HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第五章(1)

《西54番街1644番地は、前にひからびた褐色の芝生のある、ひからびた褐色の家だった。こわもての椰子の木の周りの地面は広い裸地になっていた。ポーチには木製の揺り椅子がぽつんと置かれ、昼下がりの微風を受けて、刈らずに捨て置かれた去年のポインセチアの新芽がひびの入ったスタッコ壁をぱたぱた叩いていた。汚れが落ちきっていない黄ばんだ衣類がごわごわになって、横手の庭に張った錆びた針金の上で列を作って震えていた。
 私は四分の一ブロックほど車をそのまま走らせ、通りの反対側に駐車し、歩いて戻った。
 呼鈴が鳴らないので、網戸の縁を叩くと、ゆっくりと足を引きずる音がしてドアが開いた。暗がりの中から、いかにもだらしない女が現れて、鼻をかみながらドアを開けた。顔は青白くむくんでいた。ぼさぼさの髪は茶色でも金髪でもない曖昧な色で、赤毛というには活気がなく、白髪というには清潔さが足りなかった。ずんぐりした体に不格好な毛足の短いフランネルのバスローブをまとっているが、色も形も歳月を経ており、ただ何かを羽織っているというだけだった。すり減った茶色の革の男物のスリッパから目に見えて大きな足の指がのぞいていた。
「ミセス・フロリアンですね? ミセス・ジェシー・フロリアン?」私は言った。
「ああ」病人が寝床から出てきたような声が喉から引きずり出された。
「ミセス・フロリアン。ご主人は以前セントラル・アヴェニューで店を経営されていたマイク・フロリアンですね?」
 女は親指でほつれ毛を大きな耳の後ろにかきあげた。眼が驚きできらりと光った。彼女は喉に何か詰まったような聞きづらい声で言った。
「な、何なの? 頼むから驚かさないで。マイクなら五年も前に死んでる。あんた誰って言ったっけ?」
 網戸は閉じられたままで掛け金がかかっていた。
「捜査員です」私は言った。「ちょっとお伺いしたいことがありまして」
 彼女はしばらくの間おもしろくもなさそうに私を見つめた。それからやっとのことで掛け金をあけ、顔をそむけた。
「さっさと入っとくれ、まだ掃除もしていなというのに」彼女は哀れっぽい鼻声で言った。「おまわり、ねえ?」
 私は中に入り、網戸の掛け金をかけ直した。大きくて高そうなキャビネット・ラジオが戸口の左手の部屋の隅で物憂げに鳴っていた。そこにある物の中でまともな家具はそれだけだった。買ったばかりのようだった。あとは薄汚れたがらくたでいっぱいだった。ポーチにあったのと揃いの木の揺り椅子が一つ、方形のアーチをくぐった向こうが、染みのついたテーブルの置かれたダイニング・ルーム。キッチンに通じるスウィング・ドアは一面指の痕だらけだった。シェイドの擦り切れた一対のスタンドは、かつてはけばけばしかったろうが、今は歳とった街娼の陽気さにまで落ちぶれていた。
 女は揺り椅子に座り、スリッパをぱたぱたさせながら私を見ていた。私はラジオの方を見てダヴェンポートの端に腰を下ろした。女は私の見ている方を見た。中国人の飲む茶のように薄っぺらな偽りの陽気さが彼女の顔と声の中で動いた。「それだけが私の連れさ」彼女は言った。それからくすくす笑った。「マイクがまた何かしでかしたっていうんじゃないよね? おまわりの訪問には、とんとご無沙汰していてね」
 彼女のくすくす笑いにはアルコールによるしどけなさが含まれていた。私は背中に何か硬いものを感じ、引っ張り出すと空のジンの一クオート瓶だった。女はまたくすくす笑った。
「冗談はさておき」彼女は言った。「今いるところに安っぽい金髪がわんさといるといいのに。あの人そういうのに目がなかったから」
「私としてはどちらかといえば赤毛を考えていたんだが」私は言った。
赤毛の子も何人かはほしいだろうけど」女の眼は今ではそうぼんやりとはしていないように見えた。「思い当たらないねえ。何か特別な赤毛?」
「その通り。名前はヴェルマ。上の名前は名のらなかったので知らない。どうせ本名じゃないだろう。親戚の依頼でその女を捜してるところだ。セントラル・アヴェニューにあったあんたの店は、名前はそのままだが、今では黒人専用になっている。もちろん誰も女のことを知らなかった。それであんたのことを思いついたんだ」
「その親戚はあの娘を捜すのにえらく手間取ったもんだね」女は思うところがあるように言った。
「少しばかり金の問題がからんでるんだ。大金じゃない。親戚はそれに手をつけるために女を見つける必要があるんだろう。金が記憶をはっきりさせるのさ」
「酒も同じさ」女は言った。「何だか今日は暑いね? けど、あんた警察だと言ったしね」狡猾な眼に、落ち着いた抜かりのない顔。男物のスリッパを履いた足は動かなかった。
 私は空っぽの酒瓶を持ち上げて振った。それから空き瓶を脇に投げ捨て、尻ポケットの保証付きバーボンの一パイント瓶に手を伸ばした。黒人の受付係と私が口をつけたばかりのやつだ。私はそれを膝の上に置いた。女の両眼が疑り深そうにじっと見つめた。やがて疑惑が仔猫のように顔中を這い上がっていったが、仔猫のように楽しげではなかった。
「あんたはおまわりじゃないね」彼女はおとなしく言った。「警官はそんな酒、買いはしない。何の冗談だい、ミスタ?」
 彼女はまた鼻をかんだ。今まで見たことがないほど汚れたハンカチの一つで。その両眼は瓶の上に据えられていた。疑惑が渇きと闘っていた。渇きが勝利した。勝負は端から決まっている。》

 第五章は、未亡人宅を訪れたマーロウと夫人とのやり取りが描かれる。ジェシーという女性の描写が強烈だ。訳者の訳し方によってその個性に若干温度差が垣間見える。

「こわもての椰子の木」は<a tough-looking palm tree>。<tough-looking>は読んで字のごとく「こわもて」だ。ふつうは<tough-looking gangster>のように使われる。清水氏は「みすぼらしい棕櫚の木」と訳している。どうして<tough-looking>を「みすぼらしい」と訳したのかは分からない。村上氏は「強情そうな椰子の木」だ。「強情そうな」というのは椰子のどの部分を指しているのかよく分からない。はじめは「よく繁った」と訳すことも考えたが、わざと擬人化していると考え「こわもて」とした。

「汚れが落ちきっていない黄ばんだ衣類がごわごわになって」は<stiff yellowish half-washed clothes>。清水氏は「まだ乾ききっていない黄いろい服」と<half-washed>を「生乾き」と解釈しているが「生乾き」の状態なら、<stiff>(曲がらなくて硬い)という表現にはならないだろう。<half>には「不十分な、不完全な」という意味がある。村上氏は「洗われたのか洗われていないのかよくわからないくらい黄ばんだごわごわとした衣服」と訳しているが、少しくどい気がする。

「四分の一ブロック」は<a quarter block>。清水氏は「私はその家の前を通りすぎ」とここをカットしている。また「顔は青白くむくんでいた」の原文は<Her face was gray and puffy>だが、ここを清水氏は「元気のない顔色だった」と訳している。<gray>は顔の色として使われると「青白い、土気色、蒼白」の意味になるから「元気のない」と訳したのだろうが<puffy>が抜け落ちている。村上訳だと「顔は灰色にむくんでいた」だ。「灰色」の顔というのも想像しにくい。

髪の色について述べているところで「赤毛というには活気がなく、白髪というには清潔さが足りなかった」としたのは原文では<that hasn't enough life in it to be ginger, and isn't clean enough to be gray.>。村上氏は「ショウガ色というには活気に欠け、白髪というには清潔さに欠けている」と訳しているが、<ginger>は髪の色として使うときは「赤毛」のことを指す。また、<ginger>には「元気、活力」の意味があるので、こう言ったのだろう。清水氏はこの部分を完全にカットしていて言及がない。

「女は親指でほつれ毛を大きな耳の後ろにかきあげた」は<She thumbed a wick of hair past her large ear.>。清水氏は「彼女は大きな耳のうしろの髪をかきあげた」と訳している。<wick>は「(ろうそくの)芯」のことなので「ほつれ毛」をかきあげたのだろう。清水訳だと髪の量が多すぎる。村上氏は「女は髪を一筋つまんで、大きな耳の後ろにやった」と訳している。

「捜査員です」は<I’m a detective.>。便利な呼称を使っている。前に<police>がつけば「刑事」、<private>がつけば「私立探偵」となる。相手が勝手に警察の者だと思うことを意図しているのだろう。清水氏は「探偵ですよ」と訳しているが、」村上氏は「私は捜査をしているものです」と、ぼかしている。案の定、女は<cops>(警官)と誤解している。

