HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(2)

<smooth shiny girls>は「練れた、派手な女」でいいのだろうか?

【訳文】

《「いいスーツを着ているな」
 彼の顔がまた赤くなった。「このスーツの値段は二十七ドル五十セントだ」彼は噛みつくように言った。
「なんとも感じやすい警官だな」私は言って、レンジに戻った。
「いい香りだ。どうやって淹れるんだ?」
 私はコーヒーを注いだ。「フレンチ・ドリップというんだ。豆は粗挽き、フィルター・ペーパーは使わない」私は戸棚から砂糖、冷蔵庫からクリームを出した。我々は部屋の隅に向かい合って座った。
「病気で入院してたというのは、冗談なんだろう?」
「冗談じゃない。ベイ・シティでちょっとしたトラブルに巻き込まれて放り込まれたんだ。刑務所じゃない。麻薬とアルコール中毒を治療する私立施設だ」
 彼は遠くを見るような目をした。「ベイ・シティだって? 痛い目に遭うのが好きなんだな、マーロウ?」
「好き好んでやってるわけじゃない。成り行きさ。しかし、ここまでひどい目に遭うのは初めてだ。頭を二回も殴られた。二回目は警官か、警官を名乗るそれらしく見える男にやられた。自分の銃で殴られ、凶暴なインディアンに首を絞められた。気絶してる間にその麻薬病院に放り込まれ、監禁された。しばらくの間ベッドに縛りつけられていたらしい。そしてそれを証明することは不可能だ。実のところ、からだ中があざだらけで、左腕には注射針の痕がごまんとある以外は」
 彼はテーブルの端をじっと見つめた。「ベイ・シティでね」彼はゆっくり言った。
「歌のような名前だ。汚いバスタブで歌う歌」
「何をしにそこまで行ったんだ?」
「私が行ったんじゃない。警官たちが連れてったんだ。私は人に会いにスティルウッド・ハイツまで行った。そこはL.Aだ」
「男の名は、ジュールズ・アムサー」彼は静かに言った。
「どうしてその煙草をくすねたりしたんだ?」
 私はカップの底をのぞき込んだ。まったく、余計なことを。
「妙だと思ったんだ。マリオットはケースを余分に持っていた。マリファナ煙草が入っていた。そいつはベイ・シティあたりで作られてるそうだ。空洞の吸い口、ロマノフ家の紋章など何もかもロシア煙草に似せて」
 彼は空になったカップを私の方に押し出した。私はお代わりを注いだ。彼の目は私の顔の皺の一本一本、微粒子一つ一つを入念に調べた。拡大鏡を手にしたシャーロック・ホームズ、或いはポケット・レンズを持ったソーンダイク博士のように。
「君は私に言うべきだった」彼は苦々しげに言った。彼はコーヒーを啜り、アパートによく置いてある、縁取りのあるナプキンの代用品で唇を拭った。「だが、君はそれをくすねちゃいない。あの娘が打ち明けてくれた」
「やれやれ」私は言った。「もうこの国では男には出番がない。いつも女だ」
「彼女は君が好きなんだ」ランドールは言った。映画に出てくる思いやりのあるFBIの男のように、少し悲しげに、しかしとても男らしく。「彼女の親父さんは真っ正直な警官だった。それで職を失う羽目になった。あの娘もまちがったことをする子じゃない。君のことが好きなんだよ」
「彼女はいい娘さ。私のタイプじゃないが」
「いい娘が好きじゃないのか?」彼は新しい煙草に手をつけ、顔の前の煙を手で払いのけていた。
「すべすべしてて艶やかな娘がいい。固ゆで卵のように、中にしっかり罪が詰まった」
「身ぐるみ剥がされに、洗濯屋に行くようなものだ」ランドールは興味なさそうに言った。
「その通りだが、他に私の行くところがあるか? 君は何の話をしにここに来たんだ?」
 彼はその日初めての微笑みを微笑んだ。微笑むのは日に四度と決めているのだろう。
「君は肝心なことを話していない」彼は言った。
「話して聞かせてもいいが、君の方が先を越しているだろう。マリオットという男は女専門の強請り屋だった。ミセス・グレイルもそう言っていた。しかし、彼には別の顔があった。宝石強盗団の情報提供者だ。スパイとして社交界に潜入し、被害者と親しくなり、企みの手筈を整える。彼は女と親しい仲になり、外へ連れ出せるようになる。先週木曜日のあのホールドアップがいい例だ。かなり臭い。もしマリオットが運転していなかったら、或いはミセス・グレイルを<トロカデロ>に連れて行かなかったら、或いは別の道筋で家に帰っていたら、ビアホールを通り過ぎてホールドアップは起こらなかっただろう」
「運転手が運転していたかもしれない」ランドールは尤もらしく言った。「しかし、それによって状況が大きく変わることはなかった。運転手なら、ホールドアップされても顔に鉛玉を喰らうような真似はしない―月に九十ドルではね。しかし、マリオット一人を使って何度も強盗するのは難しい。噂が立つに決まっている」
「この手の商売で肝心なことは人に知られないことだ」私は言った。「それもあって、買い戻し値は安い」
 ランドールは仰け反って、頭を振った。「俺の興味を引くにはもっとましなことを言わなくちゃな。女は何でもしゃべる。マリオットと出かけるのは危ないという噂が立っていただろう」
「おそらくな。それが消された理由だ」》

【解説】

「そいつはベイ・シティあたりで作られてるそうだ。空洞の吸い口、ロマノフ家の紋章など何もかもロシア煙草に似せて」は<they make them up like Russian cigarettes down in Bay City with hollow mouthpieces and the Romanoff arms and everything>。清水氏はここを「ベイ・シティで作ったものらしい」と訳している。村上訳は「ベイ・シティ―あたりでロシア煙草に見せかけたものを作っているらしい。吸い口を空洞にして、ロマノフ王朝の紋章なんぞを刷り込んでね」だ。

「彼はコーヒーを啜り、アパートによく置いてある、縁取りのあるナプキンの代用品で唇を拭った」は<He sipped and wiped his lips with one of those fringed things they give you in apartment houses for napkins>。清水訳は「コーヒーを一口啜(すす)って、ハンケチで口を拭った」。村上氏は「アパートメント・ハウスにナプキンがわりによく備え付けてある、房のついた布切れで口元を拭った」だ。

清水氏の「ハンケチ」は論外だが、実際の品についてははっきりとは分からない書き方になっている。村上訳では「布切れ」となっているが、原文は<one of those fringed things>。どこにも布とは書いていない。わざわざ房飾りのついた布を用意するくらいなら、もうそれは立派なナプキンだろう。「ナプキンの代用品」としたのは<one of those things>というフレーズに含まれる否定的なニュアンスを生かしたかったからだ。

「すべすべしてて艶やかな娘がいい。固ゆで卵のように、中にしっかり罪が詰まった」は<I like smooth shiny girls, hardboiled and loaded with sin>。清水訳は<「もっとあくの強い女の方がいいね」と私はいった。「すれっからしで、少々グレているほうがいい」>。村上訳は「私はもっと練れた、派手な女が好きだ。卵でいえば固茹で、たっぷりと罪の詰まったタイプが」。

<smooth shiny>は、シャンプーの宣伝文句みたいだが、マーロウはミセス・グレイルの脚を思い出しているのではないだろうか。「滑らかで光沢のある」という言葉から、ゆで卵が連想される。その中に<loded>(装填された、詰まった)されているのは、少々のことでは揺れ動くことのない、しっかり固まった<sin>「罪」だ。表面は取り繕ってきれいなものだが、中身は罪深い女のイメージだ。両氏の訳では初めから悪女めいて見える。

「身ぐるみ剥がされに、洗濯屋に行くようなものだ」は<They take you to the cleaners>。清水氏は「そんな女とつきあっても、碌なことはないぜ」と訳している。それに対するマーロウの返事は「わかってるよ。どうせ、堅気の暮らしはしてはいないんだ」。村上氏は「そういう女には尻の毛までむしられるぜ」。「承知の上さ。だからいつだってからっけつ(傍点五字)なんじゃないか」と応答している。

<take someone to the cleaners>は直訳すれば「~をクリーニング屋に連れていく」だが、そこから「身ぐるみはがされる」の意味になる。それに対するマーロウの返事は<Sure. Where else have I ever been? >。<where>で受けているのは<the cleaners>に対する返答だからだ。このやりとりを村上氏は「尻の毛をむしられる」「からっけつ」という語呂合わせで対欧させているのだろう。面白いが、あまり品がいいとは思えない。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(1)

