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HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第七章(1)

《横長の部屋だった。家の間口全部を使っている。低い天井は梁を見せ、茶色の漆喰壁は、鏤められた中国の刺繡や木目を浮かせた額に入れた中国と日本の版画で飾り立てられていた。低い書棚が並び、その中でならホリネズミが鼻も出さずに一週間過ごせそうなくらいけばの厚い桃色の中国緞通が敷いてあった。フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた。誰であれ、そこに住む者は手を伸ばして親指で何か触っていなければならないとでもいうように。古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった。その上にはひとかたまりの洋服が乗っていて、中には薄紫色の絹の下着もあった。台座に乗った大きな木彫のランプの他に、翡翠色の笠に長い房飾りがついたフロア・スタンドが二つ立っていた。四隅にガーゴイルが彫られた黒い机の後ろには、背と肘掛けに彫刻を施した黒い椅子があった。磨き立てられ、黄色い繻子のクッションが置かれていた。部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ。》

 

<It was a wide room.>を双葉氏は「広い部屋だった」、村上氏は「横に長い部屋だった」と訳している。広い部屋としたいところだが、家の間口と比較しているところから、奥行きのない部屋なのだと分かるので、横に長いと訳すのが親切だろう。次を双葉氏は「薄暗い間接照明の天井」とやってしまっている。最初は<It had a low beamed ceiling>をそう取った。車の「ロービーム」からの連想である。しかし、ここは村上氏の「天井の梁が低く」が正解だろう。いわゆる「梁見せ天井」。ログキャビン風の建築ならなおさらだ。

 

<There were low bookshelves>を村上氏が「丈の低い本棚があり」としているのに、珍しく双葉氏の方が複数にこだわって「本棚がずらりと並び」としている。でも、<low>がどこかへ行ってしまっているのが惜しい。その次が面白い。双葉氏はこう訳す。「厚い桃色の中国じゅうたんがあった。このじゅうたんでなら、野鼠など一週間ぐらい、鼻をぴくりともさせず眠りつづけるだろう」。村上氏は「ピンク色の中国絨毯が敷かれていた。絨毯は厚く、地リスが一週間けば(傍点二字)の上に鼻先を見せずに過ごすことができそうだった」。原文は<there was a thick pinkish Chinese rug in which a gopher could have spent a week without showing his nose above the nap.>。

 

<rug>は、今ならそのまま「ラグ」でも通じそうだが、けばの厚さを強調して「緞通」を使ってみた。というのも「絨毯」は長尺の物を意味し、ラグのように一部に使う物に当てはまらないようだ。小形で方形の物を「緞通」と呼ぶ。ただし、このラグが方形でない場合「緞通」は誤訳になる。どうだろうか。<gopher>は、ホリネズミを意味する語なのだが、アメリカの一部では地リスのことを<gopher>と誤って呼んでいるらしい。アメリカ生活の経験者である村上氏ならではか。地下に穴を掘るのは共通しているから、まあどちらでも好きな方をと言いたいところだが、けばの長い敷物の中から鼻をのぞかせるイメージとして、「ホリネズミ」という呼称は捨て難いと思うが如何。

 

さらにもう一点<nap>の件がある。<nap>という名詞には二通りの意味があり、一つは双葉氏の訳にあるように「うたた寝、居眠り、午睡」の意。もう一つが村上氏の採用している「けば」だ。絨毯の上で眠りつづける野鼠のイメージも可愛くて捨てがたいが、< without showing his nose above the nap>とあるからには、「けば」の上に鼻を見せることなしに、と訳すしかなかろう。どちらにせよ、こういう比喩を楽しんで使うチャンドラーの文章が好きだ、としか言いようがない。

 

まだまだ続く。「フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた」のところだ。双葉氏は「床には絹の房をくっつけたクッションがあった」としている。村上氏は「いくつかのフロア・クッションと絹でできた何やかやがあたりにばらまかれていた」である。<There were floor cushions, bits of odd silk tossed around.>という原文の<bits of odd silk>が厄介なのだ。複数のフロア・クッションと、絹製の何かが辺りに「トス(投げる、ほうる)」されている光景なのだが、村上氏も「何やかや」としか書けないように、何なのかよく分からないものが辺り一面に散らばっているらしい。

 

