HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(3)

《「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一。俺は根っからの意気地なしさ。あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」
「その通り。いい料簡だ。いっしょにご挨拶に出かけようぜ。俺はただ、女がお前に話していないことを知りたいだけだ。もしお前の言ったとおりだったらそれでよし。探偵に金をせがんでどこへなりと消えな。恨みっこなしだぜ」
「ああ」ハリー・ジョーンズは言った。「恨みっこなしだ。カニーノ」
「けっこうだ。一杯やろう。グラスはあるのか?」唸り声は今では劇場の案内係の睫のように空々しく西瓜の種のようにつかみどころがなくなった。抽斗が開けられた。何かが木にぶつかる音がした。椅子が軋り、床をこする音がした。「こいつは上物の酒だ」唸り声が言った。酒の注がれる音がした。「さあ乾杯といこうじゃないか」
 ハリー・ジョーンズが静かに言った。「成功に」
 急激にせき込む音が聞こえた。それから激しい嘔吐。ごつん、と厚手のグラスが床に落ちたような小さな音がした。私の指はレインコートを握りしめた。
 唸り声が優しく言った「たった一杯で吐く手はないだろう、なあ相棒?」
 ハリー・ジョーンズは答えなかった。少しの間、苦しい息遣いがあった。それから深い沈黙に包まれた。その後で椅子が軋った。
「さようなら、坊や」カニーノ氏が言った。
 足音、かちりという音、足もとの楔形の光が消えた。ドアが開き、静かに閉まった。足音が消えていった。ゆっくりと落ち着き払って。
 私は体を動かしてドアの縁まで行き、大きく開いて、窓からの薄明かりを頼りに暗闇の中をのぞき込んだ。机の角が微かに光っていた。椅子の後ろに背中を丸めた姿が浮かび上がった。閉ざされた空気には重苦しい、香水のような匂いがした。私は廊下に通じるドアまで行って耳を澄ました。遠くでエレベーターの金属と金属が擦れ合う音が聞こえた。
 私は明かりのスイッチを探しあてた。天井から三本の真鍮の鎖で吊るされた埃っぽいガラスのボウルに明かりがついた。ハリー・ジョーンズは机越しに私を見ていた。眼を大きく見開き、顔は激しい痙攣で凍りつき、皮膚は青みがかっていた。小さな黒髪の頭は片側に傾いていた。椅子に背をもたせて真っ直ぐ座っていた。
 路面電車が鳴らすベルの音が遥か彼方から無数の壁に打ち当たって響いてきた。蓋の開いたウィスキーの褐色の半パイント瓶が机の上にあった。ハリー・ジョーンズのグラスが机のキャスターのそばで光っていた。もうひとつのグラスはなくなっていた。
 私は肺の上の方で浅い呼吸をしながら、瓶の上に身をかがめた。バーボンの香ばしい薫りの陰に微かに他の臭いが潜んでいた。ビター・アーモンドの匂いだ。ハリー・ジョーンズは自分のコートの上に嘔吐して死んでいた。青酸カリだろう。
 私は用心深く死体のまわりを歩いて、窓の木枠に吊るされていた電話帳を持ち上げ、そしてまた元に戻した。電話機に手を伸ばして、小さな死者からできるだけ離れたところに引き寄せた。番号案内のダイヤルを回した。声が答えた。
「コート・ストリート二八番地、アパートメント三〇一の番号を知りたいんだが」
「少々お待ちください」声は甘酸っぱいアーモンド臭に運ばれてやってきた。沈黙。「番号はウェントワース二五二八。グレンダウアー・アパートメント名義で記載されています」
 私は声に礼を言って、その番号を回した。ベルが三回鳴った。それからつながった。電話口からラジオの大きな音が聞こえたが、小さくなった。ぶっきらぼうな男の声が言った。「もしもし」
「そこにアグネスはいますか?」
「いや、ここにアグネスはいない、あんた、何番にかけてるんだ?」
「ウェントワース二五二八」
「番号は正解。女がまちがい。残念でした」甲高い笑い声だった。》

「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一」は<She's in an apartment house at Court Street, up on Bunker Hill. Apartment 301.>。双葉氏は「バンカー・ヒルの上のコート通り二八番地のアパートだ。三〇一号アパートだ」と訳している。アメリカでは集合住宅を<apartment house>と呼び、その中の一世帯を<apartment>と呼ぶ。つまり< Apartment 301>は、三〇一号室を指す。因みに<up on>の後に数字が来ると「~番街に」という意味になる。バンカー・ヒルは区画の名だから、「バンカー・ヒルの上の」はおかしい。

「あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」は<Why should I front for that twist?>。双葉氏は「だが、蜂の巣にされてまであの女に義理立てするて(傍点一字)はないだろう?」。村上氏は「しかしそんな面倒に巻き込まれるのはごめんだよ」と意訳している。<front for~>は「~の(不法な行為をごまかす)隠れ蓑となる」という意味。<twist>は「(ふしだらな)女」を表す俗語。

「俺はただ、女がお前に話していないことを知りたいだけだ」は<All I want is to find out is she dummying up on you, kid.>。<dummy up>とは「口を利かない、押し黙る」という意味だが、双葉氏は「女がどれくらいおめえに首ったけだか見せてもらうだけの話さ」と訳している。「首ったけ」という訳語がどこから来たのかは分からないが誤訳だろう。村上氏は「俺が知りたいのは、女がお前に隠し事をしていないか、それだけだ」と訳している。

「恨みっこなしだぜ」は<No hard feelings?>。次の行の「恨みっこなしだ」も同じ。双葉氏は「悪く思うなよ」、「思わねえよ」。村上氏は「それで文句はあるまいな?」、「文句はないよ」だ。会話の最後にくっつけて、悪気のないことを双方で確認する場合によく使われる言葉だが、訊いた方には疑問符がついている。これを同じ言葉で返した方には疑問符はつかない。双方同じ文句にするには「恨みっこなしだ」が、お誂え向きだと思う。

「こいつは上物の酒だ」は<This is bond stuff>。双葉氏は「こいつぁ保税倉庫に入ってた奴だぜ」と訳している。<bond>は「保税倉庫に入れる」の意味で、瓶詰め前に保税倉庫に4年以上入れておいたウイスキーのことを<bonded whisky>といった。おそらく熟成が進むのだろう。双葉訳が正しいのだが、注がないと分かりづらいので、村上氏も「こいつは上等な酒だぜ」と意訳している。

「酒の注がれる音がした」は<There was gurgling sound>。双葉氏は「ごくごくと喉が鳴るのがきこえた」と訳しているが、これはおかしい。そのすぐ後にカニーノが「さあ乾杯といこうじゃないか」と言っているからだ。<Moths in your ermine, as the ladies say.>というのが、カニーノの台詞だが、双葉氏はここをカットしている。乾杯の時に挙げる言葉の一種なのだろう。<ermine>はオコジョのことで、白地に小さな黒点の入った白貂の毛皮のことでもある。「貴婦人たちに倣って『あなたの毛皮の虫食いに』」とでも訳すのだろうか。アイロニカルな文句だが、そのままでは意味が通じない。村上氏も「さあ乾杯といこう」と意訳している。

「ごつん、と厚手のグラスが床に落ちたような小さな音がした」は<There was a small thud on the floor, as if a thick glass had fallen.>。<thud>は「ドシン、ドタン、バタン」のような衝撃音を表す。双葉氏は「厚いガラスがたおれるような音がきこえた」と訳しているが、厚いガラスが倒れたら小さな音ではすまないだろう。村上氏は「何かが床を打った。分厚いグラスが落ちたような音だ」と訳している。

「たった一杯で吐く手はないだろう、なあ相棒?」は<You ain’t sick from just one drink, are you, pal?>。双葉氏は「たった一杯飲んでのびるて(傍点一字)はねえぜ」。村上氏は「たった一杯で倒れる手はなかろうぜ、兄弟」だ。ただ、次の場面でマーロウが目にするハリー・ジョーンズは椅子に座ったままの姿勢でこと切れている。「のびる」も「倒れる」も適していない。この<sick>は「吐き気を催す」の意味ではないか。