ドア越しに相手に投げるのは、キスだけじゃない。

【訳文】

《パジャマ姿でベッドの脇に座りながら、起きようかと考えていたが、まだその気になれなかった。気分爽快とまではいえないが、思っていたよりましだ。サラリーマンだったら、と思うほど気分は悪くなかった。頭は痛むし、腫れて熱があり、舌は渇き、砂利でも乗せているような気がした。喉はこわばり、顎はタフとはいえなかった。しかし、もっとひどい朝を迎えたことはある。
 霧の濃い薄暗い朝で、まだ暖かくはないが、暖かくなりそうだ。ベッドから体を持ち上げ、嘔吐のせいで痛む腹のくぼみをさすった。左脚は良くなっていた。痛みは残っていなかった。それで、ついベッドの角を蹴らずにいられなかった。
 ドアを強く叩く音がしたのは、悪態をついていたときだ。威張りくさったノック。二インチばかりドアを開け、汁気たっぷりのブーイングを浴びせてから、バタンと閉じたくなりそうな種類のやつだ。
 私はドアを二インチよりは少し広めに開けた。ランドール警部補がそこに立っていた。茶色のギャバジンのスーツに軽いフェルト生地のポークパイをかぶり、たいそう小奇麗で清潔、真面目くさっていたが、目にはたちの悪い色が浮かんでいた。
 彼がドアを少し押したので、私は後ろに下がった。彼は入ってドアを閉め、あたりを見回した。「この二日というもの、君を探していたんだ」彼は言った。彼は私を見なかった。目は部屋の中をじろじろ見ていた。
「病気だったんだ」
 彼は軽く弾むような足どりで歩きまわった。艶やかな銀髪は輝き、帽子を脇の下にはさみ、両手はポケットの中にいれていた。警察官としては大柄なほうではない。片手をポケットから出して、帽子を雑誌の上に注意深く置いた。
「ここにいなかったな」彼は言った。
「入院していた」
「どこの病院だ?」
「ペット・クリニックさ」
 彼はひっぱたかれでもしたかのように体をぐいと引いた。鈍い色が皮膚の奥に現れた。
「少しばかり早過ぎないか、その手の話には」
 私は黙って、煙草に火をつけた。煙を吸い込み、また素早くベッドに腰を下ろした。
「君のような男にはつける薬がない」彼は言った。「監獄に放り込むしかない」
「私は病人だった。まだ朝のコーヒーも飲んでいない。高級な機知を期待する方が無理だ」
「この事件には関わるなと言ったはずだ」
「あんたは神じゃない。イエス・キリストでさえない」
 私は煙草をもう一本吸った。内心どこか生硬な感じがしたが、そこが少し好きだった。
「俺がどれだけ君をひどい目に遭わせられるかを知れば、驚くだろうよ」
「だろうな」
「どうして今までやらなかったか、分かってるか?」
「ああ」
「なぜだ?」彼は敏捷なテリアのように少し前屈みになり、無慈悲な眼をした。遅かれ早かれ、警官はみんな同じ目つきをする。
「私が見つからなかったから」
 彼は上体を反らせて身を揺すった。顔が少し輝いた。「何か別のことを言うと思っていた」彼は言った。「それを言ったら、一発食らわす気だった」
「二千万ドルくらいでは怯まないってことか。しかし、上に命令されるかもしれない」
 彼は口を少し開いて、荒い息をした。ポケットからそろりそろりと煙草の箱を取り出して包装紙を引きちぎった。指が少し震えていた。唇に煙草を咥え、マガジン・テーブルにマッチ・ホルダーを探しに行った。慎重に煙草に火をつけ、マッチを床ではなく灰皿に捨て、煙を深く吸い込んだ。
「このあいだ、電話で忠告しておいたな」彼は言った。「木曜日だった」
「金曜日だ」
「そう、金曜日だ。聞き入れられなかった。理由は分かってる。しかし、その時は君が証拠を握っていることを知らなかった。この事件に関して良かれと思ったことを勧めただけだ」
「どんな証拠だ?」
 彼は黙って私を見つめた。
「コーヒーでもどうだ?」私は訊いた。「少しは人間らしくなれるかもしれない」
「いらん」
「私は飲む」私は立ち上がり、キチネットに向かった。
「座れよ」ランドールは厳しい口調で言った。「話はまだ終わっていない」
 私はかまわずキチネットに行き、薬缶に水を入れて火にかけた。蛇口から直接水を飲み、もう一口飲んだ。私は三杯目のグラスを手に、戻ってきて入り口に立って彼の方を見た。彼は動いていなかった。煙の帷が中身があるもののように片身に寄り添っていた。彼は床を見ていた。
「ミセス・グレイルの招きに応じたことの一体どこがいけないんだ?」私は訊いた。
「そのことを言ってるんじゃない」
「ああ、でもさっきはそれを言いたかったんだろう?」
「彼女は君を招いていない」彼は視線を上げたが、眼はまだ無慈悲さがうかがえた。赤らみが尖った頬骨に残っていた。「押しかけたんだ。そして、スキャンダルをちらつかせて仕事にありついた。事実上、脅迫だ」
「おもしろい。私の記憶によれば、我々は仕事の話さえしなかった。彼女の話に何かあるとは思いもしなかった。真剣に取り組もうにも、手の付けようがない、ということだ。もちろん君はすべて彼女から聞いたと思うが」
「聞いた。あのサンタモニカのビアホールは盗っ人どもの隠れ家だ。だからといって、それに何の意味もない。そこでは何も手に入らなかった。向かいのホテルも胡散臭いが、狙う相手じゃない。ちんぴらばかりだ」
「私が押しかけた、と彼女が言ったのか?」
 彼は少し視線を落とした。「いや」
 私はにやりとした。「コーヒーでもどうだ?」
「いらん」
 私はキチネットまで行き、コーヒーを淹れ、ドリップがすむまで待った。ランドールは今度は私についてきて入り口に立った。
「この宝石強盗団は私の知る限り、ここ十年ほどハリウッドを荒らしまわっている」彼は言った。「今度ばかりはやり過ぎた。人ひとり殺したんだ。私には理由がわかっている」
「いいぞ、もしこれがギャングの仕業で、君がそれを解決したら、私がこの街に住んでから初のギャング殺人事件の解決になる。少なくても一ダースは未解決事件の名を書き出せる」
「よく言うよ、マーロウ」
「まちがってたら、訂正してくれ」
「くそっ」彼はいらついて言った。「まちがってなどいない。記録の上は二件が解決済みになっているが、容疑者に過ぎない。チンピラがボスの罪をかぶらされたのさ」
「ああ、コーヒーは?」
「もし、飲んだら、真面目に話してくれるか、男対男として、気の利いた警句抜きで?」
「やってみよう。頭の中身をあらいざらいぶちまけるわけにはいかないが」
「知恵を借りに来たわけじゃない」彼は気難しげに言った。》

【解説】

「サラリーマンだったら、と思うほど気分は悪くなかった」は<not as sick as I would feel if I had a salaried job>。清水氏は「サラリーマンだったら、会社勤めに出かけるのも、さして苦痛ではない」と訳しているが、ちがうのではないだろうか。村上氏は「会社勤めをするのに比べたら数段ましな気分だ」と訳している。ニュアンスはこちらの方が近いが「数段まし」というほどの差はない気がする。かなり状態は悪いが、月給取りをしていたらこんな目に遭わなかったのになあ、と後悔するほどでもない、というくらいの意味だ。

「汁気たっぷりのブーイングを浴びせて」は<emit the succulent raspberry>。清水訳は「アカンべーをして」。村上訳は「べたべたするラズベリーを投げつけ」。村上氏は「キイチゴ」と解釈したようだが、清水氏の方がよくご存じのようだ。「アカンべー」とはうまい訳語を見つけたもので、この場合の「ラズベリー」はスラング。「ブロンクス・チア」ともいう。審判が誤審したときなどにアメリカ人がよくやる「軽蔑や不賛成の意を示す目的で、舌を唇の間にはさんで出す振動音」のことだ。

<succulent>は「水分が多い」を意味する形容詞。そのまま読めば「ジューシーな木苺」ということになる。村上氏がそう訳したくなるのも無理はないが、<emit>に「投げる」の意味はない。「(音、声などを)口に出す」という意味だ。映画で見たことがあるが、結構長く音を出すようだ。舌をふるわせて音を出すのだから、当然つばも飛ぶことだろう。

「内心どこか生硬な感じがしたが、そこが少し好きだった」は<Somewhere down inside me felt raw, but I liked it a little better>。清水氏は「からだはまだ、ほんとうに恢復してはいないようだった」と訳している。村上氏はそれを踏まえて「身体の内側で何かがちくちくしたが、それでも前よりは少しましになっていた」と訳している。疑問なのは、<inside>をどうして「体」の内側ととるのか、ということだ。

<(deep) down inside>は「心の奥底で」という意味。何を<raw>と感じたのかは不明だが<raw>とは「未加工の、精製していない」という意味だ。推測だが、マーロウは一服しながら<You're not God. You're not even Jesus Christ>という文句のことを考えていたのではないだろうか。確かにマーロウの台詞にしては「ひねり」がなさすぎる。しかし、その直截なところが逆に気に入ったのだろう。

「彼は敏捷なテリアのように少し前屈みになり、無慈悲な眼をした。遅かれ早かれ、警官はみんな同じ目つきをする」は<He was leaning over a little, sharp as a terrier, with that stony look in his eyes they all get sooner or later>。清水訳は「彼はテリヤのような眼でじっと私を見つめた」だ。テリアは地中の小動物を狩りだすための猟犬として開発された犬だ。キツネ穴に飛び込もうとするときの前傾姿勢を指すのであって、眼ではない。村上訳は「彼はテリアみたいに鋭く、いくらか前屈みになった。その目には無慈悲な冷酷さが浮かんでいた。いつかはそいつが顔を出すことになる」だ。<sharp>といえば何でも「鋭い」と訳すのは少し芸がないと思う。<they>はどこへ行ったのだろう。

「マガジン・テーブルにマッチ・ホルダーを探しに行った」は<went over to my magazine table for a match folder>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「マッチをとりにマガジン・テーブルまで行った」と訳している。<match folder>というのは、マッチを入れておくちょっとした小物入れのこと。材質も形状もさまざまで、灰皿がついている物もある。

「コーヒーを淹れ、ドリップがすむまで待った」は<made the coffee and waited for it to drip>。清水訳は「コーヒーの仕度をした」。村上訳は「コーヒーを作った」だ。まあ、薬缶を火にかけたことはわかっているので、サイホンやパーコレーターでないことは明らかだが、ドリップであることを知らせておくのも悪くはないだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第28章(2)