床に放り出された品物の数の多さを表せていない双葉氏の意訳は、次の<as if whoever lived there had to have a piece he could reach out and thumb.>にうまく続かない。双葉氏は「ここに住む人間なら、誰でもちょいと手を伸ばしてその房をいじれるようなぐあいだ」と、やはり意訳を重ねているが、「ちょいと手を伸ばし」たくらいで、広い部屋に置かれたクッションの房飾りがいじれるものだろうか。村上氏はこう訳す。「手を伸ばして常に何かを親指で触っていないと落ち着かない人間が、そこに暮らしているみたいだった」。しかし、これも少し、住人の性向に踏み込み過ぎた訳に思える。<whoever>とあるからには、そこに住む人間であれば誰でもという意味になる。特定の性向(例えばフェティッシュのような)を持つ人間を意味してはいない。ここは、誰であれ、その部屋に入れば何かに触れるくらい絹製品が散らばっていた、と解釈するのが穏当だろう。

 

「古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった」は<There was a broad low divan of old rose tapestry.>。これを双葉氏、「低いばら色のソファもあった」と、訳すが、少しあっさりしすぎでは。村上氏は「古いバラ模様のタペストリーのついた、低く幅の広い長椅子があり」と訳している。<old rose>が曲者で、近代のバラに対し、古いバラの品種を表す場合もあれば、「褪紅色」という薄赤色を表す場合もある。ここは「タペストリー」(綴れ織り)が手がかりになる。掛物になったタペストリーなら分かるように、絵模様を織り出した平織りの生地のことである。色だけを意味するならタペストリーの語はいらない。ここは、古いバラの模様を織り出した生地と読みたいところだ。

 

「四隅にガーゴイルが彫られた黒い机」は<There was a black desk with carved gargoyles at the corners>。双葉氏は「一隅には、彫刻のついた黒い机があり」としているが、<the corners>と複数になっているのを忘れている。ガーゴイルは、ノートルダム寺院の物が有名だが、屋根の上にいる例の怪獣である。当時としては説明するのも面倒だと思ったのか双葉氏はそこをトバしている。村上氏は「黒いデスクがひとつ、四隅にはガーゴイルが彫ってある」と、語順通りに訳している。

 

部屋に残っている臭いについて。双葉氏の訳では「変なにおいが部屋じゅうにただよっていた。そのにおいが強く感じられるときは、火薬が燃えたあとの臭気みたいでもあり、気持が悪くなるようなエーテルの匂いみたいにも思えた」と、いつになくまだるっこしい訳しぶりだ。村上氏は「部屋の空気にはいくつかの匂いが奇妙に混じりあっていた。今の時点で最も際だっているのは、コルダイト火薬のつんとした匂いと、気分が悪くなりそうなエーテルの芳香(アロマ)だった」と、几帳面な訳し方だ。

 

少し長い文だが原文を引く。<The room contained an odd assortment of odors, of which the most emphatic at the moment seemed to be the pungent aftermath of cordite and the sickish aroma of ether.>。問題は村上氏が「コルダイト火薬」と訳す<cordite>だ。それまでの黒色火薬とちがって煙の出ない無煙火薬の一種で、主に銃器の弾丸の薬莢内の火薬に使われる。そこから、探偵小説で<cordite>と書けば、銃を思い浮かべるという約束になっているのだろう。しかし、日本で「コルダイト火薬」と字義通り訳しても、註でもなければ通じない。こういう時こそ意訳が必要ではないだろうか。「部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ」と訳してみた。

『大いなる眠り』第六章(7)

《私は橋の横についている柵を跨ぎ、フレンチ・ウィンドウの方に身を乗り出した。厚手のカーテンが引かれていたが網戸はついていない。カーテンの合わせ目から中を覗いてみた。壁のランプの明かりと書棚の片隅が見えた。私は橋に戻り、垣根のところまで行くと、肩に全体重をかけて玄関ドアにぶつかった。ばかだった。カリフォルニアの家で、そこを通って中に入ることの出来ない、おそらく唯一つの場所が玄関だ。肩を痛め、腹が立っただけだ。私は再び柵を跨ぎ越し、フレンチ・ウィンドウを蹴った。帽子を手袋代わりに使い、下側の窓ガラスの大半を引き抜いた。そして中に手を伸ばして窓を敷居に固定している掛け金を外した。残りは簡単だった。上側に掛け金はなかった。留め金が開いた。私はよじ登って中に入り、顔にかかったカーテンをはがした。

