HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十八章(4)

《ワイルドは葉巻を振りながら言った。「証拠物件を検分しようじゃないか、マーロウ」私はポケットの中身をさらえて彼の机の上に置いた。三枚の借用書とガイガーがスターンウッド将軍に宛てた名刺、カーメンの写真、それに暗号化された名前と住所が記載された青いノートブックだ。ガイガーの鍵束はすでにオールズに渡してある。

 ワイルドは私が渡したものを見て、静かに葉巻をひと吹きした。オールズは彼の小さな葉巻の一本に火をつけ、のんびりと青い煙を天井に吐いた。クロンジャガーは机の上に身を乗り出して私がワイルドに渡したものを見た。

 ワイルドはカーメンのサインのある三枚の借用書を指で叩いて言った。「これは客寄せに過ぎないと思う。もしスターンウッド将軍が支払ったのなら、もっと悪い何かが出てくるのを恐れたのだろう。そういうわけでガイガーは更に圧力を加えたにちがいない。彼が何を恐れていたか君は知ってるか?」彼は私を見ながら言った。

 私は首を振った。

「君はこれで関連する事実を詳細に語り尽くしたのかな?」

「個人的な事実が二つ残っています。私はそれらを口外する気はありません。ミスタ・ワイルド」

 クロンジャガーが言った。「はあ!」。そして、感慨深げに鼻を鳴らした。

「どうしてかな?」ワイルドが穏やかに尋ねた。

「何故なら、私の依頼人には保護される権利がある。大陪審は別としても。私には私立探偵として動く免許がある。私は<私立>という語に多少の意味があると考える。ハリウッド管区は二件の殺人事件を抱え、両方とも解決済みだ。二件とも犯人は確保、各件の動機も凶器も揃っている。強請が絡んでたことは公表を控えるべきだ。関係者の名前も含めて」

「どうしてだね?」ワイルドが重ねて訊いた。

「それで構わんよ」クロンジャガーが素っ気なく言った。「評判の私立探偵のために我々は喜んで引き立て役をつとめさせてもらうよ」

 私は言った。「見せたいものがある」。私は立ち上がって外にある車に戻り、ガイガーの店にあった本を取り出した。制服を着た警察の運転手がオールズの車の脇に立っていた。青年は車内のすみで横向きに凭れかかっていた。

「何か言ったか?」私は訊いた。

「挑発されましたよ」警官はそう言って唾を吐いた。「放っておきましたがね」

 私は家の中に戻り、ワイルドの机に本を置き、包装紙を剥がした。クロンジャガーは机の端の電話をかけていた。彼は私が入ってくると受話器を戻し、腰を下ろした。

 ワイルドは本を一通り見て、無表情な顔で閉じると、クロンジャガーの方に押しやった。クロンジャガーは本を開け、一、二ページ見ると急いで閉じた。五十セント銀貨ほどの赤い斑点が、彼の両の頬骨辺りに浮かんだ。

 私は言った。「表見返しに捺された日付を見ることだ」

 クロンジャガーはもう一度本を開き、それを見た。「これがどうした?」

「必要とあらば」私は言った。「宣誓を行って証言する。その本はガイガーの店にあったものだ。金髪のアグネスが、店がどんな商売をしていたか認めるだろう。あの店が隠れ蓑であることは誰の目にも明らかだ。しかし、ハリウッド警察には警察なりの理由があって、営業を看過していた。大陪審はその理由とやらを知りたがるだろう」

 ワイルドはにやりと笑って言った。「大陪審は時々そういうきまりの悪い質問をする――一体どうして市がそのように運営されているのかを知ろうという、まあ無駄な努力さ」

 クロンジャガーは突然立ち上がると帽子を冠った。「私一人に三人がかりとはな」彼は吐き捨てるように言った。「私は殺人課の人間だ。もしこのガイガーとやらが猥本を扱っていたというのなら、私の知ったことではない。しかし、新聞が騒ぎ立てたら署に逃げ道がないことは認めよう。あんた達はどうしたいんだ?」

 ワイルドはオールズを見た。オールズは穏やかに言った。「君に被疑者を一人任せたい。行こうか」

 彼は立ち上がった。クロンジャガーは凄まじい形相で彼を見ると、大股で部屋を出た。オールズは後に続いた。ドアが再び閉まった。ワイルドは机を軽く叩きながら澄んだ青い眼で私を見つめた。》

 

「ガイガーがスターンウッド将軍に宛てた名刺」は<Geiger’s card to Generel Sternwood>。双葉氏は「スターンウッド将軍に送ったガイガーの名刺」としているが、村上氏は「ガイガーからスターンウッド将軍にあてられた葉書」と訳している。これは村上氏のミスだ。将軍からそれを見せられた時のことを氏自身が以下のように書いている。「私は封筒から茶色の名刺と、ごわごわした三枚の便せんを取り出した。名刺は薄い茶色の亜麻でできていて、金色の字で『アーサー・グイン・ガイガー』と印刷されていた」

 

ガイガーが出したのは「葉書」ではなく、封書だった。当然である。葉書で相手を強請る馬鹿はいない。こういう初歩的なミスは誰にでもある。校閲担当者は何をしていたのだろう。早川書房には、村上氏専門のスタッフがいるから、柴田元幸氏も早川から出る村上氏の翻訳についてはチェックを頼まれないという。こんなことくらい英語が読めなくてもできる。要はしっかりと読んでいないのだ。猛省を促したい。

 

「もしスターンウッド将軍が支払ったのなら、もっと悪い何かが出てくるのを恐れたのだろう」は<If General Sternwood paid them, it would be through fear of something worse. >。双葉氏はここを「もしスターンウッド将軍が払ってやれば、もっと事態は悪化する」と訳しているが、<through fear>(恐怖のために)を読み飛ばしているだけでなく<paid>が過去形であることも忘れている。村上氏は「もしスターンウッド将軍がこいつに金を支払ったとしたら、それはもっとたちの悪いものが出てくることを恐れたためだろう」だ。

 

「そういうわけでガイガーは更に圧力を加えたにちがいない」は<Then Geiger would have tightened the screws.>。<tighten a screw>は「ネジを締める」の意。双葉氏は「ガイガーは輪をかけてしぼりとるつもりだったにちがいない」。村上氏は「そしてガイガーは更にきつくネジを締めていったはずだ」と訳している。双葉氏は「輪をかけてしぼりとる」という原文を生かした訳語をひねり出している。村上氏はほぼ直訳だが、意味は通じる。

 

「評判の私立探偵のために我々は喜んで引き立て役をつとめさせてもらうよ」は<We’re glad to stooge for a shamus of his standing.>。双葉氏は私立探偵とやらにひっかかって踊らされるのはもうたくさんだ」と訳しているが、これはおかしい。<stooge>は「ぼけ役、引き立て役」の意味。<standing>は「名の通った、信用のある」という意味だ。それを喜んでやるというのは皮肉である。村上氏も「優秀な私立探偵のためにぼけ役をつとめるのは、我々の欣快(きんかい)とするところですから」と、皮肉を利かせている。

 

「挑発されましたよ」と「放っておきましたがね」は、それぞれ<He made a suggestion><I’m letting it ride>。双葉氏は「取引を申し込んだです」「が、知らん顔をしていたところです」と訳している。村上氏は「ちょっとした示唆をされましてね(もちろんお得意の三語の台詞のこと)」と親切に注を入れている。ただ、後の方は「口は災いのもとって言います」と訳している。

 

