HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十五章(2)

《「俺のことは知ってるだろう」彼は言った。「ハリー・ジョーンズだ」
 私は知らないと言った。私は錫製の平たい煙草入れを押しやった。小さく端正な指が鱒が蠅を捕るように動いて一本抜いた。卓上ライターで火をつけると手を振った。
「このあたりじゃ」彼は言った。「ちょっとした顔なんだ。ヒューニーメ岬でケチな酒の密輸をしてたこともある。荒っぽい仕事だったよ、ブラザー。偵察用の車に乗ってたんだ。膝には銃、尻には札束。石炭(コール)シュートを詰まらせそうなやつだ。ビヴァリー・ヒルズに着くまでに警察に四回も握らせるなんてのは毎度のこと。荒っぽい仕事さ」
「ぞっとするね」私は言った。
 彼は背を後ろに倒し、固く結んだ小さな口の固く結んだ小さな隅から天井に煙を吹いた。
「もしかしたら俺を信用していないのか」彼は言った。
「もしかしたらな」私は言った。「もしかしたらするさ。もしかしたらどっちでも構わないかもな。いったい何を売り込むつもりだったんだ?」
「何も」彼はにべもなく言った。
「君は二日というもの私をつけ回している」私は言った。「女の子をひっかけようとして、最後の一歩を踏み出す勇気のないやつみたいに。もしかしたら保険の勧誘か。もしかしたら、ジョー・ブロディとかいう男の知り合いか。もしかしたら、が多すぎる。この仕事にはつきものだがな」
 彼の目が飛び出し、下唇はほとんど膝まで垂れ下がった。
「くそっ、どうしてそれを知ってるんだ?」彼はいきなり言った。
「超能力者なのさ。厄介ごとならさっさとシェイクして注いでくれ。暇じゃないんだ」
 急に細めた瞼の間で目の輝きがほとんど消えた。沈黙が落ちた。窓の真下にあるマンション・ハウスのロビーのタールを塗った平屋根を雨が叩く音がした。目が少し開いて、また輝きはじめ、声には思惑が溢れていた。
「あんたに渡りをつけたかったんだ」彼は言った。「売り物がある──格安さ、百ドル札二枚。で、俺とジョーをどうやって結びつけた?」
 私は手紙を開いて読んだ。指紋採取の通信講座六カ月コースの勧誘で業界人向け特別割引つきだ。屑籠に放り込んで、また小柄な男を見た。「気にすることはない。推測しただけだ。君は警官じゃない。エディー・マーズの手下でもない。昨夜彼に訊いたんだ。だとすれば、私に興味を持つのはジョー・ブロディの仲間しか思いつかない」
「くそっ」彼はそう言って下唇を舐めた。エディー・マーズの名前を出した時、顔が紙のように白くなった。口がだらんと開き、煙草が手品か何かで生えてきたかのように端っこにぶら下がった。「からかっているんだな」やっと彼が言った。手術室で見かけるような微笑を浮かべながら。「そうさ。からかっているんだ」私は別の手紙を開けた。こっちはワシントンから、採れたての裏情報が詰まった日刊会報を送りたがっていた。
「アグネスは出所したんだろう」私は訊いた。
「そうだ。彼女の遣いだ。興味があるのかい」
「まあね。ブロンドだし」
「ばか言え。こないだの晩あそこで愉快な真似をしてくれたよな──ジョーが花火を食らった夜さ。何かブロディはスターンウッド家のことでネタをつかんでたはずだ。そうでもなきゃ写真を送るなんてまねはしなかったさ」
「ふうん。彼がつかんでた? それは何だ」
「それが二百ドルのネタさ」
 私は何通かのファン・レターを屑籠に捨て、新しい煙草に火をつけた。
「街を出ようと思うんだ」彼は言った。「アグネスはいい娘だ。あんたはそこんとこが分かっちゃいない。近頃じゃ女一人で生きていくのも簡単じゃないんだ」
「君には大きすぎる」私は言った。「寝返りされたら窒息するぞ」
「それは言い過ぎってものだよ、ブラザー」彼の言葉に込められたほとんど威厳に近い何かが私に彼を見つめさせた。》

「尻には札束。石炭(コール)シュートを詰まらせそうなやつだ」は<a wad on your hip that would choke a coal chute>。双葉氏は「尻には札束、ちょいと息がつまるぜ」と訳している。<coal chute>とは、石炭を貯蔵する地下室などに外部から石炭を滑り落とすための傾斜した樋のことだ。画像検索をかけてみると石炭を積んだトラックから、やはり樋状のものを直接<coal chute>に通じる開口部につなげている。こうすれば、上からショベルで掻き落とせば石炭は貯蔵庫まで滑り落ちてゆく。

頑丈な扉はついているが、不審者の侵入を防ぐためか開口部はそれほど大きくない。ハリーのように、小柄な男なら石炭シュートを滑り降りることは可能かもしれない。しかし、双葉氏の訳ではどうして息がつまるのかが分からない。村上氏は「ヒップ・ポケットには札束だ。石炭落としの樋(シュート)がつっかえちまいそうな厚い札束さ」と、樋にルビを振っている。

「ビヴァリー・ヒルズに着くまでに警察に四回も握らせるなんてのは毎度のこと」は<Plenty of times we paid off four sets of law before we hit Beverly Hills.>。双葉氏は「ビヴァリー・ヒルズに着くまで四度も警察の目をくぐらなけりゃならない」としている。<pay off>は支払いの意味だが、「(口封じのために)買収する」の意味もある。そのための札束だ。村上氏は「ベヴァリー・ヒルズに着くまでに合計四度、官憲に袖の下をつかませるなんてこともしょっちゅうだった」としている。英語の発音としては「ベヴァリ・ヒルズ」が正しいようだ。

「もしかしたら俺を信用しないのか」は<Maybe you don’t believe me,>。これ以降<Maybe>が頻出する。一度<Maybe>を「もしかしたら」と訳したら、次からはずっとそう訳さないといけない。同じ言葉を使い回すのはチャンドラーご執心のレトリックだからだ。双葉氏はあまり気にしていないのか、「おれの話を信用しないんだな?」と訳していて<Maybe>をあまり気に留めていないことが分かる。村上氏は「あんた、ひょっとしておれの話を信じてないだろう」と訳す。そしてこれ以降ずっと<Maybe>を「ひょっとして」で通している。そうしないと、大事な決め台詞が生きてこないからだ。

「いったい何を売り込むつもりだったんだ?」は<Just what is the build-up supposed to do to me?>。双葉氏は「が、そんなはったりが僕にきくと思うのか?」と訳している。どうしてこんな訳になったのだろう。村上氏は「そんなに肩をいからせて、いったい何を売り込むつもりなんだ?」だが、「そんなに肩をいからせて」がどこから来たのか分からない。疑問詞の前に<just>が来れば「正確に言って」の意味だから「いったい」。<the build-up>は「広告、宣伝」の意味で「売り込み」にあたる。<be supposed to >は「~することになっている」の意味だから、「いったい何を売り込むつもりなんだ?」でいいのでは。

「もしかしたら、が多すぎる。この仕事にはつきものだがな」これが先に述べた決め台詞。原文は<That's a lot of maybes, but I have a lot on hand in my business.>。双葉氏は「わからんことだらけだが、僕は仕事で手がふさがっているんだ」と訳している。この場合の<maybes>は、その前に何度も出てきた<maybe>という言葉として理解する必要があるのに、双葉氏は「わからんこと」と受け留めてしまった。

それで< I have a lot>(いっぱい持っている)物を仕事と取り違えてしまったのだ。この仕事をしてれば、「もしかしたら」には嫌というほど出会っている。そういうふうに考えることができなくては探偵商売はつとまらないだろう。村上氏はさすがに「ひょっとして(傍点六字)が多すぎる。まあ商売柄そういうのには慣れているがね」と、「ひょっとして」という言葉に注意喚起をしている。

「厄介ごとならさっさとシェイクして注いでくれ」は<Shake your business up and pour it.>。双葉氏は「商談(はなし)があるなら早く振って注げよ」。村上氏は「いいからさっさと用件を言ってくれ」。<business>には口語で「やっかいなこと」の意味がある。マーロウはオフィスに上がる前に小柄な男に「もし心配事が我慢できなくなったら、上がってきて吐き出すといい」と声をかけている。売り込むものがないのなら、心配事があるんだろう。その心配事をカクテルに喩えている。双葉訳はそれを尊重しているが、村上氏は意訳ですませている。