「あとは薄汚れたがらくたでいっぱいだった」は<Everything was junk-dirty overstuffed pieces>。清水氏は「そのほかのものは、ことごとくガラクタ同様だった」と訳している。村上氏は「あとはあれもこれも、ほとんどがらくたみたいなものだ。やたら詰め物の多い汚らしい家具」と<dirty overstuffed pieces>を他の家具の一つに数えあげている。たしかに<overstuffed>は布や皮などで「張りぐるみ」にされた椅子を指すことがある。しかし<pieces>と複数形になっているところからみて、部屋にあるその他の家具を指すと考えるのが普通だ。村上氏の頭には後に出てくるダヴェンポートのことがあったのではないか。

「女は揺り椅子に座り」は<The woman sat down in the rocker>。清水氏はここに限らず<rocker>をすべて「安楽椅子」と訳しているが、これは変だ。木製の安楽椅子というのは考え難い。特にポーチに置いているところから見て、これはロッキング・チェアのことだろう。

「今いるところに安っぽい金髪がわんさといるといいのに。あの人そういうのに目がなかったから」は<But I hope to Christ they's enough cheap blondes where he is. He never got enough of them here.>。清水氏は「ずいぶん、女がいたから、何かあったかもしれないけど……」とぼかしている。村上氏は「でもさ、あたしとしてはあいつの送り込まれたところに、安っぽい金髪女がうようよいることを祈っているよ。なにしろこの世にいるあいだは、そういうのにからきし目のない男だったからねえ」と念入りに訳している。

「あんたはおまわりじゃないね」は<You ain't no copper>。清水氏は「あんたは警察の人間じゃないわね」と訳しているが、それまでにも清水訳では女はマーロウのことを何度も「探偵」と呼んでいる。ここで、この台詞を言わせるためには、それまでのところを警察の人間と思っていたように訳す必要がある。はじめに「探偵ですよ」とマーロウに名のらせたのがまちがいだったのだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(2)

《私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した。彼はまじめな顔で私を見つめ、禿げ頭を振った。
「サムの店も愉快で静かなところだったんだが」彼は言った。「ここ一月ほどは誰もナイフ沙汰など起こさなかったし」
「八年か少なくとも六年前、<フロリアンズ>が白人専用の店だった頃、何という名前だったんだ?」
「ネオンサインを変えるのは高い金がかかるんだよ、ブラザー」
 私はうなずいた。「同じ名前かも知れないと思ってた。もし名前が変わってたら、マロイが何か言っただろうし。誰がやってたんだ?」
「あんたにはちょっと驚かされるね、ブラザー。その気の毒な罪びとの名前はフロリアンさ。マイク・フロリアン──」
「それで、そのマイク・フロリアンに何が起きたんだ?」
 黒人はおだやかな褐色の手を広げた。よく通る声は悲しげだった。「死んだよ、ブラザー。主に召されたんだ。一九三四年のことだ。もしかしたら三五年かもしれない。はっきりしたことは分からない。荒んだ人生だったよ、ブラザー。聞いたところじゃ、大酒飲みで腎臓をやられたらしい。神を畏れぬ男は角を落とされた雄牛のようにばったり倒れるんだ、ブラザー。けれども、遥か高みでは神の慈悲が待っている」彼の声は事務的な高さに落とされた。「なぜかは知らないが」
「誰か家族はいないのか? もう一杯どうだ」
 彼はコルク栓を閉めた瓶をカウンター越しにきっぱりと押してよこした。「二杯で充分だよ、ブラザー。陽が沈む前はね。礼を言うよ。あんたの取り入り方には人の心の鎧を脱がせるところがある…かみさんがいたな。名前はジェシー
「その女はどうなったんだ?」
「知識の追求というのはな、ブラザー、多くの質問をすることだ。私は聞いていない。電話帳を試すんだな」
 ロビーの暗がりの隅に電話ブースがあった。私はそこに行き、灯りがつくところまでドアを閉めた。そして、使い古されてぼろぼろになった鎖つきの電話帳を調べた。フロリアンという名前は見つからなかった。私は机まで戻った。
「駄目だったよ」
 黒人はやれやれというように身をかがめ、市民名簿を持ち上げると机の上に置き、私のほうへ押した。そして両眼を閉じた。飽き飽きしたのだ。名簿にはジェシー・フロリアン寡婦、が載っていた。住所は西54番街1644。私は今までの人生で脳の代わりに何を使ってきたのだろう、といぶかった。
 私は紙切れに住所を書き写すと名簿を机の向こうに押しやった。黒人はあったところにそれを戻し、私に握手を求め、入ってきた時とまったく同じように机の上で両手を組み合わせた。その眼はゆっくり塞がれ、彼は眠りに落ちたように見えた。
 彼にとってこの一件は終わったのだ。半分ほど行ったところで私はちらりと振り返った。彼の両眼は閉じられ、呼吸はおだやかで規則正しかった。吐いたり吸ったりするたびに、最後の小さな息が唇から漏れた。禿げ頭が光っていた。
 私はホテル・サンスーシを出て、車に乗るため通りを横切った。簡単すぎるように思えた。あまりに簡単すぎるように思った。》

「私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した」は<I told him what had happened at Florian's and why.>。清水氏は「私はフロリアンのできごとを話して聞かせた」とあっさり訳し、<and why>を省略している。村上氏は「私は彼にフロリアンの店で起こったことを話し、その理由についても話した」と訳している。しかし、この時点ではまだ、店の主人の名が、フロリアンだということは知らされていないのに、何故ここだけ「フロリアンの店」としたのだろう。

「その気の毒な罪びとの名前はフロリアンさ」は< The name of that pore sinner was Florian.>。清水氏は「フロリアンという男さ」と<pore sinner>をカットしている。<pore>は<poor>。村上氏は「その哀れな罪人の名前はフロリアンっていうんだ」と訳している。

「聞いたところじゃ、大酒飲みで腎臓をやられたらしい。神を畏れぬ男は角を落とされた雄牛のようにばったり倒れるんだ」は<a case of pickled kidneys, I heard say. The ungodly man drops like a polled steer>。清水氏は「何でも肝臓がやられたということだったよ。神様を怖れない人間は、角を切られた鹿のように、ばったり往(い)っちまうもんだからね」と訳している。「腎臓」が「肝臓」に、「雄牛」が「鹿」に替わっている。その方がよく分かると考えたのだろうか。

村上氏は「腎臓がピックルス漬けみたいになっていたということだった。その神を敬わぬ男は、角を切られた雄牛のごとくがっくりと膝をついたんだよ」と訳している。腎臓がピクルスのようになるというのは、今一つ状態が想像できない。<pickled>には「塩(酢)漬け」のほかにもう一つ俗語で「酔っぱらって」という意味がある。<a case of>と前にあるので、「腎臓病で(死んだ)」という意味ではないのか。

「あんたの取り入り方には人の心の鎧を脱がせるところがある…」は<Your method of approach is soothin' to a man's dignity…>。清水氏は「あんたのように話がわかる人間は少ないね」と意訳している。<soothin'>は<soothing>。「なだめる、慰める、やわらげる」といった意味だ。村上氏は「人を尊重しつつ心を開かせる方法を、あんたは心得ておる」と訳している。

「知識の追求というのはな、ブラザー、多くの質問をすることだ」は<The pursuit of knowledge, brother, is the askin' of many questions.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「知識を追求するということはだな、ブラザー、たくさんの質問をするってことだ」と訳している。男の言いたいことは何なのか、今一つよく分からない。あまりにも多く質問し過ぎだ、と言いたいのだろうか?

「灯りがつくところまでドアを閉めた」は<shut the door far enough to put the light on.>。清水氏はここもカット。村上氏は「照明がつくところまでドアを閉めた」と訳している、暗い場所であることは分かっている。電話ブースはドアを閉めると照明がつく仕組みになっているのかもしれない。

「黒人はやれやれというように身をかがめ」は<The Negro bent regretfully>。清水氏は「黒人は無言のまま」と訳している。<regretfully>は「残念そうに」の意味。「やれやれ」という訳語は村上氏が流行らせたということが翻訳について書かれた本に載っていた。もちろん、ここも村上氏は「その黒人はやれやれというように身をかがめ」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(1)


