HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(3)

18-3

【訳文】

《「何だろう、このお上品な飲み方」彼女はいきなり言った。「さっさと話に入りましょう。にしてもあなた、あなたみたいな稼業にしちゃ、ずいぶん様子がいいのね」
「悪臭芬々たる仕事です」私は言った。
「そんな意味で言ったんじゃない。お金にはなるの、それとも大きなお世話かしら?」
「大して金にはなりません。悲嘆にくれることも多いが、愉快なことも少なくない。それに、いつだって大事件に出くわすチャンスが待ってる」
「人はいかにして私立探偵になるのか? 私が下す評価なんか気にしないわよね? それから、そのテーブルこっちに押してくれない? 飲み物に手が届くように」
 私は立ち上がり、大きな銀のトレイを載せた小卓を、艶やかな床を横切って彼女の側に押した。彼女は飲み物をもう二つ作った。私は二杯目を半分まで飲んだところだった。
「探偵の大半は警官あがりです」私は言った。「私はしばらく地方検事の下で働いていたんです。解雇されましたが」
 彼女は感じよく微笑んだ。「無能だったってわけではないでしょうね」
「いいえ、口ごたえのせいです。ところで、あれから電話はかかってきましたか?」 
「そうね―」彼女はアン・リオーダンの方を見て、待った。その顔つきがものを言った。
 アン・リオーダンは立ち上がった。彼女はまだいっぱい入っているグラスをトレイまで運び、そこに置いた。「人手は足りてるようですね」彼女は言った。「でも、その気になったら―お時間を頂き有難うございました、ミセス・グレイル。記事にはしないのでご安心を」
「まさか、もう帰るっていうんじゃないでしょうね」ミセス・グレイルは微笑みを浮かべて言った。
 アン・リオーダンは下唇を歯の間に挟んだまま、いっそ噛んで吐き出すか、それとももう少しそのままにしておくか、しばらく決めかねているようだった。
「申し訳ありませんが、お暇しなければなりません。私はミスタ・マーロウのために働いていません。ただの友人です。さようなら、ミセス・グレイル」
 ブロンド女はきらりと彼女に目を光らせた。「また立ち寄ってね、好きな時に」彼女はベルを二回押した。執事がやってきた。彼はドアを開けて待った。
 ミス・リオーダンは足早に出て行き、ドアが閉まった。ミセス・グレイルはしばらくの間、気のない笑みを浮かべてドアを見つめていた。「この方がいいわ、そうは思わない?」沈黙の幕間が終わると、彼女は言った。
 私は頷いた。「ただの友達のはずの彼女がどうしてそんなに知っているのか不思議に思うでしょう」私は言った。「好奇心旺盛な娘なんです。いくつかは彼女自身が掘り出してきたものです。たとえば、あなたが誰で、翡翠のネックレスの所有者が誰なのかといったことの。いくつかは偶然そこに居合わせたからです。彼女は昨夜マリオットが殺されたあの谷にやってきた。ドライブの途中、たまたま明かりを見つけそこまで下りてきたんです」
 「まあ」ミセス・グレイルは素早くグラスを傾け顔をしかめた。「考えてみれば怖ろしい。かわいそうなリン。どちらかといえばろくでなしだった。あの人の友達のほとんどはそうよ。でもあの死に方はひどすぎる」彼女は震えた。瞳は大きく暗くなった。
「そういうわけで、ミス・リオーダンについては心配ご無用。何もしゃべりません。父親が長い間ここの警察署長をやっていたんです」私は言った。
「ええ、そのことも話してくれた。あなたは飲んでないわ」
「私はこれを飲酒と呼んでいます」
「あなたと私、うまくやっていけそうね。リン・マリオットはあなたに話したの、どうやってホールドアップが起きたか?」
「ここと<トロカデロ>の間のどこか。詳しいことは話さなかった。三人か、四人組だと」
 彼女の金色に輝く頭がこくりと肯いた。「そう、変なホールドアップだった。指輪のひとつを返してくれたの。かなり高価なものを」
「それは聞きました」
「それに、私はあの翡翠は滅多にしない。世界に類を俟たない極めて珍しい翡翠だけど、はっきり言って時代遅れ。なのに、連中はそれに飛びついた。あれの値打ちが分かる輩とは思えないのだけど、そう思わない?」
「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」
 彼女は考えた。彼女が考えている姿は見ものだった。脚はまだ組んでいた。しどけなさもそのままだった。
「いろんな人がいると思う」
「でも、その晩あなたが身に着けていることは知らないはずです。それを知る者は?」
 彼女は薄青い肩をすくめてみせた。私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた。
「私のメイド。でもその気なら機会は山ほどあった。それに私は彼女のことを信じてる」
「なぜ?」
「分からない。私は人を信じるだけ。あなたのことも」
「マリオットのことも信じてましたか?」
 彼女の顔が少し険しくなり、眼に警戒の色が浮かんだ。「ある面ではノー。でも別の面ではイエス。程度によるわね」感じのいい話し方だった。クールで、半ばシニカル、それでいてドライ過ぎもしない。言葉の使い方を熟知していた。
「メイドのことは良しとしましょう。運転手はどうです?」
 彼女は首を振って否定した。「あの晩はリンが自分の車を運転してた。ジョージは見当たらなかった。木曜日じゃなかった?」
「私はそこにいなかった。マリオットが言うには四、五日前のことだと。木曜日は昨夜から数えて一週間前になります」
「そう、木曜日だった」彼女はグラスに手を伸ばし、私の指に少し触れた。柔らかな触り心地だった。「ジョージは木曜の夜は休みをとる。公休日だから」彼女は芳醇なスコッチをたっぷり一杯分私のグラスに注ぎ、炭酸水を噴出させた。いつまでも飲んでいたいと思わせる種類の酒で、そのうち、どうとでもなれと思えてくる。彼女は自分にも同じようにした。
「リンは私の名前を言った?」彼女は優しく訊いたが、眼は警戒を解いていなかった。
「慎重に避けていました」
「おそらく、それで日にちについてごまかしたのね。手札を見てみましょう。メイドと運転手は抜き。共犯者としては考えられないという意味よ」
「私ならその二枚は置いておきます」
「そうなの、でもやるだけやってみる」彼女は笑った。「それからニュートンがいる。執事。あの晩私の襟元を見ることができたかもしれない。でも翡翠は低く垂れ下がっていたし、上からホワイト・フォックスのイブニングラップを羽織っていた。無理ね、彼に見えたとは思えない」
「夢のよう眺めだったでしょうね」私は言った。
「酔いが回ったんじゃないでしょうね?」
「人より醒めてることで名が通ってるんです」
 彼女は頭を仰け反らせ、どっと笑いこけた。そんな真似をしても美しい女は、生涯で四人しか知らない。彼女はその中の一人だった。

【解説】

マーロウとミセス・グレイルのやり取りはたがいの腹の探り合い。訳す方も息を抜けないのだろう。清水氏も、いつものようにトバすことなく訳している。

「はっきり言って時代遅れ」は<After all, it's a museum piece>。清水訳は「博物館にあるようなもので」。村上訳は「だいたいが美術館向きのものなのよ」。文字通り訳せばそういうことだが、これでは、その前の「私はあの翡翠は滅多にしない」ことの理由になっていない。<museum piece>には「時代遅れ」という意味もある。いくら貴重な品でも装身具としての価値はまた別。他者が欲望するようなものでなければ身に着ける価値がない訳だ。

「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」は<They'd know you wouldn't wear it otherwise.Who knew about its value?>。清水氏は「頸飾りをつけていたことを知っていたのは、誰ですか?」と訳しているが、これはでは次の会話を先取りしてしまう。村上訳は「価値のあるものしかあなたは身につけないと知っていたんですよ。その値うちを知っていたのは誰ですか?」。

「彼女が考えている姿は見ものだった」は<It was nice to watch her thinking>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「彼女が考えるのを目にしているのは素敵だった」と、優等生的な訳だ。

「私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた」は<I tried to keep my eyes where they belonged>。清水氏は「私は彼女の脚を見つめていた」と作文している。村上氏は「私は目が飛び出さないように自制しなくてはならなかった」と一歩踏み込んで訳している。アメリカのカートゥーンでも、目が飛び出る表現は見たことがあるから、おそらくその意味なのだろう。

「彼女は自分にも同じようにした」は<She gave herself the same treatment>。村上氏は「彼女が求めているのもまさにそういう状態だった」と訳している。村上訳によれば「そういう状態」とは「飲んでいるうちになんでもあり(傍点六字)という気分になってくる」ことだ。少々考え過ぎではないだろうか。<same treatment>は「同列」という意味だ。客につくった物と同じ物をつくった、ということだろう。清水訳では「彼女は同じ飲物を自分のグラスにもつくった」だ。

「そうなの、でもやるだけやってみる」<Well, at least I'm trying>。清水訳は「私は、ただお手伝いをしているだけよ」だ。たしかに、ここでミセス・グレイルがやっているのは探偵のまねごとだ。お手伝いにはちがいない。村上訳を見てみると「かもしれないけど、少なくとも私はそう考えたいの」となっている.。村上氏は、この<try>を、自分の意見に固執することと考えているようだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(2)