「あんたはそこんとこが分かっちゃいない」は<You can't hold that stuff on her.>。双葉氏は「おまえさん、彼女(あれ)に一丁文句(いちゃもん)つけるなあ罪だぜ」。村上氏は「何事にも値段ってものがある」だ。<stuff>は多様な意味を持つ単語で、両氏の訳が全然異なるのは別義に解釈してるからだろう。その前の<Agnes is a nice girl>を受けての言葉だ。ハリーは、自分はアグネスの本当の良さを知っているが、マーロウはそれ<stuff on her>(彼女の物)をつかめていない、と言いたいのではないだろうか。

『大いなる眠り』註解 第二十五章(1)

《翌朝も雨が降っていた。斜めに降る灰色の雨は、まるで揺れるクリスタル・ビーズのカーテンだ。私はけだるく疲れた気分で起き、窓の外を見て立っていた。口の中に苦々しいスターンウッド姉妹の後味がした。人生は案山子のポケットのように空っぽだった。キチネットに行き、ブラック・コーヒーを二杯飲んだ。二日酔いはアルコールのせいとは限らない。女もそのひとつ。気分がすぐれないのは女のせいだ。
 私は髭を剃ってシャワーを浴び、服を着、レインコートを手に階下に降り、玄関ドアから外を見た。通りの反対側三十メートルほど先に、グレイのプリムス・セダンが停まっていた。昨日私をつけようとした車、エディ・マーズに訊ねたのと同じ車だ。中にいるのは暇をもてあました警官で、時間つぶしに私をつけまわしているのかもしれない。あるいは中にいるのは小賢しい探偵稼業で、ひとの儲け話を嗅ぎつけて横からかっさらう気満々なのかもしれない。さもなければ私のナイト・ライフに異を唱えるバーミュダの司教かもしれない。
 私は裏に回ってガレージからコンバーチブルを引っ張り出し、グレイのプリムスの鼻先を走らせた。中にいたのは小柄な男ひとりだ。そいつは私の後からエンジンをかけた。雨の中ではいい仕事をする。見失わないように張りつきながら、たいていは間に他の車が入るだけの間隔を保っていた。私は大通りに出て、オフィスの建物脇の駐車場に車を停め、レインコートの襟を立て、帽子のつばを下ろしてそこを出た。雨粒が冷たく顔を打った。プリムスは向こう側の消火栓のところにいた。私は交差点まで歩き、青信号で渡り、駐車中の車すれすれに歩道の端を歩いて戻った。プリムスは動かなかった。誰も出てこなかった。私は縁石側のドアに手を伸ばしてぐいと引いた。
 明るい眼をした小柄な男が運転席の隅に背中を押しつけた。私は立ったまま中をのぞき込んだ。雨が背中を叩いていた。煙草の煙の渦巻く後ろで男の眼が瞬いた。両手が落ち着きなく細いハンドルを叩いていた。
 私は言った。「決心はついたか」
 男はつばを飲み込み、唇にはさんだ煙草をぴくぴく動かした。「あんたなんか知らないな」彼は硬く小さな声で言った。
「名前はマーロウだ。ここ二日ばかり、君が後をつけようとしていた男だ」
「俺は誰の後もつけていない」
「このポンコツがつけてたんだ。車が勝手にやってたのかもしれないな。好きにするさ。私は通りの向こうのコーヒー・ショップに朝飯を食べに行くところだ。オレンジ・ジュース、ベーコン・エッグス、トースト、蜂蜜、コーヒーを三杯か四杯、それに爪楊枝が一本。それからオフィスに行く。真正面のビルの七階だ。もし心配事が我慢できなくなったら、上がってきて吐き出すといい。私の方はマシン・ガンにオイルを注すだけだから」
 目をぱちくりさせている相手を後に私は歩き去った。二十分後、掃除婦の香水「愛の夜(ソワレ・ダムール)」の残り香を換気し、肌理の粗い厚手の封筒を開けた。美しい古風な尖った筆跡で宛名が記されていた。封筒の中身は短い事務的な手紙と大きな藤色の小切手で額面五百ドル、フィリップ・マーロウ宛、署名、ガイ・ド・ブリセイ・スターンウッド、ヴィンセント・ノリスによる代筆。これで爽やかな朝になった。銀行の用紙に記入していると、ブザーが待合室に誰か来たことを告げた。プリムスに乗っていた小柄な男だ。
「来たね」私は言った。「入ってコートを脱いでくれ」
 男はドアをおさえる私の横を用心深くすり抜けた。まるで尻を蹴られるのをこわがっているみたいに。我々は机をはさんで向い合った。とても小さな男で、一六〇センチたらず、体重は肉屋の親指ほど。持ち前のきびきびした明るい眼をハードに見せたがっていたが、殻に載った牡蠣(オイスター・オン・ザ・ハーフ・シェル)と同じくらいの硬さに見えた。ダーク・グレイのダブル・ブレストのスーツは、肩幅が広すぎ、襟も大き過ぎた。前を開けたアイリッシュ・ツィードのコートはところどころすり切れていた。たっぷりした平綾織り生地のタイは襟の合わせ目の上で膨らんで雨染みができていた。》

「このポンコツがつけてたんだ」は<This jalopy is.>。双葉氏は「すくなくともこの乳母車はついて来たぜ」。村上氏は「この車が尾行してきた」だ。< jalopy>は「おんぼろ自動車」といった意味。次の「車が勝手にやってたのかもしれないな」は<May be you can’t control it.>。双葉氏は「君を無視して自分勝手に動いたんだろう」。村上氏は「たぶん君にはこの車をコントロールできないんだろう」と、直訳している。否定文を肯定文に訳すというやり方を使ってみた。

「オレンジ・ジュース、ベーコン・エッグス、トースト、蜂蜜、コーヒーを三杯か四杯、それに爪楊枝が一本」は<orange juice, bacon and eggs, toast, honey, three or four cups of coffee and a toothpick.>。双葉氏はここを「オレンジ・ジュースとベーコンと卵とトーストと蜜とコーヒー二、三杯とつま楊子一本だ」と訳している。コーヒーの量が減っているのがご愛敬だ。村上氏は「オレンジ・ジュース、ベーコン・エッグ、トーストとハニー、コーヒーを三杯か四杯、そして爪楊枝を一本」と訳している。トーストとハニーをセットにしたのは何か理由があるのだろうか。

「掃除婦の香水「愛の夜(ソワレ・ダムール)」」は<scrubwoman’s Soirée d'Amour>。双葉氏は「掃除女の「恋の夕」(香水)」。村上氏は「掃除女の残していった高級香水」。この日のマーロウはスターンウッド姉妹のせいで女性嫌いになっている。香水もカーメンを思い出させるので不快なのだろう。いかにもといった銘柄のフランス語なのでルビ振りくらいは残しておきたいと思って。

「持ち前のきびきびした明るい眼をハードに見せたがっていたが、殻に載った牡蠣(オイスター・オン・ザ・ハーフ・シェル)と同じくらいの硬さに見えた」は<He had tight brilliant eyes that wanted to look hard, and looked as hard as oysters on the half shell.>。双葉氏は「きつい(傍点三字)ぱっちりした目は、せいぜい荒っぽく見せかけようとしていたが、割った貝殻にのせた牡蠣(かき)ほどの歯ごたえしかなかった」。村上氏は「彼はそのきりっとした明るい目を、できるだけハードに見せようとしていたが、そこには殻を開かれた牡蠣ほどの硬さしかなかった」だ。

ここも非情なという意味の<hard>と本来の意味である硬さのダブル・ミーニング。ポイントは<tight brilliant eyes>をどう訳すか。これといった決め手を欠くので三者三様の訳になっている。もう一つは<oysters on the half shell>だ。牡蠣殻の上に載った牡蠣でまちがっていないが、これは一般的には殻を皿代わりにしてその上に牡蠣を並べて供する牡蠣の料理名だ。日本語の利点を生かしてルビに頼ることにした。

 

『大いなる眠り』註解 第二十四章(2)