<let it ride>は「成り行きに任せる、そのままに放置する」という意味だが、それがどうして「口は災いのもと」になるのが分からない。もしかしたら、村上氏は運転手が青年の言葉にカッとなって、手を出したことを示唆しているのかもしれない。<The boy was inside it, leaning back sideways in the car.>を氏は「青年は座席の隅で、ぐったり横にもたれかかっていた」と訳しているが、「ぐったり」に該当する語は原文にはない。運転手が台詞を言った後で唾を吐いたところも「ぺっと唾を吐いた」と意味ありげに訳している。そう考えれば「口は災いのもと」の意味は分かるが、どうだろう?原作者に訊いてみたいところだ。

 

「一体どうして市がそのように運営されているのかを知ろうという、まあ無駄な努力さ」は<in a rather vain effort to find out just why cities are run as they are run.>。双葉氏は「市の行政がなぜちゃんと運行してるか知りたいだろうが」と<in a rather vain effort>をカットして訳している。逆に、村上氏は「都市がなぜこのように様々な問題を抱えているかを解明しようという、まずは無益な努力の一環としてね」と言葉を大幅に補って訳している。<in a vain effort>は「無駄な努力、徒労」の意味だ。その間に<rather>を挿入して幾分かのニュアンスを含めている。スキャンダルはいつも警察によって握りつぶされる、というワイルドの目配せだ。だから、その後クロンジャガーは憤然と席を立つのだ。

『大いなる眠り』註解 第十八章(3)

《クロンジャガーは私の顔から決して眼をそらさず、私が話す間どんな表情も浮かべることはなかった。話し終えると彼はしばらくの間完璧な沈黙を守った。ワイルドは黙ってコーヒーをすすり、静かに斑入りの煙草を吹かしていた。オールズは彼の片方の親指を見つめていた。

 クロンジャガーは椅子にゆっくり背をもたせ、片方の足首をもう一方の膝に乗せ、神経質そうな手で踝の骨をこすった。彼の痩せこけた顔は厳しい渋面をしていた。彼は恐ろしく丁寧な口調で言った。 

「それでは、君がやったのは、昨夜発生した殺人を通報せず、それから今日はいらぬところを嗅ぎまわって、ガイガーのお稚児さんが今夜第二の殺人を犯す手はずを整えただけというわけだ」

「それだけだ」私は言った。「私はとんでもない窮地に陥っていた。馬鹿をやったとは思うが、私は依頼者を守りたかった。それに坊やがブロディを撃つとは思ってもみなかった」

「その手のことを考えるのは警察の仕事だよ、マーロウ。もしガイガーの死が昨夜報告されていたら、ガイガーの店からブロディのアパートメントへ本が運ばれることはなかったろうし、坊やがブロディにたどり着き、彼を殺すこともなかったろう。ブロディはいつ死んでもおかしくなかった。彼のような人種はいつもそうだ。とはいえ、命は命だ」

「ごもっとも」私は言った。「今度あんたのとこの警官が、盗んだスペアタイヤを抱えておっかなびっくり小路を逃げていくこそ泥を撃った時、ぜひ聞かせてやってくれ」

 ワイルドが強い音を立てて両手を机の上に置いた。「もうたくさんだ」彼はぴしゃりと言った。「どうしてそこまで確信が持てるんだ、マーロウ?このテイラーという青年がガイガーを撃ったと。たとえ、ガイガーを殺した銃がテイラーの死体、もしくは車の中で発見されたとしても、彼が殺人者だと断定はできない。銃は罠かもしれない――たとえばブロディ、或いは真犯人による」

「それは物理的には可能です」私は言った。「が、事実上不可能だ。偶然の一致が多すぎるし、ブロディとその女や、彼らが企んでいたこととは毛色がちがいすぎる。私は長いことブロディと話した。彼は詐欺師だが人殺しのタイプじゃない。彼は銃を二挺所持していたが、どちらも身につけていなかった。彼はそれとなく女から聞いて知ったガイガーの商売に割り込もうとしていた。彼はガイガーにタフな後ろ盾がいないか時々見張っていたと言っていた。私は彼を信じる。本を手に入れるために彼がガイガーを殺したと仮定して、ガイガーが撮ったばかりのカーメン・スタンウッドのヌード写真を持って逃げ、それからオーエン・テイラーの仕業と見せるために銃を仕込み、テイラーをリドの沖に突き落とした、というのでは、あまりにも仮定が多すぎる。テイラーにはガイガーを殺す動機、嫉妬による怒り、それに機会があった。彼は断りなしに一家の車を一台持ち出している。彼は娘の目の前でガイガーを殺した。仮にブロディが殺ったとして、彼にそんな真似はできない。ガイガーに商売上の関心があるというだけでそんな真似をするやつは私には思いつかない。だが、テイラーならやるだろう。ヌード写真の一件が彼をその気にさせたんです」

 ワイルドは含み笑いをしてクロンジャガーの方を見やった。クロンジャガーは鼻を鳴らして咳払いをした。ワイルドが尋ねた。「死体を隠すというのは何の目的があってのことだ?私には見当がつかないんだが」

 私は言った。「坊やは我々に何も話しません。しかし、彼がやったにちがいない。ブロディはガイガーが撃たれた後、彼の家に入ろうとはしないはず。坊やは、私がカーメンを家に送っている間に帰って来たにちがいない。彼はもちろん自分のしたことのせいで警察を恐れていた。おそらく自分があの家にいた痕跡を拭い去るまで、死体を隠しておく方がいいと思ったのだろう。敷物に着いた痕から見て、彼は死体を玄関まで引きずっていき、ガレージにでも運んだのではないか。それから何であれそこにあった彼の持ち物を詰め込んで運び出した。しばらくして、夜のうちの何時ごろか、死後硬直する前に、死んだ友人を丁重に扱わなかったと思い、ひどく後悔した。それで彼は戻ってきて死体をベッドに横たえた。もちろん、すべては推測ですが」

 ワイルドは頷いた。「それから今朝、彼は何事もなかったかのように店に行き、八方に目を配っていた。そしてブロディが本を運び出した時それがどこへ消えたのかを突きとめ、そして、それを手にしたのが誰であれ、当然それが目的でガイガーを殺したのだと思い込んだ。彼はブロディと女について彼らがうすうす気づいていたよりもっと知っているかもしれない。どう思うね、オールズ?」

 オールズは言った。「調べてみましょう――でもクロンジャガーの悩みの助けにはなりませんね。彼の悩みというのは、すべては昨夜起きていたというのに、彼は今報告を受けたということですから」

 クロンジャガーは不快そうに言った。「私はそのいかさまにも対処法を見つけることができると思う」彼は鋭く私を見て、すぐに視線をそらした。》

 

「ブロディはいつ死んでもおかしくなかった」は<Say Blody was living borrowed time.>。双葉氏は「ブロディはいかさま人生を送ってたかもしれん」と訳している。<live on borrowed time>は「(老人、病人などが)奇跡的に生き延びている」という意味で使われる。「借り物の時間」で生きているということだ。ブロディのような商売はいつ危険にさらされてもおかしくないからだ。「いかさま人生」という訳語は苦肉の策だろう。村上氏は「ブロディは所詮長生きはできなかっただろう」と訳している。

 

「今度あんたのとこの警官が、盗んだスペアタイヤを抱えておっかなびっくり小路を逃げていくこそ泥を撃った時、ぜひ聞かせてやってくれ」は<Tell that your coppers next time they shoot down some scared petty larceny crook running away up an alley with a stolen spare.>。双葉氏は「こんど君の部下が、かすみたいな品物を盗んだこそ(傍点二字)泥を射ち殺したら、そう言ってやるといい」と、あっさり訳している。村上氏は「今度おたくの部下が、スペアタイヤを盗んで横丁を逃げていく怯(おび)えたこそ泥を撃ったとき、その話を聞かせてやってくれ」だ。<spare>はそれだけで「スペアタイヤ」のこと。マンガじみた光景を思い浮かべるには具体的な絵が見えてくる訳が好ましい。

