーロウの眼や耳がとらえた情報をつぶさに描くことで相手の心理状態を読者に伝えるという方法をとる。銃が取り出されてからしまわれるまでが、二人の攻防戦である。

 

「私は彼らが考えられるように放っておいた」のところ、双葉訳では「私は二人が口をもごもごさせているのを黙ってみていた」となっている。原文は<I let them chew on it.>。双葉氏は<chew>の意味である「よく噛む」ことからそう訳したのだろう。しかし、<chew on>には「よく考える」という意味がある。村上氏も「私は彼らに好きに考えさせておいた」と訳している。

 

「少しは安心したように見えた」は<with a sort of grayish relief>。村上氏の「そこには灰色がかった安堵がうかがえた」の方が原文に忠実だが、「灰色がかった安堵」というのは、いかにも生硬だ。双葉氏は「いくらか安心したという感じだった」と、さすがにこなれた訳になっている。その前にある<Brody’s face cleared slowly,>とつなげて考えれば、空模様に喩えて「晴れてはきたが、まだ灰色の雲が残っている」と、ブロディの心理を顔色から読み取っていることが分かる。

 

「ブロディは鼻で笑った」は<Brody sneered.>。ここを双葉氏は「ブロディが歯をむいた」と訳している。「歯をむく」というのは慣用句ではなく、文字通り歯を剥き出しにしてみせたという意味だろうか。それなら、笑っていることになるが、笑いの持つ意味が分からない。<sneer>は、「冷笑する、あざ笑う、鼻であしらう」などの意味で、相手を軽んじた笑いである。村上氏は「ブロディーは冷笑した」と、訳している。辞書通りである。双葉氏がなぜ「歯をむいた」としたのかがよく分からない。

 

「あのお稚児さんか?」は<That punk kid?>。双葉氏は「あのとんちき小僧か?」。村上氏は「あのお稚児の坊やか?」。<punk>には「役に立たない、くだらない、青二才」などの未熟な若者を指す意味のほかに「同性愛の相手の少年」を表す意味がある。双葉氏は一般的な意味にとっているが、同性愛者らしきことは、ガイガーの部屋の様子を表す時にも示唆されていた。「稚児」という表現が現代的ではないと思い、今までは使ってこなかったが、ここはブロディといういかがわしい人物とのなれなれしい会話の中である。業界用語のようなものとして考えたい。それにしても、もう少し使い勝手のいい表現はないものだろうか?

 

「あの女はおれが腹を据えたのが憎らしかったんだ。俺はあいつをおっぽり出した。たしかに金は貰ってたさ。けど、どうでもやらなきゃならなかった」は<She hates my guts. I bounced her out. I got paid, sure, but I’d of had to do it anyway.>。村上氏は「あの女は俺を憎んでいる。俺は彼女を放り出した。たしかにそのための手切れ金はもらったさ。しかしいずれにせよ、早晩放り出さなくちゃならなかった」と訳す。

 

これは少しおかしい。手切れ金というのは放り出す方が払うものだ。しかも、村上氏は<guts>を読み飛ばしている。ちなみに双葉氏はというと「あの娘はおれが骨のあるところをみせたのが気に入らないんだ。おっぽり出してやったのさ.。おれは金をもらってた。が、どの道おっぽり出さずにゃいられないさ」と意味が通っている。

 

つまり、ひも暮らしのいい金づるだったけれど、相手のイカレっぷりに恐れをなして追い出したのだ。彼女が憎んだのは、ブロディではない。金をあきらめてでも自分と手を切ろうとした男の「ガッツ」を憎んだのだ。村上氏が<guts>に目を留めていたら、ちがう訳になっていただろう。原文はシンプルだ。だからこそ、一語でも読み落としたら、文意が変わってしまう。その辺のことは村上氏もよく知りぬいているだろうに。

 

「彼の左手がコートの内側に伸びた。彼がそうしたままでうんざりと顔を歪ませていた時、ドアのブザーが鳴った。そしてそれは鳴り続けた」は<His left hand went up inside his coat. He was holding it there, his face twisted with disgust, when the door buzzer rang and kept ringing.>。村上氏は「左手がコートの内側に伸びた。そしてそれを取り出した。顔は苦々しげにねじられていた。そのときドアのブザーが鳴った。それは鳴りやまなかった」と訳している。つまり、村上訳では、写真らしきものがポケットの外に出ている。

 

