HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(4)

《外で砂利を踏む足音がして扉が押し開けられた。光が篠突く雨を銀の針金に見せた。アートがむっつりと泥まみれのタイヤを二本ごろごろ転がし、扉を足で蹴って閉め、一本をその脇に転がした。荒々しく私を見た。
「ジャッキをかますところによくもまあ、あんな所を選んだものだな」彼は罵った。
 茶色の男は笑いながらポケットから筒状に束ねた五セント硬貨を取り出して掌の上で上下させた。
「まあ、そう文句ばかり言うな」彼は素っ気なく言った。「そいつを修理するんだ」
「だからやってるじゃないか、だろう?」
「いいから、そんなに騒ぎ立てるな」
「ふん」アートはゴム引きのコートと防水帽をむしり取ると、遠くへ投げ捨てた。一本のタイヤを台の上に持ち上げると、リムから乱暴に引き剥がした。チューブを外に出してあっという間に継ぎをあてた。まだ、ぶつぶつ言いながら大股で私の脇を抜け、壁にかけたエア・ホースをつかむと、チューブの中に空気をたっぷり入れて形を整え、エア・ホースのノズルを白漆喰塗りの壁に叩きつけた。
 私は立ったままカニーノの手の中で踊るラッピングされた硬貨を見ていた。少しの間、身が縮むような緊張感を忘れていた。私は首をひねり、隣で痩せた機械工が空気で硬くなったチューブを上に放りあげ、両手を広げて両側をつかむのを見た。彼は不機嫌そうに隅の汚い水が入った亜鉛メッキされた水槽の方をちらっと見ながらぶつぶつ言った。
 チームワークは抜群だったに違いない。私は合図も、目配せも、それらしい仕草も見なかった。痩せた男は硬くなったチューブを高く持ち上げて見つめていた。彼は体を半回転させ、素早く大股に一歩踏み出してチューブを私の頭から肩にかぶせた。完璧な輪投げだ。
 私の背後に跳んでゴムに強く凭れた。私の胸に体重をかけ、二の腕を脇のところで動けなくした。手は動かせるが、ポケットの銃に届かない。
 茶色の男は踊るように床を横切り、私の方に向かってきた。手には五セント硬貨の束が固く握られていた。音も立てず、表情も変えず私に近づいた。私は前にかがみ、アートを持ち上げようとした。
 重い筒を仕込んだ拳が私の開いた掌を通り抜けた。石が黄塵の中を抜けるように。ショックで一瞬気が遠くなった。目の前を光が踊り、視界がぼやけたが、まだ見えていた。男がまた殴った。頭には何の感覚もなかった。眩しい輝きが明るさを増した。ずきずき痛む白い光があるだけだった。それから暗闇の中で何か赤いものが顕微鏡で見る細菌のように蠢いた。やがて、輝きも蠢きも消え、ただ暗黒と空虚、吹き荒れる風に大きな木が落ちてゆくような感覚があった。》

「光が篠突く雨を銀の針金に見せた」は<The light hit pencils of rain and made silver wires of them.>。双葉氏は「電灯の光が両足を照らしだし銀色の線みたいに光らせた」と訳している。<pencils>をアートの足ととったようだが、それに続く<of rain>はどこに消えたのか。<pencil>は「(鉛筆のように)細い線」の意味だ。村上氏は「光がまっすぐな雨の筋に当たり、それを銀色の針金に変えた」と噛みくだいている。

「チューブを外に出してあっという間に継ぎをあてた」は<He had the tube out and cold-patched in nothing flat.>。<in nothing flat>は「あっという間に」を意味する成句だが、両氏とも調べもしなかったようだ。双葉氏は「そしてチューブを出すと破れをはりつけ」と、無視。村上氏は「チューブを中から抜き出し、ぺちゃんこになったものにタイヤ修理用のパッチを貼り付けた」と<flat>を「ぺちゃんこになったもの」と訳している。確かに、それまで何度も、そういう意味で使って来ているから無理もないのだが、ここは辞書を引く手間を惜しんではいけない。

「白漆喰塗りの壁」は<the white-washed wall>。双葉氏は「洗いたての白い壁」、村上氏は「白塗りの壁」と訳している。<white-wash>は「白漆喰」のこと。村上氏の「白塗りの壁」はまちがいではないが、双葉氏の「洗いたての」はおかしい。いい塗装には湿気はよくないはずではなかったのか。もっとも、この部分も双葉氏は正しく訳していなかった。ひとつ見落とすと後を引くものだ。

「私は首をひねり、隣で痩せた機械工が空気で硬くなったチューブを上に放りあげ、両手を広げて両側をつかむのを見た」は<I turned my head and watched the gaunt mechanic beside me toss the air-stiffened tube up and catch it with his hands wide, one on each side of the tube.>。双葉氏は「私はふりむいて、細長い機械工が空気でふくらんだチューブを投げあげて、うけとめているのをながめた」と訳している。

村上氏は「私は首を曲げて、ひょろ長い修理工がすぐそばで空気を入れて硬くなったチューブを放り上げては、大きく広げた両手で受け止めるのを見ていた。彼は放り上げるごとに、一つの側を調べていた」と訳している。この最後の部分は<one on each side of the tube>を訳したつもりだろうが、この部分の主語はあくまでも「私」で、機械工は私に見られている対象でしかない。<one on each side >の<one>は、その前の<hands>のことで、一方の手が片側をつかんだことを言っているにすぎない。

「やがて、輝きも蠢きも消え、ただ暗黒と空虚と、吹き荒れる風に大きな木が落ちてゆくような感覚があった」は<Then there was nothing blight or wriggling, just darkness and emptiness and a rushing wind and a falling as of great trees.>。双葉氏は「それから何も光らず、何もうごめかなくなった。ただ、暗黒と空虚と、吹きまくる風と、高い木から落ちていく感じだけになった」と訳している。

村上氏は「しかしやがて輝くものも、蠢くものもいなくなった。あとにはただ暗黒と空虚があった。そして突風が吹き、大木が音を立てて倒れた」と訳している。<a falling as of great trees>の訳が「高い木から落ちていく感じだけになった」や「大木が音を立てて倒れた」になる理由がよく分からない。この<as of>は「~のような」の意味で使われている。ここはマーロウの一人称視点で書かれている。マーロウは痛覚も視覚も消え、体感だけが残っているのだ。双葉氏はよく分かっているのだが、木から落ちるのではなく、木そのものが倒れる感覚ではないだろうか。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(3)