18-2

【訳文】

《縞のヴェストに金ボタンの男がドアを開けた。頭を下げ、私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ。男の後ろの薄暗がりに、折り目を利かせた縞のズボンに黒い上着を着て、ウィング・カラーにグレイ・ストライプ・タイをしめた男がいた。白髪混じりの頭を半インチばかり下げて言った。「ミスタ・マーロウでいらっしゃいますね? どうぞこちらへ」
 我々は廊下を歩いた。たいそう静かな廊下だった。蠅一匹飛んでいない。床には東洋の絨毯が敷きつめられ、壁に沿って絵が並んでいた。角を曲がるとまた廊下が続いていた。フレンチ・ウィンドウの遥か彼方で青い水がきらりと光った。危ういところで思い出した。我々は太平洋の近くにいて、この家は渓谷のどこかの縁に建っていたのだ。
 執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した。快適な部屋だった。大きなチェスターフィールド・ソファと淡黄色の革張りのラウンジ・チェアが暖炉を囲むように置かれ、艶やかだが滑りにくい床に、絹のように薄く、イソップの伯母さんのように年季の入った敷物が敷いてある。きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった。壁紙はくすんだ色の羊皮紙だった。そこには安らぎ、ゆとり、心地よさがあり、極めて現代的な味わいと、かなり古風な味わいが各々ほんの少しだけ加味されていた。そして口を噤んだ三人の人物が、床を横切る私を見ていた。
 うち一人はアン・リオーダンだった。最後に見たときと変わりなかった。琥珀色した液体の入ったグラスを手にしていることを除けば。一人は背の高い痩せて陰気な顔をした男で、石のような顎に窪んだ眼をし、不健康な土気色のほかには顔に色というものがなかった。六十代は優に超えていようが、優にというより寧ろ、劣化した六十代だった。暗い色のビジネス・スーツに赤いカーネーションを挿し、塞ぎ込んでいるように見えた。
  三人目はブロンドの女で、薄い緑がかった青の外出着を着ていた。服装に特に注意は払わなかった。どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった。その服には彼女をより若く見せ、ラピス・ラズリの瞳をひときわ青く見せる効果があった。髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた。肢体はこれ以上誰にも手が出せない曲線一式を備えていた。ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい。小さいとは言えない手は良い形をしていて、よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた。マゼンタに近い赤紫だ。私に微笑みかけていた。気軽に微笑んだように見えたが、視線は外さず、まるで時間をかけ慎重に熟慮中といったところだ。口は、官能的だった。
「ようこそおいでくださいました」彼女は言った。「こちらは夫です。ミスタ・マーロウに飲み物を作ってあげて、あなた」
 グレイル氏は私と握手した。手は冷たく少しじっとりしていた。悲しげな眼だった。彼はスコッチ・アンド・ソーダを作り、私に手渡した。
 それが終わると黙って隅の椅子に腰を下ろした。私は半分ほど口をつけミス・リオーダンに笑いかけた。彼女は上の空だった。まるで別の手がかりを見つけでもしたように。
「私たちのために何かできるとお考え?」ブロンドの女はグラスの中を見下ろしながら、ゆっくり訊いた。「できるとお考えでしたら、喜んで。でも、これ以上ギャングや不愉快な連中と揉めるようなら、被害は忘れてもいいくらい」
「その辺の事情は不案内でして」私は言った。
「そこを何とか、お願いします」彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた。
 残りの半分を飲み干し、気分がほぐれかけてきた。ミセス・グレイルが革のチェスターフィールドの肘掛けにセットされたベルを押すと給仕人(フットマン)が入ってきた。彼女はトレイのあたりを適当に指さした。彼はあたりを見まわして飲物を二杯つくった。ミス・リオーダンは借りてきた猫のように同じ物を手にしたままで、ミスタ・グレイルは酒を飲まないようだ。フットマンは出て行った。
 ミセス・グレイルと私はグラスを手にした。ミセス・グレイルは少々ぞんざいなやり方で脚を組んだ。
「私に何かできるのか」私は言った。「怪しいものです。いったい何に手をつけたらいいのやら?」
「あなたなら大丈夫」彼女はまた別の微笑みを投げてよこした。「リン・マリオットは、どこまであなたに話したの?」
 彼女はミス・リオーダンの方を横目で見た。その視線にミス・リオーダンは気づかなかった。そのまま座り続けていた。彼女は別の方を横目で見た。ミセス・グレイルは夫の方を見た。「ねえ、あなたが、この件で気に病む必要があって?」
 ミスタ・グレイルは立ち上がって、お会いできて何よりでした。気分が優れないので、少し横になることをお許し願いたい、と言った。非常に礼儀正しかったので、謝意を表するために抱きかかえて部屋から出したくなったくらいだった。
 彼は去った。ドアをそっと閉めて。まるで眠っている人を起こすのを怖れてでもいるかのように。ミセス・グレイルはしばらくドアの方を見ていたが、やがて顔に微笑みを置き直しこちらを見た。
「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」
「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」
「なるほど」彼女は一口か二口啜ってからグラスの酒を一息に飲み干し、脇に置いた。》

【解説】

「私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ」は<took my hat and was through for the day>。清水氏は後半部分をカットしている。<be through for the day>は「今日の仕事は終わり」という意味だ。村上訳は「この男の仕事はそれで終わりだった」。金持ちの家では玄関扉を開け、客を迎え入れるだけのために、人ひとり雇う余裕がある、ということだろう。ワークシェアリングの一種と思えばいい。

「執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した」は<The butler reached a door and opened it against voices and stood aside and I went in>。清水氏は「執事は一つのドアを軽くノックしてから、私を部屋に通した」と訳している。ノックをすれば返事を待つ必要があるが、それのないことから考えるとノックはしていないはず。<opened it against voices>というのは、ドアが内開きだったことを指しているのではないか。

村上氏は「執事はひとつのドアに手を伸ばして開けた。中からは人々の話し声が聞こえた。執事は脇に寄って私を中に通した」と訳しているが、これだと、どちらに開いたかはよく分からない。外開きなら、執事の立ち位置はドアの陰になる。話者の視点からは見えなくなるわけで、わざわざ<stood aside>と書く必要はない。つまり、ドアは内側に開かれたのだ。それらのことが、この短い文から読み取ることができる。

「きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった」は<A jet of flowers glistened in a corner, another on a low table>。清水氏はここを「部屋の隅の低いテーブルの上に花が匂っていた」と、訳している。いちいち挙げているときりがないが、これでは省略のし過ぎというものだ。部屋に飾ってある花の数が減ってしまう。

村上氏は「漆黒の花が部屋の隅で輝き、同じものが低いテーブルの上にも置かれていた」と訳している。形容詞<jet>には「漆黒の」という意味もあるが、<a jet of~>と使われる場合は「~の噴出」の意味だ。花瓶の口からあふれるように飾られた多くの花を表現したものと思われる。

「石のような顎に窪んだ眼をし」は<with a stony chin and deep eyes>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「石のような顎と、窪んだ目」。同じところで「六十代は優に超えていようが、優というより寧ろ、劣化した六十代だった」は<He was a good sixty, or rather a bad sixty>。清水氏は<good>と<bad>の対比を無視して「おそらく、六十を越しているだろう」とあっさり訳している。村上氏は「年齢はおそらく六十代の後半。好ましい年齢の重ね方をしているとは見えない」と、意味の方を重視して訳している。

「どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった」は<They were what the guy designed for her and she would go to the right man>。清水氏は「それは男が女のために考えて、彼女はその男のところに行くのだ」と訳している。分かりづらい訳だ。村上氏は「それはどこかの人物が彼女のためにデザインしたものであり、彼女はただデザイナーの選び方がうまいだけだ」と訳している。少し訳者の主観が混じっているようだ。

「髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた」は<Her hair was of the gold of old paintings and had been fussed with just enough but not too much>。清水氏は「髪は、古い油絵の金色のような色だった」と後半をカットしている。村上氏は「髪は古い絵画の中に見られる黄金色であり、いくらかほつれていたが、良い具合のほつれ方だった」と訳している。<fuss>を辞書にある「空騒ぎ」と解釈してのことだろうが、<fuss with>は「あれこれかまう、いじる」という意味だ。

「ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい」は<The dress was rather plain except for a clasp of diamonds at the throat>。清水氏は「咽喉に、ダイヤモンドが光っていた」と訳しているが、これではネックレスのように読めてしまう。村上訳は「喉のダイアモンドの留め金を別にすれば、ドレスはどちらかというと簡素なものだ」。

「よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた」は<and the nails were the usual jarring note>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「世の常としてそれが全体の調和を損なっていた」だ。「マゼンタに近い赤紫だ」は<almost magenta>。両氏とも「深紅(色)」という色名を使っているが、マゼンタには紫が入っていて、もっと明るく鮮やかな色のはずだ。

ミス・リオーダンの態度について。「まるで別の手がかりを見つけでもしたように」は<as if she had another clue>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「何かほかのことを考えているみたいに」となっている。<clue>は、どの辞書で引いても「手がかり」と出ている。先を読まないと何とも言えないが、この時点で単なる「考え」と曖昧に訳す意図はどこにあるのだろう。

ミセス・グレイルの微笑について。「彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた」と訳した部分、原文は<She gave me a smile I could feel in my hip pocket>。清水氏は「彼女はまるで旧知の間柄のような微笑を私に見せた」と訳している。それに対して、村上氏は「彼女は私に微笑みを寄越した。尻ポケットのあたりがもぞもぞした」と訳している。

「人を思いのままに操る」という意味の慣用句に<have [get] someone in one’s (back) pocket>というのがある。<back pocket>は<hip pocket>のことだ。マーロウに向けられたミセス・グレイルの微笑は、その手のものではなかったか。< I could feel in my hip pocket>という、マーロウの印象は、自分が手玉に取られている気分にさせられたことを表している。

「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」は<Miss Riordan is in your complete confidence, of course>。清水氏の訳では「ミス・リアードンには何を聞かれても差し支えないんですのよ」となっている。<your complete confidence>とあるのだから、夫人が「何を聞かれても差し支えない」というのはおかしい。村上訳は「ミス・リアードンはあなたにとって間違いなく信頼できる人よね?」と疑問文にしている。原文に<?>はついていない。念を押しているのだろう。

