HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(2)

《白檀のあるかなきかの微香が私の前を通り過ぎた。立ち止まった女が見ていたのは五つの緑のファイリングケース、擦り切れた錆色の敷物、埃をかぶった家具、それにお世辞にも清潔とはいえないレース・カーテンだった。
「電話に出る人が必要ね」彼女は言った。「それから、カーテンはときどき洗濯に出した方がよさそう」
「聖スウィジンの日にでも出そうと思ってる。座ってくれ。つまらない仕事をいくつかは逃してるかもしれない。それと多くの美脚もね。金はかけない方なんだ」
「なるほど」彼女は控え目に言い、大きなスウェードのバッグを机のガラス天板の隅に注意深く置いた。そして、椅子の背にもたれ、私の煙草を一本とった。火をつけてやろうとした紙マッチで指を火傷した。
 娘は扇形に吐いた煙越しに微笑んだ。素敵な歯、少し大きめ。
「こんなに早く私に会えるとは思ってなかったでしょう。頭の具合はどう?」
「具合はよくない。思ってもみなかった」
「警察はよくしてくれた?」
「いつもどおりさ」
「大事なお事の邪魔はしてないわよね?」
「そんなことはない」
「でも、私に会えてうれしがってるようには見えない」
 私はパイプに煙草を詰め、紙マッチに手を伸ばして慎重に火をつけた。娘はご随意にという顔で見ていたが、パイプ愛好家は身持の堅さが身上だ。がっかりしていることだろう。
「君の話は出さないように気をつけた」私は言った。「なぜだかは分からない。とにかくもう私には関係がない。昨夜たっぷり嫌な思いをして、酒瓶で頭をどやしつけて寝たんだ。今では事件は警察の預かりだ。首を突っこまないように警告を受けた」
「あなたが私の話を出さなかったのは」彼女は穏やかに言った。「昨夜、私が物好きでぶらぶら窪地に足を運んだ、なんて言い種を警察は信じないだろう、と思ったから。連中は私に後ろ暗いことがあると疑い、観念するまで追及するだろう、と」
「どうして分かるんだ。私が同じことを考えなかったって?」
「警官だって、ただの人間」彼女は脈絡もなく言った。
「連中も生まれた時は人間だった、と聞いたことがある」
「あら、今朝はシニカルだこと」彼女は何気なさそうに、しかし抜け目なく部屋を見回した。「ここでうまくやれてるの? 財政的にという意味だけど。稼げてるのか、ということ―この程度の見かけで」
 私は鼻を鳴らした。
「それとも、心がけるべき? 差し出口をやめ、生意気な質問をしないように?」
「できるかどうか、試験ずみなのか?」
「それじゃ、二人でやってみましょう。教えて、なぜ昨夜私のことを庇ってくれたの? 私が赤毛で、スタイル抜群だったから?」
 私は何も言わなかった。
「こちらを試してみようかな」彼女は元気よく言った。「あの翡翠のネックレスが誰のものか知りたくない?」
私は顔がこわばるのを感じた。頭を絞ってみたが、確かなことは思い出せなかった。それから急に思い出した。翡翠のネックレスのことは一言も漏らしていない。
 私はマッチをとり、パイプに火をつけ直した。「別に」私は言った。「どうしてだ?」
「だって、私は知ってるから」
「ほほう」
「しゃべりたくてたまらなくさせるにはどうしたらいい。足の指でも捩る?」
「それじゃ」私は不承不承言った。「君はその話をするためにここに来たわけだ。さあ、聞かせてもらおう」
 青い瞳が大きく見開かれた。一瞬少し涙ぐんでいるように見えた。下唇を噛みしめたまま机を見下ろしていた。やがて、肩をゆすって唇をほどき、ざっくばらんに微笑んだ。
「ええ、自分が詮索好きだってことは重々承知してる。でも猟犬の血がそうさせるの。父は警官だった。名前はクリフ・リオーダン。ベイ・シティの警察署長を七年間勤めた。たぶん、それが問題なの」
「覚えがある気がする。何があったんだ?」
「お払い箱。父は傷ついた。賭博師の頭目でレアード・ブルネットという男が選挙で仲間を市長にし、父は左遷された。ベイ・シティで記録識別局というのはティーバッグほどのちっぽけな部署。それで父は退職してニ年ほどぶらぶらして死んだ。母は父を追うようにして亡くなった。それから二年、私はひとりぼっち」
「それは気の毒に」私は言った。》

「それと多くの美脚もね」は<And a lot of leg art>。清水氏はここをカット。村上氏は「たくさんの脚線美もね」と訳している。<leg art>を辞書で引くと「脚線美写真」。類語は<cheesecake>。「セクシーな女性の肉体美を見せる写真」のことだが、俗語としては「可愛らしい女性」の意味もある。「かわい子ちゃん」ぐらいが適当なのだが、もはや死語だ。「美脚」なら、辛うじてセーフか。
 
「金はかけない方なんだ」はズバリ<I save money>。<leg art>をカットした清水氏は「贅沢はできないんでね」と経済的な意味で訳している。村上氏は「金の節約になる」だ。この訳だと、暗に女の気を引くことが好きじゃないことを仄めかしているようにも読める。二つ並べておいて<I save money>と言うんだから、どちらにも金をかける必要を認めていない、という意味なんだろう。実にハード・ボイルドだ。