《<フロリアンズ>は当然、閉まっていた。一眼で私服刑事と分かる男が、店の前に駐めた車の中で、片眼で新聞を読んでいた。私には警察がどうしてそんな手間をかけるのが分からなかった。ムース・マロイのことを知る者はこの辺には誰もいない。用心棒もバーテンダーもまだ見つかっていない。この界隈に何か話せるほど彼らを知る者はいないのだ。私は前をゆっくり通り過ぎ、角を曲がったところに車を停め、<フロリアンズ>のあるブロックの筋向い、一番近くの交差点の向こうに建つ、黒人専用ホテルを眺めた。名前は<ホテル・サンスーシ>。私は車を降りて引き返し、交差点を渡って中に入った。硬い空っぽの椅子が二列、細長い褐色の繊維カーペットをはさんで向い合っていた。暗がりの奥に机があり、その向こうで禿げ頭の男が眼を閉じ、柔らかな褐色の両手を机の上で安らかに組み合わせていた。居眠りをしていたか、しているように見えた。首のアスコット・タイは一八八〇年に結んだきりのように見えた。スティックピンについている碧玉は林檎より大きくはなかった。たるんだ大きな顎はアスコット・タイに優しく包まれ、組み合わせた両手は安らかで清潔だった。紫色のマニキュアを施された爪に灰色の半月が浮き出ていた。
 肘の脇にエンボス加工された金属札があり、「当ホテルはインターナショナル・コンソリディティッド・エージェンシー社により保護されています」と記されている。
 安らかな褐色の男が思案気に片眼を開けたとき私はその表示を指さした。
「HPDの調査員だ。何か問題はあるかね?」
 HPDは、大手エージェンシーの中でホテルの保護を担当する部門のことで、不渡り小切手を切ったり、未払いの請求書と煉瓦を詰めた中古のスーツケースを残して裏階段から逃げ出したりする客の面倒を見るところだ。
「問題かね、ブラザー?」受付係は高く朗々と響く声で言った。「それならたった今売り切れたところだ」そして、少しばかり声を落としてつけ足した。「名前は何て言ったかな?」
「マーロウ、フィリップ・マーロウだ」
「いい名前だ、ブラザー。きれいで、愉しげだ。今日はご機嫌なようだね」再び声を低くして「しかし、あんたはHPDの人じゃない。そんなもの、もう何年も見たことがない」組んでいた腕をほどいて物憂げに表示を指し「中古品だよ、ブラザー。効果を狙ってのことさ」
「なるほど」私は言った。そして、カウンターに身をもたせて、がらんとした疵だらけの天板の上で五十セント銀貨を回し始めた。
「今朝、<フロリアンズ>で何が起きたか聞いただろう?」
「覚えちゃいないね、ブラザー」今や彼の両眼はしっかり開かれ、くるくる回る銀貨から生じる、とらえどころのない光を見つめていた。
「ボスが殺されたんだ」私は言った。「モンゴメリという男だ。誰かがそいつの頸をへし折った」
「彼の魂が主の御許に召されんことを、ブラザー」また声を低くした。「警察か?」
「私立探偵だ。信用を守るのが信条だ。そして、信用が置ける人物かどうかは一目見たら分かる」
 彼は私をじっくり見、それから眼を閉じて考えこんだ。用心深げに再び眼を開けると、回旋する銀貨を見つめた。彼はそれから眼を離すことができなかった。
「誰がやった?」彼は静かに訊いた。「誰がサムを殺したんだ?」
「刑務所帰りのタフガイが腹を立てたんだ。店が白人専用でなくなったってな。昔はそうだったらしい。あんた覚えてないか?」
彼は何も言わなかった。銀貨が微かな音を立てながら倒れ、じっと横たわった。
「決めてくれ」私は言った。「聖書を一章読んで聞かせるか、それとも酒をおごろうか? どっちにするね」
「ブラザー、聖書は家の者といるときに読むものだ」両眼は明るく輝き、蟇蛙のようにじっと動かなかった。
「昼食は済ませたんだろう」私は言った。
「昼食は」彼は言った。「私のような体形や気質の者は抜くことにしている」声をひそめ「机のこっち側に来ないか」
 私はそちら側に行き、平たいパイント瓶入りの保税品のバーボンをポケットから出して棚の上に置いた。それから机のこちら側に戻った。彼は吟味するため前にかがんだ。気に入ったようだ。
「ブラザー、これでは何も買えないよ」彼は言った。「でも、まあ、あんたと一緒に軽く一杯やるのは悪くない」
 彼は瓶の蓋を開け、小さなグラスを二つ机の上に置き、グラスの縁のぎりぎりまでそっと酒を注いだ。それから一つを持ち上げ、注意深く香りを嗅ぎ、小指を立てて喉に流し込んだ。
 彼は味わい、考慮し、うなずき、そして言った。
「こいつは本物の酒だよ、ブラザー。さて、何の役に立てばいいのかな? この辺りのことなら、舗道のひび割れひとつに至るまで、私は下の名前で知っている。任せてくれ、これは気のおけない連中と飲む酒だ」彼は再びグラスを満たした。》 

「私には警察がどうしてそんな手間をかけるのが分からなかった」は<I didn't know why they bothered.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「どうしてわざわざ見張りなんか立てるのか、理由がわからなかった」と、読みほどいている。

「この界隈に何か話せるほど彼らを知る者はいないのだ」は<Nobody on the block knew anything about them, for talking purposes.>。清水氏は「町内の人間の誰に聞いても知らなかった」と訳している。村上氏は「このあたりの誰も二人のことは知らない。少なくとも知っていると申し出るような人間はいない」と訳している。

ムース・マロイはよそ者だ。用心棒とバーテンダーは姿をくらましてしまった。この界隈の誰も彼らの居場所は知らない。それなのに警察は何のために見張りを立てているのか、というのがマーロウの考えだ。マーロウは清水氏が言うようには誰にも聞いていない。それに、村上氏は<them>を「二人」と決めつけているが、警察が一番知りたいのはムース・マロイについての情報だろう。人数で書くなら「三人」ではないのか?

「名前は<ホテル・サンスーシ>」は<It was called the Hotel Sans Souci.>。清水氏はここを「ホテル・サンズ・スーシという名前だった」と訳している。これは致命的な誤訳だ。<Sans Souci>は「サンスーシ」。もともとはフランス語で「憂いなし」という意味。ドイツにあるロココ式の宮殿のことで、日本や中国では「無憂宮」とも呼んでいる。

「細長い褐色の繊維カーペット」は<a strip of tan fiber carpet>。清水氏は「焦茶色のファイバーの絨毯」、村上氏は「タン色のちっぽけなカーペットをひとつ」と訳している。「タン」はどちらかと言えば淡い茶色で、「焦げ茶」というのは無理がある。村上氏の「ちっぽけな」は<strip>の意訳だろうが、<fiber>はどこへ行ってしまったのだろうか?

「たるんだ大きな顎はアスコット・タイに優しく包まれ」は<His large loose chin was folded down gently on the tie>。清水氏は「しまりのない大きな顎が、なかばネクタイに隠れ」と訳している。ネクタイに隠れる顎というのがわからなかったが、村上訳の「大きなたるんだ顎は、そのアスコット・タイの上に穏やかに垂れかかっていた」を読んで訳が分かった。しかし、そうなると分からないのは、大きな顎はタイの中にあるのかタイの外に出ているのか、どっちだろう。原文を読めば<be動詞+過去分詞>になっているので受動態、というわけで旧訳が正しい。

「それならたった今売り切れたところだ」は<is something we is fresh out of>。清水氏はここをカットして「別に変ったことはないよ」と訳している。この受付係の当意即妙の受け答えをチャンドラーが楽しそうに書いているので、カットするのは惜しい気がする。<fresh out of>は「品物がなくなったばかり」という意味の米語表現。村上氏は「そいつは今ちょうど切らしていてね」と訳している。

「がらんとした疵だらけの天板の上で」は<on the bare, scarred wood of the counter.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「そのむき出しの疵だらけの表面で」と訳している。<bare>にはたしかに「むき出し」の意味があるが、カウンターといえばふつう「むき出し」になっているものだ。ここは、何も物が置かれていない、という意味にとった方がいいのではないか。

「くるくる回る銀貨から生じる、とらえどころのない光を見つめていた」は<he was watching the blur of light made by the spinning coin.>。清水氏は「カウンターの上で廻っている銀貨をじっと眺めていた」と訳しているが、厳密にいえばちがう。村上氏は「回転する硬貨の作り出すちらちらする光をじっと見つめていた」と訳している。<blur>は「おぼろげに見えるもの、なんともとらえどころのないもの」という意味で、「ちらちらする」というのとはちがう。回転する硬貨という、とらえどころのない形態を表していると見るべきだろう。

「そして、信用が置ける人物かどうかは一目見たら分かる」は<And I know a man who can keep things confidential when I see one.>。清水氏はここをカットして「私立探偵だよ。迷惑はかけない」と短く訳している。村上氏は「そして口の堅そうな人間は、一目見ればわかる」と訳している。

「蟇蛙のようにじっと動かなかった」は<toadlike, steady.>。清水氏は「亀の眼のようにじっと光っていた」と訳している。<toad>は「蟇蛙、蝦蟇」のほかに「いやなやつ」の意味があるが、「亀」はない。<turtle>か<tortoise>と読み間違えたのかも知れない。村上氏は「ひきがえる」と訳している。

「この辺りのことなら、舗道のひび割れひとつに至るまで、私は下の名前で知っている。任せてくれ、これは気の合う仲間と飲む酒だ」は<There ain't a crack in the sidewalk 'round here I don't know by its first name. Yessuh, this liquor has been keepin' the right company.>。清水氏は「このへんのことなら、舗道の割れ目一つまで、知らないことはないんだから……。嘘じゃない、この酒は本物だ」と後半を略している。

村上氏は「このあたりのことなら、歩道の割れ目ひとつに至るまで、私はファースト・ネームで知っている。イエッサー、こいつは正しきものの手を渡ってきた酒だ」と訳す。<Yessuh>は<yes sir>からきているから「イエッサー」もありだが、これは訳ではない。<the right company>を「正しきもの」と訳すのはどうか?「気の合う仲間」程度の意味だと思う。

それより何より、この台詞の後にある「彼は再びグラスを満たした」<He refilled his glass.>という一文を、村上氏は訳し忘れている。清水氏の旧訳には「彼はグラスに改めて酒を注いだ」という文が、ちゃんとあるのに。この一杯分は後で利いてくることになる。私が参照しているのは初版だが、今は文庫も出ているはず。そちらでは訂正されているのだろうか?