階と階とをつなぐ階段は<stairs>。戸口から地面に通じる階段は<steps>。

【訳文】

 《彼女はグラスを持って帰ってきた。冷たいグラスを持ったせいで私の指に触る彼女の指まで冷たくなっていた。私はしばらくその指を握り、それからゆっくり放した。顔に陽を受けて目覚め、魔法にかけられた谷にいる夢を手放すときのように。
 彼女はさっと顔を赤らめ、自分の椅子に戻り、居ずまいを正して腰を下ろした。
 彼女は私が酒を飲むところを見やりながら、煙草に火をつけた。
「アムサーにはけっこう冷酷なところがある」私は言った。「しかし、どういうわけか私には宝石ギャングのブレーンのようには思えない。思い違いかもしれないが。仮に彼が参謀役で、私が何かつかんでいると知っていたら、あの麻薬病院から生きて出られたとは思えない。しかし、後ろ暗いところのある男だ。見えないインクで書かれた文字について口を滑らすまでは手荒な真似をしなかった」
 彼女は動じる様子もなく私を見た。「何と書いてあったの?」
 私はにやりとした。「あったとしても、私は読んでいない」
「問題発言を隠すにしては変わった方法だとは思わない? 煙草の吸い口の中というのは。見つからないかも知れないのに」
「そのことだが、マリオットは何かを怖れていて、もし自分に何かあったときにその名刺が発見されるようにしたのではないか、と思うんだ。警察は彼のポケットにあるものなら何でも徹底的に調べるはず。そこが悩みの種さ。もし、アムサーが強盗の一味だったら何も見つからなかっただろう」
「アムサーが彼を殺した―それとも殺させた、とすればね。でも、マリオットがアムサーについて知っていたことは、殺人と直接の関係はなかったかもしれない」
 私は椅子の背にもたれ、酒を飲み終え、それについて熟考しているふりをした。私はうなずいた。
「しかし、宝石泥棒は殺人と関係している。そして、アムサーが宝石泥棒と関係していると我々は考えている」
 彼女の眼に少し意味ありげな色が浮かんだ。「ひどい気分なんでしょう」彼女は言った。「ひと眠りした方がいいんじゃない?」
「ここでかい?」
 彼女は髪の根元まで赤くなった。顎を突き出した。「そういうこと。私は子どもじゃない。誰が気にするというの? 私がいつどこで何をどうしようと」
 私はグラスを脇に置いて立ち上がった。「めったにないことだが気後れしている」私は言った。「あまり疲れてなければタクシー乗り場まで送ってもらえないだろうか?」
「ばかじゃないの」彼女は怒って言った。「死ぬほど殴られて訳の分からない麻薬をたっぷり打たれたのよ。あなたに必要なのは一晩ぐっすり眠ることだけ、朝早くすっきり目覚めて、また探偵業にとりかかるために」
「少しばかり朝寝坊しようと思っていた」
「入院してなきゃいけないはずなのに。ばかなひと」
 私は身震いした。「いいかい」私は言った。「今夜は特別冴えているわけじゃないが、ここに長居しない方がいいと思う。連中について立証できることは何もないが、私は好かれていないようだ。何を言うにせよ警察を相手にしなければならないが、この街の警察はかなり腐敗しているようだ」
「ここはいい街です」彼女は少し息を切らせて言い放った。「勝手に決めつけないで―」
「オーケイ、いい街だよ、シカゴだってそうだ。トミーガンなど目にすることなく長生きすることもできる。もちろん、いい街さ。確かにロサンジェルスより腐っちゃいない。しかし、大都市で買えるのはそのうちの一部だ。これくらいの小さな街なら丸ごと買えるんだ。特製の箱に入れて包装紙で包んでもらえる。それが違いなのさ。それで外に出たくなる」
 彼女は立ち上がり、顎を私の方に突き出した。「あなたは今すぐここで寝るの。私には別の寝室があるから、あなたはちゃんと寝られる―」
「君の寝室のドアに鍵をかけると約束してくれるかい?」
 彼女は真っ赤になって唇を噛んだ。「時々、あなたを最高の探偵だと思う」彼女は言った。「そして、時々、こんな最低の下司野郎、見たことないと思う」
「どちらでも構わないから、タクシーを拾えるところまで連れて行ってくれないか?」
「ここにいるの」彼女はぴしゃりと言った。「あなたは体調がよくない。病人なの」
「人に指図されなきゃいけないほど病んではいない」私は意地悪く言った。
 彼女はあわてて部屋を飛び出したので、居間から廊下までの二段の段差で危うくつまずくところだった。彼女はすぐに戻ってきた。スラックスーツの上に長いフランネルのコートを羽織り、帽子はかぶっていなかった。赤みを帯びた髪は顔と同じくらい怒っているように見えた。
 彼女は通用口のドアを叩きつけるように開け、飛び跳ねるように通り抜けた。騒々しい足音がドライブウェイに響いた。ガレージの扉が上がる音が微かに聞こえた。車のドアが開いたかと思うと、バタンと閉まった。スターターが軋り、エンジンがかかった。ヘッドライトの閃光が居間の開いたフレンチ・ドアを通り過ぎた。
 椅子から帽子を取り、スタンドの灯りをいくつか消してみると、フレンチ・ドアにはエール錠がかかっていることが分かった。ドアを閉じる前に一瞬振り返った。快適な部屋だった。スリッパを履いて過ごすにうってつけの部屋だろう。
 ドアを閉じると同時に小さな車が傍に滑り込んだ。その後ろを回って車に乗り込んだ。
 彼女は家まで送ってくれた。唇を固く閉じ、怒って。嵐のような運転だった。私がアパートの前に降り立つと、彼女は冷やかな声でおやすみなさいと言い、通りの真ん中で小さな車を回して、私がポケットから鍵を取り出す前に行ってしまった。
 ロビーのドアは午後十一時で鍵が閉まる。鍵をあけ、いつも黴臭いロビーを抜け、階段とエレベーターのところまで行って、自分の階に上がった。わびしい光があたりを照らしていた。配達用ドアの前に牛乳瓶が置かれていた。その後ろに赤い防火扉が控えていた。換気用網戸がついているが、物憂げに流れ入る外気には調理場の匂いを消し去ることはできなかった。私は動きを止めた世界に帰ってきた。世界は眠りこける猫のように害がなかった。
 アパートのドアの鍵を開けて中に入り、明りのスイッチを入れるまでの束の間、ドアに凭れて佇み、匂いを嗅いだ。素朴な匂い、埃と煙草の煙の匂い、男たちが暮らし、生き続ける世界の匂いだ。
 服を脱いでベッドに入った。悪夢を見て汗をかいて目を覚ました。しかし、朝には健康な体に戻っていた。》

【解説】

「少しばかり朝寝坊しようと思っていた」は<I thought I'd sleep a little late>。清水氏は「ぼくはむしろ寝すぎたと思っているんだが……」と訳している。村上氏も「むしろ長く眠りすぎたような気がしていたんだがな」と訳している。<late>には「遅れる」の意味はあるが「~過ぎる」の意味はない。これはその前のアンの言った<to get up bright and early>を受けて、むしろ早起きしないでゆっくり寝ていたい、と言っているのだ。

「勝手に決めつけないで―」は<You can't judge->。清水氏は「一度そんなことがあったからって……」と、口にしていないところを推測して訳に使っている。村上訳も「たしかに一部では……」と、同じやり方だ。

「トミーガン」は<Tommygun>。正式には「トンプソン・サブマシンガン」という、短機関銃の愛称だ。清水氏は「機関銃」、村上氏は「マシンガン」と訳している。しかし、シカゴ・ギャングといえば「トミーガン」はつきもの。それに、一人で手に持って連射できる「サブマシンガン」は二脚架や三脚架のいる機関銃とは別物だ。あえて、別称を使う必要はない。

「特製の箱に入れて包装紙で包んでもらえる」は<with the original box and tissue paper>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「オリジナルの箱に入れて、きれいな詰め物までしてね」と訳している。<tissue paper>はティッシュペーパー。「薄葉紙(うすようし)」ともいう。緩衝材としても使うし、ラッピングにも用いる。村上氏は詰め物と考えたようだが、日本語なら「熨斗をかけて」というところだ。包装紙と考える方が、より効果的ではないか。

「彼女はあわてて部屋を飛び出したので、居間から廊下までの二段の段差で危うくつまずくところだった」は<She ran out of the room so fast she almost tripped over the two steps from the living room up to the hall>。清水訳では「彼女は足早に入口のホールへ走って行って」となっている。村上訳は「彼女は憤然として勢いよく部屋を出て行ったので、居間から二歩廊下へ出たところで危うくひっくり返りそうになった」だ。

<trip over>は「つまずく、よろける」で、「ひっくり返り」はオーバーだと思うが、気になるのはそこではない。<the two steps from the living room up to the hall>を「居間から二歩廊下へ出たところで」と訳しているところだ。ここはスキップフロアになっているのではないだろうか。階と階とをつなぐ階段には<stairs>を使うが、戸口などから地面に通じる階段は<step>を複数扱いにして用いる。第八章のマリオットの部屋でも<three steps>が使われている。何もないところでひっくり返りそうになるより、居間から廊下に至る段差でつまずきそうになった、と考える方が自然だ。

「ヘッドライトの閃光が居間の開いたフレンチ・ドアを通り過ぎた」は<the lights flared past the open French door of the living room>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ライトが灯り、その強い光が居間のフレンチ・ドア越しに見えた」と<open>をトバしている。これは後でエール錠がかかっているのを目にしているので、整合しないと見てわざと訳さなかったのだろう。清水氏は「フレンチ・ドアにはエール錠がかかっていることが分かった」という部分もカットしている。「フレンチ・ドア」はテラスに面して床まで開け放つ形式の観音開きのガラス窓だ。ガラス越しに強い光を目にしたマーロウが、ドアが開いていると勘違いしても無理はない。だからわざわざ施錠してあることを確認したのだ。

「階段とエレベーターのところまで行って」は<along to the stairs and the elevator>。清水氏は<the stairs>をトバして「エレヴェーターに乗った」と訳している。村上訳は「ステップを上がってエレベーターのところまで行き」だ。こだわるようだが、この時点でマーロウは玄関を入ってロビーに来ている。つまり、もう戸口と地面を仕切る「ステップ」はない。はっきり<the stairs>と書かれている。だいたい、エレベーターのある建物には階段が併設されているものだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第28章(1)