双葉氏の訳はというと「左手を上着の内ポケットにつっこんだ。そのままくさった表情で顔をゆがめているとき、ドアの呼鈴が鳴りつづけた」だ。左手は、まだポケットの中に入っている。どうして、こんな差が生じたのか?問題は< holding it there>にある。<hold it>は「ちょっと待て」というときによく使う決まり文句。つまり、事態は動いていない。左手はポケットに入ったままである。直訳しても「彼はそこにそれを保持していた」だ。「そこ」というのはポケットの中。どうしたって取り出すわけにはいかない。この章を訳した時、村上氏はいつもの調子ではなかったようだ。<了>

『大いなる眠り』註解 第十四章(3)

《カーテンが横に引かれ、緑色の目をして太腿を揺らしたアッシュブロンドが部屋に仲間入りした。ガイガーの店にいた女だ。彼女は切り刻みたいほど憎んでいるとでもいうように私を見た。鼻孔は縮み上がり、暗さを増した眼は二つの陰になっていた。とても不幸そうだった。

「私はちゃんと気づいてた。あんたが厄介者だって」彼女はぴしゃりと言った。「私はジョーに言ってたの。足もとに気をつけるようにってね」

「足もとじゃない。気をつけなきゃならないのは尻の方だ」私は言った。

「それ、面白い」ブロンドは甲高い声で言った。

「今まではな」私は言った。「だが、おそらくもうちがうだろう」

「冗談もほどほどにしろ」ブロディは私に忠告した。「ジョーは自分の足もとくらいちゃんと見てるさ。灯りをつけてくれ。こいつを撃つようなことになればその方がうまくやれる」

 ブロンドは大きな角型のフロアスタンドの灯りをつけた。彼女はスタンド近くの椅子に沈み込んだ。まるでガードルがきつ過ぎるかのように体をこわばらせて座った。私は葉巻を口にくわえ、その橋を噛み切った。私がマッチで葉巻に火をつける間、ブロディのコルトは私から目をそらさなかった。私は煙を味わい、そして言った。

「私が話した顧客名簿は暗号になっている。まだ解けていないが、名前はおよそ五百ある。私の知るところでは君は二十箱分の本を持っている。少なく見積もっても五百冊だ。他にも貸出中の分があるからもっと増えるだろうが、ここは手堅く、まとめて五百冊と言っておこう。もし、これがまだ現役の名簿で、君がその半分を完全に働かせれば、十二万五千件の貸し出しになるだろう。その辺のことは君のガールフレンドが全部ご承知だ。私のはただの当て推量さ。平均貸出料金は君の考えで低くしていい。といっても一ドルは下らないだろう。商品には金がかかる。一冊につき一ドルで、君は十二万五千ドル稼いだ上に、君の資本はまだ君のものだ。つまり、ガイガーの資本はまだ君のものだ。人ひとり殺すには十分な理由だ」

ブロンドがまくし立てた。「あんたの頭はどうかしてる。何さインテリぶって」

 ブロディは彼女の方を向いてうなった。「静かにしろ。頼むから黙っててくれ」》

 

「足もとじゃない。気をつけなきゃならないのは尻の方だ」は<It's not his step, it’s the back of his lap he ought to watch.>。双葉氏は「気をつけるのは足もとじゃなくて手もとだ」と訳している。村上氏は「彼が気をつけなくちゃならないのは足もとじゃなくて、火のつきそうな尻じゃないかな」と訳している。<back of his lap>は直訳すれば「膝の裏」だが、ラップトップという使い方で分かるように、<lap>は、座ったときの膝から腰までの上面を意味している。つまり立った時にはなくなってしまう部位なのだ。

 

母親が幼児をあやすようにのせる場所というところから転じて、<lap>には「保護された場所」の意味がある。だから、そちらは安心でも、その裏側は保護されていない。気をつけるなら裏側、座っている時なら座面、つまり「尻」だ、というのが村上氏の解釈だろう。「尻に火がつく」という危機的状況を表す日本語表現を生かして上手に訳している。残念ながらこれを上回る訳は思いつかなかった。

 

実は<back of his lap>という文句が第二次世界大戦の戦意高揚ポスターに使われている。釘のついた板切れを握ったアメリカ人が、かがんで後ろを向いている日本人の尻を叩こうとしている絵柄にかぶせて<Whack the Jap on the back of his lap!>という標語が書かれている。時期的に考えて、マーロウはこのポスターのことを言っているのではないだろうか。ポスターの使用時期が1939年から1945年まで。『大いなる眠り』は同じ1939年に発表されている。雑誌「ブラックマスク」に発表されたのが1935年だから、その時にこの文句が出ていたとしたらこの説は成り立たないことになるが、今は調べる手立てがない。