「ハリー・ジョーンズのグラスが机のキャスターのそばで光っていた」は<Harry Jones’ glass glinted against a castor of the desk.>。双葉氏は「ハリー・ジョーンズのグラスひとつが光っていた」と訳しているが、これだと机の上に置かれているようにしか読めない。もしかしたら、双葉氏はハリー・ジョーンズの手からグラスが落ちたことに気づいていないのか。だから「厚いガラスがたおれるような音がきこえた」と訳したのだ。

「バーボンの香ばしい薫り」は<the charred smell of the bourbon>。バーボンは焦がしたオークの樽で熟成させるので、香ばしい薫りがする酒だ。それを村上氏のように「バーボンの炭で焦がした臭い」や、双葉氏のように「ブールボン・ウィスキーの焦げ臭いにおい」と訳されたら身も蓋もない。匂いに関しては、もう一つ気になる点がある。

「ビター・アーモンドの匂い」は<the odor of the bitter almonds.>。これを双葉氏は「苦い巴旦杏(はたんきょう)の臭い」、村上氏は「苦いアーモンドの匂い」と訳している。誤解があるようだが、基本的にシアン化物は無臭で苦いのは味の方である。バーボンに混ぜられたシアン化物からビター・アーモンドの匂いはしないはずで、これはチャンドラーのまちがいか、あるいはマーロウがハリー・ジョーンズの吐息から漂う臭いを誤認したかのどちらかだ。

われわれがふだん食べているのはスイート・アーモンドの方である。これとはちがい、ビター・アーモンドという野生種に近いアーモンドがあり、ビター・アーモンド・エッセンス、オイルの原料とするために栽培されている。中に含まれるアミグダリンという成分には苦味と毒性がある。よく言われる青酸カリのアーモンド臭とは、収穫前のビター・アーモンドの甘酸っぱい匂いのことで、シアン化物中毒者の体内で化学反応してできた青酸ガスの匂いがそれに似ているという。これを誤って吸った場合、自分も中毒する恐れがある。マーロウが死体に近寄らないのはそれを知っているからだ。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(2)

《喉を鳴らすような唸り声が今は楽し気に話していた。「その通り、自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる。それで、お前はあの探偵に会いに行った。まあ、それがおまえの失敗だ。エディはご機嫌斜めだ。探偵は、誰かが灰色のプリムスで自分をつけてる、とエディに言った。エディとしたら、当然誰が何のためにやってるのか、知りたいだろうさ」
 ハリー・ジョーンズは軽く笑った。「それがエディと何の関わりがあるんだ?」
「要らぬ世話を焼くな、ということさ」
「知っての通り、俺は探偵のところに行った。それはもう話したな。ジョー・ブロディの女のためだ。あいつは逃げたいが金がない。探偵なら金を出すと考えたのさ。俺は金を持っていないし」
 唸り声はおだやかに言った。「何のための金だ? 探偵がお前のような若造に気前よく金をはずんでくれるはずがない」
「あいつは金を工面できる。金持ち連中を知ってるからな」ハリー・ジョーンズは笑った。勇ましいちびの笑いだ。
「無駄口をたたくんじゃない、坊や」唸り声には鋭さがあった。ベアリングに混じった砂のように。
「わかった、わかった。知ってるよな、ブロディが始末された件だ。頭のイカレた小僧の仕業だった。ところが、事件が起きた晩、そのマーロウが偶々その場に居合わせたんだ」
「知れたことさ、坊や。あいつが警察に話している」
「そうだ──が、話してないこともある。ブロディは娘のヌード写真をスターンウッドに売りつけようとしていた。マーロウはそれを嗅ぎつけた。話し合いの最中にその娘がふらっと立ち寄ったのさ──銃を手にして。そしてブロディを撃った。その一発は逸れて窓ガラスを割った。探偵はそのことを警察に言わなかった。もちろんアグネスも。しゃべらなきゃ汽車賃くらいにはなると考えたのさ」
「エディとは何も関係がないというんだな?」
「あるなら聞かせてくれ」
「アグネスはどこだ?」
「何も話すことはない」
「話すんだ、坊や。ここか、それとも若いのが壁に小銭をぶつけてる裏の部屋がいいか」
「あれは今では俺の女だ、カニーノ。俺は自分の女に、誰も手出しはさせない」
 沈黙が続いた。私は雨が窓を打つ音に耳を傾けていた。煙草の薫りがドアの隙間を通って流れてきた。咳が出そうになり、ハンカチを強く噛んだ。
 唸り声が言った。まだ穏やかだった。「聞くところによると、その金髪娘はガイガーの客引きに過ぎない。エディに掛け合ってみよう。探偵からいくらふんだくったんだ?」
「二百だ」
「手に入れたのか?」
 ハリー・ジョーンズはもう一度笑った。「明日会うんだ。そう願ってるよ」
「アグネスはどこだ?」
「あのなあ──」
「アグネスはどこだ?」
 沈黙。
「これを見ろよ、坊や」
 私は動かなかった。私は銃を持っていなかった。ドアの隙間から覗かなくても銃だと分かっていた。唸り声がハリー・ジョーンズに見せようとしているもののことだ。しかし、ミスタ・カニーノがちらつかせる以上のことを銃にさせるとは思えなかった。私は待った。
「見てるよ」ハリー・ジョーンズは言った。その声はまるでやっと歯の間を通ったとでもいうようにきつく絞り出された。「目新しいものは見えないがな。やれよ、撃てばいい。それであんたは何を手に入れるんだ」
「俺はどうあれ、おまえが手に入れるのは、棺桶(シカゴ・オーバーコート)さ、坊や」
 沈黙。
「アグネスはどこだ?」
 ハリー・ジョーンズはため息をついた。「分かったよ」彼はうんざりして言った。》

「自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる」は<a guy could sit on his fanny and crab what another guy done if he knows what it's all about>。直訳すれば「もし、それについて知っているなら、そいつは他の男がすることを、自分の尻の上に座りながらできる」。双葉氏は「誰だってひと様の尻尾をにぎりゃ、うまい汁を吸いたくならあ」。村上氏は「自分じゃ腰一つ上げねえくせに、したり顔で他人の上前をはねようとするやつがいる」だ。<fanny>は「尻」。両氏とも「尻尾」、「腰」を使うことで原文を生かす工夫をしている。

「要らぬ世話を焼くな、ということさ」は<That don't get you no place>。双葉氏は「おめえが虻蜂(あぶはち)とらずになるってことよ」と訳している。村上氏は「つまらん真似をすると痛い目にあうってことさ」だ。ギャングということで、大仰な文句になっているが、< no place>を<nowhere>と置き換えると、<get you nowhere>「(人)の役に立たない、(人)に何の効果ももたらさない」という成句に突き当たる。<don't get you no place>は「無駄なことはよせ」くらいでいいのでは。

「勇ましいちびの笑い」は<a brave little laugh>。双葉氏は「なかなか勇敢な笑いだ」。村上氏は「勇気のある小さな笑いだった」と訳している。グリム童話に「勇ましいちびの仕立て屋」という話がある。それをもとにしたディズニーの短篇映画『ミッキーの巨人退治』(Brave Little Tailor)が1938年に公開されている。それの引用ではないかと思われるが、確かなことは分からない。余談だが、SF作家、トマス・M・ディッシュには『いさましいちびのトースター』(The Brave Little Toaster)という児童向け短篇があり、アニメ化もされている。

「無駄口をたたくんじゃない、坊や」は<Don’t fuss with me, little man.>。双葉氏は「おれをなめるつもりか」。村上氏は「俺を甘く見るんじゃないぜ、ちび公」だ。<fuss>は「空騒ぎ」の意味で、<Don’t fuss with me>は無駄なことで騒ぎ立てることをいましめる成句だ。特にギャングだからおどしをかけているわけではない。<little man>を両氏とも「ちび公」と訳しているが、相手に呼びかける言葉としては、ふつう「坊や」の意味。

