HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(4)

《ブロンドだった。司祭がステンドグラスの窓を蹴って穴を開けたくなるような金髪だ。黒と白に見える外出着を着て、それにあった帽子をかぶっていた。お高くとまっているように見えるが、気になるほどではない。出遭ったが最後、相手を虜にせずには置かない女だ。おおよそ三十歳ぐらいだろう。
 手早く酒を注ぎ、一息に飲み干した。咽喉が焼けるようだった。「持ち帰ってくれ」私は言った。「跳ねまわり出しそうだ」
「あなたのために持ってきてあげたのに。彼女に会いたくないの?」
 もう一度写真を見直し、それからデスクマットの下に滑り込ませた。「今夜十一時ではどうだい?」
「ねえ聞いて、これはジョークのネタってわけじゃないの、ミスタ・マーロウ。電話しておいた。あなたに会うそうよ。仕事でね」
「仕事からはじまる、というのもいいかもな」
 彼女がいらついた素振りをしたので、ふざけるのをやめ、使い古したしかめっ面に戻った。「何の用があって私に会いたいんだ?」
「ネックレスのことよ、もちろん。こういうことなの。彼女に電話したんだけど、当然のことになかなか取り次いでもらえなかった、でも結局は話せた。それで私はブロックの人の好い支配人にやったような話をでっち上げたんだけど乗ってこなかった。声の感じでは二日酔いみたいだった。彼女はそういうことは秘書に言って、と言ったんだけど私は電話口に食い下がって、本翡翠のネックレスをお持ちというのは事実ですか、と訊いた。しばらくしてから、彼女はイエスと言った。私は見せてもらうことはできますか、と訊いた。彼女は何のために、と言った。私はもう一度さっきの話をしたけど、最初のときと同じで相手にされなかった。聞こえたのは彼女の欠伸と外にいる誰かに電話を代われと怒鳴る声だけ。そこで、私はフィリップ・マーロウに仕えている者です、と言ったの。彼女は言ったわ、それがどうかして? そう言ったのよ」
「驚いたね。しかし、この頃では上流階級の女性も娼婦みたいな口をきくからな」
「よくは知らないけど」ミス・リオーダンは楽しそうに言った。「おそらくその中の何人かは娼婦よ。それで、他所に繋がっていない電話はないか、と訊いたの。そうしたら、私の知ったことじゃない、と言われた。でも、変なのよ、それでも電話を切らないの」
「彼女は翡翠のことを考えていて、君の前振りに気づかなかったのだろう。それとも、前もってランドールに聞かされていたか」
 ミス・リオーダンはかぶりを振った。「いいえ、私が電話で話すまで彼は誰がネックレスを持っているのか知らなかった。私が探し出したのですっかり驚いていた」
「今に慣れるさ」私は言った。「慣れなくてどうする。それから?」
「だから私はミセス・グレイルに言った。『まだ取り戻したいですよね?』と、あっさり。ほかに言い方を知らないから。何かびっくりさせることを言う必要があったの。効果覿面。あわてて別の電話番号を教えてくれた。その回線を使って、お目にかかりたいと言った。向こうは驚いたようだった。それで、話をして聞かせなければならなかった。話はお気に召さなかった。でも、マリオットが何も言って来ないのは変だと感じてた。きっと金や何かを持って南へ逃げたと思ったのね。二時に彼女に会う。その時に話すつもり。あなたがどれほど親切で控えめで、機会さえもらえればネックレスを取り戻す手助けができる人かを。彼女すでにその気でいるわ」
 私は何も言わず、彼女を見つめた。傷ついたようだった。「どうかした? 間違ったことはしてないでしょう?」
「知ってるはずだろう。今やこれは警察の事件で、私は関わるなと警告されているんだ」
「ミセス・グレイルにはあなたを雇う権利がある。もしそうしたいと思ったら」
「何をするためにだ?」
 彼女はもどかしそうにバッグの留め金を締めたり外したりした。「どう言えばいい―あの手の女で―美貌の持ち主で―分からないの―」彼女は言葉に詰まって唇を噛んだ。「マリオットというのはどんな男なの?」
「よくは知らない。同性を好みそうなところがあった。好感は持てなかった」
「女を楽しませることのできそうな男?」
「ある種の女は。それ以外は唾を吐きたくなるだろう」
「まあ、ミセス・グレイルの目には魅力的に映ったのかもしれない。よく連れ歩いていたもの」
「多分百人の男を連れ歩いていただろう。今となってはネックレスを取り戻す機会はほぼ失われた」
「なぜ?」
 私は立ち上がってオフィスの端まで歩いて行き、平手で強く壁を叩いた。隣の部屋でカタカタ鳴っていたタイプライターを叩く音がしばらく止んだ。それから、また鳴り始めた。私は開いた窓越しに自分の建物とマンションハウス・ホテルの間に開いた細長い空間を見下ろした。コーヒー・ショップの香りは濃厚でその上にガレージが建てられそうなほどだ。私は机まで戻り、ウィスキーのボトルを深い抽斗の中に落とし抽斗を閉め、再び腰を下ろした。パイプに、これで八回目か九回目になる火をつけ、半分曇ったグラス越しにミス・リオーダンの真面目で正直な小さな顔を注意深く見た。》

「出遭ったが最後、相手を虜にせずには置かない女だ」は<Whatever you needed, wherever you happened to be-she had it>。清水氏は「男の望むものはなんでも持っている女だった」。村上氏は「どのような男であれ、男たるものが求める一切を不足なく備えている女だ」と訳している。意味としては「相手が誰で、どこにいたとしても、(その男が)必要としているものなら何でも、彼女は持っていた」か。両氏とも<happen to>(たまたま~する)を訳していない。というより、村上訳は単に清水訳を勿体ぶって訳してみせただけのように見える。

「デスクマット」は以前にも出てきた<blotter>だ。清水氏は「吸取紙」、村上氏は「下敷き」と訳している。写真を隠すのだから、紙あるいは板状のものと考えられる。マーロウは、この日オフィスに入ったばかりなので、机の上に書類や簿冊は出ていないはず。だとすれば、机上に出しておいても問題のない下敷やデスクマット類と考えるのが妥当だろう。

「使い古したしかめっ面に戻った」は<got my battle-scarred frown back on my face>。清水訳は「まじめな顔を見せた」。村上訳では「歴戦の傷跡を残したタフな面相に戻った」だ。<battle-scarred>は、村上氏が訳しているように「戦傷を受けた」の意だが、「(衣類、道具などが)使い古されて傷んだ」という意味で使われる場合もある。若い娘相手にはしゃいでいたマーロウがいつもの表情に戻ったという意味だ。

「それで私はブロックの人の好い支配人にやったような話をでっち上げたんだけど乗ってこなかった」は<Then I gave her the song and dance I had given the nice man at Block's and it didn't take>。清水氏はここをまるまるカットしている。村上氏は「それで私は、ブロックの人の良いマネージャーを相手にやったのと同じ手を使ってみたんだけど、相手にもされなかった」と訳している。<song and dance>は「長々しい言い逃れ、ごまかしの説明」を表す口語表現。

「聞こえたのは彼女の欠伸と外にいる誰かに電話を代われと怒鳴る声だけ」は<I could hear her yawning and bawling somebody outside the mouthpiece for putting me on>。清水氏はここも一文丸ごとカットしている。村上氏は「彼女が受話器を手で塞いであくびをし、受話器を渡すための誰かを呼ぶ声が聞こえた」と訳している。この「受話器を手で塞いで」が意味不明だ。ふつう、受話器を手で塞いだら、相手の話し声は聞こえないものだ。<put on>は「(人を)電話に出す」という意味。これを「受話器を手で塞いで」と読んだのではないか。

「と、あっさり。ほかに言い方を知らないから。何かびっくりさせることを言う必要があったの。効果覿面」は<Just like that. I didn't know any other way to say. I had to say something that would jar her a bit. It did>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「単刀直入に切り出したわけ、ほかにどういう言い方をすればいいのかわからなかったから。相手がいくらか動揺するようなことを言う必要があったの。そしてそれはうまくいった」と訳している。