 

マーロウがブロディに貸本屋商売の利益について講釈を垂れる場面。数字がたくさん出てくるが、ここで双葉氏は計算ミスを犯している。「十二万五千」は原文で<one hundred and twenty-five thousand>だが、これを「千二百五十」とやってしまっているのだ。500×250=125000。もう一度同じ数字が出てくる。一冊一ドルのレンタル料金なので、<one hundred and twenty-five grand>。<grand>は一千ドルを表すので「十二万五千ドル」。ここも「千二百五十ドル」と訳している。双葉氏ともあろう人が<grand>は一千ドル、という俗語を知らなかったはずはないと思うのだが、このミスの原因ばかりは見当がつかない。

 

「君の資本はまだ君のものだ。つまり、ガイガーの資本はまだ君のものだ」は、チャンドラーお得意の少し言葉を入れ替えた繰り返しになっている。原文は<you still have your capital. I mean, you still have Geiger’s capital>だ。双葉氏は「そのうえ資本はまるまる残る。つまり、ガイガーの資本だがね」。村上氏は「しかも元手は減らない。つまり君はまだガイガーの元手を手にしていることになる」と、訳している。こなれた訳だとは思うが、原文の工夫を何とか活かせないかと思い、こう訳してみた。

 

「あんたの頭はどうかしてる。何さインテリぶって」は<You’re crazy, you goddam eggheaded―!>。双葉氏は「この気ちがい!とんかち頭の――!」。村上氏は「ああ、何を言い出すの。偉そうにわかったようなことを――!」だ。何故か近頃では<crazy>を、文字通り双葉氏のようには訳せないことになっている。それはともかく、<egg>がなぜ「とんかち」になっているのかがよく分からない。<egghead>はアメリカでは「知識人、インテリ」を表す俗語なので、村上氏のような訳になる。

 

ただ、その金髪女の言い方を、双葉氏はあっさりと「金髪が叫んだ」としているところを、村上氏が「金髪女が息を呑んだ」と訳しているのは合点がいかない。原文は<The blonde yelped:>だ。<yelp>は、犬がキャンキャン吠えるような、甲高い声で叫ぶ様子を表す言葉で、村上氏は前の部分で金髪女の声を「甲高い声」と訳している。それなのに、なぜここを「息を呑んだ」と意訳したのだろう。たいしたことではないと思うのだが、気になる。

『大いなる眠り』註解 第十四章(2)

《数は多くないが趣味のいい家具が置かれた快適な部屋だった。壁の奥に開けられた石敷きのポーチに通じるフレンチ・ウィンドウからは山麓の夕暮れが見渡せた。西壁の窓の近くに閉じられたドアが、玄関ドアの近くには同じ壁にもう一つドアがあった。最後の一つには楣(まぐさ)の下に通した細い真鍮の棒にフラシ天のカーテンが架かっていた。

 残る東壁にはドアがなく、壁の中央を背にしてダヴェンポートがあった。私はそれに腰を下ろした。ブロディはドアを閉めると蟹歩きをし、角釘で飾り鋲が打たれた樫材の丈長の机まで行った。下ろした天板の上に鍍金の蝶番がついた杉材の箱があった。彼は箱を持ち、二枚のドアの中央にある安楽椅子に座った。私はダヴェンポートの上に帽子を置いて待った。

「いいだろう。話を聞こう」ブロディが言った。彼は葉巻の入った箱を開け、煙草の吸殻を横にあった皿の中に落とした。彼は長細い葉巻を口にくわえた。「葉巻は?」彼は一本を投げてよこした。

 私はそれをつかんだ。ブロディは葉巻の箱から銃を取り出し、私の鼻に狙いを定めた。私は銃を見た。警察用の黒い三八口径だった。今のところ私に反論の余地はなかった。

「手際がいい、だろう?」ブロディは言った。「ちょっと立ってもらおうか。二メートルほど進み出るんだ。その間、手は挙げておいてもらえるかな」彼の声は映画に出てくるタフガイのように作りこまれた何気ない声だった。映画ではいつもそんな風にやらせている。