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第三章

 

《事件を担当したのはナルティという、尖った顎をした気難しい男で、私と話している間ずっと長い黄色い手を膝頭のところで組んでいた。七十七丁目警察署に所属する警部補で、我々が話をしたのは向い合った壁に面して小さな机が二つ置かれた殺風景な部屋だった。もし、二人同時に机に向かっていなければ、その間を通れる程度の広さだった。床は汚い茶色のリノリウムで覆われ、葉巻の吸殻の匂いが部屋に染みついていた。ナルティのシャツはすり切れ、上着の袖はカフスのところで内側に折り返してあった。貧相な身なりから正直者であることは分かったが、ムース・マロイを相手にできるような男には見えなかった。半分になった葉巻に火をつけ、床にマッチを捨てた。床では大勢の仲間が新入りを待ち受けていた。苦々し気な声だった。
「黒人。またしても黒人殺しだ。この警察に十八年いるから、扱いは分かってる。写真も出なけりゃ、紙面も割かない。求人広告欄を埋める四行にさえならない」
 私は何も言わなかった。彼は私の名刺をとり上げてもう一度読み、下に落とした。
フィリップ・マーロウ、私立探偵。その手の人っていうわけか? 驚いたね。あんた見るからにタフそうじゃないか。そのあいだ何してたんだ?」
「そのあいだ、とは?」
「マロイが黒いのの首をひねっているあいださ」
「ああ、それは別の部屋で起きたんだ」私は言った。「これから誰かの首を折るつもりだ、なんてこと、マロイは言い置いちゃくれなかったんでね」
「からかってるのか」ナルティが苦々しげに言った。「いいさ、からかってろよ。みんながからかうんだ。もう一人増えたがどうした? 気の毒な老いぼれナルティ。ちょっと行って気のきいたことを言ってやろうぜ。笑い者にするなら、いつだってナルティが一番さ」
「私は誰のこともからかってなどいない」私は言った。「まさにその通りのことが別室で起きたんだ」
「ああ、分かってる」ナルティは嫌な臭いのする葉巻の煙が噴き出る向こうから言った。「おれもあそこに行って、この目で見ているじゃないか。拳銃は持ってなかったのか?」
「その手の仕事じゃなかった」
「どの手の仕事だ?」
「女房から逃げ出した床屋を探してた。説得して家に連れ戻せると女房は思ってたんだ」
「黒人か?」
「いや、ギリシア人だ」
「そうか」ナルティはそう言って、屑籠に唾を吐いた。
「それで、大男にはどうやって会ったんだ?」
「話したはずだ。たまたまやつが<フロリアンズ>のドアから黒人を放り出すところに居合わせたんだ。何が起きたのか見ようと首を突っ込んだのが馬鹿だった。そのまま上まで連れていかれた」
「銃を突きつけられてか?」
「いや、その時は銃を持っていなかった。少なくとも見せはしなかった。銃はモンゴメリから取り上げたんだろう。あいつは私をつまみ上げただけだ。私はときどき可愛くなるんだ」
「そうは思えない」ナルティは言った。「あんたは簡単につまみ上げられそうには見えないがね」
「いいじゃないか」私は言った。「何故こだわるんだ? 私はあいつに会っているが、君は見ていない。あいつにかかったら君や私など時計の飾りのようなものだ。あいつが出て行くまで人を殺したことは知らなかった。銃声は聞いた。威嚇しようと誰かがマロイを撃ち、誰が撃ったにせよ、マロイがそれを取り上げたと思ったんだ」
「どうして、そんなふうに思ったんだ?」ナルティはもの柔らかともいえる態度で訊ねた。「銃を使って銀行を襲うような男じゃないか?」
「考えてもみろよ。あいつはどんななりをしていた。あんな格好で人殺しに行くやつはいない。あそこへは銀行強盗をやる前につきあっていたヴェルマという女を探しに行ったんだ。<フロリアンズ>か、別の名かは知らないが、いずれにせよ白人の酒場だった頃、女はそこで働いていた。あいつはそこでパクられた。大丈夫、あいつは捕まるさ」
「そうだな」ナルティは言った。「あのサイズであの服装だ。手間はかからない」
「他にもスーツを持っているかもしれない」私は言った。「車に、隠れ家、そして金と仲間も。しかし、いずれ捕まるだろう」
 ナルティは屑籠にまた唾を吐いた。「捕まるだろうさ」彼は言った。「おれが総入れ歯になる頃に。この件に何人張りつくと思う? 一人だよ。何故だと思う? 記事にならないからだ。以前、五人の黒人が東八十四丁目の外れで、派手なナイフの立ち回りをしたことがある。駆けつけたときには一人はすでに冷たくなっていた。家具に血が飛び散っていた。壁にも血が飛び散っていた。天井にまで血が飛び散っていた。おれが家の外に出たら『クロニクル』の記者がポーチを下りて車に乗るところだった。そいつはおれたちにしかめっ面をして『黒人じゃないか』と言い捨てて車に乗って行ってしまった。家の中に入りもしないで」
「仮釈放中かもしれない。それに関して何らかの協力を得られるだろう。だが、うまく捕まえないと、君とパトカーに乗る相棒は二人連れであの世行きだ。そうなれば、記事にはなるだろうが」
「どっちにせよ、おれが事件を担当することは二度とないね」ナルティはせせら笑った。
 机の上の電話が鳴った。話を聞いたナルティは悲し気に微笑んで受話器を置き、メモ用紙に何やら書きとめた。眼にはかすかな輝きがあった。遥か遠くの埃まみれの廊下の灯りだった。
「奴を見つけたよ。今のは記録課だ。指紋もあった。顔写真も何もかもだ。とにかく、ちょっとした手がかりにはなる」ナルティはメモを読んだ。「まったく、なんて男だ。身長六フィート五インチ半、体重はネクタイを別にしても二百六十四ポンド、とんでもないやつだ。儘よ、無線で手配中だ。たぶん盗難車リストの後になるだろう。待つしかない」ナルティは痰壺に葉巻を捨てた。
「女を捜してみろよ」私は言った。「ヴェルマだ。マロイはその女を見つけたがっている。すべてはそれが始まりだ。ヴェルマをあたるんだ」
「あんたがやればいい」ナルティは言った。「おれは二十年この方、淫売宿に足を運んだことがない」
 私は立ち上がった。「分かった」私はそう言って、ドアの方に歩きかけた。
「おい、ちょっと待て」ナルティは言った。「ただの冗談だよ。そんなに忙しいわけじゃないんだろう?」
 私は指の間で煙草を回しながら、相手の方を見て、ドアのところで待った。
「おれが言いたいのは、あんたはそのご婦人をちらっとでも探してみる暇はないのか、ということだ。いい考えだと思うがな。何か引っかかるかもしれん。警察の下で働けるぜ」
「それが私にとって何のためになるんだ?」
 ナルティは悲し気に黄色い両手を広げた。微笑みは壊れた鼠捕りのように狡猾だった。「前に警察と揉めたことがあるだろう。否定しても無駄だ。耳に入ってるからな。この次何かあったとき警察に仲間がいても害にはなるまい」
「どんないいことが待ってるんだろう?」
「いいか」ナルティは力を込めた。「おれは至って無口な男だ。だがな、どんな男でも組織の中にいればあんたのためにしてやれることはいくらでもある」
「無料でかい─それとも金を払ってくれるのか?」
「金は出ない」ナルティはそう言って、黄色い鼻に皺をよせた。「おれは少し信用を取り戻す必要がある。このあいだの異動以来、厳しい状況に置かれている。忘れはしないよ。この借りはきっと返す」
 私は腕時計を見た。「いいだろう。私が何か思いついたら、それは君の手柄だ。顔写真が届いたら身元確認は引き受けよう。ランチの後で」我々は握手をした。私は泥の色をした廊下を通って玄関に続く階段を下り、車に向かった。
 ムース・マロイが軍用コルトを手に<フロリアンズ>を後にしてから二時間たっていた。私はドラッグストアで昼食を食べ、バーボンの一パイント瓶を買った。それからセントラル・アヴェニューに向かって車を東に走らせ、その通りをまた北に向かった。私の手にしていた予感は舗道の上で踊る熱波のようにぼんやりとしたものだった。
 好奇心失くして、この稼業は成り立たない。率直に言えば、このひと月というもの仕事にありついていない。たとえ金にならない仕事でも、これで風向きが変わるかもしれない。》