「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」は<Nobody's In my complete confidence, Mrs. Grayle. She happens to know about this case-what there is to know>。清水氏はこの部分を「ぼくにわかっていることは、もう知っているんです」と前半をカットして訳している。村上訳は「私にとって間違いなく信頼できる相手など一人もいません、ミセス・グレイル。彼女はたまたまこの事件の事情を知っているというに過ぎない。少なくとも、今まで判明している限りの事情を」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(1)

18-1

【訳文】

《海に近く、大気中に海の気配が感じられるのに、目の前に海は見えなかった。アスター・ドライブはその辺りに長くなだらかなカーブを描いていた。内陸側の家もそこそこ立派な建物だったが、渓谷側には巨大な物言わぬ邸宅が建ち並んでいた。高さ十二フィートの壁、彫刻が施された錬鉄製の門扉、観賞用生垣。そして、もし中に入ることができたなら、上流階級だけのために、防音コンテナに詰められて荷揚げされた、とても静かな特別の銘柄の陽光が待っている。
 濃紺のロシア風チュニックに身を包み、フレアの入った膝丈のズボンに黒光りする革脚絆をつけた男が、半開きの門の後ろに立っていた。浅黒い顔の美青年だった。広い肩幅、輝く艶やかな髪、粋な帽子の鍔が眼の上に柔らかな影を作っていた。口の端に煙草を咥え、首を少し傾げていた。まるで煙から鼻を守るかのように。片手に滑らかな黒革の長手袋をはめ、もう一方はむき出しだった。重そうな指輪が中指に嵌められていた。
 見たところ表示はなかったが、ここが八六二番地にちがいない。車を停め、身を乗り出して男に尋ねた。返事がかえってくるのにかなり時間がかかった。相手は私を子細に検分する必要があった。それから私が運転する車も。こちらにやってくるとき、手袋をしてない手をさりげなく尻の方にまわした。注意を引きたいのが見え見えのさりげなさだった。
 車から二歩ばかり離れたところに立ち止まって、もう一度こちらを眺めまわした。
「グレイル家を探しているんだが」私は言った。
「ここがそうだ。今は留守だが」
「呼ばれているんだ」
 男はうなずいた。眼が水のようにきらめいた。
「名前は?」
フィリップ・マーロウ
「そこで待て」彼は急ぐこともなくぶらぶら門まで歩き、がっしりした柱についた鉄の門扉の鍵をあけた。中に電話があった。一言二言それに話しかけ、扉をばたんと閉め、戻ってきた。
「身分を証明するものがいる」
 ステアリング・ポストに付けた車検証を見せた。
「そんな物は何の証明にもならない」彼は言った。「これがあんたの車だとどうして分かる?」
 私はイグニッション・キーを抜き、ドアをさっと開けて外に出た。そうすることで男との距離が縮まった。その息はいい匂いがした。安く見積もってもヘイグ&ヘイグだ。
「また一杯ひっかけたな」 
 彼は微笑んだ。眼が私を値踏みしていた。私は言った。
「どうだろう、電話で執事と話をさせてくれないか? 私の声を覚えているはずだ。そこを通してくれるかな、それとも君が音を上げるまでやり合わなければいけないのか?」
「俺はただ仕事をしてるだけだ」彼はおだやかに言った。「もし、そうじゃなかったら―」後の言葉は宙に浮いたままにして、微笑み続けた。
「いい子だ」私はそう言って相手の肩を叩いた。「ダートマス出身、それともダンネモーラかな?」
「何なんだ」彼は言った。「どうして警官だって言わないんだ?」
 顔を見合わせてにやりとした。彼は手を振り、私は半分開いた門から入った。屋敷への道はカーブを描き、高い暗緑色の刈り込まれた生垣で、通りからも屋敷からも完全に遮断されていた。緑の門を抜けると日本人庭師が広い芝生で雑草をとっていた。広大な天鵞絨の中から一つかみの雑草を引き抜いていた。いかにも日本人庭師らしい薄ら笑いを浮かべながら。それから再び丈高い生け垣が視界を妨げ、百フィート以上何も見えなくなってしまった。生け垣が尽きるところは広いロータリーになっていて、車が六台停まっていた。
 うち一台は小さなクーペだった。とても素敵な最新型のツートンのビュイックが二台。郵便物を取りに行くのにお誂え向きだ。鈍いニッケル製のルーバーと自転車の車輪ほどの大きさのハブキャップがついた黒いリムジンが一台。幌を下ろした長いフェートン型スポーツもいた。短く幅の広いコンクリートでできた全天候型の車寄せが、そこから屋敷の通用口に通じていた。
 左手、駐車スペースの向こうは半地下庭園になっていて、四隅に噴水が設けられている。入り口は錬鉄製の門扉で閉ざされ、その中央にキューピッドが宙を舞っていた。細い柱の上に胸像が載り、石の椅子の両脇にグリフィンがうずくまっていた。楕円形をした石造りのプールの中にある水連の一葉に大きな石の牛蛙が座っていた。さらに遠くに薔薇の柱廊が祭壇のようなものに続いていた。祭壇の階段に沿って両側の生垣から漏れた太陽がまばらな唐草模様を描いていた。そして、左手はるか向こうは風景式庭園になっていた。さして広いものではない。廃墟を模して建てられた壁の一隅に日時計があった。そこに花が咲いていた。無数の花々が。
 屋敷そのものはそれほどでもなかった。バッキンガム宮殿よりは小さく、カリフォルニアにしては地味過ぎ、そして多分窓の数はクライスラー・ビルディングより少なかった。
 私は通用口からこっそり入り、呼び鈴を押した。どこかで一組の鐘が教会の鐘のように深く揺蕩うような響きをたてた。》

【解説】

「観賞用生垣」としたのは<ornamental hedges>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「装飾的に刈り揃えられた生け垣」である。トピアリーの一種だが、厚みのある壁状に仕立てられた生け垣と思われる。

「フレアの入った膝丈のズボン」は<flaring breeches>。清水氏はここもカット。村上訳は「ひだのついたズボン」この時代の運転手の服装らしく、他のチャンドラー作品にも登場している。膝から下に「黒光りする革脚絆」をつけている。原文は<shiny black puttees>である。清水訳は「ピカピカ光る黒い革ゲートル」。ところが、村上訳は「艶やかなブルーの巻きゲートル」となっている。チュニックの色に合わせたのか、それとも単なるまちがいか。以前にも書いたが、わざわざ<shiny>としていることからも分かるように、この<puttees>はバックル止めの革ゲートルではないかと思われる。

「粋な帽子の鍔が眼の上に柔らかな影を作っていた」は<the peak on his rakish cap made a soft shadow over his eyes>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「粋な帽子の先端が両目に柔らかな影をつくっている」だが、「帽子の先端」というのはどの部分を指すのか分かりにくい。<cap>とある以上<peak>は「つば」であることをはっきりさせたい。

「返事がかえってくるのにかなり時間がかかった」は<It took him a long time to answer>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「返事が戻ってくるまでにけっこうな時間がかかった」だ。その後の「相手は私を子細に検分する必要があった。それから私が運転する車も」のところも、清水氏は「彼は私の姿をじろじろ眺めながら」とあっさりまとめてしまっている。村上氏は「彼はその前に私を子細に点検しなくてはならなかった。それからまた私が乗っている車も」と訳している。

「眼が水のようにきらめいた」は<His eyes gleamed like water>。清水氏はここもカット。村上氏は「目が水のようにきらりと光った」と訳している。

「ステアリング・ポストに付けた車検証を見せた」は<I let him look at the license on the steering post>。清水氏は「私は自動車の免許証を見せた」と訳しているが、「免許証」なら身分証明ができそうなものだ。相手が「君の自動車じゃないかもしれない」と言ってるのだから見せたのは「車検証」だろう。村上訳は「ステアリング・コラムについている許可証を見せてやった」だ。「許可証」というのは無難な訳だが、何の許可証なのかが分からない。これなら「ライセンス」とカナ書きにするのと何も変わらない。

「また一杯ひっかけてたな」は<You've been at the sideboy again>。清水氏は「飲んでるね」と訳している。<sideboy>は酒などを入れておくサイドボードのことだ。男が酒の匂いをさせていることに対する軽いジャブだろう。ところが、村上氏は「門番仕事は楽しいかい」と訳している。兵が二列向かい合わせになって上官を迎える儀式があり、その兵のことを<sideboy>という。村上氏はこの訳をとったのかもしれない。しかし、<sideboy>には<drinks cabinet>の意味がある。酒類を入れるロウ・キャビネットのことだ。マーロウは、こちらの意味で言ったと考える方が当を得ている。

「それとも君が音を上げるまでやり合わなければいけないのか」は<do I have to ride on your back>。清水訳は「君を殴りとばしてからでなければ、入れないのかね」と、いささか乱暴な物言いだ。村上氏はといえば「それとも君の背中におぶさって行かなくちゃならないのか」と、<ride on your back>を字義通り「おんぶ」と解釈している。

実は<ride someone’s back>は「何かを達成するために、頻繁に、絶えず嫌がらせをする、悩む、または率直に言うこと」を意味するイディオムである。清水訳は「嫌がらせ」の最大級を採用して「殴りとばす」と訳したのだろう。「船乗りシンドバッドの冒険」の中に出てくる、一度とりついたら絶対背中から下りないで、相手を意のままに操る「海の老人」を思い出すと「おんぶ」の厄介さが理解できるかもしれない。