「チッ、チッ」私は少しも動かずに言った。「街中に銃は溢れていても、脳みそが足りない。銃を手にしたら世界が意のままになると思う男に会うのはここ数時間で君が二人目だ。馬鹿な真似はやめて銃を下ろすんだ、ジョー

 彼は眉根にしわを寄せ、顎を突き出した。眼が卑しくなった。

「もう一人の男というのがエディ・マーズさ」私は言った。「彼のことは聞いたことがあるだろう?」

「いいや」ブロディは銃でねらいをつけたままだった。

「もし彼が昨夜雨の中で君がどこにいたかを知ったら、用済みのポーカー・チップのように君はその場から消されてしまうだろう」

「私がエディ・マーズに何をしたって言うんだ?」ブロディは冷ややかに尋ねたが、銃は膝に下ろした。

「覚えてさえいない」私は言った。

我々はにらみ合った。私は左手の出入り口にかかったフラシ天のカーテンの下からのぞいている尖った黒いスリッパを見ないようにした。

 ブロディは静かに言った。「誤解するな。俺はタフガイじゃない。慎重なだけだ。お前に会うのは初めてだ。ひょっとすると命取りになるかもしれない」

「君は慎重さが足りない」私は言った。「ガイガーの本の扱いはまずかった」

 彼は長くゆっくり息を吸い、そして静かに吐き出した。それから椅子の背にもたれ、長い脚を組んで膝の上のコルトをつかんだ。

「これを使う気はないなんて思うなよ。いざとなればな」彼は言った。「で、何が言いたいんだ?」

「尖ったスリッパをはいた君のお友達を拝ましてもらおう。彼女は息を詰めているのに疲れた頃だ」

 ブロディは私の腹から目をそらさず呼びかけた。「入って来いよ、アグネス」》

 

「その間、手は挙げておいてもらえるかな」と訳した部分、原文は<You might grab a little air while you’re doing that.>だ。双葉氏は「そのまに多少は気も静まるさ」と訳している。村上氏も「そうするあいだに少しは頭が冷えるかもしれない」と訳す。<grab a little air>は、直訳すれば「少し空気をつかめ」。空中に手を伸ばし空気をつかもうとすれば、ちょうど手を上げた格好になるところから「手を挙げろ」という意味の俗語表現である。これが頭を冷やせ、の意味になるのはなぜか。さっぱり分からない。

 

「銃を手にしたら世界が意のままになると思う男に会うのはここ数時間で君が二人目だ」は<You’re the second guy I’ve met within hours who seems to think a gat in the hand means a world by the tale.>。双葉氏は「一時間たたないうちに、パチンコを持てば天下がとれると思っているお方に二人もぶつかるとはあきれかえりのでんぐりかえりだ」と、伝法な訳を披露してくれている。村上氏は「ひとたび拳銃を手にすれば、世界の尻尾を捕まえたみたいな気分になるのかい。そういう人間に会ったのは、この一時間ほどで君が二人目だよ」だ。

 

<within hours>と複数形になっているのに、両氏とも「一時間」という訳語を使っているのが気になる。エディ・マーズとの会見後、ブロディの家まで車でやって来たのだ。一時間以上の時間は経過していると考える方がふつうではないか。もう一つ。<world by the tail>は村上氏のように「世界の尻尾を捕まえ(る)」のではなく、双葉氏の「天下がとれる」と同じ、「世界を支配する」という意味のイディオムだ。

 

まだある。「用済みのポーカー・チップのように君はその場から消されてしまうだろう」の原文は< he’ll wipe you off the way a check raiser wipes a check.>。この部分を双葉氏は「君なんかあっさり消されちまうぜ。偽造の名人の手にかかった小切手の数字みたいにな」と訳す。村上氏も「偽造犯がインチキ小切手を始末するよりも素速く、君はこの世からおさらばすることになるぜ」と訳している。

 

両氏とも、というより双葉氏の訳に引きずられて村上氏もそう解釈したのだろうが、<check>を「小切手」と取っている。どうして唐突にここで小切手の偽造犯が登場するのかさっぱり分からない。<check raise>というのは、ポーカー用語で、相手がチェックした後で掛け金をレイズ(上げる)する方法だ。ここで、エディ・マーズの稼業を思い出してほしい。彼は賭博場を取り仕切るのが仕事だ。その関連でポーカーのテーブルが連想されていると考えた方がより自然だろう。

 