《「分かった、分かった。つなぎの男は不満たらたらだった。ポケットの垂れぶた越しに服に銃をねじ込むと、拳を噛みながら不機嫌そうにこちらを見つめた。ラッカーの匂いはエーテルと同じくらい胸が悪くなる。隅の吊り電灯の下に新品に近い大型セダンがあり、フェンダーの上にスプレーガンが載っていた。
 私はようやく作業台にいる男を見た。背の低いがっしりした体躯で肩幅が広い。冷めた顔つきに冷めた黒い目をしていた。身に纏ったベルト付きの茶色のスエードのコートには雨がびっしりと斑紋をつけていた。茶色の帽子を粋に斜めにかぶっている。作業台に凭れ、急ぐでもなく面白がるでもなく、まるで冷肉の厚切りでも見るようにこちらを見ていた。たぶん人のことをそんなものだと思っているのだろう。
 黒い目を上下にゆっくり動かしながら一本一本指の爪を眺め、明かりにかざして注意深く点検していた。ハリウッドがそうするように教えたのだ。男は煙草をくわえたまま話した。
「二本パンクしたって?そいつは大ごとだ。鋲は片づけたと思ってたが」
「カーブでちょっとスリップしたんだ」
「通りすがりだって言ってたな?」
「L.Aまで行く途中だ。あとどれくらいだろう?」
「四十マイル。この天気じゃもっと長く感じるだろう。どこからきたんだ?」
「サンタ・ローザ」
「長旅だな。タホからローン・パインか?」
「タホじゃない。リノからカーソン・シティだ」
「いずれにせよ長旅だ」微かな笑みが唇をゆがめた。
「法にでも触れるかい?」私は訊いた。
「何だって?いや何も問題はない。詮索好きだと思ってるんだろう。裏に逃げた強盗のせいさ。ジャッキを持って来てパンクの修理だ、アート」
「俺は忙しい」痩せた男がうなった。「俺は仕事中だ。これの塗装をしなきゃいけない。それに雨が降ってる。お気づきかもしれませんが」
茶色の男が愉快そうに言った。「いい塗装には湿気は禁物だ。アート、行って来いよ」
私は言った。「前と後ろ、右側だ。一本はスペアを使える。もし忙しいのなら」
「ジャッキ二つだ、アート」茶色の男が言った。
「聞いてんのか──」アートがわめき出した。
 茶色の男は目を動かし、穏やかな静かな目でアートをじっと見つめ、それからまた恥ずかしがってでもいるみたいに目を下ろした。何も言わなかった。アートは突風に吹かれでもしたようにぐらっと揺れた。足を踏み鳴らして隅の方に行くと、ゴム引きのコートをつなぎの上に羽織り、防水帽をかぶった。箱型スパナと手動ジャッキをつかみ、台車のついた大型ジャッキを転がして扉まで行った。
 黙って出て行ったが、扉は大きく開いたままだ。雨が中に吹き込んだ。茶色の男はぶらぶらと歩いて行って扉を閉め、ぶらぶら歩いて作業台まで戻り、前と同じ場所に腰を下ろした。そのときならうまく仕留められたかもしれない。二人きりだった。彼は私のことを知らなかった。彼はかすかに私の方を見ながら、セメントの床に捨てた煙草を見もしないで踏みつけた。
「一杯やった方がいい」彼は言った。「中を湿らせたら、外との釣り合いが取れる」彼は作業台の後ろからボトルを取り出して端に置き、脇にグラスを二つ置いた。各々にたっぷり注いで一つを差し出した。
 私は木偶の坊みたいに歩いて行ってそれを受け取った。雨の記憶がまだ顔に冷たく残っていた。塗料の匂いが閉め切った修理工場の空気を麻痺させていた。
「まったくアートときたら」茶色の男が言った。「機械工のご多聞にもれず、いつも先週仕上げておくはずの仕事にかかりきりだ。商用の旅行かい?」
私はそっと酒の匂いを嗅いだ。まっとうな匂いだ。相手が飲むのを見とどけてから口をつけ、舌の上で転がした。シアン化物は入ってなかった。小さなグラスを空け、彼の傍に置いて引き下がった。
「それもある」私はそう言って、塗りかけのセダンのところに行った。フェンダーに大きなスプレーガンがある。雨が平屋根を激しく叩いた。アートはその雨の中に出て行った。罵りながら。
 茶色の男は大きな車に目をやった。「そもそもはドアを直すだけの仕事さ」彼は何気なく言った。唸り声は酒のせいでさらに穏やかになった。「だが、客は金を持っていて、運転手はドル札を幾らか欲しがってた。ぼろい仕事さ」
 私は言った。「それより古い商売は一つだけだ」唇が渇くのを感じた。話したくなかった。煙草に火をつけた。タイヤの修理が終わってほしかった。時間が忍び足で過ぎていった。茶色の男と私は偶然に出会った他人同士で、ハリー・ジョーンズという名の小さな死人を挟んで互いに向い合っていた。ただし、茶色の男はまだそれを知らない。》

「身に纏ったベルト付きの茶色のスエードのコートには雨がびっしりと斑紋をつけていた」は<He wore a belted brown suede raincoat that was heavily spotted with rain.>。双葉氏は「バンドのついた茶色のスウェードのレイン・コートを着ていた。雨のしみがついていた」と訳している。村上氏は「ベルトのついた茶色のスエードのコートを着ていたが、そこには雨のあとが黒く重く残っていた」だ。<heavily>とあると「重く」と訳したくなるらしい。おまけに原文にない「黒く」まで付け加えている。

「鋲は片づけたと思ってたが」は<They swept the tacks, I thought.>。双葉氏は前の所で鋲について触れていないので「とんだ金要(ものい)りだぜ」と作文している。これはもう訳ではない。村上氏は「鋲はみんな片づけられたって聞いたんだけどな」と訳している。

「お気づきかもしれませんが」は<you might have noticed>。双葉氏はこれをカットしている。村上氏は「見りゃわかるだろうが」と訳しているが、見て分かるのは塗装中の方だ。閉め切った工場の中では雨は音で知るしかない。<you might have noticed>は何かを説明するときに最初につける決まり文句だ。アートの皮肉だろう。

「いい塗装には湿気は禁物だ」は<Too damp for a good spray job,>。ここを双葉氏は「おめえみたいなとんちきに、うまく塗れるかってんだ」と訳している。<damp>を<dope>とでも空目したのかもしれない。村上氏は「塗装をきれいに上げるには湿気が強すぎる」と訳している。

「中を湿らせたら、外との釣り合いが取れる」は<Wet the inside and even up.>。双葉氏は「腹にお湿(しめ)りをくれりゃ、調子が出るからな」と訳している。酒を飲めば調子が上がると考えたのだろうが、<even up>は「釣り合いが取れる、帳尻を合わせる」などの意味がある。ぐっしょり濡れた外と釣り合いをとるために中にも湿り気を入れた方がいい、という意味合いだ。村上氏は「外側だけじゃなく、内側も同様に湿らせた方がいいぜ」と言葉を補っている。

「そもそもはドアを直すだけの仕事さ」は<Just a panel job, to start with>。双葉氏は「ちょいと横板をなおしゃいいんだ」と訳している。たしかに<panel>には「横板」の意味もあるが、自動車にはあまり使わない。村上氏は「もともとは塗装をちっといじるだけの仕事だった」と、こちらは<panel>を省いている。<panel>とは「ドア・部屋・格(ごう)天井などの四角い枠のひと仕切り」のことである。車の塗装の場合、ドアならそれだけを塗ることができる。しかし、他の部分との色合わせは.けっこう難しい。全部塗り直す方が手間はかかるが仕上がりはきれいだ。おそらくそのようなことを言ったのだろう。

「ぼろい仕事さ」は<You know the racket.>。双葉氏は「これが商売さ」。村上氏は「どういう類の商売か見当はつくだろう」だ。<you know>は、「知ってるだろう」くらいのニュアンスで使われる合いの手みたいな文句だ。<racket>はこの小説では「強請り」の意味で何度も出てくるが、ここでは「楽して儲ける仕事」くらいの意味で使われている。

「それより古い商売は一つだけだ」は<There’s only one that’s older.>。双葉氏は「古いて(傍点)だね」と訳しているが、これでは<You know the racket.>を受けて切り替えしてみせた、気のきいたセリフが生きてこない。たぶん、ここでマーロウが考えている古くから続く商売というのは「娼婦」のことだろう。村上氏は「それより古い商売は一つしかない」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(2)

