HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(2)

<director's chair>をわざわざ「重役用の椅子」と訳すのは変。

【訳文】

 我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた。降りたところに厚いドアがあった。彼はドアを開け、錠を調べた。彼は微笑し、頷いて、私を通すためにドアを支えた。私は中に入り、銃をポケットにしまった。
 ドアが閉まり、我々の後ろでカチリと音を立てた。彼は言った。
「静かな夜だ。今までのところは」
 目の前には派手に飾り立てたアーチがあり、その向こうに賭博場があった。混みあってはいなかった。どこにでもある賭博場のようだった。突き当たりには短いガラスのバー・カウンターとストゥールがあった。中央に下に降りる階段があり、膨れ上がっては萎んでゆく音楽が上がってきた。ルーレット盤が回る音がした。一人の男が一人の客とフェローの勝負をしていた。部屋には六十人ほどの客がいるばかりだ。フェロー・テーブルには銀行でも始められそうな金貨証券が積まれていた。プレイヤーは初老の白髪の男だった。ディーラーに対して儀礼上の注意を払っていたが、それ以上の関心はなかった。
 ディナージャケット姿の二人の物静かな男がアーチをくぐり、ぶらぶらやってきた。周りには目を向けなかった。お待ちかねの相手だ。二人はぶらぶらとこちらに向かっていた。連れの背の低い痩せた男がそれを待っていた。彼らはアーチをくぐる前から、ポケットに手を入れた。もちろん煙草を探して。
「ここからは少し込み入った話になる」背の低い男は言った。「気にしないだろう?」
「あなたがブルネットだな」私は突然言った。
 彼は肩をすくめた。「当然だ」
「タフには見えないな」私は言った。
「そうでないことを願うよ」
 二人のディナージャケットの男は穏やかに私に近づいてきた。
「こっちだ」ブルネットは言った。「気楽に話せる」
 彼はドアを開け、私は被告席に連れ込まれた。
 その部屋は船室のようでもあり、船室のようでなかった。真鍮のランプが二つ、木でなく、多分プラスチックの暗い机の上にぶら下がっていた。部屋の奥には木目塗りの寝棚があった。低い方はベッド・メイク済みだったが、上の方には数枚のレコード・ジャケットが積まれていた。ラジオと一体型になった大きな蓄音機が隅に置かれていた。革製の大きな肘掛けソファ、赤い絨毯、灰皿スタンド、煙草とデキャンタ、グラスの載った小テーブル、寝棚の対角線にあたる隅には小さなバーがあった。
 「座ってくれ」ブルネットはそう言って、机の向こう側に回り込んだ。机の上には事務的な書類がたくさん置かれ、簿記会計機で打たれた数字がたくさん並んでいた。彼は背の高いディレクターズ・チェアに腰かけると、少し後ろに傾けて私を検分した。それからまた立ち上がり、オーバー・コートとスカーフをとって傍らに投げ、座り直した。ペンを掴んで片耳の耳朶に軽く触れた。彼は猫の微笑を浮かべたが、私は猫が好きだ。
 若くもなく年寄りでもなく、太っても痩せてもいなかった。海上か、海の傍で多くの時間を過ごしたことで健康的な顔色をしていた。髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていたが、海ではウェーブがより強く出ていた。額は狭く賢そうで、どこかしら脅すようなところのある眼は黄味を帯びていた。美しい手をしていた。個性を欠くほど手をかけてはいないが、手入れが行き届いていた。ディナー・ジャケットはミッドナイト・ブルーだろう。黒以上に黒く見えた。真珠は少し大きすぎるように思うが、やっかみかもしれない。
 彼はたっぷりと私を見てから口を開いた。「彼は銃を持っている」
 ビロードのような手触りのタフガイの一人が何かを手に私の背骨の真ん中あたりに凭れかかった。多分釣り竿ではないだろう。探るような手が銃を抜き取り、他の得物を探した。
「他には何か?」声が訪ねた。
 ブルネットは首を振った。「今はいい」
 銃使いの一人が私のオートマティックを机の上に滑らせた。ブルネットはペンを置き、レター・オープナーをつかんでデスク・パッドの上で銃を軽く弄った。
「やれやれ」彼は静かに言い、私の肩越しに視線を投げた。
「指図されなければ動けないのか?」
 取り巻きの一人が素早く外に出てドアを閉めた。もう一人はあまりに静かで、いないも同然だった。長い穏やかな静寂があった。それを破るものといっては、遠くから聞こえてくる、がやがやいう人声と深みのある音色の音楽、それとどこか下の方でするほとんど気づかないような鈍い振動音だった。 
「飲むか?」
「ありがたい」
 ゴリラのような男が小さなバーで、二つの飲み物を作った。その間、グラスを隠そうともしなかった。彼は黒いガラスの敷物の上に載せたグラスを机の両端に置いた。
「煙草は?」
「いただこう」
「エジプト煙草だが、それでいいか?」
「けっこうだ」
 我々は煙草に火をつけ、酒を飲んだ。上等のスコッチのような味だった。ゴリラは飲まなかった。
「私の用というのは―」私は話し始めた。
「申し訳ないが、その前に片づけておくことがあるだろう?」
 ソフトな猫のような微笑と気だるげに半ば閉じられた黄色い眼。