<wipe>という単語が二重の意味で使用されている。初めの<wipe>は「殺す」という意味だ。次の<wipe>は、「チェック・レイズをした者がチップを浚うようなやり方で」の意味で使われている。自動車のワイパーのようにカード・テーブル上のチップを一掃する手つきを意味していると取ればわかってもらえるのではないだろうか。ポーカーのルールをいちいち説明するのも煩雑なので「用済みのポーカー・チップのように」と訳しておいた。出所不明の偽造小切手より、よほど分かりやすいと思う。

 

今回のことで思ったのだが、村上氏は双葉氏の訳を参考に、新訳を作ったのではないだろうか。まったく新しくなっているところもあるが、多くのところで、双葉訳を改変した訳になっている。ある意味では改訳のようなものだ。新訳が登場して以来、否定的な見解が多いのが不思議だったが、二つを並べて読んでみると、あらためて旧訳の値打ちが分かってくる。旧訳を参考に新訳をつくったのなら、旧訳の不都合な部分は新訳で改まっていなければ意味がない。日本語で読む読者の、文体が冗長という不満だけではなく、原文が読める読者からの、そういう意味での不満があったのではないか。

『大いなる眠り』註解 第十四章(1)

《ランドール・プレイスにあるアパートメント・ハウスの玄関ロビー近くに車を停めたのが五時十分前だった。幾つかの窓には明かりがともり、夕闇にラジオが哀れっぽく鳴っていた。自動エレベーターに乗り、四階まで上がり、グリーンのカーペットにアイヴォリーの羽目板張りの広い廊下を進んでいった。涼しい風が開いた網戸から避難階段に廊下を吹き抜けた。

 405号室を示すドアの傍にアイヴォリーの小さな押しボタンがあった。それを押して待った。長い時間のように感じた。その時、音もたてずにドアが三十センチばかり開いた。その用心深い開け方には、外聞をはばかる雰囲気があった。男は脚と胴が長く、いかり肩だった。褐色の無表情な顔に暗褐色の目をしていた。ずっと昔、表情を制御することを身につけた顔だ。スチールウールのような髪が頭のかなり後ろに生え、褐色のドーム状の額はちょっと見には脳の居場所のようにも見えた。くすんだ眼は感情を交えず私を値踏みした。細長い褐色の指がドアの端をつかんでいた。彼は無言だった。

 私は言った。「ガイガー?」

男の顔には何の変化も認められなかった。彼はドアの後ろから煙草を取り出して唇の間にはさむと、煙を少し吸った。煙は気だるげにこちらに向かってきた。人を馬鹿にしたような煙の後に素っ気ない言葉が続いた。急ぐことのない、トランプ博打のディーラーと同じ抑揚を欠いた声だ。

「何と言ったんだ?」

「ガイガー。アーサー・グウィン・ガイガー。本の所有者だ」

 男は特に急ぐふうもなく考えた。彼は煙草の先をちらっと見た。もう一方の手、さっきドアを支えていた手が消えていた。肩を見ると、隠れた手が何やら動いているようだった。

「そんな名前の男は知らないな」彼は言った。「この近くに住んでいるのか?」

私は微笑んだ。その笑い方が彼の気に触った。彼の目つきが険悪になった。

私は言った。「君がジョー・ブロディか?」

褐色の顔が固まった。「それがどうした?ペテンにでもかけようってのか、あんた――それともふざけてるのか?」

「なるほど、君がジョー・ブロディか」私は言った。「そして、君はガイガーなどという名の男は知らないときた。そいつは大いに笑わせるね」

「おやおや、奇妙なユーモア感覚をお持ちのようだ。どこか別のところでそれを発揮したらどうだ」

私はドアに身をもたせ、夢見るように微笑んで見せた。

「あんたは本を持っている、ジョー。私は上客の名簿を持っている。我々はこれについて話し合うべきじゃないか」

 彼は私の顔から眼をそらさなかった。彼の背後の部屋の中で、金属のカーテン・リングが金属棒にあたる微かな音がした。彼は横目で部屋を一瞥し、ドアを大きめに開けた。

「いいだろう――あんたが何か持っているというのならな」彼は冷ややかに言った。彼はドアの脇によけた。私は彼の傍を抜けて部屋に入った。》

 

ジョー・ブロディの登場シーン。いつもながら人物の外見を長々と描写するチャンドラーである。双葉氏は、こういうのが気質的に好きでないのか、よくカットする。ここでは、「ちょっと見には脳の居場所のようにも見えた」を訳していない。原文は<that might a careless glance have seemed a dwelling place for brains>。村上氏は「一見、それは頭脳の居住する場所と見えたかもしれない」だ。こうした直訳になる時は、訳者にも作者の意図がよく分からない時だ。おそらく「根っからのバカではなさそうだ」くらいの意味で書いているのだろう。双葉氏がカットしたくなる気持ちも分かる。