「いい子だ」は<You're a nice lad>。清水氏はここを「ぼくは探偵なんだ」と作文して、後に続く<Dartmouth or Dannemora?>を訳していない。ダートマスは大学で有名だが、ダンネモーラは凶悪犯罪者ばかりが収監されているクリントン刑務所のあるところだ。訳注なしでは分からないとみて、適当に作文したのだろう。村上氏は「まあそうつっぱるな」と訳している。言い淀んだ言葉の後に何が来ると思ったのだろう。微笑み続けているところから見て、若者が言いたかったのは「仕事でなけりゃさっさと通してるよ」ではないかと思うのだが。村上氏の解釈では「ただじゃ置かない」とでも言いそうに思える。

「郵便物を取りに行くのにお誂え向きだ」は<good enough to go for the mail in>。清水氏はここを「郵便物を入れるのに十分なほど大きい」と訳している。原文をどう読んでみても、郵便物を車の中に入れる、とは読みようがない。それにビュイックは小型車とはいえないので、皮肉にもならない。村上訳は「玄関まで郵便物を取りに行くにはうってつけだ」だ。大邸宅の私道の長さを皮肉っていると考えるべきだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第17章(2)

【訳文】

《寝具の下で女のからだは木像のように硬直した。目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で。息は止まった。
「信託証書が高額すぎてね」私は言った。「この辺りの物件の価格からいうとだが。リンゼイ・マリオットなる人物の所有になる債権だ」
 女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた。
「あの人のところで働いていたことがある」彼女はやっと言った。「あの家の使用人だったんだよ。それで、ちっとばかし面倒を見てくれてる」
 私は火のついていない煙草を口からとり、あてもなく眺め、また口に突っ込んだ。
「昨日の午後、あんたに会った数時間後、ミスタ・マリオットがオフィスに電話してきた。仕事の依頼だった」
「どんな仕事の?」声はひどく嗄れてきていた。
 私は肩をすくめた。「それは言えない。守秘義務がある。それで昨夜、会いに行った」
「如才ない男だよ、あんたは」彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした。
 私は彼女を見つめ、黙っていた。
「ずる賢いお巡りだ」彼女は嘲笑った。
 私はドア枠に置いた手を上下に動かした。ぬるぬるしていた。触るだけで風呂に入りたくなった。
「それだけだ」私は如才なく言った。「ちょっと気になった。多分何でもない。偶然の一致だろうけど。何か意味がありそうに思えてね」
「小癪なお巡りだ」彼女は虚ろな声で言った。「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」
「仰せのとおり」私は言った。「邪魔したね、ミセス・フロリアン。それはそうと、明日の朝、待ってても書留は来ないと思うよ」
 彼女は布団をはねのけ、起き上がった。眼がぎらついていた。右手で何か光った。小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ。
「吐きな」彼女は吠えた。「さっさと吐くんだ」
 私は銃の方を見た。銃も私を見ていた。構えはしっかりしていない。銃を握った手が震えはじめた。しかし、眼はまだぎらつき、唾液が口角で泡立っていた。
「あんたとなら組んで仕事ができそうだ」私は言った。
 銃と彼女の顎が同時に下がった。私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた。
「考えておいてくれ」私は後ろに呼びかけた。
 返事はなかった。何の音もしなかった。
 私は急いで廊下と食堂を通って家を出た。歩いている間も背中が落ち着かなかった。筋肉がむずむずした。
 何も起こりはしなかった。通りを歩いて自分の車に乗り込み、そこを離れた。
 三月最後の日だというのに真夏のように暑かった。運転中、上着を脱ぎたくなった。七十七丁目警察署の前で、パトロール警官が二人、曲がったフロント・フェンダーを睨んでいた。スイングドアから入ると、制服姿の警部補が手すりの後ろで事件簿を見ていた。ナルティは上にいるか訊いた。いるはずだが、知り合いか、と聞いたので、そうだと答えた。彼は、分かった、上がれ、と言い、私は古ぼけた階段を上って廊下伝いに進み、ドアをノックした。怒鳴り声が聞こえたので中に入った。
 ナルティは歯の掃除中だった。椅子に座り、足は別の椅子に預けていた。目の前に腕を伸ばして左手の親指を見ているところだった。親指は何ともなさそうに見えたが、ナルティは陰気に見つめていた、まるで治らないとでも思っているかのように。
 その手を腿まで下げ、足を振って床に下ろし、親指でなく私を見た。ダークグレーのスーツを着ていた。端に噛み跡の残る葉巻が机の上で歯の掃除が済むのを待っていた。
 椅子に結んでいないフェルトのシートカバーを裏返して座り、煙草をくわえた。
「君か」ナルティは言い、爪楊枝が充分噛まれたか検分した。
「うまくいってるか?」
「マロイのことか? もうそれに興味はない」
「どうなってるんだ?」
「どうもこうもない。あいつは逃げた。我々はテレタイプで奴の情報を送り、向こうはそれを受信した。今頃はとっくにメキシコだろうさ」
「そうだな、たかだか黒人一人殺しただけだ」私は言った。「微罪といえるだろう」
「まだ引っかかってるのか? 自分の仕事があるはずだろう?」薄青い眼がじっとりと私の顔を睨め回した。
「昨夜の仕事は長続きしなかった。あのピエロの写真、まだ持ってるか?」
 彼はデスクマットの下を探り、差し出した。相変わらずきれいだった。私はその顔に見入った。
「これは本当は私のものだ」私は言った。「ファイルする必要がないなら、自分で持っていたい」
「ファイルに入れるべきだが」ナルティは言った。「詳しいことは忘れた。オーケイ、ここだけの話だ。そういうことにしておく」
 写真を胸のポケットに入れ、立ち上がった。「じゃあな、用はそれだけだ」言い方が少しはしゃぎ過ぎだった。
「何だか匂うな」ナルティが冷たく言った。
 私は机の端に置かれた一本のロープに目をやった。ナルティは私の視線を追った。そして爪楊枝を床に投げ捨て、噛み跡のある葉巻を口にくわえた。
「これでもないな」彼は言った。
「まだはっきりしない。固まってきたら、君のことを忘れないようにするよ」
「いろいろ大変でね。チャンスが欲しいんだ」
「君のような働き者にこそ与えられてしかるべきだ」私は言った。
 ナルティは、親指の爪で擦ったマッチが一度でついたのが嬉しかったのだろう、葉巻の煙を吸い始めた。
 「笑わせてくれるよ」ナルティは悲しげに言った。私は外に出た。
 廊下は静かだった。建物全体が静まり返っていた。玄関の前ではパトロール警官がまだ曲がったフェンダーをのぞき込んでいた。私は車を走らせてハリウッドに帰った。
 オフィスに足を踏み入れると、電話のベルが鳴っていた。私は机に身を乗り出して言った。「もしもし」
フィリップ・マーロウ様でしょうか?」
「はい、マーロウですが」
「こちらはミセス・グレイルの家の者です。ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイル。ご都合がつき次第、ミセス・グレイルがここでお目にかかりたいそうです」
「お住まいはどちらですか?」
「住所は、ベイ・シティ、アスター・ドライヴ八六二です。一時間以内にお出でになれますか?」
「あなたはミスタ・グレイルですか?」
「そうではありません。執事です」
「ドアの呼び鈴が鳴ったら、それが私だ」私は言った。》

【解説】

「寝具の下で女のからだは木像のように硬直した」は<She was rigid under the bedclothes, like a wooden woman>。村上訳は「布団の中で彼女はさっと身をこわばらせた」だが、清水氏は「彼女は蒲団の上で体を硬ばらせた」と訳している。「蒲団の上」だと、次に女のとる行動に齟齬をきたす。

「目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で」は<Even her eyelids were frozen half down over the clogged iris of her eyes>。清水氏は「半ば眼蓋(まぶた)を閉じ」と短くまとめている。村上氏は「まつげまで凍りついた。それはどんよりした虹彩の上に半分降りかけたまま、固定されてしまった」と訳している。<eyelids>は「まぶた」のはずだが、村上氏はなぜ「まつげ」と訳したのかが分からない。単なるまちがいだろうか。

「女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた」は<Her eyes blinked rapidly, but nothing else moved. She stared>。清水氏は「彼女はからだを緊張させたままだった」と眼については一切触れていない。村上訳は「彼女の目は素ばやくしばたたかれた。しかしそれ以外の部分は微動だにしなかった。彼女はじっと前を睨んでいた」と、ほぼ直訳に近い。

「彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした」は<she said thickly and moved a hand under the bedclothes>。からだを「蒲団の上」に出したままにしている清水氏は「と、彼女はいまいましそうにいって、蒲団の下に手を入れた」と、ここで手だけを蒲団の下にもぐり込ませている。少し分かりやす過ぎるだろう。村上訳だと「と彼女は野太い声で言って、布団の中でもぞもぞと片手を動かした」になる。村上訳は修飾語が増える傾向にある。

「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」は<Not a real copper at that. Just a cheap shamus>。清水氏はここをカットして、前の台詞と併せて「だから嫌いだというんだよ、探偵は」と訳している。村上氏は「それも本物のお巡りですらない。ただのぺらぺらの私立探偵じゃないか」と訳している。

「小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ」は<A small revolver, a Banker's Special. It was old and worn, but looked business-like>。清水氏は「小さなピストルだった。古めかしい、汚れたピストルだった」と、拳銃の種類を明らかにしない。村上訳は「小型のリヴォルヴァーだった。バンカーズ・スペシャル、年代物でくたびれていた。しかし、用は足せそうだ」。バンカーズ・スペシャルは、有名なディテクティブ・スペシャルより銃身が短く軽いコルト社製の小型拳銃だ。