「七十七丁目警察署に所属する警部補」を清水氏は「七十七丁目の警察署の警部」、村上氏は「刑事部長として七十七番通りの分署に所属しており」と訳している。原文は<He was a detective-lieutenant attached to the 77th Street Division>。ロサンゼルス市警察の組織及び階級を調べると、ナルティが所属するのは地域・交通局のサウス管区、七十七丁目警察署である。<lieutenant>は階級としては警部補。ストリート・ギャングが多く、管区長直轄のギャング・殺人事件特別捜査課が設置されているというから、物騒なところなのだろう。

「もし、二人同時に机に向かっていなければ、その間を通れる程度の広さだった」は<room to move between them, if two people didn't try it at once.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「もし二人が同時にその机に向かっていなければ、そのあいだを人が通れるくらいの余地があった」と訳している。

「扱いは分かってる」は<That's what I rate>。清水氏は「こんな事件ばかりだよ」と意訳している。<rate>はレートのことで「評価する、見なす」の意味。村上氏は「事件がどんな扱いを受けるかはわかっている」と噛みくだいて訳してくれている。先にも触れたが、物騒な地区のことで、黒人が殺されたくらいでは記事にする値打ちがない、ということだ。

「気の毒な老いぼれナルティ。ちょっと行って気のきいたことを言ってやろうぜ。笑い者にするなら、いつだってナルティが一番さ」は<Poor old Nulty. Let's go on up and throw a couple of nifties at him. Always good for a laugh, Nulty is.>。このナルティの自嘲を清水氏は「……」で省略している。村上氏は「気の毒なナルティー。ちょっと行って、ナルティーのやつになんか気の利いたことを言ってやろうぜ。ナルティーを笑いものにするのって、いつだって楽しいよなあ」と訳している。ナルティが署内でどういう境遇にあるかが分かるところだ。

次のマーロウの台詞「説得して家に連れ戻せると女房は思ってたんだ」は<She thought he could be persuaded to come home.>。この部分も清水氏はカットしている。<persuaded>「説得」という言葉を使って、銃の所持は不要とマーロウが考えたことを説明している部分なのだが。村上氏は「説得すれば連れ戻せると、女房は考えたんだ」と訳している。

「ナルティはもの柔らかともいえる態度で訊ねた」は<Nulty asked almost suavely.>。清水氏はここを「と、ナルティは訊きかえした」と訳している。<suavely>は「もの柔らかな態度で」の意味。ナルティのマーロウに対する態度が変化していることを示す重要な部分だ。何故これを訳さないのかが分からない。村上氏は「とナルティーはどちらかというとにこやかに言った」と訳している。

「あいつはそこでパクられた」は<He was pinched there.>。<pinch>は「逮捕する」の意味だが、受身で使用されることが多い。清水氏はここを「しかし、銀行強盗であげ(傍点二字)られた男だ」と訳している。村上氏は「そのときにやつは逮捕された」と訳している。その前の文<She worked there at Florian's or whatever place was there when it was still a white joint.>から見ても、この<there>は<フロリアンズ>という店を指している。端的に訳せばいいのではないか。

「おれが総入れ歯になる頃に」は<about the time I get my third set of teeth.>。清水氏はここを「俺の髪がまっ白になるころにはね」と訳している。村上氏は「総入れ歯を三回作り直すまでにはな」と訳しているが、これは誤り。<third set of teeth>は直訳すれば「歯の第三セット」。つまり、乳歯が一回目のセット、大人の歯に替わるのが二回目、それが全部抜け、総入れ歯にする三回目のセットを意味している。

「記事にならないからだ」は<No space>。清水氏は「それがしきたりなんだよ」と訳している。村上氏は「新聞記事にならないからだ」だ。<no space>が最初に出てくるのはナルティの第一声。清水氏はそのときは「新聞にも出ない」と訳している。村上氏は「スペースももらえず」と訳している。

「以前、五人の黒人が東八十四丁目の外れで、派手なナイフの立ち回りをしたことがある」は<One time there was five smokes carved Harlem sunsets on each other down on East Eighty-four.>。清水氏はここを「いつか、東八十四丁目の黒人街で、ピストル騒ぎがおこったことがあった」と訳している。<carve>は「肉を切る」ことだから、<on each other>がつけば「斬りあい」で、「ピストル騒ぎ」はおかしい。

<Harlem sunsets>の「ハーレム」はマンハッタン島東部にある黒人街のことで、サンセットは夕陽の赤(血の色)を表している。<Harlem sunsets>を検索すると、チャンドラーのこの文章が<Harlem sunsets>(ナイフによる死闘)の典拠のように書かれている。しかし、チャンドラーが特に説明もせずに使っていることから見て、以前に使用例があると思われる。村上氏は「前に五人の黒人が、東八十四番通りで、ナイフを使って派手な切り合いをしたことがある」と訳している。

「だが、うまく捕まえないと、君とパトカーに乗る相棒は二人連れであの世行きだ。そうなれば、記事にはなるだろうが」は< But pick him up nice or he'll knock off a brace of prowlies for you. Then you'll get space.>。清水氏は「捕縛するときはうまく立ちまわらんと、生命(いのち)が危ないぜ」と意訳している。村上氏は「しかし逮捕のときにはよほどうまくやらないと、パトカーの窓の支柱を叩き折られるぞ。そうなれば新聞記事にはなるかもしれないが」と訳している。

<prowlies>は氏の言う通り<prowl car>、つまり「パトカー」のことだろう。<brace>にも「支柱」の意味がある。しかし「窓の支柱」はいただけない。実は<a brace of ~(複数形)>には「ひとつがいの~、一対の~」という意味がある。それでわざわざ<prowl >を<prowlies>と複数形にしてあるのだ。刑事は一人を相手に二人組で行動するが、マロイなら二人同時に片づけることなど朝飯前だ、とマーロウは忠告しているのだ。

その後の「どっちにせよ、おれが事件を担当することは二度とないね」は<And I wouldn't have the case no more neither>。清水氏はここを「生命(いのち)がなくなれば、もう、こんな事件を引きうけないですむじゃないか」と訳している。マーロウが自分の生命の心配をしていることを正しく受け止めていることが分かる。村上氏は前の誤訳がたたり<neither>を読み落とし「そして俺はどっかに飛ばされる」と、こちらも誤訳することになる。

<neither>には「二者のうちのどちらの~も~でない」という意味がある。うまく逮捕出来たら、この事件は終わり、自分は担当から外れる。うまく逮捕できなければ、自分は殺され、やはり担当から外れることになる。ナルティの台詞<And I wouldn't have the case no more neither>は、そういう意味のことを言っているのだ。

「顔写真が届いたら身元確認は引き受けよう」は<And when you get the mug, I'll identify it for you.>。清水氏は「そして、君が彼を捕らえたら、首実検はぼくが引きうけよう」と訳している。<mug>は、容疑者の顔写真のことで、容疑者自身を指すわけではない。村上氏は「顔写真が届いたら、本人に間違いないことを確認する。あんたのお役に立とう」と訳している。

「たとえ金にならない仕事でも、これで風向きが変わるかもしれない」は<Even a no-charge job was a change.>。清水氏は「金にならない仕事でも、仕事がないよりはましなのだった」と訳している。村上氏は「収入が見込めなくても、気晴らしにはなるかもしれない」と訳している。<change>には「変化、交換」という意味のほかに「小銭」の意味がある。<no-charge>と<change>は金にひっかけた地口だろう。仕事が舞い込んで、金になることを期待して「風向きが変わる」と訳してみた。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(3)

