HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第二十三章(2)

<fussy about>は「(小さなことに)こだわる」

【訳文】

 私はミセス・グレイソンを見た。手は動き続けていた。もう一ダースは靴下を繕い終えていた。グレイソンの長い骨ばった足で、靴下はすぐ傷むのだろう。
「タリーに何が起きたんです? はめられたんですか?」
「疑いの余地がない。彼の奥さんはひどく腹を立てていた。奥さんの話では、バーで警官と飲んでいて、一服盛られたようだ。道の反対側にパトカーが待っていて、彼が運転を始めると、すぐに逮捕されたらしい。その上、留置場ではお座なりの検査しか受けていない」
「それにたいした意味はありません。逮捕された後で奥さんに言ったことです。誰だってそれくらいのことは言いますよ」
「私だって警察が不正をしてるとは考えたくない」グレイソンは言った。「しかし、そういうことは現に起きているし、誰でも知っている」
 私は言った。「もし、警察がお嬢さんの死に関してうっかりミスをしていたなら、それをタリーに暴露されたくはなかったでしょう。何人かの首が飛ぶ話です。もし、警察が彼の本当の狙いが強請りだと考えたなら、彼をどう処理するかでそこまで気を揉まなくてもよさそうなものだ。タリーは今どこにいるんです? 要するに、確かな手がかりがあるとして、彼はそれを手に入れたか、追跡中で、自分が探しているものを知っていたということです」
 グレイソンは言った。「彼がどこにいるのかは知らない。刑期は半年だったが、とうの昔に終わっている」
「奥さんの方はどうしてます?」
 彼は自分の妻を見た。彼女はそっけなく言った。「ベイシティ、ウェストモア・ストリート、一六一八番地南。ユースタスと私は、彼女に少しばかりお金を送りました。一人残されて暮らしに困っていたから」
 私は住所を書き留め、椅子の背に凭れて言った。
「今朝、誰かがレイヴァリーを撃ち殺しました。彼の浴室で」
 グレイソン夫人のふっくらとした手が籠の端で動かなくなった。グレイソンはパイプを握り、口を開いて座っていた。そして、死体を目の前にしているように、軽く咳払いをした。古びた黒いパイプが、気づかないほどゆっくり動いて歯の間に戻った。
「もちろん、期待のしすぎかもしれないが」と彼は言いかけ、宙に浮いた言葉に吹きかけるように淡い煙を少し吐いて、続けた。「アルモア医師はそれに関係しているのだろうか」
「そう考えたいところです」私は言った。「だいいち、住まいが目と鼻の先だ。警察は私の依頼人の夫人が彼を撃ったと考えています。警察が彼女を見つけたら、事件は解決したようなもの。ですが、もしアルモアが絡んでいるとしたら、それはきっとお嬢さんの死に起因してるはず。だからこそ、私はそのことについて何かを見つけようとしているのです」
 グレイソンは言った。「一つの殺人を犯した者は、次の殺人を犯すことに、二五パーセント以上躊躇はしないだろう」彼はこの問題について考え抜いたかのように言った。
 私は言った。「そうかもしれません。最初の殺人の動機として何が考えられますか?」
「フローレンスは放縦だった」彼は悲しげに言った。「わがままで手に負えない娘だった。浪費家で金遣いが荒く、いつも、どうにも信用できそうにない友だちを新しく見つけてきた。大きな声でよくしゃべり、たいていは道化役を演じていた。あんな妻は、アルバート・S・アルモアのような男にとっては爆弾を抱えているようなものだ。しかし、それが最大の動機だとは思えない。そうじゃないか、レティ?」
 彼は妻を見たが、妻の方は彼を見なかった。かがり針を丸い毛糸の玉に突き刺したきり、何も言わなかった。
 グレイソンは溜め息をついて続けた。「どうやら、フローレンスは彼が診療所の看護婦とできていることを、みんなに言いふらすと脅していたようだ。彼は放っておけなかったんだろう。一つのスキャンダルは易々と別のスキャンダルにつながりかねないからね」
 私は言った。「彼はどうやって殺したんです?」
「もちろん、モルヒネだ。彼はどんな時も持ち歩いていて、いつも使っていた。モルヒネの使用に関しては専門家だった。娘が深い昏睡状態になってから、ガレージに運んで、エンジンをかけたんだ。知っての通り、検死はなかった。しかし、もし解剖されていたなら、その夜、娘が皮下注射をされていたことがわかったはずだ」