《広いメイン・ストリートからずっと後ろに木造家屋が何軒か、互いに距離を置いて建っていた。それから急に商店が軒を連ね、曇ったガラス窓の向こうにドラッグ・ストアの明かりが点り、映画館の前には車が蠅のように群がり、街角の明かりが消えた銀行は歩道に時計を突き出し、一群の人々が雨の中に立って窓の中をのぞき込んでいた。まるで何かショーでもやっているみたいに。私は先に進んだ。また無人の野原が迫ってきた。
 運命がすべてを裏で操っていた。リアリトを過ぎて一マイルも行ったあたりで、ハイウェイは大きく曲がり、雨に踊らされて私は路肩に近づきすぎた。右の前輪が怒り声をあげて軋んだ。車を止める前に右の後輪も同じ破目になった。私はブレーキを踏んで車を止めたが、車体の半分は路上、半分は路肩にあった。車を降りて懐中電灯で辺りを照らした。パンクしたのは二本、スペアは一本。亜鉛メッキされた鋲の押しつぶされた基部が前輪からこちらを見ていた。舗装路の縁に同じ鋲が散らかっていた。
 舗装路からは掃き出されたが、縁に残っていたのだ。
 私は懐中電灯を消し、そこに立って雨を呼吸し、脇道の黄色い明かりを見上げていた。天窓からのもののようだった。天窓は修理工場のものかもしれず、工場はアート・ハックという名の男がやっているのかもしれず、その隣には木造家屋が建っているかもしれなかった。私は襟首に顎を押し込んでそちらに歩きはじめた。それから引き返し、ハンドルの軸から車検証入れを解いてポケットに押し込んだ。それからハンドルの下に低く屈み込んだ。運転席に座ったとき右足が直に触れる位置の下にはね蓋のついた秘密の物入れがある。二挺の銃がそこに入っている。一挺はエディ・マーズの子分のラニーのもので、もう一挺は私のだ。私はラニーの方を取り出した。私のより経験を積んできているに違いない。そいつの鼻先を下に内ポケットに押し込んで脇道を歩きはじめた。
 修理工場はハイウェイから百ヤードほどだった。ハイウェイに窓のない側面を向けていた。私は素早く懐中電灯をあてた。「アート・ハック──自動車修理と塗装」。私はひとりほくそ笑んだ。が、ハリー・ジョーンズの顔が目の前に浮かび、笑うのをやめた。修理工場の扉は閉じていたが、下に明かりが漏れ、二枚扉の隙間にも明かりが細く透けていた。私は前を通り過ぎた。木造家屋があった。正面の二つの窓に明かりがともり、ブラインドが下りていた。道路から身を引くようにまばらな茂みに隠れていた。一台の車が砂利敷きの私道に停まっていたが、正面は暗くて判別できないが茶色のクーペかもしれず、カニーノ氏所有の車かもしれない。狭い木製ポーチの前で静かに身を潜ませていた。
 たまには女に運転させて辺りをひとっ走りするのだろう。女の隣に座り、たぶん銃を片手に。ラスティ・リーガンと結婚すべきだった女、エディ・マーズが押さえかねた女、ラスティ・リーガンと逃げなかった女と。ご親切なカニーノ氏。
 私はとぼとぼと歩いて修理工場まで戻ると木の扉を懐中電灯の柄で叩いた。雷のように重い沈黙の瞬間が垂れ込めた。工場内の灯りが消えた。私はほくそ笑み、唇の雨を舐めながら立っていた。懐中電灯を点け、二枚扉の真ん中を照らした。私はその白い円ににやりと笑いかけた。望むところにいたのだ。
 扉越しに声が聞こえた。無愛想な声だ。「何の用だ?」
「開けてくれ。ハイウェイで二本パンクして、スペアは一本だ。助けがいる」
「すまないがミスタ、もう閉店だ。リアリトは一マイル西だ。そちらをあたった方がいい」
気に入らない返事だ。私は扉を強く蹴った。蹴りつづけた。別の声が聞こえた。喉を鳴らす唸り声だ。壁の向こうで小さな発電機が動いているような。その声は私の気に入った。声が言った。「生意気なやつじゃねえか、開けてやれよ、アート」
 閂桟が悲鳴を上げて片方の扉が内に開いた。懐中電灯の明かりが少しの間、げっそり痩せた顔を照らした。その時何か光る物が振り下ろされ私の手から懐中電灯を叩き落した。銃がこちらを向いていた。私は身を屈め、濡れた地面を照らしている懐中電灯を拾い上げた。
 ぶっきらぼうな声が言った。「明かりを消せよ、それでけがをするやつもいるんだ」
 私は懐中電灯を消し、体を起こした。修理工場の中で明かりがつき、つなぎを着た背の高い男の輪郭が浮かび上がった。男は銃を私に向けたまま開いた扉から後退りした。
「入って扉を閉めてくれ、あんた。何ができるか考えよう」
 私は中に入って後ろ手に扉を閉めた。私は痩せた男を見たが、作業台の陰で口をつぐんでいるもう一人の方は見なかった。修理工場の空気はラッカーの刺激臭のせいで甘く不穏だった。
「あんたにゃ、分別てえものがないのか?」痩せた男がたしなめるように言った。「今日の午後リアリトで銀行強盗があったばかりなんだぜ」
「すまなかった」私は言った。雨の中人々が銀行をながめていたのを思い出した。「私がやったんじゃない。通りがかりの者だ」
「とにかく、そういうことがあったんだ」不機嫌そうに言った。「二人の悪ガキの仕業で、この後ろの丘に追い詰められたって話だ」
「身を隠すには頃合いの夜だ」私は言った。「そいつらが外に鋲を撒いたらしい。それを拾ってしまった。最初はあんたが客を引き込もうとしたのかと考えていた」
「あんた今まで一度も口を殴られたことはないのか、どうなんだ?」痩せた男が素っ気なく言った。
「ないね、あんたのウェイトのやつには」
 唸り声が陰から口を挟んだ。「すごむのはやめときな、アート。こちらはお困りのご様子だ。修理がお前の仕事じゃないか?」
「ありがとう」私は言ったが、そのときでさえ声の主を見ようとはしなかった。》

「運命がすべてを裏で操っていた」は<Fate stage-managed the whole thing.>。双葉氏はなぜか、ここを訳していない。パラグラフの先頭にある文だ。これをカットするというのはないだろう。村上氏は「運命がすべてのお膳立てを整えてくれた」だ。<stage-manage>は「(舞台)演出をする」というのが本義だが、「(裏で)企てる、操る」の意味がある。

亜鉛メッキされた鋲の押しつぶされた基部が前輪からこちらを見ていた。/舗装路の縁に同じ鋲が散らかっていた。舗装路からは掃き出されたが、縁に残っていたのだ」は<The flat butt of a heavy galvanized tack stared at me from the front tire. / The edge of the pavement was littered with them. They had been swept off, but not far enough off.>。ここを双葉氏は「前車輪のタイヤの破れた端が私をみつめていた。舗装道路の端がめくれていた」と訳している。これは、誤訳というよりも手抜きだ。

村上氏は「亜鉛メッキされた大きな鋲の、ぺしゃんこになった残骸が、前輪の脇から私を見ていた。/舗装部分の縁にはそのような鋲がたくさん撒かれていた。それらは掃いて排除されたものの、路肩に残されたままになっていたのだ」と訳している。村上氏は<a heavy galvanized tack>を「亜鉛メッキされた大きな鋲」と考えているらしいが、この<heavy>は次の<galvanized>にかかっている。<a heavy galvanized>は「溶融亜鉛メッキ」のことで亜鉛メッキの種類の一つ。

「ハンドルの軸から車検証入れを解いて」は<unstrap the license holder from the steering post>。双葉氏は「運転台から免許証入れを引はぎ」と訳している。村上氏は「ハンドルの軸についた車検証をはずして」だ。<license holder>は「資格保持者」の意味だが、運転免許証や探偵許可証なら札入れに入れている。<unstrap>とあるからには紐状のものでステアリング・ポストに付けているので直にではない。ここは「車検証」のホルダーのことだろう。

「ハイウェイに窓のない側面を向けていた」は<It showed the highway a blank side wall.>。双葉氏は「そこからふりかえると、国道は白い塀みたいに見えた」と訳しているが、これは無理がある。マーロウはハイウェイの方からやって来て修理工場を見ているのだ。特にハイウェイを振り返る必要はない。村上氏は「それはハイウェイに向けて、のっぺりした側面を向けていた」と訳している。「向けて」が重複しているのが気になる。はじめの方はなくてもいい。