「目新しいものは見えないがな」は<And I don’t see anything I didn’t see before.>。双葉氏は「まだ見たことがねえものは見えねえんだ」。村上氏は「前にも見たことのあるものしか見えない」。「これを見ろ」と言われても、相手が手にしているのはおなじみの銃である。「それがどうした」というのを、精一杯つっぱって、こう言ったのだろうが、分かりにくい物言いである。

「俺はどうあれ、おまえが手に入れるのは、棺桶(シカゴ・オーバーコート)さ、坊や」は<A Chicago overcoat is what get you, little man.>。双葉氏は「おれがどうなろうと、おめえは蜂の巣になるのさ。ちび公」と訳している。「おれがどうなろうと」というのは、その前のハリー・ジョーンズの<and see what it gets you>を「おめえがどういうことになるか、ためしてみな」と訳しているからだろう。

村上氏は「お前さんはシカゴのオーバーコートを手に入れるのさ(棺桶のこと)、ちび公」と小文字で注を入れている。<Chicago overcoat >というのは、シカゴのギャングの間で使われていた隠語で「棺桶」を表す言葉。<what it gets you>を文字通り「何を得るか」と読めば、こういう訳になるだろう。わざわざ「お前さんは」を前に出したのは、斜字体の<you>に配慮してのこと。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(1)

《雨は七時には一息ついたが、側溝には水が溢れていた。サンタモニカ通りでは歩道の高さまで水位が上がり、薄い水の幕が縁石を洗っていた。長靴から帽子まで黒光りするゴム引きに身を包んだ交通巡査が、ばしゃばしゃと水を掻き分け、雨宿りしていたびしょ濡れの日除けを出ていくところだった。フルワイダー・ビルディングの狭いロビーに入ろうとしたときゴムの踵が歩道の上で滑った。遠くに明かりがついた電灯がひとつ吊るされ、そのまだ向こうにかつては金色だったろうエレベーターのドアが開いていた。古ぼけたゴムマットの上には、色あせた吐き散らした跡の残る痰壺があった。芥子色の壁に入れ歯のケースが網戸付きポーチの中のヒューズ・ボックスみたいにぶら下っていた。私は帽子を振って雨を落とし、入れ歯ケース横のビルディングの居住者表示板を調べた。名前入りの番号もあれば名無しの番号もある。空き室が多いのか、匿名のままにしておきたい居住者が多いのだろう。無痛歯科、いかさま探偵事務所、そこで死ぬために這い寄ってきた恥知らずで吐き気を催すような商売、鉄道事務員やラジオ技術者、映画の脚本家になる方法を教えてくれる通信講座──もし郵便監察官が先に手を回していなければだが。胸が悪くなるビルディングだ。古い葉巻の吸いさしの臭いが中でいちばん清潔な香りに思える建物だ。
 エレベーターの中で年寄りがひとり居眠りしていた。今にも倒れそうな腰掛に敷かれたクッションから中身がはみ出している。口を開け、血管の浮き出たこめかみが弱い光を受けて輝いている。着ている青い制服の上衣は、馬にひと仕切りの馬房があてがわれる程度には体に合っていた。その下には裾の折り返しがすり切れた灰色のズボン、白い木綿のソックスに黒い子山羊革の靴。片方の靴は外反母趾のところに裂け目が入っていた。腰掛の上で惨めに眠りながら客を待っている。私はそっと前を通り過ぎ、建物の秘密めいた様子に促され、防火扉を探し当てて引き開けた。非常階段はここひと月は掃除されていなかった。浮浪者が寝たり食べたりしていたのだろう、パンのかけらや油じみた新聞紙の切れ端、マッチ、中身を抜かれた模造皮革の札入れが残っていた。落書きされた壁の陰になった隅には青白いゴム袋に入った避妊用リングが落ちたままになっている。とても素敵なビルディングだ。
  私は空気を嗅ごうと四階の廊下に出た。廊下には同じ汚れた痰壺と古ぼけたマット、同じ芥子色の壁、同じ衰微の記憶があった。私は廊下を真っ直ぐ突っ切って角を曲がった。暗い石目ガラスのドアの上に「L・D・ウォルグリーン──保険業」の名前の表示が、二つ目の暗いドアの上にも、明かりがついた三つ目の上にもあった。暗いドアの一つには「入り口」という表示があった。
 明かりのついたドアの上の採光窓が開いていて、そこからハリー・ジョーンズの鋭い鳥のような声が聞こえた。
カニーノ? …いやあ、たしかどこかで会ったことがあるな」
 私は凍りついた。もう一つの声がした。煉瓦の壁の向こうでまわる小型発電機のような重い唸り声だ。「そうだろうと思ってたよ」その声にはかすかに不吉な響きがあった。
 椅子がリノリウムの床をこすり、足音がして、私の上で採光窓が軋んで閉まった。人影が石目ガラスの向こうに映り込んだ。
 私は三つのうちのひとつ目、ウォルグリーンの名前のあるドアまで戻った。用心しながら開けてみた。鍵がかかっていたが、緩んだ枠との間でわずかに動く。古いドアで、当時はぴったりしていたのが半乾きの木材が年経て縮んだのだ。私は財布を出し、運転免許証入れの厚くて硬いセルロイドを抜きとった。警察が見逃している押し込みの商売道具だ。私は手袋をはめ、優しくそっとドアに体を預け、ノブを強く押して枠から離した。広がった隙間にセルロイド板を差し込み、スプリング錠の斜めになった部分を探った。小さな氷柱が折れるような乾いた音がした。私は水の中でくつろいでいる魚のようにじっと動かずにいた。中では何も起きていなかった。私はノブを廻し、暗がりの中にドアを押した。そして開けたときと同じくらい用心深く閉めた。
 明かりのついたカーテンのない長方形の窓が目の前にあり、一部を机が切り取っていた。机の上にカバーのかかったタイプライターが次第に形をとり、それから待合室の金属製のノブが見えた。こちらは鍵がかかってなかった。私は三つ続きの二つ目の部屋に入った。突然、雨が閉まった窓を激しく叩いた。その音に紛れて私は部屋を横切った。明かりのついたオフィスのドアに開いた一インチほどの隙間から光がきれいに扇状に広がっていた。何もかもがひどく都合よかった。私は炉棚の上の猫のように忍び歩きでドアの蝶番の側まで行き、隙間に目を当てたが、見えたのは木の角にあたる光だけだった。》

「サンタモニカ通りでは」は<On Santa Monica>。双葉氏は「サンタ・モニカでは」と訳しているが、これでは市の名前になってしまう。マーロウはロスアンジェルスにいるわけで、サンタモニカに行ったのではない。「雨宿りしていた」と訳したところは<the shelter>で、双葉氏は「たまり場」と訳しているが、「日除け」<awning>にはただ雨を避けるために入っていただけだ。双葉氏は「雨除け」、村上氏は「天蓋(オーニング)」だ。

「ゴムの踵」は<rubber heels>。両氏とも「靴のゴム底」と訳しているが、普通の紳士靴なら底は革でできている。踵の部分だけゴムになっている靴があるが、マーロウの靴もそれだろう。ゴム底だと<rubber sole>で、スニーカーのような運動靴を思い浮かべてしまう。ちなみに、ビートルズのアルバム『ラバーソウル』は、これに引っ掛けて<Rubber soul>とスペルを変えている。

「もし郵便監察官が先に手を回していなければだが」は<if the postal inspectors didn't catch up with them first.>。ここを双葉氏はカットしている。村上氏は「郵便局の調査官に早々に摘発されなければということだが」と訳している。<catch up with>は「~に追いつく」という意味だが、「不正を見破る(警察の手が回る)」という意味もある。