《私は煙草を床に投げ捨てて足で踏みつけた。ハンカチを取り出して掌を拭った。私はもう一度試みた。
「ご近所の手前言うのではない」私は言った。「彼らはたいして気にしちゃいない。どのアパートメント・ハウスにも素性の知れない女がいくらでもいる。今さら一人くらい増えてもビルディングが揺れたりしない。問題は私の専門家としての誇りなんだ。分かるか──職業倫理だ。私は君のお父さんのために働いている。彼は病気で、衰弱しきって、無力だ。彼は私が馬鹿なまねなどしないと信じている。お願いだから服を着てくれないか、カーメン?」
「あなたの名前はダグハウス・ライリーなんかじゃないわ」彼女は言った。「フィリップ・マーロウよ。騙されないわ」
 私はチェス・ボードを見下ろした。ナイトをいじったのはまちがっていた。私はそれをもとの位置に戻した。このゲームにナイトは無意味だった。騎士の出る幕ではなかったのだ。
 私は再び彼女を見た。彼女はまだ横になったままで、枕につけた顔は青白く、目は大きくて黒く、旱魃時の天水桶のように空っぽだった。親指を欠いた小さな五本指のような手の一つが休むことなく掛布をいじっていた。彼女のどこかで曖昧ではあるが微かな疑惑が生まれつつあった。彼女はまだそれに気づいていない。女にとっては辛いことだ──お堅い女性でさえ──自らの肉体的魅力が功を奏しないと知ることは。
 私は言った。「台所で何か飲み物を作ってこよう。君もいるかい?」
「うん」暗く静かに戸惑いを浮かべた眼が真面目くさって私を見つめていた。その中で疑惑が膨らんでいた。音も立てずにゆっくり、丈高い草の中からクロウタドリの雛をつけ狙う猫のように。
「もし、私が戻ってきたとき服を着ていたら、君に飲み物をあげよう。いいね?」彼女の歯が開き、しゅうしゅうと微かな音が口から漏れた。彼女は答えなかった。私はキチネットへ行ってスコッチとソーダを出し、ハイボールを二杯つくった。私には実のところ心躍る飲み物の用意がなかった。ニトログリセリンや蒸留した虎の息といった類の。グラスを手に帰ってきたとき彼女は動いていなかった。しゅうしゅういう音は止まっていた。目はまた死んでいた。唇が私に微笑みかけた。それから急に体から上掛けをはぎとって手を伸ばした。
「ちょうだい」
「服を着てからだ。服を着るまで駄目だ」
 私はカード・テーブルの上に二つのグラスを下ろして座り、別の煙草に火をつけた。「さあ着るんだ。私は見ないから」
 私は顔をそむけた。それから、しゅうしゅういう音が突然鋭くなったことに気づいた。私は驚き、再び彼女に見入った。彼女は裸でそこに座り、両手で体を支えていた。少し口を開け、顔は磨き上げた骨のようだった。口からはしゅうしゅうという音がはしり出ていた。彼女とはまるで関係がないかのように。彼女の空虚な眼の後ろに何かがあった。それは私が今まで女性の目の中に見たことのない何かだった。
 そのとき彼女の唇がとてもゆっくりと入念に動いた。まるでつくり物の唇がゼンマイ仕掛けで操られているかのように。
 彼女は私を汚らしい名で呼んだ。
 私は気にしなかった。彼女が私を罵ろうと気にはしない。誰が私を罵ろうともだ。しかし、ここは私がこれからも暮らしていかなければならない部屋だった。家と呼べるのは私にはここしかない。そこにあるものはすべて私のものだ。私と関りを持ち、過去があり、家族の代わりといえるものだ。多くはない。何冊かの本、写真、ラジオ、チェスの駒、古い手紙、その種のものだ。何もないに等しいが、私の思い出のすべてがそこに染みついている。
 私は彼女が部屋にいることにこれ以上我慢できなかった。彼女の汚い言葉は私にそれを気づかせてくれただけだった。
 私は慎重に言った。「服を着てここから出て行くのに三分やろう。もし君がそれでも出て行かなかったら、私は君を放り出す──力ずくで。そのまま、裸で、服は後から廊下に放ってやる。今すぐに始めるんだ」
 彼女の歯がかちかち音を立て、しゅうしゅういう音は鋭く動物のようだった。彼女は足を床に振ってベッド脇の椅子にあった服をつかんだ。彼女は服を着た。私は見ていた。不器用でこわばった手つきだった──女性にしては──しかし、それでも速かった。彼女は二分あまりで服を着終えた。私は時間を計っていた。
 彼女はグリーンのバッグを持ち、毛皮のトリムのついたコートをしっかり抱いてベッドの脇に立った。彼女は粋なグリーンの帽子を斜にかぶっていた。彼女はそこにしばらく立って私に向かってしゅうしゅう音を立てた。顔はまだ磨き立てた骨のようだった。眼はまだ空っぽだったが、野性的な感情のようなもので満たされていた。それから彼女は足早にドアまで行き、開けて外に出た。何も言わず、振り返ることもなく。エレベーターが突然がくんと揺れて動き出し、シャフトの中を移動するのを私は聞いた。
 私は窓まで歩いて行ってブラインドを上げ、窓を大きく開いた。夜気とともに流れ込んできた澱んだ甘さが、街の通りを行き交う車の排気ガスを思い出させた。私はグラスを手にとり、ゆっくり味わった。下の方でアパートメント・ハウスのドアが自動的に閉じた。静かな歩道に足音が響いた。そう遠くないところで車のエンジンがかかった。ギアが噛み合う乱暴な音とともに、それは夜の中にすっ飛んで行った。私はベッドに戻り、見下ろした。枕にはまだ彼女の頭の痕跡が、シーツには彼女の小さな堕落した体がまだ残されていた。
 私は空のグラスを置き、ベッドから寝具一切を乱暴に剥ぎとった。》

「素性の知れない女」は<stray broads>。双葉氏は「怪しい女」と訳している。村上氏は「金髪の女」だ。おそらく<broad>を<bronde>と読み違えたのだろう。<stray sheep>といえば漱石の『三四郎』にも出てくる「迷える羊」のこと。<broad>は女や娘の蔑称(米俗)なので、「金髪」の女もいるだろうが、いつもそうとは限らない。

「親指を欠いた小さな五本指のような手の一つ」は<One of her small five-fingered thumbless hands>。双葉氏は「片手の五本の指」と、いつものようにややこしいところをあっさりカットしている。村上氏は「彼女の不思議なほど親指の小さな手の一つ」と訳している。第一章に出てくるカーメンの平たく、細い親指の第一関節が曲がらないという特徴をこう表現しているのだろう。

「お堅い女性でさえ」は<even nice women>。双葉氏は「善良な女にとってさえも」と訳している。村上氏は「たとえ正常な頭を持った女性であっても」だ。<It’s so hard for women ── even nice women ── to realize that their bodies are not irresistible.>。ダッシュの前後を訳せば「女性にとって、彼女らの体が魅力的ではないことを理解するということはとても難しい」である。

村上氏の訳ではカーメンは頭のねじが緩んでいるから分からない、ということになる。そうじゃないだろう。<It’s so hard for women>の<women>が普通の女性の意味だ。頭の良し悪しに関係なく、年頃の女性なら誰だって自分の体が魅力的でない、なんてことは認めたくないにちがいない。善良な女だって、十人並みの器量であればそれなりの自負はあるに決まっている。では、自分の価値を肉体的魅力などという観点に置いていないのはどんな女だろう。それが<nice women>である。

「私には実のところ心躍る飲み物の用意がなかった。ニトログリセリンや蒸留した虎の息といった類の」は<I didn’t have anything really exciting to drink, like nitroglycerin or distilled tiger’s breath.>。双葉氏はここもカットしている。どうでもいいような一文ではあるが、チャンドラーらしい文飾ではある。訳せないほど難しくはないのだから、訳者としては訳すべきだろう。村上氏は「とくに心を揺さぶるようなものは作れない。ニトログリセリンもなければ、虎の息吹を蒸留したものもない」と訳している。

「ベッドから寝具一切を乱暴に剥ぎとった」は<tore the bed to pieces savagely.>。<tear ~ to pieces>は「~を粉々に壊す」の意味がある。それで、双葉氏はここを「めちゃくちゃにベッドをぶちこわした」と訳している。しかし、マーロウがいくらむしゃくしゃしていたにしても、ベッドまで壊したら必要経費では落ちないだろう。村上氏は「ベッドから一切の寝具を荒々しく剥ぎとった」と訳している。それくらいで済ませておくのが賢明だ。

『大いなる眠り』註解 第二十四章(1)