 部屋にいた二人のうちのどちらも、私の入り方を気にも留めなかった。もっとも、そのうちの一人は死んでいたのだが。》

 

このパラグラフは問題ありだ。まず、書き出しのところ。双葉氏は「私は板敷のどんづまりの柵をまたぎ、雨で曇ってはいるが、カーテンはおりていないフレンチ・ドアのほうへからだを伸ばし、雨滴が固まってガラスの曇りを消している個所から内部をのぞいた」と訳している。少し長くなるが原文を紹介しておこう。

 

<I straddled the fence at the side of the runway and leaned far out to the draped but unscreened French window and tried to look in at the crack where the drapes came together.>。まず、柵のあるのは<side>(わき、横)であって、「どんづまり」ではない。次に、こちらは深刻だが、フレンチ・ウィンドウには<unscreened>つまり、スクリーン(網戸)がないのであって、「曇っている」のではない。これは完全に誤訳だろう。「雨で曇っている」と誤訳したのがあだとなって、<at the crack where the drapes came together>という単純な部分を複雑に誤訳する羽目となった。「ドレイプ」は厚手の生地でできたカーテンで、複数であることから両側についていると分かる。ルー大柴の「トゥギャザーしようぜ」ではないが、対のカーテンが両側から引かれたその合わせ目にできたクラック(割れ目)のことだ。双葉氏ほどのベテランでも、一度思い込んでしまうと、それに引きずられて辻褄合わせをやってしまう。この雨滴は、後でもう一度誤訳の手伝いをしている。そこを見てみよう。

 

<I climbed in and pulled the drapes off my face.>(私はよじ登って中に入り、顔にかかったカーテンをはがした)のところだ。双葉氏は「私ははいり、顔の雨滴をふいた」と、またしても「雨滴」を使っている。これは想像だが、双葉氏、<drapes>を<drips>と読み間違えたのではないだろうか。それなら、こうまでしつこく雨滴が登場してくる理由が分かる。もちろんここでは、閉じられていた厚手のカーテンが侵入者の邪魔をするのをきらって払いのけただけのことだ。

 

村上氏は「私は敷居を乗り越えて中に入り、顔にかかったカーテンを払った」と訳している。双葉氏も、あっさり「入り」と訳している。ここで、気になるのは<climbed>のことだ。フレンチ・ウィンドウというのは、開け放したらそのままポーチに出られるように、床まで続く観音開きの窓のことだ。しかし、ガイガーの家にポーチはない。どういう構造になっているのだろうか。おそらく、村上氏も訳し様に困って、「敷居を乗り越えて」としたのだろう。しかし、たかだか敷居をまたぐだけのことに、<climb>(手足を使って上る、はい上がる)は、いささか大げさではないか?

 

ここからはまったく想像の域を出ないが、ガイガーの家は、もしかしたら建売住宅で、デザインはどの家も一定だったのではないか。普通ならポーチに続くはずのフレンチ・ウィンドウの前がガイガーの家の場合平地になっていなくて、かなり深い谷のような空間が開いている。それで玄関に続くアプローチ代わりに柵のついた橋をつけてあるのだろう。となると、柵を乗り越えて窓の中に入り込むために、侵入者は体をその空間に曝す必要が出てくる。それが<climb>という語を使う理由ではないだろうか。

 

村上氏が柴田元幸氏との対談のなかで、翻訳するということは熟読することだ、というような意味のことを話していたのを覚えている。日本語訳だけを読んでいたら、こんなことを考えたりは絶対にしないだろう。力もないのに翻訳をしてみようと思うのは、細かな部分にまで目が届くところに愉しさを感じるからに他ならない。

『大いなる眠り』第六章(6)

《ドアの前には細い溝があり、家の壁と崖の縁の間に歩道橋のようなものが架かっていた。ポーチも堅い地面もなく、背後に回る道もなかった。裏口は下の小路めいた通りに通じる木製の階段を上ったところにあった。裏口があることは知っていた。階段を踏んで降りてゆく足音が聞こえたからだ。そのあと、いきなり車が発車する轟音が聞こえた。やがてそれは急速に遠ざかっていった。別の車の響きが重なったように思えたが、確かではない。目の前の家はまるで地下納体堂のように静かだった。急ぐ必要はない。そこにあったものは、そこにある。》

 