【解説】

「我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた」は<We moved Indian file across the deck. We went down brassbound slippery steps>。清水訳は「私たちは看板を横ぎり、真鍮のすべる階段を降りた」。村上訳は「我々は縦に前後になって甲板を進んだ。枠を真鍮で固めた滑りやすい階段を降りた」。

<Indian file>とは「一列縦隊」のこと。たった二人でそういうのもなんだから清水氏はカットし、村上氏はこう訳したのだろう。<brassbound>には「(家具やトランクなどの枠を)真鍮で補強した、頑丈な、壊れにくい、融通が利かない、厚かましい、図々しい」というは派生的な意味が辞書には載っている。船の階段を真鍮で作ったり、枠をわざわざ真鍮で固めたりするだろうか。

「目の前には派手に飾り立てたアーチがあり」は<There was a gilded arch in front of us>。清水訳は「私たちの眼の前に電灯で飾られた入口があって」。村上訳は「我々の正面には派手な装飾をしたアーチがあり」。<gilded>は「金メッキした、金ぴかの、うわべを飾った、裕福な」等の意味がある。暗い船内だから、電灯が灯っていても不思議ではないが、金でごてごてと飾り立てたアーチのような気がする。

「突き当たりには短いガラスのバー・カウンターとストゥールがあった」は<At the far end there was a short glass bar and some stools>。清水訳は「突き当りに小さなスタンドがあって、数脚の椅子がおいてあった」。村上訳は「突き当りにはガラスでできた短いバーがあり、スツールがいくつか置かれていた」。「ガラスでできた短いバー」というのはイメージ化が難しい。<short>というところからカウンターについての言及ではないかと考えた。

「中央に下に降りる階段があり、膨れ上がっては萎んでゆく音楽が上がってきた」は<In the middle a stairway going down and up this the music swelled and faded>。清水訳は「部屋の中央から階段が階下に通じていて、音楽が階下(した)から聞こえてきた」と<swelled and faded>をトバしている。村上訳は「中央には下に降りる階段があり、その階段を抜けて音楽が上がってきた。その音は膨らんだり、か細くなったりしていた」。

「ディーラーに対して儀礼上の注意を払っていたが、それ以上の関心はなかった」は<who looked politely attentive to the dealer, but no more>。清水訳は「親のカードの配る手をじっと見つめていた」。村上氏は「ディーラーに対して儀礼的に注意を払っていたが、特にゲームにのめりこんでいるようには見えなかった」と噛みくだいて訳している。