「二枚扉の隙間にも明かりが細く透けていた」は<a thread of light where the halves met.>。双葉氏は「が、下の橋から光がもれていた」と、ここをカットしている。村上氏は「二枚の扉の合わせ目が光の縦線を作っていた」と訳している。

「雷のように重い沈黙の瞬間が垂れ込めた」は<There was a hung instant of silence, as heavy as thunder.>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「一瞬の沈黙が降りた。雷鳴のように重い沈黙だった」と文学的に処理しているが、<thunder>(雷)はひどく怒鳴ったり、大声をあげるという意味でよく使われる言葉。「沈黙は金」ということわざもあるように、何も言わない方が何かをより以上に伝えることがある。そういう意味だろう。

「修理工場の空気はラッカーの刺激臭のせいで甘く不穏だった」は<The breath of the garage was sweet and sinister with the smell of hot pyroxylin paint.>。双葉氏は「車庫の空気は塗料のにおいで甘く、また陰気だった」と簡潔に表現している。村上氏は「工場の空気は温かいピロキシリン塗料のせいで甘ったるく、そこには不穏な気配があった」とどこまでも詳しい。ただ<hot>を「温かい」と訳したのはどうだろう。

スラングでもよくつかわれる<hot>だ。「流行の、人気のある」などの意味もある。<pyroxylin>はニトロセルロースラッカーのことで、初めて車の塗装に使用されたのは1923年。ゼネラルモータース社のオークランドという車種だった。『大いなる眠り』が出た1939年当時はすでに各社が取り入れていたのではないだろうか。ただし、「人気の」とするほどのデータもないので、「強い、激しい」の意味で「刺激臭」とした。

 

『大いなる眠り』註解 第二十七章(1)

《「お金をちょうだい」
 声の下でグレイのプリムスのエンジンが震え、上では雨が車の屋根を叩いた。頭上遥か、ブロック百貨店の緑がかった塔の頂では菫色の灯りが、雨の滴る暗い街からひとり静かに身を引いていた。女は身を屈めダッシュボードのかすかな光で金を数えた。バッグが音を立てて開き、音を立てて閉まった。女は疲れ切った息を吐き切ると、私に身を寄せた。
「もう行くわ、探偵さん。逃げる途中なの。これがなくては逃げるに逃げられない。ハリーに何があったの?」
「逃げたと言っただろう。カニーノが何かを嗅ぎつけた。ハリーのことは忘れろ。払った分の情報がほしい」
「話すところよ。ジョーと私は先週の日曜、フットヒル大通りを車で走ってた。灯ともし頃で車はいつものように混雑してた。茶色のクーペを追い越したとき、運転してる女を見たの。横には男がいた。浅黒い背の低い男。女は金髪で以前に見たことがあった。エディ・マーズの奥さんよ。男の方はカニーノ。一度見たら忘れられない二人組。ジョーはそのクーペの後をつけた。尾行がうまいのよ。番犬のカニーノが気分転換に連れだしたのね。リアリトから一マイルほど東へ行ったところで道は丘の方に向かうの。南に行けばオレンジ畑が続くけど、北に行けば地獄の裏庭のように剥き出しの土地で、丘と衝突したように燻蒸消毒用の薬品を作るシアン化物工場が建ってる。ハイウェイをちょっと外れたところにアート・ハックっていう男がやってる小さな塗装兼修理工場がある。盗難車を売買してそうな店よ。そこを過ぎると木造家屋が一軒建っている。その先には丘と露頭と二マイル先のシアン化物工場のほか何もない。そこが彼女の隠れ家よ。二人はそこで脇道に入ったので、ジョーはやり過ごしてから引き返すと、車が入った脇道の先に一軒の木造家屋が見えた。半時間ほどそこに座って車が通るのを見てたわ。誰も戻ってこなかった。すっかり暗くなってからジョーがこっそりのぞきに行った。ジョーが言うには、家には明かりがついて、ラジオが鳴っていて、玄関には一台だけ車が停まっていた。クーペよ。それで私たちは引き上げた」
 女は話しを止め、私はウィルシャー大通りを行くタイヤの軋る音に耳を澄ませた。私は言った。「その後で隠れ家を引っ越したかもしれない。だが、ともあれ売り物はそれか。人違いじゃないだろうな」
「一度でもあの女を見たなら、次に見まちがえたりしない。さよなら、探偵さん。幸運を祈っててね。まったくひどい目にあったんだから」
「散々だったな」私は言った。そして通りを横切って自分の車まで歩いた。
 グレイのプリムスは動き出し、スピードを上げ、サンセット・プレイスに向かうコーナーに突っこんでいった-。エンジン音が消え、私の知る限り金髪のアグネスはその姿を永遠に消し去った。三人の男が死んだ。ガイガー、ブロディ、そしてハリー・ジョーンズ。そして女は私の二百ドルを鞄に入れ、雨の中を跡形もなく走り去った。私は弾みをつけ、ダウンタウンまで飯を食いに行った。しっかりとした夕食だ。雨の中の四十マイルはちょっとした遠出だ。おまけに私は往復したいと思っていた。
 私は北に向かい、川を渡ってパサデナに入った。パサデナを抜けるとすぐにオレンジ畑だった。どしゃ降りの雨がヘッドライトを浴びて厚く白い水煙になった。ワイパーをいくら速く動かしても、視界をクリアに保つことは難しかった。それでも、濡れそぼつ闇を通してオレンジの樹々の完璧な輪郭が無限に続く輻のように夜の中を走り去るのが見えた。
 行き交う車はつんざくような音を立て、汚れた水煙を波打たせて通り過ぎた。 ハイウェイは小さな町をいくつも通り抜けた。オレンジの選果場と倉庫、それに寄り添う鉄道の引き込み線がすべてといった町だ。いつかオレンジ畑はまばらになり、南の方に消えていった。そして道が上りになるにつけ寒くなった。北方に黒い丘陵が身を屈めて近づき、山腹に激しい風を吹きつけた。 やがて暗闇の中にぼんやりと二つの黄色い蒸気灯が浮かびあがり、その間に「リアリトへようこそ」と告げるネオンサインが見えた。》

「地獄の裏庭のように剥き出しの土地で、丘と衝突したように」は<it’s a bare as hell’s back yard and smack up against hills>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「地獄の裏庭みたいな荒涼とした土地で、その突き当りには、丘にしがみつくような格好で」と訳している。<smack>は「衝突する、ぶつかる、強く打つ」などの意味。

「小さな塗装兼修理工場がある」は<there’s a small garage and paintshop>。双葉氏は「小さな車庫と、ペンキ屋があるの」と訳しているが、そんな地獄の裏庭のような場所でペンキ屋を営む物好きはいない。村上氏は「小さな修理工場がある。塗装もする」だ。実は双葉氏、この後の<Hot car drop, likely.>を「車はそこで速力を落したの」と誤訳している。これが読めていないのでペンキ屋になってしまったんだろう。村上氏の訳では「たぶん盗難車をさばく店ね」だ。<hot car>とは「盗難車」のことで、<drop>は「(盗品などの)隠れ売買所」のことだ。

「一軒の木造家屋が見えた」は<where the flame house was.>。双葉氏はここもカットして「車が曲がって行ったところで、三十分ほど見張っていたの」と訳している。<the flame house>とあるように、それまでに一度出てきている。初出なら<a flame house>だ。双葉氏は簡潔な訳を好むが、脇道の向こうにこの家があることはそれまでに書かれていない。後に訪れるであろうマーロウが無事たどり着けるように、ここは正確に訳しておく必要がある。アグネスの道案内は行き届いているのだ。

