HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第42章

マーロウは、スペンサーを横に乗せてアイドルヴァレーに向かう。スペンサーは終始無言だったが、サン・フェルナンド・ヴァレーの地表面を覆うスモッグに耐えかねて口を開く。
“ What are they doing ― burning old truck tires? ”
清水訳「いったい、どうしようというんでしょう――トラックのタイヤを焼こうというんですか」
村上訳「いったい何が起こっている?古タイヤでも燃やしているのかね?」
すでにすっかり曇っているのだから、清水氏の「焼こうというんですか」は、おかしい。村上氏にはめずらしく「トラックの」が抜け落ちている。

マーロウが、ウェイド邸のあるアイドル・ヴァレーは海からの風があるから大丈夫だと宥めると、
“ I’m glad they get something besides drunk, ” と嫌味を一くさり。
清水訳「酔っぱらいだけでなく、風も吹くんですか」
村上訳「酔っぱらい以外にも恵まれたものがあそこにあるとわかってなによりだ」
村上訳はいかにも硬い。それに比べると清水訳は軽妙だが、「良かった」の意味を付け加えたほうが、ニュアンスが正しく伝わるのでは。

アイドル・ヴァレーでは休暇旅行に出かけている家が多く、広い芝生にはスプリンクラーが回り、庭師が引き込み道の真ん中にトラックを停めている。村上氏はここでも「車寄せ」と訳しているが、いくらなんでも雇い主が留守だからといって庭仕事をするのにいちいち車寄せにトラックを停める庭師がいるだろうか。

キャンディーは、マーロウを家に入れようとしないし、アイリーンの応対も素っ気ない。しかし、とにかく時間をもらって、マーロウはダヴェンポートの一方に腰を下ろす。スペンサーは夫人寄りの姿勢を崩さない。マーロウの話を聞こうと眼鏡を外すとき、眉根にしわを寄せてみせる。
“ Spencer was frowning, He took his glasses off and polished them. That gave him a chance  to frown more naturally. ”
清水訳「スペンサーは不快そうな表情をうかべて、眼鏡を外し、ハンケチで拭った。」
村上訳「スペンサーは眉をひそめた。そして眼鏡を外して拭いた。おかげでもっと自然に眉をひそめることが可能になった。」
マーロウの視線の辛辣さを村上氏は逃がさない。

第42章は、マーロウがアイリーンを問い詰め、その嘘を見破るという本編中の白眉といえる場面である。小さな異同はあるが、二人の訳に大きな食い違いはない。食い下がるマーロウに根負けして、仕方なく付き合っていたはずのスペンサーが、アイリーンの小さな嘘が見つかるのを境として、次第に尋問口調に変わってゆくところや、はじめは憎々しげな対応を見せていたキャンディーが、「疲れたでしょう、何か飲みますか?」と、自分からサービスを申し出るところなど、攻守ところを代え、攻めに転じたマーロウの探偵としての実力が冴えるところだ。

こだわるようだが、ドライブウェイがもう一箇所登場する。アイリーンがイギリスで結婚した相手であるポール・マーストンがテリー・レノックスその人である、とマーロウがぶち上げたとき、その場を沈黙が支配する。その静寂を表現する文章だ。
“ In the kitchen I could hear water run. Outside on the road I could hear the dull thump of a folded newspaper hit the driveway, then the light inaccurate whistling of a boy wheeling away on his bicycle. ”
清水訳「台所の水の音が聞こえてきた。表のドライブウェイに新聞が投げ出された音がして、自転車に乗った少年が口笛を吹きながら走り去った。」
村上訳「キッチンから蛇口の水音が聞こえた。道路の方から、畳まれた新聞が投げこまれるぱたん(三字分傍点)という鈍い音が耳に届いた。それから自転車で立ち去っていく新聞配達の少年の、軽い不正確な口笛が聞こえた。」

新聞の束が立てる音や、調子っぱずれの口笛について実に正確に写し取ろうとする村上氏がドライブウェイを迂回している。さすがにここはドライブウェイを車寄せとは訳せなかったのだろう。知ってのとおり、アメリカの新聞配達は表通りから勢いをつけて敷地内に放り込んでゆく。車なら「車寄せ」にとめる必然性があるが、新聞をわざわざ車寄せに配達する必要はない。大通りから玄関が見えていれば、玄関扉の下に投げるところだが、ウェイド邸は御屋敷で大通りから私道が設けられている。できるだけ玄関に近い私道の上に放り投げたのだろう。