「胃」がバントをするなんて聞いたことがない。

【訳文】

《居間には淡い茶色の模様入りのラグ、白と薔薇色の椅子、高い真鍮の薪のせ台のついた黒大理石の暖炉があった。壁には造りつけの背の高い書棚、閉めたベネチアンブラインドの前にはざっくりした地のクリーム色のカーテンがかかっていた。
 きれいに磨かれた床の前にある全身大の姿見以外、その部屋に女性らしさのうかがえるものはなかった。
 私は深い椅子に半ば腰かけ、半ば寝そべり、両脚を足置きの上に乗せていた。ブラックコーヒーを二杯飲んだ後に酒を飲み、それから半熟卵を二つ食べる間にトーストを一枚割り込ませ、それからもう少しブランデーを入れたブラックコーヒーを飲んだ。これらを飲み食いしたのは、朝食室だったが、もうどんな感じだったか思い出せない。はるか昔のことだ。
 私は生気を取り戻した。ほぼ素面で、気分としてはセンターのポール狙いではなく、三塁線に向けてのバントだった。
 アン・リオーダンは私と向かい合わせに座り、前かがみになって、小ぎれいな顎に小ぎれいな手で頬杖をついていた。両眼はふわりとふくらんだ鳶色の髪のせいで暗くぼんやりしていた。髪には鉛筆が一本差されていた。気づかわしげに見えた。私はさわりだけ話したが、すべてではなかった。とりわけ、ムース・マロイのことは話さなかった。
「酔っぱらっているんだと思った」彼女は言った。「酔っぱらわなけりゃ私に会えなかったんだと。あなたはあの金髪女と出かけたものと思ってた。私が―今夜何て思ったかなんて分かるわけない」
「これ、執筆で手に入れたわけじゃないよな」私はあたりを見回しながら言った。「たとえ君が何を考えたかを考えることで金を稼いでいたとしても」
「父が警察で汚職をして得たわけでもない」彼女は言った。「近頃、警察署長になったあのデブのとんまのように」
「私の知ったことではない」私は言った。
 彼女は言った。「デル・レイに土地を持ってた。騙されて買ったただの砂地。そこが石油の出る土地だと分かった」
 私は肯き、手にしていた素敵なクリスタルのグラスをあけた。中に入っていたものは心地よく温かい味がした。
「ここなら腰を落ち着けられる」私は言った。「引っ越してくるだけだ。すべて揃ってる」
「それが似合う人ならね。そして、女は誰でも男に落ち着いてほしいの」彼女は言った。
「執事がいない」私は言った。「そこが難点だ」
 彼女は顔を赤らめた。「けど、あなた―あなたはそれより、頭をめったうちにされ、腕は麻薬の注射針で穴だらけにされ、顎はバスケットボールのバックボード代わりに使われるほうがいいらしい。懲りない人よね」
 私は黙っていた。とても疲れていたのだ。
「少なくとも」彼女は言った。「あなたはあの吸い口を調べるだけの頭は持ってた。アスター・ドライブでの話しぶりでは、なんにも見えてないと思ってた」
「あの名刺には何の意味もなかった」
 彼女の眼が私をねめつけた。「あなた、そこに座って言ったじゃない。男が二人組の悪徳警官を使ってあなたを袋叩きにさせた後、嘴を挟むなと言わんばかりに二日間断酒治療病棟に放り込んだ、と。ここまでのところで目立つのは、あなたが一ヤードばかし話を端折ってて、まだ野球のバット一本分は、たっぷり残ってるってこと」
「ひとつ言っておかなきゃいけない」私は言った。「それが私のスタイルなんだ。大雑把なのさ。何が目立つんだ?」
「そのエレガントな霊能力者とやらは、ハイクラスなギャングの一員に過ぎない。見込みのありそうな客を見つけて、相手の懐に入り込み、ごろつきどもに命じて宝石を奪わせる」
「本当にそう思うのか?」
 彼女は私をじっと見つめた。私はグラスを干し、弱ったという顔をしてみせた。彼女は無視した。
「もちろんそう思う」彼女は言った。「あなたもそうでしょう」
「私はもう少し複雑だと考えている」
 彼女の微笑は感じがよく、同じくらい辛辣なものだった。
「ごめんなさい、あなたが探偵だってこと、ちょっと忘れてたみたい。それは複雑でなけりゃいけない、そうよね? 単純な事件では品格が保てないもの」
「もっと込み入った話なんだ」私は言った。
「分かった。話を聴くわ」
「分からないんだ。そう思うだけのことで。もう一杯くれないか?」
 彼女は立ち上がった。「分かってると思うけど、時には水も味わってみるべきよ、面白半分で」彼女はやってきてグラスを取り上げた。「これが最後よ」彼女は部屋を出て行き、どこかで角氷が立てる音が聞こえた。私は眼を閉じてその取るに足りない音を聞いた。私の出る幕ではなかった。私の想像通りに、連中が私のことを調べあげていたら、ここへ探りを入れに来るかもしれない。そうなったら面倒だ。》

【解説】

「淡い茶色の模様入りのラグ」は<a tan figured rug>。清水氏は「毛皮の敷物」と訳している。<tan>には「(獣皮)をなめす」という意味があるので、そう訳したのだろうが、ここは名詞なので「黄褐色」のこと。村上訳は「タン色の模様が入った絨毯」。床全体に敷き詰める<carpet>と区別するため<rug>は、もう「ラグ」でいいのではないだろうか。

「薪のせ台」は<andirons>。二つで一組のため、複数形になっている。暖炉内に薪を置く際に、下からの空気の流入をよくするため、直に置くのでなく、少し隙間をあけるために使う器具のこと。両氏とも「真鍮と鉄の枠」と訳しているが、これは<brass andirons>を<brass and iron>と誤読した清水訳を、村上氏がそのまま踏襲したのではないかと考えられる。

「閉めたベネチアンブラインドの前にはざっくりした地のクリーム色のカーテンがかかっていた」は<rough cream drapes against the lowered venetian blinds>。清水氏は前半をカットして「クリーム色の壁かけがあった」と訳している。通常、ブラインドは窓につけるものだ。「壁掛け」を窓にかける人はいないだろう。村上訳は「閉じられたベネシアン・ブラインドには粗い布地のクリーム色のカーテンがかかっていた」。

「半熟卵を二つ食べる間にトーストを一枚割り込ませ」は<I had had two soft-boiled eggs and a slice of toast broken into them>。清水氏は「半熟の卵を二つとトーストを一枚砕いて食べ」と訳し、村上氏は「二個の柔らかく茹でられた卵を食べ、一枚のトーストをちぎって卵につけて食べた」と訳している。ずいぶん奇妙な食べ方をするものだ。<break into>には「押し入る、割り込む」の意味がある。二つの卵を平らげる途中にトーストを食べたことを言っているので、トーストを「砕い」たり、茹で卵に「つけて」食べたわけではない。

「朝食室」と訳したのは<breakfast room>。清水氏は単に「食堂」。村上氏は「朝食用の部屋」に「ブレックファスト・ルーム」とルビを振っている。アメリカの家には、ディナー用の食堂とは別に、朝食を食べるためのコーナーがキッチンの隣に設けられていることがあるらしい。そういうところを<breakfast room>と呼ぶそうだ。たしかに、朝食は朝陽が差し込む部屋で食べたいし、夕食は落ち着いた調度の部屋でテーブルをかこみたい。日本の住宅メーカーが、このスタイルを取り入れなかったのはなぜだろう。

「気分としてはセンターのポール狙いではなく、三塁線に向けてのバントだった」は<my stomach was bunting towards third base instead of trying for the centerfield flagpole>。清水氏は「私の胃はセンターの旗のさお(傍点二字)に向っているのでなく、三塁にバントしようとしていた」と訳している。村上訳は「私の胃袋は、センターの国旗掲揚台に向けてかっとばすのをあきらめて、三塁側に地道にバントを転がしていた」だ。<stomach>には日本語の「腹」と同様に「気分、気持ち」の意味がある。さっきまでの戦闘状態が、飲み食いしたことで、すっかり落ち着き、リラックス・ムードになった気分を表したもので、腹具合について触れているわけではない。

「懲りない人よね」と訳した文は<God knows there's enough of it>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「この先いつまでそんな生活を続けるつもり?」と訳している。<God knows>は「神ならぬ身の知る由もなし」。もっとくだけるなら「知らない。もうたくさん」くらいか。

「ここまでのところで目立つのは、あなたが一ヤードばかし話を端折ってて、まだ野球のバット一本分は、たっぷり残ってるってこと」は<Why the thing stands out so far you could break off a yard of it and still have enough left for a baseball bat>。清水訳は「まだそんなことをいってるの! 立派な証拠じゃないの。これほどはっきりしていることはないわ」。村上訳は「それでもなお何の意味もなかったなんて言えるわけ? いろんなことがずいぶん明白になったし、このままいけばもっと多くの真相が暴けそうじゃない」だ。

<break off a yard of it>は「それを一ヤード切り取る」という意味で、ふつうは<it>のところに<cloth>のように布を表す言葉が入る。文脈から考えて、切り取っているのは話の内容であることは、マーロウが少し前のところで<I had told her some of it, but not all>と.言っていることから分かる。よく分からないのは残っている部分のことを<a baseball bat>と表現していることだ。スラングでは頭を殴る「凶器」を意味するらしいが、一ヤードとの関係で言えば、長さを表しているのかもしれない。

「それが私のスタイルなんだ。大雑把なのさ。何が目立つんだ」は<Just my style. Crude. What sticks out? >。清水氏は「それはぼくのいういうことなんだが、いったい君はどう思っているんだ?」と訳している。<stick out>は「目立つ」という意味だが、清水氏の訳は意味をなしていない。村上訳は「荒っぽいのが流儀だ。仕方ない。それでいったい何が明白なんだね?」。<crude>を「荒っぽい」と訳しているのは、手荒い扱いを受けたことを言っているのだろうが、語義からいえば、粗雑で洗練されていないことを意味する言葉だ。ここは話に抜けている点があることを言っていると思うのだが。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第27章(2)