「その時に話すつもり」は<Then I'll tell her>だが、清水氏は「それから、あなたのことを話したわ」と、過去形を使って訳している。これは誤り。村上氏は「そこであなたのことを彼女に話すつもり」と訳している。

「同性を好みそうなところがあった」は<I thought he was a bit of a pansy>。清水訳は「にやけた二枚目だ」。村上訳は「なんとなくなよなよ(傍点四字)した男だ」。また<pansy>が出てきた。「にやけた男」という意味もあるが、そのものズバリ「同性愛の男」の意味もある。おそらく後者の意味で使っていると考えられるのだが、両氏ともそこをはっきりさせたくはないらしい。

「その上にガレージが建てられそうなほどだ」は<was strong enough to build a garage on>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「(匂いはとてもきつくて強固で)その上にガレージを建てることだってできそうだ」と、言葉を重ねて強調を加えている。匂いが「きつい」のはわかるが「強固」というのはどうだろう。

「ミス・リオーダンの真面目で正直な小さな顔を注意深く(見た)」は<Miss Riordan's grave and honest little face>。清水氏は「ミス・リアードンのまじめな顔つき(を見つめた)」と、あっさり訳している。村上氏は「ミス・リオーダンの小振りな、生真面目で率直な顔を注意深く(見た)」と小顔であること、注意深く見たことを略さずに訳している。これに続く部分で再度、顔に言及していることから見ても、ここは丁寧に訳すべきところだ。村上氏はチャンドラーの書くものを単なるハードボイルド小説とみなしていない。そういう視点があればこその丁寧な訳なのだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(3)

《彼女は煙草をもみ消した。口紅はついていなかった。「こうやってあなたを煩わせているのは、私としては警察とうまくやる方が手間が省けると言いたいだけ。昨夜言っておくべきだったわね。それで今朝、事件の担当者を探し当てて会いに行ってきた。初めは、あなたに少し腹を立てていたわ」
「だろうね」私は言った。「たとえ、あったことを洗いざらい話しても、信じなかっただろうさ。やることといえば、とりとめもないことをくどくど話すばかりで」
 娘にはこたえたようだった。私は立って行って別の窓を開けた。通りを行き交う車の騒音が波のように押し寄せてきて、船酔いのように胸がむかついた。机の深い抽斗を開け、オフィス用のボトルを取り出して自分用に一杯注いだ。
 ミス・リオーダンは非難がましくこちらを見つめた。もはや私は身持ちの堅い男ではなかった。彼女は何も言わなかった。私は一息で飲み干し、ボトルを片づけ、腰をおろした。
「私には勧めないのね」彼女は冷やかに言った。
「すまない。まだ十一時かそこいらだ。君は飲みそうなタイプには見えなかったのでね」
 目尻に皺が寄った。「それはお世辞かしら?」
「私の仲間うちでは、そうだ」
 彼女はそれについて考えていた。彼女には何の意味もなかった。私も考えてみたが、私にとっても何の意味もなかった。でも、酒のせいで気分はかなりよくなっていた。
 彼女は机の方に身を乗り出し、手袋でゆっくりガラスを擦った。「助手を雇う気はないのよね? コストといっても時々優しい言葉をかけるだけで済むんだけど」
「ないね」
 彼女はうなずいた。「そう言うだろうと思った。情報を伝え終わったら、家に帰った方がよさそう」 
 私は何も言わなかった。パイプにまた火をつけた。そういう仕種はたとえ何も考えていなくても当人を思慮深く見せるものだ。
「まず考えたのは、そんな博物館級の翡翠のネックレスなら、よく知られていただろう、ということ」彼女は言った。
 私は燃えるマッチを手にしたまま、焔が指に這い寄ってくるのを見ていた。それから、そっと火を吹き消し、灰皿に捨てて言った。
翡翠のネックレスのことを口にした覚えはない」
「そうね、でもランドール警部補は話してくれた」
「誰か、彼の顔にボタンを縫い付けてやるべきだな」
「父の知り合いなの。誰にも言わないと約束した」
「私に話してるじゃないか」
「あなたは知ってるじゃない、馬鹿ね」
 あたかも口を抑えるかのように上がった片手が、途中でゆっくり下りたところで両眼が大きく見開かれた。名演だったが、生来の美質が芝居の邪魔をしているのが見て取れた。
「知ってたわよね?」彼女は声をひそめた。
「ダイヤだと思っていた。ブレスレットが一個、イヤリング一組、ペンダントが一個、指輪が三個、そのうち一つにはエメラルドがついていた」
「洒落にならない」彼女は言った。「だいいち、らしくない」
「本翡翠。逸品。六カラットの細工した玉が六十個繋がっている。八万ドルの価値がある」
「あなたはそんな素敵な茶色の眼をしている」彼女は言った。「それでいて、自分はしたたかだと思ってるのね」
「それで、持ち主は誰で、どうやって知ったんだ?」
「見つけるのはとっても簡単だった。考えたの、街一番の宝石商なら知ってるんじゃないかと。それで<ブロック>の支配人に会いに行った。珍しい翡翠についての記事を書きたいので、お話を伺いたいと言って―得意の手よね」
「それで、支配人は君の赤毛と抜群のプロポーションを信じたって訳だ」
 彼女はこめかみまで赤くなった。「まあ、いろいろと教えてくれた。持ち主はベイ・シティに住む裕福な女性、ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイル。屋敷はキャニオンにある。夫は投資銀行家か何かで資産二千万ドルという途方もない金持ち。以前はビヴァリー・ヒルズのKFDKという放送局のオーナーだった。夫人はそこで働いてたの。二人は五年前に結婚した。彼女はうっとりするような金髪。ミスタ・グレイルはご年配で肝臓の薬が欠かせなくて家から出られない。その間、夫人はいろんなところで大いに羽を伸ばしてる」
「そのブロックの支配人」私は言った。「ずいぶん顔が広いようだ」
「まさか、全部支配人から聞いた訳じゃない、馬鹿ね。ネックレスの件だけ。残りはギディ・ガーティー・アーボガストから聞いたの」
 私は深い抽斗の底に手を伸ばし、オフィス用ボトルをまた取り出した。
「小説に出て来る酔いどれ探偵の仲間入りをしようとしてるんじゃないでしょうね?」彼女は心配そうに訊いた。
「いけないか? 連中は汗ひとつかかないで、いつも事件を解決してる。話を続けてくれ」
「ギディ・ガーティーは『クロニクル』の社交欄の編集長で、古くからの知り合い。体重二百ポンドでヒトラー髭を生やしてる。編集部のファイルを漁ってグレイル家の資料を見つけてくれた。見て」
彼女はバッグに手を伸ばし、一枚の写真を机の上に滑らせた。インデックス・カード大の光沢のある写真だ。》

「こうやってあなたを煩わせているのは、私としては警察とうまくやる方が手間が省けると言いたいだけ」は<The only reason I'm boring you with this is that it makes it easy for me to get along with policemen>。清水氏は「私がこんな話をするのは、父の代わりに手伝いをしたいからなのよ」と、一歩踏み込んだ訳になっている。村上氏は「私がこんな打ち明け話をしてあなたをうんざりさせているのは、私にとっては、警察とうまくやっていく方が容易いんだということが言いたいからよ」と、ほぼ直訳している。

「やることといえば、とりとめもないことをくどくど話すばかりで」は<All he will do is chew one of my ears off>。清水氏はここをカットしている。<chew one of my ears off>にとまどったのだろう。村上訳では「どうせ私の耳を片方食いちぎるつもりでいるんだから」と、訳している。<chew one's ear off>は「とりとめもないことをぺらぺら喋る、くどくどと話す」という意味のイディオムだが、村上氏はご存じなかったようだ。

「目尻に皺が寄った」は<Her eyes crinkled at the corners>。清水氏はここをカット。村上氏は「目の端っこにしわがよった」と直訳している。「目尻にしわを寄せる」は、日本語の慣用句だ。わざわざ「目の端っこ」と表現しなければならないほどの意味がここにあるのだろうか。