《アパートメント・ハウスのロビーは、この時間空っぽだった。私にあれこれ指図するガンマンも鉢植えの椰子の下で待ち受けてはいなかった。私は自動エレベーターで自分のフロアに上がり、ドアの後ろから微かに漏れるラジオの音楽に乗って廊下を歩いた。私は一杯やりたかった。それも早急に。私はドアの内側にある照明のスイッチを入れなかった。私は真っ直ぐキチネットに向かって三、四フィートばかり行ったところで足を止めた。何かがちがっていた。空気の中に何かが匂った。窓と降ろしたブラインドの隙間から街燈の灯りがかすかな光を部屋の中に投げかけていた。私は立ったまま耳を澄ませた。空気の中に匂っていたのは香水、それもうんざりするほど強い香水だ。
 音を立てるものはなく、完全に無音だった。そうして目が暗さに慣れてくると、目の前の床の向こうに見覚えのない何かがあるのが見えた。私は壁際に戻って親指でスイッチを入れるとパッと明かりがついた。
 ベッドは荒らされていた。何かが中でくすくす笑った。金髪の頭が私の枕に押しつけられていた。むき出しの両腕は曲げられて金髪の頭の上で手が組まれていた。カーメン・スターンウッドが私のベッドに仰向けに寝て私にくすくす笑いかけていた。彼女の髪は黄褐色の波となって枕の外まで広がっていた。まるで注意深く技巧を凝らしたように。彼女の灰色の目は私を見つめ、相変わらず銃身の後ろから狙いをつけるような効果をもたらしていた。彼女は微笑んだ。小さく尖った歯がきらめいた。
「私ってキュートじゃない?」彼女は言った。
 私は厳しく言った。「土曜の夜のフィリピン人のようにキュートだ」
 私はフロアスタンドのところまで行ってスイッチを引き、引き返して天井灯を消すと、また部屋を横切ってスタンドの下にあるカード・テーブル上のチェス・ボードに向かった。盤上にはチェス・プロブレムが並べられていた。六手詰めだ。抱えている多くの問題と同じように、私はそれを解けないでいた。私は手を伸ばしてナイトを動かし、それから帽子とコートを脱いでどこかへ抛った。その間ずっとベッドから静かなくすくす笑いが聞こえていた。古家の羽目板の裏にいる鼠を思い出させる音だ。
「私がどうやって入ったか分かんないでしょう」
 私は煙草を箱から抜き出し、冷え冷えとした目で彼女を見た。
「分かるさ。君は鍵穴から入ったんだ。ピーターパンのようにね」
「それって誰?」
「昔よく玉突場で見かけたやつだ」
 彼女はくすっと笑った。「あなたってキュート、ちがう?」彼女は言った。
「その親指だが──」私は言いかけたが、彼女は機先を制した。私が注意するまでもなく、彼女は頭の後ろから右手を抜き、真ん丸の悪戯そうな目で私を見ながら、親指をしゃぶりはじめた。
「私、まるっきり裸なの」私が煙草を吸い終わり、しばらく見ていると、彼女は言った。
「おやおや」私は言った。「頭の隅にそれが引っかかっててね。思い返してたんだ。君が言いかけたとき、もう少しで『君はまるっきり裸なんだろう』と言うところだった。私自身はベッドに入る時はいつもオーバー・シューズを履くんだ。やましい心で目を覚まして、こそこそ逃げ出さなければならなくなったときに備えて」
「あなたってキュート」彼女はなまめかしく頭を少し揺らした。それから頭の下にあった左手で上掛けをつかむと芝居がかったポーズを取ってそれを脇へはねのけた。彼女は確かに裸だった。ランプの灯りを浴びて、剥き出しで輝く真珠のように、ベッドに横たわっていた。スターンウッド家の娘たちは二人揃って今夜、その身を私に差し出してくれたわけだ。
 私は下唇の端から煙草の葉を取った。「いい眺めだ」私は言った。「だが、私はすでに全部見ている。覚えてるかい?何も身に着けていない君を見つけた男は私なんだ」
 彼女はもう少しくすくす笑ってまたその身を覆った。
「さあ、どうやってここに入ったんだ?」私は彼女に尋ねた。
「管理人が入れてくれたの。あなたの名刺を見せたわ。ヴィヴィアンから盗んだのを。ここに来て待てと言われたと言って。私ね──いわくありげにやったの」彼女は嬉しさで輝いていた。
「いい手際だ」私は言った。「管理人なんてそんなものさ。それで、ここへの入り方は分かった。で、どうやって出て行くつもりか教えてくれ」
 彼女はくすくす笑った。「出て行くつもりなんかないわ──少なくともしばらくの間はね.…私、ここが気に入った。あなたはキュートだし」
「聞くんだ」私は煙草を彼女に向けた。「君に服を着せるのは二度と御免だ。へとへとなんでね。ご厚意はありがたいが、私の受け入れの限度を超えている。ダグハウス・ライリーは「汝、友を落胆させるべからず」が好きでね。私は君の友だちだ。君をがっかりさせたくない──君自身はどうか知らないが。君と私は友だちでいるべきで、これはその方法じゃない。いい子になって服を着てくれないか?」
 彼女は首を横に振った。
「いいか」私はねばり強く続けた。「君は本当は私のことなんか全然気にかけちゃいない。君はどれだけきわどい真似ができるか見せつけているだけだ。けど、私に見せる必要はない。私はもう知ってる。君を見つけた男なんだから──」
「灯りを消して」彼女はくすくす笑った。》

「ベッドは荒らされていた」は<The bed was down.>。双葉氏はそのまま「ベッドがおりていた」だ。洋画で見たことがあり、そういうベッドがあるのは知っている。だが、マーロウのベッドがそんな仕掛けになっているという記述はなかった。<bed down>は「(人や馬などに)寝床を与える、寝る」の意味がある。村上氏は「ベッドが乱され」としている。掛布の下に何かがいる形跡があることを表したいのだろう。「誰かが寝ていた」と書いてしまうと次第に様子が明らかになる効果を逸してしまうので、こういう訳になる。

「チェス・プロブレム」は<a problem>。その前に<chessboard>の記述があるので、この<problem>が「チェス・プロブレム」のことだと分かる。ではなぜ<a problem>と書いたのか、といえば、その後に来る<like a lot of my problem>と呼応させたいからだろう。双葉氏は「詰将棋」(その前の「将棋盤」に「チェス」のルビ)、村上氏は「詰め(傍点二字)の問題」と訳しているが、「チェス・プロブレム」は、愛好者のナボコフの名とともに若島正氏の紹介によって知名度も上がっている。そのまま使ってもいいのではないか。

「真ん丸の悪戯そうな目」は<very round and naughty eyes>。双葉氏は「大きないたずらそうな目」と訳している。村上氏は「まん丸い、ふしだらな目」だ。<naughty>には、どちらの意味もあるので、どちらを取るか悩むところ。親指をしゃぶるという行為の幼稚さとの組み合わせなので、ここは「悪戯そうな」としてみた。

「やましい心で目を覚まして、こそこそ逃げ出さなければならなくなったときに備えて」は<in case I wake up with bad conscience and have to sneak away from it.>。双葉氏は「怪しげな気持になって目がさめたとき、すぐ外へ飛び出して冷(さ)ませるようにね」と、訳している。ちょっと解釈がちがう気がする。村上氏は「朝目が覚めて、良心の痛みに耐えかねて、こそこそ逃げ出したくなったときのためにね」と訳している。<bad conscience>は「やましい心」という訳語で通用するし、目を覚ますのは朝に限るわけでもない。勢いでベッド・インしたものの目が覚めてみたら、やばいと思ったという状況ではないのか。

「私ね──いわくありげにやったの」は<I was ── I was mysterious.>。例によって双葉氏はカット。村上氏は「あのね、私はけっこうミステリアスにふるまったわけ」と言葉を補足している。「ミステリアス」をそのまま使って「私、ミステリアスだった」でもいいかとも思ったけど、うまくやってのけたことを自慢している感じがほしかった。

「汝、友を落胆させるべからず」は<never let a pal down>。1938年刊のP・Gウッドハウスのジーヴス物の長編第三作『ウースター家の掟』の中に出てくる掟の第一条。『大いなる眠り』は翌年1939年の刊行だから、時系列から見て引用は可能だ。双葉氏は「仲間をおもちゃにしないんだ」。村上氏は「決して友だちをがっかりさせない」と訳している。因みに掟の第二条は「汝、女性の求愛を拒絶するなかれ」。状況から見て、これを意識していないはずがないと思う。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(4)