ここも訳すのにてこずった。初めの文。双葉氏はこう訳す。「玄関の前はせまい板敷だった。谷間の小さな橋みたいに、家の壁に沿って、土手との空間にわたされていた」。村上氏はこうである。「ドアの前は狭い渡り橋になっていた。家の壁と斜面との間に隙間があり、それをまたいでいる」。原文を上げておく。<The door fronted on a narrow run, like a footbridge over gully, that filled the gap between the house wall and the edge of the bank.>。ドアの前にあるのは、本当は橋ではなく<run>だ。動詞の「走る」の方ではなく名詞で「ドッグ・ラン」のように使用される。厄介なのは、この単語に、「板敷」や「渡り橋」の意味はない。一番用法として近いのは、建築用語で階段の踏板の奥行を示す語として用いられていることぐらい。もともとは、動詞<run>から、水の流れる場所を意味する。

 

それではなぜ両氏が、そう訳したかといえば、後の説明にあるからだ。<footbridge>は「歩道橋」で、それが<gully>(溝)を跨いでいる。要は、家の前に溝があって、そこに歩道橋のようなものが架けられているということなのだが、問題はそこは平地ではなく、LA特有の丘状地に建てられていることにある。後に続く説明を読めば分かるように、ガイガーの家は空中に浮いているようなもので、その橋を通ってしか入れない。ハリウッド映画で、斜面に張り出すように建てられた架空建築をよく見かける。あれの小型版なのだろう。アメリカ人にはイメージが湧くが、日本人には分かりづらい。「板敷」も「渡り橋」も訳者の工夫なのだろうが、こなれた訳語とも思えない。両側に柵のついた「歩道橋」の方が、まだしもイメージがつかめるのではないだろうか。

 

「裏口は下の小路めいた通りに通じる木製の階段を上ったところにあった」も難しい。双葉氏は「裏口の扉は、下手の路地みたいな横丁から通じている木の階段を上りきったところにあった」。村上氏は「裏の出入り口は、小路のように狭い下の通りに通じている木製の階段の踊り場にあった」だ。ここは、双葉氏に軍配を上げたい。「踊り場」とは、階段の途中にある方形の空間を指す。スペースを節約して上下動をするため階段を半分に切って繋ぐ必要があるからだ。しかし、ガイガーの家は階段の途中にあるのではない。

 

<The back entrance was at the top of a flight of wooden steps that rose from the alley-like street below.>が原文。何が難しいかといえば、話者の視点は裏口の入り口から木の階段を下りて、下の通りに出て行っているのに、使われている単語は、<top><rose(riseの過去形)>といった上を意味する語ばかり。そこを双葉氏は、下から上へ上昇する視点を使って訳している。<at the top of a flight of wooden steps >(ひとつながりの木製階段の最上段)とあるからには、踊り場でないのは明白。「上りきったところに」に<top><rose>が響いている。

 

最後の「そこにあったものは、そこにある」は、原文が面白い。<What was in there was in there.>。双葉氏は「家の中にはあるべきものがあるだけのことだ」。村上氏は「中にあるものはそのまま動かない」。原文のような言い回しが、よく使われるのかもしれないが、不勉強で分からない。両氏の意訳はなるほど、堂に入ったものだ。「地下納体堂」と訳したのは<vault>で、教会の地下にある納骨所のこと。双葉氏は「地下の納骨堂」、村上氏は「納骨堂」としている。<vault>は、ゴシック建築などに見られるアーチ形天井の空間を意味する。「納骨堂」と訳すと、小さい棚が並んだ場所のように思われるといけない。手持ちの辞書にあった「納体堂」をあてた。




『大いなる眠り』第六章(5)

《私はドアポケットから懐中電灯を取り出すと、坂を下って車を見に行った。パッカードのコンバーティブルで、色はえび茶か、こげ茶色。左側の窓が開いていた。免許証ホルダーを探って、明かりをつけた。登録証は、ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレッセント3765番地、カーメン・スターンウッド。私は再び車に戻り、座り直した。幌から雨が膝に落ち、胃の腑はウィスキーで灼けていた。それ以上車は丘を上ってこなかった。車を停めた前の家に明かりが灯ることはなかった。悪い癖を招き入れるにはもってこいの界隈のようだった。》

 

