HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十四章(1)

《ランドール・プレイスにあるアパートメント・ハウスの玄関ロビー近くに車を停めたのが五時十分前だった。幾つかの窓には明かりがともり、夕闇にラジオが哀れっぽく鳴っていた。自動エレベーターに乗り、四階まで上がり、グリーンのカーペットにアイヴォリーの羽目板張りの広い廊下を進んでいった。涼しい風が開いた網戸から避難階段に廊下を吹き抜けた。

 405号室を示すドアの傍にアイヴォリーの小さな押しボタンがあった。それを押して待った。長い時間のように感じた。その時、音もたてずにドアが三十センチばかり開いた。その用心深い開け方には、外聞をはばかる雰囲気があった。男は脚と胴が長く、いかり肩だった。褐色の無表情な顔に暗褐色の目をしていた。ずっと昔、表情を制御することを身につけた顔だ。スチールウールのような髪が頭のかなり後ろに生え、褐色のドーム状の額はちょっと見には脳の居場所のようにも見えた。くすんだ眼は感情を交えず私を値踏みした。細長い褐色の指がドアの端をつかんでいた。彼は無言だった。

 私は言った。「ガイガー?」

男の顔には何の変化も認められなかった。彼はドアの後ろから煙草を取り出して唇の間にはさむと、煙を少し吸った。煙は気だるげにこちらに向かってきた。人を馬鹿にしたような煙の後に素っ気ない言葉が続いた。急ぐことのない、トランプ博打のディーラーと同じ抑揚を欠いた声だ。

「何と言ったんだ?」

「ガイガー。アーサー・グウィン・ガイガー。本の所有者だ」

 男は特に急ぐふうもなく考えた。彼は煙草の先をちらっと見た。もう一方の手、さっきドアを支えていた手が消えていた。肩を見ると、隠れた手が何やら動いているようだった。

「そんな名前の男は知らないな」彼は言った。「この近くに住んでいるのか?」

私は微笑んだ。その笑い方が彼の気に触った。彼の目つきが険悪になった。

私は言った。「君がジョー・ブロディか?」

褐色の顔が固まった。「それがどうした?ペテンにでもかけようってのか、あんた――それともふざけてるのか?」

「なるほど、君がジョー・ブロディか」私は言った。「そして、君はガイガーなどという名の男は知らないときた。そいつは大いに笑わせるね」

「おやおや、奇妙なユーモア感覚をお持ちのようだ。どこか別のところでそれを発揮したらどうだ」

私はドアに身をもたせ、夢見るように微笑んで見せた。

「あんたは本を持っている、ジョー。私は上客の名簿を持っている。我々はこれについて話し合うべきじゃないか」

 彼は私の顔から眼をそらさなかった。彼の背後の部屋の中で、金属のカーテン・リングが金属棒にあたる微かな音がした。彼は横目で部屋を一瞥し、ドアを大きめに開けた。

「いいだろう――あんたが何か持っているというのならな」彼は冷ややかに言った。彼はドアの脇によけた。私は彼の傍を抜けて部屋に入った。》

 

ジョー・ブロディの登場シーン。いつもながら人物の外見を長々と描写するチャンドラーである。双葉氏は、こういうのが気質的に好きでないのか、よくカットする。ここでは、「ちょっと見には脳の居場所のようにも見えた」を訳していない。原文は<that might a careless glance have seemed a dwelling place for brains>。村上氏は「一見、それは頭脳の居住する場所と見えたかもしれない」だ。こうした直訳になる時は、訳者にも作者の意図がよく分からない時だ。おそらく「根っからのバカではなさそうだ」くらいの意味で書いているのだろう。双葉氏がカットしたくなる気持ちも分かる。

 

「ガイガー?」としたところは、<Geiger?>。双葉氏は「ガイガーか?」。村上氏は「ガイガーは?」だ。訳としたら、助詞の一つくらいはつけたいところだが、マーロウはガイガーを見知っていて、彼が死んだことも知っている。ブロディが事件にからんでいるとしたら、そんなつまらない手にひっかかりはしないことは百も承知だ。ここは、暗号か合言葉の一つのように考えてみた。ガイガーの名を出すことで、相手がどのような反応を見せるのかを知ろうというのだ。

 

「煙を少し吸った」は<drew a little smoke from it.>ここを双葉氏は「わずかに煙を吐いた」と逆にしている。村上氏は「煙を少し吸い込んだ」としている。<draw>は「引く」という意味なので、「そこから煙をこちらに引き寄せた」のなら「吸う」としか訳せない。煙草をくわえても吸わなければ吐けないのは道理だ。双葉氏は次の文に引きずられて少し急ぎすぎたようだ。

 

「煙は気だるげにこちらに向かってきた。人を馬鹿にしたような煙の後に素っ気ない言葉が続いた。焦ることのない、トランプ博打のディーラーと同じ抑揚を欠いた声だ」も、少々厄介だ。原文は<The smoke came towards me in a lazy, contemptuous puff and behind it words in a cool, unhurried voice that had no more inflection than the voice of a faro dealer.>。

 

双葉氏はここを「煙はゆるゆると私のほうへ流れ、そのあとから冷たいゆっくりした声がきこえてきた。銀行ゲームのトランプの配り手より抑揚のない声だった」と、あっさり訳している。村上氏は「男がそろそろと、小馬鹿にしたように煙を吐くと、それは私の方に漂ってきた。彼は煙の奥から、カード・ゲームの胴元のような抑制された単調な声で言った」だ。

 

双葉氏は<contemptuous puff>をスルー。村上氏は語順を入れ替えて「男がそろそろと、小馬鹿にしたように煙を吐くと」と主語を補った説明的な語句を入れて分かりよく訳している。ただ、そのために原文が煙の後ろに隠している男の姿が目立ってしまうことになった。その辺は双葉氏の訳の方がニュアンスをよく残している。問題は<faro>を「銀行ゲーム」と、遊びのように訳していることで、賭博師の雰囲気が薄れてしまっていることだ。村上氏は「カード・ゲーム」がトランプ遊びのようにとられないために、ディーラーを胴元と訳すことで賭け事の雰囲気を残している。



『大いなる眠り』註解 第十三章(4)

《エディ・マーズは言った。「こいつが銃を持っていないか調べろ」

金髪が銃身の短い銃を抜き、私に狙いをつけた。ボクサー崩れはぎこちなくにじり寄って来て私のポケットを注意深く探った。イブニング・ドレスを着て退屈している美しいモデルのように、私は彼のためにくるっと回ってみせた。

「銃は持ってません」聞きづらい声で彼は言った。

「そいつが何者なのか調べろ」

 ボクサー崩れは私の胸ポケットの中に手を滑らせ二つ折り財布を引き出し、指先ではねあけて中身を調べた。「名前はフィリップ・マーロウです。エディ。住所はフランクリン街のホバート・アームズ。私立探偵許可証、保安官補バッジその他。職業、探偵」彼は財布を私のポケットに戻し、軽く私の頬を叩くとそっぽを向いた。

「あっちへ行ってろ」エディ・マーズは言った。

 護衛係の二人はまた外に出て、ドアを閉めた。彼らが車の中に乗り込む音がした。エンジンがかかり、もう一度アイドリングを続けた。

「よし、話せ」エディ・マーズは急いた。眉の頂上が額に向かって鋭い角度を作った。

 「まだ話せるような段階じゃない。仮に彼が殺されたとして、商売を乗っ取るためにガイガーを殺すのは馬鹿な手口だ。そうは思えない。本を奪ったのが誰にせよ、事の真相を知っているにちがいない。店に残った金髪女が何かにひどく怯えていたのも確かだ。誰が本を手に入れたかは目星がついている」

