HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第18章(5)

ドレスが首のあたりまでめくれ上がったのには理由があった

【訳文】

《「男はリンの座っている側に近づくとすぐに、スカーフを鼻の上まで引っ張り上げ、銃をこちらに向け『手を挙げろ』と言った。『おとなしくしてればすぐに済む』。それからもう一人の男が反対側にやってきた」
「ベヴァリ・ヒルズは」私は言った。「カリフォルニアで最も治安が行き届いた四平方マイルですよ」
 彼女は肩をすくめた。「言った通りのことが起きたの。宝石とバッグを寄こせとスカーフの男が言った。もう一人、私の側にいた男は一言もしゃべらなかった。リンの前に手を伸ばして渡すと、男がバッグと指輪をひとつ返してくれた。男は、警察や保険屋への連絡は少し待つように言った。その方がことがうまく運ぶだろう。物ではなく歩合で支払ってもらう方が手間が省けると言った。まったく焦った様子を見せなかった。是非にと言うなら、保険屋を通すこともできるが、弁護士が取り分を減らすから、乗り気ではないとも。教養のある人のように思えた」
「まるでドレスアップ・エディのようだ」私は言った。「シカゴで消されていなかったなら、ということですが」
 彼女は肩をすくめた。我々は飲んだ。彼女は続けた。
「連中は去り、私たちは帰った。私はこのことをリンに口止めした。次の日、電話があった。電話は二つあって、ひとつは内線つき、もうひとつは私の寝室にある内線なしのもの。電話はそちらにかかってきた。もちろん電話帳には載ってない」
 私はうなずいた。「二、三ドル出せば番号は買える。よくあることだ。映画俳優の中には毎月番号を変える者もいる」
 我々は飲んだ。
「私は電話してきた男に、私の代理のリンと話をするように、適切な価格だったら取引に応じるかもしれない、と言った。彼は了解した。それ以降進展はなかった。こちらの様子を見てたんだと思う。結果的に、知っての通り、八千ドルで手を打った」
「どっちかの顔を覚えていませんか?」
「そんなの、無理」
「ランドールはこのことを知っていますか?」
「もちろん。もっと話す必要があるかしら? うんざりなの」彼女は素敵に微笑んだ。
「彼は何か言ってましたか?」
 彼女は欠伸した。「多分ね。でも忘れた」
 私は空のグラスを手に腰を下ろして考えた。彼女はグラスを取り上げ、また注ぎ始めた。
 私は彼女の手からお代わりのグラスをとり、それを私の左に移し、自分の右手で彼女の左手をつかんだ。滑らかで柔らかな手だった。温さが心地よかった。彼女は強く握り返した。手の筋肉が強かった。しっかりした体つきで、ペーパー・フラワーではなかった。
「彼には何か考えがあるみたい」彼女は言った。「でも、それが何かは言わなかった」
「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」私は言った。
 彼女はゆっくり振り返ってこちらを向いた。そうして、うなずいた。「すぐ分かることよね?」
「いつからマリオットのことを知ってるんです?」
「何年になるかしら。彼は夫が持ってた放送局でアナウンサーをしていた。KFDK。そこで出会った。夫ともそこで出会った」
「知っていました。しかし、マリオットは贅沢な暮らしをしてた。金持ちでなくても、金に不自由はしてなかった」
「お金が入ったので、ラジオ局をやめたの」
「金が入ったことを事実として知っていましたか、それとも彼がそう言っただけですか?」
 彼女は肩をすくめた。私の手を握りしめた。
「あるいは、それほどの金額ではなかったかもしれないし、すぐに使い切ったのかもしれない」私は彼女の手を握り返した。「彼はあなたから金を借りてましたか?」
「あなたって、けっこう昔気質なのね?」彼女は私が握ったままの手を見下ろした。
「まだ仕事中です。それにあなたのスコッチは酔っぱらうには惜しいほどの上物です。別に酔っ払わなくても―」
「そうね」彼女は自分の手を引き抜き、擦った。「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら。リン・マリオットは、もちろんハイクラスの強請り屋だった。それは確か。彼は女にすがって生きていた」
「あなたも強請られていたのですか?」
「教えてあげましょうか?」
「それは賢明ではないでしょう」
 彼女は笑った。「どうせそうなるのよね。一度、彼の家でひどく酔っぱらって気を失ったことがある。めったにないことだけど。彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」
「卑劣なやつだ」私は言った。「それは今手もとにありますか?」
 彼女は私の手首をぴしゃりと叩いて、そっと言った。
「お名前は?」
「フィル。あなたの名は?」
「ヘレン。キスして」》

【解説】

前半部分に大したちがいは見つからない。

「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」は<Anybody would have an idea out of all that>。清水氏は「おそらく、ぼくが考えていることと同じだろう」と訳している。意訳だろう。村上氏は「その話を聞けば、誰だっていくらかの考えは浮かぶはずだ」と訳している。

その後の夫人の「すぐ分かることよね?」だが、原文は<You can't miss it, can you?>。清水氏はここを「私、あなたを信頼していいわね」とこれもまたかなり大胆な意訳だ。村上氏は「わかりきった話だというわけね」と訳している。<miss>は「見逃す」という意味だから、マーロウならランドールの考えに気づかないはずはない、というくらいの意味だ。清水氏はそれを理解したうえで夫人の気持ちとして訳したということだろうか。

「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら」は<You must have quite a clutch-in your spare time>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「あなたは一筋縄ではいかない男らしいー余暇には(傍点四字)、ということだけど」。<clutch>は「手などをしっかり握る」ことだが、くだけた言い方として「最大のヤマ場、ピンチ」のような意味で使われる。この場合、二人の手を握りあう行為に掛けているのだろう。

「彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」は<He took some photos of me-with my clothes up to my neck>。清水氏は「そのときに、裸の写真を撮られたわ」とあっさり訳している。映画の字幕ならこれでいいと思う。村上訳は「そのとき彼は写真を何枚か撮った。衣服が首のあたりまでめくれ上がったやつを」となっている。

前回の夫人の「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」という村上訳の意味がこれで分かった。このことを匂わせていた、と村上氏は考えたにちがいない。

「卑劣なやつだ」は<The dirty dog>。清水氏は「ひどい奴だ」とマリオットのこととして訳しているが、村上氏は「ポルノっぽいやつだ」と写真のことと解している。スラング等を調べても「人をだますやつ」のような意味はあるが卑猥な物を表す使用例は見つからなかった。村上氏は次にくる言葉に引きずられて、そう訳したのだろうか。それよりも、マリオットを「卑劣なやつ」と蔑みながら、写真を見たがるマーロウを夫人がいなしたと考える方が気が利いてるのではないか。