 

「それは物理的には可能です」は<It’s a physically possible.>。双葉氏は「それは形式的にはあり得るでしょうが」。村上氏は「理論的にはそれはあり得ます」だ。<physically>は、「身体的に、肉体上、物理学的に」の意味はあるが、「形式的」や「理論的」と訳すのは無理があるのではないか。「が、事実上不可能だ」としたところを、双葉氏は「心理的にはあり得ませんね」。村上氏は「しかし現実的にはあり得ない」。原文は<Bat morally impossible.>。<morally>は「道徳的に、事実上」の意味があるが、この場合後者の意。

 

「ガイガーに商売上の関心があるというだけでそんな真似をするやつは私には思いつかない。だが、テイラーならやるだろう。ヌード写真の一件が彼をその気にさせたんです」は<I can’t see anybody with a purely commercial interest in Geiger doing that. But Taylor would have done it. The nude photo business was just what would have made him do it.>。

 

ここを双葉氏は「ガイガーがまっ裸の娘をうつしているのを、ただ商売上の興味だけで見られる奴はいないでしょう。が、テイラーなら平気だったにちがいない。裸体写真の件は前からわかっていた。だからこそ殺しに来たんですからね」と訳しているが、明らかに誤訳だ。<with a purely commercial interest in Geiger>は<anybody>を説明しているのに、双葉氏は<Geiger doing that>(ガイガーがまっ裸の娘をうつしている)と読んでしまった。村上氏は「ガイガーの商売に純粋に商業的興味を抱くような人間がそこまでやるとは、私にはどうしても思えません。しかしテイラーならやりかねない。ヌード写真が絡んでいるというだけで、その程度のことはやってのけたでしょう」と訳している。

 

しかし何よりまずいのは、「ワイルドは頷いた」の後の会話文を双葉氏は「それからけさになって、やっこさん、なにくわぬ顔で店へいき、目玉を皿にしていた。ブロディが本を運び出すと、やっこさんその本の行先をつきとめ、本を持ってる奴がガイガーを殺したたにちがいないと結論した。やっこさん、ブロディや奴の女が考えていたより、二人のことをよく知っていたのかもしれませんね。どう思う。オウルズ?」と、マーロウの言葉として訳していることだ。

 

ここはワイルドの言ったこととして取らないとおかしい。厄介なのは、原文には日本語のような敬語とはっきり分かる書き方はないことだ。それを日本語らしくみせかけるために必要以上に上下関係を明らかにするための丁寧語やら俗語表現をふんだんにぶち込むので、とんでもないまちがいがおきてしまう。もっとフラットな訳にしておけば、あっさりとワイルドの言葉として読めたものを。

 

英語を日本語にするときに必要以上に敬語その他を用いることは、もとの文章が含む文化やシステムを日本における制度や慣習に置き換えることを意味する。地方検事の前であまりにもくだけすぎた表現を使うマーロウを見ていると、独立した私立探偵が、捕り物帳に出てくる、岡っ引きの下で働く下っ引きに見えてくる。マーロウの鼻っ柱の強さは、悪党だけでなく誰に対しても変わらないと思うのだが。

『大いなる眠り』註解 第十八章(2)

《タガート・ワイルドは机の向こうに座っていた。太った中年男で、本当は表情のない顔を友好的な顔つきに見せるのを澄んだ青い眼で間に合わせていた。彼の前にはブラックコーヒーのカップが置かれ、入念に手入れされた左手の指には細身の斑入りの葉巻があった。机の隅にある青い革の椅子にもう一人男が座っていた。冷ややかな眼をした尖った顔の男で、熊手のように痩せ、金貸しのように手強そうだった。手入れの行き届いた顔はここ一時間の内に髭を剃ったかのように見えた。プレスのきいた茶色のスーツでタイには黒真珠のピンがついていた。頭の回転の速い男特有の、長く神経質そうな指をしていた。戦う準備はできているようだった。

 オールズは椅子を引き、腰を下ろして言った。「こんばんは、クロンジャガー。こちらは私立探偵のフィル・マーロウ。窮地に陥ってるんだ」オールズはにやりと笑った。

 クロンジャガーは私を見たが頷きはしなかった。まるで写真でも見るかのように私を見渡した。それから僅かに顎を動かした。ワイルドが言った。「座ってくれ、マーロウ。クロンジャガー警部に説明してみたんだが、その辺の事情は君にも分かるだろう。ここも今じゃ大都市だ」

 私は腰を下ろして煙草に火をつけた。オールズはクロンジャガーを見て訊ねた。「ランドール・プレイスの殺しでは、何が分かったね?」

 尖った顔の男は指を一本、関節が鳴るまで引っ張った。彼は顔を上げることもなく話した。「死体は二発弾を食らってた。弾を撃ったことのない銃が二挺。下の通りで車を出そうとしていたブロンドを捕まえたが、それは彼女の車ではなかった。彼女のはその次にあった。同じ型だったんだ。狼狽しているので警官が連行したら吐いた。彼女はブロディが殺された時、現場にいた。犯人は見ていないと言っている」

 「それだけか?」オールズは言った。

 クロンジャガーはほんの少し眉を上げた。「たった一時間前に起きたんだ。何を期待してた――殺しの動画か?」

「犯人の人相くらいは分かってるんだろう」オールズが言った。

「革の胴着を着た背の高い男だ――もしそれを人相と呼べるなら」

「そいつは外の俺のポンコツ車の中にいる」オールズは言った。「手錠をかけられてな。マーロウが君の代わりに捕まえた。これがあいつの銃だ」オールズは青年のオートマティックをポケットから取り出してワイルドの机の隅に置いた。クロンジャガーは銃を見たが手にとりはしなかった。

 ワイルドはくすくす笑った。椅子に背をもたせかけ、口から離さずに斑入りの葉巻を吹かしていた。やがてコーヒーをすするために前屈みになった。着ていたディナージャケットの胸ポケットから絹のハンカチをとって唇を軽く拭い、またしまい込んだ。

「そこにはあと二つの死がおまけについてくる」オールズは顎の先端の柔らかな肉をつまみながら言った。

 クロンジャガーは目に見えて体をこわばらせた。彼の非情な眼は冷え冷えとした光を宿す点になっていた。

 オールズは言った。「今朝方リドの桟橋の沖で、太平洋から車が引き揚げられたことを聞いただろう?中に死んだ男が入っていた」

クロンジャガーは「聞いていない」と言い、不快そうな態度を崩さなかった。

「死んだ男はある裕福な一家のお抱え運転手だった」オールズは言った。「その家族は娘の一人のことで強請られていた。ミスタ・ワイルドは家族にマーロウを推薦した。私を通じてな。マーロウは裏で動いたってわけだ」

「私は殺人事件の裏で動く私立探偵が大好きだ」クロンジャガーはうなるように言った。「君はここまで言い渋る必要はなかった」

「ああ」オールズは言った。「ここまで言い渋る必要はなかった。警官と一緒にいて言い渋るなんてのは滅多にあることじゃない。俺は彼らが足首を挫かないように、どこに足を置いたらいいか教えるのに自分の時間の大半を費やしてきたんだ」