このあとで、キャンディーが、マーロウに「酒を作ろうか?」とやってくる。「バーボン・オン・ザ・ロックを。ありがとう」という探偵に、「すぐに持ってきます。セニョール」とキャンディーが丁重に返事をする。掌を返したようなキャンディーの従順さが、マーロウへの信頼感を物語っている。旗色が悪くなる一方のアイリーンは、それまで取り繕っていた声音も忘れたのか、機械的な声で語りだす。
“ And when she spoke her voice had the lucid emptiness of that mechanical on the telephone that tells you the time and if you keep on listening, which people don’t because they have no reason to, it will keep on telling you the passing seconds forever, without the slightest change of inflection. ”
清水訳「口をひらくと、その声は時刻を告げる電話の声のように単調で、なんの感情もふくまれていなかった。」
村上訳「そして彼女が口を開いたとき、その声には明るく澄んだ空虚さがあった。時刻を案内する電話局の機械的な声に似ている。もしいつまでも聞き続ける気が人にあるなら――そんな人はまずいるまいが――その声は抑揚をいささかも変化させることなく、毎秒の経過を果てしなく告げ続けるだろう。」

清水訳でも十分理解できるが、アイリーンの中で何かが壊れたことをほのめかす著者の意図を汲めば、あくまで忠実に訳した村上訳の存在は有り難い。ここからアイリーンは堰を切ったように一気にしゃべりだす。抑制がきかなくなったのだ。マーロウはこの瞬間を待っていた。してやったりとスペンサーの方に向かって笑みを漏らすマーロウをチャンドラーはしっかり書いている。
“ I grinned at Spencer. It was some kind of grin, not the cheery kind probably, but I could feel my face doing its best. ”
清水訳「私はスペンサーの方を向いて、唇をゆがめた。苦笑といっていいものかもしれなかった。その場の空気にふさわしくない笑いにならぬようにつとめたことはいうまでもない。」
村上訳「私はスペンサーに笑みを送った。特別な種類の笑みだ。そこにはたぶん喜びは含まれていない。しかし、顔に笑みが浮かぶのはどうしてもとめられなかった。」
ついに、尻尾を出した、という快心の笑みなのだろうが、まだアイリーンにさとられてはいけない。直訳すれば「私は自分の顔が最善を尽くしているのを感じることができた」。この部分の村上訳はうまいと思う。

第41章

金曜日の朝、スペンサーからホテルのバーで会いたいと電話があったが、部屋で会うことにした。込み入った話になりそうだった。マーロウは、スペンサーに同道してウェイド邸を訪れ夫人に会いたいと告げた。渋るスペンサーに、マーロウは、警察が夫人を疑っていることを仄めかす。驚いたスペンサーは、「君の頭がどうかしていることを神に祈ろう」とつぶやく。

スペンサーは第13章にも登場するリッツ・ビヴァリーのスイートに泊まっていた。清水氏はあっさり、「家具も絨毯も古風なもので」で済ませているが、村上版では「家具はキャンディー・ストライプ柄の生地を張られ、そこにたっぷりした花柄のカーペットが加わると。古風な雰囲気が醸し出された」と詳しい。それよりも時代を感じるのは、グラスの置けそうなところにはガラス板が敷かれ、あらゆるところに19個もの灰皿が置かれているという記述の方だ。今の時代、愛煙家にそんなに気を使ってくれるホテルはあるまい。ホテルの部屋というのは、泊り客のマナーの程度を示している。ホテル側の心配のし具合から見るに、客のマナーはかなり悪そうだ。“ The Ritz-Beverly wasn’t expecting them to have any. ” を清水氏は、「リッツ・ビヴァリーに泊まる客はあまり行儀がよろしくないらしい」と意訳する。村上訳は原文に即して「リッツ・ベヴァリーはそんなものははな(二字傍点)から期待していないようだ」と訳している。

何か飲むかと聞かれて、マーロウは “ anything or nothing ” と答えている。あまり飲みたい気分でもないようだ。スペンサーが選んだのはアモンティリャード。ポオの短篇にも登場するシェリー酒だ。

“ In New York you can handle four times as much for one half the hangover. ”