双葉氏は最後の<It seemed like a nice neighborhood to have bad habits in.>を訳していない。訳し忘れたのか、省略したのか判然としない。村上氏は「悪しき習慣を持ち込むには、格好の環境であるようだ」と訳している。もったいぶった訳し様だが、何やら意味深な文だ。カットしてしまうには惜しい文に思えるのだが。

 

《七時二十分、夏の稲光のように激しく白い光がガイガーの家を一閃した。暗闇がそれを包み喰い尽くさないうちに、細く甲高い叫び声があたりに響き、雨に濡れた木々の中に消えた。その響きが消える前に、私は車を出てそちらに向かっていた。》

 

何故か双葉氏は「七時三十分」と訳しているのが不思議だ。原文の表記は数字ではなく<seven-twenty>で、間違えようがない。版を組む時、原稿の漢字の「二」が「三」に見えでもしたのだろうか。次の部分は意味は分かるのだが、一つの事態と別の事態の間の時間の関係が分かりづらく、文としてまとめるのが難しかった。光が消えるのは早いが、音の方はもっと長くその場にとどまる。マーロウの動きの素早さをどう表すか、ということだ。

 

《悲鳴に恐怖はなかった。愉快さの混じった驚きの調子、酔ったような怪しい呂律、真性な白痴の上げる高音。不快な響きだった。私は、白衣の男たち、格子の入った窓、手首と足首を縛る革帯がついた固く狭い寝台を思い浮かべた。私が生垣の隙間を見つけ、玄関を隠している角を回った時には、ガイガーの隠れ家は元のようにひっそりと静まり返っていた。ドアにはライオンの口に鉄の環の通ったノッカーがついていた。私はそれを掴もうと手を伸ばした。ちょうどその時、合図を待っていたかのように、家の中で三発、銃声が轟いた。長くざらついた溜息のような声が聞こえ、それから鈍く歪んだ何かのぶつかる音。次いで家の中に慌ただしい足音――逃げてゆく。》

 

チャンドラーの情景描写は感情が必要以上にまぶされた語句が使われている。それが畳みかけるように、次から次へと読者に浴びせかけられる。土砂降りの闇の中に聞こえた悲鳴から精神病院を思い浮かべるマーロウ。マーロウのとる行動とガイガーの家から聞こえてくる物音が並行して同時に語られる。

 

「私が生垣の隙間を見つけ、玄関を隠している角を回った時には、ガイガーの隠れ家は元のようにひっそりと静まり返っていた」は、<The Geiger hideaway was perfectly silent again when I hit the gap in the hedge and dodged around the angle that masked the front door.>。双葉氏は、文を二つに区切り、「私は生垣のすき間に飛び込み、玄関のほうへまわった。家は完全な沈黙にかえっていた」としている。その際<the angle that masked>の部分をカットしている。生垣の迷路がよほど目障りだったのだろうか。村上氏は「私が生け垣の隙間に飛び込み、玄関の目隠しになっている角を曲がったとき、ガイガーの隠れ家は完全な沈黙に包まれていた」と訳している。その前に何度も言及されている目隠しの生垣だ。これを省略してはいけないだろう。

 

<I hit the gap in the hedge>を、両氏とも「生垣(生け垣)のすき間(隙間)に飛び込み」と訳しているが、<hit>という動詞に「飛び込む」という訳語がある訳ではない。「ぶつける」という訳語の意訳だろうが、隙間に飛び込むというのは「ぶつける」ことになるだろうか。相手は隙間である。それにまともにぶつかることなんかできない。どうも的をはずしているようで、これでは<hit>という語の語感にぴったり来ない気がする。<hit>には、他に「見つける、行き当たる」という用例がある。ここは日本語にもなっている「ヒットする」の出番ではないだろうか。

 

村上氏の訳文をよく読めば、マーロウは、意を決して生け垣の隙間に飛び込んでおきながら、わざわざ「玄関の目隠しになっている角を曲がっ」たりしている。そんなに慌てた様子ではない。ましてや、ドアロッカーに手を伸ばすのだから、正式訪問のつもりである。生け垣を傷めてしまったり、自分のスーツに引っかき傷を作ったりする危険を冒すとも思えない。ハード・ボイルド小説の探偵といってもマーロウはそれほどのタフガイではない。あまり気負わないほうがいいのではないか。

『大いなる眠り』第六章(4)