「跡形もなく」と訳したのは<not a mark on her>。双葉氏は「何の刻印も残さずに」と訳している。村上氏は「かすり傷ひとつ負わずに」と訳している。その前に男が三人死んだ、とあるので村上氏の訳はそれを考慮に入れているのだろう。蛇足ながら、この時点で男はもう一人死んでいる。運転手のオーウェン・テイラーだ。なぜ三人としたのだろう。使用人は物の数ではないのだろうか。

「私は弾みをつけ」は<I kicked my starter>。双葉氏は「私はスターターをけり」とそのまま訳しているが、バイクではないのだから、これはおかしい。村上氏は「私は車のアクセルを踏み」と、無難な訳にしているが、まだエンジンをかけてもいないのにアクセルを踏んでもはじまらない。<kick starter>には、オートバイなどのペダルを踏んで始動させる、という通常の意味のほかに「(活動などの)始動時に弾みをつける」という意味がある。<my starter>とあるように、ここは遠出を前に自分に元気をつける意味で食事に出かけたのだろう。

「私は往復したいと思っていた」は<I hoped to make it a round trip.>。双葉氏は「遊覧旅行なら申し分ないのだが」と訳している。<round trip>は「周遊旅行」の意味もあるが、アメリカ英語では「往復旅行」の意味になる(英<return trip>)。村上氏は「私としては片道とはいわず、できれば往復したいところだ」と相変わらず丁寧な訳しぶりだ。四十マイルは約六十キロ。往復で百二十キロなら普通は日帰りだ。「日帰り」と訳しかけたが、日をまたぐことも考えて「往復」にした。

「オレンジの選果場」と訳したところは<packing houses>。双葉氏は「オレンジの包装所」と訳している。辞書には「選果包装施設」などのほかに「缶詰工場」という訳語も載っている。村上氏は「缶詰工場」を採っているが、オレンジ畑が続いていることを盛んに強調していることもある。ミカンの缶詰というのもあるが、オレンジならそのまま箱に詰めるだろう。日本語としては「選果場」が一般的ではないか。

「山腹に激しい風を吹きつけた」は<sent a bitter wind whipping down their flanks.>。村上氏は「刺すような風を山腹に向けて吹き下ろした」と訳している。ところが、双葉氏は「その中腹から酸っぱい臭いが流れて来た」と訳している。シアン化物工場という言葉からの連想で<a bitter wind>を「酸っぱい臭い」と思ってしまったのだろう。しかし、雨の中のドライブで窓を開けているわけがない。この<bitter>は「(雨、寒さなどが)激しい、厳しい」の意味だろう。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(4)

《電話を切り、もう一度電話帳を取り上げてグレンダウアー・アパートメントを探した。管理人の番号を回した。もうひとつ死の約束の取りつけに、雨をついて車を疾走させているカニーノ氏の像がぼんやりと頭に浮かんだ。「グレンダウアー・アパートメント。シフです」
「ウォリスだ。警察の身元識別局。アグネス・ロズウェルという名の女に覚えがあるかね」
「何とおっしゃいました?」
 私は繰り返した。
「番号をお教え願えれば、折り返し──」
「茶番はよせ」私は厳しく言った。「急いでいるんだ。あるのか、ないのか?」
「いいえ、ありません」声は棒状のパンのように硬かった。
「長身で金髪、目は緑だ。安宿で見た覚えはないか?」
「お言葉ですが、うちは安宿なんかでは──」
「黙るんだ」私は警官口調で怒鳴りつけた。「風紀犯罪取締班を送り込まれて徹底的に引っ掻き回されたいのか? バンカー・ヒル界隈のアパートメント・ハウスのことなら何から何まで知っているんだ。特に部屋別に電話番号が登録されているようなやつのことはな」
「ちょっと、落ち着いてくださいよ、お廻りさん。協力しますから。金髪なら確かに二人います。普通いるでしょう? 目の色までは覚えていません。その人、一人住まいですか?」
「一人か、一六〇センチくらいの小男といっしょだ。体重五十キロ、鋭い黒い目、服はダーク・グレイのダブル・ブレストのスーツ、アイリッシュツイードのコート、グレイの帽子だ。情報じゃ部屋は三〇一のはずだが、電話に出たやつに盛大に揶揄われたよ」
「ああ、女はそこじゃない。三〇一には自動車のセールスマンが二人住んでいます」
「ありがとう。そのうちに行ってみよう」
「お手柔らかに願いますよ。直に私のところに来て頂ければ」
「感謝するよ、ミスタ・シフ」私は電話を切った。
 顔の汗を拭いた。オフィスの隅まで歩いて壁に向かって立ち、片手で壁を叩いた。ゆっくり振り返り、椅子の上でしかめっ面をしている小さなハリー・ジョーンズを見やった。
「君はあいつに一泡吹かせたってわけだ、ハリー」私は自分でも奇妙に聞こえるほど大きな声を出した。「君は嘘をつき、小紳士然として青酸カリを仰いだ。君は猫いらずにやられた鼠みたいに死んだ。だがなハリー、私にとって君はただの鼠ではなかった」
 私は死体を探った。嫌な仕事だ。ポケットの中からはアグネスについて私の欲しいものは何一つみつからなかった。そんなことだろうと思っていたが、やらずに済ますわけにはいかなかった。カニーノ氏が戻ってくるかもしれない。カニーノ氏は自信満々の紳士のようだ。犯行現場に舞い戻ることなど気にもしないだろう。
 私は明かりを消し、ドアを開けかけた。壁際の床の上で電話のベルが激しく鳴り出した。私はその音に耳を澄ませ、顎の筋肉を痛いほどひきしめた。それから、もう一度ドアを閉め、明かりをつけ、そこまで行った。
「もしもし」
 女の声だ。彼女の声。「ハリーいる?」
「ここにはいないよ、アグネス」
 しばらく待って、それからゆっくり言った。「誰なの?」
「マーロウだよ、君にとっては厄介者さ」
「あの人、どこにいるの?」甲高い声。
「ある情報の見返りに二百ドル持って立ち寄った。申し出はまだ効力がある。金はここだ。君はどこにいる?」
「あの人、言わなかった?」
「聞いていない」
「あの人に訊く方がいいと思う。あの人はどこ?」
「それが訊けないんだ。カニーノという男を知ってるか?」
 はっと息を呑むのがまるで傍にいるみたいにはっきり聞こえた。
「百ドル札二枚、ほしいのか、いらないのか?」
「私──私、喉から手が出るほど欲しいの、ミスタ」
「それじゃ、どこへ持っていくか言ってくれ」
「私──私──」声が次第に薄れていき、パニックが戻ってきた。「ハリーはどこ?」
「怖気づいて逃げたのさ。どこかで会おう──どこでもいい──金はあるんだ」
「そんなはずない──ハリーに限って。罠ね、これは」
「戯言だ。ハリーを逮捕するならとっくの昔にできた。罠をかける必要など何もない。カニーノがハリーのことを何か嗅ぎつけたみたいで逃げたのさ。私は安らかでいたい。君も安らかでいたい。ハリーも安らかでいたい」ハリーはもう安らかにしている。誰も彼からそれを奪うことはできない。「私のことをエディ・マーズの手先だと考えてるんじゃないだろうな、エンジェル?」
「い、いいえ、そんなふうには思ってない。半時間後に会いましょう。ウィルシャー大通りのブロックス百貨店の横、駐車場の東口で」
「いいだろう」私は言った。
 受話器を戻した。アーモンド臭の波がまた押し寄せてきた。そこに吐瀉物の酸っぱい匂いが混じっていた。小さな死者は黙って椅子に腰かけていた。恐怖や変化から遠く離れて。
 私はオフィスを出た。薄汚れた廊下には動くものもなかった。明かりの漏れる石目ガラスのドアもなかった。私は非常階段を使って二階まで降り、そこから明かりがついたエレベーターの屋根を見下ろした。ボタンを押すとそれはゆっくり動きはじめた。私は再び非常階段を駆け下りた。ビルディングを出る頃にはエレベーターは私の上にいた。
 雨脚はまた激しくなっていた。土砂降りの中に踏み込むと大量の雨粒が顔を打った。一滴が舌に当たり、開けっ放しの口に気づいた。顎の脇の痛みから、顎を引いて大口を開けていたことを知った。ハリー・ジョーンズの死に顔に刻まれたしかめっ面の真似だった。》