「私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた」は<I was inches from the door. While the gun was still dropping, I slid through it and beyond the opening>。清水氏は「私は少しずつドアからはなれた」と訳している。<I was inches from the door>を<by inches>(少しずつ)と読んだのだろう。村上訳は「私はドアから数センチのところにいた。銃が下に向けられているあいだに、私はドアの外に出て、弾丸の届かぬところに逃れた」だ。

「彼はデスクマットの下を探り、差し出した」は<He reached around and pawed under his blotter>。またしても<blotter>の登場である。清水氏は「彼は吸取紙の下を探って、写真を取り出した」と「吸取紙」説をとる。村上氏は「彼は手を伸ばして、下敷きの下を探った。それを掲げた」と「下敷き」説をとっている。写真を下に挟んでおくのに、何が一番ふさわしいだろう。

「言い方が少しはしゃぎ過ぎだった」は<I said, a little too airily>。清水氏はここをカットしている。村上訳では「と私は言った。私の声はいささか軽やかすぎたのだろう」となっている。

「これでもないな」は<Not this either>。この台詞は、その前の「何だか匂うな」を受けてつぶやかれている。マーロウの行動に不信感を抱き、それとなしに隠し事があるだろう、とほのめかしているのだ。マーロウの目がロープを見たのは、その言葉を文字通りとってみせたからで、ナルティも形式的にそれに追従している。<this>は、匂いのもとのことだ。清水氏も「これでもない」と訳している。

ところが、村上訳を見ると「こっちも手詰まりだ」となっている。<this>はナルティ自身を指している。では何が<not either>なのだろう? その前のマーロウの言った「昨夜の仕事は長続きしなかった」<I had a job last night, but it didn't last>を受けていると読んだのだろう。ナルティの置かれている状況を考えると、こう訳すことで話のつながりはよくなる。しかし、そうすると、その前のロープに関するやりとりが意味を持たなくなる。チャンドラーが、必要もない物を描写するとは思えない。

「笑わせてくれるよ」は<I’m laughing>。清水氏は「俺は笑ってるよ」と訳している。いかにも唐突に見えるが、第六章の「はあ? そいつは愉快だ。非番の日に思い出して笑うことにするよ」を受けての台詞であることは言うまでもない。村上氏は「笑わせるのがうまい男だ」と訳している。マロイの担当がはずれて暇を持て余しているナルティの自嘲だ。非番ではないが、何もできない今の私はせめて笑うしかない、というわけだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第17章(1)

17


【訳文】(1)

《呼び鈴を鳴らそうが、ノックをしようが、隣のドアから返事はなかった。もう一度試してみた。網戸の掛け金は外れていた。玄関ドアを試してみた。ドアの鍵は開いていた。私は中に入った。
 何も変わっていなかった、ジンの匂いすらも。床にまだ死体はなかった。昨日ミセス・フロリアンが座っていた椅子の傍のテーブルに汚れたグラスが載っていた。ラジオは消してある。ダヴェンポートに行き、クッションの後ろを探った。空き瓶に仲間が増えていた。
 呼んでみたが、返事はない。それから、うめき声のような、長くゆっくりとした惨めな息遣いが聞こえたように思った。アーチを通って小さな廊下に忍び入った。寝室のドアが少し開いていて、その後ろからうめき声が聞こえてきた。首を突っ込んで中をのぞいた。
 ミセス・フロリアンはベッドにいた。仰向けに横になり木綿の掛け布団を顎まで引いていた。掛け布団についた小さな毛玉のひとつが、今にも口の中に入りそうだ。長い黄色い顔は緩みきって、半ば死んでいた。汚れた髪は枕の上で縺れていた。眼がゆっくり開き、何の感情もなく私を見た。部屋は眠りと酒、汚れた服の臭いでむかむかした。六十九セントの目覚まし時計が、灰白色の塗料の剥げかけた衣装箪笥の上で時を刻んでいた。その上で鏡が女の歪んだ顔を映していた。写真を取り出したトランクの蓋は開けっ放しだった。
 私は言った。「こんにちは、ミセス・フロリアン。具合でも悪いのですか?」
 彼女はゆっくりと唇を動かして一方を他方とこすり合わせた。それから舌を出して両唇を湿らせ、顎を動かした。口から洩れてきた声は使い古されたレコードのようだった。その目は私のことを分かったようだが、喜んではいなかった。
「捕まえたのかい?」
「ムースのことかな?」
「そう」
「まだだ。もうすぐだと願ってるよ」
 彼女は両眼を窄め、それからぱっと開いた。まるで目にかかった膜を振り払おうとでもするように。
「家に鍵をかけておく方がいい」私は言った。「あいつが戻ってくるかも知れない」
「私が怖がってると思うのかい、ムースのことを?」
「昨日私と話しているとき、そのように見せていたじゃないか」
 彼女はそれについて考えた。考えることは骨の折れる仕事だった。「酒はあるのかい?」
「いや、今日は持ってきていない、ミセス・フロリアン。現金の持ち合わせがなくてね」
「ジンは安いよ。願ったりさ」
「少ししたら買いに行けるかもしれない。マロイのことは怖くないんだな?」
「どうして怖がらなきゃいけない?」
「分かった。あなたは怖がってなどいない。で、いったい何が怖いんだ?」
 彼女の眼に光が飛び込んできて、しばらくじっとしていたが、やがて消えていった。「帰っとくれ。あんたらお巡りときたら、全く胸くそが悪いよ」
 私は何も言わなかった。ドアの枠に寄りかかって、タバコをくわえ、鼻先につくくらい持ち上げようとした。これは見かけより難しい。
「お巡りなんかに」彼女はゆっくり言った、自分自身に言い聞かせるかのように。「あいつは捕まりっこない。腕が立つし、金もある。仲間だっている。時間の無駄遣いってものさ」
「そういう手順になってるんだ」私は言った。「いずれにしても実質的には正当防衛だ。どこへ行ったと思うね?」
 彼女はくすくす笑い、木綿の羽根布団で口を拭った。
「今度はおべっかをつかうんだ」彼女は言った。「戯言を言うもんじゃない。そんな手が通用すると思ってるのかい?」
「私はムースが好きだ」私は言った。
 彼女の眼が興味で輝いた。「あいつを知ってるのかい?」
「昨日、セントラル街で黒人を殺したとき一緒にいたんだ」
 彼女は口を大きく開け、腹をよじって笑い出した。その声はブレッドスティックを折る音より小さかった。涙が眼から溢れ頬を伝った。
「大きくて強い男」私は言った。「優しい心の持ち主でもある。ヴェルマをとても恋しがっていた」
 眼が陰った。「あの娘を探してるのは親戚だと思ってたけど」彼女は優しく言った。
「そうさ。でも、死んだと言ったじゃないか。もうどこにもいない。どこで死んだんだ?」
「ダルハート、テキサスの。風邪をこじらせて肺をやられ、逝っちまった」
「あんたもそこにいたのか?」
「まさか、聞いただけさ」
「誰に聞いたんだ。ミセス・フロリアン?」
「どこかのタップ・ダンサーさ。名前は忘れちまったよ。一杯飲めば思い出せるかもしれない。デス・ヴァレーみたいに渇き切ってるんでね」
「そして、あんたは死んだ驢馬のように見える」私はそう思ったが、口に出しては言わなかった。「もう一つだけ」私は言った。「そうしたら、ジンを買いに出かけよう。あんたの家の権利がどうなってるか調べてみた。たいした理由はないんだが」》

【解説】

「床にまだ死体はなかった」<There were still no bodies on the floor>。清水氏はここをカットしている。しゃれた文句だが、トバしてもかまわないと踏んだのだろう。村上訳は「床の上にはやはり死体は転がっていなかった」。

「それから、うめき声のような、長くゆっくりとした惨めな息遣いが聞こえたように思った」は<Then I thought I heard a long slow unhappy breathing that was half groaning>。ここを清水氏は「寝室から寝息が聞こえたような気がした」と短くまとめている。村上氏は「それから長く、ゆっくりとした、幸福とは縁遠い呼吸音が聞こえたような気がした。どちらかといえばうめきに近い代物だ」と訳している。

「木綿の掛け布団」と訳したところ、清水氏も「木綿の掛蒲団」だが、村上氏は原文の<a cotton comforter>をそのまま使い「コットンのコンフォーター」としている。たしかに、厳密にいうと「掛布団」と「コンフォーター」の間には区別があるらしい。アメリカでいう「コンフォーター」は、厚手の羽毛布団のことだ。外国暮しの経験のある村上氏にとって「コンフォーター」はなじみがあるのかもしれないが、日本ではまだまだそれほど知られていないのではないだろうか。

「部屋は眠りと酒、汚れた服の臭いでむかむかした」は<The room had a sickening smell of sleep, liquor and dirty clothes>。清水訳は「部屋には異臭が充ちていて」とあっさりしたものだ。村上訳は「部屋には、眠りと酒と不潔な衣服の匂いがこもっていた。気分が悪くなりそうだった」。

「その目は私のことを分かったようだが、喜んではいなかった」は<Her eyes showed recognition now, but not pleasure>。清水氏はここもカットしている。ここはカットするべきところではないと思うのだが。村上訳は「その目は私の姿をようやく認めたようだが、とりたてて嬉しそうには見えなかった」と、意を尽くした訳しぶりだ。

「考えることは骨の折れる仕事だった」は<Thinking was weary work>。清水氏はここもカット。村上訳は「考えるとくたびれるようだった」と、マーロウの目線で訳している。アルコール常用者が目を覚ましたばかりである。昨日と今日の区別もついていないだろう。特に異論はないが、マーロウの、というより話者の言葉と考えて訳してみた。アル中の老婆に限らず、考えることは探偵にとっても骨の折れる仕事にちがいはないからだ。