「着ている青い制服の上衣は、馬にひと仕切りの馬房があてがわれる程度には体に合っていた」は<He wore a blue uniform coat that fitted him the way a stall fits a horse.>。双葉氏は「青い制服が、厩が馬に合うみたいに、ぴったり似合っていた」と肯定的に訳している。村上氏は逆に「青い制服のコートをまとっていたが、それは、狭い馬房が馬の身体に合っているという程度にしか、身体に合っていなかった」と否定的に訳している。この章でフルワイダー・ビルディングは全否定されているわけだから、ここは皮肉と読むところ。

「片方の靴は外反母趾のところに裂け目が入っていた」は<one of which was slit across a bunion.>。双葉氏は「靴の片方は内側がはじけていた」。村上氏は「靴の片方は瘤になった親指の上で裂けていた」と<bunion>を訳していない。<bunion>は「外反母趾、腱膜瘤」のことで、この頃、耳にすることも多い。村上氏のように読みほどくことも時には必要だが、「外反母趾」くらいはそのままでいいのではないだろうか。

「建物の秘密めいた様子に促され」は<the clandestine air of the building prompting me>。ここも双葉氏はカットしている。村上氏は「私は建物自体のこそこそとした空気に後押しされるように(その前をそっと通り過ぎ)」と、語順を入れ替えている。しかし、<I went past him softly,>(私はそっと前を通り過ぎ)は、前の文の老人のイメージと結びつけられているので、間に次の場面を彩るイメージを挿むのはあまりいい方法とは思えない。

「落書きされた壁の陰になった隅には袋に入った青白いゴムの避妊用リングが落ちたままになっている。とても素敵なビルディングだ」は<In a shadowy angle against the scribbled wall a pouched ring of pale rubber had fallen and had not been disturbed. A very nice building.>。双葉氏はこの二文をまるっきり訳していない。もしかしたら見落としたか。村上訳は「落書きのある壁の陰になった角には、青白いゴムの避妊リングが落ちていた。それを片付けるものもいない。実に心温まるビルディングだ」。<a pouched ring of pale rubber >を「袋に入った青白いゴムの避妊用リング」としたのは、村上訳を参考にした。ビルの悪口を言うのに指輪や輪ゴムを使わないだろうと思ったからだ。

「暗い石目ガラスのドアの上に「L・D・ウォルグリーン──保険業」の名前の表示が、二つ目の暗いドアの上にも、明かりがついた三つ目の上にもあった」は<The name: “ L. D. Walgreen──Insurance,” showed on a dark pebbled glass door, on a second dark door, on a third behind which there was a light.>。双葉氏は「という文字が、暗い曇りガラスのドアについていた。次のドアも暗く、三番目のドアに光が見えた」と訳している。村上氏は「という名前が、暗い磨りガラスのドアの上に見えた。二つ目の暗いドアがあり、三つ目のドアには明かりがついていた」と訳している。

両氏とも、原文が一文であることに留意せず、二文に分けている。そのために、三度繰り返されている<on a>が生きてこない。これは続き部屋のオフィスの場合、同じ持ち主であることを表すために複数のドアに同じ表示を出すことを意味している。三つとも同じだから、原文では二つ目からは「石目ガラス」が抜け、三つ目からは「ドア」さえ消えているのだ。

「石目ガラス」は<pebbled glass>。双葉氏は「曇りガラス」。村上氏は「磨りガラス」としている。<pebbled>は「表面が凸凹した、小石状の」の意味だから、ガラスドアによく用いられる「石目ガラス」で、まちがいないだろう。

「暗いドアの一つには「入り口」という表示があった」は<One of the dark doors said: “Entrance. ”>。双葉氏は「二番目のドアには「入口」という文字があった」と、決めつけている。これは一番目には名前があり、三番目には明かりがついているから、てっきり二番目が入口だと勝手に考えたのだろう。三つとも同じ表示があり、先の二枚のどちらかには、その下に入口と書かれていたのだ。村上氏は「暗いドアのひとつには「入り口」と書かれていた」としている。

「警察が見逃している押し込みの商売道具だ」は<A burglar’s tool the law had forgotten to proscribe.>。村上氏は「当局がうかつにも見逃している窃盗犯の必需品だ」と訳しているが、双葉氏はここもカットしている。どうやらこの章を訳していたとき双葉氏はお疲れだったようだ。これだけ訳されてないところがあることを知れば、村上氏ならずとも、完全な訳がほしくなるのは当然だ。

『大いなる眠り』註解 第二十五章(4)

《「そのカニーノの見てくれは?」
「背は低く、がっしりした体格で茶色の髪、茶色の目、いつも茶色の服を着て茶色の帽子をかぶっている。それどころかコートまで茶色のスエードだ。茶色のクーペに乗っている。ミスタ・カニーノの何もかもが茶色なんだ」
「第二幕、といこう」私は言った。
「金がないなら、ここまでだ」
「二百ドルに見合うとは思えないんだよ。ミセス・リーガンは酒場で知り合った元酒の密売屋と結婚した。彼女は他にもその手の連中を知っている。エディ・マーズとは熟知の仲だ。もしリーガンに何かあったと思ったら彼女が真っ先に駆けつけるのはエディ・マーズのところで、カニーノはエディが仕事を任そうと選んだ男かもしれない。手札はそれだけか?」
「エディの女房の居所が分かれば二百ドル出す気になるかい?」小男は静かにきいた。
 今や全注意力は彼に注がれていた。私は身を乗り出し、危うく椅子の肘掛けを壊すところだった。
 「彼女ひとりだったとしても?」ハリー・ジョーンズは柔らかというよりは不吉な声音でつけ足した。「リーガンと駆け落ちしたんじゃなく、彼と一緒にふけたと警察に思い込ませるために、L.Aから四十マイル離れた隠れ家に身を隠していたとしても? これなら二百ドル払ってくれる気になるかい? 探偵さんよ」
 私は唇を舐めた。乾いて塩辛かった。「払うだろうな」私は言った。「どこなんだ」
「アグネスが見つけたんだ」険しい顔で彼は言った。「ついてたのさ。運転してるところを見かけてどうにか家までつけた。そこがどこなのかはアグネスが話すだろう──金を手にしたときにな」
 私は渋面を作って見せた。「警察に話すことになれば見返りはないんだ、ハリー。近頃セントラル署は腕っこきの解体屋を揃えている。尋問中に君を殺しかけたとしても、まだアグネスがいる」
「やらせてみたらいい」彼は言った。「俺はそうヤワじゃないぜ」
「どうやらアグネスを軽く見過ぎていたようだ」
「彼女は詐欺師なんだ、探偵さん。俺も詐欺師だ。俺たちはみんな詐欺師なんだ。小銭欲しさに互いを売りあう。オーケイ。好きにしなよ」彼は煙草入れから別の一本を取って巧みに唇の間にはさみ、私がやるように親指の爪でマッチを擦ろうとしたが、二度の失敗の後、靴を使った。落ち着いて煙草を吸いながら私をまっすぐ見つめた。愉快な、小さいが手強い男。私でもホーム・プレートから二塁まで投げられそうな、大男の世界にいる小男。彼には私の気に入る何かがあった。
「俺はここでは駆け引きしていない」彼は落ち着いた声で言った。「俺は二百ドルの話をしに来た。値はそのままだ。出すも出さぬもそちら次第、さしの話と思って来たんだ。まさか警察をちらつかせるとはな。ちったあ恥ってものを知るがいいや」
 私は言った。「二百ドルは手に入るさ──その情報と引き換えに。まずは私が金を引き出さないといけないが」
 彼は立ち上がって頷き、すりきれた小さなアイリッシュ・ツィードのコートを胸のあたりで掻き合わせた。「大丈夫。いずれにせよ暗くなってからの方が都合がいい。用心するに越したことはない──エディ・マーズのような連中が相手ならな。とは言え、人は食わなきゃならない。賭け屋の仕事も最近落ち目でね。俺の見るところじゃ上の連中はプス・ウォルグリーンに立ち退きを迫るらしい。そのオフィスに来てくれないか。ウェスタン通りとサンタモニカ通りの角にあるフルワイダー・ビルディング、背面の四二八号室。あんたが金を持ってきたら、アグネスに会わせよう」
「自分でしゃべる訳にはいかないのか? 私はアグネスには前に会ってる」
「約束したんだ」彼はあっさりと言った。コートのボタンをかけ、帽子を気取って斜めにかぶり、もう一度頷くとドアの方にぶらぶら歩き、出て行った。足音が廊下を遠ざかった。
 私は銀行に行って五百ドル分の小切手を預金し、二百ドルを現金で引き出した。また上階に戻って、椅子に腰かけ、ハリー・ジョーンズと彼の話について考えた。少しばかり話がうますぎるように思われた。それは事実の絡み合った織物というより、虚構の飾らない単純さを示していた。もし、モナ・マーズが縄張りの近くにいたのなら、グレゴリー警部が見つけていそうなものだ。見つけようと努力したなら、の話だが。
 私はほとんど一日中そのことを考えていた。誰もオフィスに来なかった。誰も電話をかけてこなかった。雨だけが降り続いていた。》