《我々はラス・オリンダスを離れ、潮騒が聞こえる砂上の掘っ立て小屋みたいな家や、それより大きな家々が背後にある斜面を背に建ち並ぶ、湿っぽい海沿いの小さな町を走り抜けた。ところどころに黄色く光る窓が見えたが、大半の家は灯が消えていた。海からやってきた海藻の匂いが霧に紛れた。タイヤが大通りの湿ったコンクリートで歌うように鳴った。世界は湿っぽく虚ろだった。
 デル・レイに近づいた頃、ドラッグ・ストアを出て初めて彼女が口をきいた。何かが深いところで打ち震えているようなくぐもった声だった。
「デル・レイ・ビーチクラブに行って。海が見たいの。次の通りを左よ」
 交差点には黄色いライトが点滅していた。私はそこを折れ、片側が切り立った崖になった坂を下った。右手に郊外電車の線路が走っていて、線路の遠方に低くまばらな光が見えた。はるか遠くに桟橋の灯りがきらめき、街の上空はもやっていた。そちらの霧はほとんど晴れていた。線路が切り立った崖の下に向けて曲がるところで道路は線路を横切り、やがて舗装された海岸道路に出た。そこは開けて遮るもののないビーチとの境界になっていた。車が歩道沿いに駐まっていた。黒々と、海に立ち向かうように。二、三百ヤードほど向こうにビーチクラブの灯りがあった。
 私は縁石に乗り上げて車を停め、ヘッドライトを消し、両手をハンドルの上に置いていた。薄れてゆく霧の下で、まるで意識の縁で形を取りつつある思考のように、波がほとんど音もなく渦を巻いて泡立ち騒いでいた。
「もっと近くに来て」彼女はかすれたような声で言った。
 私は運転席からシートの真ん中に腰をずらせた。彼女は窓の外を覗こうとするみたいに私に背を向けた。そして後ろ向きに音もなく私の腕に身を委ねた。すんでのところで頭をハンドルにぶつけるところだった。目を閉じ、顔はぼんやりしていた。それから私は彼女が目を開け、瞬くのを見た。暗闇の中でもその輝きが見えた。
「私を抱きしめて、獣よ、あなたは」彼女は言った。
 最初は緩く体に腕を回した。彼女の髪が顔に当たってざらついた。私は腕に力を入れ、彼女を抱き上げた。その顔をゆっくり自分の顔に近づけた。
彼女の瞼が素早く瞬いた。蛾が羽ばたくように。 
私はしっかりと素早くキスした。それから長くゆっくり纏わりつくようなキスをした。彼女の唇は私の唇の下で開いた。彼女の体が私の腕の中で震えはじめた。
「人殺し」彼女はそっと言った。吐いた息が私の口に入ってきた。
 私は彼女の震えが私の体を震わすようになるまで彼女を抱きしめた。私はキスし続けた。長い時間がたって、彼女は口がきけるところまで頭を引いた。「どこに住んでるの?」
ホバート・アームズ。フランクリン通り、ケンモアの近くだ」
「行ったことない」
「行きたいか?」
「ええ」彼女は息を吐いた。
「エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
 彼女の体が腕の中で硬くなり、荒々しい息遣いになった。彼女は頭を後ろに引き、白目が見えるほど目を見開いて私を見つめた。
「そういうことね」彼女はそっとさえない声で言った。
「そういうことだ。キスは素敵だが、父上は君と寝させるために私を雇っていない」
「この人でなし」彼女は身じろぎもせず、穏やかに言った。
 私は彼女に笑いかけた。「私を氷柱だなんて思うなよ」私は言った。「私は目も開いているし感覚を欠いてもいない。皆と同じように温かい血が通っている。君をものにするのは簡単だ──むしろ簡単すぎる。エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
「もう一度言ったら、叫び声をあげるわよ」
「やればいい。叫んでみろよ」
 彼女は私から身をふりほどいて上体を起こし、車の向こう側の隅に真っ直ぐ坐った。
「そんなつまらないことのために人は撃たれてきたのよ、マーロウ」
「何の意味もないことのために人は撃たれてきた。初めて会ったとき探偵だと言ったはずだ。その可愛い頭に叩き込んでおくといい。私は仕事でやっているんだ、お嬢さん。遊び半分じゃない」
 彼女はバッグの中を探ってハンカチを取り出し、その端を噛み、私から顔を背けた。ハンカチが裂ける音が聞こえてきた。彼女は歯でそれを引き裂いた。ゆっくり、何度も何度も。
「なぜそう考えるの?彼が私の何かをつかんでいると」彼女は囁いた。彼女の声はハンカチのせいでくぐもって聞こえた。
「彼は君に大金を勝たせ、それを取り戻すために君に拳銃使いを差し向ける。君は特に驚いた様子もない。君を助けた私に感謝さえしなかった。すべてがよくできた芝居のようだ。自惚れを承知で言うなら、少なくともその一部は私に対する謝礼の慈善興行だったのだろう」
「彼が勝ち負けを思い通りにできると考えているのね」
「当然だ。同額配当の賭け(イーヴン・マネー・ベット)なら五回中四回はそうだ」
「あなたのそういうところが我慢ならないって、口で言わなきゃ分からないの?探偵さん」
「君は私に何の借りもない。支払いはすんでいる」
 彼女は引きちぎられたハンカチを窓から車の外に放った。「とても素敵な女の扱い方ね」
「君とのキスは気に入った」
「あなたはひどく冷静だった。うまく乗せられたわ。あなたにお祝いを言うべき?それとも父の方かしら?」
「君とのキスは気に入った」
 彼女の声が冷やかで気取った口調に変った。「手間を取らせて悪いけど、ここから連れ出してくれない。どうしても家に帰りたい気分なの」
「私の妹になる気はないんだろう?」
「剃刀を持ってたら喉を切り裂いてやるところよ──何が出てくるかしらね」
「芋虫の血さ」私は言った。
 私はエンジンをかけて車を回すと、来た道を引き返し郊外電車の線路を横切ってハイウェイにのり、やがて街の中をウェスト・ハリウッドに向かった。帰り道、彼女は私に口をきかなかった。ほとんど動きもしなかった。私は門を抜け、擁壁の下を走るドライブウェイを上り、広い家の車寄せに車を着けた。彼女はぐいっとドアを開けて、車が停まりきる前に外に出た。その時でさえ何も言わなかった。呼び鈴を押した後、ドアに向かって立っている彼女の背中を私は見ていた。ドアが開き、ノリスが顔を出した。彼女は彼を押しのけてあっという間に姿を消した。ドアがバタンと閉まり、座ったまま私はそれを見ていた。
 私はドライブウェイを引き返し、家に帰った。》

「世界は湿っぽく虚ろだった」は<The world was a wet emptiness.>。双葉氏は「世界は湿った空虚さにつつまれていた」と訳すが、世界が「湿った空虚さ」に包含されるのではなく<The world>=<a wet emptiness>ではないのか。村上氏は「世界は濡れそぼり、空っぽだった」としているが、「濡れそぼり」は「濡れそぼち」の誤りだろう。参照しているのは初版。今は訂正済みと思いたい。こんなサイトでも誤りを指摘してくれる方がいて、その都度訂正させてもらっている。まちがいがそのまま残るのは耐えがたいものだ。

「車が歩道沿いに駐まっていた。黒々と、海に立ち向かうように」は<Cars were parked along the sidewalk, facing out to sea, dark.>。双葉氏は「頭を海に向けた数台の車が歩道に沿ってとまっていた。暗かった」と訳している。村上氏は「遊歩道に沿って車が並んで駐車していた。暗い中で、鼻先を海に向けて」だ。この<dark>が気になる。双葉氏の訳では何が暗かったのかよく分からないが、辺りの様子のように読める。村上氏もそう取っている。しかし、原文は一文で、カンマによって三つに区切られている。そのすべての主語は<cars>ではないのか。直訳すれば「車は歩道沿いに停まっていた、海に面して、暗く」となる。暗いのは、車列だろう。

「彼女はかすれたような声で言った」は<she said almost thickly>。双葉氏は「彼女が低い声で言った」。村上氏は「彼女は厚みのある声で言った」だ。<thickly>には確かに「厚く」の意味があるが、声を表す場合は「しわがれ声、だみ声」のような意味になる。「厚みのある声」というのはどう考えても直訳だ。前に<almost>がついていることから考えて、もう少しでだみ声といえそうな声なのだろう。いわゆるハスキー・ヴォイスのことだ。

ホバート・アームズ。フランクリン通り、ケンモアの近くだ」は<Hobart Arms. Franklin near Kenmore.>。今までフランクリン街と訳してきたが、地図を調べるとフランクリン・アヴェニューはロスアンジェルスを東西に走る通りの名で、ケンモアは、南北に走るやはりアヴェニューだ。つまり、東西に長く伸びるフランクリン通りとケンモア通りが交差するあたりにあるというわけだ。双葉氏は、この二十三章だけ「ホバート・アダムズ館」としている。誤植だろう。

「君をものにするのは簡単だ──むしろ簡単すぎる」は<You’re easy to take── too damned easy>。双葉氏はここを「君は抱くのにいい。すごいほどいい」と訳しているが、これでは、マーロウが抱きたいのを我慢しているようだ。村上氏は「そして君は簡単に手に入る。いや、あまりにも簡単に手に入りすぎる」だ。ヴィヴィアンを相手にしない理由として、自分は普通の男性で、温かい血が通っているが、据え膳は食わない主義だ、と言って聞かしているわけだ。

「その端を噛み」は<bit on it>。双葉氏は「その端を結んだ」と訳している。<bit>は<bite>の過去形。訳者の勘違いか、誤植か、どちらにせよ誤りである。村上氏は「それを噛んだ」とほぼ直訳している。

