HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十八章(2)

《女はさっと頭を振り、耳を澄ませた。ほんの一瞬、顔が青ざめた。聞こえるのは壁を叩く雨の音だけだった。彼女は部屋の向こう側へ戻って横を向き、ほんの少しかがんで床を見下ろした。
「どうしてここまでやって来て、わざわざ危ない橋を渡ろうとするの?」女は静かにきいた。「エディはあなたに何の危害も与えていない。あなたもよく分かっているはず。私がここに隠れなければ、警察はエディがラスティ・リーガンを殺したと考えるに決まってた」
「エディがやったんだ」私は言った。
 女は動かず、一インチも姿勢を変えなかった。息遣いが荒く、速くなった。私は部屋を見渡した。二枚のドアが同じ壁についていて、一方は半開きになっている。赤と褐色の格子柄の敷物、窓に青いカーテン、壁紙には明るい緑の松の木が描かれていた。家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある。
 女はものやわらかに言った。「エディはそんなことはしない。私はもう何か月もラスティと会っていない。エディはそんなことをする人じゃない」
「君はエディと別居中でひとり暮らしだ。そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」
「そんなの嘘」女は冷たく言い放った。
 私はグレゴリー警部がそんなことを言ってたかどうかを思い出そうとした。頭がぼうっとし過ぎていて、確かめられなかった。
「それにあなたに関係ない」女は付け足した。
「あらゆることが私の仕事なんだ。私は事実を知るために雇われている」
「エディはそんな人じゃない」
「おや、君はギャングが好きなんだ」
「人が賭け事をする限り、賭ける場所がいるでしょう」
「それこそ身びいきが過ぎるというものだ。一度法の外に出たらずっと外側だ。君はあいつを一介のギャンブラーだと思っているんだろうが、私に言わせれば、猥本業者、恐喝犯、盗難車ブローカー、遠隔操作の殺し屋、腐れ警官の後ろ盾だ。自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す。高潔なギャングなんて売り文句は私には通用しない。やつらはそんな柄じゃない」
「あの人は殺し屋じゃない」彼女は鼻の孔をふくらませた。
「本人はね。だがカニーノがいる。カニーノは今夜一人殺した。誰かを助け出そうとした害のない小男を。私は彼が殺すところを見たと言ってもいいくらいだ」
 女はうんざりしたように笑った。
「いいだろう」私は怒鳴った。「信じなくていい。もしエディがそんなにいい男なら、カニーノがいないところで話がしたいものだ。君はカニーノがどんなことをするやつか知っている──私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」
 彼女は頭を後ろに戻して思慮深げにそこに立っていたが、何か思いついたとでもいうように身を引いた。
「プラチナ・ブロンドの髪は廃れたと思ってた」私は話し続けた。部屋の中に音が満ちて、別の音を聞かずにいられるように。
「ばかばかしい。これは鬘。自前の髪が伸びるまでの」手を伸ばしてそれをぐいと引いた。髪は少年のように短く刈り上げられていた。それから鬘を戻した。
「誰がそんなまねをした」
驚いたようだった。「私がしたんだけど、どうして?」
「そうさ、どうしてだ?」
「どうしてって、見せるため。エディの期待通りに私は身を潜める気があるし、こうすれば見張りはいらない、と。彼の期待に背きたくない。愛しているから」
「やれやれ」私はうめいた。「で、君の方はこの部屋に私と一緒にいるわけだ」
 女は片手を裏返してじっと見つめた。それから不意に部屋を出て行った。戻ってきた手にはキッチン・ナイフが握られていた。かがみこんで私を縛っているロープを切った。
「手錠の鍵はカニーノが持ってる」息をついだ。「私にはどうすることもできない」
 女は後退りして、息を喘がせた。すべての結び目が切れていた。
「面白い人ね」女は言った。「こんな目にあってるのに一息ごとに冗談を言ってる」
「エディは人殺しじゃないと思ってたんだ」》

「一インチも姿勢を変えなかった」は<didn’t change position an inch.>双葉氏は「一インチも位置を変えなかった」と訳しているが、村上氏は「ほんの数センチも姿勢を変えなかった」とメートル法を使っている。村上氏は単位についてはメートルとキログラムを使うことにしているから、こういうふうに書かなければならないだろうが、「一歩も動かない」という言い方と同じで、実際の長さより「一」という最小の単位が大事なんじゃないだろうか。

「家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある」は<The funiture looked as if it had come from one of those place that advertise on bus benches. Gay, but full of resistance.>双葉氏は「家具は、バスの停車場に広告を出している店から買って来たようなしろものだった」と後の文をカットしている。

村上氏は「バスの待合所に広告が出ているような店で買い集められたものみたいだ。はなやかで、しかも頑丈」と訳している。両氏とも<bus benches>を「停車場」「待合所」と訳しているが、<bus bench>で検索をかけると背凭れ部分に広告のあるベンチの画像ばかりがひっかかる。ここは待合所でも停車場でもなく、ベンチそのものについた広告ではないだろうか。

「そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」は<People at the place where you lived identified Regan’s photo.>。双葉氏は「君が住んでたところにはリーガンの写真があったというぜ」と訳しているが、これはまちがいだ。村上氏は「そこの住人たちはリーガンの写真を見せられて、見覚えがあるといった」と訳している。いずれにせよ、マーロウの記憶ちがいで、グレゴリー警部は、リーガンに似ていなくもない人物が夫人と一緒にいたところを見られている、と言っただけだ。

「自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す」は<He’s whatever looks good to him, whatever has the cabbage pinned to it.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「彼は見栄えを整えるためなら何にだってなるし、金になるものなら何だって取り込む人間だ」と訳している。<cabbage>は「キャベツ」だが、俗語で「紙幣」の意味がある。「やつらはそんな柄じゃない」は<They don’t come in that pattern.>。双葉氏はここもカットだ。村上氏は「そんなものは通用しない」と訳している。

「私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」は<beat my theeth out and then kick me in the stomach for mumbling.>。双葉氏はここを「僕の歯をへし折ったうえ、腹までけっとばしたんだ」と過去形で訳している。ここは、カニーノがどんな人物かを説明しているところで、あくまでも喩え話だ。村上氏は「まず私の歯を叩き折って、それからもぞもぞとしかしゃべれないといって、私の腹を蹴り上げるようなやつだ」と相変わらず丁寧に訳している。

 

『大いなる眠り』註解 第二十八章(1)