 クロンジャガーの尖った鼻のまわりから血の気が引いた。彼の息づかいがしゅうしゅうと静かな部屋に低い音を立てた。彼はひどく静かに言った。「私の部下が足をどこに置こうが、君から教わる必要はない。自分を何様だと思ってるんだ」

「そのうち分かるさ」オールズが言った。「俺の話したリドの沖で溺れた運転手は昨夜君の管轄内で人を撃っている。男の名前はガイガーと言って、ハリウッド大通りの店で猥本を扱っていた。ガイガーは外の俺の車にいるお稚児さんと一緒に暮らしていた。一緒に暮らすの意味は、分かるな」

 クロンジャガーは今では真っ直ぐ彼を見据えていた。「汚らしい話になりそうだな」彼は言った。

「俺の経験から言えば警察の話はたいていそうだ」オールズはうなり声をあげ、私を振り返った。彼の眉が逆立った。「君の出番だ、マーロウ、彼に教えてやれ」

 私は彼に話した。

 私は二つのことを除外した。正直なところ何故その時、その一つを除外したのか分からない。私はカーメンのブロディのアパート訪問とエディ・マーズの午後のガイガー邸訪問を除外した。残りについては起きた通りに話した。》

 

「太った中年男で、本当は表情のない顔を友好的な顔つきに見せるのを澄んだ青い眼で間に合わせていた」は<a middle-aged plump man with clear blue eyes that managed to have a friendly expression without really having any expression at all.>。双葉氏は「肥った中年男で、全然表情がないときでも親しみやすい表情を感じさせる澄んだあおい目を持っていた」。村上氏は「中年の小太りの男で、その澄んだ青い瞳は、実際には表情というものをまったく持ち合わせないくせに、それでいて友好的な表情をうまく浮かべることができる」だ。

 

< manage~without>は、「~なしでどうにかやっていく、間に合わせる」という表現。両氏ともにきれいな訳だとは思うのだが、タガート・ワイルドという人物をどう印象づけるか、というとっかかりの一文という意味で< manage>という動詞を、もっと前面に出した訳が欲しいと思う。いわゆる「目力」とはちがうものの、本人が意識しているかどうかは知らないが、魅力的な眼がすべての表情の代わりを務めてくれる、そんな恵まれた男なのだ。

 

「何を期待してた――殺しの動画か?」は<What did you expect――moving pictures of the killing?>。ここを双葉氏は「そんなにわかるはずはないだろう。映画の殺人(ころし)じゃあるまいし」と訳している。はじめはそう読んだのだが、村上氏は「あんたは何を求めているんだ。犯行現場を撮影した記録映画か?」と訳している。場所は映画の都ハリウッド近辺だ。殺人事件を描いた映画と考えてみたいところだが、<movie>ではなく、わざわざ<moving pictures>としているところが気になる。村上訳はいささかくどく思われ、今風過ぎるかもしれないがこう訳してみた。

 

「マーロウは裏で動いたってわけだ」は<Marlowe played it kind of close to the best.>。双葉氏はここを「マーロウは骨身惜しまず働いた」としている。< play it  close to the best>は直訳すれば、「(カードゲームなどで)ヴェストの近くでプレイする」こと。つまり「手の内を見せない、慎重に、用心深く」動くことを意味する。村上氏は「マーロウは、何というか、独自の調査を行った」と訳す。ここをどう訳すかは次にクロンジャガーが同じ文句を使っているので慎重に訳語を選ぶ必要がある。

 

「私は殺人事件の裏で動く私立探偵が大好きだ」がそれだ。原文は<I love private dicks that play murders close to the vest.>。双葉氏は「わしは骨身惜しまず殺人(ころし)をやる私立探偵が大好きだよ」と訳しているが、これではマーロウが犯人だと言っているようなものだ。村上氏は「俺はね、殺人事件に首を突っ込んで独自の調査(傍点五字)をする私立探偵が大好きだよ」と、例によって噛みくだいた訳にしている。こうすれば、確かによく分かるが、クロンジャガーの皮肉を効かせた言い回しがボケてしまう。

 

「君はここまで言い渋る必要はなかった」は<You don’t have to be so goddamned coy about it.>。ここを双葉氏は「恥ずかしがって体裁をつくるには及ばんだろう」と訳している。双葉氏の訳を参考にしたのであろう村上氏も、それを踏襲して「それしきのことで、奥ゆかしくはにかむ必要もあるまい」とやっている。ただ、ここで何故唐突に「はにかみ」が登場する必要があるのだろう。警察のトップが地方検事に使う科白とも思えない。

 

調べてみると、たしかに<coy>には「恥ずかしそうなふりをする、はにかみやの」という意味がある。ただし、その後に<about>が来ると「いやに無口な、いやに口を割らない」という意味になる。裏で私立探偵を使って情報をつかんでいながら、それを小出しにする検事に警察官が文句を言うのなら、むしろこちらの意味を採るべきではないだろうか。

 

クロンジャガーが相手の言葉尻を捕まえて皮肉を言うので、オールズもやり返す。それも倍返しだ。「ここまで言い渋る必要はなかった。警官と一緒にいて言い渋るなんてのは滅多にあることじゃない」は<I don’t have to be so goddamned coy about it. It’s not so goddamned often I get a chance to be coy with a city copper.>。双葉氏は「ふん。僕は別に恥ずかしがっちゃいない」オウルズはやり返した。「少なくとも市の警察に恥ずかしがることはないさ」と、かなり無理な訳になっている。

 

村上氏の方も見てみよう。「はにかむ必要なんか何もない。しかし市の警官を相手に俺がはにかむ機会なんて、そう多くはないからな」とやっている。<coy>を「はにかむ」としたためにこんな訳になったのだ。これでは、次の「俺は彼らが足首を挫かないように、どこに足を置いたらいいか教えるのに自分の時間の大半を費やしてきたんだ」<I spend most of my time telling them where to put their feet so they won’t break an ankle.>の中にある<telling>とうまくつながらない。ふだんはあれこれと警官相手にやかましいオールズは、今回に限って口をつぐんでいたのであって、はにかんでいたわけでも恥ずかしがっていたわけでもない。

 

「そのうち分かるさ」と訳したところは<We'll see about that>。よく使われる言い回しで、双葉氏は「その話はあと回しだ」。村上氏は「考えておこう」と訳している。こういう決まり文句は、いつも同じ表現ではなく、場面場面でそれにふさわしい言葉に訳す必要がある。この場合、どれを使っても意味は通る。要は、その件についてこれ以上話す気はないということが相手に伝わればいいからだ。

 

「私は二つのことを除外した。正直なところ何故その時、その一つを除外したのか分からない」は<I left out two things, not knowing just why, at the moment. I left out one of them.>。双葉氏は「なぜか自分にもわからなかったが、私は二つの点を除外して話した」と訳していて<I left out one of them>をトバシている。村上氏は「私は二つの事実だけは伏せておいた。そのひとつについては、なぜ伏せておかなくてはならないのか、その時点では理由が自分でもよく分からなかったのだが」と正確に訳している。きっとこれが後になって効いてくるのだろう。伏線というやつだ。

『大いなる眠り』註解 第十八章(1)

《オールズは立ったまま青年を見下ろしていた。青年は壁に横向きにもたれてカウチに座っていた。オールズは黙って彼を見た。オールズの青白い眉は密生した剛毛が丸くなっていて、ブラシ会社の営業員がくれる小さな野菜用のブラシみたいだった。