「ジンは安いよ。願ったりさ」は<Gin's cheap. It hits>。清水氏は「ジンなら、安いよ」。村上氏は「ジンなら安いし、酔いのまわりが早い」と訳している。<hit>を「打つ」と解釈して「酔いのまわりが早い」と訳したのだろう。しかし、<hit>には「目的、好みに合う」という意味もある。拙訳は後者をとった。

「彼女は口を大きく開け、腹をよじって笑い出した。その声はブレッドスティックを折る音より小さかった」は<She opened her mouth wide and laughed her head off without making any more sound than you would make cracking a breadstick>。これでもう何度目だろう、<breadstick>が登場するのは。当然のことに清水氏はそんなことに頓着せず「彼女は口を大きく開いて、ゲラゲラ笑い出した」と訳している。

村上氏は「彼女は口を開け、身体を揺すって笑ったが、実際に出てきた声は棒パンを折った程度の音だった」と律儀に訳している。ブレッドスティックは、食事のときにグラスに差して供される、細い棒状のパン。チャンドラーはこれを使った比喩がお気に入りらしく何度も使っている。「ゲラゲラ」では音が大きすぎるだろう。

「ダルハート、テキサスの」は<Dalhart, Texas>。清水訳は「テキサス州ダルハート」。村上訳は「テキサスのダラートだよ」だ。問題は<Dalhart>の読み方だ。ウィキペディアでは「ダルハ-ト」になっているが、心もとないのでブリタニカ国際地図で調べてみた。「ダルハート」と書かれていた。村上氏は何に拠って「ダラート」にしたのだろう?

<「そして、あんたは死んだ驢馬のように見える」私はそう思ったが、口に出しては言わなかった>は<“And you look like a dead mule,” I thought, but didn't say it out loud.>。例によって清水氏はここをカットしている。村上訳は<「見かけは死んだラバのようだが」と私は心の中で思ったが、もちろん声には出さなかった>だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第16章

16


【訳文】

《そのブロックは前日に見たのとそっくり同じだった。氷屋のトラックと私道の二台のフォードを除けば通りは空っぽで、角を曲がったところでは砂埃が渦を巻いていた。私は車をゆっくり走らせて一六四四番地の前を通り過ぎ、離れたところに停め、道の両側に並んだ家々に目を配った。歩いて引き返し、その家の前に立ち止まって、繁り放題の椰子の木とひからびて色褪せた芝生の端くれを見た。家は無人のように見えたが、多分ちがう。そういう見かけなのだ。揺り椅子がぽつんと玄関ポーチの昨日と同じところにあった。アプローチの上に新聞が投げ込まれていた。それを拾い上げて足をはたいた。すると、隣家のカーテンが動くのが見えた。玄関近くの窓だ。
 またあのお節介な婆さんだ。私は欠伸をし、帽子をあみだにかぶり直した。尖った鼻が窓ガラスにくっついてほとんどひしゃげて見えた。その上には白髪があって、私の立つところから見る限り、眼はただの眼だった。私は歩道をぶらぶら歩いた。眼は私を追っていた。私は踵を返し、女の家に向かった。木の階段を上り、ベルを鳴らした。
 ドアは発条仕掛けのようにバタンと開いた。兎みたいな頤をした背の高い老婆だった。近くで見る眼は静かな水面に映る光のように鋭かった。私は帽子を脱いだ。
「あなたですね、ミセス・フロリアンの件で警察に電話した女性というのは?」
 女は私を冷静に見つめ、何も見逃さなかった。おそらく私の右肩甲骨上にあるほくろさえ見透かしていたにちがいない。
「そうだとは言わないよ、若いの。そうでないともね。あんた誰なんだい?」鼻にかかった甲高い声だった。八本の共同加入線を通してしゃべるためにできているような声だ。
「探偵です」
「何だって。なぜそう言わないのさ? あの女、何かやったのかい? 何も見てないよ、一分たりとも目を離さなかったけど。ヘンリーが私の代わりに店に買い物に行ってくれるんでね。あそこからは物音ひとつ漏れてこなかった」
 女は音立てて網戸の鉤を外し、私を中に入れた。玄関ホールには家具用オイルの匂いがした。かつては上品だったと思われる暗い色調の家具がたくさん並んでいた。象嵌細工の鏡板仕上げで隅に扇形の縁飾がついている。我々は居間に入った。ピンの打てる物にはすべて綿レースの椅子カバーがピンで止められていた。
「前にも会ったことがあるね?」彼女はいきなり訊いた。声には疑いの響きが蠢いている。「まちがいない。あんたはあの時の男―」
「その通り。そして相も変わらず探偵をやってる。ヘンリーというのは?」
「ああ、私の使い走りをさせてるただの黒人の子さ。それで何がお望みだい、お若いの?」小ざっぱりした赤と白のエプロンを軽くたたくと、私に目を光らせた。そして入れ歯の具合を確かめるように二、三度かちかち鳴らして見せた。
「昨日、ミセス・フロリアンの家に来た後、役人たちはここへ寄りましたか?」
「どんな役人だい?」
「警官の制服を着た役人たちです」私は根気よく言った。
「ああ、ちょっとだけ。連中、何も知っちゃいなかった」
「大男のことを聞かせてください―銃を持った男です。あなたが電話することになった」
 女はその男のことを描写した。申し分なく的確に。マロイにちがいない。
「どんな車に乗っていました?」
「小さな車だよ。乗り込むのに苦労してた」
「他に何か覚えていませんか? その男は殺人犯なんですよ!」
 女は口をぽかんと開けたが、目は喜びに溢れた。
「驚いたね、教えてやれたらいいんだがね、若いの。車についちゃ詳しくないもんでね。殺人犯だって? この街もすっかり物騒になったもんだ。二十二年前に越してきた頃は誰もドアに鍵をかけたりしなかった。それが今じゃギャングと腐ったお廻り、それに政治家がマシンガン片手に殺し合ってるというんだから、人聞きが悪いじゃないか、ええ、若いの」
「まったく。ミセス・フロリアンについて何かご存知ですか?」
 小さな口がすぼまった。「はた迷惑な女さ。夜遅くまでラジオを鳴らしててね。歌うんだ。誰とも話はしなかった」彼女は少し身を乗り出した。「はっきりしたことは言えないけど、私の見るところ、あの女は昼間から酒を飲んでるね」
「客は多い方でしたか?」
「客なんてさっぱり来やしないよ」
「あなたはご存知のはずですよね、当然のことながら、ミセス―」
「ミセス・モリスン。ああ、知ってるよ。何かすることがあるかい、窓の外を見る他に?」
「さぞ愉快でしょうな。ミセス・フロリアンはここは長いんですか?」
「十年くらいになるかね、たしか。以前は亭主持ちだった。ろくでなしみたいに見えたがね。死んだよ」彼女は間をとって考えた。「自然死だと思うね」彼女は付け足した。「何も変わったことは聞かなかった」
「金は遺しましたか?」
 女の眼が後退し、次いで顎が従った。鼻をクンクンさせた。「あんた酒を飲んでるね」彼女は冷たく言った。
「歯を一本抜いたところでして。歯医者がくれたんです」
「賛成しかねるね」
「よくはありませんが、薬代わりですから」私は言った。
「賛成しかねるね、いくら薬だといっても」
「お説ごもっとも」私は言った。「金は遺したんですか? ご亭主は」
「よくは知らない」口の大きさはプルーンみたいで滑らかだった。私は仕損じた。
「警官が帰ったあと、誰か来ませんでしたか?」
「誰も見てないね」
「ありがとうございました、ミセス・モリスン。伺いたかったことは以上です。大変役に立ちました。ご親切に感謝します」
 私は部屋を出て、玄関のドアを開けた。彼女は後からついてきて、咳払いをし、歯をかちかちと鳴らした。
「電話は何番にかけたらいいんだね?」彼女は訊いた。少し不憫に思ったのだろう。
「ユニバーシティ四-五〇〇〇です。ナルティ警部補を呼んでください。彼女はどうやって暮らしてるんでしょう。生活保護ですか?」
「この近所には生活保護世帯はいない」彼女は冷やかに言った。
「その食器戸棚、かつてはスーフォールズ辺りで賞賛の的でしたよね」彫刻された食器棚を眺めながら私は言った。台所に置くには大きすぎてホールに置かれていた。両端が湾曲し、彫刻された細い脚を持ち、至る所に象眼細工が施され、前面に果物籠が描かれていた。
「メイソン・シティ」彼女は優しく言った。「そうなの、以前はあそこに素敵な家を持ってたの。私とジョージのね。あそこは最高だった」
 私は網戸を開けて外に出しな、もう一度礼を言った。彼女は今では微笑んでいた。その微笑みはその眼に負けず劣らず抜け目のないものだった。
「月初めに書留が届く。毎月ね」彼女は不意に言った。
 私は振り返って待った。彼女は身を乗り出した。「郵便配達が玄関のドアまで行って、彼女のサインをもらうのが見える。毎月の初日に。めかし込んでからお出かけさ。一日中帰ってこない。夜は遅くまで歌を歌うの。うるさくて何度警察に電話しようと思ったことか」
 私は痩せた意地の悪い腕を軽く叩いた。
「あなたは千人に一人の逸材だ、ミセス・モリスン」私は言った。私は帽子をかぶり、彼女に少し傾けて、そこを離れた。私道を半分ほど行ったところで思うところがあって引き返した。彼女はまだ網戸の内側に立ってこちらを見ていた。家のドアは彼女の後ろで開いたままだ。私は階段まで戻った。
「明日は一日です」私は言った。「四月一日エイプリル・フールです。書留が届くかどうか気をつけていてもらえませんか。どうでしょう、ミセス・モリスン?」
 その目が輝いてこちらを見た。彼女は笑い出した。甲高い老婦人の笑い声だ。「エイプリル・フール」彼女はくすくす笑った。「待ちぼうけを食わされることになりそうね」
 私は笑い続ける女を後にした。牝鶏がしゃっくりしているみたいな響きだった。》