「出すも出さぬもそちら次第、さしの話と思って来たんだ」は<I come because I thought I’d get a take it or leave it, one right gee to another.>。双葉氏は「ここへ来りゃ話がわかると思ったからこそやって来たんだ」。村上氏は「それを買うか買わないかはあんた次第、そういうまっとうな、男と男の話をしに来たつもりだった」だ。<take it or leave it>は、「(提示された値段などに)そのまま無条件に受け取るかやめるかを決める」こと。つまり、二者択一で交渉の余地はないといっているわけだ。

<one right gee to another>は、それを補足して、他者の介入もないことを示唆している。双葉氏は全部をひっくるめて「話がわかる」と意訳しているが、少し不親切。村上氏は逆に「男と男の話」のような原文にないマッチョな修飾をつけ加えている。<gee>は「おや、まあ」などの驚きを表す間投詞。マーロウの煮え切らない態度に業を煮やして、入ったことばだろう。「ちったあ恥ってものを知るがいいや」は<You oughta be ashamed of yourself>。双葉氏は「すこしは恥を知るがいいや」。村上氏はここも、前の文に引きずられたのか「男気ってものはないのかい?」と、余計な意味をつけ足している。

「見つけようと努力したなら、の話だが」は<Supposing, that is, he had tried.>。ここを、双葉氏は「みつけていないとすれば、探すのに飽きたからだろう」と訳している。おそらく<tried>を<tired>と読み違えたのだろう。村上氏は「もちろん警部に女を見つけようという気があれば、という条件付きの話だが」だ。

 

『大いなる眠り』註解 第二十五章(3)

《 私は言った。「その通りだ。最近よくない連中とばかりつきあってたんでね。無駄口はやめて本題に入ろう。何か金になるものを持ってるのか?」
「払ってくれるのか?」
「そいつが何をするかだな」
「そいつがラスティ・リーガンを見つける助けになるとしたら」
「私はラスティ・リーガンを探していない」
「さあどうかな。聞きたいのか、聞きたくないのか?」
「先を続けろよ。役に立つものなら払う。百ドル札二枚もあれば、山ほど情報が買えるのがこの業界だ」
「エディ・マーズがリーガンをばらしたんだ」彼は静かに言い、背を後ろにもたせかけた。たった今副大統領に任命されたとでもいうように。
 私は手を振ってドアの方を示した。「話し合いの余地はない」私は言った。「酸素をむだ遣いする気はない。お帰りはあちらだ、スモール・サイズ」
 彼は机に覆いかぶさり、口の両端に白い線が入った。目をやることもなく念入りに何度も何度も煙草を消した。待合室のドアの向こうからタイプライターの単調なベルの音が、一行また一行、シフトするたびチンと鳴った。
「俺はふざけちゃいない」彼は言った。
「出て行けよ。うんざりだ、仕事がある」
「そうは問屋がおろさない」ぴしゃりと彼は言った。「人を甘く見ちゃいけない。俺は考えがあってやって来た。今、そいつをしゃべってるんだ。俺はラスティを知っている。深い仲じゃない。元気にやってるかい、と言うと返事するくらいの仲さ、気のないときは返事しなかったが、いいやつだった。ずっと好きだった。モナ・グラントって名の歌手に惚れていてね。女はその後マーズと名を変えちまった。ラスティは胸を痛め、金持ち女と結婚した。家では眠れないとでもいうように賭博場に通い詰める女のことは知ってるだろう。長身、黒髪、ダービー優勝馬みたいに豪勢だが、神経過敏で、男に絶えず圧力をかけるタイプ。ラスティはあの女とはうまくやっていけなかっただろう。とはいえ、父親の金とはうまくやっていけたはずじゃないか?これがあんたの考えだ。リーガンてやつは禿鷹のように藪にらみでね。遠くを見通せる目をしていた。いつでも一つ先の谷を見渡していた。どこにいるのか見当もつかなかった。金のことは眼中になかっただろう。俺がそう言うということはだ、ブラザー、誉め言葉なんだ」
 要するに小男は思ったほど愚図ではなかったわけだ。ペテン師四人のうち三人は、こんなに筋道立てて考えられないし、それを分かりやすく話せるやつはもっと少ない。
 私は言った。「それで逃げたと」
「逃げようとしたんだろう。そのモナという女と。女はエディと別居中だった。彼の稼業を嫌ってたんだ。特に副業の恐喝とか車泥棒とか、東部から来たヤバい連中を匿うとか、あれこれさ。ある晩、リーガンはみんなのいる前でエディに言った。モナを何かの犯罪に巻き込むようなことがあったらただじゃ置かない、とな」
「ほとんどが公表予定の事実だ、ハリー」私は言った。「それでは金は払えないよ」
「これからが聞きどころさ。そういうわけでリーガンが息巻いた。毎日午後になるとヴァーディの店で壁を睨んでアイリッシュ・ウィスキーを飲んでるところをよく見かけた。あまりしゃべらなくなっていたが、時々俺を通して賭けをした。俺があそこにいたのはプス・ウォルグリーンのために賭け金を集めていたからだ」
「彼は保険屋だと思ってたが」
「ドアにはそうあるな。もしあんたが押しかけたら、いろいろ考えて保険も扱ってくれると思うよ。とにかく、九月の半ばを過ぎてからというもの、リーガンを見かけなくなった。すぐ気づいたわけじゃない。そういうものだろう。人とそこで会っていて、それから見かけなくなるが、そのことに気づくまでは考えもしない。俺がそれに気づいたのは誰かが笑いながら、エディー・マーズの女がラスティ・リーガンと逃げたが、マーズは花婿の付添人みたいに平静を装っている、と言ったのを聞いたからだ。そのことをジョー・ブロディに話した。ジョーは鼻が利くからな」
「とんでもないくらいな」私は言った。
「イヌ並みとはいわないが、それでも利いた。あいつは金が必要だった。どうにかして二人の行方を探りあてたら実入りは倍と見込んだのさ。一方はエディ・マーズから、もう一方はリーガン夫人から。ジョーはちっとばかし、あの家族を知ってたんだ」
「五千ドル分な」私は言った。「少し前にあの家を強請っている」
「そうなのか?」ハリー・ジョーンズはいささか驚いたようだった。「そんなことアグネスから聞いていない。どうしようもない女だ。いつでも隠す。まあいい、ジョーと俺は新聞に目を配ってたが何も見つからない。それでスターンウッドの爺さんがもみ消したと知った。そんなある日、ヴァーディの店でラッシュ・カニーノを見かけた。やつを知ってるかい?」
 私は首を振った。
「自分ではタフだと思ってるやつがいるだろう、そんな男だ。必要なときにエディー・マーズに代わって相手を殺す──トラブル処理さ。一杯やりながら人を殺す男だ。用がないときはマーズに近づかない。L.Aにも泊まらない。やつが一枚噛んでいるかもしれないし、ちがうかもしれない。やつらはリーガンの情報をつかんでいて、マーズは薄笑いを浮かべながら機会を窺っていたのかもしれない。あるいは、全くちがうかもしれない。とにかく、俺はジョーカニーノの話をし、ジョーカニーノの後をつけた。尾行がうまいんだ。俺はからっきしだめだ。黙ってやつに任せておくしかない。それでジョーカニーノの後をつけてスターンウッドの屋敷まで行った。カニーノが敷地の外に車を停めると、女の乗った車がやって来て横につけた。しばらく話してたが、ジョーは女が何か渡したように思った。たぶん金だ。女は行ってしまった。リーガンの女房だよ。オーケイ、女はカニーノを知ってるし、カニーノはマーズを知ってる。そこでジョーは考えた。カニーノはリーガンについて何か知っていて事のついでに金を搾り取ろうとしてる、とね。カニーノはそそくさと立ち去り、ジョーは見失う。第一幕の終わりだ」》