「誰だ?」

「そこがまだ話せないところさ。依頼人がいるんでね」

 彼は鼻に皺をよせた。「それは――」彼は言いかけてすぐにやめた。

「君はあの娘を知っていると思うんだが」私は言った。

「誰が本を持っているんだ。ソルジャー?」

「話す気はない、エディ。なぜ私が話すと思うんだ?」

彼はルガーを机の上に置き、開いた掌で叩いた。「これさ」彼は言った。「それと、損はさせないつもりだ」

「そうこなくっちゃ。銃は放っておけよ。いつでも金の音はよく聞こえるんだ。幾らじゃらつかせてる?」

「何をするために?」

「何をしてほしいんだ?」

 彼は机をばたんと強く叩いた。「よく聴けよ。ソルジャー。俺がお前にきく。するとお前が別のことをきく。これじゃ堂々巡りだ。俺が知りたいのはガイガーの居場所だ。個人的な理由でな。俺はあいつの商売が好きじゃない。保護もしていなかった。たまたま俺がこの家の持ち主だっただけだ。今はそっちの方も熱が冷めた。この件についてお前の知っていることは何であれ外には出せない類のものだと俺は睨んでいる。でなきゃ今頃このごみ溜めの周りは革靴の底をきゅっきゅと鳴らす警官でいっぱいのはずだ。お前は何も売るものを持っちゃいない。お前の方こそ少し保護が必要なようだぜ。さあ、吐いちまえ」

 いいところを突いていた。だが、彼に教えるつもりはなかった。私は煙草に火をつけ、マッチの火を吹き消すと、トーテムポールのガラスの目にはじいた。「その通り」私は言った。「もし、ガイガーの身に何か起きたんだとしたら、私は知っていることを警察に話さなければならない。事が公になったら、私に売るものは残っちゃいない。それじゃ、御免を被って、私は消えるとしよう」

 彼の日に焼けた顔が白くなった。彼は瞬く間に品を落とし、性急で粗野に見えた。彼は銃を持ち上げる素振りを見せた。私はさりげなく言い足した。「そういえば、近頃マーズ夫人はご機嫌いかがかな?」

 揶揄いの度が過ぎたか、と一瞬考えた。彼の手が銃を持ち上げ、それを振った。彼の顔は筋肉が過度に引き攣れていた。「行っていい」彼は静かに言った。「お前が、いつどこへ行き、何をしようが、俺は気にしちゃいない。ひとつだけ忠告しておこう。ソルジャー。俺のことは放っておくんだ。さもないとお前は、自分がリメリックに住むマーフィーだったらよかったのに、と思うことになる」

「おや、クロンメルから遠くないな」私は言った。「君にはそこから来た友だちがいたと聞いたことがある」

 彼は机に覆い被さり、目を凍りつかせ、動かなかった。私はドアのところまで行き、開けながら振り返ってみた。彼の目は私を追っていたが、痩せた灰色の体は動かなかった。彼の目には憎悪が浮かんでいた。私は外へ出て、生垣を抜け、坂を上って車に乗り込んだ。私は車の向きを変え、丘の頂上を越えた。誰も私を撃たなかった。数ブロック進んだところで車を停め、エンジンを切って、しばらく座って待った。つけられてもいなかった。私はハリウッドに引き返した。》

 

「ボクサー崩れはぎこちなくにじり寄って来て私のポケットを注意深く探った」は<The pug sidled over flatfooted and felt my pockets with care.>。双葉氏は「拳闘家崩れは偏平足みたいな歩き方で私に近づくと、注意ぶかくポケットを探りまわした」。村上氏は「ボクサーあがりがはたはた(傍点四字)とした足取りで近くに寄り、私のポケットを念入りに探った」だ。

 

<flatfoot>は「偏平足」を意味する名詞なので、双葉氏の訳はほぼ直訳だが、果たして歩き方を見ただけで、偏平足だと分かるものだろうか?また、村上氏の「はたはたとした足取り」というのも、今までに読んだ覚えがない。<sidle>には「横(斜め)歩き」の意味もある。<sidled over>(にじり寄る)という表現と合わせて考えると、スマートに近づくのではなく、どことなく様にならない足取りで近寄ってきたのだろう。

 

「名前はフィリップ・マーロウです。エディ。住所はフランクリン街のホバート・アームズ。私立探偵許可証、保安官補バッジその他。職業、探偵」は<Name's Philip Marlowe, Eddie. Lives at the Hobart Arms on Franklin. Private license, deputy’s badge and all. A shamus.>。あまり、よくしゃべるタイプじゃないのだろう。訥々とした語りが聞こえてくるようだ。

 

双葉氏は「フィリップ・マーロウ。住所はフランクリン街ホバート・アームズ館です。私立探偵の許可証、保安官補の記章を持ってますよ。デカです」。細かいことを言うようだが、「記章」は「徽章」のまちがいだろう。村上氏は「名前はフィリップ・マーロウです。エディー。住まいはフランクリン通りのホバート・アームズ。私立探偵の免許証、保安官事務所の助手バッジなど。探偵さんときたね」と最後に軽口を叩かせている。

 

最後の<A shamus>の<A>だが、「~というもの」の意味ではないだろうか。村上氏はそれを「探偵さんときたね」と訳してみせたのだろう。もちろん、これはマーロウに聞かせようとした一言だ。その後の頬を軽く叩くのとセットになっていると読んでの訳である。読みとしては、私もそちらを採りたいが、ボスの命令である。エディーに応えながら、マーロウにも聞かせる、そういう意味で「職業、探偵」としてみた。もちろん、名前、住所と来たら、次は「職業」と続くのが身元調べの一連の手続きだからだ。

 

「話す気はない、エディ。なぜ私が話すと思うんだ?」は<Not ready to talk, Eddie. Why should I?>。双葉氏は「言えないね。言うて(傍点)はなかろう?」。村上氏は「そいつはまだ言えないよ、エディー。言う義理もないしな」。<Why should I>は、「何で私が」という決まり文句だが、両氏とも疑問符を重要視せずに、エディに対して切り口上になっている。それが後々に響いてくる。<Why should I?>をどう訳すかで、次のルガーのところをどう訳すかが決まるからだ。

 

<「これさ」彼は言った。「それと、損はさせないつもりだ」>は<“This” he said. “And I might make it worth your while.” >。双葉氏は<This>の一言を「こいつにものを言わせようか?」と訳し、その後の文はまったく訳さずに済ませている。< make it worth your while>は「損はさせない(あなたの労をむだにしない)」という意味の成句だ。これをカットした双葉氏の訳では「金の音」の出所がまったく分からない。村上氏はその後に来る<And I might make it worth your while.>と併せて「こいつと俺でしかるべき礼をすることはできるかもしれない」と訳している。

 

「そうこなくっちゃ。銃は放っておけよ。いつでも金の音はよく聞こえるんだ。幾らじゃらつかせてる?」は<That’s the spirit. Leave the gun out of it. I can always hear the sound of money. How much are you clinking at me?>。エディの申し出は言うことを聞けば金を出すが、いうこと聞かなければルガーの出番だ、という飴と鞭の使い分けを意味している。それなのに、双葉氏は単なる脅しのように訳してしまうから、その後を「お勇ましいことですな。が、パチンコは余計だよ。どうやら金の音がきこえるね。いったい幾らちゃらつかせようというんだ」と訳さざるを得なくなる。金の話がいかにも唐突に飛び出してくる。

 

村上氏は「そう、そうこなくっちゃ。でも銃は抜きにしてもらいたいね。私はちゃりんちゃりんという金の音に耳ざとい方でね。どれくらいその音を聞かせてもらえるんだろう?」だ。いつものことながら、少々くどい。<clinking>は「チリン(チャリン)と音を立てる」の意味なので、こういう訳になるのだろう。ここは、<How much>を「幾ら」で受けているところも含めて双葉氏の訳の方が簡潔で原文に近い。

 

「この件についてお前の知っていることは何であれ外には出せない類のものだと俺は睨んでいる。でなきゃ今頃このごみ溜めの周りは革靴の底をきゅっきゅと鳴らす警官でいっぱいのはずだ」の部分には少々てこずった。少し長いが原文は<I can believe that  whatever you know about all this is under glass, or there would be a flock of johns squeaking sole leather around this dump.>。

 

双葉氏はいつものことながらこの部分をあっさりとカットしている。村上氏はこう訳している。「この件についておまえが知っていることは、それが何であれ、表に出せない種類の代物だ。俺はそう考えている。でなければ、今頃ここは山ほどの警官に踏み荒らされているよ」。<under glass>は「温室で」の意味。温室栽培の植物は外に出すことはできない。<flock>は「一群の」、<john>は警官を意味するスラング。逐語訳にするとふざけた感じがよく出るが、意味的には村上訳で十分通じる。(第十三章了)