【解説】

「繁り放題の椰子」は<the tough palm tree>。第五章で初登場した時は<a tough-looking palm tree>だった。清水氏はそのときも「みすぼらしい棕櫚の樹(木)」と訳している。第五章では「強面の椰子の木」と訳してみたが、<looking>が消えたので、こう訳してみた。村上氏は第五章では「強情そうな椰子の木」だったが、今回は「かたくなな椰子の木」と訳している。

「揺り椅子がぽつんと玄関ポーチの昨日と同じところにあった」は<The lonely rocker on the front porch stood just where it had stood yesterday>。清水氏はここをカットしている。第五章では「安楽椅子」と訳していたが、さすがに安楽椅子がポーチに置きっぱなしになっているのはおかしいと気づいたのだろう。村上訳では「フロントポーチには孤独な揺り椅子がひとつ、前日見かけたとおりのかっこうで置かれていた」になっている。

「帽子をあみだにかぶり直した」は<tilted my hat down>。清水氏は「帽子をかぶりなおした」と訳している。村上訳はというと「帽子をちょっと後ろに傾けた」だ。帽子を後ろに傾けることを、日本語では「あみだ(にする)」というのだが、今では死語だろうか。その前の「お節介な婆さん」<Old nosey>を清水氏が「金棒引き」と訳しているのもそうだが、こういう言葉が日に日に失われてゆくのが惜しい。今の読者に通じるかどうか、という問題はあるが、使える表現は残していきたいものだ。

「その上には白髪があって、私の立つところから見る限り、眼はただの眼だった」は<White hair above it, and eyes that were just eyes from where I stood>。清水氏は「まばたきもせずに、こちらを見つめている」と訳している。村上氏は「その上に白髪がある。こちらから見ると、目だけが浮き上がって見えた」だ。<just>をどう解釈しているのかの違いが訳に現れる。両氏とも興味津々、という解釈のようだ。ここは、マーロウが覗き屋の婆さんをどう見ているのか、ということではないか。鼻はひしゃげるほど変化しているが、見たところ、眼はそれほど変わったところはない。つまり、正常だ、というふうに。

「私は歩道をぶらぶら歩いた。眼は私を追っていた」は<I strolled along the sidewalk and the eyes watched me>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「私が歩道をゆっくり歩いていくのを、その目はじっとうかがっていた」と、訳している。微妙にちがうように思うが、問題にするほどではない。

「ドアは発条仕掛けのようにバタンと開いた」は<The door snapped open as if it had been on a spring>。清水氏は「すぐドアがあいて」と<as if it had been on a spring>をトバしている。村上訳は「ドアはバネ仕掛けみたいに勢いよく開いた」だ。

「八本の共同加入線を通してしゃべるためにできているような声だ」は<made for talking over an eight party line>。清水氏は例によってこの部分をカット。日本語にしても意味が通じるかどうかわからないと考えたのだろう。村上氏ささすがに丁寧だ。「共同加入電話で八つの回線が重なっても、支障なく会話が続けられる声だ」と、うまく説明を加えている。こういうところは村上氏の貢献度の高いところだ。

「声には疑いの響きが蠢いている」は<a note of suspicion crawling around in her voice>。清水氏はここもカット。村上訳は「彼女の声には疑念の響きが潜り込んできた」だ。<crawl>は「這い進む、うじゃうじゃいる」のような意味。

「連中、何も知っちゃいなかった」は<They didn't know nothing>。清水氏は「何も知らなかったわ」と訳している。村上氏の訳では「役立たずのとろい(傍点三字)連中だよ」となっている。ミセス・モリスンは普通なら<They didn't know anything>と言うところを二重否定にしている。一般的には二重否定は肯定の意味になるが、ここはそうではない。となると、ミセス・モリスンが正しい言い方をしなかったことを匂わせているのだろう。村上訳が下卑た口調を使っているのは、そういう意味があるのかもしれない。

「銃を持った男です。あなたが電話することになった」は<the one that had a gun and made you call up>。清水氏は後半をカットして「ピストルを持っていたという男は?」と訳している。村上訳は「銃を持っていた男です。そのことであなたは警察に電話をしたのでしょう」と、「警察」の一語を加えて話のとおりをよくしている。

「他に何か覚えていませんか」は<That's all you can say>。清水氏はここもカット。村上訳は「ほかに何かおもいだせませんか」。

「小さな口がすぼまった」は<The small mouth puckered>。会話の途中にはさまれる部分を省略することが多い清水氏はここもカットしているが、老婆の口についての言及は後に出てくるので要注意だ。村上訳は「その小さな口はぎゅっとすぼめられた」。

「女の眼が後退し、次いで顎が従った」は<Her eyes receded and her chin followed them>。清水氏はここを「彼女は顎を突き出して」と訳している。次の「鼻をピクピクさせた」に引きずられたのだろうが、<recede>は「後ろに退く」であって、前に「突き出す」ではない。村上訳は「彼女の両目は後ろに退き、顎もそれに従った」。

「口の大きさはプルーンみたいで滑らかだった。私は仕損じた」は<Her mouth was the size of a prune and as smooth. I had lost out >。清水氏は「彼女の口はすもも(傍点三字)ほどの大きさで、ぶっきらぼうだった」と訳し、その後の<I had lost out>をカットしている。村上氏は「彼女の口はスモモくらいの大きさになった。そしてスモモのようにつるりとしていた。私は信用を失ったようだ」と訳している。<smooth>を「ぶっきらぼう」と訳すのは無理がある。村上氏は形状の比喩だと取ったようだ。先ほどまで口を尖らせていたのが急におさまったことを言っている。形より、口調ではないだろうか。

「その食器戸棚、かつてはスーフォールズ辺りで賞賛の的でしたよね」は<I bet that side piece was the admiration of Sioux Falls once>。清水氏は「立派な食器棚ですね。これは値打ちもんだ」と訳している。スーフォールズはサウスダコタ州最大の都市の名。州の東端にあり、次に出てくるメイソン・シティのあるアイオワ州とは州境をはさんで隣同士。先の地名をカットしたので、清水氏は次もカットしてしまっている。村上氏は「ああいう手の込んだサイドボードは、かつてはスー・フォールズあたりで作られていたと思いますが」と訳している。大きすぎて食堂に入りきらないサイドボードというのがちょっと想像できないのだが。

「そうなの、以前はあそこに素敵な家を持ってたの。私とジョージのね。あそこは最高だった」は<Yessir, we had a nice home once, me and George. Best there was>。清水氏は「これでも、昔は相当な暮しをしていたのさ。自慢じゃないけれど……」と紋切型の台詞に改編している。村上訳は「そうだよ、あたしたちはそこに立派な家を持っていた。私とジョージとでね。町でも最高の家だったよ」だ。

「その微笑みはその眼に負けず劣らず抜け目のないものだった」は<Her smile was as sharp as her eyes>。清水氏はここをカットしている。大事なところだと思うのだが。村上訳は「その微笑みは、目つきに劣らず隙がなかった」。

「私は痩せた意地の悪い腕を軽く叩いた」は<I patted the thin malicious arm>。清水氏は「私は彼女の痩せた腕を叩いて」と<malicious>(悪意のある、意地の悪い)を訳していない。村上訳は「彼女の悪意に満ちた腕を私は軽く叩いた」だが、こちらは<thin>(痩せた、細い)をカットしている。必要のない「彼女の」はわざわざ書いているくせに。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第15章