「名演だったが、生来の美質が芝居の邪魔をしているのが見て取れた」は<It was a good act, but I knew something else about her that spoiled it>。清水氏は「うまい芝居だったが、彼女にはそぐわなかった」と意訳している。村上氏は「なかなか見事な演技ではあったが、彼女の中にある何か特別なものがその効果を損なっていることが私にはわかった」と訳している。 <something else>には「何かほかのもの」という意味のほかに「格別にすばらしいもの(あるいはその逆)」という意味がある。まだるっこしく訳すより、ずばり「美質」とした方がわかりよい。

「洒落にならない」、「だいいち、らしくない」は<Not funny>、<Not even fast>。清水氏は「駄目だわ。そんなこといってしらばっくれても」と間にある<she said>を抜いて、一文にしている。村上訳では「冗談はよして」、「だいいいち面白くもないわ」。<not even~>は「~でさえない」の意味だ。<fast>には「速い」のほかに、いくつもの意味があって、その中のどれを採るかで全く意味が変わってくる。しかし、村上氏のいう「面白い」にあたる意味はない。氏は<Not funny>の意味を敷衍しているだけだ。

ここは適当なことを言ってお茶を濁そうとしたマーロウを、彼女が手厳しくやりこめているところだ。まず、思い違いという言い逃れでは冗談にもならない、というのが一つ。次に、マーロウという人間は簡単に本当のことは言わないが、適当な嘘をいう人間ではない、という彼女なりのマーロウという人間に関する人間観がある。それにも該当しない、というのが二つ目だ。とすると、この場合の<fast>は「(主義・主張・信念などが)固く、しっかりと」している、という意味ではないか。だから、そう言われたマーロウは、すぐに本当のことを話すのだ。

「得意の手よね」は<you know the line>。清水氏は「……」とぼかしている。村上氏は「やり方はわかるでしょう」と訳している。この場合の<line>は議論や活動の「筋道」というくらいの意味。<you know>は文字通り「わかるでしょう」と訳すこともできるが、同意や念押しの意味で使う「ね、よ、さ」と考える方が自然。

「連中は汗ひとつかかないで」は<they never even sweat>。先に出てきた<not even>をより強めた言い方で「決して~でない」という意味だが、清水氏はこの部分をカットしている。村上氏は「連中は涼しい顔をして」と訳している。否定形を肯定形で訳す典型的な訳例になっている。小説の中で痛い目にあわされることの多いマーロウとしては、他のハードボイルド小説の探偵が難なく事件を解決するのが不満のようだ。チャンドラーの皮肉だろう。

「編集部のファイルを漁ってグレイル家の資料を見つけてくれた」は<He got out his morgue file on the Grayles. Look>。清水氏は「グレイル夫人の写真をもらってきたのよ」とずいぶんあっさりと訳している。村上訳では「グレイル家の参考資料を引っ張り出してきてくれた」となっている。村上訳ではギディー・ガーティーは、社交欄担当記者になっているが、原文では<editor>。「編集者」の意だが新聞社なら「編集長、主幹」の扱いではないか。で<morgue>だが、<file>が後につくと新聞社の保存資料のこと。

「インデックス・カード大の光沢のある写真だ」は<a five-by-three glazed still>。清水氏は「写真」とだけ。村上氏は「十二センチ×八センチの光沢のある写真だった」と、例のごとくセンチメートルに換算して記述している。こういうところの律義さは見習いたいくらいのものだ。ただし、5×3は「情報カード」という名で通っているカードの大きさのひとつ。梅棹忠雄氏が『知的生産の技術』で世に知らしめた京大型カードがそれにあたる。わざわざメートル法で換算するのもアリだが、通用しているものを使うのも手だろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(2)

《白檀のあるかなきかの微香が私の前を通り過ぎた。立ち止まった女が見ていたのは五つの緑のファイリングケース、擦り切れた錆色の敷物、埃をかぶった家具、それにお世辞にも清潔とはいえないレース・カーテンだった。
「電話に出る人が必要ね」彼女は言った。「それから、カーテンはときどき洗濯に出した方がよさそう」
「聖スウィジンの日にでも出そうと思ってる。座ってくれ。つまらない仕事をいくつかは逃してるかもしれない。それと多くの美脚もね。金はかけない方なんだ」
「なるほど」彼女は控え目に言い、大きなスウェードのバッグを机のガラス天板の隅に注意深く置いた。そして、椅子の背にもたれ、私の煙草を一本とった。火をつけてやろうとした紙マッチで指を火傷した。
 娘は扇形に吐いた煙越しに微笑んだ。素敵な歯、少し大きめ。
「こんなに早く私に会えるとは思ってなかったでしょう。頭の具合はどう?」
「具合はよくない。思ってもみなかった」
「警察はよくしてくれた?」
「いつもどおりさ」
「大事なお事の邪魔はしてないわよね?」
「そんなことはない」
「でも、私に会えてうれしがってるようには見えない」
 私はパイプに煙草を詰め、紙マッチに手を伸ばして慎重に火をつけた。娘はご随意にという顔で見ていたが、パイプ愛好家は身持の堅さが身上だ。がっかりしていることだろう。
「君の話は出さないように気をつけた」私は言った。「なぜだかは分からない。とにかくもう私には関係がない。昨夜たっぷり嫌な思いをして、酒瓶で頭をどやしつけて寝たんだ。今では事件は警察の預かりだ。首を突っこまないように警告を受けた」
「あなたが私の話を出さなかったのは」彼女は穏やかに言った。「昨夜、私が物好きでぶらぶら窪地に足を運んだ、なんて言い種を警察は信じないだろう、と思ったから。連中は私に後ろ暗いことがあると疑い、観念するまで追及するだろう、と」
「どうして分かるんだ。私が同じことを考えなかったって?」
「警官だって、ただの人間」彼女は脈絡もなく言った。
「連中も生まれた時は人間だった、と聞いたことがある」
「あら、今朝はシニカルだこと」彼女は何気なさそうに、しかし抜け目なく部屋を見回した。「ここでうまくやれてるの? 財政的にという意味だけど。稼げてるのか、ということ―この程度の見かけで」
 私は鼻を鳴らした。
「それとも、心がけるべき? 差し出口をやめ、生意気な質問をしないように?」
「できるかどうか、試験ずみなのか?」
「それじゃ、二人でやってみましょう。教えて、なぜ昨夜私のことを庇ってくれたの? 私が赤毛で、スタイル抜群だったから?」
 私は何も言わなかった。
「こちらを試してみようかな」彼女は元気よく言った。「あの翡翠のネックレスが誰のものか知りたくない?」
私は顔がこわばるのを感じた。頭を絞ってみたが、確かなことは思い出せなかった。それから急に思い出した。翡翠のネックレスのことは一言も漏らしていない。
 私はマッチをとり、パイプに火をつけ直した。「別に」私は言った。「どうしてだ?」
「だって、私は知ってるから」
「ほほう」
「しゃべりたくてたまらなくさせるにはどうしたらいい。足の指でも捩る?」
「それじゃ」私は不承不承言った。「君はその話をするためにここに来たわけだ。さあ、聞かせてもらおう」
 青い瞳が大きく見開かれた。一瞬少し涙ぐんでいるように見えた。下唇を噛みしめたまま机を見下ろしていた。やがて、肩をゆすって唇をほどき、ざっくばらんに微笑んだ。
「ええ、自分が詮索好きだってことは重々承知してる。でも猟犬の血がそうさせるの。父は警官だった。名前はクリフ・リオーダン。ベイ・シティの警察署長を七年間勤めた。たぶん、それが問題なの」
「覚えがある気がする。何があったんだ?」
「お払い箱。父は傷ついた。賭博師の頭目でレアード・ブルネットという男が選挙で仲間を市長にし、父は左遷された。ベイ・シティで記録識別局というのはティーバッグほどのちっぽけな部署。それで父は退職してニ年ほどぶらぶらして死んだ。母は父を追うようにして亡くなった。それから二年、私はひとりぼっち」
「それは気の毒に」私は言った。》