 

『大いなる眠り』註解 第十三章(3)

《「厄日かもしれないな。知ってるんだよ、あんたのこと、ミスター・マーズ。ラス・オリンダスのサイプレス・クラブ。華麗なる人々のための華麗なる賭博場。地方警察はあんたの意のままだし、ロサンジェルスのその筋にもたんまりと握らせている。言い変えれば、保護下にあるってやつさ。ガイガーは稼業がら保護を必要としていた。あんたの店子というのなら、ちょくちょく口を利いてやっていたにちがいない」

 彼の口は青ざめてこわばった。「ガイガーの稼業っていうのは何だ?」

「猥本稼業さ」

 彼は長い間私をじっと見つめていた。「誰かの手があいつに伸びた」彼はそっと言った。「お前はそれについて何か知っている。あいつは今日店に顔を出さなかった。どこにいるのか誰も知らん。ここの電話にも出なかった。だから、調べにやってきたんだ。床の上に血溜まりが見つかった。敷物の下にだ。それにおまえと娘がここにいた」

「もの足りない」私は言った。「けど、買い手がその気なら売れるストーリーかもしれん。もっとも、少し見落としている点がある。今日、誰かが彼の本をごっそり店から運び出した。――彼が貸し出していた上品な書物だ」

 彼は指をぱちんと鳴らして言った。「俺もそのことを考えるべきだったよ。ソルジャー。お前は事情通のようだ。どんな絵を描いている?」

「ガイガーは消されたんだろう。それは彼の血だ。本の移動は、当面の間死体を隠す動機を教えてくれる。乗っ取った仕事の目鼻がつくまで、誰かが時間を欲しがったのさ」

「そうは問屋がおろさない」と、エディ・マーズは険しい顔で言った。

「誰がそう決めたんだ?あんたと外の車にいる二人のガンマンか?ここは今や大都会だ、エディ。最近この界隈はタフなお歴々が続々参入中ときている。成長の代償ってやつさ」

「おまえは無駄口が多すぎる」エディ・マーズは言った。彼は歯を剥き出し、鋭く二度口笛を吹いた。車のドアがばたんと閉まる音に続いて、垣根の間を抜けてくる足音がした。マーズはルガーをまたもやさっと取り出すと、それ私の胸に向けた。「ドアを開けるんだ」

 ドア・ノブががちゃがちゃ鳴り、呼び声が聞こえた。私は動かなかった。ルガーの銃口がまるで二番街のトンネルのように見えたが、私は動かなかった。自分の体が防弾ではないという考えにそろそろ慣れてもいい頃だった。

「自分で開けるんだな、エディ。私に指図するなんて一体何様のつもりだ?行儀よくすれば手伝ってやらんでもないが」

 彼は勿体ぶって立ち上がると、机を回り込んでドアのところまで行った。彼は私から目をそらすことなく、黙ってドアを開けた。二人の男が部屋の中に転がり込んでくるなり、あわてて脇の下に手を入れた。一人はまちがいなくボクサー崩れだ。色白のハンサムな顔だが鼻の形がいけない。片方の耳なんか小さなステーキのようだ。もう一人の方は痩せた金髪で無表情。間の詰まった両の眼には何の色も浮かんでいなかった。》

 

「厄日かもしれないな」は<Maybe it just isn’t your day.>。<is not your day>は「ついてない日」という意味で使われる。双葉氏は「君の悪日になるかもしれないということさ」。村上氏は「今日はきっと日が悪いんだよ」と、訳している。「悪日」という日本語もあるが、あまり見たことがない。それで村上氏は、「日が悪い」とほどいてみたのだろう。「厄日」の方が通りがよさそうな気がする。

 

「華麗なる人々のための華麗なる賭博場」としたところは<Flash gambling for flash people.>。チャンドラーお得意の繰り返しだ。双葉氏は、こちらも同じ言葉を繰り返して、「いんちき連中向きのいんちき賭博だ」。村上氏は前にバーニー・オールズに言った時と同じ訳語を使って「金持ち相手の高級賭博場だ」と訳している。

 

flash>には「一瞬の、これ見よがしの、いんちきな、見た目が高級そうな」などの意味がある。二度も繰り返しているところから考えれば、ただの「金持ち相手の高級賭博場」ではなさそうな気がする。チャンドラーのことだから、一語に二重の意味を持たせているのだろう。意味の上からは双葉氏の訳の方が合っていると思うが、「いんちき賭博」というのは分かるが、「いんちき連中」というのは、どういう人々を指すのかよく分からない。当の賭博場の持ち主に言うのだから、そのものずばりではなく、もう少し皮肉を効かせたいと思い、このように訳してみた。

 

「地方警察はあんたの意のままだし、ロサンジェルスのその筋にもたんまりと握らせている」は<The local law in your pocket and a well-greased line into L.A.>。双葉氏は前半をカットして「ロス・アンジェルス界隈で、その筋にゃ鼻薬がきかしてあるだろうが」と訳している。村上氏は「地元の警察はすっぽり手中に収めているし、ロサンジェルスの上の方まで十分鼻薬は効かせてある」だ。

 

<in one’s pocket>を「手中に収める」は上手い訳だと思うが、「鼻薬」は少額の賄賂を意味する言葉で、ロサンジェルスの上の方に贈るにしては、ちょっと少なすぎる気がする。さらに失礼を顧みないで言わせてもらうと、「鼻薬を嗅がせる」の方が本義に近い。<grease>は「グリース」で油を塗る意味だが、俗語で「賄賂、贈賄」の意味で使われる。ロス市警の上層部によく油を塗った釣り糸を入れるのだ。かなりの高額でないと大物はひっかかったりしないだろう。

 

「彼はちょうど一分間、私をじっと見つめていた」は<He stared at me for a long level minute.>。ここを双葉氏は「彼はしばらくの間、私をじっと見ていたが」と訳すが、村上氏は「彼は長い間、むら(傍点二字)のない視線で私を睨んでいた」とやっている。<level>を「むらのない」と解釈してのことだろうが、この語は何にかかっているだろうか。「睨んでいる」<He stared at me>の後に来る<for a long(time)>は「長い間」という成句だ。そこを抽象的な<time>ではなく、「すりきり一杯」<level>の「一分」<minuite>と時間を区切ったのではないだろうか。

 

「もの足りない」としたところは<A little weak.>。直訳して「少し弱い」でもいいと思う。双葉氏もそうで「話としちゃすこし弱いが」としている。ところが、村上氏はちがう。「いささか強引な節があるが」だ。<a little weak>も、よく使われる言葉で、後ろに頭をくっつければ、「頭が少し足りない」となる。料理などの場合は「味が薄い」と、何かが少し不足がちであることを表現する言葉だ。「強引」という意味で使うのはいささか強引に過ぎはしまいか。

 

「本の移動は、当面の間死体を隠す動機を教えてくれる。乗っ取った仕事の目鼻がつくまで、誰かが時間を欲しがったのさ」の原文は<And the books being moved out gives a motive for hiding the body for a while. Somebody is taking over the racket and wants a little time to organize.>。双葉氏は「一時死体を隠したのは本を運び出すためだ。誰かが商売を肩代わりして建て直す時間を稼ごうとしたんだ」。村上氏も「本の運び出しが終わるまで、死体を隠しておく必要があった。彼の稼業を乗っ取ろうとしているやつがいて、その段取りをつけるのに少し時間がかかる」と、双葉訳を踏襲している。

 

これは訳の仕方というより読解の問題だろう。まず、エディのストーリーには本の移動が抜け落ちていることをマーロウは指摘している。ここは、死体の隠蔽よりも、本の移動ということを追うべきだ。何故、誰によって本は運び出されたのか?マーロウによれば、それはガイガーに代わって仕事をやっていくつもりの誰かが、新たな仕組みを立ち上げるための時間を欲しがったからだ。死体をしばらく隠しておくのもそのためだ。つまり、双葉氏のように「死体を隠したのは本を運び出すため」でもなければ、村上氏のように「本の運び出しが終わるまで、死体を隠しておく必要があった」わけでもない。両氏とも、後半の文ではそのことを書いていながら、前半部分では、短絡的な理由にしてしまっている。