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《ガイガーは車のライトを点けていた。私は消していた。曲がり角のところで速度を上げて追い越すとき、家の番号を頭に入れた。ブロックの終点まで行って引き返した。彼はすでに車を停めていた。下向きにされた車のライトが小さな家の車庫を照らしていた。四角く刈り込まれた生垣が正面扉を完全に隠していた。私は彼が傘をさして、車庫から出て生垣を通り抜けるのを見守った。彼は誰かにつけられているなどと微塵も感じていない素振りだった。家に明かりが点いた。私は坂をすべり下り、上手の隣家につけた。空き家のようだが、看板は出ていない。車を停め、コンバーチブルに外気を入れると、瓶から一口飲み、座ったままでいた。何を待っているのか分からなかった。何かが待つように告げていた。例によって、緩慢な時間の大軍がのろのろと脇を過ぎていった。》

 

この段落はほぼ異同がない。「下向きにされた車のライトが小さな家の車庫を照らしていた」の<His car lights were tilted>を、双葉氏は「車の灯火が、小さな家の車庫の中にぼんやり見えた」と訳している。村上氏は「車のライトは下向きに、小さな家のガレージを照らしていた」だ。ティルトという単語はハンドルなどにも使われているので、上下に移動する物という受け止め方でいいと思う。「ぼんやりと」はハイビームでないことを意味する意訳だろう。<be+過去分詞>の受動態なので、「下向きにされた」と訳してみた。両氏とも、出来る限り、語順を原文通りに訳そうとされている。それを踏襲するなら、「車のライトは下向きにされ」とするのも可。

 

「例によって、緩慢な時間の大軍がのろのろと脇を過ぎていった」の部分。原文では<Another army of sluggish minutes dragged by.>だ。この、いかにもチャンドラーらしい一文を、双葉氏は「時間は、のろのろした軍隊の行進みたいに流れた」、村上氏は「一分一分が、ものぐさな軍隊の行進のように、再び私の前を通り過ぎていった」と、両氏とも暗喩を直喩に代えて訳している。原文に忠実にというなら、直喩は直喩として暗喩は暗喩として訳すことにこだわりたい。また、<an army of+名詞>には「~の大軍、大ぜいの~」の用例がある。わざわざ「軍隊の行進」と訳す必要があるとも思えない。ここでは、マーロウはひたすら待ちの姿勢を余儀なくされる。その気分を強めるため「例によって」と訳してみた。

 

《二台の車が丘を登ってきて峰を越えていった。とても静かな通りのようだ。六時を少しばかり回った頃、明るい光が土砂降りの雨を透して跳ねた。その頃には漆黒の闇になっていた。車はゆっくりとガイガーの家の前に止まった。フィラメントの光が次第に薄暗くなり、やがて完全に消えた。ドアが開き、女が出てきた。小柄でやせた女で、ヴァガボンド・ハットに透き通ったレイン・コートを着ていた。彼女は箱形の迷路の中を通り抜けた。ベルがかすかに鳴り、光が雨を通し、ドアが閉まり、やがて静寂。》

 

雨はまだやまない。人通りも明かりもない通りで何かを待つマーロウ。やがてお目当ての車がやってくる。「明るい光が土砂降りの雨を透して跳ねた」は、原文では<bright lights bobbed through the driving rain.>。<bob>は何かがひょこひょこ上下動する動きのこと。双葉氏は「明るいヘッドライトが浮かびあがった」と訳す。村上氏はいつものように丁寧に「一対の明るいライトが上下しながらやってきた」だ。確かに前照灯は一対あるに決まっているが、そこまで複数にこだわらなくても、と思ってしまう。真っ暗な山道を車の明かりが上下動を繰り返しながら近づいてくる。その感じを短い文で伝えるには工夫がいる。

 

ヴァガボンド・ハットは40年代から50年代にかけて流行した帽子で、クラウンが高く角ばった、中折れ帽の形を崩したような帽子のこと。註も使わずに訳すのは難しいからか、両氏とも「レイン・ハット」と訳している。仕方のないことかもしれないが、「ヴァガボンド(放浪者)」という言葉はマンガのタイトルに使われるくらいには定着している。そのままにしておいても漠然としたイメージは浮かぶかもしれない。

『大いなる眠り』第六章(3)