「さあどうかな」は<Says you.>。双葉氏は「おっしゃいましたね」。村上氏は「とあんたは言う」だ。直訳すれば、その通りだが、ここは「そんなことを言うのはお前だけだ」という原文の意味から、あなたの言葉をそのまま信じるわけにはいかない、つまり、「さあどうかな、ばかを言え、本当かな」というふうに言外にほのめかされている裏の意味を採って訳に生かす必要がある。

「目をやることもなく念入りに何度も何度も煙草を消した。待合室のドアの向こうからタイプライターの単調なベルの音が、一行また一行、シフトするたびチンと鳴った」という二人が黙ったまま向い合う緊張感あふれる重要なシーンを双葉氏はあっさりカットしている。

「リーガンてやつは禿鷹のように藪にらみでね」は<This Regan was a cockeyed sort of buzzard.>。双葉氏は「とにかく、このリーガンってやつはとんだ藪にらみで」と<buzzard>を訳さずに<cockeyed >「藪にらみ」だけ訳している。それは村上氏の場合も同じで「ところがこのリーガンはいささかへそ曲がりでね、一筋縄ではいかない」と、完全に意訳している。

次の「遠くを見通せる目をしていた。いつでも一つ先の谷を見渡していた」は<He had long-range eyes.He was looking over into the next valley all the time.>。ここは、高い空から獲物を狙う猛禽類の習性をリーガンに喩えているのだが、ハリーのようなチンピラとはちがった視野や視点を持つリーガンに対する憧れめいた感情を感じさせる。この文につなぐためにも<buzzard>(ノスリのことだが、アメリカでは禿鷹、鷲の意)を訳出する必要がある。そうでなければ、なぜ「一つ先の谷を見渡」すという言葉が使われているのか読者には分らないだろう。

「どこにいるのか見当もつかなかった」は<He wasn't scarcely around where he was.>。双葉氏は「古巣へも遊びに来なくなった」と訳してその後の「金のことは~誉め言葉なんだ」のところはカットしている。村上氏はこの部分を「ひとところにぐずぐず腰を据えるってのができない性格だ」と訳している。原文にそんなことは書かれていないから、思い切った意訳だ。本当に原文はそんなことを言っているのだろうか。

リーガンが本当に藪にらみだったかどうかは別にして、藪にらみの人の目はどこを見ているのか分かりにくい。ハリーが言いたいのは、それと同じようにリーガンが何を考えているのか傍目には分からなかった、ということだろう。リーガンの姿が見えなくなったことについて、顔見知り程度でも付き合いのあったハリーでさえ、見当がつきかねている。ましてや付き合ったことのないあんたに何が分かる、とマーロウに言っているのだ。

それを村上氏のように「ところがこのリーガンはいささかへそ曲がりでね、一筋縄ではいかない。そしてやつは長い目でものを見る男だった。常に次に行く谷間に目をやっているんだ。ひとところにぐずぐず腰を据えるってのができない性格だ」と、さもリーガンの意図を読み取っているように解釈してしまうのはいささか早計のそしりを免れないのではないか。ウィトゲンシュタインも「語りえざるものについては沈黙せねばならぬ」と書いている。双葉氏のカットは、それを実践しているのかもしれない。

「ドアにはそうあるな。もしあんたが押しかけたら、いろいろ考えて保険も扱ってくれると思うよ」のところ、双葉氏は「表向だけのことさ」の一言で後はばっさりカット。「もしあんたが押しかけたら」は<if you tramped on him,>。村上氏は「もし彼にねじ込んだら」と訳している。<tramp>は「どしんどしん歩く、徒歩で行く」のような意味。

「マーズは花婿の付添人みたいに平静を装っている」は<Mars is acting like he was best man, instead of being sore.>。双葉氏は「マースの方は、くさりもしないで、男を上げてたってことだった」と訳している。ここはご愛敬。< best man>は「花婿の付添人」のことで、最上級の男という意味ではない。村上氏は「それなのにマーズは怒りもせず、結婚式の花婿付添人みたいに涼しい顔をしてるって」と訳している。

ジョーは鼻が利くからな」は<Joe was smart.>。いつものように、ここでは<smart>が繰り返し使われている。それをどう訳すか。双葉氏は「ジョーは頭がよかったからな」、「筋金いりじゃないが、とにかくちゃっかりしてたよ」。村上氏は「ジョーはどっこい目端がきいた」、「切れ者というんじゃないが、それなりに頭の働く男ではあったよ」だ。二つ目の文は<Not copper smart, but still smart.>で、これが曲者。

この三つの<smart>を使った文の間にマーロウの吐く台詞<Like hell he was>がはさまっている。双葉氏は「すごくよかったな」。村上氏は「たいした目端のききようだ」だ。<like hell>は程度の猛烈さをいうときに使うが、文頭にくると「まったく~でない」という意味を表す。つまり、マーロウの言葉には裏の意味が含まれていると考えられる。両氏とも、それを匂わせているのだろう。「とんでもない」という言葉を使って、否定の意味を強めてみた。

問題の<copper>だが、「銅」という通常の意味のほかに<cop>同様「警官」の意味がある。ここは、「警官並みに<smart>というほどではないが」という意味なのだろう、と考えて<smart>に「鼻が利く」という訳語を使った。もちろん警察官のことを「犬」呼ばわりする俗習を踏まえてのことだ。

「それでスターンウッドの爺さんがもみ消したと知った」は<So we know old Sterwood has a blanket on it.>。双葉氏は「さてはスターンウッドの老ぼれ爺さんが毛布をかぶせちまったんだなと思った」とそのまま訳している。<blanket>には「覆い隠す、もみ消す」の意味がある。村上氏は「これはスターンウッドのじいさんが口封じをしたんだなと思った」と訳している。

「必要なときにエディー・マーズに代わって相手を殺す」は<He does a job for Eddie Mars when Mars needs him>。双葉氏は「エディ・マーズは何かごたごたがおこると奴に仕事をやらせた」。村上氏は「エディー・マーズが必要とするとき、彼はエディーのために仕事をする」と両氏ともほぼ直訳だ。<do (a) job for>はそれだけで「やっつける、殺す」の意味がある。ハリーが使う言葉として、もっとストレートに訳す必要があるのではないか。

『大いなる眠り』註解 第二十五章(2)