「グレンダウアー・アパートメントを探した」のところ、両氏とも「グレンダ(ド)ワー・アパートメント」と訳しているが、原文は<looked up the Wentworth Apartments.>。つまり「ウェントワース・アパートメント」だ。これはチャンドラーのミスだろうか?「ウェントワース」は電話番号であって、アパートの名前ではない。参照しているのは1992年刊のBlack Lizard Editionだが、原作尊重でそのままにしているのだろうか。よく分からない。

「声は棒状のパンのように硬かった」は<The voice was stiff as a breadstick.>。双葉氏はここをカットしている。<breadsticks>はイタリア料理で、テーブル上に用意される鉛筆サイズの細くて硬い「グリッシーニ」のことだ。籠などにどっさり詰め込んで供されるため、普通は複数形である。そのままかじってもいいが、生ハムなどを巻いて食べるのも美味しいらしい。村上氏は「その声は棒パンのように硬かった」と訳している。

「普通いるでしょう?」は<Where isn’t there?>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「どこにだって金髪くらいいますぜ」と訳している。前の文が<There’s a couple of blondes here, sure.>だから、ここは一種の付加疑問文と考えればいい。双葉氏はそう考えて略したのかもしれない。

「電話に出たやつに盛大に揶揄われたよ」は<but all I get there is the big razzoo.>。双葉氏は「電話に出たのはデカ物だった」。村上氏は「しかし電話に出たのはいかにもでかい野郎だった」と、旧訳を参考にした訳だ。<razz>は「からかう、あざ笑う」の意味で<big razzoo>は「(米俗)大軽蔑の仕種」と辞書にある。どんな仕種かは分からないが、電話では見えない。それは両氏にも言えることで、電話で相手の背の高さは分からないはずだ。

「だがなハリー、私にとって君はただの鼠ではなかった」は<Harry, but you’re no rat to me.>。双葉氏は「だが、僕は君を鼠とは思わない」。村上氏は「しかしハリー、私から見れば君は鼠なんかじゃない」だ。<rat>は家ネズミの<mouse>とちがって、ドブネズミ。そのため人に対して使われるときは「スパイ、密告者、裏切り者」といったよくない意味が加わる。マーロウのハリーに対する親愛の情を表すところなので、ネズミを使った人を表す表現として「ただの鼠で(は)ない」(尋常の人物ではない、一癖ある者だ、油断のならないやつだ)を使ってみた。

カニーノ氏は自信満々の紳士のようだ。犯行現場に舞い戻ることなど気にもしないだろう」は<Mr.Canino would be the kind of self-confident gentleman who would not mind returning to the scene of his crime.>。双葉氏は「キャニノ君は犯罪の現場へ帰ってくるのを何とも思っていないような自信たっぷりな紳士だ」と、関係代名詞を教科書通り後ろから訳し上げている。村上氏は「カニーノ氏は自信満々の男だ。犯行現場に戻ることを怖がったりしないだろう」と、こちらは文芸翻訳でよくやるように訳し下ろしている。

「壁際の床の上で」は<down on the baseboard>。ここも双葉氏はカットしている。村上氏は「床の幅木の前に置いた」と、丁寧に訳している。<baseboard>は壁の下に張りまわした「幅木」のこと。原文は<The phone bell rang jarringly down on the baseboard.>。この場合の<down>は「低い状態にある」ことを表す副詞だろう。わざわざ幅木に注目させる必要があるとも思えない。幅木のあるのは壁なので「壁際の床の上で」としてみた。

「もしもし」は<Yeah?>。ここを双葉氏は「おう」と訳している。マーロウの発した言葉と考えているのだろう。しかし、すぐ後に<A woman’s voice. Her voice.>と続くので、これはアグネスの発した言葉と取らないと意味が通じない。そのためか、双葉氏は語順を入れ替えて「ハリーいて?」の後に「女の声だ。彼女の声だ」を入れている。しかし、これはさすがにまずいだろう。

「はっと息を呑むのがまるで傍にいるみたいにはっきり聞こえた」は<Her gasp came as clearly as though she had been beside me.>。双葉氏は「彼女がはげしく息をひくのが、まるですぐそばにいるみたいにはっきりきこえた」と訳している。一般に「息をひく」という言い方があるのかどうかよく分からないが、あとは原文通り。村上氏は「彼女がはっと息を呑む音がすぐ耳元で聞こえた」と訳している。直喩をあえて無視しているのは何か理由があるのだろうか。

「私は安らかでいたい」は<I want quiet>。双葉氏は「僕も落ち着きたい」。村上氏は「私は静かにやりたい」と訳している。これはいつもの繰り返しである。私、君、ハリーと三度同じ言葉を繰り返して<Harry already had it.>(ハリーはもう安らかにしている)つまり永眠している、というところへ落としたい訳だ。<quiet>をどう訳すかがカギになる。

「土砂降りの中に踏み込むと大量の雨粒が顔を打った」は<I walked into it with the heavy drops slapping my face.>。双葉氏は「雨滴でつよく顔をたたかれながら、私はそのどしゃ降りの中へ出て行った」と、やはり訳し上げている。村上氏は「外に出ると、重い雨粒が顔を強く打った」と訳している。「重い雨粒」は変だろう。<heavy>には「(量、程度などが)激しい、猛烈な」という意味で使われる場合がある。その前に<It was raining hard again.>とあり、引用句の後に<one of them>とあるのだから、この<heavy>は「重い」と訳すべきではない。蛇足ながら、両氏とも<walked into>を「出て行った」、「外に出る」と訳しているが、マーロウは土砂降り「の中に入る」のであって、建物から「出る」のではない。一人称視点であることを忘れているのではないか。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(3)