《どうやら女がいるらしい。電気スタンドの傍に坐り明かりを浴びている。別の灯りが私の顔にまともに当たっていたので、一度目を閉じて睫の間から女を見ようとした。プラチナ・ブロンドの髪が銀でできた果物籠のように輝いていた。緑のニットに幅の広い白い襟付きのドレスを着ている。足もとに艶のある角が尖ったバッグを置いていた。煙草を吸っていて、琥珀色の液体が入った背の高い淡色のグラスが肘のあたりに見えた。
 私はそろそろと頭を少し動かした。痛かったが、思ったほどではなかった。私はオーヴンに入れられるのを待つ七面鳥のように縛り上げられていた。両手は後ろで手錠をかけられ、一本のロープがそこから足首に回され、その端が私が転がされている茶色のダヴェンポートにあった。ロープはダヴェンポートの向こうに落ちていてここからは見えなかった。それがしっかり結ばれているのを確かめられるくらいは動けた。
 私はこそこそ動くのをやめ、もう一度目を開けて言った。「やあ」
 女はどこか遠くの山の頂をながめていた目をこちらに向けた。小さく引き締まった顎がゆっくり振り向いた。眼は山の湖の碧だった。頭の上では、まだ雨が屋根を叩いていた。どこか遠く、まるで他人事のように。
「気分はいかが?」なめらかで髪の色に似合った銀の鈴を振るような声だ。小さなちりんちりんという響きが、まるでドール・ハウスについた呼び鈴のようだ。そう考え、すぐに我ながら馬鹿なことを考えると思った。
「上々だ」私は言った。「誰かが私の顎にガソリン・スタンドを建てたようだ」
「何がお望みだったの、ミスタ・マーロウ──蘭の花?」
「しごく地味な白木の箱さ」私は言った。「青銅や銀の取っ手は邪魔だ。灰は青い太平洋上に撒かないでくれ。まだミミズの方がいい。知ってたかい? ミミズは両性具有でね、他のどのミミズとも愛しあえるって」
「あなたは少し軽率ね」厳しい目つきで彼女は言った。
「この灯り、どうにかしてくれないかな?」
彼女は立ってダヴェンポートの後ろに回った。明かりが消えた。薄暗さは祝福だった。
「あんまり危険そうに見えないわね」彼女は言った。背はどちらかといえば高い方だが、ひょろ長くはなかった。細身だったが、痩せすぎてはいなかった。彼女は椅子に戻った。
「私の名前を知ってるんだ」
「よく眠ってたわ。あの人たちがあなたのポケットを探る時間はたっぷりあった。防腐処理を施す以外はみんなやったわね。それで探偵だと分かったの」
「私について分かったのはそれだけなんだね?」
 彼女は黙っていた。煙草から微かに煙がたちのぼった。それを手で払いのけた。小さく形の整った手だった。今どきの女によく見かける骨ばった園芸用具のような手ではなかった。
「今何時だ?」私は言った。
 彼女は横を向き、螺旋を描く煙越しにスタンドのくすんだ灯りの際に置いた手首を見た。
「十時十七分、デートの約束でもあるの?」
「ひょっとして、ここはアート・ハックの修理工場の隣の家か?」
「そうよ」
「二人は何をしてるんだ──墓堀りか?」
「どこかへ出かけたの」
「君一人置いてかい?」
彼女の頭がまたゆっくりこちらを振り返った。微笑んでいた。「あなたはちっとも危険に見えないもの」
「君は囚人のように扱われてると思い込んでた」
驚いたようではなかった。むしろ少し面白がっているようだった。「どうしてそう思ったの?」
「君が誰だか知ってる」
 限りなく青い眼がきらりと光った。あまりにも素早かったので危うくその一閃を見逃すところだった。剣でひと薙ぎするような一瞥だった。口は堅く結ばれていたが声は変わらなかった。
「なら、残念ながらあなたは窮地に陥ったわね。殺しは嫌いだけど」
「エディ・マーズ夫人だろう?恥ずかしくないのか」
 それが女の気に障った。こちらをにらんだ。私はにやりとした。「このブレスレットを外せないのなら、そうしない方が賢明だが、置きっぱなしにしてるその酒、一口飲ませてもらえないかな」
 女はグラスを持ってきた。偽りの希望のような泡が立っていた。女は私の上にかがみ込んだ。息は子鹿の目のように繊細だった。私はグラスからごくごく飲んだ。女は私の口からグラスを離し、私の首を流れ落ちる液体をながめた。 
 女はもう一度私の上にかがんだ。血が私の体内に巡りはじめた。入居予定者が家を見て回るように。
「あなたの顔、船の防水マットみたいよ」彼女は言った。
「今のうち思う存分楽しむといい。長くはもたないから」

「知ってたかい? ミミズは両性具有でね、他のどのミミズとも愛しあえるって」は<Did you know that worms are both sexes and that any worm can love any other worm?>。双葉氏は「うじ虫にも雌と雄があって愛し合うってことを君は知ってるかい?」と訳している。<worm>は「蠕虫(ぜんちゅう)」のことで、うじ虫もミミズもその仲間に入る。ただ、「雌と雄があって」という訳では面白さが伝わらない。村上氏は「虫が両性具有だって知ってたかい? だから虫はどんな虫とでも愛を交わせるんだ」と訳している。つまり、相手を選ばないのだ。村上氏の問題は「虫」としたことだ。日本語で虫といえば昆虫も入る。すべての虫が両性具有というわけではない。

「あなたは少し軽率ね」は<You’re a little light-headed>。双葉氏は「あなた、すこしお調子者ね」と訳している。村上氏は「あなた、まだ頭がちょっとずれてるみたいね」だ。<light-headed>には、「頭がふらふらする」と「思慮が足りない」の両義がある。さて、この場合どちらを使うのが正しいのだろう。

「偽りの希望のような泡が立っていた」は<Bubbles rose in it like false hopes.>。双葉氏は「むなしい希望みたいな泡が立っていた」と訳している。村上氏は「ピンク色の泡が儚(はかな)い希望のように立っていた」と訳している。<rose>を「薔薇色」と誤読したのだろう。ピンクシャンパンか何かを思い浮かべたのがまちがいのもとだ。もちろん、ここは動詞<rise>の過去形だ。でないと、「立っていた」が出てこない。村上氏は一つの語を二回訳している。

「今のうち思う存分楽しむといい。長くはもたないから」は<Make the most of it. It won’t last long even this good.>。双葉氏は「まあそんなところだろう」と訳しているが、<Make the most of it. >はよく使われる決まり文句で「~を存分に楽しむ」くらいの意味。村上氏は「せいぜい有効に利用するんだね。丈夫に見えて、あまり長持ちしそうにはないから」と訳している。<It won't last long>は「~も長くは続かない」という意味。村上氏は<this good>をマーロウ自身と考えているようだが、これは顔の状態を指しているのではないか。つまり、今は防水マットのようでも、そのうち元に戻るという意味なのでは。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(4)