 彼は青年に訊いた。「ブロディを撃ったことは認めるんだな?」

 青年はくぐもった声でお気に入りの三語の悪態を言った。

 オールズはため息をついて私を見た。私は言った。「彼はそれを認める必要はない。彼の銃は私が持っている」

 オールズが言った。「こんな悪態をつかれるたびに毎回一ドルもらえたら、と俺は神に願うよ。そんなことの何が面白いんだ?」

「面白くて言ってるんじゃないんだ」私は言った。

「なるほど、そいつはすごい」オールズは言った。彼は顔をそむけた。

「俺はワイルドに電話しといた。このお稚児さんを連れて行こう。彼は俺の車で行けるから、君は後からついてきてくれ。俺の顔を蹴ろうとするかもしれないからな」

「寝室にあるものはお気に召したかな?」

「大いに気に入ったね」オールズが言った。「俺はテイラーが桟橋で死んだことが嬉しい。あんな鼻つまみを殺したことで死刑囚監房に送る手助けをしたくはないからな」

 私は小さな寝室に引き返して黒い蝋燭を吹き消し、あとは煙の立つにまかせた。居間に戻ったときオールズは青年を立たせていた。青年は立ったまま鋭い目つきで彼をにらんでいた。その顔はこわばって白く、まるで冷えた羊肉の脂身のようだった。

 「さあ、行こう」オールズはそう言うと、触るのが嫌だとでもいうように彼の腕をとった。私はスタンドを消してから彼らの後を追って家の外に出た。我々は各々の車に乗り込み、私はオールズの二対のテール・ライトの後を追って長く曲がりくねった坂を下った。これがラヴァーン・テラスへの最後の旅になればいいが、と願いながら。

 地方検事のタガート・ワイルドは四番街ラファイエット・パーク通りの角に住んでいた。電車の車庫ほどの大きさの白い木造家屋で、片側に赤い砂岩で屋根付きの車寄せが建て増しされていた。その前に二エーカーほどのなだらかな起伏を見せる芝生が広がっている。よくある旧式の頑丈な建築で、街が西に向けて発展していた時代、まるごと新しい場所に移築したものだ。ワイルドはロサンジェルスの旧家の出で、おそらくその家がウェスト・アダムズかフィゲロア、あるいはセント・ジェームズ・パークあたりに建っていた頃に生まれたのだろう。

 車回しにはすでに二台の車が停まっていた。大きな私用のセダンと警察の車だった。制服姿の運転手が警察車両のリア・フェンダーに凭れて煙草を吸いながら月に見とれていた。オールズが近づいて話しかけると、運転手はオールズの車の中にいる青年をのぞき込んだ。

 我々は階段を上り呼鈴を鳴らした。艶々した金髪の男がドアを開けて廊下を通り、一段低くなった広々とした居間に我々を案内した。そこには重苦しく暗い色調の家具がぎっしりと並んでいた。そして別の廊下に沿って一番端まで行くと、彼はドアをノックして中に入り、ドアを大きく開けて支えた。我々は鏡板張りの書斎に入った。開いたフレンチ・ドアの向こうには暗い庭園と怪しげな樹々が見えた。窓から湿った土と花の香りが漂ってきた。壁には大きくてぼんやりとした油絵が何枚か掛けられ、安楽椅子があり、書物が並び、上質な葉巻の煙のいい匂いがしていた。その香りには湿った土と花の香りがブレンドされていた。》

 

「青年は壁に横向きにもたれてカウチに座っていた」は<The boy sat on the couch leaning sideways against the wall.>。双葉氏はなぜか「カウチ」をトバして「若者は横ずわりに壁へもたれかかっていた」とやっている。村上氏は「青年はソファに座って横を向き、壁を見ていた」だ。カウチもダヴェンポートも、ソファにしてしまったら青年がどの椅子に座っているのかが分からなくなってしまう。

 

カウチは片側に背もたれがついた休憩用の寝椅子。もうそのまま「カウチ」で通用しそうなものだが。ちなみにカウチには通常の背凭れがついていないから、青年は壁にもたれているので、双葉氏の訳はその意味では正しい。横を向いているのは、後ろ手に手錠を掛けられているからだ。村上氏の訳では拗ねて横を向いているように見える。

 

「オールズは黙って彼を見た。オールズの青白い眉は密生した剛毛が丸くなっていて、ブラシ会社の営業員がくれる小さな野菜用のブラシみたいだった」は要注意だ。原文は一文で<Ohls looked at him silently, his pale eyeblows bristling and stiff and round like the littlr vegitable brushes the Fuller Brush man gives away.>だ。

 

双葉氏は「オウルズは黙ってその眉毛をながめた。フラア・ブラシ製造会社の売り子も顔負けする小さな野菜用ブラシみたいに、密生した剛(こわ)い丸い眉毛だ」とやってしまっている。口の利き方はともかく、顔は超美形の青年の眉がブラシみたいではおかしい。<him>と<his>がカンマをはさんで並んでいるので、日本語に訳すと「彼を」、「彼の」になって、同一人物を指すように思えるのがまちがいの始まりだ。

 

一文は一文で訳すという原則を破ると、こういうミスが起きる。第九章にオールズの容貌について「彼は中背の金髪の男でごわごわした白い眉と穏やかな目、よく手入れされた歯をしていた」という記述がある。双葉氏はこれを忘れていたのだろう。もう一つ<give away>だが、「与える」という通常の意味とは別に、「販売促進用の景品(米)」の意味がある。村上氏は「オールズの青白い眉毛はごわごわと円形に密集し、ブラシ会社のセールスマンがおまけにくれる野菜掃除用の小型ブラシみたいに見えた」と訳している。

 

やはり、思っていた通り、また「お気に入りの三語の悪態」<favolite three words>が出てきた。一度きりならともかく、繰り返し使われると「三文字言葉」でごまかすことはできない。前に戻って、訳語を考え直すことが必要になる。けれども、これがなかなか難題でおいそれとは見つからない。時間をかけて探したいと思っている。

 

「こんな悪態をつかれるたびに毎回一ドルもらえたら、と俺は神に願うよ。そんなことの何が面白いんだ?」は<I wish to Christ I had a dollar for every time I’ve had that said to me. What’s funny about it ?>。双葉氏はよく分からなかったのか、面倒くさかったからか「変なところはなかったか?」と初めの方の文を丸ごとカットしている。村上氏の訳は「こういう汚い言葉を浴びせられるたびに一ドルもらっていたら、俺はずいぶん金持ちになっていただろうといつも思うよ。何が面白くてそんなことを言うんだ?」と、言葉を補うことで意味が分かりよくなっている。

 

「お稚児さん」と訳したのは<punk>。「チンピラ、与太者」などの意味に続いて「同性愛の相手の少年」の意味がある。双葉氏は「小僧」、村上氏は「坊や」と訳しているが、ここでオールズにどの言葉を言わせるかで「触るのが嫌だとでもいうように彼の腕をとった」の部分でオールズが見せる青年への嫌悪感がどこから発しているのかが分かるので、「お稚児さん」を使用した。

 

オールズのホモフォビア(同性愛者嫌悪)は相当なもので、死んだガイガーのことを「あんな鼻つまみを殺したことで死刑囚監房に送る手助けをしたくはないからな」と言っていることからも分かる。「鼻つまみ」と訳した部分は<skunk>で両氏とも「スカンク野郎」と訳している。殺人の被害者である人間をスカンク扱いし、犯人が死刑にならなかったことを喜ぶというのは尋常ではない。同性愛者に対する差別感情がなせる業だろう。

 