「怪物博士」とは、ボリス・カーロフ知名度も落ちたものだ。

【訳文】

「ここを出たら、すぐに逮捕される」彼は厳しく言った。「君は警察官によって正式に収監されたんだ―」
「警察官にそんなことはできない」
 それは彼を動揺させた。黄色味を帯びた顔に変化が生じた。
「いい加減、吐いたらどうだ」私は言った。「誰が連れてきたんだ。なぜ、どうやって? 今夜は気分がうずうずする。汗まみれになって踊りたい。バンシーの叫び声が聞こえる。一週間というもの誰ひとり撃っていない。しゃべるんだ。ドクター・フェル。古風なヴィオラをかき鳴らして、優しい音楽を響かせてくれ」
「君は麻薬中毒で苦しんでいる」彼は冷やかに言った。「危うく死ぬところだった。ジギタリスを三度も投与しなければならなかった。君は暴れて、叫んだ。拘束しなければならなかった」言葉が矢継ぎ早にぴょんぴょんと撥ね飛んで出てきた。「今の状態で病院から出たりしたら、深刻なトラブルに見舞われることになる」
「ドクターだと言ったな。医者なのか?」
「もちろん。私はドクター・ソンダーボルグ。言ったとおりだ」
「人は麻薬中毒で暴れたり叫んだりしない。ただ昏睡するだけだ。ハズレ。やり直しだ。私の知りたいのはたった一つ。あんたの非公式の気ちがい病院に私を送り込んだのは誰だ?」
「しかし―」
「しかしもくそもない。ひっつかんで、マームジー・ワインの樽に入れて溺れ死にさせてやろうか。いっそ自分が溺れ死ぬためのマームジー・ワインの樽が欲しいよ。シェイクスピアだ。彼は酒とも昵懇の仲だったからな。こちらも気つけ薬を飲ろう。私は彼のグラスに手を伸ばし、お互いのグラスに酒を注いだ。「さっさとやれよ、カーロフ」
「警官が連れてきたんだ」
「どこの警官だ?」
「当然、ベイシティの警官だ」彼の落ち着かない黄いろい指がグラスを弄んでいた。「ここはベイシティだ」
「ところで、その警官に名前はあるのか?」
ガルブレイス巡査部長だったと思う。正規のパトロールカー警官ではなかった。金曜の夜、彼ともう一人の警官が放心状態で家の外をうろついている君を見つけた。ここへ運んだのは近かったからだ。中毒患者が麻薬を過剰摂取したと思ったのだが、どうやら、ちがっていたようだ」
「よくできた話だが、嘘だと証明できない。しかし、どうして私を引き留めるんだ?」
 彼は落ち着きのない手を広げた。「何度も言ったはずだ。君はひどく具合が悪かった。それは今も同じだ。いったい私にどうしろと言うんだ?」
「私には支払い義務があるという訳だ」
 彼は肩をすくめた。「当然だ。二百ドルだ」
 私は少し椅子を引いた。
「激安だな。とってみろよ」
「もしここを出たら」彼はとげとげしく言った。「すぐ逮捕されることになる」
 私は机に倚りかかり、彼の顔に息を吹きかけた。「ただ出て行きはしないよ、カーロフ。壁の金庫を開けるんだ」
 彼はさっと立ち上がった。「これはやり過ぎだ。もう充分だろう」
「開けないつもりか?」
「絶対開けない」
「私が銃を持っているのに」
 彼はかろうじて苦々し気に微笑んだ。
「大きな金庫だ」私は言った。「それに新しい。この銃は高性能だ。開ける気はないか?」
 彼は顔色を変えなかった。
「くそっ」私は言った。「銃をつきつけたら、何でも相手の言う通りにするものだ。うまくいかないもんだな?」
 彼は微笑んだ。サディスティックな喜びの微笑だった。私は後ろによろけた。へたり込みそうだった。
 私は机で体を支えた。彼は待っていた。彼の唇がわずかに開いた。
 私は長い間そこに倚りかかり、彼の両眼を見つめていた。それからにやりとした。微笑が彼の顔から汚れたぼろ屑みたいに落ちた。その額には汗が浮かんだ。
「じゃあな」私は言った。「君のことは私より汚い手に任せるよ」
 私はドアまで戻り、それを開けて外に出た。
 玄関の扉に鍵はかかっていなかった。屋根付きのポーチがあり、庭には花が咲き乱れていた。白い囲い柵と門があった。家は角地に建っていた。しっとりした涼しい夜で、月は出ていなかった。
 街角の標識はデスカンソ通りを示していた。街区に並ぶ家々には灯りが点っていた。私はサイレンの音に耳を済ませた。何も聞こえない。もう一つの標識は二十三番街。私は二十五番街まで歩き、八百番台の街区に向かった。八一九番がアン・リオーダンの番地だった。サンクチュアリだ。
 長い間歩いてきてまだ銃を手にしていることに気づいた。サイレンは聞こえなかった。
 歩き続けた。外気を吸って気分は良くなったが、ウィスキーの効き目が切れかけ、切れてくると身悶えした。その街区には樅の木が繁り、煉瓦造りの家が並んでいた。南カリフォルニアというよりもシアトルのキャピトル・ヒルのようだ。
 八一九番地にはまだ灯りが点っていた。高い糸杉の生垣に押しつけられるように、とても小さな白い屋根つきの車寄せがあった。家の前には薔薇の茂みがある。そこまで歩いて行った。呼び鈴を押す前に耳をすませた。まだサイレンは聞こえてこなかった。ベルが鳴り、しばらくすると、玄関のドアに鍵をかけたままで話ができるようになっている一種の電気装置から声が聞こえてきた。
「何のご用ですか?」
「マーロウだ」
 彼女は息を呑んだようだった。もしかしたら、電気装置が切れるときの音かも知れない。
 ドアが大きく開かれ、薄緑のスラックスーツを着たアン・リオーダンが私を見て立っていた。眼は大きく開かれ怯えていた。玄関灯の眩しい光を受けた顔が見る見る蒼ざめた。
「どうしたの」彼女は叫び声をあげた。「あなた、まるでハムレットの父親みたい!」

【解説】

「汗まみれになって踊りたい。バンシーの叫び声が聞こえる。一週間というもの誰ひとり撃っていない」は<I want to go dance in the foam. I hear the banshees calling. I haven't shot a man in a week>。清水氏はここを「何をするかわからないんだぜ」と訳している。まあ、突然「バンシー」が登場しても何が何やら分からないだろう。村上訳は「血にまみれてダンスをしたくてたまらない。バンシー(死人がでることを泣き叫んで予告する妖精)の叫びが聞こえる。それにこの一週間まだ誰も殺してないんだ」。<in the foam>を「血にまみれて」と訳すのは少し無理があると思う。

「ドクター・フェル。古風なヴィオラをかき鳴らして、優しい音楽を響かせてくれ」は<Dr. Fell. Pluck the antique viol, let the soft music float>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ドクター。時代物のヴァイオリンを手にとって、麗しい音楽を奏でてくれ」だ。<viol>は厳密には「ヴィオラ・ダ・ガンバ」。「ドクター・フェル」といえばディクスン・カーの名探偵「フェル博士」を思い出すが、ここで使われているのは、その意味から考えて『マザー・グース』の「フェル先生 僕はあなたが嫌いです」(I do not like thee, Doctor Fell)ではないだろうか。どちらにせよ、註なしでは理解しにくいので両氏とも略したのだろう。

「ドクターだと言ったな。医者なのか?」は<Did you say you were a doctor-a medical doctor?>。清水氏は「君は医者だといったね?」と訳し、その後を「いかにも医師ソンダーボーグだ」と訳している。村上氏は「あんたドクターって言ったね。医学博士ということか?」「もちろんだ。ドクター・ソンダボーグ。そう言ったはずだ」だ。「ドクター」はふつう医師のことだが、博士号取得者なら「ドクター」を名のることができる。「医者(medical doctor)か?」と訊いているのに、「ドクター」としか答えていないところがいかにも胡散臭い。清水訳ではそこのところが伝わらない。

「ハズレ。やり直しだ。私の知りたいのはたった一つ」は<Try again. And skim it. All I want is the cream>。清水訳は「ごまかそうと思っても無駄だよ」。村上訳は「いい加減なことを言うのはよした方がいい。私が知りたいのは真実だ」。<skim>は「すくい取る」こと。<the cream>には「(話の)妙所」の意味がある。両氏の訳からは<Try again>の意味が抜け落ちている。マーロウは同じ問いを繰り返しているのだ。

「あんたの非公式の気ちがい病院」と訳したところは<your private funny house>。清水氏は「化物屋敷」と訳しているが、<funny house>は「面白い家」ではなく「精神病院の蔑称」だ。村上訳は「気違い病院」。マーロウは、この屋敷のつくりや、いかにもな診察室、ドクターと称する相手の医学的知識のいい加減さから、この屋敷が私設の収容所のようなものだと見破っている。<private>には「私立、民間」の意味があるが、ここでは表沙汰には出来ないという意味を込めて「非公式」と訳しておいた。

「さっさとやれよ、カーロフ」は<Get on with it, Karloff>。清水氏は「さあ、話してくれ、カーロフ(ボリス・カーロフ、怪奇映画専門の俳優)」と註をつけて訳している。村上訳は「さあ、一杯やれよ、怪物博士」。ボリス・カーロフといえば、フランケンシュタインの怪物を演じた役者で、一般的なイメージの原型になっている。どちらかといえば、いつもは逐語訳に近い村上氏がこのような訳語を使うのはめずらしい。註をつけても、ボリス・カーロフの名前を知らない読者が一般的になったということか。

「彼の落ち着かない黄いろい指がグラスを弄んでいた」は<His restless yellow fingers twisted his glass>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「落ち着きのない黄色い指がグラスをねじっていた」と、ここは逐語訳だ。

「ただ出て行きはしないよ、カーロフ」は<Not just for going out of here, Karloff>。.清水氏は「ここを出て行くだけで、捕縛されるというのはおかしいぜ、カーロフ」と訳している。<not just>を「正当でない(おかしい)」と解したのだろうが、これではその後に続く<Open that wall safe>にうまく結びつかない。<not just>は「だけでなく、に限らず」という意味だ。村上訳は「ここから出て行くっていうだけじゃないぜ、先生」と、ここも、やはり通じないと見たのか「カーロフ」を使うのを避けている。

「八一九番がアン・リオーダンの番地だった。サンクチュアリだ」は<No. 819 was Anne Riordan's number. Sanctuary>。清水氏はここを「八一九番地はアン・リアードンのアパートだった。そこにまさる避難所はない」と訳しているが、後に出てくるアンの家は一戸建てだ。村上訳は「八一九番地にはアン・リオーダンが住んでいる。そこまで行けば安全だ」。「聖域」を意味する「サンクチュアリ」が「自然保護区」を意味することは、現在では、知られているのではないか。もう一つ、清水氏は<porte-cochere>を「ギャレージ」としているが、これは「屋根付きの車寄せ」のことで、村上氏もそう訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第27章(1)

ものをいうとき舌を外に出すだろうか?