《外で砂利を踏む足音がして扉が押し開けられた。光が篠突く雨を銀の針金に見せた。アートがむっつりと泥まみれのタイヤを二本ごろごろ転がし、扉を足で蹴って閉め、一本をその脇に転がした。荒々しく私を見た。
「ジャッキをかますところによくもまあ、あんな所を選んだものだな」彼は罵った。
 茶色の男は笑いながらポケットから筒状に束ねた五セント硬貨を取り出して掌の上で上下させた。
「まあ、そう文句ばかり言うな」彼は素っ気なく言った。「そいつを修理するんだ」
「だからやってるじゃないか、だろう?」
「いいから、そんなに騒ぎ立てるな」
「ふん」アートはゴム引きのコートと防水帽をむしり取ると、遠くへ投げ捨てた。一本のタイヤを台の上に持ち上げると、リムから乱暴に引き剥がした。チューブを外に出してあっという間に継ぎをあてた。まだ、ぶつぶつ言いながら大股で私の脇を抜け、壁にかけたエア・ホースをつかむと、チューブの中に空気をたっぷり入れて形を整え、エア・ホースのノズルを白漆喰塗りの壁に叩きつけた。
 私は立ったままカニーノの手の中で踊るラッピングされた硬貨を見ていた。少しの間、身が縮むような緊張感を忘れていた。私は首をひねり、隣で痩せた機械工が空気で硬くなったチューブを上に放りあげ、両手を広げて両側をつかむのを見た。彼は不機嫌そうに隅の汚い水が入った亜鉛メッキされた水槽の方をちらっと見ながらぶつぶつ言った。
 チームワークは抜群だったに違いない。私は合図も、目配せも、それらしい仕草も見なかった。痩せた男は硬くなったチューブを高く持ち上げて見つめていた。彼は体を半回転させ、素早く大股に一歩踏み出してチューブを私の頭から肩にかぶせた。完璧な輪投げだ。
 私の背後に跳んでゴムに強く凭れた。私の胸に体重をかけ、二の腕を脇のところで動けなくした。手は動かせるが、ポケットの銃に届かない。
 茶色の男は踊るように床を横切り、私の方に向かってきた。手には五セント硬貨の束が固く握られていた。音も立てず、表情も変えず私に近づいた。私は前にかがみ、アートを持ち上げようとした。
 重い筒を仕込んだ拳が私の開いた掌を通り抜けた。石が黄塵の中を抜けるように。ショックで一瞬気が遠くなった。目の前を光が踊り、視界がぼやけたが、まだ見えていた。男がまた殴った。頭には何の感覚もなかった。眩しい輝きが明るさを増した。ずきずき痛む白い光があるだけだった。それから暗闇の中で何か赤いものが顕微鏡で見る細菌のように蠢いた。やがて、輝きも蠢きも消え、ただ暗黒と空虚、吹き荒れる風に大きな木が落ちてゆくような感覚があった。》

「光が篠突く雨を銀の針金に見せた」は<The light hit pencils of rain and made silver wires of them.>。双葉氏は「電灯の光が両足を照らしだし銀色の線みたいに光らせた」と訳している。<pencils>をアートの足ととったようだが、それに続く<of rain>はどこに消えたのか。<pencil>は「(鉛筆のように)細い線」の意味だ。村上氏は「光がまっすぐな雨の筋に当たり、それを銀色の針金に変えた」と噛みくだいている。

「チューブを外に出してあっという間に継ぎをあてた」は<He had the tube out and cold-patched in nothing flat.>。<in nothing flat>は「あっという間に」を意味する成句だが、両氏とも調べもしなかったようだ。双葉氏は「そしてチューブを出すと破れをはりつけ」と、無視。村上氏は「チューブを中から抜き出し、ぺちゃんこになったものにタイヤ修理用のパッチを貼り付けた」と<flat>を「ぺちゃんこになったもの」と訳している。確かに、それまで何度も、そういう意味で使って来ているから無理もないのだが、ここは辞書を引く手間を惜しんではいけない。

「白漆喰塗りの壁」は<the white-washed wall>。双葉氏は「洗いたての白い壁」、村上氏は「白塗りの壁」と訳している。<white-wash>は「白漆喰」のこと。村上氏の「白塗りの壁」はまちがいではないが、双葉氏の「洗いたての」はおかしい。いい塗装には湿気はよくないはずではなかったのか。もっとも、この部分も双葉氏は正しく訳していなかった。ひとつ見落とすと後を引くものだ。

「私は首をひねり、隣で痩せた機械工が空気で硬くなったチューブを上に放りあげ、両手を広げて両側をつかむのを見た」は<I turned my head and watched the gaunt mechanic beside me toss the air-stiffened tube up and catch it with his hands wide, one on each side of the tube.>。双葉氏は「私はふりむいて、細長い機械工が空気でふくらんだチューブを投げあげて、うけとめているのをながめた」と訳している。

村上氏は「私は首を曲げて、ひょろ長い修理工がすぐそばで空気を入れて硬くなったチューブを放り上げては、大きく広げた両手で受け止めるのを見ていた。彼は放り上げるごとに、一つの側を調べていた」と訳している。この最後の部分は<one on each side of the tube>を訳したつもりだろうが、この部分の主語はあくまでも「私」で、機械工は私に見られている対象でしかない。<one on each side >の<one>は、その前の<hands>のことで、一方の手が片側をつかんだことを言っているにすぎない。

「やがて、輝きも蠢きも消え、ただ暗黒と空虚と、吹き荒れる風に大きな木が落ちてゆくような感覚があった」は<Then there was nothing blight or wriggling, just darkness and emptiness and a rushing wind and a falling as of great trees.>。双葉氏は「それから何も光らず、何もうごめかなくなった。ただ、暗黒と空虚と、吹きまくる風と、高い木から落ちていく感じだけになった」と訳している。

村上氏は「しかしやがて輝くものも、蠢くものもいなくなった。あとにはただ暗黒と空虚があった。そして突風が吹き、大木が音を立てて倒れた」と訳している。<a falling as of great trees>の訳が「高い木から落ちていく感じだけになった」や「大木が音を立てて倒れた」になる理由がよく分からない。この<as of>は「~のような」の意味で使われている。ここはマーロウの一人称視点で書かれている。マーロウは痛覚も視覚も消え、体感だけが残っているのだ。双葉氏はよく分かっているのだが、木から落ちるのではなく、木そのものが倒れる感覚ではないだろうか。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(3)