「ここからは少し込み入った話になる」は<From now on we have to have a little organization here>。直訳すれば「小さな組織を持つ必要がある」だが、清水訳は「この二人にも来てもらわなければならん」。村上訳は「これから先はちっと固い話になってくる」だ。両氏の訳は力点の置きどころがちがう。<organization>には「体系的思考力」という意味がある。ブルネットは状況の全体を見通す能力が必要になる、と言っているのだ。

「私は被告席に連れ込まれた」は<they took me into dock>。清水訳は「私はその部屋へ入った」。村上訳は「私は奥の部屋へ導かれた」。<dock>には船のドックの他に「被告席」の意味がある。また、<in dock>なら「入院中」の意味になる。場所が船の中ということもあり、いろいろな意味を掛け合わせているのだろう。

「真鍮のランプが二つ、木でなく、多分プラスチックの暗い机の上にぶら下がっていた」は<Two brass lamps swung in gimbels hung above a dark desk that was not wood, possibly plastic>。この<gimbels>が分からない。清水訳は例によって分からない部分はトバして、ランプについては言及していない。村上訳は「真鍮のランプが二つ、暗いデスクの上にさがって揺れていた」とやはりトバしている。

船舶用の吊りランプは船が揺れたときにぶつかって割れないように、電球のまわりに金属製の枠がついていることがある。それを言っているのではないかと思うが<gimbels>で調べてもそういう意味は見つからない。<gimbals>なら、船の羅針盤などを水平に保つ装置なので分かるのだが、わざわざランプをそんなものに入れるとも思えない。これについては保留にしておく。

「彼は背の高いディレクターズ・チェアに腰かけると」は<He sat in a tall backed director's chair>。清水訳は「彼は背の高い重役椅子に腰をおろして」。村上訳も「彼は高い背もたれがついた重役用の椅子に座り」だ。<director>には、たしかに「重役」の意味があるが<director's chair>は映画監督が使う座面等に帆布などを私用した折り畳み可能な椅子のことだ。

「髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていたが、海ではウェーブがより強く出ていた」は<His hair was nut-brown and waved naturally and waved still more at sea>。清水訳は「髪の色は胡桃(くるみ)色で、自然に波打ち」と<waved still more at sea>をカットしている。村上訳は「髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていた。海がより多くのウェーブを与えたかもしれない」。

「ビロードのような手触りのタフガイの一人が何かを手に私の背骨の真ん中あたりに凭れかかった」は<One of the velvety tough guys leaned against the middle of my spine with something>。清水訳は「一緒に部屋に入ってきた男の一人が、私の背骨のまん中にからだを押しつけた」。村上訳は「身なりはよいが中身はタフな男たちの一人が、私の背骨の真ん中あたりに何かを突きつけた」だ。

<lean against>は「もたれかかる」という意味。タフガイではあっても手荒な真似をしないで、そっと銃を突き付けている様子を描写している。背後から来た男について、マーロウは背中に触れた触覚を頼りにするしかない。両氏のように訳すと、マーロウに見えているように読めてしまう。手触りの良さを意味する「ビロードのような」<velvety>という語はぜひ使いたいところ。

「彼は黒いガラスの敷物の上に載せたグラスを机の両端に置いた」は<He placed one on each side of the desk, on black glass scooters>。清水訳は「彼はグラスを黒いガラスの皿にのせてデスクの両側においた」。村上訳は「彼はひとつをデスクのわきに置いた。ひとつを黒いガラスのテーブルの上に置いた」。

村上氏はどうしてこんな訳にしたのだろう? <on each side ~>は「~の両側に」の意味だということくらい知っているだろうに。<scooters>に戸惑ったからではないだろうか。船室の中に「スクーター」があるはずがない。ガラスでできた物といえば、前述のグラスの載った小さなテーブルしか思いつかない。それでこうなったのだろう。<scoot>には「ちょっと移動する」というような意味がある。コースターをそう呼んだのかもしれない。

<gimbels>といい、<scooters>といい、よく判らない名詞が出て来るので、ここの訳には手を焼いた。