清水訳「ニュー・ヨークだと四倍は飲めますよ」

村上訳「ニュー・ヨークではここの四倍の量の酒が飲めるし、それでいて二日酔は半分ですむ」

清水氏、二日酔のところを訳していない。「ニュー・ヨークでは半分の宿酔で、四倍の酒量が飲める」というところが面白いのに。

かと思うと、“ He cleared his throat. ” のような常套句を「彼は後につづく言葉を一度のどでつまらせた」のように訳してみたりする。村上氏はこういうところは「彼は咳払いをした」ですませているのに。言い難いことを言おうとしている場面だから、咳払いしたのはおそらく清水訳の通りだったのだろう。清水氏が意訳を多用するのは翻訳文を短くしようとしてのことではない。より場面の情景を分かりやすくしたい、という思いがあるようだ。

酒を運んできたウェイターにスペンサーがチップを渡す。“ four bits ” は、いくらなのか。清水訳では「二十五セント銀貨を四枚あたえた」。村上訳は「チップに五十セントを渡した」だ。清水氏はビットを硬貨一枚と考え、二十五セント銀貨(クオーター)を四枚、つまり1ドルを渡したと考えたようだ。しかし、ビットは占領時代に使われたスペイン・ドルに由来し、8枚で1ドルに換算する。つまり、1ビットは12.5セントで4ビットは村上訳のように50セントになる。チップにじゃらじゃらした小銭を何枚も渡すのはいかにも野暮だ。ここは、ハーフ・ダラー一枚と考えたい。

「彼女は警官に向かって、私が彼を殺したと言ったのですよ」というマーロウに、スペンサーは「字義通りの意味で言ったはずはない。さもなければ――」と、言いかけたところでウェイターが来たので、会話は中断していた。ウェイターが去ったあと、マーロウが「さもなければ、何なんですか?」と促す。

“ Otherwise she would have said something to the coroner. wouldn’t she ? ”

清水訳「そうでなければ、検屍官に何か言ったはずはないでしょう」

村上訳「さもなければ彼女は、検死官に向かっても同じことを言っていたはずだ。そうじゃないか?」

字義通りの意味で言ったのなら、アイリーンは検死官に、どう言うだろうか。当然、マーロウが殺したと言うにちがいない。清水氏の訳では意味が通じない。付加疑問の文を無理につづめたのがまちがいだ。清水調で訳すなら、「そうでなければ、検屍官に何か言ったはずです。そうじゃないですか」とするのが正しい。

スペンサーが出版しようとしているウェイドの遺稿について、マーロウが“― if it can be used. ” (もしそれが使いものになればだが)と、懐疑的に論じているところを清水氏は訳していない。なかなかいっしょに行こうと言い出さない相手に業を煮やして、マーロウが挑発しようと思って発した台詞だ。スペンサーを翻意させるためにも、ここは嫌味に聞こえたほうがいいのではないか。

捨てゼリフが功を奏したのか、スペンサーは、やっとマーロウの話を聞く気になった。

“ I don’t know what’s on your mind but you seem to take it hard. ”

清水訳「何を考えているのか知らないが、あなたの態度は納得がゆかない」

村上訳「君が何を目論んでいるのか私には分からん。しかし君は一歩も引かないつもりのようだ」

but以下の訳が異なる。“ take it hard ” は、「深刻に悩む(受け止める)」の意味だから、村上氏の訳でもいいが、「どうやら君は事態を深刻に受け止めているようだが、私には君の考えていることがよく分からん」と後ろから訳したほうが、次の「ロジャー・ウェイドの死について、何か不審な点でもあるのかね?」にうまくつながると思う。

二人は事件について最初からおさらいをする。 “ The servants were away, Candy and the cook ”のところが微妙にちがっている。清水氏は「召使はいなかった。キャンディもコックもいなかった」と訳している。これでは、二人のほかに別に召使がいたように読める。これまでのところ、キャンディーとコック以外の使用人については言及されていない。村上訳は「使用人は二人とも休みをとって外出していた。キャンディーと料理人だ」と、原文にない言葉を添えて使用人は二人だけであることをはっきりさせている。死亡時刻に誰が現場にいたかという探偵小説ではすこぶる重要な供述である。慎重に訳したいところだ。

マーロウがオールズを評して曰く、“ He’s a bulldog and bloodhound and an old cop. ” 清水氏 はあっさり「猟犬のように勘の鋭い老練な刑事です」。村上氏は例によって「ブルドッグのようにしつこく、猟犬のように鼻のきくしたたかな古参警官です」と言葉を尽くしている。原文のシンプルさは失われてしまうが、邦訳ではこうするしかないのだろう。