「それと多くの美脚もね」は<And a lot of leg art>。清水氏はここをカット。村上氏は「たくさんの脚線美もね」と訳している。<leg art>を辞書で引くと「脚線美写真」。類語は<cheesecake>。「セクシーな女性の肉体美を見せる写真」のことだが、俗語としては「可愛らしい女性」の意味もある。「かわい子ちゃん」ぐらいが適当なのだが、もはや死語だ。「美脚」なら、辛うじてセーフか。
 
「金はかけない方なんだ」はズバリ<I save money>。<leg art>をカットした清水氏は「贅沢はできないんでね」と経済的な意味で訳している。村上氏は「金の節約になる」だ。この訳だと、暗に女の気を引くことが好きじゃないことを仄めかしているようにも読める。二つ並べておいて<I save money>と言うんだから、どちらにも金をかける必要を認めていない、という意味なんだろう。実にハード・ボイルドだ。

「素敵な歯、少し大きめ」は<Nice teeth, rather large>。清水氏は後半を省いて「美しい歯だった」としている。村上氏は前後をひっくり返して「少し大きめだが、素敵な歯だ」と訳している。マーロウは、ミス・アンのことははかなり気に入っている。ただ、その性格から、手放しでほめたくないがために条件を付けているに過ぎない。だとすれば、語順をどうすればいいかはおのずから明らかだ。

「娘はご随意にという顔で見ていたが、パイプ愛好家は身持の堅さが身上だ。がっかりしていることだろう」のところは<She watched that with approval. Pipe smokers were solid men. She was going to be disappointed in me>。清水氏は「彼女は別にいやな顔もしなかった。女はパイプタバコを吸う男を喜ばないものなのだ」と意訳している。村上氏は「彼女は感心したようにそれを見ていた。パイプ・スモーカーは身持ちが堅いというのが通り相場だ。遠からずがっかりすることになるだろう」と訳している。

<approval>は「賛意、許可」を示すという意味だ。自分も煙草を吸っているのだから、今さら「許可」でもあるまい。「おやおや、あなたはパイプ党なのね」というくらいの意味だろう。村上氏の「感心したように」はそういう意味だ。<solid>には「頑丈な」という意味もあるが、ここでは「信頼できる、堅実な」という意味が当てはまる。彼女が何にがっかりすることになるかはこの時点では明らかにされないが、男の部屋を独身女性が訪ねているのだから、男女関係が仄めかされていると見るのが一般的だ。

「警官だって、ただの人間」は<Cops are just people>。清水氏は「探偵だって、人間ですわ」と訳し、後に続く<she said irrelevantly>を省いている。清水氏は「自由直接話法」を好み、しばしば「彼(女)は、言った」のような「伝達節」を省略している。ただ、ここでの問題は<Cops>という「警官」一般を指す名詞を「探偵」と訳していることである。「探偵」が、一歩譲って「警官」一般を含むとしても、マーロウもその仲間に入る。はたして、それでいいのだろうか?

村上氏は「警官というのは普通の人間なの」(と彼女はどうでもよさそうに言った)と訳している。村上氏は<Cops>を「警官」一般と解釈している。この読み一つで次の訳も意味がちがってくる。次のマーロウの台詞<They start out that way, I've heard>を、清水氏は「もとは人間だったがね」と、訳している。この場合、自分も含めて言っている、つまり自虐と読める。

村上氏は「連中もそういう地点からスタートするという話を耳にしたことがある」と、あくまでも他人事として、警官を皮肉っている。ミス・アンの父が警官であったことが後で出てくるが、この部分はその伏線になっている。私立探偵と警官の間にはしっかりした線引きが必要なところではないか。

「できるかどうか、試験ずみなのか?」は<Would it work, if you tried it?>。出しゃばったまねをしない方がいいのか、という娘の問いに対するマーロウの台詞だ。清水氏は「口を出さないでいられればね」。村上氏は「心がけてできるものなのかな?」と訳している。<tried>には「試験ずみの、証明済みの」という意味がある。両氏の訳はそれを踏まえての意訳だろう。

それに対する娘の答えが<Now we're both doing it>だ。清水訳だと「私たち、二人とも、かかわりになったのよ」。村上訳だと「お互いはっきり言っちゃいましょうよ」と、まるっきり別物になってしまっている。会話は応答なので、問いに対する答えになっていないと会話が成立しない。両氏の訳は成立しているだろうか。私見では、清水訳では娘はマーロウの言葉を切り捨てているように読める。村上訳は一応受けとめた上で、持説を強要しているように聞こえる。

娘の口にした「生意気な質問」は<impertinent questions>。<impertinent>とは「(人・言動が)(特に目上の人などに対して)出しゃばった、ずうずうしい、無作法(無礼)な、生意気な、おうへいな」という意味だ。つまり、娘の気持ちは「不作法な態度は改めるから、話を聞いて」というものだ。読めば分かるが、この後の娘の話は、それまでと比べると極端に率直になっている。残念ながら、両氏の訳では、その真意が伝わってこない。

「しゃべりたくてたまらなくさせるにはどうしたらいい。足の指でも捩る?」は<What do you do when you get real talkative-wiggle your toes?>。清水氏は「どうすれば、あなたは話がしたくなるの? 足の指でもくすぐるの?」と訳している。村上氏は「おしゃべりをしたいときには、あなたはどんなことをするのかしら。足の指をもぞもぞさせたりするの?」と、訳している。

wiggle>は「(ぴくぴく、くねくね)小刻みに動かす」ことだ。清水氏は「くすぐる」と訳すことで、動作の主体を「客」と捉えているが、村上訳では、動作の主体は「主」のように読める。どうしても本音を吐かない相手に対して、業を煮やした娘が言う言葉だ。どちらが説得力があるだろうか?

「たぶん、それが問題なの」は<I suppose that's what's the matter>。清水氏はここをカットしている。村上訳では「それがここで問題になってくるわけ」。

「覚えがある気がする。何があったんだ?」は<I seem to remember. What happened to him?>。清水氏は「覚えている。今どうしてる?」、村上氏は「名前には覚えがある。彼は今どうしている?」だが< What happened to him?>を、「今、どうしている?」と訳すのはどうだろうか。その前に<what's the matter>と娘の口から聞かされていながら、少し気楽すぎるのではないか?

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(1)

13

 