《「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一。俺は根っからの意気地なしさ。あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」
「その通り。いい料簡だ。いっしょにご挨拶に出かけようぜ。俺はただ、女がお前に話していないことを知りたいだけだ。もしお前の言ったとおりだったらそれでよし。探偵に金をせがんでどこへなりと消えな。恨みっこなしだぜ」
「ああ」ハリー・ジョーンズは言った。「恨みっこなしだ。カニーノ」
「けっこうだ。一杯やろう。グラスはあるのか?」唸り声は今では劇場の案内係の睫のように空々しく西瓜の種のようにつかみどころがなくなった。抽斗が開けられた。何かが木にぶつかる音がした。椅子が軋り、床をこする音がした。「こいつは上物の酒だ」唸り声が言った。酒の注がれる音がした。「さあ乾杯といこうじゃないか」
 ハリー・ジョーンズが静かに言った。「成功に」
 急激にせき込む音が聞こえた。それから激しい嘔吐。ごつん、と厚手のグラスが床に落ちたような小さな音がした。私の指はレインコートを握りしめた。
 唸り声が優しく言った「たった一杯で吐く手はないだろう、なあ相棒?」
 ハリー・ジョーンズは答えなかった。少しの間、苦しい息遣いがあった。それから深い沈黙に包まれた。その後で椅子が軋った。
「さようなら、坊や」カニーノ氏が言った。
 足音、かちりという音、足もとの楔形の光が消えた。ドアが開き、静かに閉まった。足音が消えていった。ゆっくりと落ち着き払って。
 私は体を動かしてドアの縁まで行き、大きく開いて、窓からの薄明かりを頼りに暗闇の中をのぞき込んだ。机の角が微かに光っていた。椅子の後ろに背中を丸めた姿が浮かび上がった。閉ざされた空気には重苦しい、香水のような匂いがした。私は廊下に通じるドアまで行って耳を澄ました。遠くでエレベーターの金属と金属が擦れ合う音が聞こえた。
 私は明かりのスイッチを探しあてた。天井から三本の真鍮の鎖で吊るされた埃っぽいガラスのボウルに明かりがついた。ハリー・ジョーンズは机越しに私を見ていた。眼を大きく見開き、顔は激しい痙攣で凍りつき、皮膚は青みがかっていた。小さな黒髪の頭は片側に傾いていた。椅子に背をもたせて真っ直ぐ座っていた。
 路面電車が鳴らすベルの音が遥か彼方から無数の壁に打ち当たって響いてきた。蓋の開いたウィスキーの褐色の半パイント瓶が机の上にあった。ハリー・ジョーンズのグラスが机のキャスターのそばで光っていた。もうひとつのグラスはなくなっていた。
 私は肺の上の方で浅い呼吸をしながら、瓶の上に身をかがめた。バーボンの香ばしい薫りの陰に微かに他の臭いが潜んでいた。ビター・アーモンドの匂いだ。ハリー・ジョーンズは自分のコートの上に嘔吐して死んでいた。青酸カリだろう。
 私は用心深く死体のまわりを歩いて、窓の木枠に吊るされていた電話帳を持ち上げ、そしてまた元に戻した。電話機に手を伸ばして、小さな死者からできるだけ離れたところに引き寄せた。番号案内のダイヤルを回した。声が答えた。
「コート・ストリート二八番地、アパートメント三〇一の番号を知りたいんだが」
「少々お待ちください」声は甘酸っぱいアーモンド臭に運ばれてやってきた。沈黙。「番号はウェントワース二五二八。グレンダウアー・アパートメント名義で記載されています」
 私は声に礼を言って、その番号を回した。ベルが三回鳴った。それからつながった。電話口からラジオの大きな音が聞こえたが、小さくなった。ぶっきらぼうな男の声が言った。「もしもし」
「そこにアグネスはいますか?」
「いや、ここにアグネスはいない、あんた、何番にかけてるんだ?」
「ウェントワース二五二八」
「番号は正解。女がまちがい。残念でした」甲高い笑い声だった。》

「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一」は<She's in an apartment house at Court Street, up on Bunker Hill. Apartment 301.>。双葉氏は「バンカー・ヒルの上のコート通り二八番地のアパートだ。三〇一号アパートだ」と訳している。アメリカでは集合住宅を<apartment house>と呼び、その中の一世帯を<apartment>と呼ぶ。つまり< Apartment 301>は、三〇一号室を指す。因みに<up on>の後に数字が来ると「~番街に」という意味になる。バンカー・ヒルは区画の名だから、「バンカー・ヒルの上の」はおかしい。

「あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」は<Why should I front for that twist?>。双葉氏は「だが、蜂の巣にされてまであの女に義理立てするて(傍点一字)はないだろう?」。村上氏は「しかしそんな面倒に巻き込まれるのはごめんだよ」と意訳している。<front for~>は「~の(不法な行為をごまかす)隠れ蓑となる」という意味。<twist>は「(ふしだらな)女」を表す俗語。

「俺はただ、女がお前に話していないことを知りたいだけだ」は<All I want is to find out is she dummying up on you, kid.>。<dummy up>とは「口を利かない、押し黙る」という意味だが、双葉氏は「女がどれくらいおめえに首ったけだか見せてもらうだけの話さ」と訳している。「首ったけ」という訳語がどこから来たのかは分からないが誤訳だろう。村上氏は「俺が知りたいのは、女がお前に隠し事をしていないか、それだけだ」と訳している。

「恨みっこなしだぜ」は<No hard feelings?>。次の行の「恨みっこなしだ」も同じ。双葉氏は「悪く思うなよ」、「思わねえよ」。村上氏は「それで文句はあるまいな?」、「文句はないよ」だ。会話の最後にくっつけて、悪気のないことを双方で確認する場合によく使われる言葉だが、訊いた方には疑問符がついている。これを同じ言葉で返した方には疑問符はつかない。双方同じ文句にするには「恨みっこなしだ」が、お誂え向きだと思う。

「こいつは上物の酒だ」は<This is bond stuff>。双葉氏は「こいつぁ保税倉庫に入ってた奴だぜ」と訳している。<bond>は「保税倉庫に入れる」の意味で、瓶詰め前に保税倉庫に4年以上入れておいたウイスキーのことを<bonded whisky>といった。おそらく熟成が進むのだろう。双葉訳が正しいのだが、注がないと分かりづらいので、村上氏も「こいつは上等な酒だぜ」と意訳している。

「酒の注がれる音がした」は<There was gurgling sound>。双葉氏は「ごくごくと喉が鳴るのがきこえた」と訳しているが、これはおかしい。そのすぐ後にカニーノが「さあ乾杯といこうじゃないか」と言っているからだ。<Moths in your ermine, as the ladies say.>というのが、カニーノの台詞だが、双葉氏はここをカットしている。乾杯の時に挙げる言葉の一種なのだろう。<ermine>はオコジョのことで、白地に小さな黒点の入った白貂の毛皮のことでもある。「貴婦人たちに倣って『あなたの毛皮の虫食いに』」とでも訳すのだろうか。アイロニカルな文句だが、そのままでは意味が通じない。村上氏も「さあ乾杯といこう」と意訳している。

「ごつん、と厚手のグラスが床に落ちたような小さな音がした」は<There was a small thud on the floor, as if a thick glass had fallen.>。<thud>は「ドシン、ドタン、バタン」のような衝撃音を表す。双葉氏は「厚いガラスがたおれるような音がきこえた」と訳しているが、厚いガラスが倒れたら小さな音ではすまないだろう。村上氏は「何かが床を打った。分厚いグラスが落ちたような音だ」と訳している。

「たった一杯で吐く手はないだろう、なあ相棒?」は<You ain’t sick from just one drink, are you, pal?>。双葉氏は「たった一杯飲んでのびるて(傍点一字)はねえぜ」。村上氏は「たった一杯で倒れる手はなかろうぜ、兄弟」だ。ただ、次の場面でマーロウが目にするハリー・ジョーンズは椅子に座ったままの姿勢でこと切れている。「のびる」も「倒れる」も適していない。この<sick>は「吐き気を催す」の意味ではないか。

「ハリー・ジョーンズのグラスが机のキャスターのそばで光っていた」は<Harry Jones’ glass glinted against a castor of the desk.>。双葉氏は「ハリー・ジョーンズのグラスひとつが光っていた」と訳しているが、これだと机の上に置かれているようにしか読めない。もしかしたら、双葉氏はハリー・ジョーンズの手からグラスが落ちたことに気づいていないのか。だから「厚いガラスがたおれるような音がきこえた」と訳したのだ。

「バーボンの香ばしい薫り」は<the charred smell of the bourbon>。バーボンは焦がしたオークの樽で熟成させるので、香ばしい薫りがする酒だ。それを村上氏のように「バーボンの炭で焦がした臭い」や、双葉氏のように「ブールボン・ウィスキーの焦げ臭いにおい」と訳されたら身も蓋もない。匂いに関しては、もう一つ気になる点がある。

「ビター・アーモンドの匂い」は<the odor of the bitter almonds.>。これを双葉氏は「苦い巴旦杏(はたんきょう)の臭い」、村上氏は「苦いアーモンドの匂い」と訳している。誤解があるようだが、基本的にシアン化物は無臭で苦いのは味の方である。バーボンに混ぜられたシアン化物からビター・アーモンドの匂いはしないはずで、これはチャンドラーのまちがいか、あるいはマーロウがハリー・ジョーンズの吐息から漂う臭いを誤認したかのどちらかだ。