《クーペは大通りを西へ向かった。私は急な左折を強いられて、多くの車を敵に回した。一人の運転手など雨の中に頭を突き出し、私を怒鳴りつけた。やっと追いついたときには、クーペから二ブロックばかり遅れていた。私はガイガーが家に帰ると信じていた。二度か三度、彼を目にした。しばらくして、彼は北に折れ、ローレル・キャニオン・ドライヴに入っていった。坂道を半分ほど登ったところで車は左折し、湿ったコンクリートが曲がりくねったリボンのような、ラヴァーン・テラスと呼ばれる所に入った。高い崖に沿った細い通りで、反対側の下り斜面には小屋のような家が散らばっていた。屋根は道路に届くか届かないくらいの高さで、正面の窓は生垣や灌木で目隠しされていた。ぐしょ濡れの樹々が見渡す限りの景観に水を滴らせていた。》

 

追跡場面。急な左折が並行して走る車線のドライバーの不興を買う。右側通行のアメリカならでは。<in the groove>というイディオムが出てくる。「レコードの溝に針がぴったりとはまって音が出る」ことから、「大いに好調で」「実に素晴らしく」のような意味になる。こういう部分は、文章全体から意を汲んで訳すしかない。双葉氏は「やっと大通りの車道へ出たとき」、村上氏は「ようやく車の流れに乗ることができたとき」だ。レコード針が溝にはまるように、という比喩はCDでさえ見かけなくなった今ではほとんど意味をなさないのだろうが、アームに指をかけてカートリッジを盤面に落とすときは緊張したものだ。下手をすると針がすべってレコードに傷をつけてしまう。車が無理なく車列の中に収まった、ととらえればいいと思う。

 

<I hoped Geiger was on his way home.>を双葉氏は「私は、ガイガーが家へ帰るところならありがたいと思った」とし、村上氏は「私はガイガーが自宅に帰ることを希望していた」と直訳している。村上氏の訳は正確を期そうとするあまり、学生の英文和訳調になるところがある。これなどもその一例。それに比べ、双葉氏の訳は、正確さではひけをとるもののハードボイルド探偵小説らしさでは上をいく。いかにも追う者の気持ちが伝わってくる訳文だ。ただ、探偵というのは、犯人の心理を推理しつつ行動するもので、両氏ともに、マーロウの推理力を甘く見ている。マーロウは、ガイガーの心理を読み切っているものとして、「信じている」と訳したい。

 

次の<I caught sight of him two or three times>のところも意味は明白だが訳すとなると厄介だ。村上氏も「私は彼の姿を二度か三度ちらりと目にした」と訳している。前を行く車が角を曲がるときなどに一瞬垣間見たことを指すのだろうが、あまり上手い訳とはいえない。双葉氏はここを「見えかくれするうちに」と訳している。上手いものだ。類語辞典を引いてみても「見え隠れ」以上にぴったりくる表現は得られなかった。借用することも考えたが、ここは敬意を表してやめておくことにした。こういうときは、ぴたりとあてはまる言葉が見つかるまで、直訳調で済ますことにしている。

 

「テラス」というのは、「(道路より高くしたり、坂道に沿った)連続住宅の並び」を指す。<Terrace>と、大文字にすると地名の一部に用いられるようだ。つまり、丘の中腹を切り開いて作られた住宅地である。削り取った部分の平らな部分が道路に、垂直の部分は崖状になっている。原文は<Halfway up the grade he turned left and took a curving ribbon of wet concrete which was called Laverne Terrace.>

 

双葉訳はこうだ。「坂道を途中で左へ折れ、ぬれたコンクリートの曲がりくねった帯をたどった。ここはラヴァーン・テラスだ」。村上訳は「急な坂を半分ばかり上がったところで、彼は左折し、濡れたコンクリートのくねくねした道路に入った。ラヴァーン・テラスというのが通りの名前だ」。どこが問題だ、という声が聞こえてきそうだ。<a curving ribbon of wet concrete>(湿ったコンクリートの曲がったリボン)が表しているのは、道路だけなのか、宅地を含む一帯を表すのか、ということだ。村上訳だと、ラヴァーン・テラスは通りの名でしかない。双葉訳は原文に忠実に「通り」という単語を使っていない。通りの名前が地名になることはよくあることで、それ自体に何の問題もない。ただ、村上氏の文章を読んでいると、必要以上に通りに目が向けられている気がしてくる。マーロウの目は、道に向けられているのだろうか。その後に続く周囲一帯の景観描写から考えると、ラヴァーン・テラスはあたり一帯を指していると考えるのが妥当だろう。