【訳文】

《そこは診察室だった。狭くもなく、広くもない、簡便で実務的な作りだ。ガラス扉の中に本がぎっしりつまった書架。壁には応急処置用の薬品棚。消毒のすんだ注射針と注射器がずらりと並ぶ、白いエナメルとガラスの殺菌消毒キャビネット。大きな平机の上には、吸取り器、ブロンズのペーパーナイフ、ペンセット、スケジュール帳を除けば、他にはほとんど何もない。両手に顔を埋めて考え事に耽っている男の肘があるばかりだ。
 広げた黄色い指の間から濡れた茶色い砂色の髪がのぞいていた。とても滑らかで、頭蓋骨に描いたように見える。私はあと三歩前に出た。机越しに私の靴の動くのが見えたにちがいない。彼は頭を上げ、私を見た。落ちくぼんで生彩を欠いた眼が羊皮紙めいた顔の中にあった。彼は両手を放してゆっくりと後ろにもたれ、無表情に私を見た。
 それから、困ったような非難するような仕種で両手を広げ、下ろすときに一方の手を机の隅近くに置いた。
 私はもう二歩進み、ブラックジャックを見せた。彼の人差し指と中指が机の隅に向かって動いていた。
 「ブザーなら」私は言った。「今夜はもうお役御免だ。見張りは寝かしつけた」
 彼の目は眠そうになった。「君はひどく具合が悪いようだった。重篤だった。まだ起きて歩きまわるのはお勧めできないね」
 私は言った。「右手だ」。私はブラックジャックで相手の右手をぴしゃりと打った。手は傷ついた蛇のように丸まった。
 私は意味のない笑いを浮かべ、机の向こうに回った。もちろん銃は抽斗に入っていた。銃はいつも抽斗に入っている。仮に手にしたところで、いつも手遅れだ。私は銃を取り出した。三八口径のオートマチック、スタンダードモデルで、私の銃ほど良くないが弾は使える。抽斗には他に弾はなさそうだった。私は彼の銃から弾倉を抜き出そうとした。
 彼はかすかに体を動かした。眼は落ちくぼんだままで、悲しげだった。
「絨毯の下にもブザーがあるのかもな」私は言った。「本署の署長室に通じているのかもしれない。押すんじゃないぞ。ここ一時間ばかりの私はひどくタフガイだ。誰であれ、あのドアを開けたが最後、そいつは棺桶の中に足を突っ込んでいる」
「絨毯の下にブザーなどない」彼は言った。声にはほんの少し外国訛りがあった。
 弾倉から取り出した弾を自分の空っぽの弾倉に入れ替えた。彼の銃の薬室にあった弾をはじき出し、そのままにしておいた。自分の銃の薬室に弾を装填して机の向こう側に戻った。
 ドアにはばね錠がついていた。私は後ずさりしてドアを押して閉め、錠のかかる音を聞いた。掛け金もあった。それも掛けた。
 私は机のところに戻り、椅子に腰かけた。それで最後の力を使い果たした。
「ウィスキー」私は言った。
 彼は両手を動かし始めた。
「ウィスキーだ」私は言った。
 彼は薬品棚のところへ行き、緑色の収入印紙が貼られた平たい瓶とグラスを手にとった。
「グラスは二つ」私は言った。「おたくのウィスキーを前に試したことがあってね。カタリナ島までとばされそうになった」
 彼は小さなグラスを二つ手にとって封印を切り、二つのグラスを満たした。
「お先にどうぞ」私は言った。
 彼はかすかに微笑み、グラスのひとつを揚げた。
「君の健康を祝して、残り物のね」彼は飲んだ。私も飲んだ。私は瓶に手を伸ばし、近くに置き、胸の中が熱くなるのを待った。心臓がどきどきし始めたが、再び胸の中に戻ってきた。靴ひもでぶら下がったりしていなかった。
「うなされていた」私は言った。「馬鹿げた妄想だ。夢を見たんだ。ベッドに縛られ、いやというほど麻薬を打たれ、鉄格子のついた部屋に監禁された。ぼろぼろだった。ただ眠った。何も食べていない。まるきりの病人だ。頭に一発食らわされ、したい放題できる場所に連れ込まれたんだ。ずいぶん手間をとらせたものさ。私はそんな大物じゃない」
 彼は何も言わなかった。私を見ていた。私がどれだけ生きていられるのか行末を推し測っているみたいな目をして。
「目を覚ましたら部屋中煙っていた」私は言った。「ただの幻覚さ。視神経過敏とか何とかいうのだろう、業界用語じゃ。ピンクの蛇の代わりに煙が見えた。叫び声を上げたら、白衣を着た逞しいのがやってきて、ブラックジャックをちらつかせた。それを取り上げる準備をするのにけっこう手間をかけたんだ。鍵を手に入れ、自分の服はもちろん、男のポケットから自分の金まで取り返した。だからここにいる。完全に回復した。何か言ったか?」
「発言していない」彼は言った。
「発言の方がしてもらいたがっている」私は言った。「やつらは言われるのを待ってたむろしている。こいつは―」私はブラックジャックを軽く振った。「いい働きをする。私は男から借りなければならなかった」
「それをすぐに渡しなさい」彼は微笑を浮かべながら言った。人をその気にさせる微笑だ。死刑執行人の微笑みに似ている。絞首台の落とし戸が過たず開くよう、体重を測る目的で監房を訪れるときの微笑だ。少しばかり人懐っこく、少しばかり父親めいてはいるが、少しばかり用意周到でもある。もし、何かしら生き延びるための手立てがあったなら、きっと気に入るだろう。
 私は彼の手のひらにブラックジャックを落とした。左の手のひらだ。
「さあ、銃も」彼は優しく言った。「君はずっと具合が悪かったんだ。ミスタ・マーロウ。ベッドに戻るべきだ」
 私はじっと彼を見た。
「私はドクター・ソンダーボルグ」彼は言った。「茶番劇は好きではない」
 彼はブラックジャックを目の前の机の上に置いた。彼の微笑は凍った魚のように固まっていた。長い指は死にかけた蝶のような動きをしていた。
「銃を渡すんだ」彼は優しく言った。「悪いことはいわない―」
「今、何時かな? 刑務所長」
 彼は少し驚いたように見えた。私は腕時計をしていたが、発条が切れていた。
「そろそろ深夜だが、それがどうかしたかね?」
「今日は何曜日だ?」
「何を言うかと思えば―日曜の夜さ、もちろん」
 私は机に凭れて考えようとした。銃は彼が獲ろうとするなら取れる位置に握っていた。
「四十八時間以上になる。発作が起きてもおかしくない。誰が私をここに連れて来た?」
 彼は私をじっと見据え、左手が銃に向かってじりじりと動きはじめた。彼は「這いまわる手協会」会員だった。きっと何人もの娘たちが共に時間を過ごしたにちがいない。
「手荒な真似はしたくない」私は鼻を鳴らした。「美しいマナーと完璧な英語を失わせるような真似をさせないでくれ。どうやってここに来たかを教えてほしい」
 彼は勇気があった。銃をひったくろうとした。が、手を伸ばした先に銃はなかった。私はゆったりと椅子に座り、銃を膝の上に置いた。
 彼は真っ赤になってウィスキーの瓶をつかみ、もう一杯自分で注ぎ、素早く飲み干した。それから大きく息を吸って身震いした。彼は酒の味が好きではなかった。ヤク中は決まってそうだ。》

【解説】

「そこは診察室だった」は<It was an office>。清水氏も村上氏も「そこはオフィスだった」と訳している。それを訳とは言わない。無論、会社その他なら「オフィス」という訳語をあてる場合はある。しかし、その後の展開を見れば、ここが単なるオフィスではなく、医者が診療に使う「診察室」であることは自明だ。英語の<office>は、単に「事務室」だけではなく、多種多様の場所を指す。だから、<It was an office>とひとまずは説明しておいて、そこが何の部屋か、詳しく描写をしているのだ。

「消毒のすんだ注射針と注射器がずらりと並ぶ」は<with a lot of hypodermic needles and syringes inside it being cooked>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「熱処理された皮下注射用の針と注射器がたっぷり入っている」と訳している。ここまで書いて、ここを「オフィス」と訳すのは変だと思わなかったのだろうか。

「大きな平机の上には、吸取り器」と訳したところは<A wide flat desk with a blotter on it>。清水訳では「低くて、大きなデスク。その上には吸取紙」となっている。「低い」ことはどこから分かるのだろう? 村上訳は「平ったい大きな机の上には下敷き」だ。やれやれ、また<blotter>の登場だ。村上氏は一貫して「下敷き」説をとる。清水氏は「吸取紙」説だ。当方はといえば臨機応変。今回は、ペンセットやペーパーナイフ、スケジュール帳と筆記具が出揃っているので「吸取り器」説を採用した。弧を描いた底面に吸取り紙をセットした小振りの道具で、書いたばかりの字から余分なインクを吸い取るのに用いる。これまでにも何回も登場しては頭を悩ませてくれる困った小道具である。

「とても滑らかで、頭蓋骨に描いたように見える」は<so smooth that it appeared to be painted on his skull>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「それはあまりにも滑らかにぺちゃっとしていて、まるで頭蓋骨の上に筆で描かれたもののように見えた」だ。

「落ちくぼんで生彩を欠いた眼が羊皮紙めいた顔の中にあった」は<Sunken colorless eyes in a parchment-like face>。清水氏はここもカットしている。それでいながら「しばらく何もいわなかった」という原文にない一文をつけ加えている。村上訳は「羊皮紙でできたような顔に、落ちくぼんだ色のない瞳があった」だ。<colorless>は「無色」という意味だが、「色のない瞳」というのはないだろう。ここは「特色のない、つまらない」という意味にとるのが普通ではないだろうか。

「彼の人差し指と中指が机の隅に向かって動いていた」は<His index and second finger still moved towards the corner of the desk>。清水訳は「彼の人さし指と中指とが静かにデスクの隅の方に動いていた」。村上訳は何故か「彼の人差し指はなおも机の隅に向かって動いていった」と<second finger >をカットしている。読み飛ばしたのだろうか。

「私は意味のない笑いを浮かべ、机の向こうに回った」は<I went around the desk grinning without there being anything to grin at>。清水氏はここを「私はデスクをまわっていって」と訳していて、マーロウの表情にはふれていない。村上訳は「私は笑みを浮かべ、デスクの向こうに回り込んだ。笑みを浮かべる要素などどこにもなかったのだが」。

「銃はいつも抽斗に入っている。仮に手にしたところで、いつも手遅れだ。私は銃を取り出した。」は<They always have a gun in the drawer and they always get it too late, if they get it at all. I took it out>。清水氏はここをカットしている。洒落た文句なのに。チャンドラーのファンはこういう言い回しを好む。村上訳は「いつも抽斗には拳銃が入っているし、いつもそれを取り出すのが遅すぎる。もし取り出すことができればだが。私がそれを取り出した」。<get it>の繰り返しを「取り出す」の繰り返しで表現したのだろうが、間怠い。