われわれがふだん食べているのはスイート・アーモンドの方である。これとはちがい、ビター・アーモンドという野生種に近いアーモンドがあり、ビター・アーモンド・エッセンス、オイルの原料とするために栽培されている。中に含まれるアミグダリンという成分には苦味と毒性がある。よく言われる青酸カリのアーモンド臭とは、収穫前のビター・アーモンドの甘酸っぱい匂いのことで、シアン化物中毒者の体内で化学反応してできた青酸ガスの匂いがそれに似ているという。これを誤って吸った場合、自分も中毒する恐れがある。マーロウが死体に近寄らないのはそれを知っているからだ。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(2)

《喉を鳴らすような唸り声が今は楽し気に話していた。「その通り、自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる。それで、お前はあの探偵に会いに行った。まあ、それがおまえの失敗だ。エディはご機嫌斜めだ。探偵は、誰かが灰色のプリムスで自分をつけてる、とエディに言った。エディとしたら、当然誰が何のためにやってるのか、知りたいだろうさ」
 ハリー・ジョーンズは軽く笑った。「それがエディと何の関わりがあるんだ?」
「要らぬ世話を焼くな、ということさ」
「知っての通り、俺は探偵のところに行った。それはもう話したな。ジョー・ブロディの女のためだ。あいつは逃げたいが金がない。探偵なら金を出すと考えたのさ。俺は金を持っていないし」
 唸り声はおだやかに言った。「何のための金だ? 探偵がお前のような若造に気前よく金をはずんでくれるはずがない」
「あいつは金を工面できる。金持ち連中を知ってるからな」ハリー・ジョーンズは笑った。勇ましいちびの笑いだ。
「無駄口をたたくんじゃない、坊や」唸り声には鋭さがあった。ベアリングに混じった砂のように。
「わかった、わかった。知ってるよな、ブロディが始末された件だ。頭のイカレた小僧の仕業だった。ところが、事件が起きた晩、そのマーロウが偶々その場に居合わせたんだ」
「知れたことさ、坊や。あいつが警察に話している」
「そうだ──が、話してないこともある。ブロディは娘のヌード写真をスターンウッドに売りつけようとしていた。マーロウはそれを嗅ぎつけた。話し合いの最中にその娘がふらっと立ち寄ったのさ──銃を手にして。そしてブロディを撃った。その一発は逸れて窓ガラスを割った。探偵はそのことを警察に言わなかった。もちろんアグネスも。しゃべらなきゃ汽車賃くらいにはなると考えたのさ」
「エディとは何も関係がないというんだな?」
「あるなら聞かせてくれ」
「アグネスはどこだ?」
「何も話すことはない」
「話すんだ、坊や。ここか、それとも若いのが壁に小銭をぶつけてる裏の部屋がいいか」
「あれは今では俺の女だ、カニーノ。俺は自分の女に、誰も手出しはさせない」
 沈黙が続いた。私は雨が窓を打つ音に耳を傾けていた。煙草の薫りがドアの隙間を通って流れてきた。咳が出そうになり、ハンカチを強く噛んだ。
 唸り声が言った。まだ穏やかだった。「聞くところによると、その金髪娘はガイガーの客引きに過ぎない。エディに掛け合ってみよう。探偵からいくらふんだくったんだ?」
「二百だ」
「手に入れたのか?」
 ハリー・ジョーンズはもう一度笑った。「明日会うんだ。そう願ってるよ」
「アグネスはどこだ?」
「あのなあ──」
「アグネスはどこだ?」
 沈黙。
「これを見ろよ、坊や」
 私は動かなかった。私は銃を持っていなかった。ドアの隙間から覗かなくても銃だと分かっていた。唸り声がハリー・ジョーンズに見せようとしているもののことだ。しかし、ミスタ・カニーノがちらつかせる以上のことを銃にさせるとは思えなかった。私は待った。
「見てるよ」ハリー・ジョーンズは言った。その声はまるでやっと歯の間を通ったとでもいうようにきつく絞り出された。「目新しいものは見えないがな。やれよ、撃てばいい。それであんたは何を手に入れるんだ」
「俺はどうあれ、おまえが手に入れるのは、棺桶(シカゴ・オーバーコート)さ、坊や」
 沈黙。
「アグネスはどこだ?」
 ハリー・ジョーンズはため息をついた。「分かったよ」彼はうんざりして言った。》

「自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる」は<a guy could sit on his fanny and crab what another guy done if he knows what it's all about>。直訳すれば「もし、それについて知っているなら、そいつは他の男がすることを、自分の尻の上に座りながらできる」。双葉氏は「誰だってひと様の尻尾をにぎりゃ、うまい汁を吸いたくならあ」。村上氏は「自分じゃ腰一つ上げねえくせに、したり顔で他人の上前をはねようとするやつがいる」だ。<fanny>は「尻」。両氏とも「尻尾」、「腰」を使うことで原文を生かす工夫をしている。

「要らぬ世話を焼くな、ということさ」は<That don't get you no place>。双葉氏は「おめえが虻蜂(あぶはち)とらずになるってことよ」と訳している。村上氏は「つまらん真似をすると痛い目にあうってことさ」だ。ギャングということで、大仰な文句になっているが、< no place>を<nowhere>と置き換えると、<get you nowhere>「(人)の役に立たない、(人)に何の効果ももたらさない」という成句に突き当たる。<don't get you no place>は「無駄なことはよせ」くらいでいいのでは。

「勇ましいちびの笑い」は<a brave little laugh>。双葉氏は「なかなか勇敢な笑いだ」。村上氏は「勇気のある小さな笑いだった」と訳している。グリム童話に「勇ましいちびの仕立て屋」という話がある。それをもとにしたディズニーの短篇映画『ミッキーの巨人退治』(Brave Little Tailor)が1938年に公開されている。それの引用ではないかと思われるが、確かなことは分からない。余談だが、SF作家、トマス・M・ディッシュには『いさましいちびのトースター』(The Brave Little Toaster)という児童向け短篇があり、アニメ化もされている。

「無駄口をたたくんじゃない、坊や」は<Don’t fuss with me, little man.>。双葉氏は「おれをなめるつもりか」。村上氏は「俺を甘く見るんじゃないぜ、ちび公」だ。<fuss>は「空騒ぎ」の意味で、<Don’t fuss with me>は無駄なことで騒ぎ立てることをいましめる成句だ。特にギャングだからおどしをかけているわけではない。<little man>を両氏とも「ちび公」と訳しているが、相手に呼びかける言葉としては、ふつう「坊や」の意味。

「目新しいものは見えないがな」は<And I don’t see anything I didn’t see before.>。双葉氏は「まだ見たことがねえものは見えねえんだ」。村上氏は「前にも見たことのあるものしか見えない」。「これを見ろ」と言われても、相手が手にしているのはおなじみの銃である。「それがどうした」というのを、精一杯つっぱって、こう言ったのだろうが、分かりにくい物言いである。

「俺はどうあれ、おまえが手に入れるのは、棺桶(シカゴ・オーバーコート)さ、坊や」は<A Chicago overcoat is what get you, little man.>。双葉氏は「おれがどうなろうと、おめえは蜂の巣になるのさ。ちび公」と訳している。「おれがどうなろうと」というのは、その前のハリー・ジョーンズの<and see what it gets you>を「おめえがどういうことになるか、ためしてみな」と訳しているからだろう。

村上氏は「お前さんはシカゴのオーバーコートを手に入れるのさ(棺桶のこと)、ちび公」と小文字で注を入れている。<Chicago overcoat >というのは、シカゴのギャングの間で使われていた隠語で「棺桶」を表す言葉。<what it gets you>を文字通り「何を得るか」と読めば、こういう訳になるだろう。わざわざ「お前さんは」を前に出したのは、斜字体の<you>に配慮してのこと。