スペンサーがオールズのアイリーン犯人説に驚いてうめくように言う言葉。

“are you telling me the damn fool cop suspects Eileen? ”

清水訳「その警官はアイリーンを疑ってるのですか」

村上訳「その警官はアイリーンを疑っているのか」

と、珍しく二人の訳がほぼ一致している。愛しのアイリーンを疑う警官は最大級の罵り言葉を重ねても飽き足らないくらいの気持ちなんだろうに。「いまいましい馬鹿」。二人の訳者はきっと、あのバーニー・オールズにこんな汚い言葉は使いたくなかったのだろう。

第40章

この章のマーロウは、ほぼ電話でことを済ませている。スーウェル・エンディコットは不在。次にかけたのはメンディー・メネンデスだった。マーロウは、メネンデスからレノックスが負傷し、捕虜になったのは英国だったことを聞き出す。それと同時に風紀係の刑事ビッグ・ウィリー・マグーンが四人組に傷めつけられた話を聞かされる。マーロウはカーン機関のジョ-ジ・ピーターズを呼び出し、レノックスの従軍記録他の書類の調査を依頼する。


メネンデスがマーロウを呼ぶときに使う“ cheapie ” だが、清水氏は「チンピラ」、村上氏は「はんちく」と訳している。「チンピラ」も、今ではあまり聞かなくなったが、「はんちく」という言葉は、一昔前の捕物帳か何かに出てきそうな気がして、どうも落ち着かない。東京方言という説もあるが、東京あたりではつい先頃まで普通に使われていたのだろうか。たしかにチャンドラーが扱っているのは少し前の時代になる。村上氏が時代背景を意識して、わざわざ選んだ言葉なのかもしれないが、50年代アメリカのギャング・スターが使う言葉としてふさわしいものかどうか、いまひとつ納得がいかない。


マーロウは、ここでもメネンデスにハーラン・ポッターの名前を出して、相手の反応を探っている。「会ったこともないし、この先会うこともないだろう」という相手に、マーロウが言う。


“ He casts a long shadow. All I want is a little imformation. Mendy. ”
 村上訳「(彼はとても長い影を落としている。)私が求めているのはささやかな情報だけなんだよ、メンディー」


括弧内は、直に見知っているかどうかは知らないが、上の方ではつながっているかもしれない、というぐらいの意味だろうが、清水氏はここも端折って、「実はちょっと訊きたいことがあるんだ、メンディー」とはじめている。情報を小出しにして、相手に揺さぶりをかけるやり方をマーロウは得意にしている。効き目がないと知ると、さっと引いて話を変えるのはお手のものだ。言いかけて途中でやめた話というのは、相手にとって気になるものだからだ。


マグーンはひどい怪我をしたものの命はとりとめた。それについてのマーロウの分析も清水氏は端折っている。怪我がなおって仕事にもどる警官は以前とは何かがちがっているというところだ。


“ the last inch of steel that makes all the difference ”
村上訳「鋭い鋼鉄の切っ先がわずかに丸くなっていて、それでいろんなことがこれまでとは違ってくる」


これ以上やると、またひどい目にあうかもしれないという恐怖が警官に手心を加えさせるのだ。なるほど、殺すより、生かしておく方がいい広告になる。

第39章

検死審問は不発に終わった。事件は自殺という形で幕を閉じた。オールズは、その幕引きに納得がいかず、ポッター老の関与を疑い、マーロウに毒づくが、思い直してオフィスを訪れ、自分の胸のうちを語る。彼は、夫人を疑っていたが、動機が見つからないのだった。オールズが帰ると同時に電話がかかった。ニュー・ヨークのスペンサーからだった。

「さっきは悪かった。忘れてくれ」というオールズに、「なぜ忘れるんだ。傷口を広げようじゃないか」とやり返すマーロウ。そのあとのオールズの台詞の二人の訳が微妙に異なる。

“ Suits me. Under the hat, though. To some people you’re a wrong gee. I never knew you to do anything too crooked. ”

清水訳「おもしろいが、まあよしておこう。世間には君とそりが合わない人間もいるが、おれはわざと意地わるくするほど君をよく知らないんだ」

村上訳「俺の方はかまわんぜ。ただし、おおっぴらにはできない。一部の人間にとっては、君は下手に手出しできない存在になっている。しかし君が裏工作するようなケチなやつだとは知らなかったね」