《「分かった、分かった。つなぎの男は不満たらたらだった。ポケットの垂れぶた越しに服に銃をねじ込むと、拳を噛みながら不機嫌そうにこちらを見つめた。ラッカーの匂いはエーテルと同じくらい胸が悪くなる。隅の吊り電灯の下に新品に近い大型セダンがあり、フェンダーの上にスプレーガンが載っていた。
 私はようやく作業台にいる男を見た。背の低いがっしりした体躯で肩幅が広い。冷めた顔つきに冷めた黒い目をしていた。身に纏ったベルト付きの茶色のスエードのコートには雨がびっしりと斑紋をつけていた。茶色の帽子を粋に斜めにかぶっている。作業台に凭れ、急ぐでもなく面白がるでもなく、まるで冷肉の厚切りでも見るようにこちらを見ていた。たぶん人のことをそんなものだと思っているのだろう。
 黒い目を上下にゆっくり動かしながら一本一本指の爪を眺め、明かりにかざして注意深く点検していた。ハリウッドがそうするように教えたのだ。男は煙草をくわえたまま話した。
「二本パンクしたって?そいつは大ごとだ。鋲は片づけたと思ってたが」
「カーブでちょっとスリップしたんだ」
「通りすがりだって言ってたな?」
「L.Aまで行く途中だ。あとどれくらいだろう?」
「四十マイル。この天気じゃもっと長く感じるだろう。どこからきたんだ?」
「サンタ・ローザ」
「長旅だな。タホからローン・パインか?」
「タホじゃない。リノからカーソン・シティだ」
「いずれにせよ長旅だ」微かな笑みが唇をゆがめた。
「法にでも触れるかい?」私は訊いた。
「何だって?いや何も問題はない。詮索好きだと思ってるんだろう。裏に逃げた強盗のせいさ。ジャッキを持って来てパンクの修理だ、アート」
「俺は忙しい」痩せた男がうなった。「俺は仕事中だ。これの塗装をしなきゃいけない。それに雨が降ってる。お気づきかもしれませんが」
茶色の男が愉快そうに言った。「いい塗装には湿気は禁物だ。アート、行って来いよ」
私は言った。「前と後ろ、右側だ。一本はスペアを使える。もし忙しいのなら」
「ジャッキ二つだ、アート」茶色の男が言った。
「聞いてんのか──」アートがわめき出した。
 茶色の男は目を動かし、穏やかな静かな目でアートをじっと見つめ、それからまた恥ずかしがってでもいるみたいに目を下ろした。何も言わなかった。アートは突風に吹かれでもしたようにぐらっと揺れた。足を踏み鳴らして隅の方に行くと、ゴム引きのコートをつなぎの上に羽織り、防水帽をかぶった。箱型スパナと手動ジャッキをつかみ、台車のついた大型ジャッキを転がして扉まで行った。
 黙って出て行ったが、扉は大きく開いたままだ。雨が中に吹き込んだ。茶色の男はぶらぶらと歩いて行って扉を閉め、ぶらぶら歩いて作業台まで戻り、前と同じ場所に腰を下ろした。そのときならうまく仕留められたかもしれない。二人きりだった。彼は私のことを知らなかった。彼はかすかに私の方を見ながら、セメントの床に捨てた煙草を見もしないで踏みつけた。
「一杯やった方がいい」彼は言った。「中を湿らせたら、外との釣り合いが取れる」彼は作業台の後ろからボトルを取り出して端に置き、脇にグラスを二つ置いた。各々にたっぷり注いで一つを差し出した。
 私は木偶の坊みたいに歩いて行ってそれを受け取った。雨の記憶がまだ顔に冷たく残っていた。塗料の匂いが閉め切った修理工場の空気を麻痺させていた。
「まったくアートときたら」茶色の男が言った。「機械工のご多聞にもれず、いつも先週仕上げておくはずの仕事にかかりきりだ。商用の旅行かい?」
私はそっと酒の匂いを嗅いだ。まっとうな匂いだ。相手が飲むのを見とどけてから口をつけ、舌の上で転がした。シアン化物は入ってなかった。小さなグラスを空け、彼の傍に置いて引き下がった。
「それもある」私はそう言って、塗りかけのセダンのところに行った。フェンダーに大きなスプレーガンがある。雨が平屋根を激しく叩いた。アートはその雨の中に出て行った。罵りながら。
 茶色の男は大きな車に目をやった。「そもそもはドアを直すだけの仕事さ」彼は何気なく言った。唸り声は酒のせいでさらに穏やかになった。「だが、客は金を持っていて、運転手はドル札を幾らか欲しがってた。ぼろい仕事さ」
 私は言った。「それより古い商売は一つだけだ」唇が渇くのを感じた。話したくなかった。煙草に火をつけた。タイヤの修理が終わってほしかった。時間が忍び足で過ぎていった。茶色の男と私は偶然に出会った他人同士で、ハリー・ジョーンズという名の小さな死人を挟んで互いに向い合っていた。ただし、茶色の男はまだそれを知らない。》

「身に纏ったベルト付きの茶色のスエードのコートには雨がびっしりと斑紋をつけていた」は<He wore a belted brown suede raincoat that was heavily spotted with rain.>。双葉氏は「バンドのついた茶色のスウェードのレイン・コートを着ていた。雨のしみがついていた」と訳している。村上氏は「ベルトのついた茶色のスエードのコートを着ていたが、そこには雨のあとが黒く重く残っていた」だ。<heavily>とあると「重く」と訳したくなるらしい。おまけに原文にない「黒く」まで付け加えている。

「鋲は片づけたと思ってたが」は<They swept the tacks, I thought.>。双葉氏は前の所で鋲について触れていないので「とんだ金要(ものい)りだぜ」と作文している。これはもう訳ではない。村上氏は「鋲はみんな片づけられたって聞いたんだけどな」と訳している。

「お気づきかもしれませんが」は<you might have noticed>。双葉氏はこれをカットしている。村上氏は「見りゃわかるだろうが」と訳しているが、見て分かるのは塗装中の方だ。閉め切った工場の中では雨は音で知るしかない。<you might have noticed>は何かを説明するときに最初につける決まり文句だ。アートの皮肉だろう。

「いい塗装には湿気は禁物だ」は<Too damp for a good spray job,>。ここを双葉氏は「おめえみたいなとんちきに、うまく塗れるかってんだ」と訳している。<damp>を<dope>とでも空目したのかもしれない。村上氏は「塗装をきれいに上げるには湿気が強すぎる」と訳している。

「中を湿らせたら、外との釣り合いが取れる」は<Wet the inside and even up.>。双葉氏は「腹にお湿(しめ)りをくれりゃ、調子が出るからな」と訳している。酒を飲めば調子が上がると考えたのだろうが、<even up>は「釣り合いが取れる、帳尻を合わせる」などの意味がある。ぐっしょり濡れた外と釣り合いをとるために中にも湿り気を入れた方がいい、という意味合いだ。村上氏は「外側だけじゃなく、内側も同様に湿らせた方がいいぜ」と言葉を補っている。

「そもそもはドアを直すだけの仕事さ」は<Just a panel job, to start with>。双葉氏は「ちょいと横板をなおしゃいいんだ」と訳している。たしかに<panel>には「横板」の意味もあるが、自動車にはあまり使わない。村上氏は「もともとは塗装をちっといじるだけの仕事だった」と、こちらは<panel>を省いている。<panel>とは「ドア・部屋・格(ごう)天井などの四角い枠のひと仕切り」のことである。車の塗装の場合、ドアならそれだけを塗ることができる。しかし、他の部分との色合わせは.けっこう難しい。全部塗り直す方が手間はかかるが仕上がりはきれいだ。おそらくそのようなことを言ったのだろう。

「ぼろい仕事さ」は<You know the racket.>。双葉氏は「これが商売さ」。村上氏は「どういう類の商売か見当はつくだろう」だ。<you know>は、「知ってるだろう」くらいのニュアンスで使われる合いの手みたいな文句だ。<racket>はこの小説では「強請り」の意味で何度も出てくるが、ここでは「楽して儲ける仕事」くらいの意味で使われている。

「それより古い商売は一つだけだ」は<There’s only one that’s older.>。双葉氏は「古いて(傍点)だね」と訳しているが、これでは<You know the racket.>を受けて切り替えしてみせた、気のきいたセリフが生きてこない。たぶん、ここでマーロウが考えている古くから続く商売というのは「娼婦」のことだろう。村上氏は「それより古い商売は一つしかない」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(2)