《「どこへ行ったんだ?」ムース・マロイが訊ねた。
 バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた。
「あ、あっちは、モンゴメリさんのオフィスでさあ。ここのボスで。あの奥がオフィスになってます」
「そいつが知ってるかもしれん」大男が言った。彼はごくりと酒を飲み込んだ。「そいつも利いた風な口を利かないといいが。同じのを、もう二杯だ」
 大男はゆっくり部屋を横切った。軽い足どりで、何の悩みもなさそうに。大きな背中でドアが隠れた。ドアには鍵がかかっていた。ノブを揺すぶると、鏡板が一枚、片側に飛んでいった。大男は中に入り、ドアを閉めた。
 沈黙が落ちた。私はバーテンダーを見た。バーテンダーは私を見た。何かを考えている眼だった。カウンターを拭きながら、ため息をつき、右手を下に伸ばした。
 私はカウンター越しにその腕をつかんだ。細くて脆そうな腕だ。私は腕をつかんだまま笑いかけた。
「なあ、そこに何があるんだ?」
バーテンダーは唇をなめた。私の腕に体を預けたまま何も言わなかった。輝きを帯びた顔に灰色の翳がさした。
「あいつはタフだ」私は言った。「そして、何をしでかすか分からない。酒がさせるんだ。あの男は昔の女を探してる。当時ここは白人の店だった。ここまではいいか?」
 バーテンダーは唇をなめた。「あいつは長い間ここに来なかった」 私は言った。「八年間もだ。見たところ、それがどれだけ長いのかも分かっちゃいない。私としてはそれが一生分の長さだと悟ってほしかったんだが。ここの者なら女の居所を知っているとあいつは思い込んでるのさ。事情は飲みこめたか?」
 バーテンダーはゆっくり言った。「私はあなたがあの人の連れだと思ってたんで」
「どうしようもなかったんだ。下でものを尋ねられてそのまま上へ連れてこられた。あいつとは初対面だ。しかし、投げ飛ばされるのは気が進まなかった。そこに何があるんだ?」
「ソードオフです」バーテンダーは言った。
「おっと、それは違法のはずだ」私は耳打ちした。「いいか、君は私と組むんだ。ほかには何がある?」
「拳銃があります」バーテンダーは言った。「葉巻入れの中に。腕を放してくださいよ」
「そいつはいい」私は言った。「ちょっと動いてもらおうか、気を楽に、横にだ。今は銃の出る幕じゃない」
「そうは問屋が卸すもんか」バーテンダーは鼻で笑った。私の腕にくたびれた体重をかけながら言った。「そうは問屋が─」
 バーテンダーは口をつぐんだ。眼をぎょろつかせ、頭をぐいと引いた。
 背後で鈍く低い音がした。クラップス・テーブルの向こうの閉まったドアの後ろだ。ドアが急に閉まった音かも知れなかった。私はそうは思わなかった。バーテンダーもそうは思わなかった。
 バーテンダーは凍りついた。口からよだれが垂れていた。私は耳を澄ました。それっきり音はしなかった。私は急いでカウンターの端に向かった。長く耳を澄ませすぎていた。
 大きな音とともに後ろのドアが開き、ムース・マロイがするりと猛烈な突進で通り抜け、急に立ち止まった。足は床に根を生やし、顔には悪賢い薄ら笑いがぼんやり浮かんでいた。
 四五口径のコルト軍用拳銃も彼の手の中にあると玩具にしか見えなかった。
「気取った真似をするんじゃねえ」彼はなれ合い口調で言った。「カウンターの上に両手を置くんだ」
 バーテンダーと私はカウンターの上に両手を置いた。
 ムース・マロイはかき集めるような眼で部屋中を見回した。ぴんと張りつめた薄笑いが顔に釘付けされていた。脚の重心を移動し、黙って部屋を横切った。たしかに一人で銀行強盗をやってのけそうな男に見えた──あんな服装をしていてさえ。
 大男はバーまでやってきた。「手を挙げな、黒いの」彼は静かに言った。バーテンダーは手を高く宙に挙げた。大男は私の背後にまわりこみ、左手を使って注意深く体を探った。熱い息が首にかかった。そして離れた。 
モンゴメリさんもヴェルマがどこにいるか知らなかった」彼は言った。「これに物を言わせようとしたんだ」頑丈な手で拳銃を軽く叩いた。私は振り返って大男を見た。「なあ、おい」彼は言った。「分かってるとは思うが、おれのこと、忘れるんじゃないぜ。警察の連中にはうかつなまねをするな、と言っておいてくれ」彼は銃をぶらぶらさせた。「じゃあな、若造。おれは電車をつかまえなきゃいけない」
 大男は階段の方に歩きはじめた。
「酒代がまだだ」私は言った。
大男は足を止め、注意深く私を見た。
「そこに何があるか知らないが」彼は言った。「あまり、手荒な真似をしたくないんだ」
 大男は立ち去った。滑るように両開きの扉を抜けて。階段を下りる足音が次第に遠ざかって行った。
 バーテンダーが前にかがんだ。私はカウンターの後ろに飛び込んで、男を外へ追い出した。カウンター下の棚の上にタオルをかぶせて銃身を切り詰めたショットガンが置いてあった。横に葉巻入れがあった。葉巻入れの中には三八口径のオートマティックがあった。私は両方取り上げた。バーテンダーはグラスの並んだ棚に体を押しつけていた。
 私はカウンターの端を回って部屋を横切り、クラップス・テーブルの後ろの開いているドアまで行った。その向こうに鍵の手になった廊下があり、ほとんど明かりが見えなかった。用心棒が気を失って床にのびていた。手にはナイフがあった。私はかがみ込んでナイフを引き抜き、裏階段へ投げ捨てた。用心棒はぜいぜいと荒い息をし、手はぐにゃりとしていた。
 私は男をまたぎ「オフィス」と記す黒い塗料の剥げたドアを開けた。
 一部を板で塞いだ窓の近くに疵だらけの小さな机があった。男の上半身が椅子の上で硬直していた。椅子の背凭れは高く、ちょうど男の首筋まであった。頭が椅子の背のところで後ろに折れ曲がり、そのせいで鼻が板で塞がれた窓の方を向いていた。まるで、ハンカチか蝶番をただ折り曲げたように。
 机の右手の抽斗が開いていた。中には真ん中に油の臭いが滲みついた新聞紙があった。そこに拳銃が入っていたのだろう。その時は名案に思えたのだろうが、モンゴメリ氏の頭の位置を見れば、思いちがえてたことが分かる。
 机の上に電話機があった。私はソードオフ・ショットガンを下に置き、警察に電話する前にドアに鍵をかけた。用心のためだったが、モンゴメリ氏は気にする様子もなかった。
 巡回パトロールの警官たちが足音を響かせて階段を上ってきた時、用心棒もバーテンダーも姿を消していて、そこにいたのは私だけだった。》 

バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた」は<The barman's eyes floated in his head, focused with difficulty on the door through which the bouncer had stumbled.>。清水氏は「バーテンダーの眼は彼の頭の中に浮び上り、用心棒がよろけて出て行ったドアにやっと焦点を合わせた」と訳している。後半はいいが、「バーテンダーの眼は彼の頭の中に浮び上り」は変だ。

村上氏は「バーテンダーの目は顔の中でふらふらしていた。用心棒がよろめきながら消えたドアに焦点を合わせるのが一苦労みたいだった」と訳している。どうやら意味は通じているが、頭を顔に代える訳に無理がある。まず<one's eyes>は「目」ではなく「視線」のことだ。それに<float in>は「(心中に)浮かぶ」という意味で、その後には<face>ではなく<head>とあるからには「頭に浮かぶ」の意味と採らないとおかしい。 

「そいつも利いた風な口を利かないといいが」は<He better not crack wise neither>。清水氏は「こいつもきいたふうなことはいわねえ方がいい」と訳している。<crack wise>は「気のきいたことを言う」という意味。村上氏は「洒落た真似をしないでくれると助かるんだが」と訳している。後で拳銃を取り出すことの仄めかしだろうが、<crack wise>は生意気な口をきくことを意味しているのであって、愚かな行動をとることの意味はない。

「鏡板が一枚、片側に飛んでいった」は<a piece of the panel flew off to one side>。清水氏は「金具がはずれて、とんだ」と訳している。<panel>とは「天井、窓などの一仕切り」を意味するもので、「鏡板、羽目板」と訳されることが多い。どの辞書を見ても「金具」という意味はない。村上氏は「化粧板が片方にはじけ飛んだ」と訳している。「化粧板」というのは「表面が鉋掛けされたきれいな板」というほどの意味で、「鏡板」のように複数の部材<“Maybe you got something there,” he said, “but I wouldn't squeeze it too hard.”>で、ドアのような建具を構成するといった意味はない。

「何かを考えている眼だった」は<His eyes became thoughtful>。清水氏は「彼の眼が異様に輝いた」と意訳しているが、果たしてその必要があるだろうか。原文の簡潔さが消えて、かえってあいまいな印象を与えてしまっている。村上氏は「その目は何かを考えているように見えた」と訳しているが、これでもくどいくらいだ。

バーテンダーはゆっくり言った」は<The barman said slowly>。清水氏は「バーテンダーは蚊のなくような声で言った」と訳している。村上氏は「バーテンダーは言葉を選んで言った」だ。<slowly>に、そんな意味はない。いつもいつも<slowly>を「ゆっくり」と訳してばかりでは芸がない、とでも考えたのだろうか。余計なお世話だ、と思う。作者でもない翻訳者が自分の読みをつけ加えることには賛成できない。<The barman said slowly>くらい普通の読者なら理解できる。

「口からよだれが垂れていた」は<His mouth drooled.>。清水氏は「口をあけたまま(、身動きをしなかった)」と訳している。<drool>には「よだれを垂らす」の意味がある。なぜよだれについて触れていないのか理由が分からない。村上氏は「彼は口からよだれを垂らしていた」と訳している。

「酒代がまだだ」と言ったマーロウに対するマロイの返事が、新旧訳で全く異なっている。原文の<“Maybe you got something there,” he said, “but I wouldn't squeeze it too hard.”>を、清水氏は「お前えが持ってるだろう。なにも、そっくり捲き上げようとはいわねえよ」と訳している。村上氏はそれとはちがって<「そこに何があるのかは知らんが」と彼は言った。「おれなら余計な真似はしねえな」>と訳している。

<squeeze>は「搾り取る」の意味だから、清水訳も理解できないではないが、前半の<you got something there>は、マーロウがバーテンダーに二度繰り返した「そこに何があるんだ」<What you got down there?>を踏まえていると考えられる。そうだとすると、この<something>は金のことではなく銃のことだと思えてくる。

