HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

Farewell, My Lovely

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(3)

《「そこを動かないで」娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった。「あなたは誰なの?」「君の銃を見てみたい」娘は光の前に掲げて見せた。銃口は私の腹に向けられていた。小さな銃だった。コルト・ベスト・ポケットのようだ。「なんだ、それ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(2)

《車が停まっていた場所に行き、ポケットから万年筆型懐中電灯を取り出し、小さな光で地面を調べた。土壌は赤色ロームで、乾燥すると非常に固くなるが、乾上るほどの気候ではなかった。少し霧がかかっていて、地面は車の停まっていた跡を残す程度の湿気を帯…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(1)

10 《「四分」声が言った。「五分か、六分かも知れない。連中は機敏に音も立てずに動いたにちがいない。あいつは叫び声さえ上げなかった」私は目を開け、凍えた星をぼんやりと見た。私は仰向けに倒れていた。気分が悪かった。 声は言った。「もう少し長かっ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第九章(2)

《我々は渓谷の内奥の窪地に下り、それから高台に上がった。しばらくしてから、もう一度下り、そして、また上った。マリオットの緊張した声が私の耳に入った。「次の通りを右だ。四角い小塔のついた屋敷だ。その脇を回るんだ」「あんたが連中にこの場所を選…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第九章(1)

9 《家の中は静まり返っていた。遠くに聞こえる音は、岸打つ波の音か、音立ててハイウェイを駆け抜ける車の音、あるいは松の梢を揺らす風の音かも知れなかった。当然のことに海の音だった。遥か崖下で砕け散る波の音だ。私はそこに座って耳を澄ませながら長…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(4)

《男は笑った。かなり子どもっぽい笑いだったが、年端も行かない子の笑いではない。「ああ、正直に言うと、電話帳を開いてたまたま見つけたのが君の名前なんだ。元々、誰も連れていかないつもりだった。それが今日の午後、連れがいるのも悪くないと思いつい…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(3)

《「そいう苦情はよく受けます」私は言った。「が、態度を変えてもうまくいくとも思えない。この仕事について少し考えてみましょう。あなたはボディガードがほしい。しかし、銃は携行させたくない。あなたは助けがほしい。しかし、どう助ければいいか教えも…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(2)

《男の前を通り過ぎると、香水の匂いがした。男はドアを閉めた。エントランスは低いバルコニーに通じていた。大きなワンフロアの居間の三面に金属製の手すりが巡らされ、残る一面に大きな暖炉と二枚のドアがあった。暖炉には薪のはぜる音がしていた。バルコ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(1)

8 《モンテマー・ヴィスタに着いた時、光は翳りかけていたが、水面にはまだ輝くような煌きがあり、波は遥か沖合で長い滑らかな曲線を描いて砕けていた。ペリカンの群れが爆撃機のように編隊を組んで泡立つ波頭の真下を飛んでいた。一艘のヨットがベイ・シテ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第七章(2)

《ナルティは一息ついて私の言葉を待った。私には何も言うことはなかった。しばらくしてナルティはぶつぶつ話し続けた。「あんたはこれをどう思うね?」「何とも思わない。もちろんムースがそこへ行くのはありそうなことだ。フロリアン夫人とも顔見知りだっ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第七章(1)

《その年のカレンダーはレンブラントだった。印刷の色合わせの不具合から自画像はぼやけて見えた。汚れた指で絵の具塗れのパレットを持ち、お世辞にもきれいとは言えないタモシャンターをかぶっていた。片方の手は、誰かが前金を払うなら仕事にとりかからな…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第六章

6 《ナルティはまるで動いてないように見えた。仏頂面のまま辛抱強く椅子に腰かけていた。しかし、灰皿には葉巻の吸殻が二本増え、床にはマッチの燃え殻が僅かに嵩を増していた。 私は空き机に腰かけ、ナルティは机の上に伏せてあった写真を裏返して私に手…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第5章(4)

《「座るんだ」私は故意に声を荒げて言った。「あんたが相手にしているのはムース・マロイのような騙されやすい馬鹿じゃない」 空鉄砲を撃ってみたが、手応えはなかった。女は二度瞬きをし、上唇で鼻を持ち上げようとした。兎のような笑い顔に汚い歯が何本か…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第五章(3)

《そのとき、家の裏側からいろいろな種類のものがぶつかる音がした。椅子が後ろに倒れたような音、勢いあまって引き抜かれた机の抽斗が床に落ちる音。何かを手探りし、物と物がぶつかり合い、何事かぼそぼそと呟くだみ声がした。やがて、鍵の開く鈍い音がし…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第5章(2)

《「そのヴェルマっていう娘は芸人でね、歌手だった。あんたは知らないだろう? あの店に通い詰めてたとも思えないし」 海藻色の眼は瓶から離れなかった。苔が生えたように白い舌が唇に纏わりついていた。「なんとね、酒のご登場だよ」女はため息をついた。…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第五章(1)

5 《西54番街1644番地は、前にひからびた褐色の芝生のある、ひからびた褐色の家だった。こわもての椰子の木の周りの地面は広い裸地になっていた。ポーチには木製の揺り椅子がぽつんと置かれ、昼下がりの微風を受けて、刈らずに捨て置かれた去年のポイ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(2)

《私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した。彼はまじめな顔で私を見つめ、禿げ頭を振った。「サムの店も愉快で静かなところだったんだが」彼は言った。「ここ一月ほどは誰もナイフ沙汰など起こさなかったし」「八年か少なくとも六年前、…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(1)

4 《<フロリアンズ>は当然、閉まっていた。一眼で私服刑事と分かる男が、店の前に駐めた車の中で、片眼で新聞を読んでいた。私には警察がどうしてそんな手間をかけるのが分からなかった。ムース・マロイのことを知る者はこの辺には誰もいない。用心棒もバ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第三章

3 《事件を担当したのはナルティという、尖った顎をした気難しい男で、私と話している間ずっと長い黄色い手を膝頭のところで組んでいた。七十七丁目警察署に所属する警部補で、我々が話をしたのは向い合った壁に面して小さな机が二つ置かれた殺風景な部屋だ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(3)

《「どこへ行ったんだ?」ムース・マロイが訊ねた。 バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた。「あ、あっちは、モンゴメリさんのオフィスでさあ。ここのボスで。あの奥がオフィスになってます」「そい…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(2)

《我々はバーに行った。客たちは一人で、あるいは三々五々、静かな影となり、音もなくフロアを横切り、音もなく階段へと通じるドアから出て行った。芝生の上に落ちる影のようにひっそりと。スイング・ドアを揺らすことさえしなかった。 我々はバー・カウンタ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(1)

2 《階段を上りきると、また両開きのスイング・ドアが奥との間を仕切っていた。大男は親指で軽くドアを押し開け、我々は中に入った。細長い部屋で、あまり清潔とはいえず、特に明るくもなく、別に愉快なところでもなかった。部屋の隅にある円錐形の灯りが照…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第一章

「チャンドラーの長篇全冊読み比べ」は、チャンドラーの長篇を原書と新旧訳を読み比べる企画。今回は第三弾。「『さらば愛しき女よ』を読み比べる」。定評のあった清水俊二氏の旧訳に対し、村上春樹氏が新訳を発表した時、賛否両論の声が湧きあがった。それ…