「素敵な歯、少し大きめ」は<Nice teeth, rather large>。清水氏は後半を省いて「美しい歯だった」としている。村上氏は前後をひっくり返して「少し大きめだが、素敵な歯だ」と訳している。マーロウは、ミス・アンのことははかなり気に入っている。ただ、その性格から、手放しでほめたくないがために条件を付けているに過ぎない。だとすれば、語順をどうすればいいかはおのずから明らかだ。

「娘はご随意にという顔で見ていたが、パイプ愛好家は身持の堅さが身上だ。がっかりしていることだろう」のところは<She watched that with approval. Pipe smokers were solid men. She was going to be disappointed in me>。清水氏は「彼女は別にいやな顔もしなかった。女はパイプタバコを吸う男を喜ばないものなのだ」と意訳している。村上氏は「彼女は感心したようにそれを見ていた。パイプ・スモーカーは身持ちが堅いというのが通り相場だ。遠からずがっかりすることになるだろう」と訳している。

<approval>は「賛意、許可」を示すという意味だ。自分も煙草を吸っているのだから、今さら「許可」でもあるまい。「おやおや、あなたはパイプ党なのね」というくらいの意味だろう。村上氏の「感心したように」はそういう意味だ。<solid>には「頑丈な」という意味もあるが、ここでは「信頼できる、堅実な」という意味が当てはまる。彼女が何にがっかりすることになるかはこの時点では明らかにされないが、男の部屋を独身女性が訪ねているのだから、男女関係が仄めかされていると見るのが一般的だ。

「警官だって、ただの人間」は<Cops are just people>。清水氏は「探偵だって、人間ですわ」と訳し、後に続く<she said irrelevantly>を省いている。清水氏は「自由直接話法」を好み、しばしば「彼(女)は、言った」のような「伝達節」を省略している。ただ、ここでの問題は<Cops>という「警官」一般を指す名詞を「探偵」と訳していることである。「探偵」が、一歩譲って「警官」一般を含むとしても、マーロウもその仲間に入る。はたして、それでいいのだろうか?

村上氏は「警官というのは普通の人間なの」(と彼女はどうでもよさそうに言った)と訳している。村上氏は<Cops>を「警官」一般と解釈している。この読み一つで次の訳も意味がちがってくる。次のマーロウの台詞<They start out that way, I've heard>を、清水氏は「もとは人間だったがね」と、訳している。この場合、自分も含めて言っている、つまり自虐と読める。

村上氏は「連中もそういう地点からスタートするという話を耳にしたことがある」と、あくまでも他人事として、警官を皮肉っている。ミス・アンの父が警官であったことが後で出てくるが、この部分はその伏線になっている。私立探偵と警官の間にはしっかりした線引きが必要なところではないか。

「できるかどうか、試験ずみなのか?」は<Would it work, if you tried it?>。出しゃばったまねをしない方がいいのか、という娘の問いに対するマーロウの台詞だ。清水氏は「口を出さないでいられればね」。村上氏は「心がけてできるものなのかな?」と訳している。<tried>には「試験ずみの、証明済みの」という意味がある。両氏の訳はそれを踏まえての意訳だろう。

それに対する娘の答えが<Now we're both doing it>だ。清水訳だと「私たち、二人とも、かかわりになったのよ」。村上訳だと「お互いはっきり言っちゃいましょうよ」と、まるっきり別物になってしまっている。会話は応答なので、問いに対する答えになっていないと会話が成立しない。両氏の訳は成立しているだろうか。私見では、清水訳では娘はマーロウの言葉を切り捨てているように読める。村上訳は一応受けとめた上で、持説を強要しているように聞こえる。

娘の口にした「生意気な質問」は<impertinent questions>。<impertinent>とは「(人・言動が)(特に目上の人などに対して)出しゃばった、ずうずうしい、無作法(無礼)な、生意気な、おうへいな」という意味だ。つまり、娘の気持ちは「不作法な態度は改めるから、話を聞いて」というものだ。読めば分かるが、この後の娘の話は、それまでと比べると極端に率直になっている。残念ながら、両氏の訳では、その真意が伝わってこない。

「しゃべりたくてたまらなくさせるにはどうしたらいい。足の指でも捩る?」は<What do you do when you get real talkative-wiggle your toes?>。清水氏は「どうすれば、あなたは話がしたくなるの? 足の指でもくすぐるの?」と訳している。村上氏は「おしゃべりをしたいときには、あなたはどんなことをするのかしら。足の指をもぞもぞさせたりするの?」と、訳している。

wiggle>は「(ぴくぴく、くねくね)小刻みに動かす」ことだ。清水氏は「くすぐる」と訳すことで、動作の主体を「客」と捉えているが、村上訳では、動作の主体は「主」のように読める。どうしても本音を吐かない相手に対して、業を煮やした娘が言う言葉だ。どちらが説得力があるだろうか?

「たぶん、それが問題なの」は<I suppose that's what's the matter>。清水氏はここをカットしている。村上訳では「それがここで問題になってくるわけ」。

「覚えがある気がする。何があったんだ?」は<I seem to remember. What happened to him?>。清水氏は「覚えている。今どうしてる?」、村上氏は「名前には覚えがある。彼は今どうしている?」だが< What happened to him?>を、「今、どうしている?」と訳すのはどうだろうか。その前に<what's the matter>と娘の口から聞かされていながら、少し気楽すぎるのではないか?