《「俺のことは知ってるだろう」彼は言った。「ハリー・ジョーンズだ」
 私は知らないと言った。私は錫製の平たい煙草入れを押しやった。小さく端正な指が鱒が蠅を捕るように動いて一本抜いた。卓上ライターで火をつけると手を振った。
「このあたりじゃ」彼は言った。「ちょっとした顔なんだ。ヒューニーメ岬でケチな酒の密輸をしてたこともある。荒っぽい仕事だったよ、ブラザー。偵察用の車に乗ってたんだ。膝には銃、尻には札束。石炭(コール)シュートを詰まらせそうなやつだ。ビヴァリー・ヒルズに着くまでに警察に四回も握らせるなんてのは毎度のこと。荒っぽい仕事さ」
「ぞっとするね」私は言った。
 彼は背を後ろに倒し、固く結んだ小さな口の固く結んだ小さな隅から天井に煙を吹いた。
「もしかしたら俺を信用していないのか」彼は言った。
「もしかしたらな」私は言った。「もしかしたらするさ。もしかしたらどっちでも構わないかもな。いったい何を売り込むつもりだったんだ?」
「何も」彼はにべもなく言った。
「君は二日というもの私をつけ回している」私は言った。「女の子をひっかけようとして、最後の一歩を踏み出す勇気のないやつみたいに。もしかしたら保険の勧誘か。もしかしたら、ジョー・ブロディとかいう男の知り合いか。もしかしたら、が多すぎる。この仕事にはつきものだがな」
 彼の目が飛び出し、下唇はほとんど膝まで垂れ下がった。
「くそっ、どうしてそれを知ってるんだ?」彼はいきなり言った。
「超能力者なのさ。厄介ごとならさっさとシェイクして注いでくれ。暇じゃないんだ」
 急に細めた瞼の間で目の輝きがほとんど消えた。沈黙が落ちた。窓の真下にあるマンション・ハウスのロビーのタールを塗った平屋根を雨が叩く音がした。目が少し開いて、また輝きはじめ、声には思惑が溢れていた。
「あんたに渡りをつけたかったんだ」彼は言った。「売り物がある──格安さ、百ドル札二枚。で、俺とジョーをどうやって結びつけた?」
 私は手紙を開いて読んだ。指紋採取の通信講座六カ月コースの勧誘で業界人向け特別割引つきだ。屑籠に放り込んで、また小柄な男を見た。「気にすることはない。推測しただけだ。君は警官じゃない。エディー・マーズの手下でもない。昨夜彼に訊いたんだ。だとすれば、私に興味を持つのはジョー・ブロディの仲間しか思いつかない」
「くそっ」彼はそう言って下唇を舐めた。エディー・マーズの名前を出した時、顔が紙のように白くなった。口がだらんと開き、煙草が手品か何かで生えてきたかのように端っこにぶら下がった。「からかっているんだな」やっと彼が言った。手術室で見かけるような微笑を浮かべながら。「そうさ。からかっているんだ」私は別の手紙を開けた。こっちはワシントンから、採れたての裏情報が詰まった日刊会報を送りたがっていた。
「アグネスは出所したんだろう」私は訊いた。
「そうだ。彼女の遣いだ。興味があるのかい」
「まあね。ブロンドだし」
「ばか言え。こないだの晩あそこで愉快な真似をしてくれたよな──ジョーが花火を食らった夜さ。何かブロディはスターンウッド家のことでネタをつかんでたはずだ。そうでもなきゃ写真を送るなんてまねはしなかったさ」
「ふうん。彼がつかんでた? それは何だ」
「それが二百ドルのネタさ」
 私は何通かのファン・レターを屑籠に捨て、新しい煙草に火をつけた。
「街を出ようと思うんだ」彼は言った。「アグネスはいい娘だ。あんたはそこんとこが分かっちゃいない。近頃じゃ女一人で生きていくのも簡単じゃないんだ」
「君には大きすぎる」私は言った。「寝返りされたら窒息するぞ」
「それは言い過ぎってものだよ、ブラザー」彼の言葉に込められたほとんど威厳に近い何かが私に彼を見つめさせた。》

「尻には札束。石炭(コール)シュートを詰まらせそうなやつだ」は<a wad on your hip that would choke a coal chute>。双葉氏は「尻には札束、ちょいと息がつまるぜ」と訳している。<coal chute>とは、石炭を貯蔵する地下室などに外部から石炭を滑り落とすための傾斜した樋のことだ。画像検索をかけてみると石炭を積んだトラックから、やはり樋状のものを直接<coal chute>に通じる開口部につなげている。こうすれば、上からショベルで掻き落とせば石炭は貯蔵庫まで滑り落ちてゆく。

頑丈な扉はついているが、不審者の侵入を防ぐためか開口部はそれほど大きくない。ハリーのように、小柄な男なら石炭シュートを滑り降りることは可能かもしれない。しかし、双葉氏の訳ではどうして息がつまるのかが分からない。村上氏は「ヒップ・ポケットには札束だ。石炭落としの樋(シュート)がつっかえちまいそうな厚い札束さ」と、樋にルビを振っている。

「ビヴァリー・ヒルズに着くまでに警察に四回も握らせるなんてのは毎度のこと」は<Plenty of times we paid off four sets of law before we hit Beverly Hills.>。双葉氏は「ビヴァリー・ヒルズに着くまで四度も警察の目をくぐらなけりゃならない」としている。<pay off>は支払いの意味だが、「(口封じのために)買収する」の意味もある。そのための札束だ。村上氏は「ベヴァリー・ヒルズに着くまでに合計四度、官憲に袖の下をつかませるなんてこともしょっちゅうだった」としている。英語の発音としては「ベヴァリ・ヒルズ」が正しいようだ。

「もしかしたら俺を信用しないのか」は<Maybe you don’t believe me,>。これ以降<Maybe>が頻出する。一度<Maybe>を「もしかしたら」と訳したら、次からはずっとそう訳さないといけない。同じ言葉を使い回すのはチャンドラーご執心のレトリックだからだ。双葉氏はあまり気にしていないのか、「おれの話を信用しないんだな?」と訳していて<Maybe>をあまり気に留めていないことが分かる。村上氏は「あんた、ひょっとしておれの話を信じてないだろう」と訳す。そしてこれ以降ずっと<Maybe>を「ひょっとして」で通している。そうしないと、大事な決め台詞が生きてこないからだ。

「いったい何を売り込むつもりだったんだ?」は<Just what is the build-up supposed to do to me?>。双葉氏は「が、そんなはったりが僕にきくと思うのか?」と訳している。どうしてこんな訳になったのだろう。村上氏は「そんなに肩をいからせて、いったい何を売り込むつもりなんだ?」だが、「そんなに肩をいからせて」がどこから来たのか分からない。疑問詞の前に<just>が来れば「正確に言って」の意味だから「いったい」。<the build-up>は「広告、宣伝」の意味で「売り込み」にあたる。<be supposed to >は「~することになっている」の意味だから、「いったい何を売り込むつもりなんだ?」でいいのでは。

「もしかしたら、が多すぎる。この仕事にはつきものだがな」これが先に述べた決め台詞。原文は<That's a lot of maybes, but I have a lot on hand in my business.>。双葉氏は「わからんことだらけだが、僕は仕事で手がふさがっているんだ」と訳している。この場合の<maybes>は、その前に何度も出てきた<maybe>という言葉として理解する必要があるのに、双葉氏は「わからんこと」と受け留めてしまった。

それで< I have a lot>(いっぱい持っている)物を仕事と取り違えてしまったのだ。この仕事をしてれば、「もしかしたら」には嫌というほど出会っている。そういうふうに考えることができなくては探偵商売はつとまらないだろう。村上氏はさすがに「ひょっとして(傍点六字)が多すぎる。まあ商売柄そういうのには慣れているがね」と、「ひょっとして」という言葉に注意喚起をしている。

「厄介ごとならさっさとシェイクして注いでくれ」は<Shake your business up and pour it.>。双葉氏は「商談(はなし)があるなら早く振って注げよ」。村上氏は「いいからさっさと用件を言ってくれ」。<business>には口語で「やっかいなこと」の意味がある。マーロウはオフィスに上がる前に小柄な男に「もし心配事が我慢できなくなったら、上がってきて吐き出すといい」と声をかけている。売り込むものがないのなら、心配事があるんだろう。その心配事をカクテルに喩えている。双葉訳はそれを尊重しているが、村上氏は意訳ですませている。