15


【訳文】

《女の声が答えた。乾いたハスキーな声で外国なまりがあった。「アロー」
「アムサーさんとお話ししたいのだが」
「あのう、残念です。とってもすみません。アムサー電話で話すことありません。わたし秘書です。伝言をお聞きしましょう」
「そこの住所はどうなってる? 会いたいんだが」
「ああ、あなたアムサーに仕事で相談したいですか? 彼とっても喜ぶでしょう。でも、彼とっても忙しい。いつ会いたいですか?」
「今すぐに。今日のうちにでも」
「ああ」残念そうな声だった。「それ無理です。たぶん来週なら。予定表を確かめます」
「いいかい」私は言った。「予定表はいいんだ、鉛筆はあるかい?」
「もちろん鉛筆ならあります、が―」
「書き留めてくれ。名前はフィリップ・マーロウ。住所はハリウッド、カフェンガ・ビルディング六一五。ハリウッド・ブルヴァードのアイヴァー・アヴェニュー付近だ。電話番号はグレンビュー七五三七」難しい綴りを教えて、待った。
「イエス。ミースタ・マーロウ。書き留めました」
「マリオットという男のことで会いたい」これも綴りを教えた。「大至急。人の生き死にがかかっている。急いで彼に会いたい。い―そ―い―で―急いで。言い換えれば、至急。分かったかね?」
「あなたのしゃべり方、とっても変です」外国訛りの声が言った。
「大丈夫」私は電話の架台を握りしめて振った。「調子は上々だ。私はいつもこんなふうにしゃべるんだ。これはちょっと奇妙な一件でね。ミスタ・アムサーはきっと会いたがるはずだ。私は私立探偵なんだが、警察に行く前に彼に会っておきたいんだ」
「ああ」声がカフェテリアの定食のように冷たくなった。
「あなた警察のひと、ちがう」
「あのねえ」私は言った。「私は警察のひと、ちがう。私は私立探偵。内密の話。しかし、急いでるのは同じだ。君は折り返し電話する。いいか? 電話番号、持ってる?」
「シ。電話番号、持ってる。ミースター・マリオットの具合、悪い」
「まあね。ピンピンしてはいない」私は言った。「君は彼を知ってるのか?」
「いいえ。あなた、生き死にがかかっていると言った。アムサー多くの人を助けます」
「今回に限って彼の出番はない」私は言った。「電話を待ってる」
 私は電話を切り、オフィス用のボトルに手を伸ばした。肉ひき機の中を通ったような気分だった。十分が過ぎた。電話が鳴り、その声が言った。
「アムサー、六時にお会いします」
「それはよかった。住所はどこだ?」
「車を回します」
「車は持っている。教えてくれれば―」
「車を回します」声は冷たかった。電話の切れる音がした。
 もう一度時計に目をやった。昼食の時間を過ぎていた。さっきの一杯で胃が焼けていた。腹はすいていなかった。煙草に火をつけた。配管工のハンカチのような味がした。私はオフィス越しにミスタ・レンブラントにうなずき、帽子をとって外に出た。エレベーターまで半分ほど来たところで、あることに思い至った。理由も意味もなく思い浮かんだ。煉瓦が落ちてくるみたいに。私は足をとめ、大理石の壁に凭れ、帽子を引っ被り、いきなり笑い出した。
 エレベーターから降りて、仕事に戻る途中の女の子が前を通り過ぎ、振り返って一瞥をくれた。ひとの背骨をストッキングに走る伝線みたいに感じさせずにおかないその手の視線だった。私は手を振ってこたえ、オフィスに戻り、電話機をつかんだ。不動産の土地台帳を担当している知り合いに電話した。
「住所だけで所有者は見つけられるものかい?」
「もちろん。相互参照というものがあるからな。何が知りたい?」
「西五十四番街一六四四番地。所有者がどうなっているのかちょっと知りたいんだ」
「折り返し電話するよ。何番に掛ければいい?」
 およそ三分後に電話がかかってきた。
「鉛筆を用意しろ」彼は言った。「それは、メイプルウッド第四造成地、キャラディ拡張部、十一区画の八番だ。ある種の条件つきだが、記録上の所有者はジェシー・ピアース・フロリアン、未亡人となっている」
「それで、どんな条件がついてる?」
「税金下半期分、十年間道路改修公債二期分、雨水排水査定公債一期分、これも十年間、これらのどれも延滞している。それに最初の信託証書二千六百ドルも未納だ」
「つまり、通告後十分以内に売却可能ってことか?」
「そうすぐには無理だが、担保物件よりは速いだろうな。金額以外には変わったところはない。近所に比べて高額すぎるんだ。新しい家でもないくせに」
「かなり古い家で、ろくに修理もしていない」私は言った。「買うとしたら千五百ドルくらいだろう」
「これは普通じゃないな、四年前に抵当権が肩代わりされたばかりだ」
「それで、誰が持ってるんだ。どっかの投資会社か?」
「いや、個人だ。男の名前はリンゼイ・マリオット。独身。これでいいか?」
 私は忘れてしまった。何を言ったのか、何と礼を言ったのかを。何か言葉のように聞こえたはずだ。私はそこに座ってただ壁を見つめていた。
 急激に胃の調子が戻った。空腹を覚えた。私は下に降りてマンション・ハウスのコーヒーショップで昼食をとり、うちのビルディングの隣の駐車場から車を出した。
 南西に走り、西五十四番街に向かった。今回は手土産にどんな酒も用意しなかった。》 

【解説】 

電話口に出た秘書はきついなまりがある。h音を発音しなかったり、r音を巻き舌風に発音する様子が原文から分かるのだが、清水氏は特にそれを伝えようとはしていない。「アロー」の後の台詞、清水訳は「お気の毒ですけれど、アムサーは電話には出ないのです。私は彼の秘書です。ご用件をお聞きしましょう」と、流暢に話している。

村上訳では「ああ、申し訳ありません。まことにすみません。アムサーは電話では話をしないのです。わたし彼の秘書です。伝言をわたしうけたまわります」と後半少したどたどしい。因みに原文は<Ah no. I regret. I am ver-ry sor-ry. Amthor never speaks upon the telephone. I am hees secretary. Weel I take the message?>。<ver-ry sor-ry>や<hees><weel>が訛りを強調しているところだ。

こういうところをどこまで翻訳で生かすかは訳者の考え次第だろう。ただ、チャンドラーはかなりしつこく、この秘書の口調をまねている。そこは訳文でも伝えたいところだ。たとえば「ああ、あなたアムサーに仕事で相談したいですか? 彼とっても喜ぶでしょう。でも、彼とっても忙しい。いつ会いたいですか?」のところ。

原文は<Ah, you weesh to consult Amthor professionally? He weel be ver-ry pleased. But he ees ver-ry beesy. When you weesh to see him?>。清水訳は「アムサーは喜んでお会いしますけれど、とても忙しいので……。いつお会いになりたいんですの?」。村上訳は「ああ、あなたはアムサーに相談があるのですか、彼の仕事として? それはアムサーの喜びとするところです。しかし彼、とーても忙しいです。あなた、いつがご都合よろしいでしょうか」だ。苦心の作だとは思うが「とーても」は、やり過ぎではないか。

「残念そうな声だった」は<the voice regretted>。清水氏は同じ人物の「が続けて話す場合の会話と会話の間に入る<○○said>を省略することが多い。単に<she said>なら、略してもあまり変わりはないだろうが、そこに話し手の感情なり意志なりが表現されている場合、簡単にカットすべきではないと思う。村上訳は「とその声は残念そうに言った」。

「ハリウッド・ブルヴァードのアイヴァー・アヴェニュー付近だ」は<That's on Hollywood Boulevard near Ivar>。清水氏は「ハリウッド・ブールヴァードだ」と<Ivar>をカットしている。後で、迎えの車を回すという話が出てくるので、ここは詳しく書いておく必要があると思う。村上訳は「ハリウッド・ブールヴァードのアイヴァー通りの近くにある」だ。

「イエス。ミースタ・マーロウ。書き留めました」は<Yes, Meester Marlowe. I 'ave that>。清水訳は「書きましたわ、マーロウさん」と、ふつう。村上訳は「はい、ミースタ・マーロウ。書き留めました」。「イエス」と訳したのはわざと。次に出てくる「シ(スペイン語で「はい」の意味)」との類比のためだ。

「これも綴りを教えた」は<I spelled that too>。清水氏はここをカットしている。氏はその前のマーロウの台詞に続く<I spelled the hard ones and waited>をカットしているので、必然的にここもカットせざるを得ない。こういったどうでもいいような細部を大事にすることで、<Marriott>のスペルをまちがえるとアムサーに通じないだろうという、マーロウの老婆心が伝わらない。村上訳は「私はその綴りも教えた」だ。

「急いで彼に会いたい。い―そ―い―で―急いで。言い換えれば、至急。分かったかね?」は<I want to see him fast. F-a-s-t-fast. Sudden, in other words. Am I clear?>。清水氏はここもカットしている。どうも、こういう部分を煩雑だと感じて切り捨てているようだ。ハードボイルドとはいえ、ミステリなんだから、どうでもいいと思えるような些末な事実が後で効いてくることもある。勝手な省略は避けるべきだ。村上訳は「急いでミスタ・アムサーに会わなくてはならない。い・そ・い・で。わかるね。別の言葉でいえば、すぐさま(傍点四字)だ。話、通じたかな?」と丁寧に訳している。

「あなたのしゃべり方、とっても変です」は<You talk ver-ry strange>。清水氏はここを「妙なことおっしゃるのね」と訳しているが、これは誤訳と言っていいと思う。ここで秘書が変だと感じているのは、話の内容でなくマーロウのしゃべり方の方だ。会話の中でのくだくだしいやり取りを無用なものと切って捨てたために、清水氏はこの発言の意味を取り違えたのだろう。村上訳は「あなたのしゃべり方、とーても変です」だ。

「調子は上々だ。私はいつもこんなふうにしゃべるんだ」は<I feel fine. I always talk like that>。清水氏は「ちっとも妙じゃないんだ」と無理やり訳しているが誰が読んでもしゃべり方のことだと分かる。村上氏は「おかしなところはない。私はいつもこんなしゃべり方をするんだ」と、話題になっていうのがしゃべり方であることを強調している。

「帽子をとって外に出た」は<then I reached for my hat and went out>。清水氏はここを「帽子をかぶって廊下に出た」と訳している。実はこの帽子が後でもう一度出てくる。しかし、清水氏は例によってそこをカットしている。それは<and pushed my hat around on my head>の部分だが、村上訳だと「帽子をしばらく頭に馴染ませ」となっている。

<push around>は「乱暴に扱う、こき使う」の意味で、「頭に馴染ませる」というよりは、もっと乱暴な扱いをされたはず。マーロウはそれまで手にしていた帽子をここでかぶったのだろう。おそらく帽子の上からも頭を叩いたにちがいない。何か大事なことを思いついた頭に対してよくやったというように。すでに帽子をかぶらせていた清水氏は帽子の扱いに困ってここをカットした。そんなところだろう。

「ひとの背骨をストッキングに走る伝線みたいに感じさせずにおかないその手の視線だった」は<gave me one of those looks which are supposed to make your spine feel like a run in a stocking>。この背筋がぞわぞわっとする卓抜な比喩を、清水氏は「不思議そうに私を見つめた」と訳してしまう。女性のストッキングから伝線というものが消えた今となっては、是非記憶にとどめておきたい表現だろうに。村上氏は「人の背骨をストッキングの伝線のように思わせてしまうような視線だった」と、淡々と訳している。