 

「本の移動」は、「死体の隠蔽」の要因ではない。「本の移動」は、なぜ死体の隠蔽が行われたかということの動機を示唆するのである。ここをしっかり読み取らないから、短絡的な訳になる。ハード・ボイルド小説の流儀で、マーロウはあまり読者に説明しないが、頭はしっかり働かせている。いちいち口に出していれば名探偵と言ってもいいほど優れた推理力を持っているのだ。訳者もそれに負けないくらい頭を働かせて読んでいく必要がある。というよりも、翻訳の作業というものは訳文をではなく、原文の精読を要求しているのだ。ちゃんと読めば、訳はもうできたようなものだ。

 

「誰がそう決めたんだ?あんたと外の車にいる二人のガンマンか?」は<Who says so? You and a couple of gunmen in your car outside?>。双葉氏は「なぜだ。君や戸外(そと)の車にいる用心棒がそう言うだけのことだろう?」と、ちょっと言い方を変えて訳している。村上氏は「誰がそういうんだ。君と、表の車の中で待機している拳銃使いか?」と、「待機している」を除けばほぼ直訳だ。<say so>は「(独断的な)主張、(根拠のない)発言」の意味を持つ。双葉氏の訳は、その意味である。

 

それに対して、村上氏は文字通りに訳している。その前のエディの言葉<They can’t get away with it>を双葉氏は「そうは問屋がおろすまい」としているが、村上氏は「そうはさせんぞ」と訳している。<get away with >は「犯罪を犯してそのままうまく通す」という意味のイディオムである。否定形になることで「そうは問屋がおろさない」という日本語の文句がうまくあてはまる。直訳すれば「彼らは逃げおおせることはできない」という発言を、「そうはさせんぞ」という発話者の意志を感じさせる発言に変えることで、後に続く「誰がそう言うんだ」の問いが無意味になっている。エディが言っていることは自明だからだ。修辞疑問文で、答えは期待されていないとしても、あまりいい訳とは思えない。

 

「自分の体が防弾ではないという考えにそろそろ慣れてもいい頃だった」は<Not being bullet proof is an idea I had to get used to.>。双葉氏は「こんな場面は馴れっこだ」といきがってみせるが、ちょっとちがう。<Not being bullet proof>は「防弾ではあらない」だし、<I had to get used to>は「馴れなくてはいけない」という意味だ。マーロウは虚勢を張っているだけであって「馴れっこ」になってなどいない。村上氏は「自分が不死身ではないという考えにそろそろ馴染まなくてはいけないのだが」と丁寧に訳している。

 

「私に指図するなんて一体何様のつもりだ?」は<Who the hell are you to give me orders?>。<Who the hell are you>で「お前は何者だ」の意味。双葉氏は「僕に命令する権利はないはずだ」と、割とおとなしい口調に訳している。村上氏は「世の中、命令されればその通りに動くという人間ばかりじゃない」と、大胆に意訳している。いずれにせよ、ルガーの銃口を突き付けられながら言うのだからいい度胸である。

 

「片方の耳なんか小さなステーキのようだ」は<one ear like a club steak>。「クラブ・ステーキ」というのは、「ショート・ロインの部位のうち、あばら骨のすぐ後ろの、テンダーロインが全く含まれていない部位から取った肉。普段あまり使わない筋肉のため、テンダーロインに次いで柔らかい」らしい。テンダーロインの部位を含まないので、小さくなる。「クラブ・ステーキ」とそのまま訳しても食通でもなければ意味が分からない。双葉氏は「片耳はビフテキみたいだった」と懐かしい言葉を使っているが、普通のステーキを思い浮かべると、ちょっと大きすぎる。村上氏は「片方の耳は安物の小型ステーキみたいになっている」と、小型を強調するが、安物は余計だろう。



『大いなる眠り』註解 第十三章(2)

《カーメンは声を上げて私の横を通り、ドアから駆けだした。坂を下る彼女の足音が急速に消えていった。車は見なかった。多分下の方に停めたのだろう。私は言いかけた。「一体全体どうなってるんだ――」

「放っておけよ」エディ・マーズはため息をついた。「ここは何か変だ。それが何なのか調べてみないとな。腹から弾丸を摘出されたかったら、邪魔してみるんだな」

「これは、これは」私は言った。「タフガイなんだ」

「必要な時だけさ。ソルジャー」彼は二度と私を見なかった。私のことなど気にせず、眉をひそめながら部屋中を歩き回った。私は正面玄関の壊れた窓枠越しに外を見た。植え込みの上に車の屋根が見えた。アイドリングしていた。

 エディ・マーズが机の上の紫色の大瓶と二個の金の縞模様のグラスを見つけた。彼は片方のグラスを嗅ぎ、それから大瓶の方を嗅いだ。彼はうんざりしたような笑みを浮かべ、唇に皺を寄せた。「薄汚い周旋屋」彼は感情を込めずに言った。

 彼は二冊の本を見て、唸り、机の周りをまわってカメラのついたトーテム・ポールの真ん前に立った。彼はそれを調べ、その前のフロアに視線を落とした。小振りの敷物を足で動かし、さっとかがんだ。体に緊張が走った。彼はそのまま灰色の膝を床につけた。机が彼の体の一部を隠していた。短い叫び声がした。彼は再び立ち上がった。彼の腕がさっとコートの下に入り、手には黒いルガーが現れた。彼は長い褐色の指でそれを掴んでいた。銃口は私の方にも、誰の方にも向いていなかった。

「血だ」彼は言った。床の上に血の跡がある。敷物の下だ。かなり大量の血だ」

「本当に?」 私は興味深げに言った。

 彼は机の後ろの椅子に滑り込み、マルベリー色の受話器を手前に引き寄せ、ルガーを左手に持ち替えた。彼は電話に向かって険しく眉をひそめ、灰色の厚い眉を互いに近づけた。そして鉤鼻の上の灼けた皮膚に深い皺を刻んだ。「警察に連絡したほうがよさそうだ」彼は言った。

 私はガイガーが横たわっていた場所に敷かれた敷物を検分し、それから蹴とばした。「これは古い血だ」私は言った。「乾いている」

「同じことだろう。警察を呼ばなければ」

「好きにすればいい」私は言った。

 彼の目が細められた。顔から虚飾が剥がれていた。ルガーを持った身なりの良いならず者だけが残った。彼は私が同意したのが気に入らなかったのだ。

「いったい、お前は何者なんだ。ソルジャー」

「名前はマーロウ。探偵だ」

「聞いてないな。娘は誰だ?」

「依頼人。ガイガーは彼女を強請っていた。話をしに来たが、彼はいなかった。ドアが開いていたんで入って待っていた。それについてはもう話したか?」

「都合のいいことだ」彼は言った。「ドアが開いていた。お前が鍵を持っていないときに」

「そうだ。あんたはどうやって鍵を手に入れたんだ?」

「それがお前の稼業と何か関係あるのか。ソルジャー?」

「仕事にすることもできる」

 彼は硬い笑みを浮かべ、灰色の帽子を灰色の髪の後ろへ押しやった。「なら、俺もお前の仕事をおれの仕事にするかもな」

「それはないだろう。儲けが少なすぎる」

「慧眼だな。いいだろう。ここは俺の持ち家で、ガイガーは借り手だ。それで、お前はこれをどう見る?」

「あんたは、たいそういじらしい連中とお知り合いなんだな」

「来る者は拒まずさ。いろんな奴がやってくる」彼はルガーに目を落とし、肩をすくめて脇の下にしまい込んだ。「何か名案でもあるのか。ソルジャー」

「いくらでもある。誰かがガイガーを撃った。誰かがガイガーに撃たれた。あるいは他に二人仲間がいた。それとも、ガイガーはカルト教団を主宰していて、トーテム・ポールの前で生贄の血の儀式を行ったか。もしくは、晩餐用のチキンを居間で殺すのが好きだったとか」