「慈善興行」と訳したのは<benefit>。<benefit performance>を略したもので、募金目的で催される興行のこと。その前のエディの仕組んだ一幕を受けて言っているのだろう。双葉氏は「利益を得る」の意味と解して「いくらか僕の役に立ったぐらいなものだ」と訳しているが<for my benefit>と書かれているので、金を受け取らないマーロウのために仕組まれた「慈善興行」と取るのが正しい。村上氏は「私への謝礼代わりの余興」と訳している。

「同額配当の賭け」は<even money bets>。双葉氏は例によってカットしている。村上氏は「丁か半かの勝負について言えば」と、まるで日本の鉄火場のような時代がかった訳にしているが、「イーヴン・マネー・ベット」はカジノ等で普通に使われる「賭金と配当金が 1対1 の倍率になっている賭け方のこと」。ルーレットで言えば「赤か黒か」、「偶数か奇数か」 などのかけ方がこれに該当する。<even>には偶数の意味があるので、村上氏は丁半と訳したのだろうが、ヴィヴィアンの掛け方は「赤」の一点張りだった。

「あなたのそういうところが我慢ならないって、口で言わなきゃ分からないの」と訳したところは<Do I have to tell you I loathe your guts>。<guts>は「勇気、根性」などの意味の日本語にもなっているが、原義の「臓物(腸)」から「身体の奥底にあるその人の本質」のような意味を持つ。<to hate one's guts>は「その人の本質を憎む(内部まで含めたその人のすべてが嫌い)」という意味。<loathe>は<hate>より程度が上の「ひどく嫌う」という意味の単語。

双葉氏は「あなたの高慢ちきは鼻もちならないって、私に言わせたいの?」と訳している。<guts>がある、というのはふつう誉め言葉だから、非難する場合はその過剰をいましめる言葉になる。勇気も度胸も度が過ぎれば「高慢ちき」と感じられるわけだ。村上氏は「あなたは胸くそ悪いやつだって、わざわざ声に出して言わなくちゃならないのかしら」だ。こちらはマーロウが持つ<guts>=「本質」に対する相手の感情<loathe>を「胸くそ悪い」という言葉で表している。

「あなたはひどく冷静だった。うまく乗せられたわ」は<You kept your head beautifully. That’s so flattering.>。双葉氏は「頭がいいわ、とても口がうまいのね」。村上氏は「あなたは頭を見事に冷静に保っていた。嬉しくて涙が出るわ」だ。<keep one's head>は「心の平静を失わない」という意味で「落ち着いている」様子を表すイディオム。特に頭にこだわる必要はないと思うが両氏とも「頭」を用いている。<flattering>は「(お世辞、へつらいで)うれしがらせる、喜ばせる」の意。

「私の妹になる気はないんだろう?」は<You won’t be a sister to me?>。双葉氏は「僕の妹になったつもりじゃないだろうな?」。村上氏は「私の妹になってはくれないだろうね?」だ。マーロウを運転手代わりに顎で使おうとするじゃじゃ馬に対する嫌味なので、そういうニュアンスが伝わればいい。喉を掻っ切ってやりたいと思うほど怒らせるには、どの訳がいいだろう?

「擁壁の下を走るドライブウェイを上り」とめずらしく説明を加えたところの原文は<up the sunken driveway>。双葉氏はあっさりと「車道から」。村上氏は「一段掘り下げられたドライブウェイを通って」だ。高台に建つ屋敷に続く道は左右を土留め用の擁壁で固めている。<sunken>は「地面より低いところ(にある)」の意味。冒頭でくわしく説明されているのでカットしてもいいようなところだ。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(3)

《彼女は私の腕につかまって震えはじめた。車に着くまでずっとしがみついていた。車に着くころには彼女の震えはとまっていた。私は建物の裏側の樹間を抜けるカーブの続く道を運転した。道はドゥ・カザン大通りに面していた。ラス・オリンダスの中心街だ。パチパチ音を立てる年代物のアーク灯の下を通ってしばらく行くと街に出た。ビルディング、死んだような小売店、夜間電鈴の上に灯りがついたガソリン・スタンド、そして最後にまだ開いているドラッグストアがあった。
「何か飲んだほうがいい」私は言った。
 彼女はシートの隅で青白い顎の先を動かした。私は車の向きを変え、道路を斜に横切って縁石に駐車した。
「ブラック・コーヒーにライ・ウィスキーを少し、これがいいんだ」私は言った。
「水兵二人分くらいは飲めそうよ。大好きなの」
ドアを開けてやると彼女は私の傍に降り、髪が私の頬を撫でた。我々はドラッグ・ストアの中に入った。私は酒売り場でライ・ウィスキーの一パイント瓶を買い、止まり木に腰を下ろし、ひび割れの生じた大理石のカウンターの上に置いた。
「コーヒー二つ」私は言った。「ブラックで、濃いのを、今年淹れたやつだ」
「ここで酒を飲むことはできませんよ」店員が言った。洗いざらしの青い上っ張りを着て、頭のてっぺんの髪は薄く、まずまず率直な眼をした、壁を見る前に顎をぶつけるような真似は決してしない男だ。
 ヴィヴィアン・リーガンはバッグの中から煙草の箱を出し、男がやるように振って二本出した。それを私の方に差し出した。
「ここで酒を飲むのは法律で禁じられています」店員が言った。
 私は煙草に火をつけ、彼に注意を払わなかった。彼は変色したニッケル製のコーヒー沸かしから二つのカップにコーヒーを注ぎ、我々の前に置いた。ライ・ウィスキーの瓶を見て、小声でぶつぶつ言い、それからうんざりしたように言った。「しょうがない、通りを見ている間にやってくれ」
 彼はショウ・ウインドウまで行くと我々を背にして立った。両耳が突き出ていた。
「こんなことをしていると生きた心地がしない」私は言い、ウィスキー瓶の蓋をひねって開け、コーヒーの中にたっぷり注いだ。「この街の法の執行ぶりはずば抜けてる。禁酒法時代、エディ・マーズのところはナイトクラブだったんだが、二人の制服警官が毎晩ロビーに立って──客がこの店で買う代わりに、自分の酒を持ち込まないか見張ってた」
 店員がさっと振り返ってカウンターの後ろに歩いて戻り、処方箋調剤室の小さなガラス窓の向こうへ消えた。
 我々は酒をたっぷり仕込んだコーヒーを啜った。私はコーヒー沸かしの後ろにある鏡越しにヴィヴィアンの顔を見た。緊張し、青白く、野性的で美しかった。唇は強烈な赤だった。「悪戯な眼をしている」私は言った。「エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
 彼女は鏡の中の私を見た。「今夜ルーレットで彼からたっぷりふんだくってやった──五千ドルで始めたの。昨日彼に借りて使わずにすんだ金よ」
「それが彼を怒らせたのかもしれない。あの頓痴気は彼が寄こしたと思うかい?」
「頓痴気って?」
「銃を持った男のことだ」
「あなたも頓痴気?」
「確かに」私は笑った。「しかし、厳密にいえば、塀のまちがった側にいるのが頓痴気だ」
「思うんだけど、まちがった側ってあるのかな」
「話がそれたようだ。エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
「私の弱みを握っているということ?」
「そうだ」
 彼女は唇を反り返らせた。「気を利かせてよ、お願い、マーロウ。もっと気の利いたこと言ってよ」
「将軍の具合はどうだ?私は気が利くふりなどしない」
「あまりよくない。父は今日起きてこなかった。質問をやめることくらいできるわよね」
「君に関して同じ考えを抱いたのを思い出すよ。将軍はどこまで知っているんだ?」
「おそらくすべてを知っている」
「ノリスが伝えるのか?」
「いいえ、地方検事のワイルドが会いに来たの。あの写真燃やしてくれた?」
「勿論だ。妹のことが心配なんだね──時々は」
「それだけが心配の種よ。パパのことも多少は心配、厄介ごとは隠しておくの」
「彼はさほど幻想を抱いてる訳じゃない」私は言った。「が、まだ自尊心は持っている」
「私たちは彼の血統。それが厄介なの」彼女は鏡の中の私を、深く遠い目で見つめた。「自分の血を厭いながら父に死んでほしくない。いつだって手に負えない血だけれど、いつもいつも腐臭を放つ血だったわけじゃない」
「今はそうなのか?」
「あなたはそう思ってるでしょう?」
「君についてはちがう。君はただ役を演じているだけだ」
彼女はうつむいた。私はもうひと口コーヒーを啜ってから二人の煙草に火をつけた。「それであなたは人を撃つのね」彼女は静かに言った。「あなたは人殺し」
「私が?どうして?」
「新聞も警察も体裁を繕っていた。でも、私は読んだことを信じこんだりしない」
「へえ、私がガイガーを殺したと考えたんだ──それともブロディ──もしかして二人とも」
 彼女は何も言わなかった。「私にそんな必要はなかった」私は言った。「もし、やったとしても、無罪放免だったろう。二人とも私に鉛の弾を食らわすのに躊躇しなかったはずだ」
「根っからの人殺しなのよ、警官もみんなそう」
「言ってくれるね」
「肉屋が屠殺された肉に抱くほどの感情しか持ち合わせない、暗い死んだように無口な男たちの一人。初めて会ったときから知ってたわ」
「君にはその差が分かるくらいたくさんの胡散臭い友達がいるわけだ」
「あなたと比べたらやわなものよ」
「有難いね、レディ。そういう君だってイングリッシュ・マフィンというわけじゃない」
「こんな腐った小さな町、とっとと出ましょう」
 私は勘定を払い、ライウィスキーの瓶をポケットに入れて店を出た。店員はまだ私のことを嫌っていた。》