「彼の銃の薬室にあった弾をはじき出し、そのままにしておいた。自分の銃の薬室に弾を装填して」は<I ejected the shell that was in the chamber of his gun and let it lie. I jacked one up into the chamber of mine>。清水氏はここをカットしている。弾倉がそのまま薬室になっているリヴォルヴァーとちがい、オートマチックは弾倉を抜き出しても薬室には弾が一発入っているのが普通だ。ここをカットすると、相手の拳銃に弾が残ることになる。村上訳は「彼の銃の薬室にはいっていた弾丸をはじき出した。はじき出された弾丸はそのままにしておいた。自分の拳銃の薬室に一発送り込み」。

「私は後ずさりしてドアを押して閉め」は<I backed towards it and pushed it shut>。清水訳は「私は後ずさりをしながら、ドアを強く押して閉めた」。村上訳は「私はドアのところに行って、それを押し込み」だ。<back toward>には「後ろ向き」の意味がある。つまり、マーロウは相手に銃を向けながら、背中か尻でドアを押して閉めたのだろう。だから、ドアを見ておらず、錠のかかり具合を耳で確かめたにちがいない。村上訳ではそれがよく分からない。

「掛け金もあった」は<There was also a bolt>。清水訳は「閂(かんぬき)もあった」。村上訳は「ボルト錠もついていた」。その後に<I turned that>とあるので「掛け金」と訳した。回転させて留金具に掛けるタイプの錠だと思うが、ひとつ前の「ばね錠」<spring lock>といい、案外ぴったりくる訳語が見あたらない。村上氏は「スプリング・ロック」のままにしている。清水氏は「バネ仕掛けの錠」だ。

「心臓がどきどきし始めたが、再び胸の中に戻ってきた。靴ひもでぶら下がったりしていなかった」は<My heart began to pound, but it was back up in my chest again, not hanging on a shoelace>。清水氏はここもカットしている。あやふやな箇所はトバすことにしているらしい。村上訳は「心臓がどきどきし始めた。しかし心臓は元通り胸の中に収まっていた。靴ひもでどこか別のところにぶら下げられたりしていない」。

「うなされていた」は<I had a nightmare>。清水訳は「俺は悪夢を見ていたんだ」。村上訳は「悪い夢を見ていた」。間違いではないが<have a nightmare>は「うなされる」だ。「馬鹿げた妄想だ」は<Silly idea>。清水訳は「ばかばかしい夢さ」。村上訳は「つまらん夢さ」。両氏とも<idea>を「夢」と訳している。<nightmare>と、すぐ後に続く<I dreamed>に引きずられているのだろう。ここでマーロウが言っているのは、詳細に記述された幻覚症状のことだと考えられる。そう言っておいて「夢を見たんだ」云々が続くのだ。

「ピンクの蛇の代わりに煙が見えた」は< Instead of pink snakes I had smoke>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「桃色の蛇の替わりに、私には煙が見えた」だ。酒などの幻覚によって現れる動物として<pink elephants>というのがある。マーロウの言っているのはそれのことだろう。

「それを取り上げる準備をするのにけっこう手間をかけたんだ」は<It took me a long time to get ready to take it away from him>。清水氏は「奴の棍棒を取りあげるのは容易なことじゃなかった」と訳している。村上氏は「それを彼から奪いとれるところまで回復するのに、けっこう時間がかかった」と訳している。<to get ready to take it away>(それを取り上げる準備をするのに)というところから、マーロウはベッドのスプリングを外していた辛い作業のことを思い出していたにちがいない。

「やつらは言われるのを待ってたむろしている」は<They have their tongues hanging out waiting to be said>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼らは外に舌を出して、言葉にされるのを待ち受けているんだよ」だ。迷訳というべきか。<tongue>は、舌そのものを指すだけでなく、「言葉、話し、談話」などを意味している。<have one’s tongue>は「しゃべる」くらいの意味だ。また、<hang out>は「(お気に入りの場所に)出入りする、たむろする」という意味。だいたい、ものをいうとき、舌を外に出したりしない。

「彼は「這いまわる手協会」会員だった。きっと何人もの娘たちが共に時間を過ごしたにちがいない」は<He belonged to the Wandering Hand Society. The girls would have had a time with him>。清水氏は「よく手を動かす男だった」と略している。<wandering hand>は「女性の体に触りたがる」男を意味する古いスラング。現在なら立派なセクハラである。村上氏は「彼は「そろそろ伸びる手クラブ」の会員なのだろう。娘たちは彼ときっと愉しいひとときを持てたはずだ」と訳している。「愉しいひととき」は逆説ととっておこう。

「美しいマナーと完璧な英語を失わせるような真似をさせないでくれ」は<Don't make me lose my beautiful manners and my flawless English>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「この優雅な物腰と、この隙のない英語を損なわせるようなことを、私にさせないでくれ」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第26章

―訳者には自分の解釈を読者に押しつける権利などない―

【訳文】

《クローゼットの扉には鍵がかかっていた。椅子は持ち上げるには重すぎた。がっしりしているのは訳があったのだ。シーツとベッドパッドを剥ぎとり、マットレスを片側に引っ張った。下は網状のスプリングになっており、黒いエナメルを塗った九インチほどの金属コイルばねで上と下に固定されていた。その中のひとつを外しにかかった。こんなに辛い仕事はしたことがなかった。十分後、二本の指が血を流し、一本のばねが緩んでいた。振ってみた。いいバランスだった。重かった。鞭のようにしなった。
 そこまで済ませてから、ウィスキーの瓶が目に留まった。それで事足りたのに、すっかり忘れていた。
 もう少し水を飲んだ。剥き出しになったスプリングの横に座って、ほんの少し休んだ。それからドアのところまで行って、ヒンジ側に口をあてて大声をあげた。
「火事だ! 火事だ! 火事だ!」
 あっという間だったが、待つのは愉快だった。男は外の廊下を必死で走ってきて、乱暴に鍵穴に鍵を差し込み、強く回した。
 ドアが勢いよく開いた。私は開口部側の壁にべたりと張りついていた。男は今度は棍棒を手にしていた。長さ五インチ、編んだ茶色の革で被われた、洒落た道具だ。男の目は裸に剥かれたベッドに飛びつき、それから振り向こうとした。
 私は忍び笑いを漏らし、男を殴った。側頭部をコイルばねで打ちのめされ、男は前によろめいた。相手を膝まずかせ、もう二発殴った。うめき声が聞こえた。ぐったりした手から棍棒を取り上げると、哀れっぽい声を出した。
 男の顔を膝で蹴った。膝が痛かった。相手の顔が痛かったかどうかは聞いていない。男がまだうめいている隙に、棍棒を使って気絶させた。
 ドアの外側に差しっ放しになっていた鍵を抜き、内側から鍵をかけ、男を調べた。男は他にも鍵を持っていた。そのうちのひとつがクローゼットの鍵だった。私は自分のポケットを探った。財布から金が消えていた。白衣の男のところに戻った。仕事に見合わない金を持ち過ぎていた。自分の持っていた金を取り返し、男をベッドに持ち上げ、手首と足首を縛り、半ヤードのシーツを口に詰め込んだ。彼の鼻はつぶれていた。息ができるかどうか確かめるために、しばらく待った。
 かわいそうなことをした。どこにでもいる働き者の男が、週給の小切手にありつこうと必死で仕事にしがみついていただけのことだ。たぶん妻子持ちだ。気の毒に。そして、彼が頼みとするのは棍棒だけだった。不公平に思えた。私は混ぜ物入りのウィスキーを彼の手の届くところに置いた。もし、彼の手が縛られていなかったら、だが。
 私は男の肩を叩いた。憐れで泣きたいくらいだった。
 服は全部、クローゼットのハンガーにかかっていた。ショルダー・ホルスターには銃まで入っていた。ただし弾丸はなかった。縺れる指で服を着た。欠伸が止まらなかった。
 男はベッドの上で静かにしていた。私は男をあとに残し、鍵をかけた。
 広い廊下は静まり返っていた。三枚あるドアはみな閉まっていて、どこからも音は聞こえてこなかった。廊下の中央には葡萄酒色の絨毯が敷き詰められ、他の部屋と同じくらい静まり返っていた。突き当りで廊下は湾曲し、そこから直角に別の廊下が、ホワイトオークの手摺がついた大きな昔風の階段の降り口に通じていた。それは優雅な曲線を描いて下の薄暗い廊下まで下りていた。下の廊下の突き当りはステンドグラスが嵌った二枚の中扉で仕切られていた。モザイク状の廊下には厚い敷物が敷かれ、ドアのわずかな隙間から光がこぼれていた。しかし、音は聞こえてこなかった。
 年代物の屋敷だ。かつてはこぞって建てられたものだが、今では建てられることはない。おそらく静かな通りに面し、横手に薔薇をはわせた東屋を配し、正面には色とりどりの花々が咲きこぼれているにちがいない。晴朗なカリフォルニアの陽光を浴びて、品よく涼しげで物静かに。誰が中のことを気にかけよう。あまり大声を出させないことだ。
 階段を降りようと足を踏み出したとき、咳が聞こえた。あたりを窺うと、突き当りから延びた方の廊下沿いに半開きのドアがあった。つま先立ちで絨毯の上を歩いた。私は半分開いたドアに近寄って待機した。中には入らなかった。楔状の光が絨毯の上の私の足に落ちた。咳がまた聞こえた。厚い胸から出た、深みのある咳だった。いかにも平和でやすらかに響いた。私には関係のないことだった。私の仕事はここから出ることだ。しかし誰であれ、この家でドアを開け放しにできる人物に興味が湧いた。帽子をとって敬意を表すに相応しい地位にいる人物だろう。私は楔状の光の中にそっと踏み込んだ。新聞ががさがさと音を立てた。
 部屋の一部は見て取れた。普通の部屋のように家具調度つき、独房には見えない。黒っぽい衣装箪笥の上に帽子と雑誌が何冊か。窓にはレースのカーテン、絨毯もそれなりの品だ。
 ベッドのスプリングが軋んだ。咳に見合う大男だ。指先をドアに伸ばして一インチか二インチほど押した。何も起こらなかった。これ以上はできないほどゆっくり、首を伸ばした。やっとのことで部屋の中が見えた。ベッドがあり、その上に男がいた。灰皿に山と積まれた吸殻が溢れ出し、ナイト・テーブルから絨毯の上にこぼれ落ちていた。一ダースほどの皺くちゃの新聞紙がベッドの上に散らばっていた。そのうちの一枚が大きな手で大きな顔の前に広げられていた。緑色の紙の端から髪の毛がのぞいていた。ほとんど真っ黒と言っていいふさふさした縮れ毛の下に白い肌が線になって見えていた。新聞が少し動いた。私は息を殺した。ベッドの男は顔を上げなかった。
 彼は髭を剃る必要があった。常に髭を剃る必要があるのだ。私はかつてセントラル・アヴェニューにある<フロリアンズ>という黒人専用の安酒場で彼に会っている。そのときは白いゴルフボールのついた派手なスーツを着てウィスキー・サワーを手にしていた。彼が握ると玩具に見えるコルト・アーミーを手に、素知らぬ顔で壊れたドアから出てきた。仕事ぶりはそのときいくつか拝見したが、相変わらずの手並みのようだ。
 彼はまた咳をしてベッドの上で尻を転がし、大きな欠伸をすると、ナイトテーブル上の皺くちゃになった煙草の箱に手を伸ばした。そのうちの一本を口に咥えた。親指の端で火が揺らめいた。鼻から煙が出てきた。
「ああ」彼は言った。新聞が再び顔の前に持ち上がった。
 私は彼をそこに残し、廊下伝いに戻った。ミスタ・ムース・マロイは手厚いもてなしを受けているようだ。私は階段に戻り、そこを下りた。
 わずかに開いたドアの向こうでくぐもった声が聞こえた。返事する声を待った。何も聞こえなかった。電話の会話だ。ドアが閉まっていることを確認し、聞き耳を立てた。呟きに似た低い声だった。話の中身は聞き取れなかった。最後にかちりと乾いた音がした。そのあと部屋の中は沈黙に包まれた。
 遠くへ立ち去る潮時だった。そういう訳で、私はドアを押し開け、静かに入り込んだ。》