 灰色の男は私をにらみつけた。

「お手上げだ」私は言った。「ダウンタウンからお仲間を呼んだ方がいい」

「どうも腑に落ちない」彼は言い返した。「お前がここで何をしていたのかが分からん」

「さあ、警察を呼んだらどうだ。これであんたにも一波乱ありそうだ」

彼は身じろぎせず、考えていた。唇が歯に押し当てられた。「分からんな。どちらも」彼は固い声で言った。》

 

「腹から弾丸を摘出されたかったら、邪魔してみるんだな」は<If you want to pick lead out of your belly, get in my way>。双葉氏「腹に弾丸を食らいたくなけりゃおれといっしょにやれよ」。村上氏「もし腹から鉛玉を取り出すのがお好みなら、俺に逆らうってのは良い方法だぜ」。弾丸の方向が逆になっているが、<pick lead out >なので、「鉛を取り出す」が正しい。もっとも取り出すためには、先に撃ち込む必要があるので、どちらも間違ってはいない。<get in my way>は「邪魔をする」の意味だから、「おれといっしょにやれよ」は、おとなしすぎるかも。簡単にいえば、「撃たれたくなかったら邪魔をするな」だ。チャンドラーの小説に出てくる強面連中は、持って回った言い方がお好きだ。

 

<soldier>を双葉氏は「あんちゃん」、村上氏は「兄さん」(にソルジャーのルビを振っている)。村上氏は二度目からは、「ソルジャー」を使用。「三下」とか「下っ端」とか、あてはまりそうな言葉はいくらでもあるが、任侠映画の臭いが染みついていて、カリフォルニアの乾いた空気になじまない。エディーマーズの口癖と考え、あえて訳さず、村上流に「ソルジャー」で通すことにした。

 

「それがお前の稼業と何か関係あるのか。ソルジャー?」は<Is that any of your business, soldier?>。<any of your business>は、「余計なお世話だ」と訳されることが多い決まり文句だ。双葉氏は「おまえさんの知ったこっちゃない」と、定番の訳だ。村上氏は「それはおたくに関係のないものごと(ビジネス)だろう、ソルジャー」と、わざわざルビを駆使して訳している。それには訳がある。

 

ここから二人の間で、<business>という単語を使った会話が繰り返される。<business>は、ビジネス、つまり職業や仕事のことだが、否定的に使われるときは「干渉(するな)、権利(はない)」などのように用いられる。当然、エディ・マーズは、その意味で言っている。マーロウは、それに対して<I could make it my business.>と返している。つまり、相手の使った常套句の<business>を、一般的な意味の「仕事」と、受け取ってみせるのだ。やりようによっては、これも仕事のうちだ、というような意味だろう。

 

だから、双葉氏のように定石どおりに訳してしまうと、あとの「仕事」(ビジネス)が唐突な感をあたえることになる。そこで、前もってエディ・マーズの言葉の中に、仕事をにおわせる言葉を入れておく必要がある。それが、村上氏のルビの工夫であり、拙訳の場合、「稼業」の一言の挿入である。例によって双葉氏は、このマーロウの台詞を丸ごとカットしている。それでいて、次のエディ・マーズの台詞は「だが、おまえさんの仕事をおれの仕事にしてやってもいいぜ」と、しゃあしゃあと訳している。

 

自分の頭の中では繋がっているのだろうが、訳としてはやはり、唐突の感があるのは免れない。村上氏は、マーロウに「それを私のビジネスにすることもできる」と、「ビジネス」を使ってつないでいる。エディ・マーズもマーロウの言葉をそのまま使って、<And, I could make your business my business.>「おたくのビジネスをうちのビジネスにすることもできる」と返している。これでこそ、言葉のキャッチボールが成立する。双葉氏の場合、ボールが途中で落ちてしまっているのだ。

 

「慧眼だな。いいだろう。ここは俺の持ち家で、ガイガーは借り手だ。それで、お前はこれをどう見る?」は<All right, bright eyes. I own this house. Geiger is my tenant. Now what do you think of that?>。双葉氏は「まァいい。おれはこの家の持ち主だ。ガイガーは借り手さ。どう思うね?」。村上氏は「まあいいだろう。この家の家主は私だ。ガイガーは私の借家人だ。それでいかがかな?」と訳している。双葉氏がカットするのは慣れているが、村上氏が<bright eyes>をカットした訳が分からない。まさか忘れたわけではないだろう。こういうちょっとしたところまで目を届かせるのが村上氏なのだが。

 

「彼はルガーに目を落とし、肩をすくめて脇の下にしまい込んだ」は<He glanced down at the Luger, shrugged and tucked it back under his arm.>。双葉氏は「彼はリューガーに目をやり、肩をすくめるとそれを肩の下へしまった」だ。「リューガー」がいい。あの独特の形状が目に浮かんでくるではないか。村上氏は「彼は手にしたルガーを見下ろした。肩をすくめ、それを脇のホルスターに戻した」だ。わざわざホルスターを付け加えているところがミソだ。後で出てくるのかもしれないが、ここではそこまで詳しく補説する必要があるとも思えない。

 

「さあ、警察を呼んだらどうだ。これであんたにも一波乱ありそうだ」は<Go ahead, call the buttons. You’ll get a big reaction from it.>。双葉氏は「さァ、ご遠慮なさらずポリ公を呼べよ。大事になるぜ」。村上氏は「さっさと警察を呼べばいいさ。君が一枚噛んでいるとなると、みんな色めきたつだろうね」。<buttons>は金ボタンが並んでいることから、ホテルのボーイやレストランの給仕を指す言葉。制服を着て、電話一本で駆けつける警官も給仕と同じということか。二つ目の文は、「あなたはこの一件で大きなリアクションを得るだろう」という意味だから、村上氏のような訳にもなる。マーロウがエディ・マーズにはったりを利かせているところだ。

 

『大いなる眠り』註解 第十三章(1)

《彼は灰色の男だった。全身灰色。よく磨かれた黒い靴と灰色のサテンのタイに留めたルーレットテーブル・レイアウトのそれを思わせる二つの緋色のダイヤモンドを除いて。シャツは灰色で、柔らかなフランネルのダブル・ブレストのスーツは美しい仕立てだった。カーメンを見て、彼は灰色の帽子をとった。その下の髪も灰色で、まるで篩にかけたみたいに整髪されていた。彼の厚い灰色の眉は何となくスポーティーに見えた。彼は長い顎をしていた。鼻は鉤鼻で、思慮深げな灰色の両眼は、皮膚の襞が眼頭の目蓋の上にかぶさっているせいで、吊り目のように見えた。

 彼は礼儀正しく立っていた。片手を背後のドアにかけ、もう一方は灰色の帽子で腿のあたりを優雅にたたいていた。彼は厳格に見えたが、タフガイのごつさはなかった。どちらかといえば老練な乗り手の見せる堅固さだった。しかし、彼は乗り手ではなかった。彼はエディ・マーズだった。

 彼は後ろ手にドアを閉め、その手を上着の蓋つきポケットに入れたが、親指だけは外に出し、やや暗い部屋の灯りに輝かせていた。彼はカーメンに微笑みかけた。感じのいい、くつろいだ微笑みだ。彼女は唇を舐めながら彼を見つめた。顔から恐れは消え、微笑みが戻っていた。

 「突然の訪問をお詫びする」彼は言った。「ベルを鳴らしたんだが、誰にも聞こえなかったようで。ガイガー氏はご在宅かな?」

私は言った。「いや。我々も彼がどこにいるのか知らない。ドアが少し開いていたので中に入ったところだ」

彼は頷き、帽子の縁で長い顎に触った。「もちろん、君たちは彼の友達なんだろうね?」

「ただの仕事上の知り合いさ。本のことで立ち寄ったまでだ」

「本、ねえ」彼はすぐに、明るく言った。そして、思うにいささか意味ありげに。まるでガイガーの本のことなら、よく知っているとでもいうように。それから彼は再びカーメンに目をやって肩をすくめた。

 私はドアの方に向かった。「そろそろ行こう」私は言った。私は彼女の手を取った。彼女はエディ・マーズを見つめていた。彼が気に入ったのだ。

「なにか伝言でも――もしガイガーが戻ってきたら?」エディ・マーズが穏やかに訊ねた。

「お構いなく」

「それは残念」彼は言った。いささか過剰なほどの意味を込めて。私がドアを開けようと彼の前を通り過ぎたとき、彼の灰色の眼がきらりと光り、やがて冷たくなった。彼は気軽そうな声でつけ加えた。「その娘は行っていい。おまえと少し話がしたいんだ。兵隊」