「電車の車庫ほどの大きさの白い木造家屋」は<a white frame house the size of a carbarn>。双葉氏は「自動車の車庫ぐらいの大きさ」としているが、いくらなんでも地方検事の屋敷が自動車の車庫くらいの大きさということはあり得ない。<carbarn>は「電車の車庫」のことである。ちなみに< frame house>というのは、木の柱と板張りの壁で構成された木造家屋のこと。

 

「よくある旧式の頑丈な建築で、街が西に向けて発展していた時代、まるごと新しい場所に移築したものだ」は<It was one of those solid old-fashioned houses which it used to be the thing to move bodily to new locations as the city grew westward.>。双葉氏は「町が西へ発展するとき新しい地所へそのまま移動できるような、がっちりした古風なつくり家だった(ママ)」と訳している。これでは初めから移転することを考えて頑丈な作りにしたように読める。村上氏は「昔風のいかにも頑丈な造りの家屋だ。そのような家屋は、市が西に向けて発展している時代には、まるごと新しい場所に移転されたものだ」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第十七章(2)

《私は彼に触れなかった。近づきもしなかった。彼は氷のように冷たく、板のように硬くなっているにちがいない。 

 黒い蝋燭の炎が開いたドアからのすきま風で揺らめいた。融けた蝋の黒い滴がその脇にゆっくり垂れていた。部屋の空気はひどく不快で非現実的だった。私は部屋を出てドアを閉めると居間に戻った。青年は動いていなかった。私は立ったままでサイレンを聞いていた。アグネスがどれくらい早く警察に話したか、何を言ったか、それが問題のすべてだ。もし、彼女がガイガーのことを話していたら、警察は数分後ここに来ているだろう。しかし、彼女は何時間も口を割らないかもしれない。もしかしたら逃げたかもしれない。

 私は青年を見下ろした。「座りたいか、坊や?」

 彼は目を閉じて眠っているふりをした。私は机まで歩いて行ってマルベリー色の電話機をとりあげ、バーニー・オールズのオフィスにかけた。彼は六時に家に帰っていた。私は彼の家の方にかけた。彼はそこにいた。

「マーロウだが」私は言った。「今朝、君のところの警官たちはオーウェン・テイラーのリヴォルヴァーを見つけたかい?」

 私は彼が咳払いをし、自分の声から驚きを消そうとしているのが分かった。「それは警察発表の見出しに出るだろう」彼は言った。

「もし見つけていたら、三発の空薬莢が入ってたはずだ」 

「どうしてそれを知ってるんだ?」オールズは静かに訊いた。

「ラヴァーン・テラスの7244番地に来いよ。ローレル・キャニオン大通りの外れだ。弾がどこに行ったか教えてやるよ」

「そういうことなのか?おい」

「そういうことだ」

 オールズは言った。「窓の外を見ていろ。俺が角を曲がってくるのが見えるようにな。お前はこの件でいささか隠し立てしてると俺は見てる」

「隠し立てというのはちがうな」私は言った。》

 

新旧訳とも、ほぼ同じ意味の訳になっている。最後のところ、「お前はこの件でいささか隠し立てしてると俺は見てる」は<I thought you acted a little cagey on that one.>。ここを双葉氏は「どうもこの件じゃ君はインチキくさいぞ」。村上氏は「この件に関しちゃ、おまえさんいささか隠しごとをしてくれたようだな」と訳している。<cagey>は「注意深い、慎重な、抜け目のない、自分の意見を表に出さない」などの意味を持つ。ここをどう訳すかで、次のマーロウの台詞が変わってくる。

 

「隠し立てというのはちがうな」は<Cagey is not word for it.>。双葉氏は「インチキなんて形容は当たらんよ」。村上氏は「隠しごと(傍点四字)という表現は穏やかすぎるかもな」と一歩踏み込んだ訳になっている。十八章における二人の話し合いによって、ここの訳も変わってくるかもしれない。

『大いなる眠り』註解 第十七章(1)

《ラヴァーン・テラスのユーカリの木の高い枝の間に霧の暈を被った半月が輝いていた。丘の下の家で鳴らすラジオの音が大きく聞こえた。青年はガイガーの家の玄関にある箱形の生垣の方に車を回してエンジンを切り、両手をハンドルの上に置いたまま坐ってまっすぐ前を見ていた。ガイガーの家の生垣を通して灯りは見えなかった。

 私は言った。「誰かいるのか?」

「あんたは知ってるはずだ」

「どうして私が知ってるんだ?」

「だまれ」

「入れ歯にするにはいい口の利きようだ」

 彼はにっと笑うように入れ歯を見せた。それからドアを蹴り開けて外に出た。私はあわてて後を追った。彼は拳を腰に当てて立ち、生垣の縁越しに黙って家を見ていた。

「それじゃ」私は言った。「鍵を持ってるだろう。中に入ろう」

「誰が鍵を持ってるって言った?」

「冗談を言うなよ、坊や。あいつがくれたろう。君はこの家に小ざっぱりした男っぽい小部屋を持っている。彼は女性の訪問者があると、君を追い払って家に鍵をかけた。彼はまるでカエサルのように、女の夫であり、男の妻だった。彼や君のような連中が私に分からないと思うのか?」

 私がまだオートマティックを彼の方に向けていたにも拘らず、彼は私に殴りかかってきた。顎にまともに一発くらった。私は素早くバックステップして転倒は免れたもののパンチはまともにくらった。強打のつもりだったろうが、見かけはどうであれ、お稚児さんの骨に筋金は入ってなかった。

 私は彼の足もとに銃を投げて言った。「どうやら、これが要りそうだな」

 彼はそれを取ろうとさっと屈みこんだ。彼の動きは素早かった。私は彼の首の横に拳をめり込ませた。彼は歩道に倒れこみ、銃の方に這いよったが届かなかった。私は再び銃を拾い上げ、車の中に投げ入れた。青年は四つん這いになって起き上がり、異様に大きく開いた眼で薄ら笑いを浮かべた。彼は咳をし、頭を振った。

「やめたほうがいい」私は言った。「ウェイトに差がありすぎる」

 彼はやりたがった。カタパルトで打ち出された飛行機のように私の膝に向かってダイヴィング・タックルをしかけた。私はサイドステップして、彼の首を小脇に抱え込んだ。彼は手を使って私を痛めつけられるよう、地面を強く掻いて体の下に足を入れた。私は彼の頭をねじり、少し高く持ち上げた。私は左手で自分の右手首を握り、右の腰骨を彼の方に捻って少しの間体重の均衡を保った。霧をまとった月光の下、足で地面を掻き、激しく息を喘がせる我々は絡み合った二体の奇怪な生物のようだった。

 私はやっとのことで右腕を彼の喉笛に押しつけ、両腕に全力を入れた。彼の足は狂ったようにばたつき出し、やがて息を喘がせることもなくなった。金縛り状態だ。左足が片脇にだらんと伸び、膝の力が抜けた。私は三十秒間そのままの状態を保持した。彼は私の腕に凭れかかり、抱えきれない重さだった。私は彼を放した。彼は私の足もとにぐったりと気絶していた。私は車まで行き、グローブボックスから一組の手錠を取り出し、彼の手を背中に回してかけた。私は彼の両脇に手を入れて抱え、生垣の向こうへ引きずっていき、通りから見えないようにした。私は車に戻り、百フィートばかり坂を上ったところで停め、鍵をかけた。

 私が帰ってきたとき、彼はまだ気を失ったままだった。ドアの鍵をあけて彼を家の中に引きずり込み、鍵をかけた。彼はやっと喘ぎ出した。私はスタンドのスイッチをつけた。彼は目を瞬いて開けると、ゆっくりと私に焦点を合わせた。