 私はうなずいた。彼は満足そうに椅子の背に凭れ、片手を頭に持って行き、それから顔を撫でるように下ろし、骨ばった膝の上に落とした。彼はこの局面についても研究を重ねてきたようだ。
 私は彼らを見た。年老いた二人が静かに座って、事件から一年半もの間、憎しみという毒を心に注ぎ続けている。アルモアがレイヴァリーを撃ったと分かれば、彼らは喜ぶことだろう。大喜びするに違いない。きっとその知らせは彼らのくるぶしまで温めてくれるだろう。
 しばらくしてから私は言った。「あなたは多くのことを信じておられる。自分がそうしたいという理由でね。彼女が自殺した可能性だってあるし、隠蔽工作は、ひとつはコンディの賭博場を守るため、もう一つは、アルモアが公聴会で質問されるのを防ぐためだったとも考えられる」
「ばかな」グレイソンは語気を荒げた。「彼が娘を殺したに決まってる。娘はベッドにいた。眠ってたんだ」
「分かりませんよ。娘さん自身が麻薬を常用していたかもしれません。麻薬に耐性ができていたのかもしれない。その場合、効果は長くは続きません。夜中に起きて、ガラスに映った自分を見て、悪魔が自分を指差しているのを見たかもしれない。そういうこともあります」
「これくらい相手をすれば、もう充分だろう」グレイソンは言った。
 私は立ち上がった。私は二人に礼を言い、ドアに向かって一ヤードほど行ってから言った。「タリーが逮捕された後、この件について何もなされなかったんですか?」
「リーチという地方検事補に会った」グレイソンは不満たらたらだった。「骨折り損だった。検事局には干渉する正当性がないという見解だ。麻薬の件にも無関心だった。しかし、コンディの店はひと月ばかり後に閉鎖された。何かのきっかけにはなったのかもしれない」
「ベイシティの警察がこっそり逃がしたんでしょう。探す気さえあれば、コンディはどこか別のところで見つかりますよ。 賭博台やらなにやら、前の店そっくりそのままで」
 私はまたドアのほうに歩きかけた。グレイソンは椅子から立ち上がり、足を引きずるように部屋を横切って私の後についてきた.。黄色い顔に赤みが差していた。
「無礼な真似をするつもりはなかった」彼は言った. 「レティと私は、この事件について、こんなふうにくよくよ思い悩むべきではないんだろう」
「お二人ともよく我慢されたと思います」私は言った。「まだ名前があがっていない、他の誰かがこの件に関わっていませんでしたか?」
 彼は頭を振って、それから妻の方を振り返った。彼女の両手は卵形のかがり用裏当ての上で修繕中の靴下を握ったまま動きをとめていた。少し首を傾げていた。耳を澄ましているようにも見えたが、私たちの話にではなかった。
 私は言った。「私が耳にした話では、アルモア医師の診療所の看護師があの夜、彼女をベッドに寝かせたそうですが、それが彼の浮気相手でしょうか?」
 ミセス・グレイソンが急に口を挟んだ。「ちょっと待って。私たちはその人に会ったことはないけど、なんだか可愛い名前でした。もう少し時間をちょうだい」
 一分ほども待ったろうか。「ミルドレッド・なんとか」彼女はそう言って歯を鳴らした。
 私ははっと息を呑んだ。「まさか、ミルドレッド・ハヴィランドじゃないでしょうね? ミセス・グレイソン?」
 彼女は明るく微笑んでうなずいた。「そうよ、ミルドレッド・ハヴィランド。覚えてるでしょ、ユースタス?」
 彼は覚えていなかった。彼はまちがった厩舎に入り込んだ馬のように我々を見た。彼はドアを開けながら言った。
「それが、何か?」
「タリーは小柄な男だって言いましたよね?」私はなおも食い下がった。「例えばの話ですが、声も態度も大きい、いかつい大男ではありませんね?」
「いいえ」ミセス・グレイソンは言った。「タリーさんは中背ともいえないくらいで、中年で茶色っぽい髪をした、とても穏やかな声で話す人でした。少し心配そうな表情をしてました。何というか、いつも心配事を抱えている人みたいな」
「その必要があったようですね」私は言った。
 グレイソンが骨ばった手を出し、私はそれを握った。タオル掛けと握手しているような気がした。
「もし彼を捕まえたら」彼はそう言ってパイプのステムを口にしっかりくわえた。「請求書を持ってまた来てくれ。もちろん、アルモアを捕まえたら、ということだよ」
 私は、アルモアのことだとわかっているが、請求書は要らないだろうと言った。
 私は静かな廊下を戻った。自動運転のエレベーターは、赤いフラシ天の絨毯が敷かれていた。年ふりた香水の匂いがした。お茶を飲む三人の寡婦といった趣きの…。