 私は彼女の腕をはなした。私は無表情に彼を見つめた。「冗談だとでも?」彼は気持ちよさそうに言った。「さからっても無駄だ。外の車に若いのが二人いる。何時でも俺の思い通りに動く奴らだ」》

 

「まるで篩にかけたみたいに整髪されていた」は<as fine as if it had been sifted through gauze.>。例によって双葉氏はこれをカットしている。意味がよく分からないからだろう。<sift through>というイディオムは「ふるいにかける、選り分ける」の意味だ。<gauze>には「ガーゼ」のほかに「細い目の金網」という訳語がある。篩と考えてよさそうだ。「ふるいにかける」というのは文字通りの意味でなく、そこから転じて、「条件に合わないものを除外する」という意味で使われることが多い。ここではきちっと整髪されていたことをいうのだろう。村上氏は「髪はガーゼで漉されたように細い」だ。ガーゼで髪を漉せるのかどうか、一度村上氏に聞いてみたいものだ。

 

「思慮深げな灰色の両眼は、皮膚の襞が眼頭の目蓋の上にかぶさっているせいで、吊り目のように見えた」は<thoughtful gray eyes that had a slanted look because the fold of skin over his upper lid came down over the corner of the lid itself.>。双葉氏は「思慮のありそうな灰色の目が、たれかぶさった二重瞼のおかげでねむたそうにみえた」と訳している。村上氏は「思慮深そうな灰色の目は少し傾き気味に見えたが、それは瞼の上の皮膚がたるんで、端の方に落ちかかっているためだった」としている。

 

<the fold of skin over his upper lid came down over the corner of the lid itself.>この文は、いわゆる「蒙古ひだ」の説明のようにしか読めない。上まぶたが眼頭の涙丘(赤い肉の小さな塊)を覆い隠しているのが、アジア人の特徴と言われる「蒙古ひだ」である。そのせいで、二重まぶたでも眼頭に近い部分は下がって見えて、両サイドが上がって見える、いわゆる「吊り目」に見えるのだ。無論、アジア人でも「蒙古ひだ」でない目の人もいれば、他の人種にも「蒙古ひだ」を持つ人もいる。

 

カギを握るのは<a slanted>だ。「傾く」の意味だが、<slant eyes>と揃うと、「吊り目」の意味になる。マーロウは、灰色の男の目は双葉氏が考えたように「ねむたそう」なのではなく、「蒙古ひだ」のせいで「吊り目」に見える、と言いたいのだろう。村上氏の「傾き気味」は、「吊り目」のことを指しているように読めないこともないが、「皮膚がたるんで、端の方に落ちかかっている」と訳しているので、「蒙古ひだ」ではなく、老化か、その他の原因で瞼の上の皮膚がたるんだ状態と解釈しているのだろうが、傾きが眼頭か眼尻かで印象ががらりと変わってくる。氏はどう考えていたのだろう。

 

「彼は厳格に見えたが、タフガイのごつさはなかった。どちらかといえば老練な乗り手の見せる堅固さだった」は<He looked hard, not the hardness of the tough guy. More like the hardness of a well-weathered horseman.>。双葉氏は「がっちりした男だった。ギャングみたいながっちりさではなかった。風雨にきたえられた馬術者のがっちりさだ」と主に体格を強調している。村上氏になると「厳しさを漂わせていたが、それはタフガイの厳しさではなかった。どちらかといえば、年期(ママ)を積んだ騎手の浮かべるような厳しさだ」と、<hard>の一般的な訳語「厳しい」を使って、男が身に纏う空気のようなものを表している。

 

<hard>には、確かにいろんな意味があるので、文脈から一番適した訳語をあてるしかない。チャンドラーは、そのあたりを意識して<hard>と<hardness>を使い分け、しかも、その後に、どのタイプの人間の持つ<hardness>であるのかを説明している。つまり、同じ<hard>というテクストでも、英語圏の読者には、そのコンテクストのちがいによって微妙に異なる意味を負わされているのだ。それを意識して訳語を使い分けてみた。出来れば、それぞれの語に「ハード」のルビを振りたいところだ。

 

「私は無表情に彼を見つめた」は<I gave him a blank stare>。双葉氏はここを「私ははでに彼をにらみつけた」と訳している。村上氏は「なんのことだろうという目で彼をまっすぐ見た」だ。次に来るエディ・マーズの科白との関連でこういう訳になるのだと思う。因みに双葉氏は、それを「はったりはよせよ」、村上氏は「おとぼけはよそうぜ」と訳している。原文は<KIdder, eh?>だ。

 

<blank>は「空欄、白紙」を表す名詞で、「空虚なとか、うつろな」という意味の形容詞。その後に<stare>がつくと「無表情にじっと見つめる」という意味になる。つまり、ここではマーロウの眼には感情がこもっていない。相手の出方を見ているのだろう。双葉氏のように闘志むき出しでもなければ、村上氏のように煙に巻こうともしていないのだ。それを、このように訳してしまうのは、エディ・マーズの言葉の解釈がちがっているからだ。

 

<KIdder>は「冗談」、「ゆかいなことを言う人」の意味だ。最後に疑問符がついているのに注目。これは、エディ・マーズがマーロウに尋ねているからだ。ところが、両氏ともに、疑問符は省略。マーロウの態度を「はったり」、「おとぼけ」とエディ・マーズが決めつけている形になっている。そうではなく、ここは先刻口にした自分の言葉について言及しているのである。「俺の言ったことを冗談かなにかと思っているのか?」という意味だ。もちろん本当に尋ねているわけではない。ある種の修辞疑問文だ。言外の意味は、「俺は本気だ」である。

 

次に来るのが<Don’t waste it.>という決まり文句。「~しても無駄だ」という意味の常套句だ。そう考えると、ここは「抵抗しても無駄だ」という意味としか考えられない。双葉氏は、「無駄は、よしたほうがいい」と受けているので、原文に即した訳になっている。その前の「はったり」が功を奏しているのだ。村上氏は「そんなものは通用しない」と意訳せざるを得ない。直前の「おとぼけ」を生かそうとすると、こう訳すしかないわけだ。まあ、「無駄なことだ」でも、意味は通るのだが、できる限り、分かりやすく訳すのが、村上氏の考えらしいから、文脈を考えての訳になる。

 

しかし、次にくる科白が「外の車に若いのが二人いる。何時でも俺の思い通りに動く奴らだ」だとすると、何が無駄だと言っているのかがはっきりする。有無を言わさずに連れていくと言っているのだ。無駄なのは抵抗することだろう。もっとも、「おとぼけ」も一つの抵抗手段である。それが通用するかどうかは、相手次第だが。》

『大いなる眠り』註解 第十二章(3)

《利口ぶるのはやめてくれ。お願いだ」私は彼女に強く言った。「ここは、ちょっと古臭いが率直さの出番だ。ブロディが彼を殺したのか?」

「殺したって、誰を?」

「くそっ」私は言った。

彼女は傷ついたようだった。彼女の顎が一インチほど下がった。「そう」彼女は真面目くさって言った。「ジョーがやった」

「どうして?」

「知らない」彼女は首を振った。自分自身に知らないと言い聞かせているように。

「最近彼にはよく会ってたのか?」

彼女の両手は下に下りていき、二つの小さな白い結び目を作った。

「一度か二度見たきりよ。私、あいつが嫌い」

「それなら彼がどこに住んでいるか知っているね」

「ええ」

「そして、今では君はもう彼のことが好きではない?」

「だいっ嫌い!」

「それで、君は彼を困らせてやりたいんだ」

また少しぼんやりした顔になった。私の話の進め方は彼女には速すぎた。だが、そうしないのは難しい。「警察にジョー・ブロディの仕業だと言う気はあるんだな?」私は探りを入れた。