村上訳はいいとして、「まあよしておこう」という清水訳は意味がよく分からない。“ keep ( ) under one’s hat ” には、「()を秘密にしておく」という意味があるから、「かまわんよ。しかし、ここだけの話だぜ」のように、内密の話なら乗り気だ、という意味でないと、わざわざ別れてすぐに電話をかけて事務所を訪ねてくるオールズの意図がわからなくなる。後半の文については、どうしてこんな訳になるのかまったく分からない。“ gee ” が“ Jesus ” をはばかっての言いかえと考えると、「触らぬ神にたたりなし」というように「下手に手出しできない存在」という村上訳が妥当だろう。最後の文は、そのまま訳せば「君がそんな曲がったことをしようとは思わなかった」の謂。オールズはポッター老の関与についての疑惑をほのめかしているのだ。地方検事の下で働いていたときからマーロウをよく知っているオールズのことだ。「おれはわざと意地わるくするほど君をよく知らないんだ」は、おかしい。「君がそんなことをする奴だとは知らなかった」の意味で訳すほうが、マーロウが裏から手をまわしたと考えている意味が通じる。ひとつ訳をとりちがえてしまうと、それに引きずられて後の訳までまちがえてしまう例だ。

もうひとつ、小さなことだが、オールズが事件についての疑問点を語りだしたところだ。

“ I leaned back and watched the tight sun wrinkles around his eyes. ”

清水訳「私は椅子の背によりかかって、彼の眼が光るのをながめた」

村上訳「私は後ろにもたれかかり、 彼の両目のまわりの日焼けじわがぎゅっと締まるのを観察した」

マーロウが見たのは、眼なのか、そのまわりの皺なのか。「日焼けじわ」という言葉は初耳だが、眼のまわりの皺であることは“ wrinkles around his eyes ” から分かる。

その少し前のところで、オールズが自分の手の甲に浮き出ている大きな茶色の斑点を眺めながら、自分の老いについて慨嘆する場面がある。マーロウが古い友人の眼のまわりの皺を見つめるのは、そこからのイメージの連鎖ではないだろうか。

“ I’m an old cop and an old cop is an old bastard. ”

清水訳「おれは古い警官だ。警官も古くなると、どこでもいやがられる」

村上訳「俺は薹(とう)の立った警官だし、薹の立った警官ってのはしつこい野良犬みたいなものだ」

本来は五十を過ぎないとでてこない角化症による斑点が、おそらくまだ四十代後半であろうオールズの手の甲に出てくるのは現職警官の劇務が原因だろう。自分の好みで仕事が選べる私立探偵とはちがう。マーロウもたしかに手ひどい挨拶を受けるし、痛い目にも合わされるが、暇なときも多い。マーロウに「アカみたいだ」と揶揄される青臭い正義感を持ちながら、汚職や不正まみれの組織に背を向けず、現職警官を続けるこのバーニー・オールズという男が好きになってくる。おそらく、眼のまわりに刻まれたしわの谷になった部分は日焼けせずもとの肌の色を保っていて、目を細めたとき、その日に焼けた部分だけがぎゅっとしわ寄るのを見ているのだろう。マーロウもまた、この男が好きなのだ。

第38章

署長の待合室にはキャンディーが坐っていた。署長室には帰り支度をしたピーターセン署長がいたが、マーロウには構わず牧場に帰っていった。代わりにマーロウを尋問したのはヘルナンデスという名の警部だった。見掛け倒しの署長とちがい、警部はなかなかしたたかな男だった。夫人との間に関係があったことを仄めかすキャンディーの証言が嘘であることを証明するため、警部の許可を得てマーロウはキャンディを尋問する。警部はマ-ロウの言い分を認め帰宅させる。自室に帰ったマーロウは酒を片手に窓辺に立ち、空虚な気持ちで都市の夜の喧騒を聞くのだった。

鷹のような横顔を持つピーターセン署長という人物もアクの強い個性を漂わす。何もせずとも、その風貌で選挙には必ず勝利する署長は、尋問などしたこともない。この日も、何かあれば牧場に電話するよう警部に言い置き、愛馬の待つサン・フェルナンド・ヴァレーの牧場に帰る。「牧場に連絡すればいつでも彼をつかまえることができるのだった」と結ぶ清水氏。しかし、本当はその後に皮肉に満ちた一文があった。