《九時に目を覚まし、ブラック・コーヒーを三杯飲んだ。氷水を使って後頭部を洗い、アパートメントのドアに投げ入れられていた朝刊二紙に目を通した。ムース・マロイにまつわる二幕目の小さな記事があるにはあったが、ナルティの名前はなかった。リンゼイ・マリオットについては何も載っていなかった。社交欄になら出ていたのかもしれない。
 着替えをし、半熟卵を二個食べ、四杯目のコーヒーを飲んで、鏡を見た。眼の下にまだ少し隈が残っていた。出かけようとしてドアを開けたとき、電話のベルが鳴った。
 ナルティだった。しみったれた声だ。
「マーロウか?」
「そうだ。捕まえたのか?」
「もちろん、捕まえたさ」彼はいったん言葉を切り、わめき始めた。「言った通り、ヴェンチュラ・ラインでな。大騒ぎだった。身の丈六フィート六インチ、囲い堰みたいにがっしりした体格だ。フリスコで開かれてるステート・フェア見物に出かけるところだった。レンタカーのフロント・シートにクォート瓶が五本置いてあって、時速七十マイルで音もなく飛ばしながら、別の一本をラッパ飲みしていた。それに立ち向かうのは銃とブラックジャックを手にした郡の警官二人ときてる」
 ナルティが一呼吸置いたので、気の利いた文句をあれこれ思い浮かべたが、どれも今一つぱっとしなかった。ナルティが続けた。
「それで、やつは警官相手にエクササイズをしたんだ、警官たちが疲れて眠り込んでしまうと、パトカーのドアを一枚引っぺがし、無線機を溝の中にぶちこんだ。そして、新しい酒瓶の封を切り、自分も寝入ってしまった。しばらくして、目を覚ました警官たちが、ブラックジャックで頭を殴りつけた。やつが気がつくまで十分ばかりかかったが、怒りだした時には手錠をかけられてた。簡単なもんだ。今は留置場に放り込んである。飲酒運転、車内での飲酒、公務執行妨害二件、公共財産の棄損、保護観察下における逃亡未遂、暴行罪、治安妨害、そしてハイウェイへの違法駐車、愉快じゃないか?」
「何の冗談だ?」私は訊いた。「要件がわからない。自慢話を聞かせたかっただけか」
「人ちがいだったのさ」ナルティは乱暴に言った。「ヘメットに住んでいるストヤノフスキーという名のトンネル作業員で、サンジャック・トンネルの仕事を終えたところだった。妻と四人の子持ちで、かみさんはかんかんさ。マロイについちゃ、何かわかったかい?」
「何も。頭が痛くてね」
「いつでもいいが、暇があったら―」
「遠慮しとくよ」私は言った。「まあ、ありがとう。黒人殺しの調査はいつやるんだ?」
「関係ないだろう?」ナルティは鼻で笑って電話を切った。
 ハリウッド・ブールヴァードまで車を走らせ、ビルの脇にある駐車場に車を停め、オフィスのあるフロアまでエレヴェーターで上がった。私は小さな待合室のドアを開けた。依頼人が待つことができるように、いつも鍵はかけていない。
 ミス・アン・リオーダンが雑誌から顔を上げ、私に微笑みかけた。
 タバコ・ブラウン色のスーツの中は白いハイネック・セーターを着ていた。日の光の下では髪は混じりっ気なしの鳶色で、ウイスキー・グラス大のクラウンに一週間の洗濯物を包めるくらい大きな鍔つきの帽子をかぶっていた。おおよそ四十五度の角度に傾けているせいで肩に触れそうだった。にもかかわらず粋だった。そのせいで、といえるかもしれない。
 二十八歳くらいか。優雅というには少し額が狭かった。小さな鼻は詮索好きのように見え、上唇は少しばかり長すぎ、口も僅かだが横長すぎる。灰青色の眼の中に金の斑が見えた。素敵な微笑の持ち主だ。たっぷり睡眠をとったように見える。誰もが好きにならずにいられない可愛い顔だが、連れ歩く時、メリケンサックを用意しなければならないほどではない。
「オフィスが何時に開くのか知らなかったの」彼女は言った。「で、待つことにしたわけ。察するところ、今日は秘書はお休みのようね」
「秘書はいないんだ」
 私は部屋を横切って内側のドアの鍵をあけ、外側のドアのブザーのスイッチを入れた。「暇つぶし用に使っている応接間に行こう」》

新しい一日のはじまりである。ハードボイルド小説の探偵としては、マーロウは意外と思えるほど健康的な生活を送っている。いつも自分で作った朝飯を食べている。料理自慢でなくてもできる、卵を使った料理が好きなようだ。

「ムース・マロイにまつわる二幕目の小さな記事があるにはあったが、ナルティの名前はなかった」は<There was a paragraph and a bit about Moose Malloy, in Part II, but Nulty didn't get his name mentioned>。清水氏は「大鹿マロイのことは小さく載っていたが、ナルティの名前はなかった」と簡単に訳している。

村上訳は「ムース・マロイについての記事が出ていた。目立たないところに、パラグラフにしてひとつ、ふたつくらい。しかし、ナルティの名前は出ていなかった」。<Part II>を、村上氏は新聞の「二面」とでもとらえたのだろうか「目立たないところに」と訳している。ふつう<part 2>は「第二部」の意味だ。「続報」という訳語も考えたのだが、マロイ自身はまだ記事になっていないので、あきらめた。

「半熟卵」は文字どおり<soft boiled eggs>なのだが、清水氏は「やわらかいボイルド・エッグ」、村上氏は「柔らかめに茹でた卵」と訳している。清水訳は「ハード・ボイルド(小説)」への目配せだろうが、<soft boiled eggs>をいちいち「やわらかいボイルド・エッグ」や「柔らかめに茹でた卵」と訳すのは、ハード・ボイルドっぽくない気がする。

「しみったれた声だ」は<He sounded mean>。清水氏は「冷たい声だった」。村上氏は「彼は面白くもないという声を出していた」と訳している。<mean>は、ひとくちでは言えないほど多様な意味を表す単語なので、これが正解という決め手がない。文脈から考えて、いちばん相応しい訳語をあてるよりほかにないだろう。村上訳がまさにそれだ。

「彼はいったん言葉を切り、わめき始めた」は<He stopped to snarl>。清水氏はここをカットして、次の台詞に続けている。村上氏は「彼は言葉を切ってうなった」と訳している。<stop to>は「~をするために止まる」の意味。開き直って、警察の失態をわざと大げさに話そうと体勢を立て直すために、一度話をやめたのだろう。<snarl>は「うなる、ガミガミ言う」の意味。村上氏は「うなり声」の意味で訳しているようだが、続く言葉を「ガミガミ」言ったのではなかろうか。

「囲い堰みたいにがっしりした体格だ」は<built like a coffer dam>。清水氏は例によってここをカット。<coffer dam>は「囲い堰」。水中で工事をするとき、止水のために設けられる鋼矢板を連結した一時的な堰である。村上訳は「おまけに運河の堰みたいな図体をしてやがる」。「運河の堰」というのは「閘門」のことを指すのだろうか。今一つイメージが湧いてこない。

「フリスコで開かれてるステート・フェア見物に出かけるところだった」は<on his way to Frisco to see the Fair>。清水氏はここもカット。フリスコはサンフランシスコの略称で、村上氏は「サンフランシスコまで博覧会を見に行く途中だった」と訳している。サンフランシスコで博覧会が開かれたのは1915年。『Farewell, My Lovely』が刊行されたのは1940年だ。ここは「ステート・フェア」と考えた方がいいのではないだろうか。

「それで、やつは警官相手にエクササイズをしたんだ」は<So he done exercises with the cops>。清水氏は、続く<and when they was tired enough to go to sleep>とひとまとめに「その大男は警官を二人とも殴り倒して」と訳している。村上訳は「そこでやつは警官たちを相手にひと暴れした」だ。<exercise>は「運動、訓練」の意味で、現在ではそのまま用いられている。ここはそのまま使うか「組み稽古」くらいに訳す方が原意に沿うと思う。

「オフィスのあるフロアまでエレヴェーターで上がった」は<rode up to my floor>。清水氏は「オフィスに上り」と、あっさり訳しているが、村上氏は「私の事務所のある階まで歩いて上った」と、わざわざ「歩いて」をつけ加えている。気になるのが<ride up>である。何かに乗ることを意味する<ride>の後に<up>がつく場合、「まくれ上がる」のような意味でない場合、ふつうは「エレヴェーターで上がる」の意味になる。村上氏には何か考えるところがあったのだろうか?