《広いメイン・ストリートからずっと後ろに木造家屋が何軒か、互いに距離を置いて建っていた。それから急に商店が軒を連ね、曇ったガラス窓の向こうにドラッグ・ストアの明かりが点り、映画館の前には車が蠅のように群がり、街角の明かりが消えた銀行は歩道に時計を突き出し、一群の人々が雨の中に立って窓の中をのぞき込んでいた。まるで何かショーでもやっているみたいに。私は先に進んだ。また無人の野原が迫ってきた。
 運命がすべてを裏で操っていた。リアリトを過ぎて一マイルも行ったあたりで、ハイウェイは大きく曲がり、雨に踊らされて私は路肩に近づきすぎた。右の前輪が怒り声をあげて軋んだ。車を止める前に右の後輪も同じ破目になった。私はブレーキを踏んで車を止めたが、車体の半分は路上、半分は路肩にあった。車を降りて懐中電灯で辺りを照らした。パンクしたのは二本、スペアは一本。亜鉛メッキされた鋲の押しつぶされた基部が前輪からこちらを見ていた。舗装路の縁に同じ鋲が散らかっていた。
 舗装路からは掃き出されたが、縁に残っていたのだ。
 私は懐中電灯を消し、そこに立って雨を呼吸し、脇道の黄色い明かりを見上げていた。天窓からのもののようだった。天窓は修理工場のものかもしれず、工場はアート・ハックという名の男がやっているのかもしれず、その隣には木造家屋が建っているかもしれなかった。私は襟首に顎を押し込んでそちらに歩きはじめた。それから引き返し、ハンドルの軸から車検証入れを解いてポケットに押し込んだ。それからハンドルの下に低く屈み込んだ。運転席に座ったとき右足が直に触れる位置の下にはね蓋のついた秘密の物入れがある。二挺の銃がそこに入っている。一挺はエディ・マーズの子分のラニーのもので、もう一挺は私のだ。私はラニーの方を取り出した。私のより経験を積んできているに違いない。そいつの鼻先を下に内ポケットに押し込んで脇道を歩きはじめた。
 修理工場はハイウェイから百ヤードほどだった。ハイウェイに窓のない側面を向けていた。私は素早く懐中電灯をあてた。「アート・ハック──自動車修理と塗装」。私はひとりほくそ笑んだ。が、ハリー・ジョーンズの顔が目の前に浮かび、笑うのをやめた。修理工場の扉は閉じていたが、下に明かりが漏れ、二枚扉の隙間にも明かりが細く透けていた。私は前を通り過ぎた。木造家屋があった。正面の二つの窓に明かりがともり、ブラインドが下りていた。道路から身を引くようにまばらな茂みに隠れていた。一台の車が砂利敷きの私道に停まっていたが、正面は暗くて判別できないが茶色のクーペかもしれず、カニーノ氏所有の車かもしれない。狭い木製ポーチの前で静かに身を潜ませていた。
 たまには女に運転させて辺りをひとっ走りするのだろう。女の隣に座り、たぶん銃を片手に。ラスティ・リーガンと結婚すべきだった女、エディ・マーズが押さえかねた女、ラスティ・リーガンと逃げなかった女と。ご親切なカニーノ氏。
 私はとぼとぼと歩いて修理工場まで戻ると木の扉を懐中電灯の柄で叩いた。雷のように重い沈黙の瞬間が垂れ込めた。工場内の灯りが消えた。私はほくそ笑み、唇の雨を舐めながら立っていた。懐中電灯を点け、二枚扉の真ん中を照らした。私はその白い円ににやりと笑いかけた。望むところにいたのだ。
 扉越しに声が聞こえた。無愛想な声だ。「何の用だ?」
「開けてくれ。ハイウェイで二本パンクして、スペアは一本だ。助けがいる」
「すまないがミスタ、もう閉店だ。リアリトは一マイル西だ。そちらをあたった方がいい」
気に入らない返事だ。私は扉を強く蹴った。蹴りつづけた。別の声が聞こえた。喉を鳴らす唸り声だ。壁の向こうで小さな発電機が動いているような。その声は私の気に入った。声が言った。「生意気なやつじゃねえか、開けてやれよ、アート」
 閂桟が悲鳴を上げて片方の扉が内に開いた。懐中電灯の明かりが少しの間、げっそり痩せた顔を照らした。その時何か光る物が振り下ろされ私の手から懐中電灯を叩き落した。銃がこちらを向いていた。私は身を屈め、濡れた地面を照らしている懐中電灯を拾い上げた。
 ぶっきらぼうな声が言った。「明かりを消せよ、それでけがをするやつもいるんだ」
 私は懐中電灯を消し、体を起こした。修理工場の中で明かりがつき、つなぎを着た背の高い男の輪郭が浮かび上がった。男は銃を私に向けたまま開いた扉から後退りした。
「入って扉を閉めてくれ、あんた。何ができるか考えよう」
 私は中に入って後ろ手に扉を閉めた。私は痩せた男を見たが、作業台の陰で口をつぐんでいるもう一人の方は見なかった。修理工場の空気はラッカーの刺激臭のせいで甘く不穏だった。
「あんたにゃ、分別てえものがないのか?」痩せた男がたしなめるように言った。「今日の午後リアリトで銀行強盗があったばかりなんだぜ」
「すまなかった」私は言った。雨の中人々が銀行をながめていたのを思い出した。「私がやったんじゃない。通りがかりの者だ」
「とにかく、そういうことがあったんだ」不機嫌そうに言った。「二人の悪ガキの仕業で、この後ろの丘に追い詰められたって話だ」
「身を隠すには頃合いの夜だ」私は言った。「そいつらが外に鋲を撒いたらしい。それを拾ってしまった。最初はあんたが客を引き込もうとしたのかと考えていた」
「あんた今まで一度も口を殴られたことはないのか、どうなんだ?」痩せた男が素っ気なく言った。
「ないね、あんたのウェイトのやつには」
 唸り声が陰から口を挟んだ。「すごむのはやめときな、アート。こちらはお困りのご様子だ。修理がお前の仕事じゃないか?」
「ありがとう」私は言ったが、そのときでさえ声の主を見ようとはしなかった。》

「運命がすべてを裏で操っていた」は<Fate stage-managed the whole thing.>。双葉氏はなぜか、ここを訳していない。パラグラフの先頭にある文だ。これをカットするというのはないだろう。村上氏は「運命がすべてのお膳立てを整えてくれた」だ。<stage-manage>は「(舞台)演出をする」というのが本義だが、「(裏で)企てる、操る」の意味がある。

亜鉛メッキされた鋲の押しつぶされた基部が前輪からこちらを見ていた。/舗装路の縁に同じ鋲が散らかっていた。舗装路からは掃き出されたが、縁に残っていたのだ」は<The flat butt of a heavy galvanized tack stared at me from the front tire. / The edge of the pavement was littered with them. They had been swept off, but not far enough off.>。ここを双葉氏は「前車輪のタイヤの破れた端が私をみつめていた。舗装道路の端がめくれていた」と訳している。これは、誤訳というよりも手抜きだ。

村上氏は「亜鉛メッキされた大きな鋲の、ぺしゃんこになった残骸が、前輪の脇から私を見ていた。/舗装部分の縁にはそのような鋲がたくさん撒かれていた。それらは掃いて排除されたものの、路肩に残されたままになっていたのだ」と訳している。村上氏は<a heavy galvanized tack>を「亜鉛メッキされた大きな鋲」と考えているらしいが、この<heavy>は次の<galvanized>にかかっている。<a heavy galvanized>は「溶融亜鉛メッキ」のことで亜鉛メッキの種類の一つ。

「ハンドルの軸から車検証入れを解いて」は<unstrap the license holder from the steering post>。双葉氏は「運転台から免許証入れを引はぎ」と訳している。村上氏は「ハンドルの軸についた車検証をはずして」だ。<license holder>は「資格保持者」の意味だが、運転免許証や探偵許可証なら札入れに入れている。<unstrap>とあるからには紐状のものでステアリング・ポストに付けているので直にではない。ここは「車検証」のホルダーのことだろう。