“ If you couldn’t reach him in person, you could talk to one of his horses. ”

村上訳「本人が不在なら、彼の馬を電話に出してもらうといい」。

マーロウに葉巻専門店の前に立つインディアン人形と同程度の脳味噌を持つと酷評される署長である。本人がいなければ彼の馬で十分代役がつとまるというわけだ。見てくれさえよければ、何もできない木偶の坊のような人物でも当選させる民衆に対する揶揄でもある。

それでも、選挙の時期には、ピーターセン署長の椅子をねらって立候補する政治家が現れる。彼らは「さまざまな術策を弄するのだが、かつて成功した試しがなかった」(清水訳)。このさまざまな術策にあたる部分を村上訳では<そして彼のことを「既製品の横顔男」とか「究極の大根役者」とかいった言葉を用いて嘲った。しかし、そんなことをしても無駄だ>と原文どおりに訳している。括弧内のキャッチコピーを原文で引いておこう。“ The Guy With The Built-In Plofile or The Ham That Smokes Itself ” 英語圏では「大根役者」のことを「ハム・アクター」というらしい。いろいろ語源はあるようだが、どちらも見なれた食材であることは共通している。「スモーク」は、愛用の巻き煙草から出る煙と褐色の皮膚のどちらを揶揄したものだろう。「究極の大根役者」という訳は「自らを燻すハム」の意味だろうか。

ヘルナンデス警部の尋問に答えるキャンディーの声にまじる訛りについて。

“ Candy told his story in a quiet savage voice with very little accent. It seems as if he could turn that on and off at will. ”

清水訳「キャンディーは訛りのある気味の悪い声で話をした。」

村上訳「キャンディーは悪意のある静かな声で彼の話(三字分傍点)を語った。訛りはほとんど聞き取れなかった。切り替えスイッチひとつでアクセントがついたりつかなかったりするらしい。」

清水氏は後半部を訳していない。もしかしたら不法入国者であるかもしれないメキシコ人にとって警察での取り調べは気を使うだろう。できるだけ訛りを消してしゃべっていたにちがいない。「おやおや器用な真似をするじゃないか」というマーロウの内心が聞こえてきそうな村上訳である。清水訳ではメキシコ人使用人に対するステロタイプのイメージがつきまとう。後になって、マーロウに対しても鮮やかに掌を返したかのような態度を見せるキャンディーだ。そのしたたかさを印象づけておきたいところである。

キャンディーの言いなりになってマーロウを疑った結果になったことを「悪く思うな」というヘルナンデスに、「なんとも思っていないよ、警部。なんとも思っちゃいない」と答えたあと、マーロウは自分自身に言い聞かせるようにもう一度、「なんとも思っていないというのは嘘ではなかった」と繰り返している。この三度目の「なんとも思っていない」を清水氏は省略してしまっている。

最初の二つの“ No feeling at all ” のうち、最初の「なんとも思っていない」はヘルナンデスに言ったものだろう。二つ目のそれは、警部にというよりむしろ、自分自身の胸のうちを確かめながら自らに言ったものだろう。初めの“ No feeling ” は、「悪感情がないこと」を意味し、二度目のそれは、「無感情」を意味している。家に帰ってからのマーロウは都市に生きる人間の虚無的な孤独感に浸っている。

“ No feeling at all was exactly right. ” という書き出しは、ウェイドの死を間近に見ながら、それに何の感情も持たない自分、都会の中で生きるうちにそういったことになれ、無感情になってしまった自分についての自嘲の表れであり、それに続く独白は、そうした都会についてマーロウが感じる愛と憎しみの二律背反する感情の表出である。

第37章

かつての同僚バーニー・オールズは、今では郡警察殺人課の課長補佐になっていた。タフだが、根は人のいい男で、マーロウは心を許している。頭の切れそうな刑事が同行していて実況検分の結果を課長補佐に報告する。自殺の気配が濃厚だが、血中アルコール濃度の具合によっては自殺の線は消えるかもしれないという。マーロウは、所在をはっきりさせることを条件に、家に帰ることを許される。

ローリング博士に無礼だと言われたオールズが返す言葉の中に、“ I’m breeding internally. ” というところがあるが、清水氏は訳していない。村上訳では「胸の中で見えざる血を流しているところです」となっている。