「私は小さな待合室のドアを開けた。依頼人が待つことができるように、いつも鍵はかけていない」は<I opened the door of the little reception room which I always left unlocked, in case I had a client and the client wanted to wait>。清水氏は「いつも鍵をかけないでおく待合室のドアをあけた」と簡潔だ。村上訳は「いつも鍵をかけないままにしておく小さな待合室(レセプション・ルーム)のドアを開け、ひょっとして依頼人がやってきて、そこで待っていたりしないかと確かめた」。何だか、マーロウが物欲しげに見える。

アン・リオーダンの容貌に関するマーロウの観察のうち、清水氏がカットしている部分を次にあげる。「(鼻は小さく)詮索好きのように見え」、「(灰色のかかった碧い眼)金の斑が見えた」、「(誰にでも好かれる容貌だった)たっぷり睡眠をとったように見える。誰もが好きにならずにいられない可愛い顔だが、連れ歩く時、メリケンサックを用意しなければならないほどではない」。

メリケンサック」と訳したところは<brass knuckles>。村上氏は「ブラスナックル」と、そのまま表記している。「メリケン」はいうまでもなく「アメリカン」の意味で、今では死語だろうが、「ナックル・ダスター」と訳しても通じる度合いが上がるとも思えない。今のアクションものでは、「ブラスナックル」が主流なのだろうか。

「私は部屋を横切って内側のドアの鍵をあけ」は<I went across and unlocked the inner door>。清水訳は「私は、奥の部屋のドアをあけて」。村上訳は「私は部屋を横切って、内側のドアを開けた」だ。両氏ともに<unlocked>を無視している。マーロウは村上訳のように、依頼人の有無の確認のために最初のドアを開けるのではない。鍵のかかった内側のドアを開けるためには、はじめのドアを開ける一手間がいるのだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(3)

《ランドールは首を振った。「もし、組織的な宝石強盗団なら、よほどのことでもない限り人は殺さない」彼は突然話を打ち切り、眼にどんよりした膜がかかった。ゆっくりと口を閉じ、固く結んだ。思いついたのだ。「ハイジャック」彼は言った。
 私はうなずいた。「それも考えられる」
「それにもう一つ」彼は言った。「どうやってここまで来た?」
「自分の車を運転して」
「君の車はどこに置いてあった?」
「モンテマー・ヴィスタの麓の歩道沿いに並んでるカフェの駐車場だ」
 ランドールはたいそう思慮深げに私を見た。後ろにいる二人の刑事が疑わし気な目で私を見た。留置場の酔っ払いがヨーデルを歌おうとして、しゃがれた声に気落ちしたのか、泣き出した。
「ハイウェイまで歩いて出た」私は言った。「車に手を振ったら、一人の娘が運転していた車をとめて、そこまで乗せていってくれた」
「たいした娘だな」ランドールが言った。「夜更けに、さびしい道で車をとめるとは」
「ああ、そういう娘もいるのさ。知り合いにはなれなかったが、いい娘らしかった」私は目をそらさなかった。連中が私の話など信じないことを知りながら、どうして私は嘘を並べているのだろう。
「小さな車でね」私は言った。「シボレーのクーペだ。ナンバーは見なかった」
「ほう、ナンバーを見なかったとさ」刑事の一人がそう言いい、屑籠にまた唾を吐いた。
 ランドールは体を乗り出し、念入りに私を見つめた。「もし何か隠しておいて、自分でこの件を洗って、売り出しに使おうなんて考えているなら、よした方がいい、マーロウ。君の話は気に入らない、すべての点でな。一晩考える時間をやろう。宣誓供述書をとらせてもらうのは明日になるだろう。そんなわけで、ひとつ言わせてもらおう。これは殺人事件で、警察の仕事だ。そして、警察は君の助けなど必要としない。たとえそれが役立つとしてもだ。我々が君に求めているのは事実だ。分かったな?」
「もちろんだ。で、もう家に帰っていいかな? 気分がすぐれないんだ」
「帰っていい」彼の眼は冷ややかだった。
 私は立ち上がり、誰もが押し黙っている中、ドアに向かった。四歩ばかり歩いたところでランドールが咳払いしてから何気なく言った。
「おっと、最後に一つだけ。君はマリオットが吸っていた煙草の種類に気づいていたか?」
 私は振り返った。「ああ、茶色のやつだな。南アメリカ産。フランス製のエナメルケースに入っていた」
 ランドールは身をかがめ、テーブルの上に積み上げたがらくたの中から、刺繍入りの絹のケースを押し出し、自分の方に引き寄せた。
「これに見覚えは?」
「あるよ。ちょうど今見ていたところだ」
「私が言っているのは、今夜より前にということだ」
「見たように思う」私は言った。「そこらに転がっていたんだろう。なぜだ?」
「君は死体を探らなかっただろうな?」
「オーケイ」私は言った。「お察しのとおり、いくつかポケットを調べた。それもその中の一つだ。悪いが、職業上の好奇心ってやつだ。しかし捜査妨害はしていない。何はどうあれ、死者は私の依頼人だった」
 ランドールは両手で刺繍入りのケースを持ち、蓋を開けた。座ったまま中をのぞき込んだ。中身は空っぽだった。三本の煙草は消えていた。
 私は強く歯を噛みしめ、くたびれた顔を保つようにした。容易なことではなかった。
「この中の煙草を吸っているところを見かけたかい?」
「見ていない」
 ランドールは冷やかにうなずいた。「見てのとおり空っぽだ。それなのにポケットに入っていた。中に細かな屑が入っていた。顕微鏡検査にかけてみないと確かなことは言えないが、どうやらマリファナのようだ」
 私は言った。「もしそんなものを持ってたら、今夜のような晩には二、三本吸いたくなるんじゃないか。彼には何か元気づけがいっただろう」
 ランドールは慎重にケースの蓋を閉めて、押しやった。
「それだけだ」彼は言った。「ごたごたに巻き込まれるんじゃないぞ」
 私は外に出た。
 霧は晴れ、星が輝いていた。黒いベルベットの空に貼りつけたクローム細工のような星が。私は車を猛スピードで走らせた。ひどく酒が飲みたかったが、バーはどこも閉まっていた。》

「眼にどんよりした膜がかかった」は<his eyes got a glazed look>。清水氏はここを「眼を輝かした」と訳している。<glaze>は「釉をかける」のように、物の表面につやを出すことを意味するが、眼に関して使われるときは「どんよりする」の意味になる。ランドールは何かを思い出したのだから「眼を輝かせ」としたい気持ちは分かるが、ランドールの胸に兆したのが疑念だったということで、こう表現したのだろう。村上訳は「その目はどんよりとした光を持った」と直訳調だ。

「ハイジャック」は<Hijack>とそのままだ。清水訳も「ハイジャックだ」。村上氏は「強奪犯に切り替わった」と、訳者の解釈が入っている。ハイジャックの意味としては「不法に輸送機関や貨物の強奪や乗っ取りを行うこと」だが、最近は航空機の乗っ取りを指すことが多いので、村上氏は説明がいると思ったのだろう。原作が書かれた時代(特に禁酒法が施行されていた1920年代)のアメリカでは「密造酒を輸送するトラックや船舶から積荷を強奪する行為を指した」という。ここで用いられているのもその意味だろう。

「知り合いにはなれなかったが」は<I didn't get to know her>。清水訳は「名前は訊かなかったが」。村上訳は「素性まではわからないが」。<get to know>には「~について知る」という文字通りの意味のほかに「知り合いになる」という意味がある。ここでは、そちらを採る方がスマートだろう。

「私は目をそらさなかった。連中が私の話など信じないことを知りながら、どうして私は嘘を並べているのだろう」は<I stared at them, knowing they didn't believe me and wondering why I was lying about it>。この一文の解釈が両氏で微妙にちがう。

清水氏は、<I stared at them>をカットして、改行した上で「彼らが信じていないことはわかっていた。そして、私は、なぜ嘘をいったのであろう、と考えた」と訳している。氏の考えでは「考えた」のは「私」ということになる。

村上訳を見てみよう。「私は彼らを見た。私の話を信じていない。どうしてそんなことで嘘をつくのか、不思議に思っている」だ。村上氏の訳だと「不思議に思っている」のは、「彼ら」のようだ。

もともとは一文であるものを、訳文で句点で区切ることは往々にしてあるが、そうすることで、主語が変化してしまったのではないだろうか。私見だが、マーロウは刑事たちの顔をじっと見つめ、彼らが自分の話を信じていないことを察知している、と同時に、自分の心の中で、「なぜ俺はこんな馬鹿なまねをやってるんだ」と自嘲しているのだ、と思う。

「彼の眼は冷ややかだった」は<His eyes were icy>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼の目は氷のように冷ややかだった」だ。「氷のよう」か「冷ややか」のどちらかで通じると思うが。「誰もが押し黙っている中」は<in a dead silence>だが、清水氏はここもカットしている。面倒くさかったのだろうか。村上訳だと「不気味なまでに深い沈黙の中」という、いかにも文学的な表現になっている。総じて村上訳は言葉を重ね過ぎるきらいがある。