 私は彼の膝の届かないところに屈み込んで言った。「じっとしてろ。でないともう一度痛い目に合うことになるぞ。静かに横になって息をとめるんだ。もうこれ以上は無理だというところまで止めたら、自分に言い聞かせろ。息をすべきだ、顔が暗紫色になって、眼球が飛び出す、と。そして、まさに息をしようとすると、君はサン・クエンティンの小奇麗なガス室の椅子に縛りつけられて坐っていて、息をしたいが、してはいけないと全身全霊で闘っている。君が吸おうとしているのは空気ではなく青酸ガスだからだ。そして、それが今のところ我が州で人道的な処刑と呼ばれているものだ」

「だまれ」彼はそっと打ちのめされたようなため息をつきながら言った。

 「君は警官に泣きつくことになる。ブラザー、そうならないなんて思うなよ。そして、こちらの聞きたいことを話すだろうし、聞きたくないことは話さないだろう」

「だまれ」

「もう一度言ってみろ。頭の下に枕をかませてやる」

 彼は口をひきつらせた。私は、後ろ手に手錠をはめられ、頬を敷物に押しつけ、獣じみた目を光らせている彼を放っておいた。私は別のスタンドに灯りを点すと、居間の背後にある廊下に足を踏み入れた。ガイガーの寝室は誰にも触られていないように見えた。私はその向かい側にあるもう一つの寝室のドアを開けた。今度は鍵はかかっていなかった。部屋は仄暗く瞬くような灯りがともり、白檀の匂いがした。円錐形をした香の灰がふたつ、ライティング・デスクの上の小さな真鍮製のトレイに並んで立っていた。灯りは三十センチほどの高さがある燭台上の二本の長く黒い蝋燭から来ていた。それはベッドの両側にある背凭れの真っ直ぐな椅子の上に置かれていた。

 ガイガーはベッドの上に横たわっていた。壁から消えていた二枚の中国の刺繍を施した布帛が死体の真ん中でセント・アンドリューズ・クロスのように交叉され、中国服の上にしみ出た血痕を隠していた。十字架の下から黒いパジャマをはいた脚が固くまっすぐ伸びていた。足は厚く白いフェルト底のスリッパを履いていた。十字架状の布の上には彼の腕が手首のところで組まれ、掌を下にむけて肩の上に置かれていた。指は閉じてまっすぐ揃えられていた。口は閉じてチャーリー・チャン風の口髭はかつらのようにつくり物めいて見えた。彼の開いた鼻は白く縮んでいた。目はほとんど閉じていたが完全には閉じていなかった。ガラス製の義眼が蝋燭の灯りを受けて微かにきらめき、私にウィンクした。》

 

「彼はにっと笑うように入れ歯を見せた」は<He showed me his in a tight grin.>。双葉氏は、「彼はこわばった笑いを浮かべたが」と訳している。<his>が問題だ。「彼の(もの)」が単なる歯だったらわざわざ<his>を挿入するだろうか。ここはその前に言及されている<That’s how people get false teeth.>「入れ歯にするにはいい口の利きようだ」に対する答えとして、わざわざ自分の入れ歯を見せたのだと考える方が面白い。村上氏は「彼はにっと笑って、入れ歯を見せてくれた」と訳している。

 

「あいつがくれたろう」は<The fag gave you one.>。<fag>は男性同性愛者や女性的な男性を意味する隠語。双葉氏は「へなちょこ親分」と意訳している。村上氏は「おかまの恋人」と、そのものずばりだ。ガイガーのことを指しているのは、文脈からも明らかなので「あいつ」としておいた。前にも書いたことだが、「ゲイ」をあてるには時代がちがうし、「ホモ」や「おかま」という語では露骨すぎる。あえて日本語をあてるなら「男おんな」や「シスターボーイ」だろうが、どちらも死語に近い。侮蔑的な言葉なので、新しい訳語が生まれてこないのだろうが、時代にあわせて訳語は更新されるべきだと思う。

 

「強打のつもりだったろうが、見かけはどうであれ、お稚児さんの骨に筋金は入ってなかった」は<It was meant to be a hard one, but a pansy has no iron in his bones,

whatever he looks like.>。双葉氏は「当人は強打のつもりだったろうが、筋金入りではなかった」と<whatever he looks like>をカットして訳している。村上氏は「もっとも所詮はおかま(傍点三字)パンチだ。強打のつもりでくり出されたものだが、見かけはどうであれ、こいつらには気骨というものがない」と、あからさまに差別的な口ぶりになっている。<pansy>は同性愛者の男性、またはにやけた青年を意味するところから、こういう訳になったのだろう。

 

しかし、<no iron in his bones>はほんとうに「気骨がない」という意味なのだろうか?

<whatever he looks like>の「見かけ」をどうとるかだ。この若者は上背がある。当然リーチも長いだろう。でも、どう見ても体を鍛えているようには見えない。骨に鉄が入っているわけはない(筋金入りではない)。という意味ではないだろうか。村上訳の場合、この若者の見かけが強そうでないと意味が通らなくなる。

 

「口は閉じてチャーリー・チャン風の口髭はかつらのようにつくり物めいて見えた。彼の開いた鼻は白く縮んでいた。目はほとんど閉じていたが完全には閉じていなかった」の部分が、双葉氏の訳から抜け落ちている。ひょっとしたら見落としたか。それとも、くどいと思ってカットしたのか。義眼がウインクするところはちゃんと訳しているので、わざと省略したのかもしれない。

 

「だまれ」と訳したところはすべて<go ―― yourself>。双葉氏は「くそくらえ!」。村上氏は「てめえでファックしやがれ」だ。こう何度もくり返されると「だまれ」では面白さが足りなく感じられてくる。どんなときにも、この捨て台詞しか使わない若者の設定はよほど考えて作られたのだろう。最後まで訳したうえで、訳語を考え直す必要があるかもしれない。何にでも対応できる捨て台詞というものを探し出さないといけないようだ。

『大いなる眠り』註解 第十六章(4)

《私はひと飛びに部屋を横切り、ドアが開くように死体を転がし、身をよじって外に出た。ほぼ真向かいに開いたドアから一人の女がじっと見ていた。彼女の顔は恐怖に覆われ、鉤爪のようになった手が廊下の向こうを指さした。

 私は廊下を走り抜けた。タイルの階段を駆け下りていく足音が聞こえ、後を追った。ロビーの階に着くと、玄関ドアが静かに閉まりかけ、外の歩道を駆けていく足音が聞こえた。私はドアが閉まりきる前にこじ開け、外に飛び出した。

 革の胴着を着た背の高い無帽の人影が、駐車中の車の間を縫って、道路を斜めに走っていた。人影が振り返り、そこから炎が噴き上がった。二丁の重い鉄槌が私の傍のスタッコ壁を叩いた。その人影は走り続け、二台の車の間に身をかわして姿を消した。

 一人の男が私の横にやってきて大声で言った。「何があったんだ?」

「銃撃だ」私が言った。

「何てことだ」彼はあわててアパートメント・ハウスの中に駆け込んだ。

私は急いで歩道を歩いて車まで行くと、乗り込んでエンジンをかけた。縁石を離れ、慌てずに坂を下った。道路の反対側から動き出した車はなかった。足音を聞いたように思ったが定かではない。私は一ブロック半ほど下った交差点で車を回し、引き返した。歩道の方から抑えめな口笛がかすかに聞こえてきた。それから足音が。私は二重駐車をして、二台の車の間を抜け、身を屈めた。カーメンの小さなリヴォルヴァーをポケットから取り出した。