 

「ガイガー?」としたところは、<Geiger?>。双葉氏は「ガイガーか?」。村上氏は「ガイガーは?」だ。訳としたら、助詞の一つくらいはつけたいところだが、マーロウはガイガーを見知っていて、彼が死んだことも知っている。ブロディが事件にからんでいるとしたら、そんなつまらない手にひっかかりはしないことは百も承知だ。ここは、暗号か合言葉の一つのように考えてみた。ガイガーの名を出すことで、相手がどのような反応を見せるのかを知ろうというのだ。

 

「煙を少し吸った」は<drew a little smoke from it.>ここを双葉氏は「わずかに煙を吐いた」と逆にしている。村上氏は「煙を少し吸い込んだ」としている。<draw>は「引く」という意味なので、「そこから煙をこちらに引き寄せた」のなら「吸う」としか訳せない。煙草をくわえても吸わなければ吐けないのは道理だ。双葉氏は次の文に引きずられて少し急ぎすぎたようだ。

 

「煙は気だるげにこちらに向かってきた。人を馬鹿にしたような煙の後に素っ気ない言葉が続いた。焦ることのない、トランプ博打のディーラーと同じ抑揚を欠いた声だ」も、少々厄介だ。原文は<The smoke came towards me in a lazy, contemptuous puff and behind it words in a cool, unhurried voice that had no more inflection than the voice of a faro dealer.>。

 

双葉氏はここを「煙はゆるゆると私のほうへ流れ、そのあとから冷たいゆっくりした声がきこえてきた。銀行ゲームのトランプの配り手より抑揚のない声だった」と、あっさり訳している。村上氏は「男がそろそろと、小馬鹿にしたように煙を吐くと、それは私の方に漂ってきた。彼は煙の奥から、カード・ゲームの胴元のような抑制された単調な声で言った」だ。

 

双葉氏は<contemptuous puff>をスルー。村上氏は語順を入れ替えて「男がそろそろと、小馬鹿にしたように煙を吐くと」と主語を補った説明的な語句を入れて分かりよく訳している。ただ、そのために原文が煙の後ろに隠している男の姿が目立ってしまうことになった。その辺は双葉氏の訳の方がニュアンスをよく残している。問題は<faro>を「銀行ゲーム」と、遊びのように訳していることで、賭博師の雰囲気が薄れてしまっていることだ。村上氏は「カード・ゲーム」がトランプ遊びのようにとられないために、ディーラーを胴元と訳すことで賭け事の雰囲気を残している。



『大いなる眠り』註解 第十三章(4)

《エディ・マーズは言った。「こいつが銃を持っていないか調べろ」

金髪が銃身の短い銃を抜き、私に狙いをつけた。ボクサー崩れはぎこちなくにじり寄って来て私のポケットを注意深く探った。イブニング・ドレスを着て退屈している美しいモデルのように、私は彼のためにくるっと回ってみせた。

「銃は持ってません」聞きづらい声で彼は言った。

「そいつが何者なのか調べろ」

 ボクサー崩れは私の胸ポケットの中に手を滑らせ二つ折り財布を引き出し、指先ではねあけて中身を調べた。「名前はフィリップ・マーロウです。エディ。住所はフランクリン街のホバート・アームズ。私立探偵許可証、保安官補バッジその他。職業、探偵」彼は財布を私のポケットに戻し、軽く私の頬を叩くとそっぽを向いた。

「あっちへ行ってろ」エディ・マーズは言った。

 護衛係の二人はまた外に出て、ドアを閉めた。彼らが車の中に乗り込む音がした。エンジンがかかり、もう一度アイドリングを続けた。

「よし、話せ」エディ・マーズは急いた。眉の頂上が額に向かって鋭い角度を作った。

 「まだ話せるような段階じゃない。仮に彼が殺されたとして、商売を乗っ取るためにガイガーを殺すのは馬鹿な手口だ。そうは思えない。本を奪ったのが誰にせよ、事の真相を知っているにちがいない。店に残った金髪女が何かにひどく怯えていたのも確かだ。誰が本を手に入れたかは目星がついている」