「テーブルの上に積み上げたがらくたの中から」は<the pile of junk on the table>。清水氏はここを「テーブルの上から」と略している。ここは、ポケットから出た所持品の中から選り出したことが分かるように訳す必要があるだろう。村上訳は「テーブルに積まれたがらくたの中から」だ。

<「オーケイ」私は言った。>のところ、原文は<“Okey,” I said>だが、清水氏は「私は嘘をいっても無駄だと思った」と、マーロウの内心を慮って書き直している。その必要があるだろうか。そのままで充分わかるところだ。村上訳は<「わかったよ」と私は言った>だ。

「ランドールは両手で刺繍入りのケースを持ち、蓋を開けた。座ったまま中をのぞき込んだ」は<Randall took hold of the embroidered case with both hands and opened it>。清水訳は「ランドールはシガレット・ケースを開いた」と、やけにあっさりしている。疲れていたのか、どうでもいいところだと思って端折ったのだろう。村上訳は「ランドールは両手で刺繍入りの煙草ケースを持ち、蓋を開けた。そして座ったまま中をのぞき込んだ」。

「どうやらマリファナのようだ」は<I have an idea it's marihuana>。清水氏は「麻薬タバコらしいんだ」と訳している。この時代、マリファナでは日本の読者に伝わらなかっただろう。新訳が必要な所以だ。村上訳は「おそらくマリファナじゃないかと思う」。

「ごたごたに巻き込まれるんじゃないぞ」は<And keep your nose clean>。清水訳は「余計なことに頭を突っこむな」、村上訳は「面倒に鼻を突っ込まない方がいいぜ」だ。「厄介なこと」に突っ込むのは「首」と相場はきまっていたような気がするが、調べてみると、「頭」も「鼻」もあるようだ。<keep one's nose clean>は「面倒なことに巻きこまれないようにする」ことをいう決まり文句。ならば、「鼻を突っ込む」が正解かも。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(2)

《「少し遡って考えてみようか?」彼は言った。「誰かがマリオットとその女を襲い、翡翠のネックレスその他を強奪した後、推定価格よりかなり安価と思われる値での売却を持ちかける。マリオットが支払いの交渉にあたり、自分一人でやると言い出した。相手がそう主張したのか、話の中で出たことなのか、それは知らない。普通こういう場合、もっと煩雑な条件がつくものだ。しかし、マリオットはどうやら君を連れて行って差し支えないと考えたようだ。君ら二人は、組織的なギャング相手の取引だと考えて、連中なりのルールに則ったやり方で事を運ぶものと考えた。マリオットは怖がっていた。当たり前のことだ。誰か連れがほしかった。君がその誰かだ。しかし君は彼にとって赤の他人だ。偶々手渡された名刺にあった名前に過ぎない。それもよく知らない相手からな。彼が言うには共通の友人だそうだが。その上いよいよ土壇場というときになって、マリオットは君が金を運び、相手と話すことに同意する。その間、彼は車に隠れている。君はそれが自分の考えだというが、おそらく彼は君がそう申し出ることを待っていて、もし君が言い出さなければ、自分から言い出しただろう」
「はじめは嫌がってたんだ」私は言った。
 ランドールはまた肩をすくめた。「嫌がってるような振りをしたが、やがては折れた。そこに、ようやく電話がかかってきて、君は言われた場所に出かけた。すべてはマリオットの口から出たことだ。君が自分で知ったことなどひとつもない。君がそこに着いたとき、あたりに人の気配はなかった。君は窪地まで下ろうと考えたが、大型車が通るだけの空きがなかった。実際、その通りだった。車の左側にかなり酷いひっかき傷があった。それで君は車を降り、歩いて窪地に向かった。何も見えず何も聞こえなかった。数分後、車に引き返したところで、車の中にいた誰かが君の後頭部を殴った。ここで、マリオットは金が欲しくて君を身代わりにした、と仮定してみよう。彼の動きは逐一それをなぞっていないかな?」
「しゃれた仮説だ」私は言った。「マリオットは私を殴って、金をとった。その後、自責の念にかられて自分の頭を死ぬまで殴った。金を茂みの下に埋めたその後で」
 ランドールは無表情に私を見た。「もちろん共犯者がいたのさ。君たち二人を倒した後、そいつが金をとって逃げる手はずだった。マリオットは共犯者の裏切りにあって殺された。君が殺されずにすんだのは顔を知られていないからだ」
 私は感心してランドールを見つめ、木のトレイで煙草をもみ消した。以前は内側にガラスの灰皿が入ってたのだろうが、今はなくなっている。 
「事実に符合している―我々が知る限りのだが」ランドールは穏やかに言った。「今のところ、考えられる一番もっともらしい仮説だ」
「一つ事実に符合しないところがある―私は車の中から殴られた、ということだな? となると、新たに何か出てこない限り、私はマリオットの仕業を疑うだろう。もっとも、殺された今となっては疑いようがないが」
「何より君の殴られっぷりがもっとも符合しているじゃないか」ランドールは言った。「君は銃を持っていることをマリオットに言わなかった。しかし、脇の下のふくらみに目をつけたかもしれないし、銃の携帯にうすうす感づいていたのかもしれない。もしそうなら、相手の油断した隙を狙うに越したことはない。それに君は車の後部に何の注意も払っていない」
「オーケイ」私は言った。「いいだろう。辻褄は合っている。もしもだ、金がマリオットのものでなく、彼は盗みを企んでおり、さらには共犯者までいたらな。計画では、二人とも頭の上に瘤を作って目を覚ますと金は消えている、そしてお互い酷い目にあったなと慰めあい、私は家に帰ってすべてを忘れる。それで終わりか? つまり、そんな結末を思い描いてたのかってことだ。それで彼の方も体裁が整う、とでもいうのか?」
 ランドールは苦々し気に微笑んだ。「俺自身、気に入ってるわけじゃない。とりあえず考えてみたまでだ。知り得た限りの事実には符合している―たいして知っちゃいないがね」
「論を立てるには、まだ知らないことが多すぎる」私は言った。「なぜ彼が真実を語っていないと決め込むんだ。ことによると強盗犯の一人が顔見知りということもあるのでは?」
「争った音を聞かなかったといっただろう? 叫び声も」
「聞こえなかった。しかし、手際よく首を絞めたかもしれない。それとも、襲われた時に恐怖のあまり声が出なかったのかもしれない。私が坂道を下りてゆくのを連中が茂みから見張っていたとしよう。何しろ少し距離が離れていた。ゆうに百フィートはあっただろう。連中は車をの中を調べてマリオットを見つける。誰かが銃を顔に突きつけ、そっと車から降ろす。それから殴り倒された。しかし、彼の言葉、あるいは顔つきが、連中の誰かに正体を知られたと思わせたんだ」
「暗闇の中でか?」
「そうだ」私は言った。「そういうことがあったにちがいない。心に残る声というのがある。暗闇の中でも知り合いなら気づく」》

「実際、その通りだった。車の左側にかなり酷いひっかき傷があった」は<It wasn't, as a
matter of fact, because the car was pretty badly scratched on the left side>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「そして実際にそのとおりだった。車の左側にはかなりひどいひっかき傷ができていたよ」と訳している。

「もっとも、殺された今となっては疑いようがないが」は<Although I didn't suspect him after he was killed.>。清水氏はここを何と思ったか「彼の立場が悪くなるじゃないか」と意訳している。村上氏は「もっとも、マリオットが殺された今では、そんな疑いは抱かないが」と訳している。ふつうはそうなるだろう。

それに対するランドールの言葉「何より君の殴られっぷりがもっとも符合しているじゃないか」は<The way you were socked fits best of all>。ここも、清水氏は「そんなことはない」と意訳している。村上訳では「君の殴られたことが、いちばん話の筋書きに合致している」だ。清水氏は、現場に第三者がいたことを暗黙の了解事項としている。