「クラップス・テーブルの後ろの開いているドアまで」は<to the gaping door behind the crap table>。清水氏はここを「骰子テーブルのうしろのドアを開いた」とやってしまっている。そのドアは、さっきマロイが出てきた時に開けたままになっている。文法からいってもそうは訳せない、初歩的なミスだ。村上氏は「クラップ・テーブルの奥の大きく開いているドアの前に」と訳している。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(2)

《我々はバーに行った。客たちは一人で、あるいは三々五々、静かな影となり、音もなくフロアを横切り、音もなく階段へと通じるドアから出て行った。芝生の上に落ちる影のようにひっそりと。スイング・ドアを揺らすことさえしなかった。
 我々はバー・カウンターに凭れた。「ウィスキー・サワー」大男が言った。「あんたは」
「ウィスキー・サワー」私は言った。
 我々はウィスキー・サワーを飲んだ。
 大男は厚手のずんぐりしたグラスの縁からつまらなそうにウィスキー・サワーをちびちびとなめた。そして、真面目くさった顔でバーテンダーを見つめた。白い上着を着た痩せた黒人で、不安気な表情を浮かべ、足の痛みを気遣うような動きをした。
「お前、ヴェルマがどこにいるか知ってるか?」
「ヴェルマって言いましたか?」バーテンダーは泣き出しそうな声で言った。「この頃この辺りじゃ、とんと見かけません。最近はさっぱりで、へえ」
「お前、ここは長いのか?」
「ええと」バーテンダーはタオルを下に置き、額に皺を寄せて指折り数え始めた。「かれこれ十カ月でさ。おおよそそれくらいになります。いやそろそろ一年か」
「はっきりしろい」大男は言った。
 バーテンダーは眼を剥き、首を落とされた鶏みたいに咽喉仏をひくつかせた。
「ここが黒人のバーになってどれくらいだ?」大男はぶっきらぼうに問いただした。
「なんておっしゃいました?」
 大男が拳を握ると、ウィスキー・サワーのグラスは眼の前から見えなくなった。
「かれこれ五年になる」私は言った。「この男はヴェルマという名の白人の女のことは何も知らない。ここの誰も知らないだろう」
 大男は私のことをまるで今卵から孵った雛のように見た。ウィスキー・サワーは大男の機嫌をよくしてはくれなかったようだ。
「誰が口をはさめと言った?」彼は訊いた。
 私は微笑んだ。寛大で心から友好的な微笑みができたと思う。「あんたがここに連れ込んだんじゃないか。忘れたのか?」
 大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった。「ウィスキー・サワー」彼はバーテンダーに言った。「チンタラしてるんじゃねえ。とっとと作れ」
 バーテンダーはあわてて飛び回り、目を白黒させた。私は背中をカウンターに預け、部屋を見わたした。部屋は空っぽになっていた。バーテンダーを別にしたら、そこにいるのは大男と私、そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった。用心棒はそろりそろりと動いていた。痛みをこらえ、やっとのことで手足を動かしているように。片方の翅をもがれた蠅みたいに幅木に沿ってゆっくり這っていた。テーブルの後ろを、げんなりと、不意に歳をとり、突然正気に返った男のように。私は男の動きをじっと見ていた。バーテンダーがお代わりのウィスキー・サワーを二つ置いた。私はカウンターに向き直った。大男は這い進む用心棒をちらりと目にしたがまったく気にも留めなかった。
「この店には何も残っちゃいない」彼はこぼした。「小さなステージがあって、バンドがいて、男が楽しい時を過ごすことができる気の利いた小部屋があった。ヴェルマはそこで歌ってた。赤毛だった。レースのついた下着みたいに可愛かった。おれたちが結婚しようというとき、やつらがおれをハメたんだ」
 私は二杯目のウィスキー・サワーに手を伸ばした。私は深みにはまりかけていた。「ハメられたって、何にだ?」
「八年もの間、おれがどこで何をしてたかっていう話だ。あんたどう思うね?」
「蝶でも捕まえてたんだろう」
 大男はバナナのような人差し指で自分の胸を突っついた。「檻の中さ。マロイっていうんだ。体がでかいからって、みんなはムース(箆鹿)・マロイって呼ぶ。グレート・ベンド銀行の仕事だ。四万ドル、一人でやってのけた。凄かないか?」
「で、今からそいつを使おうっていうのか?」
 大男は私に鋭い一瞥をくれた。背後で物音がした。用心棒が再び自分の足で立ったのだ。少しよろめきながら、クラップス・テーブルの向こうの黒っぽいドアのノブに手をかけた。そして、ドアを開け、なかば倒れ込むように中に入った。ドアが音を立てて閉まった。錠がかかる音がした。》

「客たちは一人で、あるいは三々五々」は<The customers, by ones and twos and threes,>。清水氏は「客たちは二人、三人と一団になって」と「一人」を略している。村上氏は「客たちは一人で、二人連れで、あるいは三人連れで」と律儀に訳している。「芝生の上に落ちる影のように」は<as shadows on grass>。清水氏はここを「壁にうつる影のように」と訳している。「草」<grass>を「壁」と見誤りそうな単語が見つからない。

「ウィスキー・サワー」は<Whiskey sour>。ウィスキーをベースにレモンジュースと砂糖を加えたカクテルだ。清水氏はこれを全部「ウィスキー」で統一している。単なるウィスキーだったら、大男がお代わりを要求するとき、バーテンダーが目を白黒させるほど慌てるだろうか。一方で、チャンドラーはこのカクテルを注いだグラスを<the thick squat glass>と書いている。清水氏は「厚いウィスキー・グラス」と訳している。村上氏は「ずんぐりした分厚いグラス」だ。ストレートやオン・ザ・ロックスならともかく、カクテルを注ぐグラスには似つかわしくない。

バーテンダーは眼を剥き」は<The barman goggled>。清水氏は「バーテンダーは声をつまらせ」、村上氏は「バーテンダーがごくりと唾を飲むと」と訳している。<goggle>は「(びっくりして)目を丸くする、ぎょろぎょろする」の意味だ。もしかしたら清水氏は<guggle(gurgle)>「喉を鳴らす」とまちがえたのではないだろうか。村上氏は、自分で訳す前に清水訳を参考にしているようなので、それをそのまま踏襲していることが少なくない。せっかく新訳と銘打つのだから、はじめから自分で訳していたら、こんなまちがいはしないで済んだろうに。

「なんておっしゃいました?」は<Says which?>。「なんて言ったの?」と相手に聞き返す際のアメリカ英語の慣用句だ。清水氏は「誰がそういうんだ」と大男の台詞として訳している。その前の大男の質問は<How long's this coop been a dinge joint?>なので「誰がそういうんだ」という重ねての質問は意味をなさない。村上氏も「なんておっしゃいました?」と訳している。

「大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった」は< He grinned back then, a flat white grin without meaning>。清水氏は「彼は意味をなさない薄笑いを見せた」とあっさり訳している。村上氏は「彼はにやりと笑みを返した。白い歯をむき出しにした、奥行きのない、意味を欠いた笑みだ」と訳している。<grin>にはたしかに「白い歯を見せて笑う」の意味があるが、「むき出しに」してみせるなら、そこにはなにがしかの意味が混りそうなものだ。この<white>は「何も書かれていない」の意味ではないだろうか。

「そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった」は<and the bouncer crushed over against the wall.>。清水氏は「そして、壁に投げつけられた用心棒だけだった」。村上氏は「壁に投げつけられた用心棒だけだった」と、ここも清水訳をそのまま使っている。ところで<crush>だが、どの辞書を見ても「押しつぶす」が主たる意味で「投げつける」という意味は見当たらない。もしかして<crash>「衝突する」と読み違えて、大男の行為と結び付けての意訳だろうか。村上氏が旧訳を下訳にしていなかったら、同じ訳をしただろうか。

「やつらがおれをハメたんだ」は<they hung the frame on me>。清水氏は「奴らが俺をぶちこみやがった」と訳している。<frame>は「ハメる、(人に)濡れ衣を着せる」の意味がある。<hang>にも「人に罪を着せる」の意味があるので、ここは「陥れられた」の意味だろう。村上氏も「俺はハメられちまった」と訳している。「ぶちこむ」と訳してしまったら、次の<Where you figure I been them eight years I said about?>という質問の意味がなくなるではないか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(1)