「誰だ?」

「そこがまだ話せないところさ。依頼人がいるんでね」

 彼は鼻に皺をよせた。「それは――」彼は言いかけてすぐにやめた。

「君はあの娘を知っていると思うんだが」私は言った。

「誰が本を持っているんだ。ソルジャー?」

「話す気はない、エディ。なぜ私が話すと思うんだ?」

彼はルガーを机の上に置き、開いた掌で叩いた。「これさ」彼は言った。「それと、損はさせないつもりだ」

「そうこなくっちゃ。銃は放っておけよ。いつでも金の音はよく聞こえるんだ。幾らじゃらつかせてる?」

「何をするために?」

「何をしてほしいんだ?」

 彼は机をばたんと強く叩いた。「よく聴けよ。ソルジャー。俺がお前にきく。するとお前が別のことをきく。これじゃ堂々巡りだ。俺が知りたいのはガイガーの居場所だ。個人的な理由でな。俺はあいつの商売が好きじゃない。保護もしていなかった。たまたま俺がこの家の持ち主だっただけだ。今はそっちの方も熱が冷めた。この件についてお前の知っていることは何であれ外には出せない類のものだと俺は睨んでいる。でなきゃ今頃このごみ溜めの周りは革靴の底をきゅっきゅと鳴らす警官でいっぱいのはずだ。お前は何も売るものを持っちゃいない。お前の方こそ少し保護が必要なようだぜ。さあ、吐いちまえ」

 いいところを突いていた。だが、彼に教えるつもりはなかった。私は煙草に火をつけ、マッチの火を吹き消すと、トーテムポールのガラスの目にはじいた。「その通り」私は言った。「もし、ガイガーの身に何か起きたんだとしたら、私は知っていることを警察に話さなければならない。事が公になったら、私に売るものは残っちゃいない。それじゃ、御免を被って、私は消えるとしよう」

 彼の日に焼けた顔が白くなった。彼は瞬く間に品を落とし、性急で粗野に見えた。彼は銃を持ち上げる素振りを見せた。私はさりげなく言い足した。「そういえば、近頃マーズ夫人はご機嫌いかがかな?」

 揶揄いの度が過ぎたか、と一瞬考えた。彼の手が銃を持ち上げ、それを振った。彼の顔は筋肉が過度に引き攣れていた。「行っていい」彼は静かに言った。「お前が、いつどこへ行き、何をしようが、俺は気にしちゃいない。ひとつだけ忠告しておこう。ソルジャー。俺のことは放っておくんだ。さもないとお前は、自分がリメリックに住むマーフィーだったらよかったのに、と思うことになる」

「おや、クロンメルから遠くないな」私は言った。「君にはそこから来た友だちがいたと聞いたことがある」

 彼は机に覆い被さり、目を凍りつかせ、動かなかった。私はドアのところまで行き、開けながら振り返ってみた。彼の目は私を追っていたが、痩せた灰色の体は動かなかった。彼の目には憎悪が浮かんでいた。私は外へ出て、生垣を抜け、坂を上って車に乗り込んだ。私は車の向きを変え、丘の頂上を越えた。誰も私を撃たなかった。数ブロック進んだところで車を停め、エンジンを切って、しばらく座って待った。つけられてもいなかった。私はハリウッドに引き返した。》

 

「ボクサー崩れはぎこちなくにじり寄って来て私のポケットを注意深く探った」は<The pug sidled over flatfooted and felt my pockets with care.>。双葉氏は「拳闘家崩れは偏平足みたいな歩き方で私に近づくと、注意ぶかくポケットを探りまわした」。村上氏は「ボクサーあがりがはたはた(傍点四字)とした足取りで近くに寄り、私のポケットを念入りに探った」だ。

 

<flatfoot>は「偏平足」を意味する名詞なので、双葉氏の訳はほぼ直訳だが、果たして歩き方を見ただけで、偏平足だと分かるものだろうか?また、村上氏の「はたはたとした足取り」というのも、今までに読んだ覚えがない。<sidle>には「横(斜め)歩き」の意味もある。<sidled over>(にじり寄る)という表現と合わせて考えると、スマートに近づくのではなく、どことなく様にならない足取りで近寄ってきたのだろう。

 

「名前はフィリップ・マーロウです。エディ。住所はフランクリン街のホバート・アームズ。私立探偵許可証、保安官補バッジその他。職業、探偵」は<Name's Philip Marlowe, Eddie. Lives at the Hobart Arms on Franklin. Private license, deputy’s badge and all. A shamus.>。あまり、よくしゃべるタイプじゃないのだろう。訥々とした語りが聞こえてくるようだ。