【解説】

「シーツとベッドパッドを剥ぎとり、マットレスを片側に引っ張った」は<I stripped the sheets and pad off the bed and dragged the mattress to one side>。清水氏は「私はベッドのシーツを剥ぎとって、マットレスをめくった」と訳している。マットレスを「めくる」ことができるかどうかはさておき、<pad>が忘れられている。村上氏も「私はシーツをはぎ取り,ベッドを裸にし、マットレスを片側に引っ張った」と詳細な割にパッドは無視している。パッドなしではスプリングが体を刺戟して寝心地が悪かろうに。

「そこまで済ませてから、ウィスキーの瓶が目に留まった。それで事足りたのに、すっかり忘れていた」は<And when this was all done I looked across at the whiskey bottle and it would have done just as well, and I had forgotten all about it>。清水訳にこの二文は見当たらない。村上訳は「そこまで作業を終えたところで、部屋の向こうにあるウィスキーの瓶に(ママ)目にとまった。こんな面倒なことをしなくても、それひとつあれば用は足りたのだ。やれやれ、瓶のことをすっかり忘れていた」だ。

「男は今度は棍棒を手にしていた。長さ五インチ、編んだ茶色の革で被われた、洒落た道具だ」は<He had the sap out this time, a nice little tool about five inches long, covered with woven brown leather>。清水氏は何と思ったか、ここを「彼はこんどは、ピストルを手に持っていた」と訳している。これ以降も、ずっとピストルで通すという間違いを犯している。後にも出てくるが、男の手にしていたのが拳銃なら、マーロウはあそこまで同情を感じただろうか。

村上氏は「今回は男は棍棒を手にしていた。十五センチほどの長さで、茶色の手縫いの革カバーがかぶせてある。洒落た道具だ」と訳している。<woven brown leather>を「茶色の手縫いの革カバー」としたのは写真か実物を見たり、手にとったりしたのだろうか。確かに周りに縫い目のある茶色の革の棍棒がネットで売買されている。一方、編んだ黒い革で覆われた棍棒もある。<weave>という語からは革で編んだものを思い浮かべてしまうのだが。

「そして、彼が頼みとするのは棍棒だけだった。不公平に思えた」は<And all he had to help him was a sap. It didn't seem fair>。清水氏はここも「彼を助けるのはピストルだけだ。公平とはいえなかった」としている。たしかに、不意をつかれたら、ピストルでも棍棒でも同じかもしれないが、いくら仕事熱心でも、無防備だと分かっている相手にピストルを持ち出す男に涙を流しそうになるほど同情するだろうか。

村上訳は「おまけに彼が頼みにできるのは一本の棍棒だけだ。報われた人生とはとても言えない」。後半の<fair>を「申し分のない、完全な」の意味と解釈してのことだろう。どうしてここに「人生」が出てくるのか、今一つよく分からない。誰だって日銭を稼ぐのにあくせくしている。ある程度の年齢の男なら妻子もいるだろう。一体だれが自分以外の誰かを頼りにできるのだ。棍棒一本でもあればましな方だ。

ここは、「タフガイ」の私立探偵マーロウに対して、棍棒を手にして闘うしかなかった素人の小男に対する憐みではないのか。何もこうまで打ちのめす必要はなかった。相手は凶悪なギャングの片割れなどではなく、ただの勤め人であることにようやく気がついたからだ。おまけに手にしていたのは棍棒だけだった。あまりに傷めつけられていたために正常な判断力を失っていたのだろう。ふだんのマーロウらしくない振る舞いだった。

「欠伸が止まらなかった」は<yawning a great deal>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「何度となく生あくびが出た」。その次の「私は男をあとに残し、鍵をかけた」は<I left him there and locked him in>。清水訳は「私は彼をそこに残して部屋を出て、ドアに鍵をかけた」となっている。ところが、村上訳では「男を後に残し、私は部屋を出た」で終わっている。なんと、鍵をかけ忘れている。めずらしいこともあるものだ。

「突き当りで廊下は湾曲し、そこから直角に別の廊下が、ホワイトオークの手摺がついた大きな昔風の階段の降り口に通じていた」は少し長いが<At the end there was a jog in the hall and then another hall at right angles and the head of a big old-fashioned staircase with white oak bannisters.>。清水訳では「廊下が尽きると、はばの広い降り口になっていて、廊下はそこで直角に曲がっていた」となっていて、装飾的な部分がばっさり切り捨てられている。

村上訳は「廊下の突き当りにはちょっと広くなったところがあり、そこから直角をなして別の廊下があり、古風で大振りな階段の降り口に通じていた。白いオーク材の手すりが…」と、次の文に続いている。名詞の<jog>に「ちょっと広くなったところ」という意味はない。複数の辞書に<there was a jog in the road>という例文が載っていて「湾曲部が道にあった」と訳されていた。米語で<jog>は「でこぼこ」や「急激な方向転換」を表すらしい。また<white oak>は「ホワイトオーク」というブナ科に属する落葉広葉樹。多く北米に分布し、家具材や樽材に用いられる。「白いオーク材」はないだろう。

「横手に薔薇をはわせた東屋を配し」は<with a rose arbor at the side>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「バラの大きな茂みを脇に配し」となっている。その後の「誰が中のことを気にかけよう。あまり大声を出させないことだ」は<And inside it who cares, but don't let them scream too loud>。清水訳は「しかし、建物の内部のことについては、誰も知らないであろう」と後半をトバしている。村上訳は「その内側がどうなっているかなんて誰も気にかけない。しかし大声で悲鳴を上げられたりすれば、やはりまずいことになる」といつものように言葉を補って訳している。

「楔状の光が絨毯の上の私の足に落ちた」は<A wedge of light lay at my feet on the carpet>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「くさび形の光が、カーペットの私の足元に落ちた」。「帽子をとって敬意を表すに相応しい地位にいる人物だろう」は<He would be a man of position, worth tipping your hat to>。清水氏はここもカット。村上訳は「中にいるのは責任のある地位に就いている人間かもしれない。ひとこと挨拶をしておく必要があるかもしれない」。

段落の終わりの「ベッドの男は顔を上げなかった」は<the man on the bed didn't look up>。清水氏はここもカット。村上訳は「ベッドの上の男は顔を上げなかった」。

「彼が握ると玩具に見えるコルト・アーミーを手に、素知らぬ顔で壊れたドアから出てきた。仕事ぶりはそのときいくつか拝見したが、相変わらずの手並みのようだ」は<And had seen him with an Army Colt looking like a toy in his fist, stepping softly through a broken door. I had seen some of his work and it was the kind of work that stays done>。清水氏はこの長い文章の後半をばっさり切り落とし、「そして彼の手に握られた軍隊用の拳銃(コルト)がおもちゃ(傍点四字)のように小さく見えた」と訳している。

村上訳は「たたき壊されたドアから、のっそり出てきたその男の手に握られた軍用コルト拳銃は、まるで玩具のように見えた。彼の腕力のほどはそのときにひととおり目にしたし、それはまさに唖然とさせられる代物だった」だ。<stay>は「…のままでいる」という意味で使われていると思うのだが、村上氏の訳からはその感じが伝わってこない。マロイの小事にこだわらない磊落な気性が変わっていないことを言っているのに、腕力と訳していることからもそれが分かる。この文章のどこから腕力が見えてくるのだろう。

「わずかに開いたドアの向こうでくぐもった声が聞こえた」は<A voice murmured behind the almost closed door>。清水氏は「突き当りの部屋から、低い話し声が洩れていた」と訳している。少し前の、一階を描写したパラグラフの中で、清水氏は仕切り扉がわずかに開いていたことをトバし「ドアの下からかすかな光が廊下に流れていた」と訳している。辻褄を合わせるためにこういう訳になったのだろう。村上訳は「僅かに隙間のあいたドアの奥で、ぼそぼそという声が聞こえた」。

「遠くへ立ち去る潮時だった。そういう訳で、私はドアを押し開け、静かに入り込んだ」は<This was the time to leave, to go far away. So I pushed the door open and stepped quietly in>。清水訳を見てみよう。「いまを措いて機会はない。私はドアを押して、静かに部屋に入っていった」。これでは、初めから部屋に入る気満々のように読めてしまい、原文にあるイロニーが消えてしまう。まさか、本当に誤読したのだろうか。

村上訳は「こんなところは一刻も早く立ち去り、できるだけ遠くに離れるべきなのだ。ところが私はドアを開けて、静かに中に入った。それが私という人間だ」。前の文を後ろの文が裏切っていることを、逆接の接続詞を使うことで、分かりやすくしている。そこまでは許せるのだが、最後の「それが私という人間だ」という一文は原文にはない。たしかにマーロウにそういうところがあるのは認めるとしても、これは訳者の解釈でしかない。訳者には自分の解釈を読者に押しつける権利などない。