 突然、彼女の顔がパニックに覆われた。「もちろん、ヌード写真の件を伏せることができたらだ」私は宥めるためにそうつけ加えた。

 彼女はくすくす笑った。嫌な感じだった。もし、彼女が叫び出したり、泣き出したり、あるいは気絶して卒倒したりしたのなら、それでよかった。彼女は、ただくすくす笑った。突然何やかやが愉快に思えたのだ。彼女がイシス神のような写真を撮られて、誰かがそれを盗み出し、彼女の目の前でガイガーを殺し、彼女は在郷軍人会の集会をしのぐほど酔っ払った。突然何もかもがすっかり愉快に思えてきた。それで彼女はくすくす笑ったのだ。たいそう可愛らしく。くすくす笑いは激しさを増し、羽目板の後ろの鼠のように部屋の四隅をぐるぐる走り回った。彼女はヒステリーを起こしかけた。私は机から離れて彼女に近づき彼女の頬を叩いた。

「昨夜みたいだ」私は言った。「我々はライリーとスターンウッド、三馬鹿大将のお笑いコンビさ。残りの一人を捜してる」

 くすくす笑いは止んだが、彼女は昨夜と同じように叩かれたことを気にしなかった。多分彼女のボーイフレンドは皆、遅かれ早かれ手を挙げるようになるのだろう。その気持ちはよく分かる。私は黒い机の端に座りなおした。

 「あなたの名前ライリーじゃないわ」彼女は真面目な声で言った。「フィリップ・マーロウ。私立探偵よ。ヴィヴが教えてくれた。名刺も見せてくれた」彼女は私が叩いた頬を撫でた。彼女は私に微笑んだ。私が一緒で嬉しいとでもいうように。

「そうか、覚えているんだね」私は言った。「そして君は写真を探しに戻ってきたけど、家の中に入ることができなかった。そうだろう?」

 彼女の顎がこっくりと下がり、また上がった。彼女は誑かすような笑みを浮かべた。私は見入られていた。連中の仲間に引きずり込まれようとしていた。私はもう少しで快哉の叫びを上げ、一緒にユマに行ってほしいと彼女にお願いするところだった。

 「写真はどこかへ行ってしまった」私は言った。「昨夜探してみた。君を家に送る前だ。おそらくブロディが彼と一緒に持っていったのだろう。ブロディのことは嘘じゃないね?」

彼女は真剣にかぶりを振った。

「造作もないことだ」私は言った。「別に何も考えなくていい。昨夜と今日、ここに来たことを誰にも言わないことだ。ヴィヴィアンにも。ここにいたことはみんな忘れてしまうんだ。ライリーにまかせておけ」

「あなたの名前はライリーじゃ――」彼女は言いかけ、そして止めた。私の言うことに同意し、元気よく首を縦に振った。あるいは自分の考えに同意したのかもしれない。彼女の眼は細くなりかけていて、ほとんど黒く、まるでカフェテリアのトレイに塗られたエナメルのように薄っぺらだった。彼女は思いついた。「私、すぐ家に帰らなきゃ」彼女は言った。まるで、二人は今までお茶でも飲んでいたかのように。

「そうだね」

 私は動かなかった。彼女はもう一度魅力的な目つきでちらっと私を見て、玄関のドアに向かった。彼女がノブに手をかけたとき、車が近づいてくる音が聞こえた。彼女はどうしようという目で私を見た。私は肩をすくめた。車が家の前に停まった。彼女の顔は恐怖で歪んだ。足音が聞こえ、ベルが鳴った。カーメンは彼女の肩越しに私の背中を見つめ、手はノブを握りしめていた。怯えで口からよだれを垂らしそうだった。ベルは鳴り続け、やがて止んだ。鍵が回される音にカーメンはドアから離れ、凍りついたように突っ立った。ドアがすっと開いた。男は足早に入ってきた。そしてぴたりと足を止め、落ち着いた態度で、静かに私たちを見つめた。》

 

「それで、君は彼を困らせてやりたいんだ」は<Then you’d like him for the spot.>。双葉氏は「一時は好きだったんだね?」と訳しているが、これはどうだろう?<would like someone>は「(人)に~してもらいたい」だ。また、<on the spot>には「苦境に陥って、困って、生命の危険にさらされて」の意味がある。村上氏は「じゃあ君としては、彼が困った立場に立たされても良い気味だと思うんだな」と、ずいぶん噛みくだいた訳にしているが、大きく意味はかわらない。

 

「我々はライリーとスターンウッド、三馬鹿大将のお笑いコンビさ。残りの一人を捜してる」は<We’re a scream together. Reilly and Sternwood, two stooges in search of a comedian.>。双葉氏は「僕たちは漫才コンビだ。ライリーとスターンウッドだ。どたばた喜劇の二人組だ」と訳している。ちょっと苦しい訳だ。村上氏は「我々は愉快なお笑いコンビだ。ライリーとスターンウッド。もう一人コメディアンが見つかれば、三馬鹿大将になれるんだが」と訳している。

 

<scream>というと、あの映画の影響もあって恐怖の叫び声を思い浮かべてしまいがちだが、名詞の<a scream>は口語で使われると「すごく滑稽な人(もの、こと)」。後に<together>がついているので「漫才コンビ」、「お笑いコンビ」の意味になる。< Reilly and Sternwood>は、ローレル&ハーディー、アボットコステロのような二人組のお笑いコンビで決まって使われたコンビ名を踏襲している。

 

今の人には通じないだろうが、テレビ放送が始まったころ、日本の番組だけでは間に合わず、アメリカの喜劇の吹き替えをたくさん流していた。『ちびっこギャング』や『ルーシー・ショー』なんかが有名だが、『三馬鹿大将』もその一つ。原題は<The Three Stooges>。1930年代、短編映画で人気を集め、テレビにも進出した。病気等で三人のメンバーは何度か入れ替わりがあった。マーロウの科白はそれを意味しているのだろう。日本で言うなら、一龍齋貞鳳、江戸屋猫八、三遊亭小金馬(当時)の「お笑い三人組」だろうが、メンバーが固定していたので、残念ながら流用できない。

 

「私はもう少しで快哉の叫びを上げ、一緒にユマに行ってほしいと彼女にお願いするところだった」は<I was going to yell “ Yippee!” in a minute and ask her to go to Yuma.>。双葉氏は「もう少しで「ばんざい!」と叫び、ユマへいっしょに行こうと言いだすところだった」。村上氏は「すぐにも歓喜の声をあげて、ユマに駆け落ちしようと彼女に持ちかけるべきところだ」だ。

 

<be going to do>は「~するつもりだ、~しかかっている」の意味だから。村上氏のように「~すべきところだ」と訳すと、当事者性が失われ、第三者的な観点で述べている感じが強くなってしまう気がする。ここは、カーメン嬢の男をその気にさせずにはおかない魅力が最大限に発揮されていることを述べているところだ。マーロウも仲間の一人になりそうだ、とその魅力の虜になりかけたことを正直に吐露している。最後の一線で立ち止まったのは確かなのだから、あえて、そこまで冷静さを装う必要はないだろう。総じて、村上氏の描くマーロウは落ち着き過ぎているように思える。『大いなる眠り』当時のマーロウは、まだまだ若い。もっと意気のいいマーロウであってもいいのではないだろうか。(第十二章了)

『大いなる眠り』註解 第十二章(2)

《娘と私は立ったまま互いを見かわした。彼女は可愛いらしい微笑みを保とうとしていたが、それには彼女の顔は疲れすぎていた。彼女の顔から表情が消えつつあった。砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく。彼女のぼうっと麻痺したように空虚な眼の下で、青白い皮膚は肌理が荒くざらざらして見えた。白っぽい舌は口の隅をなめていた。可愛いいが、甘やかされて育ち、賢いとはいえない少女をめぐる状況は悪化する一方だというのに、誰も手を貸してやらなかった。金の亡者め。胸くそが悪くなる。私は指で煙草を巻き上げると、何冊かの本を邪魔にならないところにどけ、黒い机の端に腰かけた。煙草に火をつけ、煙を吐き出し、暫くのあいだ黙って親指と歯の仕種をながめた。カーメンは悪さをして校長室に呼ばれた少女のように、私の前に立っていた。