「ハイウェイに窓のない側面を向けていた」は<It showed the highway a blank side wall.>。双葉氏は「そこからふりかえると、国道は白い塀みたいに見えた」と訳しているが、これは無理がある。マーロウはハイウェイの方からやって来て修理工場を見ているのだ。特にハイウェイを振り返る必要はない。村上氏は「それはハイウェイに向けて、のっぺりした側面を向けていた」と訳している。「向けて」が重複しているのが気になる。はじめの方はなくてもいい。

「二枚扉の隙間にも明かりが細く透けていた」は<a thread of light where the halves met.>。双葉氏は「が、下の橋から光がもれていた」と、ここをカットしている。村上氏は「二枚の扉の合わせ目が光の縦線を作っていた」と訳している。

「雷のように重い沈黙の瞬間が垂れ込めた」は<There was a hung instant of silence, as heavy as thunder.>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「一瞬の沈黙が降りた。雷鳴のように重い沈黙だった」と文学的に処理しているが、<thunder>(雷)はひどく怒鳴ったり、大声をあげるという意味でよく使われる言葉。「沈黙は金」ということわざもあるように、何も言わない方が何かをより以上に伝えることがある。そういう意味だろう。

「修理工場の空気はラッカーの刺激臭のせいで甘く不穏だった」は<The breath of the garage was sweet and sinister with the smell of hot pyroxylin paint.>。双葉氏は「車庫の空気は塗料のにおいで甘く、また陰気だった」と簡潔に表現している。村上氏は「工場の空気は温かいピロキシリン塗料のせいで甘ったるく、そこには不穏な気配があった」とどこまでも詳しい。ただ<hot>を「温かい」と訳したのはどうだろう。

スラングでもよくつかわれる<hot>だ。「流行の、人気のある」などの意味もある。<pyroxylin>はニトロセルロースラッカーのことで、初めて車の塗装に使用されたのは1923年。ゼネラルモータース社のオークランドという車種だった。『大いなる眠り』が出た1939年当時はすでに各社が取り入れていたのではないだろうか。ただし、「人気の」とするほどのデータもないので、「強い、激しい」の意味で「刺激臭」とした。

 

『大いなる眠り』註解 第二十七章(1)

《「お金をちょうだい」
 声の下でグレイのプリムスのエンジンが震え、上では雨が車の屋根を叩いた。頭上遥か、ブロック百貨店の緑がかった塔の頂では菫色の灯りが、雨の滴る暗い街からひとり静かに身を引いていた。女は身を屈めダッシュボードのかすかな光で金を数えた。バッグが音を立てて開き、音を立てて閉まった。女は疲れ切った息を吐き切ると、私に身を寄せた。
「もう行くわ、探偵さん。逃げる途中なの。これがなくては逃げるに逃げられない。ハリーに何があったの?」
「逃げたと言っただろう。カニーノが何かを嗅ぎつけた。ハリーのことは忘れろ。払った分の情報がほしい」
「話すところよ。ジョーと私は先週の日曜、フットヒル大通りを車で走ってた。灯ともし頃で車はいつものように混雑してた。茶色のクーペを追い越したとき、運転してる女を見たの。横には男がいた。浅黒い背の低い男。女は金髪で以前に見たことがあった。エディ・マーズの奥さんよ。男の方はカニーノ。一度見たら忘れられない二人組。ジョーはそのクーペの後をつけた。尾行がうまいのよ。番犬のカニーノが気分転換に連れだしたのね。リアリトから一マイルほど東へ行ったところで道は丘の方に向かうの。南に行けばオレンジ畑が続くけど、北に行けば地獄の裏庭のように剥き出しの土地で、丘と衝突したように燻蒸消毒用の薬品を作るシアン化物工場が建ってる。ハイウェイをちょっと外れたところにアート・ハックっていう男がやってる小さな塗装兼修理工場がある。盗難車を売買してそうな店よ。そこを過ぎると木造家屋が一軒建っている。その先には丘と露頭と二マイル先のシアン化物工場のほか何もない。そこが彼女の隠れ家よ。二人はそこで脇道に入ったので、ジョーはやり過ごしてから引き返すと、車が入った脇道の先に一軒の木造家屋が見えた。半時間ほどそこに座って車が通るのを見てたわ。誰も戻ってこなかった。すっかり暗くなってからジョーがこっそりのぞきに行った。ジョーが言うには、家には明かりがついて、ラジオが鳴っていて、玄関には一台だけ車が停まっていた。クーペよ。それで私たちは引き上げた」
 女は話しを止め、私はウィルシャー大通りを行くタイヤの軋る音に耳を澄ませた。私は言った。「その後で隠れ家を引っ越したかもしれない。だが、ともあれ売り物はそれか。人違いじゃないだろうな」
「一度でもあの女を見たなら、次に見まちがえたりしない。さよなら、探偵さん。幸運を祈っててね。まったくひどい目にあったんだから」
「散々だったな」私は言った。そして通りを横切って自分の車まで歩いた。
 グレイのプリムスは動き出し、スピードを上げ、サンセット・プレイスに向かうコーナーに突っこんでいった-。エンジン音が消え、私の知る限り金髪のアグネスはその姿を永遠に消し去った。三人の男が死んだ。ガイガー、ブロディ、そしてハリー・ジョーンズ。そして女は私の二百ドルを鞄に入れ、雨の中を跡形もなく走り去った。私は弾みをつけ、ダウンタウンまで飯を食いに行った。しっかりとした夕食だ。雨の中の四十マイルはちょっとした遠出だ。おまけに私は往復したいと思っていた。
 私は北に向かい、川を渡ってパサデナに入った。パサデナを抜けるとすぐにオレンジ畑だった。どしゃ降りの雨がヘッドライトを浴びて厚く白い水煙になった。ワイパーをいくら速く動かしても、視界をクリアに保つことは難しかった。それでも、濡れそぼつ闇を通してオレンジの樹々の完璧な輪郭が無限に続く輻のように夜の中を走り去るのが見えた。
 行き交う車はつんざくような音を立て、汚れた水煙を波打たせて通り過ぎた。 ハイウェイは小さな町をいくつも通り抜けた。オレンジの選果場と倉庫、それに寄り添う鉄道の引き込み線がすべてといった町だ。いつかオレンジ畑はまばらになり、南の方に消えていった。そして道が上りになるにつけ寒くなった。北方に黒い丘陵が身を屈めて近づき、山腹に激しい風を吹きつけた。 やがて暗闇の中にぼんやりと二つの黄色い蒸気灯が浮かびあがり、その間に「リアリトへようこそ」と告げるネオンサインが見えた。》

「地獄の裏庭のように剥き出しの土地で、丘と衝突したように」は<it’s a bare as hell’s back yard and smack up against hills>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「地獄の裏庭みたいな荒涼とした土地で、その突き当りには、丘にしがみつくような格好で」と訳している。<smack>は「衝突する、ぶつかる、強く打つ」などの意味。

「小さな塗装兼修理工場がある」は<there’s a small garage and paintshop>。双葉氏は「小さな車庫と、ペンキ屋があるの」と訳しているが、そんな地獄の裏庭のような場所でペンキ屋を営む物好きはいない。村上氏は「小さな修理工場がある。塗装もする」だ。実は双葉氏、この後の<Hot car drop, likely.>を「車はそこで速力を落したの」と誤訳している。これが読めていないのでペンキ屋になってしまったんだろう。村上氏の訳では「たぶん盗難車をさばく店ね」だ。<hot car>とは「盗難車」のことで、<drop>は「(盗品などの)隠れ売買所」のことだ。