また<De Cazens>が出てきた。今度は、大通りの名前になっている。フランス人っぽい人名なら「ドゥ・カザン」でも構わないが、大通りの名となると、どうだろう。自信がなくなってきた。アメリカ人が発音しやすい表記に変えた方がいいかもしれない。一応そのままにしておくが、ことによったら「デ・カゼンス」に変える日が来るかもしれない。

「パチパチ音を立てる年代物のアーク灯」のところを第二十一章で「まばらなアーク灯」と訳していた村上氏も、今度は「ぱちぱちという音を立てる旧式のアーク灯」と正しく訳している。でも、それならなぜ発表前に訳を直さなかったのだろう。何度もいうことだが、早川書房校閲部は仕事をしていないのか?

「私は車の向きを変え、道路を斜に横切って縁石に駐車した」のところ、双葉氏は「私は車をとめた」と、あっさり。原文は<I turned diagonally into the curb and parked.>。村上氏は「私はタ-ンし、道路を斜めに横切って縁石に車を駐めた」。まあ、どうでもいいといえば、どうでもいいようなところなので、カットしたのだろう。

ドラッグ・ストアでコーヒーを注文するところの「ブラックで、濃いのを、今年淹れたやつだ」は<Black, strong and made this year.>。夜遅くに入ってきてつまらないことを言うマーロウは、まったく嫌な客だ。双葉氏は「ブラックでうんと強くしてくれ」。村上氏は「ブラックで強いやつ。今年になって作られたものがいいな」。コーヒーの<strong>はふつう「濃い」じゃないだろうか?

ドラッグ・ストアの店員の人物評で「壁を見る前に顎をぶつけるような真似は決してしない男だ」は<his chin would never hit a wall before he saw it>。用心深いことを言っているのだから、村上氏の「危ない橋は決して渡らないタイプだ」で正解。例によって、双葉氏は、ここもカットしている。用心深いことを評したことわざや故事成語はけっこうあると思うのだが。

覆面男のことを「頓痴気」と訳したが、原文は<loogan>。「愚か者、馬鹿」を表す俗語で、<loser>と<Hooligan>を合わせて作られたという説もあるが真偽は定かではない。双葉氏は「ルーガン」と、あえて訳していない。ヴィヴィアンが聞いたことがない言葉という設定になっているので、あえてそうしたのだろう。村上氏は「ハジキ屋」という造語を使っている。<What’s a loogan?>と訊かれたマーロウが<A guy with a gan.>と説明しているからだろう。

「頓痴気」という死語を引っ張り出してきたのは、ヴィヴィアンが知らなくても不思議ではない、あまり耳慣れない言葉が欲しかったからだ。「とんま」と「いんちき」の組み合わせという説もあるので<loogan>には意味的にピッタリではないかと思う。<loogan>を「銃を持った男」という意味で使うのは、チャンドラーの『大いなる眠り』だけ、と紹介しているウェブ・サイトもある。わざわざ「ハジキ屋」という造語を使う意味があるのだろうか?

「暗い死んだように無口な男たちの一人」は<One of those dark deadly quiet men>。双葉氏は「冷酷無残な男」と手っ取り早くまとめている。<dark>と<deadly>はよく組み合わせて使われる相性のいい言葉。「邪悪」や「死」を連想させるダブル・ミーニングになっていると思われる。村上氏は「暗くて、どこまでも寡黙な男たち。(中略)あなたはそういう人間の一人なのよ」と、原文の語順にこだわる氏にしては珍しく語順を入れ替えている。

「イングリッシュ・マフィン」が双葉訳では「お茶うけのビスケット」になっている。こういう部分については、たしかに村上氏のいうように、どんな名訳であっても、十年、二十年たったら見直して、手を入れてゆく必要があるだろう。当時はあまり知られていなかっただろうイングリッシュ・マフィンだが、今ではどこでも見かける普通の食べ物になっている。

ヴィヴィアンとマーロウの掛け合いの妙味を味わえるところだが、「あなたと比べたらやわなものよ」の原文<They’re all soft compared to you.>を双葉氏は「あの連中なんか、あなたにくらべりゃ甘いものよ」と訳している。イングリッシュ・マフィンは間に何か挟んで食べる朝食用のパンのようなものだから別に甘くない。<soft>な物の一例として挙げたのだ。マフィンを「お茶うけのビスケット」に変更したための苦肉の訳だろう。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(2)

《「お見事な手並みね、マーロウ。今は私のボディガードなの?」彼女の声にはとげとげしい響きがあった。
「そのようだ。ほら、バッグだ」
彼女は受け取った。私は言った。「車はあるのかな?」
彼女は笑った。「男と一緒に来たの。あなたはここで何をしてたの?」
「エディ・マーズが私に会いたがってね」
「知り合いだとは知らなかった。どうして知ってるの?」
「聞きたいかい。彼は自分の妻と駆け落ちした誰かを、私が探していると思ったのさ」
「そうなの?」
「いや」
「それで、どうしてここへ来たわけ?」
「自分の妻と駆け落ちした誰かを私が探している、と彼が考えた理由を見つけるためだ」
「見つかった?」
「いや」
「ラジオのアナウンサーみたいに情報を漏らすのね」彼女は言った。「私には関係ないことだけど──たとえその男が私の夫だったとしても、あなたは興味などないと思ってた」
「人は私を見ると必ずその話を持ち出すんだ」
 彼女は煩わしそうに歯を鳴らした。銃を持った覆面の男の一件は彼女に何の印象も与えなかったようだ。「いいわ、ガレージまで連れてって」彼女は言った。「エスコート役のところに寄らなきゃいけないの」
 小径に沿って歩き、建物の角を回るとその前に灯りがあった。それからもう一つの角を曲がって、二つの投光照明に照らされた厩舎の明るい中庭に出た。それは今も煉瓦敷きで中央の格子状の溝蓋に向けて今も傾斜がついていた。車が輝き、茶色の作業着を着た男が腰掛から立ち上がってこちらの方にやって来た。
「私のボーイフレンド、まだ酔い潰れてる?」ヴィヴィアンはぞんざいに訊いた。
「残念ながらそのようで、お嬢さん。毛布を掛けて窓を閉めときました。彼なら大丈夫。ちょっと一休みといったところです」
 我々は大きなキャデラックのところまで行き、作業着の男が後部ドアを開けた。広い後部座席の上にだらしなく体を投げだし、格子縞の羅紗の膝掛を顎までかぶり、男は口を開けていびきをかいていた。大量の酒を飲みそうな、大きな金髪の男だった。
「ミスタ・ラリー・コブを紹介するわ」ヴィヴィアンは言った。「ミスタ・コブ、こちらはミスタ・マーロウ」
 私はうなった。
「ミスタ・コブは私のエスコート役だった」彼女は言った。「とてもいいエスコート役、ミスタ・コブは。気が利いていて。素面でいるところを見せたいわ。私も素面の彼を見たい。誰だって素面の彼を見たいと思うわ。記録に残すという意味で。歴史の一部になれる。瞬く間に時の流れに埋もれはするが、忘却されることはない──ラリー・コブが素面でいる時」
「はいはい」私は言った。
「彼と結婚しようとまで考えたわ」彼女は高い緊張した声で続けた。強盗に遭った衝撃が今になって出てきたかのように。「楽しいことなんて何ひとつ心の中になかった時のこと。私たちにはそんな時があるの。何しろ、大金でしょ。ヨット、ロングアイランドのどこそこ、ニューポートのどこそこ、バーミュダのどこそこ、たぶん世界中のそこかしこに散らばっているいろんな所でね──上物のスコッチの瓶は別として。ミスタ・コブとスコッチの瓶は、そんなに離れていないの」
「はいはい」私は言った。「彼を家まで連れてゆく運転手はいるのかい?」
「『はいはい』はやめて。不作法よ」彼女は眉を吊り上げて私を見た。作業着の男が下唇を強く噛んだ。「あら、まちがいなく一個小隊の運転手がいるわ。多分、彼らは毎朝ガレージ前に分隊ごとに整列する、磨き立てられたボタン、制服を輝かせ、手にはしみひとつない純白の手袋──ウェストポイント士官学校のような気品を身に纏って」
「まあいい、それでその運転手はどこにいるんだ?」
「今夜は自分で運転してきたんです」作業着の男は弁解がましく言った。「ご自宅に電話して誰かに彼を迎えに来させることはできますが」
 ヴィヴィアンは振り返り、ダイアモンドのティアラでもプレゼントされたみたいに彼に微笑みかけた。「それは素敵」彼女は言った。「そうしてくれる?私、本当にミスタ・コブにこんな形で死んでほしくない──口を開けたままなんて。喉の渇きで死んだと思われるわ」
 作業着の男が言った。「もし彼の臭いを嗅がなければですがね、お嬢さん」
 彼女はバッグを開け、一握りの紙幣をつかんで彼に押しつけた。「彼の面倒を見てくれるでしょう、きっとよ」
「これはこれは」男が目を丸くして言った。「承知いたしました、お嬢さん」
「リーガンよ、名前は」彼女は甘く囁いた。「ミセス・リーガン。きっとまた会えるわね。ここはまだそんなに長くないわね、ちがう?」
「え、まあ」彼の両手は彼が手にしている大金のことで半狂乱になっていた。
「ここにいるとそれを愛するようになるわ」彼女は言った。彼女は私の腕を取った。「あなたの車で行きましょう、マーロウ」
「外の通りに停めてあるんだが」
「それで構わないわ、マーロウ。私、霧の中の散歩って大好き。興味深い人にも会えるし」
「言ってくれるね」私は言った。》