「ここで何をしていたんだ?」私はやっとたずねた。

彼女はコートの生地をつまんで答えなかった。

「昨夜のことはどれくらい覚えているんだ?」

それには答えた――彼女の眼の奥にずるそうな光が浮かんだ。「覚えてるって、何を?私は昨夜、具合が悪くって家にいたけど」声は警戒心の強い嗄れ声で、かろうじて聞こえてきた。

「ふざけちゃいけない」

彼女の眼が素早くまたたいた。

「君が家に帰る前だ」私は言った。「私が君を家に送る前のことさ。ここで、椅子に腰かけて」――私は指さした。「オレンジ色のショールの上で。ちゃんと覚えてるはずだ」

ゆっくりと彼女の喉に赤みが這い上がってきた。まずは、よかった。彼女は恥ずかしがることができたのだ。不安気な灰色の虹彩の下に白く輝く光があった。彼女は親指を強く噛んだ。

「あれは――あなただったのね?」彼女は息をついた。

「私だ。どれくらい君につきあえばいいんだ?」

彼女はぼんやりと言った。「あなたは警察の人?」

「ちがう。私は君のお父さんの友だちだ」

「ほんとうに警察じゃないのね?」

「ああ」

彼女は微かにため息をもらした。「あの――あなたはどうしたいの?」

「誰が彼を殺したんだ?」

彼女の肩がびくっと動いたが、顔の表情は変わらなかった。「他に誰が――知っているの?」

「ガイガーの件か?私は知らない。警察もだ。知ってたらここは彼らでいっぱいだろう。ジョー・ブロディなら、知っているかも」

鎌をかけてみただけだが、それを聞くと彼女は叫んだ。

ジョー・ブロディ!あいつ!」

それから二人とも黙った。私はだらだらと煙草を吸い、彼女は親指を口にした。》

 

カーメンと向かい合ったマーロウが、娘の顔を観察するところ。「彼女の顔から表情が消えつつあった。砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく。彼女のぼうっと麻痺したように空虚な眼の下で、青白い皮膚は肌理が荒くざらざらして見えた」の原文は<It kept going blank on her. The smile would wash off like water off sand and her pale skin had a harsh granular texture under the stunned and stupid blankneee of her eyes.>。

 

双葉氏は「微笑はぜんぜん用をなさず、波にさらわれる砂みたいに消え、目の下の白痴的な空虚さと、ざらざらになった青白い皮膚が、目立つだけだった」。村上氏は「あらゆる表情が空白へと向かっていた。微笑みは砂地に吸い込まれる水のように、いまにも消えてしまいそうだ。瞳は虚を衝かれたように愚かしく空っぽで、そのせいで目の下の青白い皮膚は余計にざらついて荒れて見えた」だ。

 

知的な関心や好奇心が人並みにある少女なら、顔見知りの男と向かい合って立ったなら、微笑を浮かべるのは自然だろう。ところが、この娘は、意識してもそれすら長くは耐えられないのだ。顔中に広がっていく無関心を描写するチャンドラーの筆が冴える。<It kept going blank on her>だが、<keep going>は何かを続けること。彼女の顔の上で空白部分が増え続けていった、ということだろう。直訳すれば、村上氏のように訳することになる。ただ、「表情が空白に向かう」という訳はあまりに生硬だ。また、双葉氏の訳では表情があるように読める。囲碁ではないが、白地が広がるというのは、黒い石が消えてゆくことだ。後に続く描写はそれを詳しくしたものである。

 

「砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく」は<The smile would wash off like water off sand>。同じように微笑は消えていくにしても、双葉氏と村上氏では消え方が異なる。微笑みは波にさらわれるのか、それとも水のように砂地に吸い込まれるのか。村上氏の訳からは<wash off>(洗い落とす)の語感が響いてこない。また双葉氏の訳では、砂が波にさらわれているが、<like water off sand>は「水が砂から離れてゆくように」の意味で、波にさらわれたなら砂は離れられない。そうではなく、表情が消えた後に残るのは、「砂」のようにざらついた皮膚なのだ。

 

微笑みというのは、眼や皮膚の下の筋肉の微細な動きによって成立している。それは、知情意といった、人間の内部にある感情や心理と関連して働く部位である。カーメンの眼も表情筋も内心との連絡が切れているので、単なる物質として存在している。精神というものが崩壊しつつある人間の肉体の持つおぞましさをここまで冷徹に評しているのは、その後に来る唐突な怒りの表出を納得させるためだろう。

 

「可愛いいが、甘やかされて育ち、賢いとはいえない少女をめぐる状況は悪化する一方だというのに、誰も手を貸してやらなかった。金の亡者め。胸くそが悪くなる」は<A pretty, spoiled and not very blight little girl who had gone very, very wrong, and nobody was doing anything about it. To hell with the rich. They made me sick.>。

 

双葉氏は「ひどく、ひどくまちがった道に突っ走ったのに、誰もめんどうをみてやらない美しいわがまま娘、明るくかわいいとはいいにくい娘だ。金持ちどもくそくらえ。奴らは私にゲロを吐かせる」といかにもハードボイルド調に訳している。村上氏は「スポイルされた美しい娘、決して聡明ではない。彼女を追ってものごとはとても面倒な方向に進んでいくが、それに対して誰も手を打とうとはしない。金持ちはこれだから困る。こういう連中には実にうんざりさせられる」と、上品だ。

 

<go to hell>は罵倒を表す俗語として「くそくらえ」と訳すのが普通だが、いつもそれだと手抜きに感じられる。村上氏もそう思ったのだろう。しかし、どこかに原文の名残はとどめておきたい。そこで「我利我利亡者」という言葉を思いついたのだが、近頃はあまり使わない。アイスの名前とまちがわれても困るので、「金の亡者」とした。<hell>(地獄)に「亡者」はつきものだろう。

 

「私は指で煙草を巻き上げると」は<I rolled a cigarette in my fingers>。ここを双葉氏は、「私は指先で煙草をころがしながら」と訳している。村上氏は「私は煙草を一本巻き」だ。<roll a cigarette>という成句は「煙草を巻く」という意味でまちがいないのだが、マーロウは、今まで煙草を巻いたことがあっただろうか?全部を訳し終えた後で手直しすることがあるかもしれないが、今は巻き煙草を作るという訳をとりたい。

 

「彼女の眼が素早くまたたいた?」は<Her eyes flicked up and down very swiftly.>。双葉氏は「彼女の目が非常な速さでまたたいた」。村上氏は「彼女の目はさっと燃え上がり、そしてあっという間に静まった」としている。<flick>に、「パチンとはじく、ぴくぴく動く」のような意味はあるが、「燃え上がる」というような意味はない。それに、普通どう考えても<up and down>は一組だろう。これを二つに切って読む意味がよく分からない。

 

「私だ。どれくらい君につきあえばいいんだ?」も意見の分かれるところだ。原文は<Me. How much of it stays with you?>。双葉氏は「君といっしょにいたのは何名だ?」と訳している。村上氏は「私だよ。どれくらい記憶に残っている?」だ。<How much>は、テレビ番組に使われたので、日本では値段を聞く言葉のように思われているが、「どれくらい」という程度を表す言葉だ。問題は<stay with >の方だろう。普通<stay with somebody>は「(人と)離れずにいる」のような言い方で使うから、双葉氏の訳もわかる。

 

村上氏の大胆な意訳はどこから出てきたのだろう?調べてみると、<stay with someone>には「引き続き、[そのまま]~の話を聞く」という意味がある。マーロウは、スターンウッド邸で一度、昨夜と今、ガイガーの家でカーメンに会っている。さだめし「どれくらい君につきあえばいいんだ」という気にもなるだろう。英語自体は実にシンプルな表現になっているが、文脈の中で使うわけで、いろいろな解釈が出てくる。どうとればいいのかは読者にまかせるしかない。

 

「鎌をかけてみただけだが、それを聞くと彼女は叫んだ」は<It was a stab in the dark but it got a yelp out of her.>。双葉氏はほぼ直訳で「暗やみに当てずっぽの一突きだったが、彼女は叫んだ」。村上氏は「あてずっぽうに言ってみただけだったが、彼女は甲高い叫び声を上げた」。<stab>は「刺す」だから、暗やみに向かって槍を突き出すイメージだろう。「鎌」をかける、という日本語に置き直してみたが、どうだろう。》