「一軒の木造家屋が見えた」は<where the flame house was.>。双葉氏はここもカットして「車が曲がって行ったところで、三十分ほど見張っていたの」と訳している。<the flame house>とあるように、それまでに一度出てきている。初出なら<a flame house>だ。双葉氏は簡潔な訳を好むが、脇道の向こうにこの家があることはそれまでに書かれていない。後に訪れるであろうマーロウが無事たどり着けるように、ここは正確に訳しておく必要がある。アグネスの道案内は行き届いているのだ。

「跡形もなく」と訳したのは<not a mark on her>。双葉氏は「何の刻印も残さずに」と訳している。村上氏は「かすり傷ひとつ負わずに」と訳している。その前に男が三人死んだ、とあるので村上氏の訳はそれを考慮に入れているのだろう。蛇足ながら、この時点で男はもう一人死んでいる。運転手のオーウェン・テイラーだ。なぜ三人としたのだろう。使用人は物の数ではないのだろうか。

「私は弾みをつけ」は<I kicked my starter>。双葉氏は「私はスターターをけり」とそのまま訳しているが、バイクではないのだから、これはおかしい。村上氏は「私は車のアクセルを踏み」と、無難な訳にしているが、まだエンジンをかけてもいないのにアクセルを踏んでもはじまらない。<kick starter>には、オートバイなどのペダルを踏んで始動させる、という通常の意味のほかに「(活動などの)始動時に弾みをつける」という意味がある。<my starter>とあるように、ここは遠出を前に自分に元気をつける意味で食事に出かけたのだろう。

「私は往復したいと思っていた」は<I hoped to make it a round trip.>。双葉氏は「遊覧旅行なら申し分ないのだが」と訳している。<round trip>は「周遊旅行」の意味もあるが、アメリカ英語では「往復旅行」の意味になる(英<return trip>)。村上氏は「私としては片道とはいわず、できれば往復したいところだ」と相変わらず丁寧な訳しぶりだ。四十マイルは約六十キロ。往復で百二十キロなら普通は日帰りだ。「日帰り」と訳しかけたが、日をまたぐことも考えて「往復」にした。

「オレンジの選果場」と訳したところは<packing houses>。双葉氏は「オレンジの包装所」と訳している。辞書には「選果包装施設」などのほかに「缶詰工場」という訳語も載っている。村上氏は「缶詰工場」を採っているが、オレンジ畑が続いていることを盛んに強調していることもある。ミカンの缶詰というのもあるが、オレンジならそのまま箱に詰めるだろう。日本語としては「選果場」が一般的ではないか。

「山腹に激しい風を吹きつけた」は<sent a bitter wind whipping down their flanks.>。村上氏は「刺すような風を山腹に向けて吹き下ろした」と訳している。ところが、双葉氏は「その中腹から酸っぱい臭いが流れて来た」と訳している。シアン化物工場という言葉からの連想で<a bitter wind>を「酸っぱい臭い」と思ってしまったのだろう。しかし、雨の中のドライブで窓を開けているわけがない。この<bitter>は「(雨、寒さなどが)激しい、厳しい」の意味だろう。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(4)

《電話を切り、もう一度電話帳を取り上げてグレンダウアー・アパートメントを探した。管理人の番号を回した。もうひとつ死の約束の取りつけに、雨をついて車を疾走させているカニーノ氏の像がぼんやりと頭に浮かんだ。「グレンダウアー・アパートメント。シフです」
「ウォリスだ。警察の身元識別局。アグネス・ロズウェルという名の女に覚えがあるかね」
「何とおっしゃいました?」
 私は繰り返した。
「番号をお教え願えれば、折り返し──」
「茶番はよせ」私は厳しく言った。「急いでいるんだ。あるのか、ないのか?」
「いいえ、ありません」声は棒状のパンのように硬かった。
「長身で金髪、目は緑だ。安宿で見た覚えはないか?」
「お言葉ですが、うちは安宿なんかでは──」
「黙るんだ」私は警官口調で怒鳴りつけた。「風紀犯罪取締班を送り込まれて徹底的に引っ掻き回されたいのか? バンカー・ヒル界隈のアパートメント・ハウスのことなら何から何まで知っているんだ。特に部屋別に電話番号が登録されているようなやつのことはな」
「ちょっと、落ち着いてくださいよ、お廻りさん。協力しますから。金髪なら確かに二人います。普通いるでしょう? 目の色までは覚えていません。その人、一人住まいですか?」
「一人か、一六〇センチくらいの小男といっしょだ。体重五十キロ、鋭い黒い目、服はダーク・グレイのダブル・ブレストのスーツ、アイリッシュツイードのコート、グレイの帽子だ。情報じゃ部屋は三〇一のはずだが、電話に出たやつに盛大に揶揄われたよ」
「ああ、女はそこじゃない。三〇一には自動車のセールスマンが二人住んでいます」
「ありがとう。そのうちに行ってみよう」
「お手柔らかに願いますよ。直に私のところに来て頂ければ」
「感謝するよ、ミスタ・シフ」私は電話を切った。
 顔の汗を拭いた。オフィスの隅まで歩いて壁に向かって立ち、片手で壁を叩いた。ゆっくり振り返り、椅子の上でしかめっ面をしている小さなハリー・ジョーンズを見やった。
「君はあいつに一泡吹かせたってわけだ、ハリー」私は自分でも奇妙に聞こえるほど大きな声を出した。「君は嘘をつき、小紳士然として青酸カリを仰いだ。君は猫いらずにやられた鼠みたいに死んだ。だがなハリー、私にとって君はただの鼠ではなかった」
 私は死体を探った。嫌な仕事だ。ポケットの中からはアグネスについて私の欲しいものは何一つみつからなかった。そんなことだろうと思っていたが、やらずに済ますわけにはいかなかった。カニーノ氏が戻ってくるかもしれない。カニーノ氏は自信満々の紳士のようだ。犯行現場に舞い戻ることなど気にもしないだろう。
 私は明かりを消し、ドアを開けかけた。壁際の床の上で電話のベルが激しく鳴り出した。私はその音に耳を澄ませ、顎の筋肉を痛いほどひきしめた。それから、もう一度ドアを閉め、明かりをつけ、そこまで行った。
「もしもし」
 女の声だ。彼女の声。「ハリーいる?」
「ここにはいないよ、アグネス」
 しばらく待って、それからゆっくり言った。「誰なの?」
「マーロウだよ、君にとっては厄介者さ」
「あの人、どこにいるの?」甲高い声。
「ある情報の見返りに二百ドル持って立ち寄った。申し出はまだ効力がある。金はここだ。君はどこにいる?」
「あの人、言わなかった?」
「聞いていない」
「あの人に訊く方がいいと思う。あの人はどこ?」
「それが訊けないんだ。カニーノという男を知ってるか?」
 はっと息を呑むのがまるで傍にいるみたいにはっきり聞こえた。
「百ドル札二枚、ほしいのか、いらないのか?」
「私──私、喉から手が出るほど欲しいの、ミスタ」
「それじゃ、どこへ持っていくか言ってくれ」
「私──私──」声が次第に薄れていき、パニックが戻ってきた。「ハリーはどこ?」
「怖気づいて逃げたのさ。どこかで会おう──どこでもいい──金はあるんだ」
「そんなはずない──ハリーに限って。罠ね、これは」
「戯言だ。ハリーを逮捕するならとっくの昔にできた。罠をかける必要など何もない。カニーノがハリーのことを何か嗅ぎつけたみたいで逃げたのさ。私は安らかでいたい。君も安らかでいたい。ハリーも安らかでいたい」ハリーはもう安らかにしている。誰も彼からそれを奪うことはできない。「私のことをエディ・マーズの手先だと考えてるんじゃないだろうな、エンジェル?」
「い、いいえ、そんなふうには思ってない。半時間後に会いましょう。ウィルシャー大通りのブロックス百貨店の横、駐車場の東口で」
「いいだろう」私は言った。
 受話器を戻した。アーモンド臭の波がまた押し寄せてきた。そこに吐瀉物の酸っぱい匂いが混じっていた。小さな死者は黙って椅子に腰かけていた。恐怖や変化から遠く離れて。
 私はオフィスを出た。薄汚れた廊下には動くものもなかった。明かりの漏れる石目ガラスのドアもなかった。私は非常階段を使って二階まで降り、そこから明かりがついたエレベーターの屋根を見下ろした。ボタンを押すとそれはゆっくり動きはじめた。私は再び非常階段を駆け下りた。ビルディングを出る頃にはエレベーターは私の上にいた。
 雨脚はまた激しくなっていた。土砂降りの中に踏み込むと大量の雨粒が顔を打った。一滴が舌に当たり、開けっ放しの口に気づいた。顎の脇の痛みから、顎を引いて大口を開けていたことを知った。ハリー・ジョーンズの死に顔に刻まれたしかめっ面の真似だった。》