「ラジオのアナウンサーみたいに情報を漏らすのね」は<You leak information like a radio announcer>。双葉氏も村上氏も「あなた、ラジオのアナウンサーみたいに口が軽いのね」、「まったく、ラジオのアナウンサー顔負けの口の軽さね」と「口の軽さ」を付け加えている。おそらく、新訳は旧訳をそのまま手直ししただけなのだろうが、ラジオのアナウンサーが口の軽い人間の代表みたいに評されるのはおかしい。ヴィヴィアンは、マーロウが情報を小出しにするのを評しているのではないのか。

「それは今も煉瓦敷きで中央の格子状の溝蓋に向けて今も傾斜がついていた」は<It was still paved with brick and still sloped to a grating in the middle.>。双葉氏は例によって、一文全部をカットしている。そんなに難しい文ではないので、読み落としたのかもしれない。村上氏は「今でも煉瓦敷きのままで、中央の格子つきの穴に向けて緩やかな傾斜がついている」だ。「格子つきの穴」は<grating>。「グレーチング」は一般に流布している、側溝の上に載せる穴の開いた金属製の蓋である。

「どこそこ」は<a place>。「(特定の目的に使用される)場所、建物」の意味だが、双葉氏はすべてを「別荘」と訳している。わざわざ<a place>を使っているところを見れば、「別荘」に限らないのではないだろうか。行きつけの店だったり、賭場だったり、とにかく憂さ晴らしのできる場所だろう。村上氏も「どこそこ」と訳している。

「上物のスコッチの瓶は別として。ミスタ・コブとスコッチの瓶は、そんなに離れていないの」の方が問題だ。原文は<just a good Scotch bottle apart. And to Mr. Cobb a bottle of Scotch is not very far.>。双葉氏は「いいウィスキーが世界じゅうにちらばっているみたいにね。もっとも、コッブさんとウィスキーは切ってもきれない仲だけど」と訳している。<apart>は「離れて」の意味だから、これはこれで理解できる。

村上氏はこう訳す。「スコッチのボトルを一本空にする間に、次なる贅沢な場所にさっと移動できる。ミスタ・コブについていえば、スコッチのボトルはそこまで長くは持たないかもしれないけれどね」。そっけない原文に比べ、かなりの意味内容が付加されている。原文には、ほんとうにこんな意味があるのだろうか。

ここは、ヴィヴィアンが気鬱状態になったとき、気分転換に使う場所を数え上げているところだ。何も面白いものがないから、エスコート役を務める酒浸りのミスタ・コブと結婚でもしてみようか、などと思いつくのだ。そういう憂さ晴らしのための場は、世界中にちらばっている。原文は<all over the world probably>と──で直接結ばれている。

それらは世界中に点在しているが、スコッチの瓶だけは別で、ミスタ・コブとそれは<not very far>「あまり遠くはない」つまり、いつも一緒だと言いたいのだろう。村上氏のような説明を加える必要があるとは思えない。むしろ、解釈の仕方は異なるが、双葉訳の方が簡明でより原文に近いと考えられる。村上訳の不人気なところは、こういうこじつけめいた解釈が必要以上に混入されるところにあるのではないだろうか。

「あら、まちがいなく一個小隊の運転手がいるわ。多分、彼らは毎朝ガレージ前に分隊ごとに整列する、磨き立てられたボタン、制服を輝かせ、手にはしみひとつない純白の手袋──ウェストポイント士官学校のような気品を身に纏って」というヴィヴィアンの台詞を、双葉氏は「運転手なら一中隊くらいいますぜ。朝になると車庫の前に整列するんでさ。ボタンをきらきら、靴をぴかぴか、真っ白な手袋で、士官学校の生徒みたいに気取ってますぜ」と男の台詞にしている。

ヴィヴィアンのマーロウへの文句のあとに<The man in the smock>「上っ張りの男」が出てきたのに引きずられたのだろう。英語には、日本語の文で男と女を区別する「ぜ」だとか「わ」にあたる語尾が存在しない。それはそれですっきりしていて好ましいのだが、こういう時には往生する。ただし、使用する語彙に社会階層の差は現れるので、この一連の文章が「スモックを着た男」(村上訳)が日常使う言葉で構成されているとは到底思えない。

「今夜は自分で運転してきたんです」は<He drove hisself tonight.>。双葉氏は「出かけましたんで」と訳している。運転手が自分の車を運転している、と読んだわけだ。しかし、この<He>は、ミスタ・コブのことである。双葉氏のこの頓珍漢な訳は、前の台詞を作業着の男の台詞と取り違えたことに端を発している。「一中隊くらいいる」はずの運転手の姿が見えないことの言い訳をしていると思い込んでしまったのだろう。

「彼の両手は彼が手にしている大金のことで半狂乱になっていた」は<His hands were doing frantic things with the fistful of money he was holding.>。<fistful>は「ひとつかみ、一握り」だが、<fistful of money>となると「大金」(米俗)の意味になる。村上氏は「彼の手は札をひとつかみ手にしているせいで、ばたばたとわけのわからない動きをした」と嚙み砕いて訳しているが「ばたばたとわけのわからない動きをした」という説明は親切なようでいて、かえって事態をわけのわからないものにしている。村上氏の悪い癖だ。

双葉氏は「彼は手にあまる札をそろえるのに夢中だった」と訳している。<frantic>は「気が狂ったように」の意味だが、「大慌て」の意味もあるから「夢中」という訳語は悪くない。主語は<he>ではなく<His hands>なので、「彼の両手は」を主語にすればもっといい。ただ、手の動きを「札をそろえる」ことに決めつけているところが気にかかる。たしかによく分かるようにはなるが、果たして本当にそうかどうかは分からない。分からない部分は分からないままにしておくのが翻訳をする際の正しい姿勢ではないだろうか。

「ここにいるとそれを愛するようになるわ」は<You’ll get to love it here>。村上氏は「ここがきっと好きになるわよ」と訳しているが、村上氏は<it>が目に入らなかったのだろう。双葉氏は「ここにいるとますますお金が好きになるわよ」と、単刀直入に<it>を「金」と名指して訳している。この<you>は「あなた」に限らず、自戒を込めて「人は(誰も)」の意味で使っているのではないか。そうとれるように訳してみた。

「言ってくれるね」と訳したのは<Oh, nuts>。<nuts>は強い拒絶や不満、嫌悪の感情を表す間投詞。「ちぇっ、ばかな、くそっ」等々の汚い言葉が当てはまるが、双葉氏は相手が若い女性ということもあって「むちゃ言いなさんな」と、ソフトに訳している。村上氏は「言うね」だ。無論、その前のヴィヴィアンの<You meet such interesting people>という言葉を聞いたマーロウの実感である。この<you>もマーロウを指すのではなく「人」一般を表している。