【解説】

「もし、警察が彼の本当の狙いが強請りだと考えたなら、彼をどう処理するかでそこまで気を揉まなくてもよさそうなものだ」は<If they thought what he was really after was blackmail, they wouldn't be too fussy about how they took care of him>。清水訳は「彼がねらってたのが恐喝だったと警察が考えたとしたら、警察は彼を始末するのにいろいろと騒ぎ立てなかったでしょう」。

村上訳は「でももしタリーの目的が脅迫にあるとわかれば、警察は必死になって彼をどうこうしようとまでは思いますまい」。ところが、田中訳だけは「また、タリイがドクター・アルモアをゆするタネをさがしてると警察で信じこんでいたら。あらつぽいまねもへいきでやつたにちがいない」と逆になっている。<fussy about ~>は「~を気にする、(小さなことに)こだわる」という意味で「騒ぎ立てる」や「必死になって」ということではない。

「ベイシティ、ウェストモア・ストリート、一六一八番地南」は<1618Ѕ Westmore Street, Bay City>と書かれているテクストと<1618½ Westmore Street, Bay City>となっている二通りのテクストがあるようだ。清水訳と村上訳は<1618½>のようだ。田中訳は「一六一八ノ二」としている。アメリカの住所表示は、交差する二本の通りを基準にして、数字の後に方角を示す、NEWSのうちのどれか一文字をつける。通りの名前が一つの場合、後ろに<S>があるなら、その通りは東西に延びているということだ。

「ベイシティの警察がこっそり逃がしたんでしょう」は<That was probably the Bay City cops throwing a little smoke>。清水訳は「おそらくベイ・シティの警察が少々動いたのでしょう」。田中訳は「それは、ベイ・シティの警察が、煙幕を張つてるんでしよう」。村上訳は「ベイ・シティ―の警察が多分少しばかり煙幕を張ったのでしょう」。<throw smoke>は「退屈なパーティーや会場から、さよならを言わずに気付かれずに逃げること」を表すスラング

「彼女の両手は卵形のかがり用裏当ての上で修繕中の靴下を握ったまま動きをとめていた」は<Her hands were motionless holding the current sock on the darning egg>。清水訳は「夫人の手は編みかけているソックスを持ったまま動かなかった」と<the darning egg>をトバしている。田中訳は「ミセズ・グレイスンは、かがり玉の上にべつの靴下をかぶせていたが、その手はじつと動かなかつた」。<darning egg>は「かがり縫いの時に穴に当てる、石や陶器などでできた卵形の道具」のこと、村上訳は「彼女の手は卵形のかがりもの(傍点五字)用裏当ての上に修繕中の靴下を置いたまま、じっと止まっていた」。

「私ははっと息を呑んだ」は<I took a deep breath>。清水訳は「私は息を深く吐いた」。田中訳はここをカットしている。村上訳は「私はひとつ深く呼吸をした」。<take a deep breath>を辞書で引けば「深呼吸する」と出てくる。だが、文脈から考えた場合、こういう時、息は「吐く」ものか、「呑む」ものか。あるいは、「呼吸」するものか。驚いた時などに一瞬、息を止めることを「息を呑む」という。マーロウは「ミルドレッド」の名を聞いたとき、びっくりしたはずだ。ここは「息を呑んだ」のではないだろうか。

「年ふりた香水の匂いがした。お茶を飲む三人の寡婦といった趣きの…」は<It had an elderly perfume in it, like three widows drinking tea>。清水訳は「紅茶を飲んでいる三人の未亡人のような年老いた匂いがただよっていた」。田中訳は「未亡人が三人集まつてお茶を飲んでる時のような、なんだかばあさんくさい香水のにおいがした」。村上訳は「エレベーターには古くさい香水の匂いがした。お茶を飲んでいる三人の未亡人くらい旧弊な匂いだった」。好みが分かれるところだが、章の終わりらしく決めたいところだ。