《階段を上りきると、また両開きのスイング・ドアが奥との間を仕切っていた。大男は親指で軽くドアを押し開け、我々は中に入った。細長い部屋で、あまり清潔とはいえず、特に明るくもなく、別に愉快なところでもなかった。部屋の隅にある円錐形の灯りが照らす、クラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた。右手の壁に沿ってバーがあった。そのほかには小さな丸テーブルがいくつか並べられていた。部屋には数人の客がいたが、男も女も黒人だった。クラップス・テーブルが急に静まりかえり、頭上の灯りが急に消えた。突然、浸水したボートのような重い沈黙がやってきた。いくつもの眼が我々を見た。灰色から漆黒の範囲内に収まる顔に嵌め込まれた栗色の眼だ。ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた。
 大柄で太い首をした黒人がバーの端に倚りかかっていた。シャツの両袖にピンクのガーターをつけ、広い背中でピンクと白のサスペンダーが交差していた。どこから見ても用心棒だった。男は上げていた片足をゆっくり下ろして我々を見つめ、静かに両脚を広げ、幅の広い舌を唇に這わせた。顔には虐待の痕があった。掘削機のバケット以外のあらゆるもので殴られたみたいだった。傷だらけで、ぺちゃんこになり、分厚く、まだらで、鞭の跡がついていた。怖いものなしの顔だった。人が思いつくすべてのことがやりつくされていた。
 短い縮れ毛には白いものが混じっていた。片耳の耳朶がなかった。
 黒人は重量級で肩幅も広かった。大きくてがっしりした両脚は少し湾曲していた。黒人には珍しいことだ。また唇をひと甞めし、微笑を浮かべ、体を動かした。ボクサーが体をほぐすみたいに身をかがめてこちらに向かってきた。大男は黙ってそれを待ち受けた。腕にピンク色のガーターをした黒人は、がっしりした褐色の手を大男の胸に置いた。大きな手だったが、飾りボタンのように見えた。大男は微動だにしなかった。用心棒は優しく微笑んだ。
「白人はお断りでね、ブラザー。黒人専用なんだ。すまないな」
 大男は小さな哀しい灰色の瞳を動かして部屋の中を見わたした。頬が少し赤らんだ。「黒人バーか」腹立たし気に、小さな声で言った。それから声を上げた。「ヴェルマはどこにいる?」と用心棒に訊いた。
 用心棒は笑ったわけではなかった。大男の服に見入っていたのだ。その茶色のシャツと黄色いタイ、ラフなグレイのジャケットについた白いゴルフボールを。ずんぐりした頭を注意深く動かしていろいろな角度から入念に吟味した。男は鰐革の靴を見下ろした。そして軽く含み笑いをした。おもしろがっているようだった。私は男のことがちょっと気の毒になった。男はまたおだやかに話しかけた。
「ヴェルマと言ったかね? ヴェルマなんて女はいねえ、ブラザー。酒もねえ、女もいねえ、何にもねえ。さっさと帰んな、白いの、出て行くんだ」
「ヴェルマはここで働いてたんだ」大男は言った。ほとんど夢見ているように話していた。たった一人で、森の中で菫でも摘んでいるように。私はハンカチを取り出して首の後ろを拭った。
 用心棒が突然笑い出した。「そうかい」彼は言った。肩越しにちらりと後ろを振り返って仲間を見た。「ヴェルマはここで働いてた、けどな、ヴェルマはここではもう働いてねえ。引退したってよ。あっはっは」
「その小汚い手をおれのシャツからどけるんだ」大男が言った。
 用心棒は眉をひそめた。そういう口の利き方に慣れていなかったのだ。手をシャツから放すと、拳を固めた。大きさといい色といい、大きな茄子そっくりだった。男には仕事があり、タフで通っていた。ここで男を下げるわけにはいかない。それがちらりと頭をよぎり、過失を犯した。いきなり肘が外に引かれ、拳はくっきりと小さな弧を描いて大男の顎の脇を打った。低いため息が部屋の中に流れた。
 いいパンチだった。肩が落ち、その後で体が揺れた。パンチには充分体重がのっていたし、それを見舞った男も多くの練習を積んでいた。大男は頭を一インチほど動かせただけだった。パンチを防ごうともしなかった。まともに食らって、わずかに体を震わせると、静かに喉を鳴らして用心棒の喉をつかんだ。
 用心棒は膝で相手の股間を蹴ろうとした。大男は用心棒を空中に持ち上げ、床を覆っている汚いリノリウムの上に派手な靴を滑らせ、両脚を開いた。用心棒をのけぞらせ、右手を用心棒のベルトに移した。ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ。大男は巨大な両手を用心棒の背骨にぴたりと当てて持ち上げた。大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした。三人の男がそれを避けて飛びのいた。用心棒は、デンバーまで聞こえたにちがいない派手な音を立てて、テーブルといっしょに幅木に衝突した。男の足は引きつっていた。それからずっと寝たままだった。
「いるんだよ」大男は言った。「タフになる時と場合をまちがうやつが」彼は私に向き直った。「なあ」彼は言った。「一杯つきあえよ」》

「また両開きのスイング・ドア」は<Two more swing doors>。清水氏は「また、二重ドアがあった」と訳している。どこにも<double>とは書いてないが、<two>で、そう思ってしまったのだろうか。当然、村上氏は「また両開きのスイング・ドア」と訳している。この場合の<two>は一対の意味だろう。<doors>と複数になっているので、<one more>とは書けないのだろうか。ちょっと首をひねってしまった。

「円錐形の灯りが照らすクラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた」は<a group of Negroes chanted and chattered in the cone of light over a crap table.>。清水氏は「黒人の一団が電灯の下で、骰子(さいころ)のテーブルをかこんでいた」と簡略に訳している。村上氏は「一群の黒人が集まって、クラップ・ゲームのテーブルを照らす円錐形の明かりの下で、歓声を上げたり、おしゃべりをしたりしていた」と、ほぼ逐語訳だ。二個の骰子を使って遊ぶゲームは、通常<craps>と呼ばれているので、クラップス・テーブルとしておいた。

「ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた」は<Heads turned slowly and the eyes in them glistened and stared in the dead alien silence of another race.>。清水氏は<Heads turned slowly>をカットし「その眼は、異人種の侵入に敵意を見せて、輝いていた」と訳している。村上氏は「首がゆっくりと曲げられ,、瞳がきらりと光り、こちらを凝視した。異なった人種に対する反感がもたらす、痛いほどの沈黙がそこにあった」と、相変わらず文学的な訳だ。

「掘削機のバケット以外の」は<but the bucket of a dragline>。清水氏はここをカット。そのまま訳しても読者には伝わらないと考えたのだろう。村上氏は拙訳と同じ。たしかに、こうしか訳しようがないし、訳してみても具体的なイメージは湧かない。ただ、とてつもない大きな機械であることは何とか分かる。それでいいのだ。チャンドラーお得意の修辞技法における単なる誇張法なのだから。

「大きな手だったが、飾りボタンのように見えた」は<Large as it was, the hand looked like a stud.>。清水氏は「形容ができないほどの大きな手だった」と訳しているが、これはどうだろう。村上氏は「それはずいぶん大きな手だったが、飾りボタンのようにしか見えなかった」と、解釈を入れて訳している。無論、カンマの後に「大男の胸に置かれると」という条件節が入っていると考えなければならない。村上氏の訳はそれを踏まえている。清水氏は<stud>を何かと読みちがえたのだろうか。

「小さな声で」は<under hi's breath>。清水氏は「低い声で」と訳している。村上氏は「はき捨てるように言った」と訳している。<under one's breath>は「小さな声で、ひそひそと、ささやいて」の意味。おそらく、辞書を引かずに訳したのだろう。その前に<angrily>とあるので、引きずられたのかもしれない。まちがいとは言えないが、慎重な村上氏にしては踏み込んだ訳である。その後、大男は声を上げているので、ここは小声と採っておくのが無難ではないか。

「用心棒は笑ったわけではなかった」は<The bouncer didn't quite laugh.>。清水氏は「用心棒はかたい表情を見せて」と訳している。村上氏は「用心棒はあからさまに笑ったわけではなかった」だ。<not quite>には「~ほどでもない」の意味なので、清水氏がなぜこういう表現にしたのか真意が分からない。「かたい表情」どころではない。ここで用心棒はかなり興味深そうな、ほとんど笑いに近い表情を浮かべているはずなのだ。何しろ大男の服装が眼を引くものだったから。

「ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ」は<The belt broke like a piece of butcher's string.>。清水氏は「金具は音をたてて、砕けた」と、ベルト本体ではなく金具がこわれたと訳している。村上氏は「ベルトはまるで肉屋の使う糸みたいにはじけて切れた」だ。<butcher's string>はロースト・ビーフを縛るタコ糸のようなもののことだと思う。

「大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした」は<He threw him clear across the room, spinning and staggering and flailing with his arms.>。清水氏はここを「用心棒はぐるぐるまわり、よろめき、両腕をふりまわしながら、部屋を横切ってとんでいった」と訳しているが、村上氏は「そして身体をくるりと回転させ、よろめきながらも、両腕を大きく振って、部屋の向こうまで相手を放り投げた」と訳している。

<spinning and staggering and flailing with his arms.>の<his>は大男なのか、用心棒なのか。原文では<He>の前に<;>(セミコロン)が使われている。つまり「独立した2つの文が何らかの関係があるためつなげて書くとき、間に(最初の文の終止符のかわりに)セミコロンを置く」という使われ方をしているわけだ。だから、ここで急に「彼」が用心棒になることは文法的に言ってあり得ない。それにしても二人の男がどちらも一文の中で一様に<he、his、him>で扱われるのは確かに厄介だ。それにしても、宙をとんでいく男が「よろめく」のはさすがに不可能ではないだろうか。