 足音が次第に大きくなり、陽気な口笛が続いた。すぐに胴着が現れた。私は二台の車の間から出て、言った。「マッチはあるかい?」

 若者は私の方を振り返り、右手を胴着の中に入れた。彼の眼はシャンデリアの環状の光を受け、濡れたように光っていた。しっとりとした黒い眼はアーモンドのような形で、青白い端正な顔には、ウェーブのかかった黒髪の先が二手に分かれ、額に低く伸びていた。まさに比類なき美形、ガイガーの店にいた若者だ。

 彼は立ったまま黙って私を見ていた。彼の右手は胴着の縁にあったが、まだ中に入っていなかった。私は小型のリヴォルヴァーを腰だめに構えていた。

「君はあの御主人によほどご執心だったんだな?」私は言った。

「だまれ」若者はそっと言った。駐車中の車と、歩道の内側にある高さ五フィートの擁壁の間で、身じろぎもしなかった。

 かすかに咽び泣くようなサイレンの音が長い坂を上ってくるのが聞こえた。若者の頭がその音に向けられた。私は一歩踏み込んで近づき、胴着に銃を押しつけた。

「私か、それとも警官がいいか?」私は訊いた。

 彼の頭が、顔を叩かれたみたいに、ほんの僅か横を向いた。「あんた、誰だ?」彼は怒鳴った。

「ガイガーの友だちだ」

「どこかへ行っちまいな。くそったれ」

「これはちっぽけな銃だ、坊や。これを臍に食らわしてやろう。三か月もすりゃ、歩けるようになる。そしたら、サンクエンティンの新しい素敵なガス室に歩いていけるだろう」

彼は言った。「だまれ」彼の手が胴着の中に伸びた。私は彼の腹にあてた銃口に力を加えた。彼は長い静かな溜め息を吐き、胴着から離した手をだらりと脇に垂らした。広い肩が力なく下がった。

「何が望みだ?」彼は囁いた。

 私は胴着の中に手を伸ばしてオートマティックを引き抜いた。「車に乗るんだ、坊や」

 彼は私の前を歩き、私は彼を後ろから車の中に押し込んだ。

「運転席に着け。君が運転するんだ」

 彼はハンドルの下に尻を滑らせ、私は隣に乗り込んだ。私は言った。「坂を上ってくるパトカーをやり過ごすんだ。彼らは我々がサイレンを聞いて道を譲ったと思うだろう。それから逆向きに坂を下りて家に帰ろう」

 私はカーメンの銃をしまい、オートマティックを若者の肋骨に押しつけた。私は窓越しに振り返った。今ではサイレンの啜り泣きが大きくなっていた。ふたつの赤いライトが街路の真ん中に広がってきた。それらは次第に大きくひとつになって、突風のような轟音と共に勢いよく脇を通りすぎていった。

「行こう」私は言った。

 若者は車を回し、坂を下り始めた。

「家に帰ろうや」私は言った。「ラバーン・テラスへ」

 彼の滑らかな唇がひくついた。彼は車をフランクリン通りに入れ、西に向かった。「君は愚かな若者だよ。名は何と言うんだ」

「キャロル・ランドグレン」彼は生気のない声で言った。

「君はちがう男を撃ったんだ、キャロル。ジョー・ブロディは君の恋人を殺しちゃいない」

 彼は私に三文字言葉を浴びせると、運転を続けた。》

 

「彼の眼はシャンデリアの環状の光を受け、濡れたように光っていた。しっとりとした黒い眼はアーモンドのような形で」は<His eyes were a wet shine in the glow of the round electroliers. Moist dark eyes shaped like almonds,>。ここを、双葉氏は「目は色電球みたいにぬれて光っていた。巴旦杏(アーモンド)みたいな形をしたぬれた黒い目だった」。村上氏は「彼の目は丸い電気シャンデリアの光に照らされ、濡れたように輝いていた。湿った黒い瞳がアーモンドの形になった」と訳している。

 

<electroliers>は<electric>と<chandelier>の合成語で、昔のような蝋燭ではなく電球を使ったシャンデリアのこと。「色電球」では、安物のクリスマス・オーナメントのようだ。また、村上氏はいつもの癖で、<eyes>を「瞳」と訳しているが、これは<dark eyes>=『黒い瞳』という思い込みから来てるのだろうか。もちろん、人間の瞳孔は猫のようにアーモンド形にはならない。アーモンド形に見えるのは目全体の形状だ。オリエンタルな印象があって、一部の西洋人には魅力的に感じられるらしい。その逆にアジア人に対する蔑視の対象となることもあるから、訳する際には取り扱いに注意が必要だ。

 

二度登場する「だまれ」はどちらも<Go ―― yourself>。—―部分には<fuck>が入るのだが、原著が出版された当時は禁句として扱われ伏字扱いになっている。双葉氏は「くそくらえ!」と訳している。妥当な訳といえるだろう。相手の言葉とは無関係に発せられる悪態としての決まり文句だから、たいていの悪態なら使用可能だ。村上氏は律儀にも「てめえでファックしやがれ」と字義通りに訳している。

 

実はこの悪態は、この章の末尾の文章に関係している。「彼は私に三文字言葉を浴びせると、運転を続けた」だ。原文は<He spoke three words to me and kept on driving.>。この<three words>というのが、<Go fuck yourself>だということは、原文を知っている人には分かるだろう。だが、邦訳しか読んでいない読者にどう分からせることができるか?双葉氏は「彼は得意の四字の罵声を私に浴びせ、運転を続けた」。村上氏は「彼はお得意の悪態を口にし、運転を続けた」だ。

 

英語には<four-letter word>と呼ばれる性や排せつにまつわる四文字言葉の禁句がある。<fuck>や<shit>がその例だ。双葉氏の「四字の罵声」という訳は、それを意味しているのだろう。たしかに文中では伏せられているものの、そこに<fuck>が使われている。ただ、日本語訳の「くそくらえ!」とでは平仄が合わないし、「三」と「四」では字数がちがうという憾みが残る。

 

村上氏は、日本語に訳してしまえば、きっかり何語と数えることは難しいと考えて<three words>を珍しくあっさりカットして「お得意の悪態」と意訳している。単語ではなく、文節という区切りを使えば「てめえで/ファック/しやがれ」という三文節に区切ることも、可能ではあるが「彼は得意の三文節を口にし」では、文法的すぎて、どうやら悪態しか知らないらしいこの無学な若者に似つかわしくない。

 

そこで、せめて「三」という数字だけでも使えないかと考えて「だまれ」という、面白みに欠ける訳語を当てはめてみた。これなら<three words>とはいえないものの<three-letters >にはなっている。英語には<four-letter word>の他にも<three words, eight letters>というのもある。<I love you>がそれなんだそうだが、なるほど八文字でできた三語の言葉である。原文には「お得意の」や「罵声」、「悪態」にあたる単語は使われていない。あくまでも、文章の中にある<three words>という言葉をヒントにして、この<three words>が何を意味しているのかを読み取らねばならない。

 

この作業をやってみて、翻訳というものが、英語を日本語に入れ替えることだという考え方が、あまり意味のない考え方だと思えるようになってきた。たしかに、村上氏の新訳は原文を忠実に日本語化しているように思えるのだが、よく読んでみると、もともと原文にない日本語が多用されてもいる。そうすることで作者の伝えたかった内容がより伝わると考えての改変なのだろう。それもあり、だとは思う。ただ、この場合のようにすんなりと収まらない部分はけっこう切り捨てている。書く方にしてみれば<three words>のような目配せは、何とか活かしてほしかったのではないだろうか。