「グレンダウアー・アパートメントを探した」のところ、両氏とも「グレンダ(ド)ワー・アパートメント」と訳しているが、原文は<looked up the Wentworth Apartments.>。つまり「ウェントワース・アパートメント」だ。これはチャンドラーのミスだろうか?「ウェントワース」は電話番号であって、アパートの名前ではない。参照しているのは1992年刊のBlack Lizard Editionだが、原作尊重でそのままにしているのだろうか。よく分からない。

「声は棒状のパンのように硬かった」は<The voice was stiff as a breadstick.>。双葉氏はここをカットしている。<breadsticks>はイタリア料理で、テーブル上に用意される鉛筆サイズの細くて硬い「グリッシーニ」のことだ。籠などにどっさり詰め込んで供されるため、普通は複数形である。そのままかじってもいいが、生ハムなどを巻いて食べるのも美味しいらしい。村上氏は「その声は棒パンのように硬かった」と訳している。

「普通いるでしょう?」は<Where isn’t there?>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「どこにだって金髪くらいいますぜ」と訳している。前の文が<There’s a couple of blondes here, sure.>だから、ここは一種の付加疑問文と考えればいい。双葉氏はそう考えて略したのかもしれない。

「電話に出たやつに盛大に揶揄われたよ」は<but all I get there is the big razzoo.>。双葉氏は「電話に出たのはデカ物だった」。村上氏は「しかし電話に出たのはいかにもでかい野郎だった」と、旧訳を参考にした訳だ。<razz>は「からかう、あざ笑う」の意味で<big razzoo>は「(米俗)大軽蔑の仕種」と辞書にある。どんな仕種かは分からないが、電話では見えない。それは両氏にも言えることで、電話で相手の背の高さは分からないはずだ。

「だがなハリー、私にとって君はただの鼠ではなかった」は<Harry, but you’re no rat to me.>。双葉氏は「だが、僕は君を鼠とは思わない」。村上氏は「しかしハリー、私から見れば君は鼠なんかじゃない」だ。<rat>は家ネズミの<mouse>とちがって、ドブネズミ。そのため人に対して使われるときは「スパイ、密告者、裏切り者」といったよくない意味が加わる。マーロウのハリーに対する親愛の情を表すところなので、ネズミを使った人を表す表現として「ただの鼠で(は)ない」(尋常の人物ではない、一癖ある者だ、油断のならないやつだ)を使ってみた。

カニーノ氏は自信満々の紳士のようだ。犯行現場に舞い戻ることなど気にもしないだろう」は<Mr.Canino would be the kind of self-confident gentleman who would not mind returning to the scene of his crime.>。双葉氏は「キャニノ君は犯罪の現場へ帰ってくるのを何とも思っていないような自信たっぷりな紳士だ」と、関係代名詞を教科書通り後ろから訳し上げている。村上氏は「カニーノ氏は自信満々の男だ。犯行現場に戻ることを怖がったりしないだろう」と、こちらは文芸翻訳でよくやるように訳し下ろしている。

「壁際の床の上で」は<down on the baseboard>。ここも双葉氏はカットしている。村上氏は「床の幅木の前に置いた」と、丁寧に訳している。<baseboard>は壁の下に張りまわした「幅木」のこと。原文は<The phone bell rang jarringly down on the baseboard.>。この場合の<down>は「低い状態にある」ことを表す副詞だろう。わざわざ幅木に注目させる必要があるとも思えない。幅木のあるのは壁なので「壁際の床の上で」としてみた。

「もしもし」は<Yeah?>。ここを双葉氏は「おう」と訳している。マーロウの発した言葉と考えているのだろう。しかし、すぐ後に<A woman’s voice. Her voice.>と続くので、これはアグネスの発した言葉と取らないと意味が通じない。そのためか、双葉氏は語順を入れ替えて「ハリーいて?」の後に「女の声だ。彼女の声だ」を入れている。しかし、これはさすがにまずいだろう。

「はっと息を呑むのがまるで傍にいるみたいにはっきり聞こえた」は<Her gasp came as clearly as though she had been beside me.>。双葉氏は「彼女がはげしく息をひくのが、まるですぐそばにいるみたいにはっきりきこえた」と訳している。一般に「息をひく」という言い方があるのかどうかよく分からないが、あとは原文通り。村上氏は「彼女がはっと息を呑む音がすぐ耳元で聞こえた」と訳している。直喩をあえて無視しているのは何か理由があるのだろうか。

「私は安らかでいたい」は<I want quiet>。双葉氏は「僕も落ち着きたい」。村上氏は「私は静かにやりたい」と訳している。これはいつもの繰り返しである。私、君、ハリーと三度同じ言葉を繰り返して<Harry already had it.>(ハリーはもう安らかにしている)つまり永眠している、というところへ落としたい訳だ。<quiet>をどう訳すかがカギになる。

「土砂降りの中に踏み込むと大量の雨粒が顔を打った」は<I walked into it with the heavy drops slapping my face.>。双葉氏は「雨滴でつよく顔をたたかれながら、私はそのどしゃ降りの中へ出て行った」と、やはり訳し上げている。村上氏は「外に出ると、重い雨粒が顔を強く打った」と訳している。「重い雨粒」は変だろう。<heavy>には「(量、程度などが)激しい、猛烈な」という意味で使われる場合がある。その前に<It was raining hard again.>とあり、引用句の後に<one of them>とあるのだから、この<heavy>は「重い」と訳すべきではない。蛇足ながら、両氏とも<walked into>を「出て行った」、「外に出る」と訳しているが、マーロウは土砂降り「の中に入る」のであって、建物から「出る」のではない。一人称視点であることを忘れているのではないか。