 

双葉氏は「フィリップ・マーロウ。住所はフランクリン街ホバート・アームズ館です。私立探偵の許可証、保安官補の記章を持ってますよ。デカです」。細かいことを言うようだが、「記章」は「徽章」のまちがいだろう。村上氏は「名前はフィリップ・マーロウです。エディー。住まいはフランクリン通りのホバート・アームズ。私立探偵の免許証、保安官事務所の助手バッジなど。探偵さんときたね」と最後に軽口を叩かせている。

 

最後の<A shamus>の<A>だが、「~というもの」の意味ではないだろうか。村上氏はそれを「探偵さんときたね」と訳してみせたのだろう。もちろん、これはマーロウに聞かせようとした一言だ。その後の頬を軽く叩くのとセットになっていると読んでの訳である。読みとしては、私もそちらを採りたいが、ボスの命令である。エディーに応えながら、マーロウにも聞かせる、そういう意味で「職業、探偵」としてみた。もちろん、名前、住所と来たら、次は「職業」と続くのが身元調べの一連の手続きだからだ。

 

「話す気はない、エディ。なぜ私が話すと思うんだ?」は<Not ready to talk, Eddie. Why should I?>。双葉氏は「言えないね。言うて(傍点)はなかろう?」。村上氏は「そいつはまだ言えないよ、エディー。言う義理もないしな」。<Why should I>は、「何で私が」という決まり文句だが、両氏とも疑問符を重要視せずに、エディに対して切り口上になっている。それが後々に響いてくる。<Why should I?>をどう訳すかで、次のルガーのところをどう訳すかが決まるからだ。

 

<「これさ」彼は言った。「それと、損はさせないつもりだ」>は<“This” he said. “And I might make it worth your while.” >。双葉氏は<This>の一言を「こいつにものを言わせようか?」と訳し、その後の文はまったく訳さずに済ませている。< make it worth your while>は「損はさせない(あなたの労をむだにしない)」という意味の成句だ。これをカットした双葉氏の訳では「金の音」の出所がまったく分からない。村上氏はその後に来る<And I might make it worth your while.>と併せて「こいつと俺でしかるべき礼をすることはできるかもしれない」と訳している。

 

「そうこなくっちゃ。銃は放っておけよ。いつでも金の音はよく聞こえるんだ。幾らじゃらつかせてる?」は<That’s the spirit. Leave the gun out of it. I can always hear the sound of money. How much are you clinking at me?>。エディの申し出は言うことを聞けば金を出すが、いうこと聞かなければルガーの出番だ、という飴と鞭の使い分けを意味している。それなのに、双葉氏は単なる脅しのように訳してしまうから、その後を「お勇ましいことですな。が、パチンコは余計だよ。どうやら金の音がきこえるね。いったい幾らちゃらつかせようというんだ」と訳さざるを得なくなる。金の話がいかにも唐突に飛び出してくる。

 

村上氏は「そう、そうこなくっちゃ。でも銃は抜きにしてもらいたいね。私はちゃりんちゃりんという金の音に耳ざとい方でね。どれくらいその音を聞かせてもらえるんだろう?」だ。いつものことながら、少々くどい。<clinking>は「チリン(チャリン)と音を立てる」の意味なので、こういう訳になるのだろう。ここは、<How much>を「幾ら」で受けているところも含めて双葉氏の訳の方が簡潔で原文に近い。

 

「この件についてお前の知っていることは何であれ外には出せない類のものだと俺は睨んでいる。でなきゃ今頃このごみ溜めの周りは革靴の底をきゅっきゅと鳴らす警官でいっぱいのはずだ」の部分には少々てこずった。少し長いが原文は<I can believe that  whatever you know about all this is under glass, or there would be a flock of johns squeaking sole leather around this dump.>。

 

双葉氏はいつものことながらこの部分をあっさりとカットしている。村上氏はこう訳している。「この件についておまえが知っていることは、それが何であれ、表に出せない種類の代物だ。俺はそう考えている。でなければ、今頃ここは山ほどの警官に踏み荒らされているよ」。<under glass>は「温室で」の意味。温室栽培の植物は外に出すことはできない。<flock>は「一群の」、<john>は警官を意味するスラング。逐語訳にするとふざけた感じがよく出るが、意味的には村上訳で十分通じる。(第十三章了)