 

<It was a narrow street with a high bank  on one side and a scattering of cabin-like houses built down the slope on the other side.>の<cabin-like houses >は、ログ・キャビン(丸太小屋)風の家を指しているのだろう。通常ログ・キャビンは一階建てで、ロフトつきの物もあるが、正面の窓が灌木で隠れていたり、屋根の高さが道路と同じくらいというのなら、一階建てのそれと考えられる。

 

<Their front windows were masked by hedges and shrubs.>(正面の窓は生垣や灌木で目隠しされていた)のところ、双葉氏は「表側には同じような生垣がついていた」と訳している。村上氏は「正面を向いた窓は、植え込みや茂みで目隠しされていた」だ。正面の窓は通りに面しているので、低い木や生垣で目隠しをする必要があるのだろう。後でそれが何かに使われるのかもしれない。双葉訳は、一軒の家ではなく多くの家が「同じよう」に見えたことを強調しているのだろう。(どの家も)同じような、あるいは、灌木か生垣か、どちらも(目隠しという点では)同じようなものだ、という認識がほの見える。

『大いなる眠り』第六章(2)

《また一時間が過ぎた。暗くなり、雨にけぶった店の灯が街路の暗がりに吸い込まれていった。路面電車の鐘が不機嫌な音を響かせた。五時十五分頃、革の胴着を着た長身の若者が、傘を手にガイガーの店から出てきて、クリーム色のクーペを取りに行った。彼が店の正面に車を停めた時、ガイガーが出てきて、長身の若者はガイガーの無帽の頭に傘をさしかけた。彼は傘をたたみ、振って水を切り、車の中に手渡した。彼は店に駆け戻った。私は車のエンジンをかけた。》

このパラグラフは、双葉訳に少々難がある。まず、「雨にけぶった店の灯が街路の暗がりに吸い込まれていった」のところだ。双葉氏は「雨に煙ったほうぼうの店の光が、街路の闇にまたたいた」としている。原文は<the rain-clouded lights of the stores were soaked up by the black street.>。<stores>を生かして「ほうぼうの」としたところは流石だが、<soaked up>を「またたいた」と訳したのはつい筆がすべったか。<soak up>は、辞書によれば「<物が><液体・音など>を吸収する、吸い取る〔込む〕」の意味。村上氏も「雨にもやった(傍点四字)店舗の明かりは、暗さを増す通りに吸い込まれていった」と訳している。「店舗」とすることで、いくらかでも複数の意味を付加しようということだろうが、どうだろう。

つづく「路面電車の鐘が不機嫌な音を響かせた」のところもおかしい。<Street-car bells jangled crossly.>を、双葉氏は「電車の警鈴が、入り乱れてきこえてきた」と訳す。問題は<crossly>だ。辞書には「1.横に、斜めに、2.逆に、反対に、3.不機嫌に、すねて、意地悪く」とある。「交差する」という意味の<cross>からの類推で「入り乱れて」と訳したのだろうが、<cross>にも「不機嫌」(主に英略式)の意味はある。英語に堪能だからこそ、逆に丁寧に辞書を引く必要があるのだ。村上訳は「路面電車の鐘が不機嫌そうに派手な音を立てた」。<jangle>は、「ジャンジャン鳴る」という意味なので、そのまま書いてもいいように思うのだが、「ジャンジャン」には景気のよさそうな響きがあって、不機嫌とは相性がよくない。簡単な英文ほど、シンプルな訳文にならない。

双葉訳、次は一部をスッ飛ばして、勝手に文章を作ってしまっている。これは相当マズい。双葉訳「五時十五分ごろ、ジャンパーを着た若者が店から出て来て、ガイガーの無帽の頭に洋傘を指しかけた」。< with an umbrella and went after the cream-colored coupe. When he had it in front Geiger came out and the tall boy >(傘を手にガイガーの店から出てきて、クリーム色のクーペを取りに行った。彼が店の正面に車を停めた時、ガイガーが出てきて)の部分が完全に脱落している。思うに、ガイガーという単語が何度も出てくるので、「クリーム色のクーペ」の件をつい読み飛ばして訳文をつないでしまったのだろう。角に停めてあったはずの車が突然店の正面に出現する不思議さに編集者も校閲も気がつかなかったのだろうか?