それは「それに君は車の後部に何の注意も払っていない」<And you wouldn't suspect anything from the back of the car>を「自動車の中から殴られたといって、マリオが殴ったという証拠にはならないからね」と訳していることからも分かる。つまり、清水氏によれば車の中に誰がいたとしても構わないというわけだ。おそらく、マリオットはその前に気絶させられていて、別の男が待ち構えていたという解釈なのだろう。

「それで彼の方も体裁が整う、とでもいうのか?」は<It had to look good to him too, didn't it?>。清水訳は「彼にもぐあいがよかったのだ」。村上訳は「会心の筋書きだと本人も思ったことだろうよ」だ。両氏ともマーロウが強烈な皮肉をランドールに浴びせているという解釈なんだろうが、少々回りくどい気がする。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(1)

12

 

《一時間半後。死体は運び去られ、あたり一帯は入念に調べられ、私は同じ話を三回か四回繰り返させられた。我々は四人で、西ロサンジェルス警察署の当直警部の部屋に腰をおろしていた。早朝ダウンタウンの裁判所に送られるのを待つ、酔っ払いが独房でオーストラリア奥地の雄叫びを上げ続けているのを除けば、署内は静かだった。
 ガラスの反射板で跳ね返された冷たく白い光が平らな天板を照らしていた。テーブルの上にはリンゼイ・マリオットのポケットから出た、今や持ち主同様に生気と居場所を失った品々が広げられていた。テーブルの向こうにいるのはロサンジェルス警察本部の殺人課から来たランドールという名の男だった。五十がらみの瘦せた無口な男で、滑らかで柔らかな銀髪と冷たい眼の持ち主で、態度はよそよそしかった。臙脂のドット・タイを締め、黒いドットが眼の前で絶えず揺れ動いた。男の背後、円錐形の光の向こうには、二人の逞しい男がボディガードよろしくゆったりと構え、各々が私の片一方の耳をそれぞれ見張っていた。
 私は指で煙草を探り当てて火をつけたが、味は気に入らなかった。ただ座って、指の間で燃え尽きるのを眺めていた。知らぬ間に時が過ぎて、八十歳になったような気がした。
 ランドールが冷やかに言った。「繰り返せば繰り返すほど、君の話はばかげて聞こえてくる。マリオットとやらが、この支払いについて何日も交渉を続けてきたことに疑問の余地はない。それなのに、最後の顔合わせの数時間前に得体の知れない男を電話で呼んで、ボディガードとしてついてくるよう雇ったというのだからな」
「正確にはボディガードとしてではない」私は言った。「私は銃を持っていることを話していない。つきあってくれ、と言われただけだ」
「君のことをどこで耳にしたんだ?」
「はじめは共通の友人を介して知ったと言った。その後、電話帳で名前を拾っただけだと」
 ランドールはテーブルの上の品々をつつきまわし、さも汚いものにでも触れるように白い名刺を横に取り分け、机越しに押して寄こした。
「君の名刺を持っていた。業務用のだ」
 私はちらっと名詞に目をやった。紙入れに他の何枚かの名刺に混じって入っていたものだ。プリシマ・キャニオンの窪地で見かけたが、わざわざ調べはしなかった。私の名刺の一枚にちがいなかったが、マリオットのような男には不似合いなほど汚れていた。角の一つに丸い染みがついていた。
「そのようだ」私は言った。「機会があればいつでも渡すことにしている。当然のことだ」
「マリオットは君に金を運ばせた」ランドールは言った。「八千ドルだ。ずいぶん信じやすい魂の持ち主のようだ」
 私は煙草の煙を吸い込み、天井に向けて吐いた。天井の照明が眼に痛かった。後頭部がずきずきした。
「八千ドルは持っていない」私は言った。「すまないね」
「当然だ、もし金を持っていたら、君はこんなとこにいないだろう。違うかね?」今では顔に冷笑を浮かべていたが、とってつけたものに過ぎなかった。
「八千ドルのためなら何でもやるだろう」私は言った。「が、もし、殺しの得物がブラックジャックなら、せいぜい二回だ―頭の後ろを狙ってな」
 彼はかすかに頷いた。刑事の一人が屑籠に唾を吐いた。
「そこがもう一つ解せないところだ。見たところ素人の仕事のようだが、もちろん、素人仕事のように見せかけているのかもしれない。金はマリオットのものじゃなかったんだな?」
「知らないな。そんな印象を持ちはしたが、ただの印象に過ぎない。件の女性が誰なのか言おうともしなかった」
「こちらもマリオットについて何もつかんでいない―今のところはだが」ランドールはゆっくり言った。「八千ドルを盗もうとしていたと考えられなくもない」
「なんだって?」私は驚いた。多分驚いた顔をしただろうが、ランドールの愛想のいい顔に変化はなかった。
「金は数えたのか?」
「勿論そんなことはしていない。包みを預かっただけだ。金はそこに入っていた。たいした金額のようだった。八千ドルあると言っていた。どうして私が登場する前から持っていたものをわざわざ私から盗もうとするんだ?」
 ランドールは天井の隅を見上げ、両方の口角を下げ、肩をすくめた。》

「早朝ダウンタウンの裁判所に送られるのを待つ、酔っ払いが独房でオーストラリア奥地の雄叫びを上げ続けているのを除けば」は<except for a drunk in a cell who kept giving the Australian bush call while he waited to go downtown for sunrise court>。<the Australian bush call>の意味がいまひとつよくわからない。

清水氏は「留置所の酔漢がときどき何ごとか叫んでいるだけで」とあっさり訳している。まあ、これで意味は伝わりはするのだが、釈然としない。村上訳は「オーストラリアの奥地の雄叫びのような声をあげている酔っ払いを別にすれば、署の中は静まりかえっていた。この男はダウンタウンに連行されて早朝の簡易裁判にかけられるのを、留置場で待っているのだ」と、やけに詳しい。

「態度はよそよそしかった」は<a distant manner>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「物腰はどこかよそよそしい」だ。

「私は指で煙草を探り当てて」と訳したところ、原文は<I fumbled a cigarette around in my fingers>だが、清水氏は「私はタバコに火をつけたが」と、ここを訳していない。村上氏は「私は指で煙草をごそごそといじりまわし」と訳している。

「知らぬ間に時が過ぎて、八十歳になったような気がした」は< I felt about eighty years old and slipping fast>。清水氏は「急に八十歳になったような気持だった」と訳している。村上氏は「自分がもう八十歳になり、更にとめどなく衰えつつあるような気がした」と訳している。<slip>には、本人が意識しないうちに何かが動き去るという意味があるが、村上訳だとマーロウはそれを意識しているようにとれる。ここは時間が無駄に流れ去ることへの言及と取っておけばいいところではないか。

「が、もし、殺しの得物がブラックジャックなら、せいぜい二回だ―頭の後ろを狙ってな」は<But if I wanted to kill a man with a sap, I'd only hit him twice at the most-on the back of the head>。清水氏は「しかし、もし、人間を殴り殺すのだったら、二度以上はなぐらないね」とダッシュの後をカットしている。村上氏は「しかしもし私がブラックジャックで相手を殺そうと思ったら、殴るのはせいぜい二回だ。それも頭の後ろをね」と訳している。

「肩をすくめた」は<He shrugged>。清水訳では「そして、肩をゆすった」。村上訳では「それから肩をすぼめた」と訳されている。似ているようで、この三つの印象はずいぶん異なる。「肩をゆすった」には、「大げさ、偉そう」な印象がある。それに対して「肩をすぼめる」には「元気がなく、しょんぼりした」というイメージがある。<shrug>は「(両方の手のひらを上に向けて)すくめる」の意味で、その前に<drew his mouth down at the corners>とある。「両方の口角を下げ」と訳したが、言い換えれば「口をへの字に曲げ」の意味だ。欧米人がよくやる仕草である。相手の意見を否定はしないが、同意もしない、というような、いろんなニュアンスを含む態度である。