「あんたはそこんとこが分かっちゃいない」は<You can't hold that stuff on her.>。双葉氏は「おまえさん、彼女(あれ)に一丁文句(いちゃもん)つけるなあ罪だぜ」。村上氏は「何事にも値段ってものがある」だ。<stuff>は多様な意味を持つ単語で、両氏の訳が全然異なるのは別義に解釈してるからだろう。その前の<Agnes is a nice girl>を受けての言葉だ。ハリーは、自分はアグネスの本当の良さを知っているが、マーロウはそれ<stuff on her>(彼女の物)をつかめていない、と言いたいのではないだろうか。

『大いなる眠り』註解 第二十五章(1)

《翌朝も雨が降っていた。斜めに降る灰色の雨は、まるで揺れるクリスタル・ビーズのカーテンだ。私はけだるく疲れた気分で起き、窓の外を見て立っていた。口の中に苦々しいスターンウッド姉妹の後味がした。人生は案山子のポケットのように空っぽだった。キチネットに行き、ブラック・コーヒーを二杯飲んだ。二日酔いはアルコールのせいとは限らない。女もそのひとつ。気分がすぐれないのは女のせいだ。
 私は髭を剃ってシャワーを浴び、服を着、レインコートを手に階下に降り、玄関ドアから外を見た。通りの反対側三十メートルほど先に、グレイのプリムス・セダンが停まっていた。昨日私をつけようとした車、エディ・マーズに訊ねたのと同じ車だ。中にいるのは暇をもてあました警官で、時間つぶしに私をつけまわしているのかもしれない。あるいは中にいるのは小賢しい探偵稼業で、ひとの儲け話を嗅ぎつけて横からかっさらう気満々なのかもしれない。さもなければ私のナイト・ライフに異を唱えるバーミュダの司教かもしれない。
 私は裏に回ってガレージからコンバーチブルを引っ張り出し、グレイのプリムスの鼻先を走らせた。中にいたのは小柄な男ひとりだ。そいつは私の後からエンジンをかけた。雨の中ではいい仕事をする。見失わないように張りつきながら、たいていは間に他の車が入るだけの間隔を保っていた。私は大通りに出て、オフィスの建物脇の駐車場に車を停め、レインコートの襟を立て、帽子のつばを下ろしてそこを出た。雨粒が冷たく顔を打った。プリムスは向こう側の消火栓のところにいた。私は交差点まで歩き、青信号で渡り、駐車中の車すれすれに歩道の端を歩いて戻った。プリムスは動かなかった。誰も出てこなかった。私は縁石側のドアに手を伸ばしてぐいと引いた。
 明るい眼をした小柄な男が運転席の隅に背中を押しつけた。私は立ったまま中をのぞき込んだ。雨が背中を叩いていた。煙草の煙の渦巻く後ろで男の眼が瞬いた。両手が落ち着きなく細いハンドルを叩いていた。
 私は言った。「決心はついたか」
 男はつばを飲み込み、唇にはさんだ煙草をぴくぴく動かした。「あんたなんか知らないな」彼は硬く小さな声で言った。
「名前はマーロウだ。ここ二日ばかり、君が後をつけようとしていた男だ」
「俺は誰の後もつけていない」
「このポンコツがつけてたんだ。車が勝手にやってたのかもしれないな。好きにするさ。私は通りの向こうのコーヒー・ショップに朝飯を食べに行くところだ。オレンジ・ジュース、ベーコン・エッグス、トースト、蜂蜜、コーヒーを三杯か四杯、それに爪楊枝が一本。それからオフィスに行く。真正面のビルの七階だ。もし心配事が我慢できなくなったら、上がってきて吐き出すといい。私の方はマシン・ガンにオイルを注すだけだから」
 目をぱちくりさせている相手を後に私は歩き去った。二十分後、掃除婦の香水「愛の夜(ソワレ・ダムール)」の残り香を換気し、肌理の粗い厚手の封筒を開けた。美しい古風な尖った筆跡で宛名が記されていた。封筒の中身は短い事務的な手紙と大きな藤色の小切手で額面五百ドル、フィリップ・マーロウ宛、署名、ガイ・ド・ブリセイ・スターンウッド、ヴィンセント・ノリスによる代筆。これで爽やかな朝になった。銀行の用紙に記入していると、ブザーが待合室に誰か来たことを告げた。プリムスに乗っていた小柄な男だ。
「来たね」私は言った。「入ってコートを脱いでくれ」
 男はドアをおさえる私の横を用心深くすり抜けた。まるで尻を蹴られるのをこわがっているみたいに。我々は机をはさんで向い合った。とても小さな男で、一六〇センチたらず、体重は肉屋の親指ほど。持ち前のきびきびした明るい眼をハードに見せたがっていたが、殻に載った牡蠣(オイスター・オン・ザ・ハーフ・シェル)と同じくらいの硬さに見えた。ダーク・グレイのダブル・ブレストのスーツは、肩幅が広すぎ、襟も大き過ぎた。前を開けたアイリッシュ・ツィードのコートはところどころすり切れていた。たっぷりした平綾織り生地のタイは襟の合わせ目の上で膨らんで雨染みができていた。》

「このポンコツがつけてたんだ」は<This jalopy is.>。双葉氏は「すくなくともこの乳母車はついて来たぜ」。村上氏は「この車が尾行してきた」だ。< jalopy>は「おんぼろ自動車」といった意味。次の「車が勝手にやってたのかもしれないな」は<May be you can’t control it.>。双葉氏は「君を無視して自分勝手に動いたんだろう」。村上氏は「たぶん君にはこの車をコントロールできないんだろう」と、直訳している。否定文を肯定文に訳すというやり方を使ってみた。

「オレンジ・ジュース、ベーコン・エッグス、トースト、蜂蜜、コーヒーを三杯か四杯、それに爪楊枝が一本」は<orange juice, bacon and eggs, toast, honey, three or four cups of coffee and a toothpick.>。双葉氏はここを「オレンジ・ジュースとベーコンと卵とトーストと蜜とコーヒー二、三杯とつま楊子一本だ」と訳している。コーヒーの量が減っているのがご愛敬だ。村上氏は「オレンジ・ジュース、ベーコン・エッグ、トーストとハニー、コーヒーを三杯か四杯、そして爪楊枝を一本」と訳している。トーストとハニーをセットにしたのは何か理由があるのだろうか。

「掃除婦の香水「愛の夜(ソワレ・ダムール)」」は<scrubwoman’s Soirée d'Amour>。双葉氏は「掃除女の「恋の夕」(香水)」。村上氏は「掃除女の残していった高級香水」。この日のマーロウはスターンウッド姉妹のせいで女性嫌いになっている。香水もカーメンを思い出させるので不快なのだろう。いかにもといった銘柄のフランス語なのでルビ振りくらいは残しておきたいと思って。

「持ち前のきびきびした明るい眼をハードに見せたがっていたが、殻に載った牡蠣(オイスター・オン・ザ・ハーフ・シェル)と同じくらいの硬さに見えた」は<He had tight brilliant eyes that wanted to look hard, and looked as hard as oysters on the half shell.>。双葉氏は「きつい(傍点三字)ぱっちりした目は、せいぜい荒っぽく見せかけようとしていたが、割った貝殻にのせた牡蠣(かき)ほどの歯ごたえしかなかった」。村上氏は「彼はそのきりっとした明るい目を、できるだけハードに見せようとしていたが、そこには殻を開かれた牡蠣ほどの硬さしかなかった」だ。

ここも非情なという意味の<hard>と本来の意味である硬さのダブル・ミーニング。ポイントは<tight brilliant eyes>をどう訳すか。これといった決め手を欠くので三者三様の訳になっている。もう一つは<oysters on the half shell>だ。牡蠣殻の上に載った牡蠣でまちがっていないが、これは一般的には殻を皿代わりにしてその上に牡蠣を並べて供する牡蠣の料理名だ。日本語の利点を生かしてルビに頼ることにした。