ウェイドの死は自殺なのかどうか。拳銃は血だまりの中に落ちていて指紋が採れない。泥酔していたら他殺の線もある、とオールズは疑うが、部下の刑事は他殺の形跡はなく、自殺の線を崩す要素は見あたらないと言う。ここまでは清水訳と村上訳にちがいはない。ところが、そのあとに村上訳は、かなり長い文が続いている。原文を引く。

“ I expect a high figure on alcoholic concentration. If it’s high enough― ” the man stopped and shrugged meaningly ―“ I might be inclined to doubt suicide. “

村上訳「ただしアルコール濃度はかなりありそうです。もしある程度の濃度を超えているようであれば―」男はそこで言葉を切り、意味ありげに肩をすくめた。「自殺の線は消えるかもしれませんね」 清水訳を読む限り、自殺の線が濃厚になる。どうして、以下の部分を清水氏はカットしているのだろう。ハードボイルドとはいえ、探偵小説である。読者が推理するための手がかりは保障されなければなるまい。

帰りかけるマーロウにオールズは「ひとつ言っておきたいことがある」と切り出す。その言い方を清水氏は「楽しそうに言った」としているが、村上氏は「考え込むような顔をして言った」と訳している。原文は“ Ohls said musingly. ” だ。辞書には「熟考(の)」だとか「黙想(の)」というような訳語が載っている。清水氏は何と思ってこの訳語を選んだのだろう。

マーロウは、警官の車でいっぱいの引き込み道路を迂回して車を出し、家に向かった。その途中。

“ At a turn of the road the walls of two estates came down to the shoulder and a dalk green sheriff’s car was parked there. ”  

 清水訳「街道の曲がり角にダーク・グリーンのシェリフの車がとまっていた」

村上訳「道路の曲がり角に、二つの地所の壁が路肩までせり出している場所があり、ダーク・グリーンの郡警察の車が停まっていた」

清水訳でも特に不都合はないが、村上氏らしい丁寧な訳しぶりがうかがえるところだ。

第36章

空き瓶を片付けようと書斎に入ったマーロウは、ウェイドが死んでいるのを発見する。お茶の用意をして居間に戻ったアイリーンは、マーロウの様子から異変に気づく。そして、しばらくして訪れた警官に、マーロウの方を見もせず「夫はこの人に撃たれた」と、言うのだった。

ウェイドの死体を検分しながら、マーロウが自殺について考察する場面で、原文に誤植があると村上氏は解説で書いている。少し長いが、その部分を引く。

“ People have killed themselves on the tops of of walls, in ditches, in bathrooms, in the water, over the water, on the water. They have hanged themselves in bars and gassed themselves in garages. ”

自殺の仕方あれこれ、というところだろうか。人は自殺をするためにいろいろな場所や方法を試みる。対句表現で列挙される自殺の対の中で、ガレージ内でのガス自殺の対に” hanged themselves in bars “ (バーで首をつる)というのはおかしい、と氏は言い、ここは“ barns ” (納屋)ではないか、と指摘する。清水訳でも納屋と訳されているので、版がちがえば“ barns ” となっている本もあるのかもしれない。もうひとつ。対句が続く中で、水だけは三連の対句表現になっている。“ in the water, over the water, on the water. ” ここを清水氏は、「水中で自殺するのもいるし、水面で死ぬのもいる」と普通の対句にして済ますが、村上氏は「水の中で死んだり、水上で死んだり、船上で死んだりする」と、三連で訳している。いずれにせよ、ウェイドの死は、それらから比べるとシンプルと言えよう。

死体に取りすがる夫人に、気の毒だが何にも手を触れないでと警官が命じる。そのとき夫人はどうしたのか。、

“ She turned her head, then scrambled to her feet. ”

清水訳「彼女は頭を上げ、床に坐りこんだ。」
村上訳「彼女は振り向き、足をもつれさせながら立ち上がった。」

その前に膝をついて夫を抱きかかえ、体を前後にゆすっていたのだから、死体を放して床にへたり込むことも、立ち上がることもできるわけだが、辞書に用例があり、“ scramble to one’s feet ” は、「急に立ち上がる」の意とある。“ scramble ” の一語には「よじのぼる」も「這うように進む」もあるので、二人の訳者の苦労は分かるが、ここは、「急に立ち上がった」と素直に読んでもかまわないのではなかろうか。